湯けむりの7日間

 
「……あのさ、迅、思い出しちゃったかも」

 ブリキの箱を見てから、一言も発することがなかった香澄が、ようやく口を開いた。いつもの明るさは影をひそめ、細い声で迅くんの肩をそっと叩く。迅くんは、この展開を予想していたかのように「ああ」とだけ言って、香澄の顔を見つめた。

 お兄さんは、自分がここにいるべきではないと察したのだろうか。「写真でも撮ってくる」と言って部屋を後にした。私もまた、この場にいるべきではないとわかっていながら、外に出る勇気が湧かなかった。

「僕は最初から香澄に会いに来たから、もちろん気づいてた。でも、香澄にとっては人生の一時期に過ぎないかもしれないから、なかなか言い出せなくて」

「そうだったんだ。あの時、本当に楽しかった。ありがとう。まさか、迅くんだったなんて……。聞きたいことはたくさんあるけど、まずこれかな。だいぶ雰囲気、変わったよね」

「そうだね。自分でもそう思ってる。変えないとという出来事があって、引っ越したからね。香澄には少し話したけど、香澄も僕に勇気をくれた1人だよ」

「そんなことないよ……」

 迅くんは、恥ずかしそうにしながら、日記に挟まれていた一通の手紙を床に広げた。この旅館に来る前に、将来の自分に向けて書いたものらしい。最後の数行には、香澄と再会してから感じたことが書き加えられているようだった。私たちはその手紙に視線を集中させる。

******

 未来の僕へ。

 小学校の頃の記録をここに残しておきます。

 今の僕が、どんなふうに変わっているのか、はたまた変わっていないかはわかりません。ですが、未来の自分に伝えるために、過去の出来事をこうして文字にして残すことにしました。

 僕は、小学校3年生の時、音楽の授業でリコーダーを吹くことになりました。ロッカーから取り出したリコーダーを吹いてみると、それは休んでいたクラスの女の子のものでした。共同ロッカーだったから間違えてしまったのでしょう。

 けれど、そのことがクラスに知られると、多くの人から視線が向けられ、仕舞には一部の人からいじめを受けるようになりました。暴言を浴びせられたり、おごらされたり、給食を減らされたり……。もともと僕は、周りと深く関わるのが得意な子ではなかったから、いじめの標的になってしまったのかもしれません。心は弱っていき、毎日が痛くて、ずきずきと傷んでいました。

 やがて、耐えきれなくなった僕は家族に相談しました。なぜ今まで黙っていたのかと怒られもしましたが、それでも家族はすぐに引っ越しの準備を進めてくれて、隣町で新しい暮らしを始めることが決まりました。あのときの家族の行動には、今でも感謝しています。

 もし今の僕が、はっきりと自分のものを言えるようになっていたり、少しでも強い心を持てるようになっていたりするならよくも悪くもそれが原因です。僕よ、わかってくれ。苦しくてももがきたくても、現実からは逃げられない。

 未来の僕へ。あの頃の苦しみを乗り越えて、笑って生きていてくれ。

 今の僕に幸せがあることを祈ります。 

 P.S.

 これを書いてから、1週間ほどが経ったとき、とある女の子と出会ったことも書き示しておきます。まだ、新居の準備ができていなかったときに、1泊旅館に泊まりました。そこで、僕と同じぐらいの女の子と出会い、仲良く遊びました。そして、最初その子の手を握った時「この子は僕みたいな人と会って嬉しと思ってくれている」とちゃんと感じることができたのです。そんな一瞬の出来事にどこか眠っていた心が開きました。全員が敵ではない。だから、その人のために生きよう。でも、もちろん敵もいる。頑張れ、僕。負けるな。

******

 この手紙からは考えさせられることが多い。私は彼のはっきりとものいうところが最初は苦手だと感じてしまった。ある意味、彼のそういう性格を心の中で否定していたのだ。ある意味ひどいことをしていたのかもしれない。

 しかし、彼にはそうする深い経緯があった。彼は、自分を守るためにそうしていたのだ。それが今、演技なのか、本当の性格の一部なのかは関係ない。むしろ、はっきりとものを言えない、心の弱いのは私の方だった。
 
 そして、思ってしまった。この二人の絆は、私には邪魔できないほど太く、揺るぎないものだと。

 ――2人が結ばれる日も、もう目の前なのかもしれない。

 そう思うと、なぜか泣き出したくなった。私の入る余地がないと頭ではわかっていたのに、それが現実になった途端、悔しさがこみ上げる。最初は苦手だと思った彼のことをどう思うかは、私の自由だ。でも、香澄とは対等ではない。苦手だった私が、彼を奪う資格はない。そんなの、あまりにも自分勝手すぎる。神様もきっとそう思っているだろう。

 さっき見た、汗のように、涙がポロリと地面に落ちる。

「えっ、雫どうしたの大丈夫!?」

「雫、何かあったの?」

 2人が私を心配し、寄ってくる。迅くんは、そっと私の背中をさすった。しかし、一度溢れ出した涙に蛇口はない。勢いは変わるどころか、むしろ「やめてよ」と叫びたくなった。どうすることもできない未来がわかっているのに、そんな優しさを向けられたら、もう耐えられない。

「いや、感動的な話だなと思って」
 
 私は、迅くんに本当の気持ちを悟られないように、手を額に当てて涙を拭くふりをした。感動的な話であるという理由も嘘ではないのかもしれない。でも、その理由はほんの一部にすぎない。

「そうかな、そんなに感動的な話だったかな……?」

 迅くんが、何か私の異変に気付いてそう尋ねているのか、そうではないのかわからない。ただ、手には触れていない。それだけは事実だ。私はその場から離れる口実として「顔を洗ってくる」と言って部屋を後にすることにした。香澄がついて行こうかと優しく声もかけてくれたが、今は1人になりたかった私は「ありがとう。一人で大丈夫」と言って断った。

 私は、2人でその日記帳を見る2人の後ろ姿をしっかりと焼き付けた後に小走りでトイレに向かう。トイレに駆け込み、しっかりと鍵を閉めたことを確認してから、私は泣いた。

「ごめん、迅くん。感動的な話だから泣いたんじゃない。未来が決まったから、泣いてしまったんだよ」

 少しは引いていた涙が、再び発射する。

「うえーん。うえーん」

 泣きたいだけ泣いた。やっぱり1人は楽だ。好きなだけ泣くことができるから。この涙の味がしょっぱいことなんてわかっているのに、なぜか舐めてしまう。

 数分間泣いた後は、もう泣くのはやめた。このままずっと泣いているわけにはいかないという、一区切りでもできたのだろうか。その後は、涙を一摘も顔に残さないためにひんやりと冷たい水で洗いまくった。メイクが崩れようがそれで構わなかった。私は結局どうすればいいのか。問題がここにきて重くのしかかってくるなんて思わなかった。

「私って一体さ、何がしたいんだろう。誰か教えてよ……」
 
 私が部屋に戻ると、気を使ってくれたのか、あえて「大丈夫?」や「どうかしたの?」と聞いてくることはなかった。その日記帳には、どのようなこのが記録されているのか。私にヒントになるようなことが書かれているのか。他人の日記帳なのにそう考えてしまう。ただ、2人はこの日記から、何か重要な情報を見つけられたようで「知らなかった」と口にしていた。

 偶然、日記の中に挟まっていた紙が、窓が開いていたせいもあってか私のところへ飛んでくる。その紙の一部分に私は目が行く

 ――自分に素直になれ。そうして僕は変わったんだ

 と。私はその言葉を見て自分に置き換えらずにはいられなかった。

「あのさ、迅くん。はっきり物を言ってるのって、自分を守るためだけ?」
 
 思わず、考えなしに口にしてしまった。慌てて「あ、ごめん、答えたくなかったら答えなくてもいいよ」と補足する。そして、ほぼ同時に、飛んできた紙を迅くんに返した。

「確かに、最初は自分を守るためだと思ったけど、大きくなった今になって思うと違うかもね。例えばさ、ここに来るのもさ、実は、お――いや、お父さんに止められてたんだ。もう高校生とはいえ、僕のいじめられた過去を知っている人だからね、心配しちゃうんだよ。でもさ、僕はどうしてもここに来たかった。過去を見つけて、未来を作りたかった。だから、お父さんと初めて言い合いになったけど、何とか認めてもらって、お金を貯めてここに来た。つまりさ、何が言いたいのかっていうと――自分が本当にしたいことを我慢しないためだって今では思うよ」

 迅くんは、まっすぐ私の目を見て言った。

「我慢……しないか」

「もちろん時には必要かもしれない。でもさ、我慢ばかりの人生は楽しくないんじゃないかな? 雫はその点においては僕と真逆かとから、あえて言うよ。1週間一緒に過ごして、君に何もあげられないのは嫌だからね。自分に嘘ついたり我慢したりしないでね。僕には具体的には何かわからないけど、たぶん、きっとそういうことがあるんじゃない?」

 迅くんからはすでに、この5日間で多くのものを知らないうちに貰っている。でも、この言葉がその中でも一番だと感じた

「明日、午後2時に少し話したいことがあるんだけど、いいかな。それが言えずにいる1つ。もう1つあるけど、それはお母さんとちゃんと向き合って話すから。どうか、見守ってほしい」

 そして、頭の中ではもう少し考えたいと思っているはずなのに、私の口はそんなことをお構いなしに、覚悟を決めたような口調で、迅くんにお願いをしていた。

「うん、いいよ。見守ってるし、僕との約束は分かった。それが何なのかは、鈍感な僕には全く分からないけど、とにかくちゃんと向き合うよ」