「うーん」
朝は、いつも唐突にやってくる。夢と現実の境目を漂っていた意識を、太陽の光がそっと引き戻す。カーテンの隙間から差し込む光を心地よいと感じる。そんな些細なことに心を留められる朝は、私の体が元気である証拠だ。まるで昨日の出来事が、遠い夢だったかのように思える。
「まだ、朝の5時か。早く起きすぎたな」
深夜11時を過ぎても起きていた2人は、まだ深い眠りの中だ。2人の夢の中に入らないように、そっと距離を置いて寝顔を見守る。
ふと、昨日2人がいた広縁に出てみた。猫が一匹、太陽の光を浴びながら気持ちよさそうに眠っている。まるで誰かに見つけてもらうのを待っているかのようだ。なんともいとおしい様子に私は心を奪われてしまう。
「ねこちゃん、あなたは今、どんな夢を見ているの?」
猫の夢なら、少しだけ覗いてもいいかな。そんな好奇心に駆られ、私はじっと猫の寝顔を見つめた。これで、夢の中に入れる。
――猫の夢の中へ。
あれ? ここは、昨日の真夜中? そうか、この猫は2人を見ていたのか。2人は「かわいい」と声をかけながら、猫を撫で続ける。猫は2人を信用したのだろうか、まったく抵抗することなく抱きかかえられている。
迅くんはそんな猫を見つめ「どこから来たの?」と問いかける。もちろん猫は人間の言葉を話すわけもなく「にゃー」と言いながらただ抱かれ続けている。でも、2人を交互に見つめ、何かを感じ取っているようだった。
次の瞬間、場面が変わる。
――森の中の神社? この神社は知っている。私が毎年元日に必ず訪れる、温泉街に唯一残る、歴史ある神社だ。初詣客でごった返すような大きな神社ではなく、ひっそりと佇むような小さな神社だ。私はこの神社が特に理由があるかと言われればないかもしれないけれど、好きだ。友達の風邪が治りますように、受験で志望校に受かりますように、運動会の全員リレーで足を引っ張りませんように。今までにした数々の願いは全て叶ってきた。ただ、大きな願いをすることはしない、それだけは私の中の暗黙の了解だった。
猫はそんな神社の境内を、まるで広大な草原のように駆け回る。鳥居をくぐればそこは神様の領域のはずなのに、そんなことはお構いなしに、参拝客の周りをぐるぐると回ったり、階段を駆け上がったり、駆け下りたり。もしかして、この猫は、この神社の猫なのだろうか。
住職らしき人が鞠を出して、猫と遊んでいる。猫の笑顔を私は知らないけれど、本当に楽しい時にだけ見せる、とびきりの表情を見せていた。なんてかわいいんだろう。
「にゃあー!」
猫は十分幸せな夢を見ることができたのか、眠りから目が覚めたようだった。私はもう少し、猫の夢を見たいなと思いつつも、どこかの方に歩いていく猫に「バイバイ」と言い手を振りながら、部屋へと戻った。
まだ、2人は夢の中。先に朝の支度でもしておこうと思って、顔を洗い、軽くメイクをし、トイレを済ませる。昨日の夜、私がした時にはトイレットペーパーがそのままだったのに、今は丁寧に三角織されている。ただ、香澄は客室清掃のとき以外そういうことをするタイプではない。そうなると、あの人がやったのだろうか。
朝の身支度は終わったのに、まだ時間はたっぷりとある。誰かの夢の中でも覗いて時間を潰そうかと思うけれど、流石に2人のは気が引けるし、外にも動物さんたちは顔を出していない。時間は早いが仕方なく、眠っている2人に「いってきます」と言ってから今日も着物に着替えに向かった。
そういえば、私も今朝、香澄と迅くんの夢を見た気がする。ただ、そこで何をしたのか、私がどんな表情をしていたのかなど、細かな記憶はシャボン玉のように儚く消え、思い出せない。他人の夢は見られるのに、一番見たいはずの自分の夢は見られないなんて、なんて無責任な能力だろうか。もしこの能力を100万円で売れるなら、迷わず売ってしまえるのに。
慣れた手つきで、着物を身につける。多くの人にとって特別な日にしか着ることのない着物。私は今日も、特別感もなくそれをまとう。鏡の前で笑顔の練習をしてから、すでに準備を始めているお母さんたちのいる厨房へ顔を出した。
「ああ、雫おはよう。早かったのね」
食材を切っていたお母さんは私に気づいていったん手を止めて、私に向かって心地よい挨拶をする。
「はい、女将さん。早く起きちゃってすることもなかったので、来ちゃいました。今日の朝はどのような料理ですか?」
まだ少し眠気が残っている。目をこすり、体を起こしながら尋ねる。
「それより、昨日はどうしたの? 香澄ちゃんが『雫は手が離せない用事ができたので、私が代わりにやります』って言って来てくれたけど……」
ああ、あれか。風呂で考え事をしてのぼせてしまった、あの出来事だ。香澄がうまくごまかしてくれたようだけど「手が離せない用事ができた」ことになっているのか。流石にこの事実を知られることは恥ずかしすぎるので避けたい。かといって急用の内容をすぐに考えられるほど、私の頭の回転率は速くない。何かいいものはないかと、頭の中にある言葉を必死になって探している。
「ああ、はい、ちょっと……。文化祭の準備でトラブルがあり、私がその担当でしたので、対応にあたってました」
妙な間が不審さを与えたかもしれないが、私は旅館の仕事で培った嘘の表情を作るのが得意だし、夏休み明けに文化祭があるのは事実だ。お父さんが「おお、それはよく頑張ったな」とフォローしてくれたおかげで、なんとかお母さんも信じてくれたようだった。
「そう。それならよかった。今後の心配もあるし、お客様には申し訳ないけど、朝はおにぎり定食にしようかと思って。迅くんには伝えたから、一緒に握ってくれる?」
「はい! ……えっ? 迅くん!?」
迅くんは私が部屋を出る前まではぐっすりと眠っていたはず。それに、迅くんが手伝っている!? 私は半信半疑で迅くんの後ろ姿に似ている人の近くまで行くと、確かにそれは迅くんだった。
「なんでここにいるの?」
迅くんの隣に行くと、私は耳元でそう尋ねる。
「ん? 女将さんに『なにか手伝うことありませんか』って聞いたら、料理できるか聞かれて、父の定食屋を手伝ってからできると言ったら、任されて……そんな感じ。最初は女将さんと作ってたけど、腕が認められたらしくて今は1人で」
迅くんが握ったと思われるおにぎりを見てみると、正直言って私よりもうまいのかもしれない。形は整っているし、なぜか普通のお米のはずなのに、一粒一粒が輝いて見える。普段なら他人に任せるのが嫌いなお母さんが迅くんに手伝ってもらうなんて、この事態を乗り越えるには誰かの手を借りる必要があると思っている証拠だろうか。
なぜ、私が部屋から出たときにはまだ寝ていたのにもかかわらず、私よりも先に仕事をしているのかについても聞いてみたが、私が起きる1時間前にはもうすでに起きていて準備をしていたが、まだ早いからという理由で目をつぶりながらベッドで横になっていたらしい。私は着物への着替え時間があるから、そこで逆転したのだろう。あとは、少し時間があるからとシュークリームを食べていたし。
「迅くんって、なんか、物事丁寧だよね」
「そんなことないよ。おにぎりをこうやってうまく握れているのも、さっきも言ったようにお父さんの定食屋を中学生の時まで手伝ってたから。つまり、自然と身についたものだから、丁寧も何もないよ。それに、雫はさ、テディベア作るのうまいし、雫こそ、丁寧なんじゃない」
このおにぎりの出来事から、トイレットペーパーの三角織をした犯人についても確信がついた。昨日まで離れていた彼との距離が、ほんの少し近くなったように思うのは勘違いだろうか。彼に対し、苦手意識は少し和らいだものの、完全に心を許すにはまだ至らない。私が心から信頼できるのは、せいぜい香澄くらいだ。
「そんなことないよ……ていうか、まって、あの時起きてたってことは、私の独り言、聞いていたの!?」
時間差で、私は今朝、2人は寝ていると思って猫に話していたり、2人に「いってきます」という言葉をかけていたことを思い出す。迅くんが起きていたことが事実だとすれば、これも聞かれていた可能性が高い。そんなことに、おにぎりに梅干しを詰めている私は、その梅干しよりも顔がほんのり真っ赤にならないか心配になる。
「ん? ああ、独り言といっても、寝ていた僕たちに『いってきます』って言っただけでしょ? それぐらい普通だと思うけど」
迅くんが気遣って猫と話していたことについてはあえて触れなかったのか、それとも本当に聞こえていなかったかはわからないけれど、彼の表情を察するにおそらく後者だろう。それだけなら、命拾いをしたと思い、今度は今詰めている鮭のような優しいオレンジ色までで、なんとか耐えることができた。
「そう、なんでもないや。どんどん握っちゃおう!」
「そうだね、お客様のお腹を空かせてはいけないしね」
お客様用のおにぎりをいくつも握っていくが、どうしても迅くんのようにはうまくいかない。素人からすれば、見た目だけでどっちが握ったなんてわからないと言われるかもしれないけど、私から見たらその違いは一目瞭然だ。そんな私に、迅くんは力加減の強さなどコツを教えてくれた。強がりたい気持ちもあるけれど、いちいちここで張り合う必要はないと思い、迅くんに教えてもらった。力加減を教えてもらう時は迅くんと自然と手が触れてしまうが、何か緊張していないかと心配されてしまう。「そりゃ、気になってる人じゃないとはいえ、あくまで異性だし、こんなにも近距離で手が触れたら、多少は緊張してしまうものですよ」なんてことは言えずに「気のせいだよ」と返した。
教えられた通りに試すと、迅くんほどではないにしても、自分でも上達したのがわかった。
おにぎりを握る間、無言になるのは気まずい。BGMの代わりに何か話が欲しくて、私は迅くんのお父さんの定食屋の話を切り出した。元々は祖父が営んでいた店だったが、病気で早くに亡くなってしまったそうだ。
「どうせ閉めるならって、父さんは会社を辞めて改装したんだって」
「お父さん、すごいね」
「ただ、祖父の元々開いていた定食屋とは少し違ったから、お客さんからは反発もあったとかどうとか」
「確かに、変えてしまった部分が多かったら、受け継いだとは少し異なるかもね」
「でも、祖父が看板メニューとして出していた『おむすび定食』はそのまま残したらしいよ。だから、最初は反発していた常連さんも、だんだんと受け入れてくれたみたい。でも、僕が高校生になる前にはいろいろあって、閉めることになったんだよね。いつまでも続くわけないから、ちょうどいいタイミングだったのかもね。今は、ガラッと変わって、ほかの人が洋菓子店を営んでいるとか。……とううか、僕の話しても、退屈だったんじゃない?」
「いや、そんなことはないよ。むしろ、興味深かったよ。まあ、いろんな選択肢が存在するから決して1つだと思っちゃいけないこととかちゃんと知れたし」
「そうか、暇つぶし程度になったならよかったよ」
まだ、迅くんの話してくれた内容だけでは読み説けないことがいくつかある。でも、私が細かいところまで聞く資格はない。それに、聞いたからといって何になるのかもわからない。暇つぶし程度なんだと考えて、疑問は胸の内ポケットに閉まった。ただ、私にも通ずる部分があるようなことがある、これだけは分かった。
「ねえ、雫、おにぎり定食の主菜、冷奴か卵焼き、どっちの方がいいと思う? 私は冷奴の方がいいんじゃないかと思うんだけど、雫はどう思う?」
おにぎり以外にも、副菜と汁物の準備はほとんど整ってきたようで、残りは主菜の準備だけになったとき、お母さんはどちらがいいかを聞いてきた。今宿泊なさっているお客様のことを総合して考慮すると、卵焼きの方が喜ばれそうだ。しかし、お母さんは冷奴の方がいいといいんじゃないかと言っている。なのであれば、私は女将であるお母さんの意見を尊重するに限る。若女将は女将を支えるためにあると私なりには考えているからだ。
「女将さんが冷奴の方がいいと思うのであれば、私もそれでいいと思います」
「そう? じゃあ、冷奴にしようかな。2人は盛り付けの方をお願いね。迅くん、雫が手伝ってくれると思うけど、難しそうだったら、無理しなくていいからね」
「はい、わかりました」
お母さんが冷奴の準備に取り掛かるために再び私たちのもとから立ち去る。私はいつものようにお母さんに対して振舞ったつもりだが、迅くんには少し不自然に思われたようで、さっき私が「なんでここにいるの?」と聞いた時のように耳元で私に対してそっと尋ねてくる。
「雫、どうしてそんなに言いなりみたいな形になってるの? そんなにお母さんって怖い人?」
さっき私は自分の意見よりもお母さんの意見を尊重した。でも、今泊っているお客様のことを知っているのはお母さんよりも私だという自信がある。それなのに、私はお母さんの言うことに従うような形で答えた。お母さんの言いなりになったという言葉もあながち間違いではないのかもしれない。でも、私にとっては当たり前なことで、言う通りにしただけだ。
「いや、お母さんは怖くないよ。それだけは絶対に。でも、言いなりになってるのは……私の性格かな」
「そうなんだ。確かに雫、そんな性格だもんな」
「でも、香澄もああ見えて意外とそうなんだよ。学校の友達と遊びに行くとき、あの子が決めてるの見たことないもん」
迅くんは小さな細かいことまではっきりといえるから、私の今した行動は言いなり以外の何物でもないのかもしれない。そんな迅くんには、私のこういう性格の理解はきっと難しいだろうと思って「今度から気を付けるよ」という嘘でごまかした。性格を変えるのなんて、そんなに簡単なものではないことは私みたいな人でも重々承知している。だから、きっと未来もある意味でお母さんのいいなりで決められてしまうのかもしれない。
私は頭を真っ白にしてから、盛り付けを行った。さっきとは逆転したかのように、迅くんは盛り付けについてはあまり得意ではないようで、私が教えた。特に大切なのはお客様が見た時にどう思うかだ。確かに、この孤立した危機ということを考えれば、見た目も何もないといえば確かなことだ。しかし、私たちはこの旅館に泊まってくれたお客様にどんな状況であれ、少しでも特別な時間を過ごしてほしい。そういう願いがあるのだ。



