グラスが空く音が、少しだけ遠くで響いた。
 誰かの笑い声。ジョッキを置く音。乾杯の輪の真ん中で、私はただ、笑っているふりをしていた。
 送別会──だったはずだ。四年の卒業を祝う、サークルの最後の飲み会。
 部長も来ていた。ずっと、好きだった。誰にも言ってないけど、たぶんバレてたと思う。
 そして今日、ちゃんと振られた。やんわり、丁寧に、『後輩としてしか見られない』って。
 その優しさが、やけに寒かった。

 「榊さーん、次いきます?」

 隣で後輩がピッチャーを持っていた。見たことある顔だけど、名前が出てこない。

「……あ、ごめん。もう、ウーロンで」

 笑って誤魔化したけど、声が少しだけ掠れていた。

 誰かがグラスを重ねる音。テーブルに水滴が落ちるのを、ぼんやり眺める。
  終電、そろそろじゃない?──そんな声が聞こえて、私はやっと立ち上がった。上着を掴む手に、ちょっとだけ力が入った。
 帰る意味も、帰る場所も、よくわかんなくなってたけど。



 駅前の時計が、0時15分を指していた。
 人はまばらで、風が頬を撫でていく。春なのに、夜はまだ冷たい。
 スマホの画面に「最終電車:終着済み」の文字が浮かんで、私はちいさくため息をついた。
 ……やっちゃった。
 タクシー……高いよな。ネカフェ、このへんにあったっけ。
 足だけが、なんとなく歩き出す。
 そのとき。

「──先輩?」

 不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。

 黒縁のメガネ、ゆるい髪型、パーカー姿。倉田悠翔くん──サークルの二年生の後輩。
 さっきの席でも、ちょっと離れたとこに座ってた気がする。

「……倉田くん?」
「っす。電車、もう終わってますよね」
「……うん。気づいたら、こんな時間だった」
「自分はここから歩き圏内なんで、電車使ってないっすよ」

 ああ、そうだった。
 彼はたしかこのへんに住んでるって、誰かが言ってた。
 それにしても──さっきまで、けっこう飲んでたよね? 生中にレモンサワー、あと日本酒も回ってたはず。
 それなのに、顔色ひとつ変えずに真っ直ぐ立ってるの、なんかズルい。

「これから、どうするんすか?」
「どうって、そりゃあ……寒いし……とりあえず、ネカフェとか……?」
「ネカフェ、女性一人で行くの、危なくないすか?」

 ……あんたが言う?
 思わずツッコミそうになって、飲み込んだ。

「……うち、来ます?」

 一瞬、何言ってんのって思った。
 でも、彼の目はふざけてなかった。

「変な意味じゃなくて。鍵も二個あるし、部屋、そんなに狭くないんで。あと、布団も──あ、それはなんか逆に変っすね……?」

 慌てて付け足すその姿に、ふっと力が抜けた。
 さっきまでの私なら、絶対断ってた。
 年下男子の家に、しかも夜に行くなんて。
 でも──今日は、ちょっとだけ、壊れてた。
 何も考えたくなかった。

「……じゃあ、少しだけ」

 自分でも、どうしてそう言ったのかわからなかった。
 ただ、その夜風だけは、やけに優しかった。



 エレベーターを降りてすぐの、真っ白なドアの前。
 部屋番号のプレートを見て、「本当に来ちゃったんだな」って、今さら思った。

「どーぞ。靴、そこに並べといてください」
「……お邪魔します」

 ぱたん、とドアが閉まった瞬間。空気が変わった。

 柔軟剤の匂い。ベッドに置かれたたたまれた洗濯物。散らかってるって言ってたのに、全然そんなことなかった。

「散らかってますけど、どうぞ。スリッパそこです」
「……ありがと」

 ちょっと緊張してるのがバレないように、声を落とした。
 玄関からすぐリビングで、ソファとベッドとローテーブル。あとは本棚と、ゲームのコントローラーがひとつ。
 物は少ないのに、なんだか居心地がいい。男の子の一人暮らし、ってもっと雑なイメージだったのに。

「お茶でいいですか? 麦茶、冷えてます」
「うん、それで」

 マグを手渡されたとき、彼の指先が一瞬だけ触れて、私はなぜか息を止めた。
 ……やばい。気のせいであってほしい。

「部屋着、貸しましょうか。パーカーとスウェットしかないですけど」
「あ、うん……助かる」
「シャワーも使っていいですよ」
「……は?」

 聞き返した声がちょっと裏返った。本人はまったく気にしてないらしく、さらにこう言った。

「レディファーストってやつです。だから、先どうぞ」
「いや、そういう意味で“レディファースト”使う!?」
「……あ、違いました?」

 心臓止まるかと思った。
 でも、彼の顔は真面目そのもので、変な下心とかは一切なかった。
 それが逆に困る。

「……じゃあ、借りる。服も、シャワーも」
「了解っす。タオルは洗面所の棚にあるんで、適当にどうぞ」
「わかった」
 
 タオルと着替えを抱えて脱衣所に向かう途中、彼がぼそっとつぶやく。

「ボディソープ、レモンのやつです」
「だからそういう情報いらないってば!」
「えっ、女子って香りとか好きかなって……」
「……うん、ありがとう。もう黙ってて」
 
 口ではそう言いながら、顔が熱くなるのを止められなかった。
 ──たぶん、自分の言動がどういう破壊力を持ってるか、この人は一生気づかない。
 浴室のドアを閉めて、私は深くため息をついた。

「……いや、これは試練だな。試されてる……絶対」

 タオルを棚に置きながら、部屋着をフックにかける。
 床のマットがふかふかで、それがまた現実っぽくて困る。
 シャワーの温度をひねった、そのとき──

「先輩〜、シャワーの温度、ぬるめ派ですか? 熱めなら右に──」
「今その情報!? ていうか、黙っててって言ったよね!」
「了解っす〜!」

 やっと静かになったと思ったら──

「……あ、あと、シャンプーは二種類あります。左が無香料、右が柑橘系っす」
「選ばせないで! 黙っててって言ったの、ほんとに忘れた!?」
「すみません……!」

 壁越しの声が、ちょっと笑ってるみたいで、くやしい。
 
「シャワーヘッドの角度、ちょっとクセあるんで──」
「もう喋るな!!」
 
 怒鳴ったあとで、思わず自分の口を押さえた。
 ……なにこの時間。なにこの人。
 ──ていうか。
 なんで私、後輩男子の家でシャワー浴びてるの?
 終電逃して、ネカフェも使えなくて、そしたらなんか当然みたいに誘導されて。
 で、なぜか今、シャワー浴びてる。
 この状況、説明できる自信ゼロなんだけど。
 なのに、彼の声に反応して、つい突っ込んでる私がいる。

「……ほんと、何してんの私」

 手のひらに落ちてくるお湯の温度だけが、少しだけ現実をくれた。
 でもそれも、すぐに湯気に変わって、天井へ逃げていった。

「……バカ……っ」

 シャワーの音にまぎれてつぶやいた言葉は、蒸気に溶けて消えた。



 髪をざっと乾かして、借りたTシャツに袖を通す。
 少しぶかぶかで、肩が落ちる。匂いは──柔軟剤。たぶん、いつも通りのやつ。
 リビングに戻ると、彼はソファの背にもたれてスマホをいじっていた。

「おかえりっす、先輩。似合ってます」
「……何が」
「そのTシャツ。先輩が着ると、なんか女子って感じっすね」
「女子です」
「そうでした!」

 こいつ、素で言ってるのがまた厄介なんだよな……。
 私はなるべく距離を取るように、ソファの端っこに腰を下ろす。
 クッション一個ぶん──いや、気持ちもう半個分遠ざけとこう。

「てか、先輩──まだ眠くないっすよね?」
「……まあ、多少は」
「じゃ、自分もシャワー浴びてきます。ちょっとさっぱりしたくて」
「ん。……どうぞ」

 そう言って彼はのそのそと立ち上がって──
 何の前触れもなく、Tシャツの裾を引っ張り上げた。

「ちょっ──待って待って待って!?!?」
「え、なにか?」
「ちょ、今わたし居るから!!」
「えっ……あ、でも自分、男っすよ?」
「知ってるけど! そういう問題じゃないの!!」

 ぽかんとした顔で、上半身裸のまま、こっちを見てる。
 ……いや、見るなよ。こっち見るな。
 ──って、ちょっと待って。
 なんでそんな引き締まってんの、あんた。
 腕とか、背中とか、線は細いくせに意外とちゃんと筋肉ついて、
 なんか……想像より、ずっと“男”だった。
 やめて、それ。無自覚に距離感バグらせるやつだから。
 
「女性って上半身見られると恥ずかしいらしいっすよね?」
「うん。今それ女性がここにいますけど!?」
「自分、男性なんで問題ないっすよね?」
「そういう理屈じゃないから!!」

 ああもう、限界──!
 私はクッションを全力でぶん投げた。
 彼の背中にヒットして、ぺしんと音が鳴る。

「いてっ」
「“いて”じゃない! Tシャツ着て!! はやくっ!」
「はいっすー……」

 布団を引っ張ってかぶり、全身を包み込む。
 なにこの夜。なにこの人。なにこの状況。
 ……ていうか。
 なにこのドキドキ。
 浴室のドアが閉まる音がして、静かになったリビング。
 でも、こっちの心臓の音だけは、どうしたって静まってくれなかった。


 
 私はそっとソファに腰を下ろして、視線を天井に向けた。

「……なにやってんだろ、私」

 終電を逃して、後輩男子の家に来て。
 シャワー借りて、Tシャツ借りて、距離感も何もあったもんじゃない。
 普段なら絶対にありえない状況のはずなのに──
 あのテンポで押し切られると、もう思考がついていけない。
 それでも彼が悪気ゼロなのは、分かってる。
 ただ……それが一番タチ悪いって、誰か教えてあげてほしい。
 ──と、ぼんやり考えていたとき。
 浴室の奥から、ぼそっと歌声が聞こえてきた。
 ♪「恋に落ちたことも 忘れかけた夜に──」♪
 ……え、歌ってる? シャワー中に?
 思わず背筋を伸ばす。
 それはなんの前触れもなく始まって、でも不思議なほど耳に馴染んだ。
 音程もリズムも、なんなら表現もちゃんとしてて──

「……なにげに、上手いんだけど……」

 無意識なのがまたずるい。
 あの子、歌とか歌わなさそうな顔してたくせに。
 しかも、歌詞。

 ♪「君がくれた言葉を まだ胸に隠してる──」♪

 ……失恋ソングなんですけど!?!?

「え、ちょっと待って。なに? それ、どういう選曲??」

 声には出さなかったけど、内心では全力でツッコんでた。
 しかも……ちょっと沁みてる自分が、いちばん面倒くさい。

「はあ……やっぱ私、今日バグってる」

 深夜の天井を見上げながら、
 私はソファに背を預けて、ゆっくりとまぶたを閉じた。
 浴室からの音だけが、やけに静かな部屋に響いていた。



 浴室のドアが開いて、湯気と一緒に彼が出てきた。

「ふぃ〜……さっぱりしたっすー」

 タオルで髪を拭きながら、Tシャツ姿でリビングに戻ってくる彼。
 私の視線が、思わずそっちに吸い寄せられた。
ああ、もう……普通に戻ってくるな。こっちはさっきまで混乱してたのに
 彼は何事もなかったように私の前に立ち止まり、
 ニッと笑いながら、ふいにこんなことを言った。

「風呂上がりの2人でやることって言ったら、あれしかないっすよね!」

 ──は?
 一瞬、脳内の思考が停止する。
 え、なに? ちょっと待って。
 風呂上がりで、2人で、あれって……え? なにを言い出すの? この子。

「私、もう風呂出てけっこう経つんだけど!!」
「だからこそ、っすよ」

 やだやだやだやだやだ。
 落ち着け私、冷静になれ。これは絶対、いつもの天然ボケに違いない。
 そもそもあの顔でそんな大胆なこと言えるわけが──

「はい、どうぞ」

 彼は、冷蔵庫から取り出したパックを手に、牛乳の入ったグラスを差し出してきた。

「……は?」

「お風呂上がりといえば、やっぱり牛乳っすよね」
「……」
「自分はコーヒー牛乳派なんすけど、プレーンも買ってあったんで」

 ああもう、やっぱりそういうことか。
 早合点した自分が、馬鹿みたいに思えてくる。
 

「なんか、すごく恥ずかしい」
「え、なにか……?」
「なんでもない」

 私は牛乳を受け取り、ひとくち。
 冷たくて、ほんのり甘くて──さっきまでの火照った顔が、すこし落ち着いていく。

「で、これからどうするっすか? まだ、寝るには早い気も」
「そ、そうね……。まあ、確かに」
「じゃあ──ゲーム、します?」
「……ゲーム?」

 私が首を傾げると、彼はニッと笑って、棚からゲーム機を取り出した。

「なんか、夜ふかしって感じしません? こういうの」
「……たしかに。もうどうにでもなれって感じよね」
「お、そういうヤケになってる先輩、嫌いじゃないっすよ」
「……あんた、やっぱり確信犯でしょ」
「ん? 自分、何かしました?」

 そうやって笑ってるとこが、いちばんずるい。
 しかもちゃんと、2Pコントローラーをこっちに渡してくるあたり、抜け目がない。
 夜が更けていく。
 ゲームの画面越しに、少しずつ彼との距離も、曖昧になっていく──気がした。



「えっ、ジャンプってどのボタン?」
「そこの──あ、それっす、それ」
「これ? え、ちょっ、押してるのに反応しないんだけど!?」

 画面の中ではキャラクターが川に落ちて、残機が減っていく。
 隣で笑いをこらえながら操作している倉田くんの横顔が、
 薄暗いテレビの光に照らされていた。

「む、むずかしい……」
「大丈夫っすよ、最初はみんなそうなんで」

 彼はそう言って、自分のコントローラーを床に置いた。
 そして、当たり前のようにこっちへ身を寄せてきた。

「……え?」
「ちょっとすみません、手だけ貸してもらいますねー」
「ちょ、ちょっと近っ……!」

 気づいたときには、彼の両手が私の手の上に重なっていた。
 背中に、彼の体温と気配。
 すぐ耳の横で息をする気配がして、思わず肩が跳ねた。

「ここでジャンプ。で、ここ押しながら進むと、スライディングっす」
「えっ……う、うん」
「よし、じゃあ実戦いきましょう」

 何が“よし”なんだか。
 というか、これ、実質、後ろから──
 いや、落ち着け私。冷静になれ。
 そんなつもりでやってるわけじゃないのは、さっきまでの流れでよくわかってる。
 ──でも、それが逆にずるい。
 私がドキドキしてるのを知らずに、
 ふつうの顔して『はい、ジャンプっす』なんて言うもんだから、
 こっちはもう、息の仕方がわからなくなってくる。

「……で、できた!」
「おお、ナイスです! さすがっすね」
「べ、べつに……そっちがやったようなもんでしょ」
「そんなことないっすよ。ちゃんと先輩の手で操作してましたって」

 それ、わかってて言ってる?
 思わず彼の顔を見たけれど、やっぱりいつもの笑顔だった。
 ちょっとだけ、まつげが長いのがくやしい。
 画面の中では、キャラクターがゴールテープを切っていた。
 その瞬間、ふたりの距離だけが、まだ“ゴール”の向こう側にある気がして──
 私はコントローラーを握りしめたまま、息を呑んでいた。



「──そろそろ、寝ます?」

 電源を落としたあと、倉田くんがぽつりとつぶやいた。

 時計の針は、午前2時40分を指していた。
 さっきまでのゲームの余熱が、まだ指先に残っている気がする。

「そうね……そろそろ、かな」

 私がそう答えると、彼は部屋を一周見渡して──案の定、視線はソファとベッドのあいだをさまよっている。

「……じゃんけんします?」
「……まあ、それしかないかもね」

 じゃんけん。
 この期におよんで、そんな小学生みたいな手段で、今夜の“寝る場所”を決めようとしてる私たちってなんなんだろ。

「最初はグー、じゃんけん──ぽん!」

 私:パー
 彼:チョキ

「よっしゃ、勝ちましたー!」
「うわー……負けた……」

 負けた。つまり、ソファ……。
 覚悟を決めかけたとき──


「じゃ、先輩はベッドで」
「……え?」
「あっ自分床でも寝れるんで――」

 彼はあっさりと、当然のように言った。

「あと、毛布、そこに置いときますね」
「……うん、ありがと」
「歯磨きしてから寝てくださいね」
「だから、なんで保護者っぽくなるのよ……」

 彼はふっと笑って、寝室のドアを開けた。
 その背中を、私はなんとなく目で追ってしまった。
 リビングには静けさが戻ってくる。
 私はベッドの端に腰を下ろして、ため息をひとつ。

……最初から譲る気だったんじゃん
ほんと、なんなんだろ、この人
 だけど──
 負けたのに、勝った気がしてるこの感じ。
 たぶんそれって、心が少しあったかくなってるってことなんだと思う。



 眠れなかった。
 ふかふかのベッド。
 ほどよい毛布。
 そして……彼の匂いが、微かに混じる枕。
 ……落ち着くわけ、ないでしょ 
 ごろん、と寝返りを打つ。
 天井は見飽きたし、静寂もだんだんうるさくなってくる。
 さっきまでのゲームの笑い声が、耳にこびりついている。
 ……ちょっと、水でも飲もう
 そっとベッドから抜け出して、リビングへ向かう。
 照明は落ちていて、ほんのり冷えた空気が頬をなでた。
 ――そのとき。

「……先輩?」
「っ──なに、起きてたの?」
「いや、自分も眠れなくて……ちょうど水飲もうと思ってたとこっす」

 ……あれ、なにこれ、さっきのやりとりの再放送?
 彼はソファの上で、毛布を肩にかけたまま、あくびをひとつ。
 その無防備な姿が、なぜだか、やけに近く感じる。

「……じゃあ、一緒に飲む?」
「はいっす」

 並んで座って、紙コップで水を飲む。
 なんてことない、ただの水なのに。
 夜の静けさと彼の隣だと、ちょっとだけ味が違って感じる。

「……なんか、寝れないですよね。こういうとき」
「うん。いろいろ考えちゃって」
「今日のゲーム、先輩めっちゃ本気出してたなーとか」
「いやそこ!?」
「手がちょっと震えてたし、たぶん緊張してたんだと思うんすよね」
「してないってば……!」

 そう言いながら、私の指先がぴくっと反応してしまう。
 彼は、いたずらっぽく笑った。

「……あと」
「ん?」
「さっき、ベッドの中で。ちょっとだけ寝言、言ってましたよ」
「は!? ちょ、なに言ってたのよ!」
「んー、秘密っす」
「うそでしょ!? やだ、聞かせて……!」

 冗談か本当かもわからない。
 でもその笑顔が、なんだかずるくて──
 私は、心臓の鼓動をなんとかごまかすように、水をもう一口。
 天然。無自覚。悪気ゼロ。
 それなのに、私はどんどん揺さぶられていく。
 ──ほんと、なんなのよ、もう。
 彼が無邪気に笑うその横顔を、私は水の向こうにぼんやり見ていた。



 ふたり並んで、水を飲む。
 言葉よりも、沈黙の方が居心地よくて。
 なのに、なぜだろう。さっきよりも心臓がうるさい。

「──あの、先輩」
「ん?」

 倉田くんが、ぽつりと口を開いた。
 夜の静けさのなかで、その声は妙に落ち着いていて──どこか違って聞こえた。

「ちょっと……相談、いいっすか?」
「うん。どうしたの?」
「友達の話なんですけど」

 ……友達の話、ね。
 わざわざ“そういう枕詞”をつけるときって、大体……。

「その友達、サークルに好きな先輩がいたんすよ」
「……うん」
「でも、その先輩、最近失恋したらしくて……。しかも、同じサークルの人に」
「……」
「友達、ずっと悩んでたんす。タイミング、悪すぎるって」

 ……え、ちょっと待って。
 それって──

「でも、最近ちょっと思ったらしくて」

 彼の声が、少しだけ低くなった。

「“失恋したからこそ”、本当に好きな人を見つけてほしいって」

 ドキッとした。
 たぶん、その言葉が──私の奥にあるものを、知らないうちに優しく触ったから。

「だから……その友達、“ちゃんと好きって伝えてみようかな”って思ったらしいっす」
「……」
「──遅すぎるって、思われてもいいから」

 心臓が、また鳴った。
 水の音なんて、もう聞こえない。
 彼の横顔は、いつもより少しだけ真剣で。
 でも、どこか照れくさそうで。
 名前は、出さない。
 けれど──そのすべてが、私に向いてる気がして。
 私は、笑った。
 なんでもないふりして。

「その友達に……がんばれって伝えといて」
「はいっす」

 まっすぐな返事に、また心が揺れる。
 夜はまだ、終わらない。
 けどこの瞬間、ほんの少しだけ、“朝”が近づいた気がした。



 眠れなかった。
 ソファに横になる倉田くんの背中が、暗がりの中にぽつんと見える。
 私も、布団にくるまる気にはなれず、こっそりと部屋の扉を開けた。

 冷たい水を口に含んで、深呼吸をする。
 まだ、頭の中がふわふわしてる。さっきの“友達の話”、やっぱり、私のことなんじゃないかって──
 ふと、気配に気づいた。
 リビングに戻ると、倉田くんはソファで寝返りを打っていた。
 うつ伏せ気味に丸くなって、目は閉じている。
 寝てるんだ……と思ったそのとき。

沙耶(さや)……せんぱい……すきっす……」

 時が、止まった気がした。
 え、いま……なに?
 息を呑んで、思わずその場に立ち尽くす。
 でも彼は目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
 ──まさかの寝言?
 嘘でしょ。寝言で、そんな告白みたいなこと、普通言う?
 ……いや、倉田くんなら……言いそうかも。なんか、妙に納得しちゃってる自分がいる。
 心臓が、暴れてる。
 彼の寝顔を見つめたまま、何も言えずに、ただ数秒間立ち尽くしてしまう。
 気づけば私は、自分の寝床に戻っていた。
 まだ寝られそうにない。
 でも、なんだろう。胸の中にあった重たさが、ふっと軽くなった気がする。
 そっと枕に顔をうずめながら、私はぽつりと、声にならない声を吐き出した。

「……寝言じゃなくて、ちゃんと言ってよ。ばか」

 その言葉が、夜の静けさにすっと溶けていく。
 頬が熱い。心臓がうるさい。どうしてこんなに、嬉しいんだろう。
 背中を向けて、布団にくるまる。
 目を閉じると、さっきの声が耳の奥に、ほんのり残ってる。
 気づいたら──私は、眠っていた。
 こんなにすぐ眠れるなんて。
 ──おやすみ、倉田くん。



 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
 うっすらとした香りに目を覚ますと、キッチンから、何かを焼く音がする。

「……え?」

 起き上がると、倉田くんがエプロンをつけて立っていた。
 手にはフライパン。目玉焼きが、じゅうと小さく音を立てている。

「あ、先輩おはようございます。もうちょっとでベーコンエッグ完成するっす」
「……ベーコンエッグ?」

 その横には、味噌汁の湯気が立っていて、テーブルにはなぜか納豆のパック。
 ご飯はよそられてるし、パンの影すらない。
 洋食なの?和食なの?ていうか、どっちにしても……組み合わせ、最悪では?


「……あのさ、倉田くん」
「はいっ?」
「……この朝ごはん、テーマ何?」
「え?“朝”っすよ」
「……はい?」
「いや、朝に合うやつ全部入れたら、こうなったっす」
「……全部入れちゃだめなのよ」

 呆れながらも、ふと笑ってしまう。
 おかしいな。昨日はあんなに緊張してたのに、今は、なんか……普通に会話してる。

「ちなみに、先輩って目玉焼き何派ですか?」
「は?」
「ほら、ソース?しょうゆ?塩?ケチャップとか?」

 朝から余計なことばっかり言う。
 だけどその言葉が、昨日までの重たさをふっと忘れさせてくれる気がする。
 ベーコンエッグを一口かじって、味噌汁を飲んで──
 合わない。びっくりするほど合わない。
 でも、それがなんか、ちょっとだけ、嬉しい。

「……あ、先輩」
「ん?」
「ついてるっすよ、口。ほら──」

 そう言って、倉田くんがティッシュで私の口元を拭った。
 自然すぎて、一瞬、何が起きたのかわからなかった。
 ……ちょっと待って。
 それ、普通そんな距離で、さらっとやる!?

「~~っ!自分で拭くし!」
「え?あ、すみません。でも、もう拭けてますよ?」
「……もういいっ!」

 ふいにそらした視線の先で、朝日がテーブルを照らしている。
 なんだろう、この朝。変なのに、心地いい。
 “好き”なんて、まだ言えないけど──
 たぶん、今日のこの朝を、私はずっと覚えてる。



 玄関に立つと、靴を履く手がもたついた。
 別に、慣れてないわけじゃない。ただ、なんとなく──この空間を離れたくなかった。

「送っていきましょうか?」

 倉田くんが、いつもの調子で言った。

「いい。……駅まで歩くくらい、ひとりでできるし」

 うつむいたまま、言い返す。
 本当は、もう少しだけ、隣を歩いてほしかったけど。
 言葉にしたら、きっとダメになってしまう気がして。

「……じゃあ、またサークルで」
「……うん。別に、避けたりしないし」
「えっ、避ける予定あったんすか?」
「ないわよっ」

 笑いが、こぼれる。
 なんてことない会話。それでも、昨日までとは、確かに違う。

「先輩」

 玄関のドアが開く直前、彼の声が背中を追いかけてきた。

「ん?」
「……また、泊まりに来てもいいっすよ」

 鼓動が跳ねた。

「……なにそのセリフ」
「え、違います!変な意味じゃなくて、あの、終電とかまた逃したときとか、そういう時に──」

 しどろもどろになる彼が、おかしくて、
 でも、やっぱりその言葉が嬉しくて。

「……変な意味で言ってるでしょ」
「いや、ほんとに違うんでっ!」
「……じゃあ、また“終電なくなったら”だけね」
「マジっすか! じゃあ──」
「……浮かれないで。条件つきだから」

 ふたりの間に、静かな笑いが生まれる。
 その音は──もう、“知らない人”同士じゃなかった。
 


 ──恋が始まる瞬間って、
 なにか特別な言葉とか、キスとか、
 そういう“わかりやすい出来事”じゃないのかもしれない。
 ふとした沈黙のなかで、
 ふたりが同じ温度で、笑えるようになったとき。
 視線がぶつかって、どちらともなく逸らしたとき。
 ほんの少し、距離が近づいたとき。
 ──その全部が、たぶん、恋の始まりだった。
 ……そんなこと、本人の前じゃ絶対に言えないけど。
 『また、終電なくなったら』
 そう言ったのは、私のほうだ。
 “気が向いたら”なんてごまかしたけど──
 本当はもう、きっと、私はあの笑い声が好きなんだと思う。
 帰り道、昨日より少しだけ軽くなった足取り。
 それでも、まだ胸の奥がふわふわしてる。
 ──まさか、たった一晩で。
 こんなに“境界線”が曖昧になるなんて。
 ……ほんと、聞いてないよ。
 倉田くんってば、侮れない。