湯けむりの7日間

 


 昨日は、彼の夢を覗いて、それはどこか痛みを伴うほど鮮烈で、一日中、その夢の残像から逃れられなかった。

 朝、迅くんの顔を見て、ほっと息をつく。昨日ゆっくりと体を休めたおかげか、彼の調子はかなり良さそうだった。体調を崩す前の、あの澄み切った空のような清々しい顔に戻っていた。

 スマホのニュースアプリを開くと、吉報が飛び込んできた。崩落した橋の復旧に目処が立ち、ちょうど発生後から一週間後に孤立状態が解消されるという。つまり、この場所で過ごせるのは、今日を含めてあと3日の辛抱といったところだろう。今のところ負傷者等も出ておらず、この一件については大きな問題は起こらなそうだろう。この一件については――。

「迅くん、体調良くなってよかったよ」

「すっかり元気そうだね」

「昨日は2人ともありがとう。おかげ様ですっかり良くなりました」

「じゃあさ、今日は迅くんが2日前に会いたいって言ってた、カメラを持ってる大学生のところへ行こう! あと、昨日はインタビューゲーム、お預けになっちゃったから、今日こそはやるよ」

「そうだね。今日こそは! 大学生のその方ともぜひお会いしたい」

「私がさっき香澄と一緒に約束しておいたから。体調も良くなったみたいだし、まずは、お手伝いを頼んでもいいかな?」

「もちろん。昨日の分まで挽回させてよ」

 女将さんから今日の午前中に頼まれた仕事は、掃除と朝食の皿洗い。掃除には二人、皿洗いには一人欲しいとのことだった。香澄も迅くんも「どちらでもいい」と言うので、私が決めることになった。心の中では、香澄と迅くんを二人きりにするべきだとわかっていた。私が皿洗いを選べば、二人は掃除を通して心を通わせるだろう。そう思うのに、なぜかためらわれた。自分の心の底に渦巻く感情がなんなのか、私自身にもわからなかった。

「ありえないよね……」

「ん? どうした雫?」

「ああ、香澄ごめん、なんでもない。……じゃあ、香澄には皿洗いを頼んでもいいかな?」

「いいよ。じゃあ、雫と迅くんは掃除、頑張って」

「はい、了解」

 言ってしまった。決めていたこととは違う言葉が、私の口からこぼれ落ちてしまった。

 なぜ、迅くんと2人きりになりたいと思ってしまったのだろう。私は、認めたくはない。ただ、香澄は先に部屋を出てしまった。香澄も、迅くんもいいのだろうか――2人で時間を共有したいとか。

「迅くん、香澄との方がよかった?」

「えっ? いや、特にどっちでもいいけど。むしろちょうど……いや、なんでもない。さあ、行こう」

 仕舞には、私は迅くんにそんなことを聞いてしまった。私だけだろう、そんなに敏感になっているのは。何に期待しているのかわからないまま、私と迅くんは廊下などの宿泊者が共用して使う部分を中心に掃除をすることになった。無言で廊下を雑巾がけをしていく。普段なら何も気にならないこの静けさが、今日は妙に嫌だと感じた。廊下の汚れがだんだんと消えても、私の心の中の汚れはさらに増していくばかりだ。

 廊下の掃除が終わると、ロビーに移る。ロビーのテーブルを一枚一枚、丁寧に拭いていく。バケツの水を固く絞った雑巾が、いつもよりひんやりと冷たく感じられた。

「……あのさ、1つ聞きたいんだけど、手、触ってもいい?」

 半分ほど終わった時に、迅くんは不意にそう話しかけてくる。 

「えっ?」

 それもいきなり手を握りたいということで、私はなんと返してもいいのかわからずに、きょとんとしてしまう。

「あ、ごめん、変な意味じゃなくて! その、なんかいつもより表情が薄いから何かあったのかなと」

「そうかな……。私自身はどうしたいのか考えてたかな。そんな深い話じゃないからそんな心配しないで。よくあることだし」

 今、頭の中にあることはいくつかあるけれど、その中で一番を占めているのが迅くんのことだとは知られたくない。だからといって余計な心配をかけないためにも作り笑顔をする。

「そうなんだ。まあ、いいから、ちょっと僕の手、触ってみてくれない?」

 何を意図しているのかわからなかったが、私は言われるがままに一瞬だけ、迅くんの手に触れた。最初に出会ったときにも感じた、特別な感触がかすかにする。ただ、それが何なのかはわからなかった。

「昨日、久しぶりに昔の夢を見たんだ。雫が隣にいてくれた時には、この辺りに来た頃や高校時代の思い出。そして、夜にはそれより前のほろ苦い思い出。そこでいろいろ思い出しちゃったんだ。それは置いておいて、……僕さ、実は、人の感触でその人がどんな気持ちかわかるんだ。なんて、信じてくれないと思うけど」

 手を触れたいと言った際「変な意味じゃない」と否定した後に、それを遥かに上回るカミングアウト。私には喋れる余地などなく、ただ彼を見つめた。疑っているわけでも、馬鹿にしているわけでもない。実際に、私にだって人の夢を覗く能力があるのだから。

「へー、そうなんだ! それはすごいね」

 やっと絞り出した言葉は、棒読みだった。彼からすれば、小馬鹿にされていると感じても無理はない。だが、迅くんは嫌な顔一つせず、手を止めずに言葉を続けた。

「ごめん、また、少し触るね」

 私は「うん」と言った後に、小指辺りをちょんと触れた。

「これは、信じてくれてる? また1つ謎が解けたような、安心したような感じでしょ」

 そう、彼の言う通りだ。彼の謎を1つづつ潰していきたいと思っている私にとってはいい話だ。人に気持ちを知られるのはある意味怖いけれど、それを知らない方がよほどだ。

「最初、迅くんに触れた時、何か不思議な感触がしたから、心のどこかでなにか特別な力が――とか少し考えてたりしたから。それに――いや、これはまだ早いな。でも、私もいつか言いたいかも。それより、橋が崩落したことを1番に気づいたのも、この能力のおかげなの?」

 私は、自分の能力についても打ち明けようとしたが、このタイミングではないと思い、ここでは伏せた。ただ、彼と別れる前には少なくとも打ち明ける覚悟は心の中でできていた。それより、彼の能力について今は気になることがいくつかある。

「そうかも。僕の能力は基本は人の気持ちだけ。でも、あの時、外に出てこの土地を触れたら、ほんの少し悲しんでるように思えたんだ。だから、もしかしたらと思って……」

「そうなんだ。すごいね。じゃあ、今までわざとじゃなくても、触れちゃった人の気持ちは、わかってたの?」

「うん、そうなるね。特にさ、人の多いところに行くと、自然と触れちゃうじゃん? 見かけは楽しそうにしてるけど、本当はつらい気持ちの人。逆に、悲しそうにしてるけどなぜか嬉しそうな人。他にも、緊張、寂しさ、怖さ、驚き……そんなたくさんの感情を見てきたかな」

 昨日の迅くん夢を思い出す。最初は心細そうにしていた迅くんが、不意に香澄の手に触れた途端、安心したように表情を緩め、彼女を受け入れていた。もしかしたら、彼は過去の何らかの出来事で、人を信じることができなくなってしまったのかもしれない。でも、香澄だけは違った。だから、その大切な人に、もう一度会いたいと願ったのだろうか。

「……ねえ、迅くんってさ、香澄と――」

 私が「香澄と会ったことあるんだよね?」と言いかけたところで、まるでそれを言うのは今じゃないと誰かに言われたかのように、その言葉を遮られた。香澄が私たちの方へ早歩きで向かってきたのだ。

「お皿洗い終わったから、お手伝いに来たよ」

「ああ、ありがとう。じゃあ、テーブル、これで拭いてもらってもいい?」

「うん、いいよ」

 この状況では、さすがに迅くんに聞くことはできない。二人をつなぐ唯一の存在が私だとしても、事実を打ち明けるべきなのは、私ではなく彼だ。彼が話さないのであれば、私が口を出すなど論外だ。
 
 私と迅くんの間に、どこか今までに感じたことのない空気が漂ったまま、掃除を終えた。