お母さんのターン。
これから何が始まるのだろうか。殴られる、怒鳴られる、家族としての縁を切られる――。どんな罰が待っているのか、想像もつかない。
今まで余計なことを言わず黙っていただけで、お母さんが私の選択を快く思っていないだろう。娘の口から聞きたくもない、許し難い言葉だったはずだ。だけど、そんなことは承知で約束したのだから、後悔はない。
お母さんは、床に落とした湯飲みを拾って立ち上がった。まさか、それを投げつけてくるのではないか。私はお母さんの動きを一瞬だけ見て、そう悟った。体が防衛反応を起こし、身構える。
そして、私は体が勝手に動いていた。逃げようとしていたのだ。ドアの方に向かっていた。そんなことをしてはいけないとわかっているのに、なぜか体は一向に留まらない。鍵を開けようとするがうまく手が回らない。お母さんの足音が、一歩、近づいてくるのが分かった。
「――雫、待って」
お母さんは湯呑を投げることなく、かつてないほどに震え、弱々しく、今にも消えてしまいそうな声で私を呼び止めたのだ。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。深い何かを感じたのだ。落ち着きを取り戻し、お母さんの方を振り返る。
――お母さんは、泣いていた。
お母さんの涙、生まれて初めて見たかもしれない。あんなに強いと思っていた人が、今は子どものように泣いている。どんな感動的な映画を観ても、大切な人が亡くなっても、お客さんから心ない言葉を投げつけられても、お母さんが涙を流す姿なんて、一度も見たことがなかった。
その涙は、一体どんな味なのだろう。
お母さんの涙は土砂降りの雨のように強くなっていく。なんで泣いているのかわからない。そのため私はお母さんの体を優しくさすることができなかった。お母さんなら私が泣いたとき、そうしてくれるはずなのに。
「女将さん……?」
ただ、私はお母さんに近づくこと、それだけはできた。
「ごめんね、ごめんね……。私はどうしても、この旅館を守りたい。守り抜きたい。そう、小さい頃にお母さんに誓ったから……。あなたを産んでから、ずっと考えていた。でも、雫にも、もちろん夢がある。私はどうすればいいのか――そんなことを天秤にかけてしまった自分が悔しい。雫、きっと、今まで辛い思いをさせてきたよね。私も気づいていたのかもしれない。でも、きっと、気づかないふりをしていたんだよ。あなたのお母さんは、私しかいない。だから、もっとちゃんとあなたと向き合えるお母さんじゃなきゃいけなかった。だから、今日だって、あなたに覚悟を決めさせて、こんなにも重いものを背負わせてしまったんだと思う。この旅館も大切だけれど、大切にできる家族がいなければ、何の意味もない。それはもう、家族とは呼べないと思う。だから、雫、ごめんね。私はあなたのこと、ちゃんと考えてあげられなかった。その夢、私にも応援させてください。お願いします」
お母さんの涙は、人を思う、温かい味だったようだ。
お母さんも私と同じように、ずっと葛藤していたのだ。私の話を聞いて、悔しくて、悲しくて、泣いていたのだ。
私はお母さんではない。でも、お母さんの気持ちが痛いほどに理解できた。
私は、お母さんに抱きついた。お母さんも優しく私を抱きしめ返してくれる。
母の体温がこんなに温かいなんて。幼い頃に眠れなくて、お母さんの布団に潜り込んだ夜のことをふとに思い出した。あの頃と同じ安心感に包まれ、もう何も怖くなかった。お互いの手のひらが、温かい涙で濡れていく。
「雫、大好きだよ」
「うん、私もおかみ――いや、お母さんが大好き」
初めてお母さんのことを「私のお母さん」だと、心から思えた気がする。
そう言ったら怒られるかもしれないけれど、本当にそんな気持ちだった。
私たちは、言葉を交わさずとも、お互いの心が読めるようになるまで、ぎゅっと抱きしめ合った。
女将さん、いや、お母さん。ありがとう――。
「こんなに雫と抱き合うなんてね。でも、私はこの旅館を閉じたくない。その思いはずっと変わらない。だから、これからのことを、ちゃんと考えていかないとね」
「私も、自分の夢を叶えても、時間があるときには手伝うよ。でも、それだけじゃ足りない。そもそも女将さんがいないと――」
私の夢を認めてもらうという大きな壁をクリアした。でも、現実から目を背けてはいけない。お互いがそんなことを考えていると、押し入れの方から物音がした。
「誰か、いるの?」
お母さんとアイコンタクトを取った瞬間、バサッと大きな音を立てて扉が開いた。
「2人とも、大好きです。私、2人の思いに感動しちゃいました」
扉から現れたのは、顔をぐちゃぐちゃにして泣いている香澄だった。まさか、私たちの会話を最初から聞いていた? でも、どうして?
「どうして香澄がここに?」
「親友の決戦を、私が見守らないわけないでしょ。私も、雫が大好きだよ」
「そっか。私も大好きだよ、香澄」
香澄は私に飛びつき、強くハグしてきた。今度は香澄とのハグか。当分ハグはもういいかな、なんて思いながらも、私のために、ずっと近くで見守ってくれていたことに、改めて、唯一無二の親友だと感じた。
「あの、女将さん……私、考えたんです。この旅館が大好きだから……もし許されるなら、将来、私が女将になりたい! そのためには、女将さんに認めてもらえるようにもっと頑張らないといけませんが……」
「香澄ちゃんが、うちの女将さんか……。それも1つの案として、素敵かもしれないわね。私も、香澄ちゃんを大切な家族だと思ってるから。じゃあ、今日から香澄ちゃんのことをしっかり見て、将来の女将さんにふさわしいか見極めていくね」
香澄の真剣な表情に、お母さんもそれを飲み込んだ。そして、香澄を「家族」としてそれを心で受け止めたのだ。
「はい! ああ、でも、初めのうちはお手柔らかにお願いします!」
「わかったよ。じゃあ、私は仕事に戻るね」
「うん、行ってらっしゃい」
お母さんの後ろ姿を見送ってからは、香澄は決めていたことではあると思うけれど、思い切ったことを言ってしまったことにどこか恥ずかしさを覚えたのか、顔を手で覆うとともに、私の話題ばかりを出して話を香澄が女将になるという話題にさせないようにしていた。私はそんな姿を微笑ましく思うと同時に、私たちとこの旅館の未来を繋ぐ道を示してくれた、大切な存在だと感じた。だから、あえてそのことには深く触れなかった。
「お母さんに言いたいこと言えてよかったね。私の親友はいつの間にかこんなに成長してるとは」
「うん。こんなの初めてだったから、すごく緊張したけど。でも、私、頑張ったよ。親友がそばにいてくれてよかった」
「うん、雫は頑張ってた。少し休んだら、今度は迅くんに何か言いたいことがあるんでしょ? この数日間の感謝? それとも、小学校で会った時の真実? それとも……愛のとか?」
感謝も伝えたいし、小学校の時のことも、少し聞いてみたい。だけど、一番は、愛の告白だ。でも、私はできるのであれば香澄に尋ねたい。私が迅くんに告白してもいいのだろうかと。そして、香澄は迅くんのことが好きなんじゃないのかと。もしそうなら、告白されること自体、嫌なのではないか。でも、香澄はきっと「好きになるのは不可抗力。だから、告白するのは、あなたの自由だよ」と思っているのだろう。
もしかしたら、縁を切られてしまうかもしれないとまで考えていたけれど、それは杞憂だったのかもしれない。
親友も、お母さんも、私を受け止めてくれた。だからもう怖くない。次は――迅くんに、自分の気持ちを伝える番だ。



