私は先生のいる個室へと戻る。けれども、不思議なことに胸の中のざわめきは、先ほどよりいくらか和らいでいた。お父さんの「大丈夫」という言葉が効いたのか、それとも胸騒ぎの正体をつかめたからか。いずれにしても、これから先に待ち受ける不安は、とてつもなく重いものではなかった。

「大変なことになっちゃったね……」

「ですね。私も家に連絡入れておかないと……」

 私が戻ると、先生はスマホで最新の情報を調べているようだった。少しずつ情報は出てきているようで、町の公式ホームページも情報が出たようだ。ただ、地形的な問題もあって一週間の孤立は避けられないようだ。また、地元局のテレビも『速報:橋が崩落、温泉街が孤立状態 1週間程度はかかる見込み』という形でそのニュースを報じていた。

 私たちにとっても大ごとだが、何より来てくださったお客様に申し訳なく、針を刺したように胸がズキンズキンと痛んだ。

「雫ちゃん、顔に出てるよ。自分のせいみたいに思ってない? 雫ちゃんが悪いわけじゃないんだから」

「えっ……」

 ――そんなにも、私の表情はわかりやすいだろうか。
 
 自分では気づいていなかったけれど、心の奥底で不安よりも「申し訳なさ」が勝っていたのかもしれない。嘘をついて「そんなことないです」と言うこともできたが、この先生には何を言っても見透かされそうで、黙ってしまった。

「決まった未来を変えられないなら、その中でできることを楽しんだほうがいいんじゃないかな」
 
 先生の穏やかな言葉に、胸を射抜かれたような気がした。そうだ、私たちに橋を直すことはできない。それは、専門の人に任せるしかない。ならば私ができるのは、この一週間を安全に、そして少しでも心地よくお客様に過ごしていただくこと――それだけだ。

「そういえば、君、私たちと同じ高校2年生なんだよね。名前、なんっていうの?」

 数秒間の沈黙を強引に破るかのように、香澄が口を開いた。

「僕? 僕は山竿(とき)。訳あって、この温泉街に来たんだ。まあ、探し物をしに来たところかな」

「そうなんだ。私は、香澄。長期休みだけこの旅館のお手伝いに来てるんだ。そして、この子が私のかわいい親友で、この旅館の若女将でもある雫。そして、この人が私たちの通っている高校で担任の先生をしてくれている雨野先生だよ」

「そうなんだ、よろしくお願いします」

 香澄が軽やかに紹介してくれるおかげで、さっきまで重く垂れ込めていた空気は、夏のにわか雨が上がった後のように少しずつ澄んでいく。私と先生は、迅くんに向かってぺこりと頭を下げた。

「ねえ、少なくとも1週間ぐらいは協力しなきゃいけないわけだし、それに同級生なんだから、嫌じゃなかったらお互い、ため口でいかない? 雫はどう思う?」

「……うん、そうだね。私は別に構わないよ」

 正直、迅くんのことが少し苦手という事実は変わらない。けれど、この場で「嫌だ」と言えば空気が凍りつくだろう。私は香澄に合わせて頷いた。

「僕もいいよ」

「よし、決まり! それでいこう! 迅、お客様でもあるけど、友達としてもよろしく」

 香澄の提案で、いつのまにか私たちは友達になった。初めて会ったばかりの人と、こういう状況とはいえ、言葉を崩して話すことになるなんて不思議で新鮮だ。

 私たちは、友達になった印に手のひらを合わせた。これは、1週間だけの小さな友情かもしれない。それでも、その強さはちゃんと形にしなければいけない、私なりに決めたからこそそう思う。

「……いいなあ、高校生って。輝いてるよ」

 先生はそんな私たちの姿を見ながら、静かに拍手する。私と香澄は顔を見合わせて笑う。大人になったら恥ずかしいことでも、今の私たちには特権のように思えた。

 私たちが友情を固めあうときが終わるのを待っていたかのように、お母さんから電話が来た。電話に出ると、どうやら手伝ってほしいことがあるようだったので、私は香澄にもお願いし、お母さんのところに行くことにした。迅くんも「僕にも、友達として手伝えることがあれば」友達として一緒についてきてくれた。

「2人とも来てくれてありがとう。……ん? その男の子は?」

 お母さんはきょとんとした顔で、私の隣に立つ見慣れぬ少年を見た。

「あ、10号室にお泊まりの迅くんです。先ほど香澄と友達になりまして、もしお手伝いできることがあればと、来てくれました」

 私は今さっきあった出来事を簡潔に伝える。すると、お母さんはふっと目尻を緩めた。

「あ、どうも迅です。もし、手伝えることがあれば、ぜひ手伝わせてください」

「……なんか、申し訳ないね。迅くんがいいのであれば、こういう状況でもあるし、お願いしようかな。それに、迅くんも2人と同じ高校2年生だっけ? よければ1週間だけだけど、仲良くしてあげてね」

「はい。任せてください」

 お母さんからのお手伝いは、この旅館の至るところにある食料を集めておくことだった。私は、倉庫にある食料も含めてすべて受付や調理場へと運んだ。重いお米なども運ぶものだから、そこでは迅くんはかなりの戦力となった。迅くんは、旅館の倉庫を見るなり「歴史の教科書でしか見たことのないよ」と興味を持っていたところがなんだか印象的だった。濃い茶色に変色した木製の重い扉やその表面の、年季の入った黒い鉄の蝶番を見れば、今の時代とはまた違ったもののように感じられるのかもしれない。

 お兄ちゃんなども加わり家族総出で協力し、食料を集める作業が終わった。夏休みなので、いつもよりストックは多いとはいえ、1週間誰しもが満足できる分の食事をとれるかと言われればそうではないかもしれない。けれど、逆に誰かが確実に飢え死にするほど少ない量ではないことも分かった。工夫すれば1週間ぐらいは質素な食事になるかもしれないが耐えられるだろう。最悪は、うちの家の食材を追加で使えばいい。

「みんな、本当にありがとうね。あと、相談なんだけど、実は落石がまた起こってしまったのか、旅館の方は大丈夫なんだけど、家の方の電気が止まっちゃってるのよ。流石にこの暑さエアコンなしじゃね……」

 どうやら、問題は次々に発生するようで、一部で停電も起こっているらしい。幸い、お客様がいる旅館のインフラはすべて大丈夫みたいだが、旅館のすぐ隣にある私たちの家では電気が止まってしまっているらしい。空気が熱湯のように肌にまとわりつく中で寝るのはさすがに命の危険を伴う。

「9号室が空いているはずですし、予備の仮眠室もあります。5人なら分かれて休めます。私と香澄は受付で布団を敷くので、女将さんたちは9号室へ」

 そこへ迅くんが一歩前に出た。

「それなら、僕の部屋に来る? 二人部屋だけど、詰めれば三人は寝られると思うし」

 困っている私たちの様子を察知した迅くんは、そんな提案をしてきた。私たちはその提案を受け入れるべきか迷った。受付で寝るというのはいろいろと不便を伴う。しかし、迅くんの提案に乗ればその不便さは多くは解消される。だけど、お客様の部屋に私たちが泊まることは許されるのか。そう思ってしまうのが事実だ。それに、迅くんはあくまで異性であるという理由もほんの少し存在する。

「でも、それはお客様に失礼じゃない……?」

「いや、僕ら、友達なんだろ」

 彼はまた「友達」という言葉を使ってきた。彼にとってはもう、これが魔法の言葉なんだろうか。それともただ、私たちと友達になりたいと本気で思ってくれているのか。私は人の夢を見ることはできるけれど、人の心を直接見ることはできないし、起きている人であればなおさらだ。ただ、好意に甘えても神様は罰は与えない。そう信じて泊まらせてもらうことにした。

「あのさ、そういえば迅くんは、どうして橋が崩落してるって気づけたの?」

 ただ、その前に私は気になっていた質問を1つ迅くんに聞いてみた。彼は、橋が崩落したときは個室で1人料理を食べていたはずで、外にはいないはず。それに迅くんが過去にこの場所に来ていたとしても、私たちよりもこの場所を知っているとは思えない。なのに、彼が一番最初に橋の崩落に気づいた。

「んー、感じたんだよね。僕の手が。……まあ、細かいことは置いておいて」

「へー、そういう感触があったって感じかな? ただ、そうだね。今は重要じゃないか」

 やっぱり私は彼のことが苦手みたいだ。そう思わせる曖昧な返答が返ってきた。もしかしたら、彼にも特別な力が――いや、思い過ごしか。

 その後、お兄ちゃんと一緒にお客様の部屋を一つひとつ回り、孤立状態となったこと、今後の見通しを丁寧に説明した。驚きや不安は当然のようにあったが、「この宿には神様がついているから大丈夫」と自らに言い聞かせるように微笑む方もいて、幸い大きな混乱は起こらなかった。

「いろいろ大変なことになったが、なんとか頑張れそうだな。とはいっても、孤立状態になるのは生まれて初めてだよ」

 廊下を歩きながら兄がぽつりと言った。

「もちろん私も初めて。お兄ちゃんは明日からどうする?」

「まあ、どうもしないよな。ただ、今泊ってくださっている方は宿泊期間が過ぎても孤立状態が解消されるまでお客様であることには変わりない。だから、少しでもこの旅館で快適に過ごしてもらう。いかに快適に過ごしてもらえるか、それが俺たちにかかってる、ただそれだけだ。だから、雫も率先してお客様を少しでも快適に過ごしてもらえるように動くんだ。いいな?」

「うん、わかった」

 お客様に対し、どうしたら快適にすごしてもらえるか、そんなことを考えていたからお兄ちゃんとの会話は止まっていた。普段通りでは一筋縄ではいかないことは確か。ここは、個人経営の小さな旅館。それを活かさない手はない。1人1人のお客様としっかりと向き合う。

「まあ、頑張れよ、未来の女将さん」

 分かれ道になったところでお兄ちゃんは軽く背中を押した。

 未来の女将さん――やっぱりお兄ちゃんも私だと思っているのか。そのことについてお兄ちゃんにだけでも言っておくべきか。まだ、そうじゃないんだよと。そう思った時にはまるでお兄ちゃんは魔法で消えたかのように姿は見えなかった。