グラスが空く音が、少しだけ遠くで響いた。
誰かの笑い声。ジョッキを置く音。乾杯の輪の真ん中で、私はただ、笑っているふりをしていた。
送別会──だったはずだ。四年の卒業を祝う、サークルの最後の飲み会。
部長も来ていた。ずっと、好きだった。誰にも言ってないけど、たぶんバレてたと思う。
そして今日、ちゃんと振られた。やんわり、丁寧に、『後輩としてしか見られない』って。
その優しさが、やけに寒かった。
「榊さーん、次いきます?」
隣で後輩がピッチャーを持っていた。見たことある顔だけど、名前が出てこない。
「……あ、ごめん。もう、ウーロンで」
笑って誤魔化したけど、声が少しだけ掠れていた。
誰かがグラスを重ねる音。テーブルに水滴が落ちるのを、ぼんやり眺める。
終電、そろそろじゃない?──そんな声が聞こえて、私はやっと立ち上がった。上着を掴む手に、ちょっとだけ力が入った。
帰る意味も、帰る場所も、よくわかんなくなってたけど。
◆
駅前の時計が、0時15分を指していた。
人はまばらで、風が頬を撫でていく。春なのに、夜はまだ冷たい。
スマホの画面に「最終電車:終着済み」の文字が浮かんで、私はちいさくため息をついた。
……やっちゃった。
タクシー……高いよな。ネカフェ、このへんにあったっけ。
足だけが、なんとなく歩き出す。
そのとき。
「──先輩?」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。
黒縁のメガネ、ゆるい髪型、パーカー姿。倉田悠翔くん──サークルの二年生の後輩。
さっきの席でも、ちょっと離れたとこに座ってた気がする。
「……倉田くん?」
「っす。電車、もう終わってますよね」
「……うん。気づいたら、こんな時間だった」
「自分はここから歩き圏内なんで、電車使ってないっすよ」
ああ、そうだった。
彼はたしかこのへんに住んでるって、誰かが言ってた。
それにしても──さっきまで、けっこう飲んでたよね? 生中にレモンサワー、あと日本酒も回ってたはず。
それなのに、顔色ひとつ変えずに真っ直ぐ立ってるの、なんかズルい。
「これから、どうするんすか?」
「どうって、そりゃあ……寒いし……とりあえず、ネカフェとか……?」
「ネカフェ、女性一人で行くの、危なくないすか?」
……あんたが言う?
思わずツッコミそうになって、飲み込んだ。
「……うち、来ます?」
一瞬、何言ってんのって思った。
でも、彼の目はふざけてなかった。
「変な意味じゃなくて。鍵も二個あるし、部屋、そんなに狭くないんで。あと、布団も──あ、それはなんか逆に変っすね……?」
慌てて付け足すその姿に、ふっと力が抜けた。
さっきまでの私なら、絶対断ってた。
年下男子の家に、しかも夜に行くなんて。
でも──今日は、ちょっとだけ、壊れてた。
何も考えたくなかった。
「……じゃあ、少しだけ」
自分でも、どうしてそう言ったのかわからなかった。
ただ、その夜風だけは、やけに優しかった。
◆
エレベーターを降りてすぐの、真っ白なドアの前。
部屋番号のプレートを見て、「本当に来ちゃったんだな」って、今さら思った。
「どーぞ。靴、そこに並べといてください」
「……お邪魔します」
ぱたん、とドアが閉まった瞬間。空気が変わった。
柔軟剤の匂い。ベッドに置かれたたたまれた洗濯物。散らかってるって言ってたのに、全然そんなことなかった。
「散らかってますけど、どうぞ。スリッパそこです」
「……ありがと」
ちょっと緊張してるのがバレないように、声を落とした。
玄関からすぐリビングで、ソファとベッドとローテーブル。あとは本棚と、ゲームのコントローラーがひとつ。
物は少ないのに、なんだか居心地がいい。男の子の一人暮らし、ってもっと雑なイメージだったのに。
「お茶でいいですか? 麦茶、冷えてます」
「うん、それで」
マグを手渡されたとき、彼の指先が一瞬だけ触れて、私はなぜか息を止めた。
……やばい。気のせいであってほしい。
「部屋着、貸しましょうか。パーカーとスウェットしかないですけど」
「あ、うん……助かる」
「シャワーも使っていいですよ」
「……は?」
聞き返した声がちょっと裏返った。本人はまったく気にしてないらしく、さらにこう言った。
「レディファーストってやつです。だから、先どうぞ」
「いや、そういう意味で“レディファースト”使う!?」
「……あ、違いました?」
心臓止まるかと思った。
でも、彼の顔は真面目そのもので、変な下心とかは一切なかった。
それが逆に困る。
「……じゃあ、借りる。服も、シャワーも」
「了解っす。タオルは洗面所の棚にあるんで、適当にどうぞ」
「わかった」
タオルと着替えを抱えて脱衣所に向かう途中、彼がぼそっとつぶやく。
「ボディソープ、レモンのやつです」
「だからそういう情報いらないってば!」
「えっ、女子って香りとか好きかなって……」
「……うん、ありがとう。もう黙ってて」
口ではそう言いながら、顔が熱くなるのを止められなかった。
──たぶん、自分の言動がどういう破壊力を持ってるか、この人は一生気づかない。
浴室のドアを閉めて、私は深くため息をついた。
「……いや、これは試練だな。試されてる……絶対」
タオルを棚に置きながら、部屋着をフックにかける。
床のマットがふかふかで、それがまた現実っぽくて困る。
シャワーの温度をひねった、そのとき──
「先輩〜、シャワーの温度、ぬるめ派ですか? 熱めなら右に──」
「今その情報!? ていうか、黙っててって言ったよね!」
「了解っす〜!」
やっと静かになったと思ったら──
「……あ、あと、シャンプーは二種類あります。左が無香料、右が柑橘系っす」
「選ばせないで! 黙っててって言ったの、ほんとに忘れた!?」
「すみません……!」
壁越しの声が、ちょっと笑ってるみたいで、くやしい。
「シャワーヘッドの角度、ちょっとクセあるんで──」
「もう喋るな!!」
怒鳴ったあとで、思わず自分の口を押さえた。
……なにこの時間。なにこの人。
──ていうか。
なんで私、後輩男子の家でシャワー浴びてるの?
終電逃して、ネカフェも使えなくて、そしたらなんか当然みたいに誘導されて。
で、なぜか今、シャワー浴びてる。
この状況、説明できる自信ゼロなんだけど。
なのに、彼の声に反応して、つい突っ込んでる私がいる。
「……ほんと、何してんの私」
手のひらに落ちてくるお湯の温度だけが、少しだけ現実をくれた。
でもそれも、すぐに湯気に変わって、天井へ逃げていった。
「……バカ……っ」
シャワーの音にまぎれてつぶやいた言葉は、蒸気に溶けて消えた。
◆
髪をざっと乾かして、借りたTシャツに袖を通す。
少しぶかぶかで、肩が落ちる。匂いは──柔軟剤。たぶん、いつも通りのやつ。
リビングに戻ると、彼はソファの背にもたれてスマホをいじっていた。
「おかえりっす、先輩。似合ってます」
「……何が」
「そのTシャツ。先輩が着ると、なんか女子って感じっすね」
「女子です」
「そうでした!」
こいつ、素で言ってるのがまた厄介なんだよな……。
私はなるべく距離を取るように、ソファの端っこに腰を下ろす。
クッション一個ぶん──いや、気持ちもう半個分遠ざけとこう。
「てか、先輩──まだ眠くないっすよね?」
「……まあ、多少は」
「じゃ、自分もシャワー浴びてきます。ちょっとさっぱりしたくて」
「ん。……どうぞ」
そう言って彼はのそのそと立ち上がって──
何の前触れもなく、Tシャツの裾を引っ張り上げた。
「ちょっ──待って待って待って!?!?」
「え、なにか?」
「ちょ、今わたし居るから!!」
「えっ……あ、でも自分、男っすよ?」
「知ってるけど! そういう問題じゃないの!!」
ぽかんとした顔で、上半身裸のまま、こっちを見てる。
……いや、見るなよ。こっち見るな。
──って、ちょっと待って。
なんでそんな引き締まってんの、あんた。
腕とか、背中とか、線は細いくせに意外とちゃんと筋肉ついて、
なんか……想像より、ずっと“男”だった。
やめて、それ。無自覚に距離感バグらせるやつだから。
「女性って上半身見られると恥ずかしいらしいっすよね?」
「うん。今それ女性がここにいますけど!?」
「自分、男性なんで問題ないっすよね?」
「そういう理屈じゃないから!!」
ああもう、限界──!
私はクッションを全力でぶん投げた。
彼の背中にヒットして、ぺしんと音が鳴る。
「いてっ」
「“いて”じゃない! Tシャツ着て!! はやくっ!」
「はいっすー……」
布団を引っ張ってかぶり、全身を包み込む。
なにこの夜。なにこの人。なにこの状況。
……ていうか。
なにこのドキドキ。
浴室のドアが閉まる音がして、静かになったリビング。
でも、こっちの心臓の音だけは、どうしたって静まってくれなかった。
◆
私はそっとソファに腰を下ろして、視線を天井に向けた。
「……なにやってんだろ、私」
終電を逃して、後輩男子の家に来て。
シャワー借りて、Tシャツ借りて、距離感も何もあったもんじゃない。
普段なら絶対にありえない状況のはずなのに──
あのテンポで押し切られると、もう思考がついていけない。
それでも彼が悪気ゼロなのは、分かってる。
ただ……それが一番タチ悪いって、誰か教えてあげてほしい。
──と、ぼんやり考えていたとき。
浴室の奥から、ぼそっと歌声が聞こえてきた。
♪「恋に落ちたことも 忘れかけた夜に──」♪
……え、歌ってる? シャワー中に?
思わず背筋を伸ばす。
それはなんの前触れもなく始まって、でも不思議なほど耳に馴染んだ。
音程もリズムも、なんなら表現もちゃんとしてて──
「……なにげに、上手いんだけど……」
無意識なのがまたずるい。
あの子、歌とか歌わなさそうな顔してたくせに。
しかも、歌詞。
♪「君がくれた言葉を まだ胸に隠してる──」♪
……失恋ソングなんですけど!?!?
「え、ちょっと待って。なに? それ、どういう選曲??」
声には出さなかったけど、内心では全力でツッコんでた。
しかも……ちょっと沁みてる自分が、いちばん面倒くさい。
「はあ……やっぱ私、今日バグってる」
深夜の天井を見上げながら、
私はソファに背を預けて、ゆっくりとまぶたを閉じた。
浴室からの音だけが、やけに静かな部屋に響いていた。
◆
浴室のドアが開いて、湯気と一緒に彼が出てきた。
「ふぃ〜……さっぱりしたっすー」
タオルで髪を拭きながら、Tシャツ姿でリビングに戻ってくる彼。
私の視線が、思わずそっちに吸い寄せられた。
ああ、もう……普通に戻ってくるな。こっちはさっきまで混乱してたのに
彼は何事もなかったように私の前に立ち止まり、
ニッと笑いながら、ふいにこんなことを言った。
「風呂上がりの2人でやることって言ったら、あれしかないっすよね!」
──は?
一瞬、脳内の思考が停止する。
え、なに? ちょっと待って。
風呂上がりで、2人で、あれって……え? なにを言い出すの? この子。
「私、もう風呂出てけっこう経つんだけど!!」
「だからこそ、っすよ」
やだやだやだやだやだ。
落ち着け私、冷静になれ。これは絶対、いつもの天然ボケに違いない。
そもそもあの顔でそんな大胆なこと言えるわけが──
「はい、どうぞ」
彼は、冷蔵庫から取り出したパックを手に、牛乳の入ったグラスを差し出してきた。
「……は?」
「お風呂上がりといえば、やっぱり牛乳っすよね」
「……」
「自分はコーヒー牛乳派なんすけど、プレーンも買ってあったんで」
ああもう、やっぱりそういうことか。
早合点した自分が、馬鹿みたいに思えてくる。
「なんか、すごく恥ずかしい」
「え、なにか……?」
「なんでもない」
私は牛乳を受け取り、ひとくち。
冷たくて、ほんのり甘くて──さっきまでの火照った顔が、すこし落ち着いていく。
「で、これからどうするっすか? まだ、寝るには早い気も」
「そ、そうね……。まあ、確かに」
「じゃあ──ゲーム、します?」
「……ゲーム?」
私が首を傾げると、彼はニッと笑って、棚からゲーム機を取り出した。
「なんか、夜ふかしって感じしません? こういうの」
「……たしかに。もうどうにでもなれって感じよね」
「お、そういうヤケになってる先輩、嫌いじゃないっすよ」
「……あんた、やっぱり確信犯でしょ」
「ん? 自分、何かしました?」
そうやって笑ってるとこが、いちばんずるい。
しかもちゃんと、2Pコントローラーをこっちに渡してくるあたり、抜け目がない。
夜が更けていく。
ゲームの画面越しに、少しずつ彼との距離も、曖昧になっていく──気がした。
◆
「えっ、ジャンプってどのボタン?」
「そこの──あ、それっす、それ」
「これ? え、ちょっ、押してるのに反応しないんだけど!?」
画面の中ではキャラクターが川に落ちて、残機が減っていく。
隣で笑いをこらえながら操作している倉田くんの横顔が、
薄暗いテレビの光に照らされていた。
「む、むずかしい……」
「大丈夫っすよ、最初はみんなそうなんで」
彼はそう言って、自分のコントローラーを床に置いた。
そして、当たり前のようにこっちへ身を寄せてきた。
「……え?」
「ちょっとすみません、手だけ貸してもらいますねー」
「ちょ、ちょっと近っ……!」
気づいたときには、彼の両手が私の手の上に重なっていた。
背中に、彼の体温と気配。
すぐ耳の横で息をする気配がして、思わず肩が跳ねた。
「ここでジャンプ。で、ここ押しながら進むと、スライディングっす」
「えっ……う、うん」
「よし、じゃあ実戦いきましょう」
何が“よし”なんだか。
というか、これ、実質、後ろから──
いや、落ち着け私。冷静になれ。
そんなつもりでやってるわけじゃないのは、さっきまでの流れでよくわかってる。
──でも、それが逆にずるい。
私がドキドキしてるのを知らずに、
ふつうの顔して『はい、ジャンプっす』なんて言うもんだから、
こっちはもう、息の仕方がわからなくなってくる。
「……で、できた!」
「おお、ナイスです! さすがっすね」
「べ、べつに……そっちがやったようなもんでしょ」
「そんなことないっすよ。ちゃんと先輩の手で操作してましたって」
それ、わかってて言ってる?
思わず彼の顔を見たけれど、やっぱりいつもの笑顔だった。
ちょっとだけ、まつげが長いのがくやしい。
画面の中では、キャラクターがゴールテープを切っていた。
その瞬間、ふたりの距離だけが、まだ“ゴール”の向こう側にある気がして──
私はコントローラーを握りしめたまま、息を呑んでいた。
◆
「──そろそろ、寝ます?」
電源を落としたあと、倉田くんがぽつりとつぶやいた。
時計の針は、午前2時40分を指していた。
さっきまでのゲームの余熱が、まだ指先に残っている気がする。
「そうね……そろそろ、かな」
私がそう答えると、彼は部屋を一周見渡して──案の定、視線はソファとベッドのあいだをさまよっている。
「……じゃんけんします?」
「……まあ、それしかないかもね」
じゃんけん。
この期におよんで、そんな小学生みたいな手段で、今夜の“寝る場所”を決めようとしてる私たちってなんなんだろ。
「最初はグー、じゃんけん──ぽん!」
私:パー
彼:チョキ
「よっしゃ、勝ちましたー!」
「うわー……負けた……」
負けた。つまり、ソファ……。
覚悟を決めかけたとき──
「じゃ、先輩はベッドで」
「……え?」
「あっ自分床でも寝れるんで――」
彼はあっさりと、当然のように言った。
「あと、毛布、そこに置いときますね」
「……うん、ありがと」
「歯磨きしてから寝てくださいね」
「だから、なんで保護者っぽくなるのよ……」
彼はふっと笑って、寝室のドアを開けた。
その背中を、私はなんとなく目で追ってしまった。
リビングには静けさが戻ってくる。
私はベッドの端に腰を下ろして、ため息をひとつ。
……最初から譲る気だったんじゃん
ほんと、なんなんだろ、この人
だけど──
負けたのに、勝った気がしてるこの感じ。
たぶんそれって、心が少しあったかくなってるってことなんだと思う。
◆
眠れなかった。
ふかふかのベッド。
ほどよい毛布。
そして……彼の匂いが、微かに混じる枕。
……落ち着くわけ、ないでしょ
ごろん、と寝返りを打つ。
天井は見飽きたし、静寂もだんだんうるさくなってくる。
さっきまでのゲームの笑い声が、耳にこびりついている。
……ちょっと、水でも飲もう
そっとベッドから抜け出して、リビングへ向かう。
照明は落ちていて、ほんのり冷えた空気が頬をなでた。
――そのとき。
「……先輩?」
「っ──なに、起きてたの?」
「いや、自分も眠れなくて……ちょうど水飲もうと思ってたとこっす」
……あれ、なにこれ、さっきのやりとりの再放送?
彼はソファの上で、毛布を肩にかけたまま、あくびをひとつ。
その無防備な姿が、なぜだか、やけに近く感じる。
「……じゃあ、一緒に飲む?」
「はいっす」
並んで座って、紙コップで水を飲む。
なんてことない、ただの水なのに。
夜の静けさと彼の隣だと、ちょっとだけ味が違って感じる。
「……なんか、寝れないですよね。こういうとき」
「うん。いろいろ考えちゃって」
「今日のゲーム、先輩めっちゃ本気出してたなーとか」
「いやそこ!?」
「手がちょっと震えてたし、たぶん緊張してたんだと思うんすよね」
「してないってば……!」
そう言いながら、私の指先がぴくっと反応してしまう。
彼は、いたずらっぽく笑った。
「……あと」
「ん?」
「さっき、ベッドの中で。ちょっとだけ寝言、言ってましたよ」
「は!? ちょ、なに言ってたのよ!」
「んー、秘密っす」
「うそでしょ!? やだ、聞かせて……!」
冗談か本当かもわからない。
でもその笑顔が、なんだかずるくて──
私は、心臓の鼓動をなんとかごまかすように、水をもう一口。
天然。無自覚。悪気ゼロ。
それなのに、私はどんどん揺さぶられていく。
──ほんと、なんなのよ、もう。
彼が無邪気に笑うその横顔を、私は水の向こうにぼんやり見ていた。
◆
ふたり並んで、水を飲む。
言葉よりも、沈黙の方が居心地よくて。
なのに、なぜだろう。さっきよりも心臓がうるさい。
「──あの、先輩」
「ん?」
倉田くんが、ぽつりと口を開いた。
夜の静けさのなかで、その声は妙に落ち着いていて──どこか違って聞こえた。
「ちょっと……相談、いいっすか?」
「うん。どうしたの?」
「友達の話なんですけど」
……友達の話、ね。
わざわざ“そういう枕詞”をつけるときって、大体……。
「その友達、サークルに好きな先輩がいたんすよ」
「……うん」
「でも、その先輩、最近失恋したらしくて……。しかも、同じサークルの人に」
「……」
「友達、ずっと悩んでたんす。タイミング、悪すぎるって」
……え、ちょっと待って。
それって──
「でも、最近ちょっと思ったらしくて」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「“失恋したからこそ”、本当に好きな人を見つけてほしいって」
ドキッとした。
たぶん、その言葉が──私の奥にあるものを、知らないうちに優しく触ったから。
「だから……その友達、“ちゃんと好きって伝えてみようかな”って思ったらしいっす」
「……」
「──遅すぎるって、思われてもいいから」
心臓が、また鳴った。
水の音なんて、もう聞こえない。
彼の横顔は、いつもより少しだけ真剣で。
でも、どこか照れくさそうで。
名前は、出さない。
けれど──そのすべてが、私に向いてる気がして。
私は、笑った。
なんでもないふりして。
「その友達に……がんばれって伝えといて」
「はいっす」
まっすぐな返事に、また心が揺れる。
夜はまだ、終わらない。
けどこの瞬間、ほんの少しだけ、“朝”が近づいた気がした。
◆
眠れなかった。
ソファに横になる倉田くんの背中が、暗がりの中にぽつんと見える。
私も、布団にくるまる気にはなれず、こっそりと部屋の扉を開けた。
冷たい水を口に含んで、深呼吸をする。
まだ、頭の中がふわふわしてる。さっきの“友達の話”、やっぱり、私のことなんじゃないかって──
ふと、気配に気づいた。
リビングに戻ると、倉田くんはソファで寝返りを打っていた。
うつ伏せ気味に丸くなって、目は閉じている。
寝てるんだ……と思ったそのとき。
「沙耶……せんぱい……すきっす……」
時が、止まった気がした。
え、いま……なに?
息を呑んで、思わずその場に立ち尽くす。
でも彼は目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
──まさかの寝言?
嘘でしょ。寝言で、そんな告白みたいなこと、普通言う?
……いや、倉田くんなら……言いそうかも。なんか、妙に納得しちゃってる自分がいる。
心臓が、暴れてる。
彼の寝顔を見つめたまま、何も言えずに、ただ数秒間立ち尽くしてしまう。
気づけば私は、自分の寝床に戻っていた。
まだ寝られそうにない。
でも、なんだろう。胸の中にあった重たさが、ふっと軽くなった気がする。
そっと枕に顔をうずめながら、私はぽつりと、声にならない声を吐き出した。
「……寝言じゃなくて、ちゃんと言ってよ。ばか」
その言葉が、夜の静けさにすっと溶けていく。
頬が熱い。心臓がうるさい。どうしてこんなに、嬉しいんだろう。
背中を向けて、布団にくるまる。
目を閉じると、さっきの声が耳の奥に、ほんのり残ってる。
気づいたら──私は、眠っていた。
こんなにすぐ眠れるなんて。
──おやすみ、倉田くん。
◆
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
うっすらとした香りに目を覚ますと、キッチンから、何かを焼く音がする。
「……え?」
起き上がると、倉田くんがエプロンをつけて立っていた。
手にはフライパン。目玉焼きが、じゅうと小さく音を立てている。
「あ、先輩おはようございます。もうちょっとでベーコンエッグ完成するっす」
「……ベーコンエッグ?」
その横には、味噌汁の湯気が立っていて、テーブルにはなぜか納豆のパック。
ご飯はよそられてるし、パンの影すらない。
洋食なの?和食なの?ていうか、どっちにしても……組み合わせ、最悪では?
「……あのさ、倉田くん」
「はいっ?」
「……この朝ごはん、テーマ何?」
「え?“朝”っすよ」
「……はい?」
「いや、朝に合うやつ全部入れたら、こうなったっす」
「……全部入れちゃだめなのよ」
呆れながらも、ふと笑ってしまう。
おかしいな。昨日はあんなに緊張してたのに、今は、なんか……普通に会話してる。
「ちなみに、先輩って目玉焼き何派ですか?」
「は?」
「ほら、ソース?しょうゆ?塩?ケチャップとか?」
朝から余計なことばっかり言う。
だけどその言葉が、昨日までの重たさをふっと忘れさせてくれる気がする。
ベーコンエッグを一口かじって、味噌汁を飲んで──
合わない。びっくりするほど合わない。
でも、それがなんか、ちょっとだけ、嬉しい。
「……あ、先輩」
「ん?」
「ついてるっすよ、口。ほら──」
そう言って、倉田くんがティッシュで私の口元を拭った。
自然すぎて、一瞬、何が起きたのかわからなかった。
……ちょっと待って。
それ、普通そんな距離で、さらっとやる!?
「~~っ!自分で拭くし!」
「え?あ、すみません。でも、もう拭けてますよ?」
「……もういいっ!」
ふいにそらした視線の先で、朝日がテーブルを照らしている。
なんだろう、この朝。変なのに、心地いい。
“好き”なんて、まだ言えないけど──
たぶん、今日のこの朝を、私はずっと覚えてる。
◆
玄関に立つと、靴を履く手がもたついた。
別に、慣れてないわけじゃない。ただ、なんとなく──この空間を離れたくなかった。
「送っていきましょうか?」
倉田くんが、いつもの調子で言った。
「いい。……駅まで歩くくらい、ひとりでできるし」
うつむいたまま、言い返す。
本当は、もう少しだけ、隣を歩いてほしかったけど。
言葉にしたら、きっとダメになってしまう気がして。
「……じゃあ、またサークルで」
「……うん。別に、避けたりしないし」
「えっ、避ける予定あったんすか?」
「ないわよっ」
笑いが、こぼれる。
なんてことない会話。それでも、昨日までとは、確かに違う。
「先輩」
玄関のドアが開く直前、彼の声が背中を追いかけてきた。
「ん?」
「……また、泊まりに来てもいいっすよ」
鼓動が跳ねた。
「……なにそのセリフ」
「え、違います!変な意味じゃなくて、あの、終電とかまた逃したときとか、そういう時に──」
しどろもどろになる彼が、おかしくて、
でも、やっぱりその言葉が嬉しくて。
「……変な意味で言ってるでしょ」
「いや、ほんとに違うんでっ!」
「……じゃあ、また“終電なくなったら”だけね」
「マジっすか! じゃあ──」
「……浮かれないで。条件つきだから」
ふたりの間に、静かな笑いが生まれる。
その音は──もう、“知らない人”同士じゃなかった。
◆
──恋が始まる瞬間って、
なにか特別な言葉とか、キスとか、
そういう“わかりやすい出来事”じゃないのかもしれない。
ふとした沈黙のなかで、
ふたりが同じ温度で、笑えるようになったとき。
視線がぶつかって、どちらともなく逸らしたとき。
ほんの少し、距離が近づいたとき。
──その全部が、たぶん、恋の始まりだった。
……そんなこと、本人の前じゃ絶対に言えないけど。
『また、終電なくなったら』
そう言ったのは、私のほうだ。
“気が向いたら”なんてごまかしたけど──
本当はもう、きっと、私はあの笑い声が好きなんだと思う。
帰り道、昨日より少しだけ軽くなった足取り。
それでも、まだ胸の奥がふわふわしてる。
──まさか、たった一晩で。
こんなに“境界線”が曖昧になるなんて。
……ほんと、聞いてないよ。
倉田くんってば、侮れない。
誰かの笑い声。ジョッキを置く音。乾杯の輪の真ん中で、私はただ、笑っているふりをしていた。
送別会──だったはずだ。四年の卒業を祝う、サークルの最後の飲み会。
部長も来ていた。ずっと、好きだった。誰にも言ってないけど、たぶんバレてたと思う。
そして今日、ちゃんと振られた。やんわり、丁寧に、『後輩としてしか見られない』って。
その優しさが、やけに寒かった。
「榊さーん、次いきます?」
隣で後輩がピッチャーを持っていた。見たことある顔だけど、名前が出てこない。
「……あ、ごめん。もう、ウーロンで」
笑って誤魔化したけど、声が少しだけ掠れていた。
誰かがグラスを重ねる音。テーブルに水滴が落ちるのを、ぼんやり眺める。
終電、そろそろじゃない?──そんな声が聞こえて、私はやっと立ち上がった。上着を掴む手に、ちょっとだけ力が入った。
帰る意味も、帰る場所も、よくわかんなくなってたけど。
◆
駅前の時計が、0時15分を指していた。
人はまばらで、風が頬を撫でていく。春なのに、夜はまだ冷たい。
スマホの画面に「最終電車:終着済み」の文字が浮かんで、私はちいさくため息をついた。
……やっちゃった。
タクシー……高いよな。ネカフェ、このへんにあったっけ。
足だけが、なんとなく歩き出す。
そのとき。
「──先輩?」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。
黒縁のメガネ、ゆるい髪型、パーカー姿。倉田悠翔くん──サークルの二年生の後輩。
さっきの席でも、ちょっと離れたとこに座ってた気がする。
「……倉田くん?」
「っす。電車、もう終わってますよね」
「……うん。気づいたら、こんな時間だった」
「自分はここから歩き圏内なんで、電車使ってないっすよ」
ああ、そうだった。
彼はたしかこのへんに住んでるって、誰かが言ってた。
それにしても──さっきまで、けっこう飲んでたよね? 生中にレモンサワー、あと日本酒も回ってたはず。
それなのに、顔色ひとつ変えずに真っ直ぐ立ってるの、なんかズルい。
「これから、どうするんすか?」
「どうって、そりゃあ……寒いし……とりあえず、ネカフェとか……?」
「ネカフェ、女性一人で行くの、危なくないすか?」
……あんたが言う?
思わずツッコミそうになって、飲み込んだ。
「……うち、来ます?」
一瞬、何言ってんのって思った。
でも、彼の目はふざけてなかった。
「変な意味じゃなくて。鍵も二個あるし、部屋、そんなに狭くないんで。あと、布団も──あ、それはなんか逆に変っすね……?」
慌てて付け足すその姿に、ふっと力が抜けた。
さっきまでの私なら、絶対断ってた。
年下男子の家に、しかも夜に行くなんて。
でも──今日は、ちょっとだけ、壊れてた。
何も考えたくなかった。
「……じゃあ、少しだけ」
自分でも、どうしてそう言ったのかわからなかった。
ただ、その夜風だけは、やけに優しかった。
◆
エレベーターを降りてすぐの、真っ白なドアの前。
部屋番号のプレートを見て、「本当に来ちゃったんだな」って、今さら思った。
「どーぞ。靴、そこに並べといてください」
「……お邪魔します」
ぱたん、とドアが閉まった瞬間。空気が変わった。
柔軟剤の匂い。ベッドに置かれたたたまれた洗濯物。散らかってるって言ってたのに、全然そんなことなかった。
「散らかってますけど、どうぞ。スリッパそこです」
「……ありがと」
ちょっと緊張してるのがバレないように、声を落とした。
玄関からすぐリビングで、ソファとベッドとローテーブル。あとは本棚と、ゲームのコントローラーがひとつ。
物は少ないのに、なんだか居心地がいい。男の子の一人暮らし、ってもっと雑なイメージだったのに。
「お茶でいいですか? 麦茶、冷えてます」
「うん、それで」
マグを手渡されたとき、彼の指先が一瞬だけ触れて、私はなぜか息を止めた。
……やばい。気のせいであってほしい。
「部屋着、貸しましょうか。パーカーとスウェットしかないですけど」
「あ、うん……助かる」
「シャワーも使っていいですよ」
「……は?」
聞き返した声がちょっと裏返った。本人はまったく気にしてないらしく、さらにこう言った。
「レディファーストってやつです。だから、先どうぞ」
「いや、そういう意味で“レディファースト”使う!?」
「……あ、違いました?」
心臓止まるかと思った。
でも、彼の顔は真面目そのもので、変な下心とかは一切なかった。
それが逆に困る。
「……じゃあ、借りる。服も、シャワーも」
「了解っす。タオルは洗面所の棚にあるんで、適当にどうぞ」
「わかった」
タオルと着替えを抱えて脱衣所に向かう途中、彼がぼそっとつぶやく。
「ボディソープ、レモンのやつです」
「だからそういう情報いらないってば!」
「えっ、女子って香りとか好きかなって……」
「……うん、ありがとう。もう黙ってて」
口ではそう言いながら、顔が熱くなるのを止められなかった。
──たぶん、自分の言動がどういう破壊力を持ってるか、この人は一生気づかない。
浴室のドアを閉めて、私は深くため息をついた。
「……いや、これは試練だな。試されてる……絶対」
タオルを棚に置きながら、部屋着をフックにかける。
床のマットがふかふかで、それがまた現実っぽくて困る。
シャワーの温度をひねった、そのとき──
「先輩〜、シャワーの温度、ぬるめ派ですか? 熱めなら右に──」
「今その情報!? ていうか、黙っててって言ったよね!」
「了解っす〜!」
やっと静かになったと思ったら──
「……あ、あと、シャンプーは二種類あります。左が無香料、右が柑橘系っす」
「選ばせないで! 黙っててって言ったの、ほんとに忘れた!?」
「すみません……!」
壁越しの声が、ちょっと笑ってるみたいで、くやしい。
「シャワーヘッドの角度、ちょっとクセあるんで──」
「もう喋るな!!」
怒鳴ったあとで、思わず自分の口を押さえた。
……なにこの時間。なにこの人。
──ていうか。
なんで私、後輩男子の家でシャワー浴びてるの?
終電逃して、ネカフェも使えなくて、そしたらなんか当然みたいに誘導されて。
で、なぜか今、シャワー浴びてる。
この状況、説明できる自信ゼロなんだけど。
なのに、彼の声に反応して、つい突っ込んでる私がいる。
「……ほんと、何してんの私」
手のひらに落ちてくるお湯の温度だけが、少しだけ現実をくれた。
でもそれも、すぐに湯気に変わって、天井へ逃げていった。
「……バカ……っ」
シャワーの音にまぎれてつぶやいた言葉は、蒸気に溶けて消えた。
◆
髪をざっと乾かして、借りたTシャツに袖を通す。
少しぶかぶかで、肩が落ちる。匂いは──柔軟剤。たぶん、いつも通りのやつ。
リビングに戻ると、彼はソファの背にもたれてスマホをいじっていた。
「おかえりっす、先輩。似合ってます」
「……何が」
「そのTシャツ。先輩が着ると、なんか女子って感じっすね」
「女子です」
「そうでした!」
こいつ、素で言ってるのがまた厄介なんだよな……。
私はなるべく距離を取るように、ソファの端っこに腰を下ろす。
クッション一個ぶん──いや、気持ちもう半個分遠ざけとこう。
「てか、先輩──まだ眠くないっすよね?」
「……まあ、多少は」
「じゃ、自分もシャワー浴びてきます。ちょっとさっぱりしたくて」
「ん。……どうぞ」
そう言って彼はのそのそと立ち上がって──
何の前触れもなく、Tシャツの裾を引っ張り上げた。
「ちょっ──待って待って待って!?!?」
「え、なにか?」
「ちょ、今わたし居るから!!」
「えっ……あ、でも自分、男っすよ?」
「知ってるけど! そういう問題じゃないの!!」
ぽかんとした顔で、上半身裸のまま、こっちを見てる。
……いや、見るなよ。こっち見るな。
──って、ちょっと待って。
なんでそんな引き締まってんの、あんた。
腕とか、背中とか、線は細いくせに意外とちゃんと筋肉ついて、
なんか……想像より、ずっと“男”だった。
やめて、それ。無自覚に距離感バグらせるやつだから。
「女性って上半身見られると恥ずかしいらしいっすよね?」
「うん。今それ女性がここにいますけど!?」
「自分、男性なんで問題ないっすよね?」
「そういう理屈じゃないから!!」
ああもう、限界──!
私はクッションを全力でぶん投げた。
彼の背中にヒットして、ぺしんと音が鳴る。
「いてっ」
「“いて”じゃない! Tシャツ着て!! はやくっ!」
「はいっすー……」
布団を引っ張ってかぶり、全身を包み込む。
なにこの夜。なにこの人。なにこの状況。
……ていうか。
なにこのドキドキ。
浴室のドアが閉まる音がして、静かになったリビング。
でも、こっちの心臓の音だけは、どうしたって静まってくれなかった。
◆
私はそっとソファに腰を下ろして、視線を天井に向けた。
「……なにやってんだろ、私」
終電を逃して、後輩男子の家に来て。
シャワー借りて、Tシャツ借りて、距離感も何もあったもんじゃない。
普段なら絶対にありえない状況のはずなのに──
あのテンポで押し切られると、もう思考がついていけない。
それでも彼が悪気ゼロなのは、分かってる。
ただ……それが一番タチ悪いって、誰か教えてあげてほしい。
──と、ぼんやり考えていたとき。
浴室の奥から、ぼそっと歌声が聞こえてきた。
♪「恋に落ちたことも 忘れかけた夜に──」♪
……え、歌ってる? シャワー中に?
思わず背筋を伸ばす。
それはなんの前触れもなく始まって、でも不思議なほど耳に馴染んだ。
音程もリズムも、なんなら表現もちゃんとしてて──
「……なにげに、上手いんだけど……」
無意識なのがまたずるい。
あの子、歌とか歌わなさそうな顔してたくせに。
しかも、歌詞。
♪「君がくれた言葉を まだ胸に隠してる──」♪
……失恋ソングなんですけど!?!?
「え、ちょっと待って。なに? それ、どういう選曲??」
声には出さなかったけど、内心では全力でツッコんでた。
しかも……ちょっと沁みてる自分が、いちばん面倒くさい。
「はあ……やっぱ私、今日バグってる」
深夜の天井を見上げながら、
私はソファに背を預けて、ゆっくりとまぶたを閉じた。
浴室からの音だけが、やけに静かな部屋に響いていた。
◆
浴室のドアが開いて、湯気と一緒に彼が出てきた。
「ふぃ〜……さっぱりしたっすー」
タオルで髪を拭きながら、Tシャツ姿でリビングに戻ってくる彼。
私の視線が、思わずそっちに吸い寄せられた。
ああ、もう……普通に戻ってくるな。こっちはさっきまで混乱してたのに
彼は何事もなかったように私の前に立ち止まり、
ニッと笑いながら、ふいにこんなことを言った。
「風呂上がりの2人でやることって言ったら、あれしかないっすよね!」
──は?
一瞬、脳内の思考が停止する。
え、なに? ちょっと待って。
風呂上がりで、2人で、あれって……え? なにを言い出すの? この子。
「私、もう風呂出てけっこう経つんだけど!!」
「だからこそ、っすよ」
やだやだやだやだやだ。
落ち着け私、冷静になれ。これは絶対、いつもの天然ボケに違いない。
そもそもあの顔でそんな大胆なこと言えるわけが──
「はい、どうぞ」
彼は、冷蔵庫から取り出したパックを手に、牛乳の入ったグラスを差し出してきた。
「……は?」
「お風呂上がりといえば、やっぱり牛乳っすよね」
「……」
「自分はコーヒー牛乳派なんすけど、プレーンも買ってあったんで」
ああもう、やっぱりそういうことか。
早合点した自分が、馬鹿みたいに思えてくる。
「なんか、すごく恥ずかしい」
「え、なにか……?」
「なんでもない」
私は牛乳を受け取り、ひとくち。
冷たくて、ほんのり甘くて──さっきまでの火照った顔が、すこし落ち着いていく。
「で、これからどうするっすか? まだ、寝るには早い気も」
「そ、そうね……。まあ、確かに」
「じゃあ──ゲーム、します?」
「……ゲーム?」
私が首を傾げると、彼はニッと笑って、棚からゲーム機を取り出した。
「なんか、夜ふかしって感じしません? こういうの」
「……たしかに。もうどうにでもなれって感じよね」
「お、そういうヤケになってる先輩、嫌いじゃないっすよ」
「……あんた、やっぱり確信犯でしょ」
「ん? 自分、何かしました?」
そうやって笑ってるとこが、いちばんずるい。
しかもちゃんと、2Pコントローラーをこっちに渡してくるあたり、抜け目がない。
夜が更けていく。
ゲームの画面越しに、少しずつ彼との距離も、曖昧になっていく──気がした。
◆
「えっ、ジャンプってどのボタン?」
「そこの──あ、それっす、それ」
「これ? え、ちょっ、押してるのに反応しないんだけど!?」
画面の中ではキャラクターが川に落ちて、残機が減っていく。
隣で笑いをこらえながら操作している倉田くんの横顔が、
薄暗いテレビの光に照らされていた。
「む、むずかしい……」
「大丈夫っすよ、最初はみんなそうなんで」
彼はそう言って、自分のコントローラーを床に置いた。
そして、当たり前のようにこっちへ身を寄せてきた。
「……え?」
「ちょっとすみません、手だけ貸してもらいますねー」
「ちょ、ちょっと近っ……!」
気づいたときには、彼の両手が私の手の上に重なっていた。
背中に、彼の体温と気配。
すぐ耳の横で息をする気配がして、思わず肩が跳ねた。
「ここでジャンプ。で、ここ押しながら進むと、スライディングっす」
「えっ……う、うん」
「よし、じゃあ実戦いきましょう」
何が“よし”なんだか。
というか、これ、実質、後ろから──
いや、落ち着け私。冷静になれ。
そんなつもりでやってるわけじゃないのは、さっきまでの流れでよくわかってる。
──でも、それが逆にずるい。
私がドキドキしてるのを知らずに、
ふつうの顔して『はい、ジャンプっす』なんて言うもんだから、
こっちはもう、息の仕方がわからなくなってくる。
「……で、できた!」
「おお、ナイスです! さすがっすね」
「べ、べつに……そっちがやったようなもんでしょ」
「そんなことないっすよ。ちゃんと先輩の手で操作してましたって」
それ、わかってて言ってる?
思わず彼の顔を見たけれど、やっぱりいつもの笑顔だった。
ちょっとだけ、まつげが長いのがくやしい。
画面の中では、キャラクターがゴールテープを切っていた。
その瞬間、ふたりの距離だけが、まだ“ゴール”の向こう側にある気がして──
私はコントローラーを握りしめたまま、息を呑んでいた。
◆
「──そろそろ、寝ます?」
電源を落としたあと、倉田くんがぽつりとつぶやいた。
時計の針は、午前2時40分を指していた。
さっきまでのゲームの余熱が、まだ指先に残っている気がする。
「そうね……そろそろ、かな」
私がそう答えると、彼は部屋を一周見渡して──案の定、視線はソファとベッドのあいだをさまよっている。
「……じゃんけんします?」
「……まあ、それしかないかもね」
じゃんけん。
この期におよんで、そんな小学生みたいな手段で、今夜の“寝る場所”を決めようとしてる私たちってなんなんだろ。
「最初はグー、じゃんけん──ぽん!」
私:パー
彼:チョキ
「よっしゃ、勝ちましたー!」
「うわー……負けた……」
負けた。つまり、ソファ……。
覚悟を決めかけたとき──
「じゃ、先輩はベッドで」
「……え?」
「あっ自分床でも寝れるんで――」
彼はあっさりと、当然のように言った。
「あと、毛布、そこに置いときますね」
「……うん、ありがと」
「歯磨きしてから寝てくださいね」
「だから、なんで保護者っぽくなるのよ……」
彼はふっと笑って、寝室のドアを開けた。
その背中を、私はなんとなく目で追ってしまった。
リビングには静けさが戻ってくる。
私はベッドの端に腰を下ろして、ため息をひとつ。
……最初から譲る気だったんじゃん
ほんと、なんなんだろ、この人
だけど──
負けたのに、勝った気がしてるこの感じ。
たぶんそれって、心が少しあったかくなってるってことなんだと思う。
◆
眠れなかった。
ふかふかのベッド。
ほどよい毛布。
そして……彼の匂いが、微かに混じる枕。
……落ち着くわけ、ないでしょ
ごろん、と寝返りを打つ。
天井は見飽きたし、静寂もだんだんうるさくなってくる。
さっきまでのゲームの笑い声が、耳にこびりついている。
……ちょっと、水でも飲もう
そっとベッドから抜け出して、リビングへ向かう。
照明は落ちていて、ほんのり冷えた空気が頬をなでた。
――そのとき。
「……先輩?」
「っ──なに、起きてたの?」
「いや、自分も眠れなくて……ちょうど水飲もうと思ってたとこっす」
……あれ、なにこれ、さっきのやりとりの再放送?
彼はソファの上で、毛布を肩にかけたまま、あくびをひとつ。
その無防備な姿が、なぜだか、やけに近く感じる。
「……じゃあ、一緒に飲む?」
「はいっす」
並んで座って、紙コップで水を飲む。
なんてことない、ただの水なのに。
夜の静けさと彼の隣だと、ちょっとだけ味が違って感じる。
「……なんか、寝れないですよね。こういうとき」
「うん。いろいろ考えちゃって」
「今日のゲーム、先輩めっちゃ本気出してたなーとか」
「いやそこ!?」
「手がちょっと震えてたし、たぶん緊張してたんだと思うんすよね」
「してないってば……!」
そう言いながら、私の指先がぴくっと反応してしまう。
彼は、いたずらっぽく笑った。
「……あと」
「ん?」
「さっき、ベッドの中で。ちょっとだけ寝言、言ってましたよ」
「は!? ちょ、なに言ってたのよ!」
「んー、秘密っす」
「うそでしょ!? やだ、聞かせて……!」
冗談か本当かもわからない。
でもその笑顔が、なんだかずるくて──
私は、心臓の鼓動をなんとかごまかすように、水をもう一口。
天然。無自覚。悪気ゼロ。
それなのに、私はどんどん揺さぶられていく。
──ほんと、なんなのよ、もう。
彼が無邪気に笑うその横顔を、私は水の向こうにぼんやり見ていた。
◆
ふたり並んで、水を飲む。
言葉よりも、沈黙の方が居心地よくて。
なのに、なぜだろう。さっきよりも心臓がうるさい。
「──あの、先輩」
「ん?」
倉田くんが、ぽつりと口を開いた。
夜の静けさのなかで、その声は妙に落ち着いていて──どこか違って聞こえた。
「ちょっと……相談、いいっすか?」
「うん。どうしたの?」
「友達の話なんですけど」
……友達の話、ね。
わざわざ“そういう枕詞”をつけるときって、大体……。
「その友達、サークルに好きな先輩がいたんすよ」
「……うん」
「でも、その先輩、最近失恋したらしくて……。しかも、同じサークルの人に」
「……」
「友達、ずっと悩んでたんす。タイミング、悪すぎるって」
……え、ちょっと待って。
それって──
「でも、最近ちょっと思ったらしくて」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「“失恋したからこそ”、本当に好きな人を見つけてほしいって」
ドキッとした。
たぶん、その言葉が──私の奥にあるものを、知らないうちに優しく触ったから。
「だから……その友達、“ちゃんと好きって伝えてみようかな”って思ったらしいっす」
「……」
「──遅すぎるって、思われてもいいから」
心臓が、また鳴った。
水の音なんて、もう聞こえない。
彼の横顔は、いつもより少しだけ真剣で。
でも、どこか照れくさそうで。
名前は、出さない。
けれど──そのすべてが、私に向いてる気がして。
私は、笑った。
なんでもないふりして。
「その友達に……がんばれって伝えといて」
「はいっす」
まっすぐな返事に、また心が揺れる。
夜はまだ、終わらない。
けどこの瞬間、ほんの少しだけ、“朝”が近づいた気がした。
◆
眠れなかった。
ソファに横になる倉田くんの背中が、暗がりの中にぽつんと見える。
私も、布団にくるまる気にはなれず、こっそりと部屋の扉を開けた。
冷たい水を口に含んで、深呼吸をする。
まだ、頭の中がふわふわしてる。さっきの“友達の話”、やっぱり、私のことなんじゃないかって──
ふと、気配に気づいた。
リビングに戻ると、倉田くんはソファで寝返りを打っていた。
うつ伏せ気味に丸くなって、目は閉じている。
寝てるんだ……と思ったそのとき。
「沙耶……せんぱい……すきっす……」
時が、止まった気がした。
え、いま……なに?
息を呑んで、思わずその場に立ち尽くす。
でも彼は目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
──まさかの寝言?
嘘でしょ。寝言で、そんな告白みたいなこと、普通言う?
……いや、倉田くんなら……言いそうかも。なんか、妙に納得しちゃってる自分がいる。
心臓が、暴れてる。
彼の寝顔を見つめたまま、何も言えずに、ただ数秒間立ち尽くしてしまう。
気づけば私は、自分の寝床に戻っていた。
まだ寝られそうにない。
でも、なんだろう。胸の中にあった重たさが、ふっと軽くなった気がする。
そっと枕に顔をうずめながら、私はぽつりと、声にならない声を吐き出した。
「……寝言じゃなくて、ちゃんと言ってよ。ばか」
その言葉が、夜の静けさにすっと溶けていく。
頬が熱い。心臓がうるさい。どうしてこんなに、嬉しいんだろう。
背中を向けて、布団にくるまる。
目を閉じると、さっきの声が耳の奥に、ほんのり残ってる。
気づいたら──私は、眠っていた。
こんなにすぐ眠れるなんて。
──おやすみ、倉田くん。
◆
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
うっすらとした香りに目を覚ますと、キッチンから、何かを焼く音がする。
「……え?」
起き上がると、倉田くんがエプロンをつけて立っていた。
手にはフライパン。目玉焼きが、じゅうと小さく音を立てている。
「あ、先輩おはようございます。もうちょっとでベーコンエッグ完成するっす」
「……ベーコンエッグ?」
その横には、味噌汁の湯気が立っていて、テーブルにはなぜか納豆のパック。
ご飯はよそられてるし、パンの影すらない。
洋食なの?和食なの?ていうか、どっちにしても……組み合わせ、最悪では?
「……あのさ、倉田くん」
「はいっ?」
「……この朝ごはん、テーマ何?」
「え?“朝”っすよ」
「……はい?」
「いや、朝に合うやつ全部入れたら、こうなったっす」
「……全部入れちゃだめなのよ」
呆れながらも、ふと笑ってしまう。
おかしいな。昨日はあんなに緊張してたのに、今は、なんか……普通に会話してる。
「ちなみに、先輩って目玉焼き何派ですか?」
「は?」
「ほら、ソース?しょうゆ?塩?ケチャップとか?」
朝から余計なことばっかり言う。
だけどその言葉が、昨日までの重たさをふっと忘れさせてくれる気がする。
ベーコンエッグを一口かじって、味噌汁を飲んで──
合わない。びっくりするほど合わない。
でも、それがなんか、ちょっとだけ、嬉しい。
「……あ、先輩」
「ん?」
「ついてるっすよ、口。ほら──」
そう言って、倉田くんがティッシュで私の口元を拭った。
自然すぎて、一瞬、何が起きたのかわからなかった。
……ちょっと待って。
それ、普通そんな距離で、さらっとやる!?
「~~っ!自分で拭くし!」
「え?あ、すみません。でも、もう拭けてますよ?」
「……もういいっ!」
ふいにそらした視線の先で、朝日がテーブルを照らしている。
なんだろう、この朝。変なのに、心地いい。
“好き”なんて、まだ言えないけど──
たぶん、今日のこの朝を、私はずっと覚えてる。
◆
玄関に立つと、靴を履く手がもたついた。
別に、慣れてないわけじゃない。ただ、なんとなく──この空間を離れたくなかった。
「送っていきましょうか?」
倉田くんが、いつもの調子で言った。
「いい。……駅まで歩くくらい、ひとりでできるし」
うつむいたまま、言い返す。
本当は、もう少しだけ、隣を歩いてほしかったけど。
言葉にしたら、きっとダメになってしまう気がして。
「……じゃあ、またサークルで」
「……うん。別に、避けたりしないし」
「えっ、避ける予定あったんすか?」
「ないわよっ」
笑いが、こぼれる。
なんてことない会話。それでも、昨日までとは、確かに違う。
「先輩」
玄関のドアが開く直前、彼の声が背中を追いかけてきた。
「ん?」
「……また、泊まりに来てもいいっすよ」
鼓動が跳ねた。
「……なにそのセリフ」
「え、違います!変な意味じゃなくて、あの、終電とかまた逃したときとか、そういう時に──」
しどろもどろになる彼が、おかしくて、
でも、やっぱりその言葉が嬉しくて。
「……変な意味で言ってるでしょ」
「いや、ほんとに違うんでっ!」
「……じゃあ、また“終電なくなったら”だけね」
「マジっすか! じゃあ──」
「……浮かれないで。条件つきだから」
ふたりの間に、静かな笑いが生まれる。
その音は──もう、“知らない人”同士じゃなかった。
◆
──恋が始まる瞬間って、
なにか特別な言葉とか、キスとか、
そういう“わかりやすい出来事”じゃないのかもしれない。
ふとした沈黙のなかで、
ふたりが同じ温度で、笑えるようになったとき。
視線がぶつかって、どちらともなく逸らしたとき。
ほんの少し、距離が近づいたとき。
──その全部が、たぶん、恋の始まりだった。
……そんなこと、本人の前じゃ絶対に言えないけど。
『また、終電なくなったら』
そう言ったのは、私のほうだ。
“気が向いたら”なんてごまかしたけど──
本当はもう、きっと、私はあの笑い声が好きなんだと思う。
帰り道、昨日より少しだけ軽くなった足取り。
それでも、まだ胸の奥がふわふわしてる。
──まさか、たった一晩で。
こんなに“境界線”が曖昧になるなんて。
……ほんと、聞いてないよ。
倉田くんってば、侮れない。



