湯けむりの7日間

 
 振動だけするよう設定しておいたタイマーで目が覚めた。時刻はすでに深夜3時過ぎ。流石にこの時間は、お父さんは隣の9号室でぐっすり眠っているはずだ。

 軋む木の音で誰にも気づかれないように隣の部屋へと向かう。たどり着くと、事前に用意していた鍵を使ってドアをゆっくりと開ける。身内だから許されるが、普通なら完全に不審者だ。お父さんの布団は部屋の中央にある。そこにそっと近づく。どんな夢を見ているか確証はない。指先が冷たくなるのを感じた。
 
 ――ドクドク、ドクドク。

 しかし、もしかしたら、ちょうどそんな夢を見ているのでは――そう考えたときには、もうお父さんの寝顔をはっきりと見ていた。そう、私はお父さんが私をどう思っているかを知りたいと思ったのだ。お母さんの考えはおおよそ見当がつく。だが、お父さんは私を応援してくれるのだろうか。それとも、お母さんと同じなのだろうか。

 もちろん、夢を覗くことは良くないことだと分かっている。リスクもある。それでも私はヒントが欲しいのだ。

 夢の中に今日も私は潜り込む――。

『ねえ、雫、将来なりたい職業とかあるのか?』

 お父さんが月末、お母さんからもらったお小遣いを握りしめて私を食べ放題の焼肉屋に連れてきてくれたようだった。私はカルビなどの牛を焼きながらも、シュークルームやアイスクリームなどを頬張る。2人では話す機会が少ない私とお父さんの会話は話が弾むわけもないようで、お父さんがしたこの質問も、タジタジしていた。

『……私がなりたい職業? 私、正直に言えば、××になりたいかな』

『そうか。××か』

 ××の部分はなぜか、私には聞こえなかった。いや、聞こえなかったのではなく、お父さんはあのことに気づいていながらも、具体的には何になりたいのかまでは知らないから、夢の中ではこのような伏せられた形になったのだろうか。私が「正直」という言葉を使ったのは、お父さんなら私のことを受け止めてくれると思ったからなんだろう。普段は直球ボールを投げない私でも、投げれる人は少なからずいる。2人きりで話すことは少ないが、決して居心地が悪いと私は感じることはない。でも、流石のお父さんも、私の答えは想像できていたとは思うけれど、複雑な顔をしている。無理もない、と私は思った。

『自分のやりたいことを見つけられることは幸せなことだと思う。でも、お母さんが賛成してくれるかは別問題だな。ただ、お父さんは反対はしない。味方という言葉が正しいのかわからないけれど、雫の力になりたい』

『そうだよね。お母さんは反対するよね。だって、150年も200年も続けたいと思うだろうし』

 大好きだったシュークリームを食べる手が止まる。夢の中の私は、大好きなものを口にするのも忘れるほど悩んでいる。何を選べば正解なのか。すべてを手に入れるなんて、欲張りすぎだ。何かを選べば、何かは犠牲になる。もうすぐ大人になる私にだって、それぐらいのことは百も承知だ。

『最悪の場合、お母さんはもう私を娘として見てくれないかもしれないかな?』

 私はお父さんへ質問を投げかけたのではなく、おそらく独り言を漏らしてしまったのだろう。しかし、お父さんが娘の不安を無視をするはずもなく、その言葉をしっかりと拾ったようだった。

『確かに、お母さんの旅館を思う思いは、この世界で一番強いと思う。反対はするかもしれない。でも、お父さんはきっと、すぐにではなかったり衝突はあるかもしれないけれど、いつかは理解してくれる日は来ると思うよ。娘を大切にできない人に女将は務まらない。それに、娘を大切にできない人とお父さんは結婚しない』

『そうだね。でも、まだ時間はあるしもう少し考えてみるよ。時間は有限ではないけど、私にある選択肢は無限だと思うから』

『そうか、ただ、自分にとって一番は何か、それだけは他人に何を言われようが見失うなよ。自分の人生について、他人のことを考えて決められるのはいいことだ。でも、自分のことを一番に考えられないのは、自分にとっても他人にとっても本当に幸せか? お父さんはそう思うんだ』

『そうだね、お父さんありがとう』

『せっかく二人なんだ。今日はたくさん食べよう。ほら、このタンもちょうどいい頃だぞ。お父さんも久しぶりにビールでも飲んじゃおうかな』

『じゃあ、私も、たくさん食べよう』

 お父さんとの真剣な話を終えると私は肉だけを見た。「ジュウジュウ」と音を立てて網の上で焼ける肉。煙が立ち込め、焼肉のタレの甘い匂いが食欲をそそる。さっきのできごとは幻だったかのように、網の上で焼けたタンを二人で分け合う。

 ――? ん? なぜかここで夢が途切れてしまった。確かに、区切りの場面としてはちょうどいい。でも、どうして? まだ、起きていないはずじゃ――? 

「えっ、なんで、起きた?」

 そう思っていたが、お父さんはトイレのようで、そのために起きてしまったようだ。ただ、寝ぼけているのか、暗いので気づかなかったのかはわからないが、私に気づく素振りは微塵もなかった。ただ、私はこの一件でこれはかなりサバイバルなことだと知ったため、今日はこれ以上お父さんの夢を覗くのはやめることにして、お父さんがトイレの後、眠りについてから数分後、私は音を立てずに部屋を出て、自分の部屋へと戻った。

 ただ、一つ確信したことがある。父は私の味方だ。もちろん、夢の中と現実が同じとは限らない。それでも、きっと父なら私のどんな気持ちだって受け止めてくれるはずだ。怪しいのは、やはりお母さんだろう。祖父母は「子孫たちの選択に任せる」と言っているし、兄は父譲りの性格だから、私の話を聞けばきっと同じように考えているに違いない。