サチとサンジン様

 山には何度か入ったことがあったので、一人でも祠の場所まで迷わなかった。

『寒い』

 間もなく夏だというのに、山はすっかり冷えていた。腕を摩りながら、サチは祭壇の上に乗った。

 しばらく正座をして待っていた。半刻程してどうにも足がむず痒くなり、ころんと寝転がった。

『お腹空いた』

 凹んだ腹を撫でる。

 もう何も無い。空っぽだ。

 空を見上げる。手を伸ばしてみる。何も掴めずに、その手がぽとりと腹に戻ってきた。

 どれくらい経ったのか、もう分からない。足を曲げ、体を丸める。本当に来るのだろうか。せめて、一目でもサンジン様を拝んでから死にたい。

『サンジン様』

 驚く程、声が掠れていた。これでは気付いてもらえない。駄目か。諦めかけたその時、ふと、人ならざる声が降ってきた。

『また凝りもせず来たのか』

 起き上がり上を向くと、七尺はありそうな白銀の狼がこちらを睨んでいた。野生動物にしても些か大きすぎる。まさか、これが話に聞くサンジン様か。

 サチが恐怖に震える。狼はその様子をしばらく見ていたが、やがて人へと姿を変えた。

『これなら怖くないか、娘』

 着物を着た男はそう言った。それでも町の大人たちよりずっと大きい。サチは意を決して、神に答えた。

『怖くありません。気を遣ってくださり恐縮で御座います』

 か細い両手を揃え、正座をして深々頭を下げる。神は長い長い息を吐いた。

『どうせ突き返しても、お前たちはまた人間を寄越すのだろう?』

『はい。けんど、サンジン様へお仕えするのは私で最後にしてほしいと長にはお伝えしております。どうか、私が一生懸命お仕えしますき、町の繁栄をお祈りしていただきたく思います』

 サンジン様は扇子を取り出し、鬱陶しそうに扇いだ。

『よいよい。そんなに畏まるな』

 扇子で手招きをされ、恐る恐る祭壇から下りる。そして手が届く距離まで近づくと、サンジン様がサチの頭に触れた。すると、サチの体がふわりと軽くなった。見れば巫女服を着せられていたはずなのに、着慣れた着物を身に着けている。後ろを向くと、祭壇に持ち主を失った巫女服がだらりと転がっていた。

『不思議……この着物は家に置いてきたのに』
『ふむ。ヒトとは違う、魂の存在になったから慣れ親しんだ姿に戻ったのだろう。巫女の姿がいいか。ならば、我が一肌脱いでやろう』

『いえ、平気です。これが気に入っちゅうがです』
『そうか』

 とりあえず、脱ぎ捨てられている服を畳もうと手を伸ばしたが、サチの手は服をするりと抜けてしまった。

『まだ慣れておらぬだけだ。じきに触れるようになる』

 手のひらを見遣る。

 ようやく自分が人とは違うモノになったことを実感した。これでついに、皆と二度と会えなくなったわけだ。

『さて、飽きるまでいるがいい。我はそなたに興味は無い』
『あの、サンジン様。何かお手伝いできることは』
『ない』

 それだけ言って、サンジン様は重そうな足を引きずるように森の奥へ消えていった。

 困ったことになった。捧げ人としてすることが無くなってしまった。これで本当に町は助かるのだろうか。
 サチは駆け出した。

 サンジン様の歩みはとてもゆっくりしている。今追いかければ間に合うはずだ。何か仕事をもらわなければ。せっかく覚悟を決めて来たというのに。

 慣れない山道を進んでいくと、広い背中が見えてきた。

『サンジン様!』

 呼びかけると、サンジン様がゆっくりこちらへ振り返った。何を考えているのかサチには分からない。

『私、サンジン様にお仕えするためにここへ参りました。何でもやります』

 心臓を速くさせて申し出ると、サンジン様は口を僅かにへの字にさせた。