その日、私こと佐倉奈々の社会人生活はあっけなく幕を閉じた。
「佐倉くん、君、明日から来なくていいから」
課長の言葉は、あまりにも軽かった。
冗談かと思って笑おうとしたけれど、課長はパソコン画面から目を離さずこちらを見向きもしない。
「え……あの、どういう……?」
「ほら、新人の子、優秀でしょ? 君は真面目でよく働いてくれたけど、ぶっちゃけ真面目なだけじゃうちはやってけないの。足手まといになる前に、ね?」
私は言葉を飲み込んだ。
反論もできないほどに、私の頭は真っ白になっていた。
「……わかりました」
それだけを口にして、私は自分のデスクを片付け、会社を出た。
外はネオンがきらきらと輝き、金曜日の夜らしく街は浮かれている。
そんな光景がやけに遠く感じられた。
駅に向かう途中、どうしても家に帰る気になれず、私は居酒屋街へ足を向けていた。
「……飲もう」
普段は足をむけることのない赤提灯の暖簾をくぐり、焼き鳥とビールを頼んだ。
店員の威勢のいい声や、隣の席から聞こえるサラリーマンの愚痴。
そういう音に紛れて、少しでも現実から逃げたかったのかもしれない。
二軒目、三軒目……。
胸にぽっかりと穴が空いてしまったかのような空虚感、明日からどうしようという不安、そしてちょっぴりの悔しさは消えない。
「うう、酔えないぃ……」
憎い、アルコールに強い家系に生まれたことが憎い……。
「まいどあり~」
最後のお店を出る頃には、街の灯りと騒がしさは遠い過去に。
「あ、終電……」
腕時計に目を落とせば最終電車も行ってしまった。
深い闇色の夜空には点々と星々が煌めく。
どこか遠くからは救急車の走る音が聞こえてきていた。
勿論バスは動いていない。
タクシーを呼んで帰ろうか? でも、今日から職の無い身だ。
飲み歩いちゃったし、お金は節約しないと……。
「……歩いて帰ればいいか」
私は深夜の街中を歩いて家に帰ることにした。
女一人で夜の街歩きは危ないかもしれないが、陽が昇る頃には家に帰れるだろう。
……あと数年で三十路のおばさんを誰が襲うのか。
なんて悲しいことを考えていた時だった。
ポツ……ポツ……。
「うそ、雨?」
降り始めた冷たい雨。
逃げるように、私は近くの神社の鳥居をくぐって拝殿の軒下に身を寄せる。
ザー、という雨音だけが響く。
「……真面目にやってきたのにな」
天気にまで裏切られた気がしてため息が出た。
どうして私ばっかり……。
その時だった。
「そこのおねーさん! どうしたのしょんぼりした顔してさぁ!」
「え……?」
声の方に振り向くと、賽銭箱の影から酒瓶を手にした巫女さんがひょいっと出てきた。
「えっと……え?」
こんな時間に、巫女さん……?
突然のことに固まる私。
巫女さんは神社の薄暗い照明でもわかるくらい真っ赤に酔ったほほを緩めて笑う。
「そうよそう! おねーさん!! ちょっと聞いてよ!! 私さ婚期も終電も逃しちゃってさぁ!! どーしようもないの今!! ぎゃははは!!」
何が面白いのか彼女は腹を抱えて笑い出した。
「えっと……あは、はは……」
困って愛想笑いをする私。
瞬間。
「笑いごっちゃないのよこっちゃ!! 婚期も終電も逃してるのよ!! 笑ってんじゃないわよ!!!! ぶち祓うわよ!!?? やってらんないわ!!」
巫女さんがキレた。
「ええ……」
巫女さんは泣き笑いでぷんすこ怒り、酒瓶に口をつけて「ぷはー!」っと一息。
……ヤバい巫女さんだ。
すすっと距離を開けるが、その分巫女さんがずずっと私に寄りかかるようにして距離を詰めてきた。
「くんくん。ん? あんたから酒の匂いがするわね? なに? あんたもお酒好きなの? 私もお酒めっちゃ好きよ? 私達仲間ね、仲間! のむ?」
情緒はどうなっているのか、巫女さんは直前までキレていたのも忘れたようにけろりと笑顔になって酒瓶を差し出してくる。
「あ、す、すみません……もうたくさん飲んだので……」
丁重にお断りすると巫女さんはすんなりひいた。
「あ、そ。まあいいわ。ん? もうこの酒瓶空じゃない!! 飲んだの誰よ!!」
ああ、この人面倒くさい感じの酔っ払いだぁ……。
彼女は飲み干した酒瓶をドンと拝殿の階段に置くと、私に向き直った。
「さて、と。それじゃここいらで自己紹介ね? 私は葛葉真白。32歳で彼氏絶賛募集中の巫女よ。妖怪退治で生計を立てているわ。真白でも真白さんでも好きに呼んで」
赤ら顔のままだが、巫女さん……葛葉真白さんはいたって堂々とそう告げた。
ザー……。
と、どこか先ほどまでよりも弱い雨音が耳朶をうつ。
「え……あ、ど、どうも……真白、さん」
雰囲気に流されて頭を下げる私。
「おっけ。それじゃあ次はアンタの番よ。なんて名前? どうしてここに?」
「えっと、その……佐倉奈々って言います。会社をクビになって、それでヤケ酒して、でも全然酔えなくて……今日から無職だから節約のために歩いて帰ろうとしたら雨が降ってきて……」
自分でも不思議なくらいぽつぽつと言葉が出てきた。
相手は妖怪退治で生計を立てているとかいうヤバそうな巫女さんなのに……。
「あ~、奈々ちゃん会社クビになったのね。おわったじゃん。おめでと。ようこそ社会不適合者の世界に!」
「いや、めでたくないんですけど……」
なんて失礼な人だろうか。
「まぁ細けぇことはいいの。私なんて終電も婚期も逃してるんだからね? 二冠よ二冠! どうよ!」
「……笑えないですよそれ」
私も終電逃してるけども。婚期は、まだ……うん。
「笑っとけ笑っとけ。人生は酒と笑いで乗り切るもんよ!」
そう言って酒瓶を掲げ、ぐびぐびと一口。
「……あの、妖怪退治って儲かるんですか?」
「儲からない」
「即答……」
「でもスリルはあるわよ。あんたもやってみる? 人手不足だし大歓迎よ!」
「え?」
「じゃ、さっそく。あそこでうろついてるアレ、見える?」
そう言って、真白さんは鳥居の先、暗がりの方を指差す。
「……何も——」
目を凝らすと、ゴミ袋を漁る毛むくじゃらの影がぼんやりと浮かび上がった。
「ひっ……!」
「あ、見えたわね。おめでと、合格!」
適当な拍手をする真白さん。
「ご、合格?」
「今見えてなかったら弟子にしないで、コレで記憶消して路上に捨てようと思ってた」
コレ→ブンブン振り回している空の酒瓶。
「人でなしですか!?」
「さ、行くわよ弟子。初仕事よ!」
「え、ちょ、私まだ弟子になるなんて一言も――」
酔っ払いに腕を引かれ、私は夜の神社を後にした。
神社を出てすぐ、路地裏へと真白さんは突入した。
「ちょ、真白さん! あれ、本当に妖怪なんですか!? 野良犬じゃ……」
「野良犬ならもっと愛嬌あるわよ。あれはゴミ袋を荒らす低級妖怪“ぬらぬら”ね。ほっとくと増えて商店街が腐海になるわ」
「腐海って何する気ですかあのモヤモヤ!」
「ゴミ食って増えてくの。カビとか埃とか汚れを増殖させるの。そういう妖怪」
毛むくじゃらの影は、こちらに気づくと黄色く濁った目をギロリと光らせた。
「……うわ、こわいッ!」
「はい、初仕事〜。ほら、これ持って」
差し出されたのは、なぜか御札と柄の短いホウキ。
「え、こ、これでどうしろと……」
「頭を軽くトンッとして御札を貼れば消えるわ。簡単でしょ?」
「簡単じゃないですよ!?」
私が叫んだその瞬間、ぬらぬらはギュンッと地面を滑るように迫ってきた。
「きゃあああああ!」
「ほらほら向こうから来たわよ! 派手にぶちかまして!!」
「派手にとかそういう問題じゃ!」
危うくぶつかる寸前で身をひねった私はホウキの柄でぬらぬらをこつんと叩いてしまった。
思ったより手応えが軽く、「ぬぼっ」と妙な声をあげてぬらぬらが地面を転がる。
……あれ、この妖怪、弱い??
「今! 御札!」
「え、あ、はいっ!」
言われた通りにぴたっと御札を貼ると、ぬらぬらはじゅわっと湯気のように空気に溶けて消えた。
「……消え、た?」
「おお、お見事! 今日からあんたはこの葛葉真白の弟子よ! 光栄に思いなさい!!」
「え、お給料出せるんですか?」
「もちろん、出せません! 無給で働いてもらいます!!」
「ブラックすぎる……!」
「まあまあ、でも代わりにやりがいと衣食住くらいは提供してあげるわよ!」
雨上がりの路地裏で、真白は空になった酒瓶をひょいとゴミ袋に突っ込み、満足げに笑った。
その条件で誰が働くというのか。
でも私は真白さんの笑顔から目を離せなかった。
ぬらぬらを見つけては退治し、見つけては退治し……。
あらかたいなくなった頃には深夜も既にうし三つ時を超えていた。
「さて……次の獲物を探しにいくわよ弟子!」
私、会社をクビになった深夜に何をしてるんだろ……。
「ぜーぜー、で、弟子じゃないですって……え、ま、まだやるんですか?」
ぬらぬら退治が終わるや否や、真白さんはくるりと踵を返し、路地の暗がりを覗き込む。
「当たり前じゃない。丑三つ時は妖怪のゴールデンタイムなのよ!!」
「そんなテレビ番組みたいな……」
真白さんの足取りは千鳥足。
……妖怪退治ってこんなフラフラでやっていいのだろうか。
(でも、息一つ乱れてない……流石プロ?だ)
しばらく妖怪を捜し歩くも成果なし。
話のネタも尽きた(最初からない)ので私はおずおずと尋ねることにした。
「……あの。ところで、真白さんはなんで婚期逃しちゃったんですか?」
真白さんはぴたりと立ち止まり、遠い目をした。
「……仕事よ」
「仕事って……妖怪退治の?」
「そう。あの時の私は合コンよりも妖怪退治だったの」
「あー……その優先順位じゃ無理ですね」
私も仕事優先タイプだからなんも言えない……クビになったけれども。
「だってさぁ! 責務とか義務とか、世の中の平和の方が大事じゃない!?」
「そ、そうですよね! わかりますわかります!!」
後半のスケール感は違うけどおおむね同意。
真白さんは更に続けた。
「あと、初デートで必ず『最近戦った中で一番危険な妖怪』の話をするんだけど、男ってすぐ引くのよね」
「……それは誰でも引くと思います」
「あと酒。飲み放題だと必ず元取るまで帰らないのよね。もったいないもん。お酒大好き!」
「……」
なるほど、この人、そりゃ婚期を逃すわけだ。
あと数年で私も同じ年齢に……え、やだこわ。
ぶるると背中が震えた。
「でもねぇ、奈々ちゃん」
真白さんはふっと笑った。
「私ね、別に後悔してないの。妖怪も酒も大事な私の一部。旦那がいなくたって毎日がエブリデイなのよ?」
酔った紅い顔で、それでもこの時だけはまっすぐに私の目を見て告げる真白さん。
そこには確固たる芯があった。
「……なんか、かっこいいですね」
「でしょ? だからあんたもクビになったくらいで落ち込む必要なしなしナッシングよ!」
真白さんは勢いよく私の背中をバンバンと叩く。
「そ、そうですよね……」
痛いけど……悪い気分じゃない。
その時——。
「……ん?」
真白さんが小首を傾げた先、商店街のアーケードの端っこに、長い舌をだらだら垂らす毛むくじゃらの影が見えた。
「ひっ! あ、あれは何ですか!?」
「……あれは“ねばねば”! ぬらぬらの上位互換よ!! 増えるし、ぬらぬらと違ってよだれをまき散らすから余計に汚いの!!」
「妖怪ってみんなあんなのばっかなんですか!? こんなんじゃ弟子やってけないですよ私!?」
「ごめんね奈々ちゃん。今の妖怪は昔の妖怪みたいに綺麗じゃないの……だから退治しないといけないのよ……ん、今弟子になるって?」
「言葉のアヤです!」
「よーし、ここは師匠の良いところ見せちゃわないとね!」
真白さんは御札を……口でくわえた。
「ちょ、なんで!?」
「両手が酒瓶で塞がってるからよ!」
「武器より酒ですか!?」
そんなだから婚期逃すんですよ!なんて残酷すぎて言えそうにない。
ねばねばはぬるぅんと迫ってくる。
「こいや!!」と、真白さんはなぜか走り出し、ねばねばの近くまで到達すると御札を口からぷっと吹き出した。
——ぺちゃっ。
「……顔面に貼れた! 私って天才じゃない!?」
「いや、ただの奇行!! これだから酔っ払い……は、倒せ――てる? は??」
ねばねばは情けない音を立てて消えていく。
真白さんは「ふぅ〜」と息を吐き、残った酒を一気飲み。
東の空が白んできた。
なんだったんだろこの時間……。
遠く朝焼けを眺めていると真白さんが私の肩を叩いた。
「……さ、夜明けね。帰るわよ弟子」
「だから弟子じゃ――」
その時、私のお腹がぐーっと鳴った。
にやにやと真白さん。
「帰る前に何か食べていきましょ!」
「さ、賛成です……」
商店街のシャッターが一つ、また一つと開いていく。
電車も走り出したのか、ガタンゴトンと遠く走行音が大気を伝ってきた。
定食屋の暖簾をくぐると、早朝から土方のおじさんたちが味噌汁をすすっていた。
私と真白さんはテーブル席に腰を下ろすのだった。
「すいませーん! 生ビールと刺身定食二つ!」
「えっ!? まだ早朝ですよ!?」
「朝から飲むビールが一番うまいの! 仕事終わりの飯がうまいのと一緒よ!」
「……いや、まぁ、わかりますけども」
残業の後の深夜飯が美味しいのと同じ原理だ。
注文を終えると、真白さんはカバンをごそごそし始めた。
取り出したのは、ぬらぬらの切れ端みたいな半透明の塊。
「それ……何ですか?」
「奈々ちゃんへのお土産」
「お土産って……」
センスが壊滅的だ。
正直キモ……うーん。
「でもこれ、乾かしてキーホルダーにすると運気上がるのよ?」
「う……ちょっと欲しいかも」
「でしょ? あげる」
「ありがとう、ございます……」
複雑な気持ち……。
なんてやりとりをしているうちに定食が運ばれてきた。
真白さんは豪快にビールをあおり、刺身をかっ喰らう。
……自由な人だなぁ。
「ふぅ〜……生きててよかったぁ!」
「……そんな大げさな」
私は焼き鮭定食をもそもそといただく。
素朴な味……。
「いや、マジマジ。妖怪退治は命がけなのよ? 婚期も逃すし」
「……最後のは違いますよね?」
「言うね奈々ちゃん?」
真白さんはケラケラ笑うが、急に真顔になった。
「奈々ちゃん、人生の先輩として少しアドバイスを」
「先輩って言っても真白さんと私、そんなに齢は離れていないような……」
私が28で、真白さんが32、4歳差だ。
「じゃあ、師匠としてのアドバイス」
「弟子じゃありませんって何度言えば――」
すると、ドン! とジョッキを置く真白さん。
「うっさいわね聞きなさい! ……おほん! あのね? 人生って多少失敗してもすぐには死なないのよ? どうせなら、楽しいこと優先するのが吉ってわけわかる? だからクビくらいでくよくよしない! ね?」
真白さんはもっともらしいことを調子よく言って笑った。
励まし、のつもりだろうか。
「なんですかそれ」
私は思わず笑みがこぼれた。
こんなにだらしなくて、楽しそうで、それで妖怪退治をしている変な巫女さんなんていないだろう。
私も、こんなふうに笑えるなら――。
箸を置いて、改めて真白さんを見据えた。
「……どうせ無職ですし、妖怪退治の弟子やっぱりやってみてもいいですか?」
「お、マジ? 今の説教が効いた?? ……やったぜ! よろしくね奈々ちゃん! じゃあ、はいこれ! 弟子祝いのお酒」
「いや、朝からお酒はちょっと……」
「なに? 師匠の酒が飲めないっての!? ま、アルハラはまずいか……じゃあ、祝いのお刺身よ! 食べなさい!!」
「あ、はい、いただきます……あ、おいし」
「ふっふっふ! これで奈々ちゃんは私の弟子よ!!」
私は差し出された赤身を食し、師弟の契りを交わすのだった。
お会計になった。
真白さんが「ここは奢るわ。師匠だからね!」と財布を取り出して——空っぽだった。
「……奈々ちゃん、悪い。奢って」
「師匠なのに……」
「哀れみの目を向けないで!!」
結局、私は真白さんの分まで払った。
でも不思議と、嫌な気分じゃなかった。
職なき身なのに、だ。
「いい天気ですね……」
「いい朝ね弟子!」
店を出ると、朝日が眩しい。
夜中に雨がふっていたのが嘘のように、今朝の空は青く澄んでいる。
あんなに重かった胸の中が、少しだけ——いや、かなり軽くなっていた。
無職? 婚期? そんなの今はどうでもいい。
終電を逃しても始発がある。
今日は続いていく。
——ま、どうにでもなるでしょ!
「んー!」
背伸びをする私に真白さんが振り返る。
「さて。今夜から忙しくなるからね、覚悟しときなさいよ弟子?」
「……はい!」
私は鼻歌まじりに、真白さんと並んで歩き出すのだった。
「佐倉くん、君、明日から来なくていいから」
課長の言葉は、あまりにも軽かった。
冗談かと思って笑おうとしたけれど、課長はパソコン画面から目を離さずこちらを見向きもしない。
「え……あの、どういう……?」
「ほら、新人の子、優秀でしょ? 君は真面目でよく働いてくれたけど、ぶっちゃけ真面目なだけじゃうちはやってけないの。足手まといになる前に、ね?」
私は言葉を飲み込んだ。
反論もできないほどに、私の頭は真っ白になっていた。
「……わかりました」
それだけを口にして、私は自分のデスクを片付け、会社を出た。
外はネオンがきらきらと輝き、金曜日の夜らしく街は浮かれている。
そんな光景がやけに遠く感じられた。
駅に向かう途中、どうしても家に帰る気になれず、私は居酒屋街へ足を向けていた。
「……飲もう」
普段は足をむけることのない赤提灯の暖簾をくぐり、焼き鳥とビールを頼んだ。
店員の威勢のいい声や、隣の席から聞こえるサラリーマンの愚痴。
そういう音に紛れて、少しでも現実から逃げたかったのかもしれない。
二軒目、三軒目……。
胸にぽっかりと穴が空いてしまったかのような空虚感、明日からどうしようという不安、そしてちょっぴりの悔しさは消えない。
「うう、酔えないぃ……」
憎い、アルコールに強い家系に生まれたことが憎い……。
「まいどあり~」
最後のお店を出る頃には、街の灯りと騒がしさは遠い過去に。
「あ、終電……」
腕時計に目を落とせば最終電車も行ってしまった。
深い闇色の夜空には点々と星々が煌めく。
どこか遠くからは救急車の走る音が聞こえてきていた。
勿論バスは動いていない。
タクシーを呼んで帰ろうか? でも、今日から職の無い身だ。
飲み歩いちゃったし、お金は節約しないと……。
「……歩いて帰ればいいか」
私は深夜の街中を歩いて家に帰ることにした。
女一人で夜の街歩きは危ないかもしれないが、陽が昇る頃には家に帰れるだろう。
……あと数年で三十路のおばさんを誰が襲うのか。
なんて悲しいことを考えていた時だった。
ポツ……ポツ……。
「うそ、雨?」
降り始めた冷たい雨。
逃げるように、私は近くの神社の鳥居をくぐって拝殿の軒下に身を寄せる。
ザー、という雨音だけが響く。
「……真面目にやってきたのにな」
天気にまで裏切られた気がしてため息が出た。
どうして私ばっかり……。
その時だった。
「そこのおねーさん! どうしたのしょんぼりした顔してさぁ!」
「え……?」
声の方に振り向くと、賽銭箱の影から酒瓶を手にした巫女さんがひょいっと出てきた。
「えっと……え?」
こんな時間に、巫女さん……?
突然のことに固まる私。
巫女さんは神社の薄暗い照明でもわかるくらい真っ赤に酔ったほほを緩めて笑う。
「そうよそう! おねーさん!! ちょっと聞いてよ!! 私さ婚期も終電も逃しちゃってさぁ!! どーしようもないの今!! ぎゃははは!!」
何が面白いのか彼女は腹を抱えて笑い出した。
「えっと……あは、はは……」
困って愛想笑いをする私。
瞬間。
「笑いごっちゃないのよこっちゃ!! 婚期も終電も逃してるのよ!! 笑ってんじゃないわよ!!!! ぶち祓うわよ!!?? やってらんないわ!!」
巫女さんがキレた。
「ええ……」
巫女さんは泣き笑いでぷんすこ怒り、酒瓶に口をつけて「ぷはー!」っと一息。
……ヤバい巫女さんだ。
すすっと距離を開けるが、その分巫女さんがずずっと私に寄りかかるようにして距離を詰めてきた。
「くんくん。ん? あんたから酒の匂いがするわね? なに? あんたもお酒好きなの? 私もお酒めっちゃ好きよ? 私達仲間ね、仲間! のむ?」
情緒はどうなっているのか、巫女さんは直前までキレていたのも忘れたようにけろりと笑顔になって酒瓶を差し出してくる。
「あ、す、すみません……もうたくさん飲んだので……」
丁重にお断りすると巫女さんはすんなりひいた。
「あ、そ。まあいいわ。ん? もうこの酒瓶空じゃない!! 飲んだの誰よ!!」
ああ、この人面倒くさい感じの酔っ払いだぁ……。
彼女は飲み干した酒瓶をドンと拝殿の階段に置くと、私に向き直った。
「さて、と。それじゃここいらで自己紹介ね? 私は葛葉真白。32歳で彼氏絶賛募集中の巫女よ。妖怪退治で生計を立てているわ。真白でも真白さんでも好きに呼んで」
赤ら顔のままだが、巫女さん……葛葉真白さんはいたって堂々とそう告げた。
ザー……。
と、どこか先ほどまでよりも弱い雨音が耳朶をうつ。
「え……あ、ど、どうも……真白、さん」
雰囲気に流されて頭を下げる私。
「おっけ。それじゃあ次はアンタの番よ。なんて名前? どうしてここに?」
「えっと、その……佐倉奈々って言います。会社をクビになって、それでヤケ酒して、でも全然酔えなくて……今日から無職だから節約のために歩いて帰ろうとしたら雨が降ってきて……」
自分でも不思議なくらいぽつぽつと言葉が出てきた。
相手は妖怪退治で生計を立てているとかいうヤバそうな巫女さんなのに……。
「あ~、奈々ちゃん会社クビになったのね。おわったじゃん。おめでと。ようこそ社会不適合者の世界に!」
「いや、めでたくないんですけど……」
なんて失礼な人だろうか。
「まぁ細けぇことはいいの。私なんて終電も婚期も逃してるんだからね? 二冠よ二冠! どうよ!」
「……笑えないですよそれ」
私も終電逃してるけども。婚期は、まだ……うん。
「笑っとけ笑っとけ。人生は酒と笑いで乗り切るもんよ!」
そう言って酒瓶を掲げ、ぐびぐびと一口。
「……あの、妖怪退治って儲かるんですか?」
「儲からない」
「即答……」
「でもスリルはあるわよ。あんたもやってみる? 人手不足だし大歓迎よ!」
「え?」
「じゃ、さっそく。あそこでうろついてるアレ、見える?」
そう言って、真白さんは鳥居の先、暗がりの方を指差す。
「……何も——」
目を凝らすと、ゴミ袋を漁る毛むくじゃらの影がぼんやりと浮かび上がった。
「ひっ……!」
「あ、見えたわね。おめでと、合格!」
適当な拍手をする真白さん。
「ご、合格?」
「今見えてなかったら弟子にしないで、コレで記憶消して路上に捨てようと思ってた」
コレ→ブンブン振り回している空の酒瓶。
「人でなしですか!?」
「さ、行くわよ弟子。初仕事よ!」
「え、ちょ、私まだ弟子になるなんて一言も――」
酔っ払いに腕を引かれ、私は夜の神社を後にした。
神社を出てすぐ、路地裏へと真白さんは突入した。
「ちょ、真白さん! あれ、本当に妖怪なんですか!? 野良犬じゃ……」
「野良犬ならもっと愛嬌あるわよ。あれはゴミ袋を荒らす低級妖怪“ぬらぬら”ね。ほっとくと増えて商店街が腐海になるわ」
「腐海って何する気ですかあのモヤモヤ!」
「ゴミ食って増えてくの。カビとか埃とか汚れを増殖させるの。そういう妖怪」
毛むくじゃらの影は、こちらに気づくと黄色く濁った目をギロリと光らせた。
「……うわ、こわいッ!」
「はい、初仕事〜。ほら、これ持って」
差し出されたのは、なぜか御札と柄の短いホウキ。
「え、こ、これでどうしろと……」
「頭を軽くトンッとして御札を貼れば消えるわ。簡単でしょ?」
「簡単じゃないですよ!?」
私が叫んだその瞬間、ぬらぬらはギュンッと地面を滑るように迫ってきた。
「きゃあああああ!」
「ほらほら向こうから来たわよ! 派手にぶちかまして!!」
「派手にとかそういう問題じゃ!」
危うくぶつかる寸前で身をひねった私はホウキの柄でぬらぬらをこつんと叩いてしまった。
思ったより手応えが軽く、「ぬぼっ」と妙な声をあげてぬらぬらが地面を転がる。
……あれ、この妖怪、弱い??
「今! 御札!」
「え、あ、はいっ!」
言われた通りにぴたっと御札を貼ると、ぬらぬらはじゅわっと湯気のように空気に溶けて消えた。
「……消え、た?」
「おお、お見事! 今日からあんたはこの葛葉真白の弟子よ! 光栄に思いなさい!!」
「え、お給料出せるんですか?」
「もちろん、出せません! 無給で働いてもらいます!!」
「ブラックすぎる……!」
「まあまあ、でも代わりにやりがいと衣食住くらいは提供してあげるわよ!」
雨上がりの路地裏で、真白は空になった酒瓶をひょいとゴミ袋に突っ込み、満足げに笑った。
その条件で誰が働くというのか。
でも私は真白さんの笑顔から目を離せなかった。
ぬらぬらを見つけては退治し、見つけては退治し……。
あらかたいなくなった頃には深夜も既にうし三つ時を超えていた。
「さて……次の獲物を探しにいくわよ弟子!」
私、会社をクビになった深夜に何をしてるんだろ……。
「ぜーぜー、で、弟子じゃないですって……え、ま、まだやるんですか?」
ぬらぬら退治が終わるや否や、真白さんはくるりと踵を返し、路地の暗がりを覗き込む。
「当たり前じゃない。丑三つ時は妖怪のゴールデンタイムなのよ!!」
「そんなテレビ番組みたいな……」
真白さんの足取りは千鳥足。
……妖怪退治ってこんなフラフラでやっていいのだろうか。
(でも、息一つ乱れてない……流石プロ?だ)
しばらく妖怪を捜し歩くも成果なし。
話のネタも尽きた(最初からない)ので私はおずおずと尋ねることにした。
「……あの。ところで、真白さんはなんで婚期逃しちゃったんですか?」
真白さんはぴたりと立ち止まり、遠い目をした。
「……仕事よ」
「仕事って……妖怪退治の?」
「そう。あの時の私は合コンよりも妖怪退治だったの」
「あー……その優先順位じゃ無理ですね」
私も仕事優先タイプだからなんも言えない……クビになったけれども。
「だってさぁ! 責務とか義務とか、世の中の平和の方が大事じゃない!?」
「そ、そうですよね! わかりますわかります!!」
後半のスケール感は違うけどおおむね同意。
真白さんは更に続けた。
「あと、初デートで必ず『最近戦った中で一番危険な妖怪』の話をするんだけど、男ってすぐ引くのよね」
「……それは誰でも引くと思います」
「あと酒。飲み放題だと必ず元取るまで帰らないのよね。もったいないもん。お酒大好き!」
「……」
なるほど、この人、そりゃ婚期を逃すわけだ。
あと数年で私も同じ年齢に……え、やだこわ。
ぶるると背中が震えた。
「でもねぇ、奈々ちゃん」
真白さんはふっと笑った。
「私ね、別に後悔してないの。妖怪も酒も大事な私の一部。旦那がいなくたって毎日がエブリデイなのよ?」
酔った紅い顔で、それでもこの時だけはまっすぐに私の目を見て告げる真白さん。
そこには確固たる芯があった。
「……なんか、かっこいいですね」
「でしょ? だからあんたもクビになったくらいで落ち込む必要なしなしナッシングよ!」
真白さんは勢いよく私の背中をバンバンと叩く。
「そ、そうですよね……」
痛いけど……悪い気分じゃない。
その時——。
「……ん?」
真白さんが小首を傾げた先、商店街のアーケードの端っこに、長い舌をだらだら垂らす毛むくじゃらの影が見えた。
「ひっ! あ、あれは何ですか!?」
「……あれは“ねばねば”! ぬらぬらの上位互換よ!! 増えるし、ぬらぬらと違ってよだれをまき散らすから余計に汚いの!!」
「妖怪ってみんなあんなのばっかなんですか!? こんなんじゃ弟子やってけないですよ私!?」
「ごめんね奈々ちゃん。今の妖怪は昔の妖怪みたいに綺麗じゃないの……だから退治しないといけないのよ……ん、今弟子になるって?」
「言葉のアヤです!」
「よーし、ここは師匠の良いところ見せちゃわないとね!」
真白さんは御札を……口でくわえた。
「ちょ、なんで!?」
「両手が酒瓶で塞がってるからよ!」
「武器より酒ですか!?」
そんなだから婚期逃すんですよ!なんて残酷すぎて言えそうにない。
ねばねばはぬるぅんと迫ってくる。
「こいや!!」と、真白さんはなぜか走り出し、ねばねばの近くまで到達すると御札を口からぷっと吹き出した。
——ぺちゃっ。
「……顔面に貼れた! 私って天才じゃない!?」
「いや、ただの奇行!! これだから酔っ払い……は、倒せ――てる? は??」
ねばねばは情けない音を立てて消えていく。
真白さんは「ふぅ〜」と息を吐き、残った酒を一気飲み。
東の空が白んできた。
なんだったんだろこの時間……。
遠く朝焼けを眺めていると真白さんが私の肩を叩いた。
「……さ、夜明けね。帰るわよ弟子」
「だから弟子じゃ――」
その時、私のお腹がぐーっと鳴った。
にやにやと真白さん。
「帰る前に何か食べていきましょ!」
「さ、賛成です……」
商店街のシャッターが一つ、また一つと開いていく。
電車も走り出したのか、ガタンゴトンと遠く走行音が大気を伝ってきた。
定食屋の暖簾をくぐると、早朝から土方のおじさんたちが味噌汁をすすっていた。
私と真白さんはテーブル席に腰を下ろすのだった。
「すいませーん! 生ビールと刺身定食二つ!」
「えっ!? まだ早朝ですよ!?」
「朝から飲むビールが一番うまいの! 仕事終わりの飯がうまいのと一緒よ!」
「……いや、まぁ、わかりますけども」
残業の後の深夜飯が美味しいのと同じ原理だ。
注文を終えると、真白さんはカバンをごそごそし始めた。
取り出したのは、ぬらぬらの切れ端みたいな半透明の塊。
「それ……何ですか?」
「奈々ちゃんへのお土産」
「お土産って……」
センスが壊滅的だ。
正直キモ……うーん。
「でもこれ、乾かしてキーホルダーにすると運気上がるのよ?」
「う……ちょっと欲しいかも」
「でしょ? あげる」
「ありがとう、ございます……」
複雑な気持ち……。
なんてやりとりをしているうちに定食が運ばれてきた。
真白さんは豪快にビールをあおり、刺身をかっ喰らう。
……自由な人だなぁ。
「ふぅ〜……生きててよかったぁ!」
「……そんな大げさな」
私は焼き鮭定食をもそもそといただく。
素朴な味……。
「いや、マジマジ。妖怪退治は命がけなのよ? 婚期も逃すし」
「……最後のは違いますよね?」
「言うね奈々ちゃん?」
真白さんはケラケラ笑うが、急に真顔になった。
「奈々ちゃん、人生の先輩として少しアドバイスを」
「先輩って言っても真白さんと私、そんなに齢は離れていないような……」
私が28で、真白さんが32、4歳差だ。
「じゃあ、師匠としてのアドバイス」
「弟子じゃありませんって何度言えば――」
すると、ドン! とジョッキを置く真白さん。
「うっさいわね聞きなさい! ……おほん! あのね? 人生って多少失敗してもすぐには死なないのよ? どうせなら、楽しいこと優先するのが吉ってわけわかる? だからクビくらいでくよくよしない! ね?」
真白さんはもっともらしいことを調子よく言って笑った。
励まし、のつもりだろうか。
「なんですかそれ」
私は思わず笑みがこぼれた。
こんなにだらしなくて、楽しそうで、それで妖怪退治をしている変な巫女さんなんていないだろう。
私も、こんなふうに笑えるなら――。
箸を置いて、改めて真白さんを見据えた。
「……どうせ無職ですし、妖怪退治の弟子やっぱりやってみてもいいですか?」
「お、マジ? 今の説教が効いた?? ……やったぜ! よろしくね奈々ちゃん! じゃあ、はいこれ! 弟子祝いのお酒」
「いや、朝からお酒はちょっと……」
「なに? 師匠の酒が飲めないっての!? ま、アルハラはまずいか……じゃあ、祝いのお刺身よ! 食べなさい!!」
「あ、はい、いただきます……あ、おいし」
「ふっふっふ! これで奈々ちゃんは私の弟子よ!!」
私は差し出された赤身を食し、師弟の契りを交わすのだった。
お会計になった。
真白さんが「ここは奢るわ。師匠だからね!」と財布を取り出して——空っぽだった。
「……奈々ちゃん、悪い。奢って」
「師匠なのに……」
「哀れみの目を向けないで!!」
結局、私は真白さんの分まで払った。
でも不思議と、嫌な気分じゃなかった。
職なき身なのに、だ。
「いい天気ですね……」
「いい朝ね弟子!」
店を出ると、朝日が眩しい。
夜中に雨がふっていたのが嘘のように、今朝の空は青く澄んでいる。
あんなに重かった胸の中が、少しだけ——いや、かなり軽くなっていた。
無職? 婚期? そんなの今はどうでもいい。
終電を逃しても始発がある。
今日は続いていく。
——ま、どうにでもなるでしょ!
「んー!」
背伸びをする私に真白さんが振り返る。
「さて。今夜から忙しくなるからね、覚悟しときなさいよ弟子?」
「……はい!」
私は鼻歌まじりに、真白さんと並んで歩き出すのだった。

