あくまで伝承であるから、この話が事実かは分からない。
少女を失った哀しみを紛らわすために作られた話かもしれない。
しかし、清にはとても他人事だと思えなかった。
サチは山から出られないと言っていた。出てみようと誘ったのは自分だった。山から出したのも自分だった。
何故出られるようになったのかは分からないが、この伝承が本物だとすると、サチもいつか消えてしまうのかもしれない。
山から出ても消えなかったので、伝承は間違っている部分もあるのかもしれない。しかし、可能性を考えれば、これ以上彼女が外へ出ていくのは好ましくないということだ。
山から出たがっていた彼女をまた戻すのか。
そして、ずっと山で過ごしてくれと頼むのか。
残酷が槍のように降ってくる。
知りたくなかった。
しかし、知らなければ彼女を失うところだった。
いや、本当に失っていないと言えるのか?
今サチがどこで何をしているか、清は知らない。
サチは今も存在しているのか。急に不安になった。
自分の知らないところで消えてしまっていたら、清は後悔で押し潰されるだろう。
どうしたらいい。やはり、無理矢理にでも山へ入ろうか。誰に怒られても、サチがいなくなるよりずっといい。
とんとん。
足元を何かに触られた。子うさぎだった。戻ってきたのか。
「どうしたの?」
しゃがみ込み、小声で話しかけてみる。どうにも、このうさぎは清に何かを知らせているように感じる。
うさぎは前足で右耳をくしくしと梳かしてから清に向き直った。
「サチ、いるよ」
「わっ」
まさか、人の言葉を話せるとは思ってもみなかった。驚いて固まっていると、うさぎはぴょんとまたどこかへ消えていった。
どうやら、サチの友人らしい。うさぎの親子を可愛がっているから、その先祖あたりだろうか。
──いるってことは、まだサチはこの世にいるってことだ。
とりあえずの安堵を得る。しかし、それも有限だ。サチの今後を考えるならば、手を打たなければならない。それができるのは、やはりサンジン様で、清だった。
本を片づけて図書館を出る。せっかくなので図書館のカードも作りたかったけれども、それはまた今度にしよう。
帰りのバスを十五分待つ。見回してみたが、残念ながらあの子と行き帰り一緒とはならなかったらしい。
やってきたバスには乗客が二人だった。後ろの方に座り、左側を見つめながら自宅を目指す。清の瞳にはあの山が映っていた。
サチが山から離れたら命が危ないことを知っていれば、無茶はしないはずだ。ただ、清が山へ来なくなったことを心配して下りてきたら大変なことになる。
どうにかサチにこの事実を知らせることはできないか。山へ入ってしまえば探すことは可能だが、禁止されていることを自らの意思で破るのは清にとって恐怖でしかない。
──でも、僕がもたもたして、二度と会えなくなっちゃったら。
それこそ、一生忘れられない後悔となる。迷っている暇は無い。
叱られても罰を与えられても、譲れない時がある。
清は決意した。
入山するのが禁止なら、山の近くまでなら構わないだろう。まずはそこから呼びかけてみる。
それでも会えなかったら、山の周囲を探って、入れそうな獣道を見つけて入山する。それしかない。
今、サチを救えるのは自分だけだ。
自宅近くのバス停で下りる。まだ十七時台だったので、山の方へ寄り道して帰ることにした。
入口は相変わらず規制テープが貼られているが、他は以前のままだ。ぐるりと山に沿って歩いてみる。半分程歩いたところで十八時の鐘が鳴った。今日はここまでか。
人が歩けそうな道は無かったので、明日の続きに期待だ。
「ちゃんと図書館行かれた?」
「うん。バスも乗れたよ」
「それはよかったね」
サンジン様で遊ばなくなって、母も安心しているらしい。胸の奥が痛む。これから清は、初めて親の言うことを破るのだ。
「明日は土曜だけど、部活ある?」
「無いよ」
厳密に言えばあるが、ポスター制作が終わっていない生徒のみ活動なので、清は休みとなる。
通学鞄をぎゅうと握り、清が言った。
「午後から近くでスケッチしに行くと思う」
「分かった」
ああ、言ってしまった。清はどうしようもない不安に駆られた。
嘘を吐くことはこんなにも苦しいのか。心の中で何度も謝る。
大切な人を助けるために、育ててくれた大切な人を騙してしまった。
こうまでしたのだ。もう後には引けない。サチをなんとしてでも見つけ出す。
「どうも有難う御座います」
「いえ、くれぐれもお気をつけください」
玄関から、祖母の声がした。どうやら客が来ていたらしい。自室の窓から門のあたりを見下ろす。客は先日見かけた祈祷師だった。
どっと心臓が五月蠅くなる。
何故、彼が家に来ていたのだ。まさか、自分のことを知られたのか。
あの時、彼らに不審な点は無かった。清たちが見ていたことには気付いていないはずだ。
咄嗟に半分開いていたカーテンを閉める。暗い場所から明るい場所はよく見えるものだ。顔を見られたかもしれない。息が乱れる。
──落ち着け。僕は悪いことは何もしていない。
山に入って祈祷師を見かけたのも偶然であるし、入山禁止となってからは入ってもいない。今祈祷師と対面したとしても、向こう側に責められる理由は無い。
こんこん。
部屋のドアが叩かれる。
「おばあちゃんよ」
──おばあちゃん!?
祖母がわざわざ部屋を訪ねてきたことは引っ越してきてから一度も無い。
「入っていいよ」
平静を装って答える。もしここで断ったらそれこそ怪しい。
鍵の掛けられていないドアは簡単に開かれた。祖母が手に何かを持っている。札のような紙切れだ。
「ごめんね、勉強しちょった?」
「ううん、平気。どうしたの?」
祖母が紙切れを見せた。やはり何かの札で、清には読めない字が書かれている。
「さっき、拝み屋さんがいらしてねぇ。なんでも、土壌調査で山を弄るき、サンジン様が怒らないようにとかで、このお札をくれたちや」
「……そうなんだ」
「これ、清ちゃんの部屋に貼ってえい?」
「え」
清は札を凝視した。どのような効力があるのか分からないものを自分の近くに貼りたくない。効果は無いかもしれないけれども、本物かもしれない。
「ううん……できたら、他の場所がいいかな。夜中とか、ちょっと怖いし」
「そう。ほいたら、仏間にでも貼っておくわね」
「うん」
すんなり引いてくれてほっとする。しかし、仏間に行くと思いきや、祖母が今度はお守りを取り出した。
「これはお正月に買うたお守りなんやけんど、持っちょって」
「分かった。ありがとう」
健康と書かれたお守りを受け取る。これなら持っていても問題無い。
「清ちゃん、山には入っちょらんね?」
「うん、禁止って言われてからは入ってないよ」
「ほうか」
ようやく祖母が出ていった。
まだ心臓が主張している。
釘を刺されてしまった。
──危険なことをしないから、一度だけだから。
お守りを机の上に置く。今まではこういう類は気の持ちようだと思っていたが、こうして不思議な出来事を経験してみると、中には効くものもあるのかもしれない。
特に、祈祷師の札なんてかなりの御利益がありそうだ。清が両腕をさする。
まだ全然眠くはならないけれども、早めに寝ることにした。時計は二十一時を差していた。
──そういえば、最近地震起きないな。
土曜日になり、清は午前中に日曜日までの宿題を全て終わらせた。昼食もそこそこに、口実のスケッチブックをトートバッグに入れて家を出た。真っすぐ昨日途中で終わらせた場所まで行った。そこから、またゆっくり歩いて人が入れる個所がないか探す。
二十分歩いて、ようやく細い獣道を見つけた。大人では厳しくとも、清一人なら入れそうだった。
よかった。安堵して走り寄る。その時、突風が清を襲った。
『おぉ~ん!』
飛ばされないよう体を硬くしていたら、風とともにいつかの鳴き声がはっきりと聞こえた。
かなり近くにいるらしい。見渡すが何もいない。
いないのに、声と、気を抜いたら吹き飛ばされそうな威圧感が清を圧倒する。
勝てない。
すぐに理解した。
人間が束になっても敵わない。この声の主は神だ。サンジン様がやってきたのだ。
サチは祭りの夜、サンジン様が怒っているかもしれないと言っていた。どうやら正解だったらしい。
負けたくない、敵わなくても。
その想いも虚しく、清の体がついに傾き、その場に倒れ込んだ。
「いた……ッ」
膝を擦りむいたらしい。たいしたことはない。目の前の障害に比べれば何でもないことだ。だが、このままでは入れない。
「絶対諦めないから! 待ってて、サチ!」
もっと対策を整えて再度挑戦しよう。この声が彼女に届いていることを祈る。清は自宅へ走った。
少女を失った哀しみを紛らわすために作られた話かもしれない。
しかし、清にはとても他人事だと思えなかった。
サチは山から出られないと言っていた。出てみようと誘ったのは自分だった。山から出したのも自分だった。
何故出られるようになったのかは分からないが、この伝承が本物だとすると、サチもいつか消えてしまうのかもしれない。
山から出ても消えなかったので、伝承は間違っている部分もあるのかもしれない。しかし、可能性を考えれば、これ以上彼女が外へ出ていくのは好ましくないということだ。
山から出たがっていた彼女をまた戻すのか。
そして、ずっと山で過ごしてくれと頼むのか。
残酷が槍のように降ってくる。
知りたくなかった。
しかし、知らなければ彼女を失うところだった。
いや、本当に失っていないと言えるのか?
今サチがどこで何をしているか、清は知らない。
サチは今も存在しているのか。急に不安になった。
自分の知らないところで消えてしまっていたら、清は後悔で押し潰されるだろう。
どうしたらいい。やはり、無理矢理にでも山へ入ろうか。誰に怒られても、サチがいなくなるよりずっといい。
とんとん。
足元を何かに触られた。子うさぎだった。戻ってきたのか。
「どうしたの?」
しゃがみ込み、小声で話しかけてみる。どうにも、このうさぎは清に何かを知らせているように感じる。
うさぎは前足で右耳をくしくしと梳かしてから清に向き直った。
「サチ、いるよ」
「わっ」
まさか、人の言葉を話せるとは思ってもみなかった。驚いて固まっていると、うさぎはぴょんとまたどこかへ消えていった。
どうやら、サチの友人らしい。うさぎの親子を可愛がっているから、その先祖あたりだろうか。
──いるってことは、まだサチはこの世にいるってことだ。
とりあえずの安堵を得る。しかし、それも有限だ。サチの今後を考えるならば、手を打たなければならない。それができるのは、やはりサンジン様で、清だった。
本を片づけて図書館を出る。せっかくなので図書館のカードも作りたかったけれども、それはまた今度にしよう。
帰りのバスを十五分待つ。見回してみたが、残念ながらあの子と行き帰り一緒とはならなかったらしい。
やってきたバスには乗客が二人だった。後ろの方に座り、左側を見つめながら自宅を目指す。清の瞳にはあの山が映っていた。
サチが山から離れたら命が危ないことを知っていれば、無茶はしないはずだ。ただ、清が山へ来なくなったことを心配して下りてきたら大変なことになる。
どうにかサチにこの事実を知らせることはできないか。山へ入ってしまえば探すことは可能だが、禁止されていることを自らの意思で破るのは清にとって恐怖でしかない。
──でも、僕がもたもたして、二度と会えなくなっちゃったら。
それこそ、一生忘れられない後悔となる。迷っている暇は無い。
叱られても罰を与えられても、譲れない時がある。
清は決意した。
入山するのが禁止なら、山の近くまでなら構わないだろう。まずはそこから呼びかけてみる。
それでも会えなかったら、山の周囲を探って、入れそうな獣道を見つけて入山する。それしかない。
今、サチを救えるのは自分だけだ。
自宅近くのバス停で下りる。まだ十七時台だったので、山の方へ寄り道して帰ることにした。
入口は相変わらず規制テープが貼られているが、他は以前のままだ。ぐるりと山に沿って歩いてみる。半分程歩いたところで十八時の鐘が鳴った。今日はここまでか。
人が歩けそうな道は無かったので、明日の続きに期待だ。
「ちゃんと図書館行かれた?」
「うん。バスも乗れたよ」
「それはよかったね」
サンジン様で遊ばなくなって、母も安心しているらしい。胸の奥が痛む。これから清は、初めて親の言うことを破るのだ。
「明日は土曜だけど、部活ある?」
「無いよ」
厳密に言えばあるが、ポスター制作が終わっていない生徒のみ活動なので、清は休みとなる。
通学鞄をぎゅうと握り、清が言った。
「午後から近くでスケッチしに行くと思う」
「分かった」
ああ、言ってしまった。清はどうしようもない不安に駆られた。
嘘を吐くことはこんなにも苦しいのか。心の中で何度も謝る。
大切な人を助けるために、育ててくれた大切な人を騙してしまった。
こうまでしたのだ。もう後には引けない。サチをなんとしてでも見つけ出す。
「どうも有難う御座います」
「いえ、くれぐれもお気をつけください」
玄関から、祖母の声がした。どうやら客が来ていたらしい。自室の窓から門のあたりを見下ろす。客は先日見かけた祈祷師だった。
どっと心臓が五月蠅くなる。
何故、彼が家に来ていたのだ。まさか、自分のことを知られたのか。
あの時、彼らに不審な点は無かった。清たちが見ていたことには気付いていないはずだ。
咄嗟に半分開いていたカーテンを閉める。暗い場所から明るい場所はよく見えるものだ。顔を見られたかもしれない。息が乱れる。
──落ち着け。僕は悪いことは何もしていない。
山に入って祈祷師を見かけたのも偶然であるし、入山禁止となってからは入ってもいない。今祈祷師と対面したとしても、向こう側に責められる理由は無い。
こんこん。
部屋のドアが叩かれる。
「おばあちゃんよ」
──おばあちゃん!?
祖母がわざわざ部屋を訪ねてきたことは引っ越してきてから一度も無い。
「入っていいよ」
平静を装って答える。もしここで断ったらそれこそ怪しい。
鍵の掛けられていないドアは簡単に開かれた。祖母が手に何かを持っている。札のような紙切れだ。
「ごめんね、勉強しちょった?」
「ううん、平気。どうしたの?」
祖母が紙切れを見せた。やはり何かの札で、清には読めない字が書かれている。
「さっき、拝み屋さんがいらしてねぇ。なんでも、土壌調査で山を弄るき、サンジン様が怒らないようにとかで、このお札をくれたちや」
「……そうなんだ」
「これ、清ちゃんの部屋に貼ってえい?」
「え」
清は札を凝視した。どのような効力があるのか分からないものを自分の近くに貼りたくない。効果は無いかもしれないけれども、本物かもしれない。
「ううん……できたら、他の場所がいいかな。夜中とか、ちょっと怖いし」
「そう。ほいたら、仏間にでも貼っておくわね」
「うん」
すんなり引いてくれてほっとする。しかし、仏間に行くと思いきや、祖母が今度はお守りを取り出した。
「これはお正月に買うたお守りなんやけんど、持っちょって」
「分かった。ありがとう」
健康と書かれたお守りを受け取る。これなら持っていても問題無い。
「清ちゃん、山には入っちょらんね?」
「うん、禁止って言われてからは入ってないよ」
「ほうか」
ようやく祖母が出ていった。
まだ心臓が主張している。
釘を刺されてしまった。
──危険なことをしないから、一度だけだから。
お守りを机の上に置く。今まではこういう類は気の持ちようだと思っていたが、こうして不思議な出来事を経験してみると、中には効くものもあるのかもしれない。
特に、祈祷師の札なんてかなりの御利益がありそうだ。清が両腕をさする。
まだ全然眠くはならないけれども、早めに寝ることにした。時計は二十一時を差していた。
──そういえば、最近地震起きないな。
土曜日になり、清は午前中に日曜日までの宿題を全て終わらせた。昼食もそこそこに、口実のスケッチブックをトートバッグに入れて家を出た。真っすぐ昨日途中で終わらせた場所まで行った。そこから、またゆっくり歩いて人が入れる個所がないか探す。
二十分歩いて、ようやく細い獣道を見つけた。大人では厳しくとも、清一人なら入れそうだった。
よかった。安堵して走り寄る。その時、突風が清を襲った。
『おぉ~ん!』
飛ばされないよう体を硬くしていたら、風とともにいつかの鳴き声がはっきりと聞こえた。
かなり近くにいるらしい。見渡すが何もいない。
いないのに、声と、気を抜いたら吹き飛ばされそうな威圧感が清を圧倒する。
勝てない。
すぐに理解した。
人間が束になっても敵わない。この声の主は神だ。サンジン様がやってきたのだ。
サチは祭りの夜、サンジン様が怒っているかもしれないと言っていた。どうやら正解だったらしい。
負けたくない、敵わなくても。
その想いも虚しく、清の体がついに傾き、その場に倒れ込んだ。
「いた……ッ」
膝を擦りむいたらしい。たいしたことはない。目の前の障害に比べれば何でもないことだ。だが、このままでは入れない。
「絶対諦めないから! 待ってて、サチ!」
もっと対策を整えて再度挑戦しよう。この声が彼女に届いていることを祈る。清は自宅へ走った。



