周りの静かな光だけに照らされる中、旅館の裏手にひっそりと佇む露天風呂は、まるで別世界への入り口のようだった。周囲を囲むのは、年季の入った竹垣と、苔むした石垣。湯気が生き物のように立ち上り、ゆらゆらと夜気に溶けていく。どこからか、ポタリ、ポタリと水滴が落ちる音が響く。湯船の端からこぼれた雫が石に落ちる音か、あるいは竹筒から流れ出る源泉が岩に当たる音か。その音だけが、私たちの沈黙を際立たせる。
どこからか虫の声も聞こえてくる。私たちの事情も何にも知らず、のんきな虫たちにもそれぞれの生命があると考えると奥深い。
「2人で入るなんて、何気に久しぶりじゃない?」
「そうだね、私たち2人で入るなんて久しぶりだね」
「そうだ、背中、流してあげようか。こう見えても私、小さい頃はお父さんの背中を流してあげたんだから、期待しておいて」
「いや、それってもう、何年も前の話でしょ」
「いやいや、今でもその腕は衰えてませんぞ」
私は香澄の言葉に甘えて、背中を流してもらうことにした。「肩が凝ってますね」とか「肌がぷにぷにだね」とか余計なことを言いながら背中を流してもらったが、案外気持ち良かった。ふと、視線を上げると、夜空には上弦の月がきれいに輝いていた。左半分は一体どこに行ってしまったのだろう、なんて考える私は子どもらしい。
香澄に背中を流してもらった後は、代わりに私が香澄の背中を流すことにした。誰の背中を流したことのない私は、彼女から厳しい判定を貰う羽目になった。「もっといい力加減がある」だとか「何事においても、それに見合ったいい力加減を見つけなければ、それは全て失敗に終わってしまう」とかまるで哲学者のような小さなお説教まで受けてしまう。お互いの背中を流し終わると、露天風呂に直行する。ほのかに木々の香りがする。
「ねえ、迅くんのことなんだけ、今日一日過ごしてみて、香澄はどう思う?」
「迅? んー、率直に言うとやっぱ面白い人だなって。でも、まだ迅くん何か秘密がありそう。その秘密を1週間の間に暴いて、解決まで持っていかないと。それが我々の任務……なんちゃって。でも、彼の日記は絶対に見つけてあげたいな。迅くんみたいな子がどんな人を好きになるのか知りたいし」
きっと香澄は、迅くんのことをこの数時間でかなり気に入ってしまったのだと私には見えた。もしかしたら、この二人はあっけなく付き合ってしまうのかもしれないなんて妄想までしている。現に香澄は、迅くんの部屋に忍び込んじゃおうかなって言っていたぐらいきっかけを求めていたし。それに比べ、私はまだ彼のことを知るには時間がかかりそうだ。この一週間では到底足りないくらいに。
「ちなみにさ、雫の片付けたいものって何なの?」
「……それは内緒。いくら大切な人でも教えてあげない! 知りたければ、ほら暴いてみなさい」
「意地悪だなー」
そう言うと、香澄は手にすくった温泉をぱしゃりと私にかけてきた。隠し事をした罰だとでも言うように。私は何も言わず、湯船の奥まで歩いていく。柔らかな湯が全身を優しく包み込む。
「じゃあ、いいよ。私が暴いてあげる。でも、本当に必要なときは、私が暴く前でも相談しなさいよ。人間って、みんなが思ってるほど強くないんだから!」
香澄も私の隣にやってくる。思えば、私が一番頼れるのは、お母さんよりも香澄だったりするのかもしれない。本当に必要なときは、私みたいな人はきっと頼ってしまうのだろう。でも、できるだけ、大切だからこそ頼りたくないとも思ってしまう。
「ただね、実はすでに1つ、私は暴いてることがあるよ!」
「えっ?」
私はその言葉に香澄に思わず顔を近づけてしまう。どれのこと? 将来のこと? 性格のこと? 私の能力のこと? それとも、私それ以外の何か? 私は無意識に顔を近づけてしまったことが分かり、軽く謝罪した後に顔を遠ざける。
「あまり大きな声では言えないけど、雫って迅のこと、少し苦手でしょ。まあ、雫みたいな人には、ああいう子はが少し苦手になっちゃうこと、わからないでもないけど……」
ああ、そのことか。私の考えていた選択肢全くになかったことではなかったので、安堵しつつも、そんなことが暴かれていたとは、もしかしたら私の片付けたいことが全てばれてしまうのも時間の問題なのかもしれないと思い直す。もしかしたら、香澄には誰かを感じ取れる能力があったりして。
「……うん。正直なところ少しだけ、苦手かな」
「はは、正直だな。人を苦手になるのも自由だから、私に口出しする権利があるのかもわからないけど、彼はきっと悪いやつじゃないよ。むしろ、私たちを導いてくれるような、そんな素敵な人のような気がする」
「……そうかな」
「うん、少なくとも私はそう思う。私、こう見えてもけっこう男を見る目はあるんだよ。告白を断った男子の中には、そのあと分かったことだけど、他の人と付き合ったとき浮気した人でしょ、一方的におごらせるような人、ありえないぐらい遅刻するような人も……! まあ、だから誰とも付き合ったことないんでしょと言われればそれまでだけど。でも、付き合ったじゃないけど、ちゃんと私のことを大切にしてくれる男の子と仲良くしたことあるし」
香澄は今まで告白を断ってきたというある意味でクズな人たちを手で数えていきながら紹介していく。香澄に告白する男子って、一体。
「そういえば、香澄はモテるのに、付き合った話聞いたことないもん。理想高いんだね」
「そう、理想高いんだよ。男の子に関わらず。だから、迅くんはきっと大丈夫。それに、雫も、理想高い私が、選んだんだから」
それは、まるで小さな告白のようだった。その言葉をどう受け止めていいか分からず、私は戸惑う。香澄にとって告白とは、もっと単純で軽やかなものなのかもしれない。しかし、私にとっては、まだ未知の、ずっしりとしたものだった。ただ、彼女は私に何か言ってほしいような素振りもなく、そっと私の肩に頭を乗せただけだった。
数分後、体の芯まで温まった香澄は、先に湯船をあがり、客室に戻っていった。私はもう少し湯に浸かっていたくて、その場に残る。今日の夜空は、もう二度と全く同じものを見ることはない。その空を一人見上げながら、今後の人生という、とてつもなく大きなことを考えていた。そんな私の時間を破ってくれたのは、老夫婦のおばあさんが露天風呂に入ってきた時だった。
「もう、雫は馬鹿だね。自分の旅館の露天風呂で、考え事をしてたらのぼせた? どこにそんな天然がいるんだよ!」
「はい、この私です。面目ない……」
私は結局、かなりのぼせていたらしく、帰ってきたときには脱水症状のようになっていた。流石に恥ずかしくて家族には言えなかったので、こうやって香澄に飲み物を持ってきてもらったり、うちわで仰いだりしてもらっている。隣では、迅くんが冷たいタオルを用意してくれていて、そのタオルを首筋に置いてくれた。本当に私は恥ずかしい。この体の熱さがどちらのものなのかもう分からない。「穴があったら入りたい」という言葉はこういうときに使うのかなんてことしか考えられないぐらいに頭が回らない。
「はあ、もうこの子いくつなんだよ?」
再び私に呆れたようにそうつぶやく。そういいながらも、うちわを動かす手を少しも緩めないのは、やはり香澄らしい。むしろ、どんどん強くなっているかもしれない。
「……16です」
「そんなこと知ってるよ! 真面目に答えないでいいから。ゆっくりしてなさい」
そう言うと、さらに仰ぐ強さを強くした。これは怒りだろうかと思いつつも、それだけではないことを教えてくれるかのように、空いている方の手で私の体を触って状態を再度確認してくれた。体の具合はまだよい状態とまでは言えない。でも、香澄のおかげでだんだんと回復してきた。残りの仕事をしてくるからと言って香澄が立ち去っても、まだ誰かがうちわで風を送り出してくれている。迅くんだろうか。そんなことを思いながら、だんだんと目が閉じていくかのようなそんな感覚を覚えた。
……ん?
真っ暗だ。そんな中、目が覚める。ここ、どこだっけ? ぼんやりとした頭で、昨日の出来事をたどる。落石で橋が崩落し、孤立して、停電が起きて、お風呂でのぼせて──とにかく怒濤の一日だった。そして今ここは、迅くんが泊まる10号室だ。のぼせたことによる体調不良は完全に回復したわけではないけれど、どうやら体を動かすことはできそうだ。
そういえば、今、何時? そう思って枕元にあるスマホを手に取ると、深夜11時を過ぎたところだった。辺りを見渡してみるが、2人の姿はない。迅くんと香澄はどこに行ったのだろう? そう思って部屋の中を探してみると、カーテンが風になびいていた。どうやら、外の広縁にいるようだった。私も混ぜてもらおうかと、そっと足音を忍ばせる。
けれど、広縁の手前で立ち止まってしまった。二人の姿が、あまりにも一枚の絵画のようだったからだ。そこには、私が入る隙間などどこにもない、二人だけの静かな世界が広がっていた。
「ここ、星がきれいでしょう? 私、ここで見る星が一番好き。これが、私にとっての夏の思い出。それに、ここから見える空には、毎年、私たちの心を奪っちゃうぐらいきれいな花火も上がるんだ。普通なら一週間後だけど、今年は無理かな。この状況じゃ……」
「へー、そうなんだ。でも、僕の住んでるところは建物が多いから、星とかこんな開放的な空間で見るのは久しぶりかも。デートとかにも良さそうだよね」
まるで、昔からの友人――私の瞳には2人の姿がそんな風に見える。ここから見えるキラキラ輝く星も、何色にも輝く花火も、私も大好きだ。その輪に入りたいのか、ただ静かに話を聞いていたいのか、自分でもよくわからない。ただこれ以上、足が一歩も進まないということはそういうことなんだろう。
「……ってか、迅って、彼女いるの!?」
「びっくりした。急に大きな声出さないでよ。もちろん、いないよ。デートにいいって言ったのは、あくまで比喩表現。僕、かなり理想高いから、なかなか難しいと思う。昔、一度だけ人を好きになったことがあるような気がするけど、今思えばそれも違ったものかもしれないし」
「へえ、そうなんだ。私もかなり理想高いんだ。気が合うね。だから、本当に大切な人が現れるまで作る気はない。それに、たとえ大切な人が現れたとしても、違う関係を望む可能性もあるしね。だから、今、私にとっての恋人は雫。なんてね」
初めて会ってから数時間で恋バナにまで花を咲かせる2人。もう、お互い、武器を持っていないかと思うほど、無防備な姿をさらけ出している。こういう2人は、世間的にはどう見えているのだろう。
――きっと、お互い、気になってる。
そう思うのが自然なのだろうか。私のような人間には全くわからないけれど、不思議と、この二人をくっつけてあげたくなった。二人の間にはまだ、恋の実がまかれたばかりで、芽は出ていない。そこに水をやれば、やがて恋の花が咲くだろう。その水の役割を、私が担おうじゃないか。
香澄に先を越されるのは悔しいけれど、ある意味の「恋人」として、この突如現れた機会を逃してほしくない。明日から、少しだけ実行してみよう。
「ちなみにさ、迅、雫に対してはどんな印象持ってる? 今日初めて会ったけど、他人からみた雫はどのように見られてるのか知りたくて」
私、この質問の答え、聞いてもいいんだろうか。私は彼に対し「少し苦手」と正直に答えてしまった。もしかしたら、迅くんも同じようなことを思ってるかもしれないし、更に私に対し悪い印象を持っているかもしれない。私はその質問の答えを聞くのが怖くて、その場から離れ、水を飲んでから再び布団に入った。ただ、少しだけ、迅くんの話したことが聞こえたように感じた。「僕と似ているところがある」「頑張っている姿がかっこいい」と。



