湯けむりの7日間


 私にとって大切な「決戦」が始まろうとしていた。

 私の心の中に秘めているどの思いや言葉も、我慢せずに吐き出す。嘘はつかない。使っていいのは、ただひとつ、本心だけだ。

 鏡に映る自分の顔を、じっと見つめた。幼さが残るその表情を、無理やり大人に仕立て上げるように、いつもは流したままの髪を、お気に入りのゴムで痛みを覚えるほど固く結んだ。それは、自分との約束の儀式だった。

 朝食の準備は、この後何も起こることのない、いつも通りのことが待っているとしか思えないほどに、淡々と進む。お母さんとも作業の会話を交わす。悟られないようにここは演技で乗り切る。幸い、お母さんが私の異変に気づいた様子はない。前に夢の中で「仲間」だとわかったお父さんのそばには自分から近づいた。

「いつもはあまり父さんの所に来てくれないのに、今日はどうしたんだ?」

「なんとなくだよ。そういう日もあるんだよ」

「そうか。そうだよな、そういう日もあるよな」

 お父さんは珍しそうに私を見つめたが、私はそんな視線も気にせず、黙々と隣で盛り付けを続けた。今日の朝食は、まるで日本の朝ごはんの模範のような、焼き鮭が中心の献立だった。盛り付けを終えると、私はお父さんの手に軽く触れた。ただ、立っていたので、たまたま当たっただけにしかお父さんは思っていないだろう。何か言われる前に、私はその場を立ち去った。そして、途中でお兄ちゃんともすれ違ったので、偶然を装って、その手に触れる。同じようなことを、おばあちゃんとおじいちゃんにもした。

「これじゃ、人の体温を奪う、窃盗犯だな」

 誰にも聞こえないように、独り言を呟く。触れただけで相手の気持ちがわかる迅くんとは違う。体温を奪うことには成功したが、4人の心を読み取ることはできなかった。それは、やはり、残念なことだった。

 昨日の夜、お母さんには「相談したいことがある」とだけ伝えて、約束を取り付けてある。

 気づけば約束の時間になり、私は待ち合わせ場所である仮眠室へと向かった。お母さんは、真剣な話になると察したのだろう、机を部屋の真ん中に寄せ、丁寧にお茶まで用意していた。流石、旅館の女将だ。その気配りの細やかさが、私の心を揺るがす。

 今からお母さんと話す内容を、実は昨日の夜、香澄に少し話していた。私がこの旅館の女将となって継ぐのではなく、大好きなテディベアに関する仕事に就きたいと。複雑な顔を一瞬だけしたようにも思えたけど、手を取って「雫が決めた未来ならば、応援する」と言ってくれた。これだけでも、だいぶ救われたのだ。

 とはいえ、旅館を捨てることもできない。どうすればいいかをここに来る直前まで考えたけれど、どちらにとってもいい答えなど出なかった。この問題は答えの存在しないものなのかもしれない。

「女将さん、今日は私のために時間を作ってくださって、ありがとうございます」

 私は一礼してから座布団に座る。私たちは今、対面になるように座っている。

 座ってから、手のひらが汗でびっしょり濡れていることに気づいた。背中を伝う冷たい汗が、自分の弱さを突きつけてくる。

「うん、娘のために時間くらい取るに決まってるでしょ。まあ、時間はたっぷりあるんだから、言いたいことは全部話しなさい」

 お母さんはいつにもまして険しい顔をしながら、まずは一杯お茶を飲んだ。私も、喉を潤わせる。おそらく殴るまではいかないだろうけれど、もしビンタされたときのために、頬を優しく触れておく。どこからか、微かに音が聞こえたような気がするが、自分の世界に入り込みすぎて、その音がまるでなかったかのように感じた。

「まず、最後まで私の話を聞いて欲しいです」

 私は大きく深呼吸をした。これでもう、大丈夫だ。

 腹の底に溜めていた言葉を、一気に吐き出す。

「――私は、将来、この旅館の女将ではなく、大好きなテディベアに関わる仕事に就きたいんです。女将さんが私に期待してくれているのはわかっています。でも、どうしても、自分の夢を諦めることはできません」
 
 お母さんがどんな表情をしているのか、斜め下を向いている私にはわからなかった。ただ、机の木目だけを見つめていたから。それでも、何かの動きがあったことは分かった。当たり前だ、突然「実は血のつながりがない家族なんだ」と告げられた時のような、とてつもない衝撃を与える言葉だと、私自身でも思っている。

 この音はたぶんそう――手に持っていた湯飲みを落とした音だ。

「女将さん、大丈夫ですか……?」

 湯呑の中には熱いお茶が入っているのでは、と咄嗟にお母さんの方を見た。幸いにも、ほとんどお茶は入っておらず、床にこぼれたのはわずかだ。お母さんは濡れた部分を拭くこともせず、私の目をまっすぐに見て、はっきりと言った。

「どうしたいのか、今思っていることをできるだけ詳しく教えて」

 この表情だけではうまく気持ちを読み取れない。稲妻が落ちたような衝撃の次に大きいのは何だろうか。驚き、悔しみ、怒り、悲しみ……。ただ、私の話をちゃんと聞いてくれるんだという安心感だけを頼りに、私は話を続けた。

「まずは、2年後に高校を卒業した後、専門学校に進みたいです。そして、専門学校を卒業した後は、私の大好きなテディベアに関わる仕事に就きたいと思っています」

「それが、雫にとって、旅館の女将を継ぐよりも、本当にやりたいことなの?」

「……はい。私は、自分の道を進んでいきたいです」

 お母さんの力強い口調に、一瞬、ひるみそうになった。でも、ここで考えたら負けてしまう。今日までしっかりと考え抜いた結論を、私は突き通す。唾をごくりと飲み込んだ。思ったよりも多く呑み込んでしまい、自分でも驚いてしまう。

「どうして、今、話そうと思ったの? 高校卒業まで、まだ少し時間はあるし、専門学校に行ってから決める手だってあったのに」

「それは……。今、お客様の中に迅様がいらっしゃるのですが、その方と友達になりまして、そして昨日教えていただいたんです。彼は過去、はっきりとものを言えないまま心が傷つく経験をしました。その経験を乗り越えて、今でははっきりとものを言える人になったんです。そんな彼から、『我慢ばかりの人生は楽しくないんじゃない?』『自分に嘘をついたり我慢したりしないで』という言葉をいただきました。そこで、やっと決心がつきました。このままだと、私が本当にしたい人生を歩めない、と。一度きりの人生を無駄にするわけにはいきません。私という世界でたった一人の存在として生きるためにも、嘘はつきたくないのです」

「素敵な友達と出会えたのね。確かに、雫は自分の気持ちをはっきりと言わない子かもしれない。でも、それによって後悔したことはある? もしないのなら、誰かがあなたの人生を導いてくれているととらえることもできる。例えば、あなたと香澄ちゃんの出会いは、どちらかが会いたいと思って意図的に出会ったのではなく、あくまで運命が巡り合わせてくれたはずよ」

 確かに正論だ。このままでは私は母におしつぶされてしまう。でも、私は自分の夢のために、そして彼のためにもここで引き下がるわけにはいかない。

「確かに、そういう出会いや運命の流れも大切かもしれません。でも、自分で掴みにいかなければ、あっという間に逃げてしまうものもあると思っています。前に、お父さんが体調を崩して入院してしまった時、ありましたよね? 家族会議で部屋数を一時的に減らすことも案として出ましたが、このままでも頑張れるということで、結局そのままになりました。でも、その期間の土曜日には、実はずっと楽しみにしていた校外学習があったんです。こういう仕事をしているからこそ、みんなでどこかに行くのをすごく楽しみにしていた。友達と食べ歩きして、お土産を買って、クラス全員で写真を撮って、二次会をして……。でも、女将さんの『みんなでお父さんの分まで頑張ろうね』という言葉に『校外学習がある』なんて言えませんでした。言えるはずがありませんでした。結局、休むことにしました。本当は行きたかったよ……。みんなと楽しみたかったよ。笑いたかったよ。私だって一人の高校生なんだから」

 感情的にならないように、強く心に決めていたはずなのに、声が震え、涙がこみ上げてくる。楽しかったはずの記憶は、私の中にはどこにもない。白紙のアルバムを、ただただ見つめているようだった。私の頭の中で大きく膨らんでいく。

「後悔だよ……」

 それは、紛れもない、私の本心だ。すべては、自分の弱さが招いたこと。お母さんのせいじゃない。分かっているのに、この苦しみを少しでもいいから、お母さんに分かってほしかった。まるで、熱い塊を押し付けて、その重みを分かち合ってほしかったかのように。

「……それは、あなたの母親として、娘のこと、ちゃんと見てあげられなくて申し訳ない。ごめんなさい。あなたが夢を持ち、それを私に話す……。私はそれを止めるつもりは全くない。ただ、あなたがここまで成長してくれたのも、家族の他に、この旅館のおかげでもある。確かに、投げ出したくなることもあるでしょう。でも、100年続けてきた私たちの思いの大きさも、ちゃんと受け止めてほしい。雫は、この旅館のことをどう思って、自分の夢を優先しようと思ったの? 本当に私たちのこと、旅館のことを考えているのか、聞かせて」

「……感情的になってしまって、ごめんなさい。女将さんは何も、そして少しも悪くないです。私だけが悪いのです。ちょっとだけ、お茶をいただきます」

 私は一度、心を落ち着かせるようにお茶を飲んだ。さっきよりもずっとぬるい。どうして、お母さんはここまで冷静に私と向き合えるのだろう。私は再び唾を飲み込んだ。さっきより少ない。

「この旅館のこと、私はどう思っているのか……。まだまだ未熟な私にはわかりません。これが正直な答えです。女将さんははっきりとした答えを求めていたと思いますが、ごめんなさい、わかりません。もし答えてしまうと、嘘をつくことになってしまうからです。ただ、この旅館も家族と同じくらい大切で、私に居場所を与えてくれたと思っています。ここであった出来事、出会った人すべてが、私にとってかけがえのないものです。でも、やっぱり、私は……自分の意志を貫きたい。次は、自分で手に入れたい。自分の居場所を」

「雫、あなたは……。過去か未来を選ぶなら……」

 私の言いたいことは、あと少し。ほんの少しだけ、私に時間をください。

 そして、どうか力をください。すべて言い尽くします。

 私が私であるために。もう迷わず、突き進みます。

 だから、お願い――。お母さんも辛いかもしれないけど、私だって辛いよ。

 選択って、こんなにも重いものなんだ。

「今の私は、まだまだ未熟者です。だから、この選択は間違っているかもしれません。失敗するかもしれません。もっと良い選択があるかもしれません。でも、私の選択を信じてください。私の本当の気持ちを知ってください。女将さんと面と向かって、こんなにも本心を話したのは初めてなんです。それくらい、私は本気です」

 私は立ち上がり、母の瞳をまっすぐに見つめた。

「私は、自分の夢を叶えたい――!」

 そして、はっきりと全身に力を込めて叫んだ。

 お母さんは、見たこともない私の姿に、驚き、戸惑っているようだった。

 私のターンは、終わった。

 泣いても、笑っても、もう後悔はない。嘘も、我慢も、すべて捨てた。

 私はお母さんと向き合った。最後まで、この思いを叫び抜くことができたよ。

「ありがとう、迅くん」――そう心で呟いた瞬間、初めて涙がこぼれ落ちた。それは、彼の言葉を確かに受け止めた証だった。