「いらっしゃいませ」

 誰もいない部屋で、磨き上げられた鏡に向かって微笑む。今日も、まずは笑顔の確認から。この声が、私を若女将に変える合図。その一言に、覚悟と誇りが静かに込められている。

 代々受け継がれてきたこの小さな旅館で若女将を務め、はや数年。その間に、何度この言葉を口にし、どれだけのお客様を迎えてきただろうか。

 蝉の声すら途絶えるほどうだるような暑さとなった夏休み初日。全10室の客室はほぼ満室で、小さくも活気に満ちていた。老夫婦、一人旅の男性、賑やかな三世代家族……様々なお客様を迎える中、私はどうしても一人、気になる方がいた。

「予約していた、山竿(やまさお)ですが……」

 昼下がりの熱気が最高潮を迎える頃、日差しを遮る大きな暖簾が、風に揺れてさらりと音を立てる。その直後、スーツケースを引くゴロゴロという音を響かせながら、一人の青年が受付にやってきた。まだ幼さが残るような声で、私に声をかける。

「はい、山竿様ですね。お待ちしておりました。お部屋は10号室でございます」

「……でも、やはり、少し怪しいですよね。高校生1人で宿泊なんて」

「確かに、当旅館に高校生のお客様が一人でいらっしゃるのは初めてです。ですが、保護者様からの同意書もいただいておりますので、問題はありません。どうぞ、心ゆくまでごゆっくりとお過ごしくださいませ」

「はい、ありがとうございます」

 そう、高校生のお客様が一人で泊まりにきたのだ。それも、予約表で年齢を確認すると、どうやら私と同じ高校2年生だということが分かった。
 
 高校生の一人旅は、今どき珍しくはない。それでも、この温泉街にはビジネスホテルもあるし、若者向けの、もっと気軽な宿だってある。それなのに、宿泊サイトにも載っていない、こんな古めかしい小宿を、わざわざ選んでくれた理由が、正直、少し気になっていた。

(しずく)、少し休みなさい」

「はい、お母――いや、女将さん」

 仕事がひと段落すると、実の母である女将さんから休憩の合図が入った。私は母を「お母さん」とは呼べず、場所を問わずいつも「女将さん」と呼んでしまうのは、宿の顔としての姿が強く焼きついているからだろう。

 周りを片付けてから休憩室へ向かう。そこには、長期休み期間の休みだけ手伝いに来てくれている、同じ学校に通っている親友の香澄(かすみ)がいた。彼女は数年前からこの旅館を手伝ってくれているので、もうこの旅館の一員といってもいい。お母さんも絶大な信頼を寄せている。

「寝てるし……」

 そんな、香澄は休憩時間に宿題をやっていたようで、読解問題を読んで飽きてしまったのか、うとうとと眠っていた。私と同じ歳の女子高生のはずなのに、無防備に眠るその顔は、私より何倍もあどけなくて可愛らしい。彼女の柔らかく穏やかな表情を見ていると、ずるいなとさえ思ってしまう。

 思わず、そんな彼女の寝顔を覗き込むように、私は香澄の顔に体を近づけてしまう。

 ――だめだ、寝ている人をじっと見てはいけない。

 そう思った時にはもう手遅れだった。私の瞳は、彼女の寝顔をはっきりと捉えてしまったのだ。そして、私の瞳にはとあるものが映ってしまう――。



『私は自由だー、鳥のように空を飛べるんだから!』

 雲一つない透き通るような青空で、まるで解き放たれたかのように、香澄が清々しい顔で羽ばたいている。海の近くで急降下し、波しぶきを浴びる。そして、ギラギラと輝く太陽を見てから、もう一度波しぶきを浴びる。しばらくすると、速度を上げながら街の方へと羽ばたいていく。途中ですれ違った鳥たちと挨拶を交わしながら、街の中心地まで来ると、やがて地上に降り立った。

『いけー! 負けるなー!』 

 ショッピングモールの屋上だろうか。たくさんの子供たちが、悪役と戦うヒーローに必死の応援を送っている。ヒーローが敵からの攻撃を受け、負けそうになると、その応援の声は、さらに大きくなっていく。その中に、ひときわ大きな体躯を持つ香澄の姿があった。彼女も周りの子たちに負けないくらい、腹の底から声を張り上げていた。その声援を頼りに、ヒーロー必殺技のビームで敵に一撃をお見舞いし、無事に勝利すると、近くの子供たちとともに、ハイタッチをする。

 いつの間にか時間が夜に変わっており、月明かりが輝く。淡い桃色の花柄の浴衣を着て、夏の涼風を浴びながら少し恥ずかしそうに歩く香澄。どうやらここは夏祭りのようだ。彼女の手は、大きな手に包み込まれている。モザイクがかかっていて顔は見えないが、きっと大きな手の正体は「恋人」というやつなんだろう。

『ねえ、チョコバナナ買ってよ!』

 香澄は、その彼の目を見つめながら、無邪気におねだりする。男の人は、照れくさそうにしながらも一本、チョコバナナを買ってくれた。そのチョコバナナを2人で交互に食べながら――間接キスをしながら、花火が一番きれいに見える丘まで歩いていく。

 打ちあがった大輪の花火に、香澄は隣の彼の瞳を覗き込む。そこに映る花火を眺めているのだろう。

『君の瞳を見ると、花火も見えるし、君の顔も見れる。一石二鳥だね!』

 そんなうまいことを言いながら、彼を自然と笑顔にさせる。

『ねえ、花火と私、どっちがきれい?』

 そして、お決まりのような質問を口にする。でも、私はその言葉にドキッとせずにはいられなかった。

 ――この男の人は誰? 私の知っている人? 知らない人?

 そして、香澄は、この男の人をもう決めてるの? まだ決めていないの?

 ――ねえ。



 その答えを聞く前に、香澄は眠りから覚めた。私もそれと同時に現実に引き戻される。先ほどまで見えていた不思議な世界も、まるで幻のようにあっという間に消えてしまう。

「……おお、雫か。お疲れさん! なんか今、いい夢を見た気がする」

 私の瞳に映っていたものは、香澄の見ていた夢。

 ――そう、私は、寝ている人の顔を近くで3秒以上見てしまうと、その人の夢を見ることができてしまうのだ。

 どのような原理なのかはわからないけれど、初めて気付いたのは、たしか、小学生ぐらいの時だった。そんな能力、いいな! うらやましい!  と思う人がいるかもしれないけれど、この能力とやらは案外厄介だ。それに、その人の秘密の一部でもある夢を見るなんて、決していい気持ちにはならない。相手の深層心理が夢となって現れることもあり、私が過去に片思いをしていた少し仲が良かった男の子が、実は私を嫌っていた、なんて夢を見てしまったこともある。

 香澄の今見ていた夢は、きっと彼女の理想の世界なんだろう。鳥のように空を飛び、戦隊ヒーローショーに夢中になり、恋人と夏祭りを楽しむ。他人の理想に口出しするつもりはないけれど、なんだか少し、子供っぽい。

 そして、少しだけ安堵した。いや、そういう表現が正しいかはわからない。でも、香澄にもまだ本当に大切な人を見つけられていなくて、まだ私も出遅れていないんだ、焦る必要はないんだと感じてしまう。でも、きっと香澄は何度も告白されているから、そこには少し嫉妬してしまう。

「……おっ、おはよう」

 香澄はぼんやりと目を開け、目をこする。私も起きた香澄に挨拶をする。

「ん? どうしたの? そんなに眉間にシワ寄せちゃって。まさか、私のどこかを覗いてた?」

 「どこ」とは言わなかった。でも、もしかして、私の能力を知っている? 香澄は細められた目で、私をじっと見つめてくる。私は必死に首を振った。すると、香澄は堪えきれなくなったように噴き出して「冗談だよ」と笑った。どうやら、本当に知っているわけではなかったようで、そっと胸をなでおろした。 

 彼女はスマホを手に持つと、SNSを確認し始めた。ちらりと見えたのは、流行りのカフェや、海ではしゃいでいる人の写真。それにいいねをする。

「それはそうと、香澄、今年も手伝いに来てくれてありがとう!」

「まあね、雫には宿題手伝ってくれたり、日頃からお世話になってますし。休み期間ぐらいは手伝わさせてよ。……ていうか、今年でこの旅館100年だっけ?」

「……ああ、そうかも。今年でちょうど100年か……。お母さんで4代目だから、もうそんなに経つんだ」

 香澄にそう言われ、私ははっと我に返る。休憩室の壁には、歴代の女将さんの写真が飾られている。3代目がおばあちゃんで、今、つまり4代目の女将さんはお母さん。でも、1、2代目の女将さんとは会ったことがない。2代目の女将さんは長生きしたようだったけれど、私が生まれた日に、まるで生命が入れ替わるようにして安らかに天国に行ったと聞いている。だけど、飾られている色褪せた白黒写真の中に納まる2人の顔立ちは、どこかおばあちゃんやお母さんとよく似ていて、不思議と愛おしさがこみ上げてくる。

 そして、次は私が5代目の女将さん――そうなるんだろうか。

 私は、まだその実感が少しも沸いていないし、果たしてそうなりたいかと問われると、少し戸惑ってしまう。もちろん、この旅館は私の宝物だ。そして、今後も続いてほしい気持ちがあるのは、紛れもない事実だ。ただ、どこか重い。

「100年ってことは、この街も大きく変わったんだろうね」

「うん、そうだね。昔はもっと旅館が立ち並んでいたらしいよ。それに、数年前までは、うちの隣にうちと同じぐらいの旅館があったけど、お客さんが減って、女将さんたちは都会に出て行っちゃったしね」

 そう、かつてはこのあたりの温泉街は、活気に満ち溢れていたという。お母さんやおばあちゃんの話によると、下駄の音が石畳に響き、湯治客の朗らかな話し声が絶えることはなかったそうだ。その賑わいを想像するたびに、胸が締めつけられるような切なさを感じる。

「それなのに、この旅館が今でも賑わっているのは、このかわいい若女将さんがいるからじゃない?」

 香澄は私をからかうようにしながら、肩をツンツンと突つく。「冗談やめてよ」と言おうとしたけれど、先に「冗談じゃないからね」と言われてしまい、私はそれをなぜか否定することができなかった。なので、代わりに「香澄の方が断然可愛いよ」と言って、香澄の頭を我が子のように撫でることでお返しした。すると、香澄は顔をほんのりと赤くする。どうやら、この勝負は私の勝ちのようだ。

「そういえば、今日まだチェックインされてないお客様いる?」

 香澄は、都合が悪くなったのか、急に話をそらす。私が持っていたお客様情報の紙を奪うように手に取る。

「今日はあと1人だけかな。他のお客様は全員おいらっしゃたよ」

「……んー。名前だけ見ても、わからないな。この中に常連さんとかいるの?」

「あ、この人は、去年の夏休みに泊まりに来てたね。この人も前に……」

「そうなんだ。私もいたはずなのに、全然覚えてないや。私、そういうの苦手だし。でも、やっぱっ、常連さんにも愛されてるんだなー」

 今日宿泊してくださる大半の方が、何回かお泊りになっている方ばかりだ。半年に1回のペースで泊ってくださる老夫婦のお客様は、私のことを小さい頃から親しげに「雫ちゃん」と呼んでくださって、新年にお泊りになった際には「お友達とこれでも使って遊びな」と言ってお年玉をくれたっけ。そして一人旅が好きな大学生のお客様は、去年の夏に初めてこの旅館にお泊りになってくださって、私の仕事がひと段落した際に、今まで1人旅で訪れたたくさんの場所の写真を見せてくれた。こうした心の通うやりとりは、大きな旅館ではなかなか生まれない。家族経営の小さな旅館だからこその、温かなつながりだ。

「ん? この雨野(あめの)様って、もしかして……私たちの担任の先生!?」

 リストの中に香澄がひときわ見慣れた名前を見つけると、香澄の目が突然きらりと輝く。もう一度確認するように紙を見つめた後、私にそう尋ねた。

「うん、そう。こっちに用事があるらしくて、せっかくだからということで、うちの旅館に泊まっていくことになったの」

「そうなんだ! 知らなかった。これはおもてなし、頑張らないとだね!」 

 今日のお客様の中には、私たちの学校の担任の先生でもある雨野先生もお泊りになってくださる予定だ。

「うん。私の苦手だった古文の授業が、この先生のおかげで克服できたから、私もひそかに憧れているんだよね」

「確かに、この先生になってから古文のテスト、雫は急に点数高くなったもんね」

 だからこそ、少しでもいい姿を見せようとかなり張り切っている。なので、威勢よく「頑張ろう」という言葉で反応した。

 ――プルル、プルル。

 私がこれから当分の間は休憩に入るため、着物を脱ごうとした瞬間、どこからか音が響きだした。どうやら、受付の電話が鳴っているようだ。受付には誰もいなかったので、私は急いで電話を取る。

「お電話ありがとうございます。こちら、受付でございます」

 急いで電話に出たため、呼吸が少し乱れていたが、すぐに整え「電話であっても笑顔を忘れず」という母からの教えを胸に、電話に応じる。

『あの、10号室の山竿ですが、ミニタオルをどこかにやってしまったようで、追加でもらうことはできますか?』

「はい、山竿様ですね。ミニタオルの追加、かしこまりました。すぐにお部屋までお持ちいたしますので、少々お待ちくださいませ」

 要件を確認すると、静かに電話を切った。それから、休憩室に戻り、籠からミニタオルを2枚取る。

「雫、どうしたの? 何の要件だった?」

「ああ、10号室のお客様がミニタオルが欲しいらしくて。今から持っていくね」

「休憩あと少しで終わるし、私がいくよ! ……あっ、でも、着物脱いじゃってるから、雫の方がいいか。じゃあ、その分、雫の休憩時間、長くしなよ。その間は私がやるから」

「ありがとう! じゃあ、少し行ってくるね」

 私は、いつどこでお客様とすれ違っても失礼のないように、そっと廊下を歩く。廊下に足を置くたび、畳の香りと微かにきしむ音が耳に届く。途中、5つ上のお兄ちゃんとすれ違ったけれど、どうやら夕食の準備をしているようだった。ほんのりと漏れ出す香りから、今日のお客様たちの夕食はおそらく魚料理がメインになりそうだな、なんていう予想をしながら、10号室の目の前まで来た。10号室までの道のりは、なぜだかいつもより長く感じられた。

 何度やっても、この瞬間が一番緊張するあの瞬間がくる。そう、お客様の部屋のチャイムを鳴らす瞬間が。

 深呼吸をしてから、10号室のお客様のインターフォンを鳴らす。数秒後、扉の奥から山竿様が申し訳なさそうに顔を覗かせる。私は、一瞬笑顔を忘れていたが、すぐに思い出して笑顔を作る。

「ミニタオル、お持ちいたしました」

「わざわざすみません、ありがとうございます。あと、本当に申し訳ないのですが……エアコンの調節の仕方がいまいちわからなくて、お願いできますか?」

 その困ったような、少しだけ恥ずかしそうな表情に、思わず笑みがこぼれそうになった。そしてこの人、天然だなと思いつつも、1人1人のお客様に満足していただけるサービスを目指すためにも、心よく引き受けた。「失礼します」と小さな声で言って、部屋に足を踏み入れる。

 山竿様は、何の目的をもってこの旅館に泊まりに来たのだろうという興味を抑えられず、よくないなと思いつつも、多少は目を左右に動かしてしまう。ただ、部屋にはスーツケースが広げられていて、テーブルには一冊の使い古されたノートや筆ペンようなものがあるだけで、なにかヒントになるようなものがありそうな雰囲気ではない。かといって、初めて来たお客様にそういうことを聞くのは失礼にあたるだろう。そんなことを考えていると、ふと彼の視線を感じた。そういえば、隣の9号室は一人部屋で、今日分は空いていたはずなのに、なぜわざわざ2人まで泊まれるこの部屋を選んだのだろうか。謎は深まるばかりだ。

「えっとですね、エアコンはこのボタンを押すと、温度を下げることができて、こちらを押すと温度を上げることができます。そして、こちらのボタンを押すと、風量を変えることができます」

 エアコンの調節の仕方を一通り教えると、彼はすぐに納得したような様子をみせ、早速エアコンの温度を1度ほど上げ、風量を弱めた。私にはちょうどよく感じたが、お客様には少し寒かったのかもしれない。風量が弱まったことで、窓の外から聞こえてくる風鈴の涼やかな音が、わずかに、でもはっきりと聞こえるようになった。

 私がミニタオルも置き、帰ろうとしたところで、お客様からふと声をかけられた。私は、その言葉を聞いて足を止めた。

「あの、失礼だったらすみません。若女将さんって高校生だったりします?」

 唐突な言葉に一瞬、私のどこかが狂ったが、迷うことなく言葉を拾う。

「……はい、山竿様と同じ、高校2年生です」

「やっぱり、同じ年代だと思ってたんです。2泊だけですが、よろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 私は、お客様の言葉から――いや、これから心の中では彼と呼ぼう――何か、きっかけを求めてこの旅館に来たのではないかと思った。彼は、私と似ていて少し天然な部分があるのかもしれない。でも、私は彼とは違っていて困ったときにも人の手を借りることができない、はっきりとものをいえない。そんな彼に、私も小さなきっかけをもらえるんじゃないか、そんなことを思うと少し誇らしさが芽生えてきた。

 ただ、それと同時にこうも思ってしまう。

 ――正直、少しだけ彼が苦手だな、と心の中で思った。

 はっきりとものが言える私とはかけ離れている性格。そして、謎が多いところ。でも、彼はあくまでお客様。それ以上の関係ではない。だから、その気持ちはそっと胸にしまっておかなくてはならない。