休憩室に入ると、香澄が着物の帯を結んでいるところだった。小窓から漏れ出す夏の日差しに照らされて、着物の色がより鮮やかに映える。
「対応終わったよー!」
椅子に腰を下ろすと同時に、休憩室に備え掛けてある冷蔵庫から炭酸飲料を取り出す。プシュッと小さな破裂音。立ちのぼる泡をそのまま喉へ流し込むと、じんわりと冷たさが胸を駆け抜けた。夏の熱気を忘れさせてくれる、私の小さな救い。
「お疲れ様。タオル渡すだけなのに、結構時間かかってなかった? なんかトラブル?」
「ああ、エアコンの操作を教えてたからかな」
小腹が空いた私は、続けて冷蔵庫からシュークリームを取り出した。残り4つ。好きなものほど、消えるのは早い。お母さんに早めに補充をお願いしておかないと。
「大きなトラブルではなさそうでよかった。そういえば、10号室のお客様って学生さん?」
「うん、私たちと同じ高校2年生の男の人」
「へー、同い年か。ちょっと仲良くなってみたいかも! 珍しいし」
一口、シュークリームを頬張る。まろやかなクリームが口いっぱいに広がり、それを包む生地の食感もたまらない。2口目を食べようとしたそのとき、香澄が爆弾みたいなことを口にした。
「夜、その男の子の部屋に忍び込んじゃおうかな」
危うく喉の奥でクリームが詰まりそうになった。けれど、みっともない真似はできないと必死に飲み込んだ。冗談にしても大胆すぎる。こういう発想ができるのは香澄くらいだ。
「ちょっと、冗談よしてよ」
「いや、完全な冗談ではないよ。まあ、半分ぐらいは冗談だけど……。実は彼が私の将来の――とか。……流石に考えすぎか。こういう展開もありかなーなんて思ったけど」
確かに、そのような展開も面白いのかもしれない。彼の顔はイケメンというほどではないが、整っている。香澄の隣に並んでいても、大きな違和感はないだろう。それに、さっき香澄が見ていた夢の中で、彼女の隣にいた「恋人」と背格好が似ていたような――いや、考えすぎだ。そのことを考えるのはもうやめよう。
ちょうど、その時に香澄は着替え終わったようで、お手伝いに戻るため、このお話はここでいったんお開きとなった。
長時間の休憩を終え、体の電池が満タンになり仕事を再開すると、夕食の準備が女将さんたちが順調に進めてくれているところだった。私は香澄とともに受付に立ち、電話対応や備品の補充や発注などの翌日以降の準備を進める。午後6時を過ぎた頃、今日最後の宿泊者である先生が旅館に到着した。
「あ、先生、こんにちは!」
香澄は、先生の顔を見るなり学校のときのように元気に挨拶をする。そんな姿に先生は愛想よく手を振ってくれた。私は、宿泊者名簿のところに新たにチェックを加える。
「うん、こんにちは。香澄ちゃんはお手伝い?」
「はい、夏休みだけ手伝いに来てます!」
存在感を示すように先生へアピールする香澄の横で、私は8号室の鍵を素早く用意する。
「そうなんだ、えらいね! 雫ちゃんもありがとう。雫ちゃんの旅館に泊まれること、楽しみにしてたよ」
「いえ、こちらこそ来ていただけて嬉しいです。今日は仕事の疲れを取って、ゆっくりとお過ごしください」
「うん、そうさせてもらうね」
「では、雨野様のお部屋は8号室になります」
私が先生に鍵を渡すと、香澄は「手が空いてるから」と言って先生のスーツケースを運ぶことにしたそうで、8号室まで一緒について行っていた。これで、今日の予約者は全員チェックインを済ませたことになる。私は、受付用の電話をポケットに入れて、仕事を貰うために調理場の方へ向かう。
「女将さん、今日のお客様、全員いらっしゃいました」
「わかった、ありがとう。手が空いているようなら、おじいちゃんの方を手伝ってくれる?」
「はい、わかりました」
おじいちゃんの元へ行くと、午後7時半から食事予定のお客様の料理を個室まで運んでほしいとのことだった。今日の夕食は、私の勘――いや、嗅覚? が当たったようだ。近くの漁港で釣れたばかりのふっくらとした鯖の煮つけや、脂ののったマグロとサーモンの刺身など、魚尽くしの新鮮な海の幸が宝石のように並ぶ。そして、当旅館オリジナルの女将さん特製味噌汁も欠かせない。
「雫、今年も夏休みが始まったな。大変だと思うけど、一年の中でも忙しい時期だから頑張ってくれよ」
「うん、今年も香澄が来てくれたことだし、頑張らないと」
「今年も家族6人――いや、香澄ちゃんもいるから7人か。7人で頑張ろうな!」
「そうだね、頑張ろう!」
「でも、雫も彼氏とか作って夏休みは思いっきりデートとかしたいんじゃないのか? それとも、最近の子はデートとかしない?」
「もう、その話、恥ずかしいからやめてよ! ほら、運ぶから配膳車に料理置いて」
「はいはい。雫は本当に素直じゃないなー」
「じゃあ、私、行ってくるから。おじいちゃんは、仕事してて」
おじいちゃんからの毎度毎度のおせっかいに、耳にタコができそうだ。確かに、憧れる気持ちはある。でも、今はこの旅館で若女将をしている方が私の存在感を示せるし、なんといっても居心地がいい。だから、誰か大切な人を作るのはきっかけがあるまではおわづけ、そう決めている。ただ、年々焦りが出てきているのも事実だ。
私は逃げるようにして調理場から出ると、まずは料理を老夫婦のお客様の元に運んだ。おじいさんは、大根が少し苦手ということなので、事前に女将さんが大根を抜いている。そして、おばあさんは熱いのが苦手ということなので、事前に少し冷ましていた料理を用意した。個室番号を確認してから、ドアをノックしてから中に入る。
「失礼します」
「あ、雫ちゃん、久しぶり」
「雫ちゃん、今年もありがとう」
「こちらこそ、今年もお越しくださってありがとうございます」
私は配膳車に乗せてきた料理を並べていく。その料理を見て、お客様の表情が、まるで花が咲きこぼれるかのように、自然と華やいでくると、私も自然と弾けるような喜びがこみあげてくる。この仕事をしている時、誰かの嬉しそうな表情を見るのが一番のやりがいを感じる。
「そうだ、私、雫ちゃんに似合いそうなシュシュを見つけたの。よかったら使ってね」
一通り料理が並べられ、この小さな空間が食欲をそそるにおいでいっぱいになった時、おばあさんは手提げバッグの中から、丁寧に包装された袋を取りだした。私がその中身を開けると、花柄のシュシュが入っていた。早速そのシュシュを手首につけた。普段は旅館のお手伝いでなかなか街の方にお買い物に行けることのない私にとっては、この小さな贈り物がまるでサンタさんからのプレゼントのような特別感を感じた。
「ありがとうございます。こんなにかわいシュシュをいただけて、とっても嬉しいです!」
この笑顔は私が意識して作ったものではない、自然と出てしまった笑顔だ。
私は、再び「失礼します」と言って個室から出ると、次は1人旅をしているお客様の下に料理を運ぶ。先ほどのように、そのお客様も私が料理を運んでくると、優しく声をかけてくださって、前の時と同じように、旅行に行った場所の写真を見せてくださった。
私が料理を運ぶ担当の最後は、同い年の彼だ。
「失礼いたします、料理お持ちいたしました」
「ああ、ありがとうございます」
私は先ほどの2人のお客様の時と同様に、配膳車に乗せてきた料理を、一つ一つ丁寧にテーブルに並べていく。このような形の食事をとることはほとんどないのだろうか、彼の瞳にはどこかダイヤモンドのような輝きがあった。私はそんな彼に、本日のメニューの説明をしていく。料理の説明をしては退屈になってしまうだろうかと思っていたけれど「この料理の魚はどこのですか?」や「このソースは何味ですか?」と、むしろ説明の1つ1つを旅の思い出とするかのように聞いてくださった。物事をここまではっきりといえるなんて羨ましさももちろんあるけれど、それよりもやはり少し苦手だなという気持ちが大きい。
私が一通りの説明を終え、退室しようとしたとき、何か感触を感じた。
――彼と、一瞬、手が触れてしまったのだ。
私のポケットから料理の説明の紙がテーブルに落ち、拾おうとしたときにそれは起きた。なんだろう、彼の手。私が、今まで感じてきた感触とはどこか違う――いや、感触は同じなのかもしれないけれど、何かが違う。
「あの――あなたって今――、いや、なんでもありません。いただきます」
手が触れたことと関係しているのか、彼が何かものを言いたそうにしていたけれど、それを言ってはいけないんだとでもいうかのように、口を閉じた。そして、何事もなかったかのように、律儀に手を合わせて食事をし始める。
あなたって今――? 私が今、何かした? それとも、何かを感じた? 私ははてなマークを頭の上に浮かべながらも、詮索するのは失礼だと思い「失礼いたしました。ごゆっくりとお楽しみくださいませ」と手が触れてしまったことに関することをお詫びしながら、言葉を残して立ち去った。
調理場に戻ると、午後8時からのお客様の分の料理の準備の仕上げに入っていた。私が担当するのは先生の分。先生は人参が好きということを香澄から教えてもらったので、花形に抜き取った人参をもう1つ料理に添える。
――ゴゴゴゴ。
「ん? 雫、今、何か聞こえなかった?」
「うん、おばあちゃん、私にも大きな音が聞こえたよ」
「大丈夫かな? 何もないといいんだけど」
急に、鈍い振動が、鼓膜を直接揺らす。雷でも雨でもない。大地そのものが動いたかのような音がした。背後の山に囲まれたこの場所では、もしかしたら落石かもしれない。お父さんが安全のために旅館の周りを確認してきてくれたけれど、幸いこの旅館には確認できた被害はないそうで、見た範囲では目立った落石もなかったようだ。
「まあ、気にすることはないんじゃないかな?」
でも、違う。何かが、確実に起こった。
少し時間がたってからじわじわと恐怖を這い上がらせる。何も問題なかったはずなのに、私の足は小刻みに震えだす。それは、身体の奥底に潜む何かが、異変を察知したかのようだった。頬を軽く叩いて、意識を仕事に集中させる。今はただ、この震えを隠すことに必死だった。
気を落ち着けてから、本来の仕事である、先生の元に料理を運ぶ。「失礼します」と言って襖を開けると、そこには先生の他に、香澄が先生と顔を近づけながら楽しそうに会話をしていた。
「香澄、お客様の邪魔しちゃダメでしょー」
私の心を整えるためでもあるのか、私は普段通りに喋ってみる。
「先生がいいって言ってくれたんだもん! てへへ」
「1人よりも香澄ちゃんとお話してた方が楽しいし、むしろ私が呼んだの」
それならまあいいかと思い直す。こんな無邪気な姿が、先生に好かれる理由なんだろうなと思う。私は香澄と先生の会話を横目に、料理を並べていく。しかし、その間も胸の奥がざわめく。何だろう、涙目になりそうな私。何が怖いんだろう。何に縛られているんだろう。でも、私は仕事をこなさなくてはならない、その一心で手を動かし続けた。二人は、学校の最寄り駅前にできたスイーツのお店の話をしているようだったが、その声はひどく遠くに感じられた。
「先生、お待たせしました。ごゆっくりお召し上がりください」
「雫ちゃん、ありがとう。どれもおいしそう! いただきます!」
あの大きな音がしてからもう10分ぐらいたっただろうか。何だろう、時間を追うごとに感触がなくなっていく感じ。どこかに閉じ込められたように押し込まれているこの感じ。その正体が知りたい。
――ダダダダダ!
また音――? いや、さっきのような自然そのものの音ではない。誰かが人工的に出している音だ。これは、誰かが廊下を走っている音。でも、誰? その音はだんだんとこっちに近づいてくる。まるで、猛り狂ったイノシシが突進してくるかのような、けたたましい音が耳に突き刺さる。
「待って……何?」
「何か、来る……」
私が、後ろを振り向いたその向いた瞬間、勢いよく襖が開いた。その一瞬では、扉の奥の世界の色が真っ暗な色なのか、明るい黄色なのか判断がつかなかった。
「――山竿様?」
よく見ると、息を切らした彼が、立っていた。あまりの突然のことに、先生も香澄も言葉を失っている。私は、彼が焦ってお手洗いを捜しているのかと思い、ここではないと伝えようとした。だが、彼の瞳は、それとは全く違う何かを訴えかけていた。その目に射抜かれ、私は氷のように固まってしまう。
「突然すみません、若女将さん、大変なことになってます。少し時間、いいですか?」
「……えっ、あ、はい」
こんな事態は、私の頭の中にあるどのマニュアル本にも載っていなかった。だからうまく対応できず、ただただ彼の言葉に、私は反射的に頷くことしかできなかった。
「さっき、大きな音、鳴りませんでしたか?」
「はい、何かが崩れたような音がしましたね……」
私は、彼が一体何を言いたいのか、まったく予想がつかなかった。ただ、彼のペースに引きずり込まれることだけで精一杯だった。
「……単刀直入に言いますね。実は、この温泉街と街をつなぐ橋が落石により、崩落したいみたいなんです」
その言葉に、私は思わず手で口を覆った。さっきから感じていた胸騒ぎの正体はこれだったのか。その橋が崩壊した影響を知っている私は、もう頭が真っ白になってしまった。
「その橋は、この温泉街と街をつなぐ唯一の道。それが崩落したということは、この温泉街は孤立状態……」
私の言いたかったことを代弁するかのように、現実を香澄を言葉にしてくれた。そう、街と温泉街をつなぐ唯一の道はその橋以外に存在しない。それがないということは事実上の孤立状態を意味する。この温泉街にある宿泊施設は5ヶ所。この温泉街に数百人がいてもおかしくない中で、私たちはこの温泉街から出ることができない。
現実を知った先生も「えっ」という独り言を漏らす。
彼は、橋が見える防犯カメラのライブ映像を見せてくれた。橋の一部は無残にも崩落し、通行は不可能な状態にまで変貌していた。崩落した橋の近くには、私たちよりも何倍も大きな岩石も転がっている。私は急いでこの事実を伝えにいった。ちょうどその時、どこからか電話がかかってきたようで、状況が説明されたらしい。お父さんは震える手で、館内放送で宿泊客に容赦なく事実を告げた。
『宿泊されているお客様にお知らせいたします。現在、街と温泉街をつなぐ唯一の橋が、落石のため崩落したという情報が入りました。孤立状況が解消されるまで1週間程度かかる見込みだということです。お客様にはご不便をおかけいたしますが、どうかご理解ください。なお、孤立状態が解消されるまでの間、宿泊されているお客様はそのままお部屋をお貸しいたしますので、ご安心ください』
「お父さん、これから大丈夫かな?」
館内放送が終わり、私はお父さんの手をぎゅっと握った。馬鹿げた質問だとわかっているけれど、聞かずにはいられなかった。
「うん、1週間ぐらいなら大丈夫だよ。お客様には申し訳ないけどな。ただ、これは誰のせいでもないんだ。とりあえず、雫は仕事の続きをしてきな」
「はい、わかりました」
若女将としての務めを果たさなくてはいけないことは分かっても、やはり体の一部分は震えてしまう。



