お父さんの夢を覗いたせいか、私はその晩、何度も目が覚めてしまった。将来のことで頭の中が支配され、落ち着いて眠ることができなかった。頭の中で何度もシミュレーションをしてしまうのだ。
朝、目を覚ますと、部屋の空気がいつもと違うことに気づいた。妙に重たく、静まり返っている。その原因をたどるようにあたりを見回す。外で大粒の雨が降っているからだろうか。私の耳にもその音が侵入する。ただ、それだけではない。隣で眠る迅くんの顔が、いつもより少し悪いように見えた。
「迅くん、体調悪いの?」
私の問いかけに、彼は少し辛そうな声で答える。
「ああ、そうみたい。2、3ヶ月に1回ぐらいのペースで訪れるんだよね。でも、人にうつるものじゃないから安心して。熱もないはず」
「でも念のため、体温計持ってくるね」
念のため熱を測ってみるが、彼の言う通り平熱だった。ただ、その肌はいつもより少し乾燥してかさつき、よく見ると小さな発疹が浮かんでいるようにも見える。しかし本人は「いつものことだから大丈夫」と繰り返すばかり。
普段とは違った環境で、それもこのような未曽有の状況に陥ったら体を壊してしまうのも無理はない。本人は大丈夫だと言うけれど、何も起こらないとも限らないし、このまま見過ごすわけにはいかない。女将さんも一通りの対応はできるとは思うが、さらなる適任者はいないだろうかと考えていると、とある人の顔が思い浮かんだ。この宿に泊まっている私たちの担任の先生だ。養護教諭ではないにせよ、高校の先生である以上、それなりの対応はできるはずだから、きっと力になってくれるはず。
「今からちょっと、人を呼んでくるね」
「うん、ありがとう」
「香澄はまだ寝てるか」
隣の香澄はまだ気持ちよさそうに眠っているようだったので、余計な心配をかけないためにも、私は一人で先生を呼びに行った。
先生はすでに起きており、事情を説明すると、すぐに駆けつけてくれた。先生は迅くんの顔色や症状をざっと見て、簡単なチェックをする。小さい頃は養護教諭になりたかったらしく、普通の先生よりは知識が蓄えられているようだ。迅くんの様子から、安静にしていれば大丈夫だろうとのことだった。
食欲はありそうだったので、先生からの「こういうときは消化に良いおかゆやスープ、ゼリーなどがいいと思う」という提案で私はこのような料理を作ってほしいとお母さんにお願いした。
次に先生は迅くんに、室温について尋ねる。
「寒かったり暑かったりしない?」
「少し寒い……です」
そのことを聞いて、布団がきちんとかかっていない状態で寝ている香澄にも配慮して、エアコンの温度を1度下げた後、迅くんに追加で掛け布団をかけた。
「明るくない?」
「少し、明るく感じます」
更に、明るさについても尋ね、少し明るく感じるかもということで、外からの明るさはないに等しいものの、カーテンを閉めた。
私には到底真似できそうもないそのテキパキとした行動に、流石先生だと感心してしまう。
ようやく香澄も目を覚ますが、寝起きとは思えないほど頭の回転が早く、私たちの話を聞いてすぐに状況を把握した。そして迅くんに対し、「大丈夫?」と何度も声をかけるなど、かなり心配しているようだった。やっぱり、香澄は迅くんのことを――そして、その恋はだんだんと花開いているのだろうか。確証は私の感覚の他にはないけれど、お似合いだなと思う。ただ、なぜか心にはモヤモヤが募っていく。それに、なぜかこのモヤモヤが時間を追うごとに大きくなっていくは理由なんなのだろうか。
あと3日ほどある。それに、連絡先も交換したことだし、迅くんと香澄の距離は確実に近くなるだろう。それは望んでいることのはずなのに、心の奥底に別のタネが蒔かれているような気がした。ただ一つ確かなのは、その悩みのタネが「先を越される」ということではない。
「失礼いたします。迅くん、大丈夫? あら、先生。日頃から雫がお世話になっております」
ノックの後、今度はお母さんが部屋に入ってくる。その手には、私がさっきお願いしたおかゆを持っていた。先生に気づいたお母さんは軽く挨拶を交わし、迅くんの元へおかゆを運んでいった。
「迅くん、無理して食べる必要はないけど、お腹空いてるようだったら食べてね」
「すみません、こんな事態のときに……。おかゆ、ありがたくいただきます」
「ごゆっくりね。何かあったらいつでも呼んでちょうだい」
「じゃあ、私ももうそろそろ失礼するね。部屋にはいるからね。迅くん、無理しないで、眠れるときに寝ちゃった方が楽になると思うよ」
「女将さん、先生、本当にありがとうございました」
お母さんと先生はそう言って部屋を出ていく。体調は悪そうだが、特に大きな変化はなさそうだし、よくあることということで、過度に心配する必要もないだろうと、香澄もお母さんの手伝いに回った。
こうして、この部屋には必然的に私と迅くんだけが残された。3日間で距離は縮まってきたとはいえ、2人きりになると私はまだ慣れない。誰かが近くにいてほしいと思ってしまう。しかし、こんな状況でここを抜け出すのは、流石に無責任だ。私にはそんなことはできない。迅くんの隣にいるだけでいい、と気持ちを切り替えて、私は無言のまま隣に座った。
迅くんは体を起こそうとするが、倦怠感がひどいようで、重心が定まらずフラフラしている。おかゆをスプーンで食べようとするが、大変そうだった。そんな彼の姿を見て、私は幼い頃のお母さんを思い出す。そして、私は口走って変なことを言ってしまう。
「食べさせてあげようか?」
と。流石にこれには、自爆するしか方法はなかった。慌てて口を抑える。そんなことを言うつもりはなかったのだ。普段は箸の持ち方や食事マナーに厳しかったお母さんが、風邪のときだけは人が変わったように、おかまいなしに私に食べさせてくれたことを思い出して、つい口にしてしまった。迅くんから返ってくる言葉は、大体想像がつく。きっと「僕のこと、舐めてるの?」という辛口なコメントか、「僕のこと好きなの?」とからかうコメントかの二択だろう。
しかし、私の予想とはまるで違う言葉が返ってきた。
「その方が楽だし、やってくれるならお願いしようかな」
「えっ、今のは……」
「ん? どうした」
「いや、なんでもない」
ここまで素直な返事がくるとは思わなかった。私から言ってしまった以上、もう後には引けない。でも、同い年の男の子にご飯を食べさせるなんて、恥ずかしすぎる。しかし、こんな状態の彼に「冗談です」とはとてもじゃないけど言えない。
ただ、どうして迅くんは嫌がらないのだろう。そこまでして自分で食べるのが辛いのだろうか。私が食べさせる状況は確定だとしても、香澄じゃなくていいのだろうか。もし、香澄に見られたら、どう思うだろう。親密な関係を象徴するこの行為を。
私は確定した事実から逃げることなく、「ふーふー」と息を吹きかけたおかゆを迅くんの口へと運んだ。もしかしたら、迅くんはこれも若女将としての「おもてなし」としか捉えていないのかもしれない。ただ、私はそんな軽いものだとは思えない。私は元気なはずなのに、スプーンが小刻みに揺れている。その振動で、米粒が一粒畳に落ちた。何やってるんだろう、私。
「あの、これ、はず……」
「ん? はず?」
「いや、おかゆ、美味しい?」
「たぶん今、他のなにかを言いかけたでしょ。まあいいや、美味しい。食べさせてくれてありがとう」
当たりだ。恥ずかしくないか聞こうとした。ただ、それだけ私だけ意識しているようで余計に恥ずかしい。私は顔から火が出そうになりながらも、おかゆを迅くんの口へと運んだ。迅くんの食欲は止まらず、気づけばほとんどおかゆはこの器の中から消えていた。気のせいだろうか、この中に魔法の粉でも入れられていたかのように迅くんの顔がしおれた花から、だんだんと咲き誇る前の状態になっていることは。よく見てみると、このおかゆには体を芯まで温める生姜のすりおろされたものが入っているようだった。
先ほどから温泉のように湧く、おかゆからの湯気を受けて私のお腹も「ぐー」と鳴ってしまう。どうやら、それを迅くんには聞かれてしまっていたようで、私は急に体の中から湯気が沸き上がるような感覚がした。迅くんが冗談交じりで「食べる?」と聞いてきたが、流石に迅くんのを食べるわけにはいかないし、それをしたら間接キスをしたことになる。男の子との間接キスはまだしたくないし、する相手がいるものだ。私は「あとでシュークリーム食べるから、今はいいよ」といって断った。
残り1口になるところで「これぐらいなら自分で食べるよ」と言われたので、おかゆの入った器にスプーンを入れて渡した。おかゆの効果はあったようで触れた手は、春の木漏れ日を感じさせるようだった。
「君、たぶん、いやほほ確実に――恥ずかしかったでしょ?」
「いや、そんなことは――!」
「強がらなくてもいいのに」
確かに、胸の奥で「やめて、やめて」と赤信号が点滅している気分であったことは事実だ。ただ、だんだんと、これが当たり前なんじゃないかと思うほどにまでなっていた。迅くんの言っていたことは半分正解だけど、半分は不正解だ。そこまでは見抜けなかったか。
「でも、最後の方は、慣れてきた。でしょ?」
にやりとした顔で私に正解だと言ってほしいかのように見つめてくる。訂正しよう、正解だ。しかし、人の心を読めないことを考えるとここで嘘をついてもばれない。ただ、そのような雰囲気ではなかったので、迅くんに聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で「正解」といった。
すると、また迅くんはにっやりとする。なんだか悔しくて、迅くんの顔を見ず、外を見ていたが、振り返った時には、もう寝ていた。



