――終電を逃した。よりによって、火曜日の夜に。
 明日も大学があるし、どこかに泊まるあてもない。
 しかも、なんのドラマもない。
 ──ただ、ぼんやり歩いていただけだった。
 駅のホームを見下ろす階段の途中で、僕は立ち尽くす。
 改札を出る勇気もなくて、スマホで時刻表を確認しても、やっぱり電車はもう来なかった。

「……はぁ」

 冷たい夜風に背中を押されるようにして、なんとなく雑居ビルに足を向けた。渋谷のはずれにある、ネットカフェとカラオケが合体した、24時間営業の便利なやつ。夜をやり過ごすには──まあ、悪くない。

「申し訳ありません、カラオケブースは現在満室でして……相席になりますが、よろしいですか?」

 受付の男性が、気まずそうに頭を下げる。

「……あ、はい。大丈夫です」

 断る理由もなかったし、酔っていたせいか判断がゆるくなってたのかもしれない。
 案内されたのは、通路のいちばん奥の、ちょっと古びた個室ブースだった。
 扉を開けた瞬間、ほんのりと紅茶の香りがした。
 中には先客がひとり。
 ソファの隅に座った、小柄な女の子。フードを深くかぶっていて、顔はよく見えなかったけど、スマホの画面をじっと見つめてた。
 一瞬だけ、ちらりとこっちを見る。──でも、声はない。

「あ、えっと……よろしくお願いします」

 返事はなかった。けれど、拒まれた感じでもない。
 僕は空いていた反対側の席にそっと腰を下ろした。
 部屋には静かな呼吸音と、アールグレイっぽい香りだけが漂ってる。
 ……気まずい。無言でこの距離はさすがに緊張する。
 それに、なんとなく負けた気がして、僕はリモコンに手を伸ばした。
 せめて空気を変えようと選んだのは、昔よく聴いてたバンドのアップテンポな曲。
 曲が始まると同時に、意を決してマイクを持った。
 ──が。

「──あ、やべ……っ」

 想像の三倍くらい、音量がデカかった。
 ガラスが震えそうな爆音に慌ててマイクを引き離す。振り返ると、彼女がこっちを見ていた。
 大きくはないけど、真っ直ぐな目。
 ……怒っては、いない。
 ただ──ほんの一瞬だけ。
 口元が、動いたように見えた。
 ……笑った? いや、まさか。気のせいだろう。
 僕はそっとマイクを置いて、小さな声で謝った。

「ごめん……ちょっと、うるさかったよね」

 そのとき、彼女のフードの奥から、確かに声がこぼれた。

「──ちょっと、じゃない」

 静かで、でもよく通る声だった。
 まるで──歌の入りみたいに、澄んでいた。



 彼女が、リモコンを手に取った。
 その仕草は、やけに静かで──どこか品があった。

 彼女は、軽く肩を上げてイヤホンを外す。
 画面には「melty voice/YUKI*」の文字。

 イントロが流れた瞬間、ブースの空気がガラッと変わった。
 ひと呼吸──そして。
 彼女の声が、部屋に降りてきた。
 それは、歌というより“魔法”だった。
 やわらかくて、まっすぐで、少し儚い。
 下手に言葉にすると陳腐になってしまいそうなくらい、ただただ“聴かせる”声だった。
……これ、知ってる
 背筋がすっと伸びた。
 曲も、歌声も、何度も聴いたことがある。
 SNSで話題になってた、顔出しNGの謎の歌い手──“YUKI*”。

 その声が、今。ここで。
 すぐ隣で、歌ってる──?
 曲が終わると、彼女は静かにマイクを置いた。

「あの……」

 気づいたら、口が勝手に動いていた。止める間もなかった。

「もしかして……その、YUKI*さんだったり、します?」

 フードの奥で、彼女の目がわずかに細められた。

「……なんで、そう思ったの?」
「いや、えっと……声が、そっくりで。っていうか、本人ですよね?」
「ふーん」

 彼女は、ほんの少しだけ体を傾けて。
 いたずらっぽく笑った。

「じゃあ、ばれた罰に──録音してるの、消してくれる?」
「えっ?」
「もし消してくれたら……もう1曲、歌ってあげる。内緒にしてくれたら、ね」
「ろ、録音? してないけど──あっ……!」

 言いかけた瞬間、僕のスマホから、かすかな操作音が鳴った。

 ──録音中。

「うそだろ!?」

 慌てて身を乗り出そうとして、リモコンのコードに足を取られた。

「わっ……あぶ──っ!」

 バランスを崩して前のめりに倒れ、そのまま──
 彼女のほうへ、勢いよく突っ込む形になった。
 ドスッ。
 ……数秒の沈黙。
 僕の顔のすぐ下には、彼女の肩があった。
 柔らかい髪の香り。わずかに震える気配。

「す、すみませんすみませんすみませんっ……!」

 慌てて体を起こそうとして、スマホを探す。
 そのとき──
 ガタンッ!
 テーブルの上にあったアイスレモンティーが、スマホに向かって倒れた。
 バシャ。

「うわああああああ!!?」

 とっさにハンカチを取り出し、スマホとテーブルを必死で拭きまくる。
 水音、焦り、そして──
 ゴンッ!

「いっ……!」

 頭を上げた瞬間、天井の梁に思いっきり額をぶつけた。
 その反動で後ろに倒れかけて──
 ドン。
 咄嗟に彼女を庇うように手をついて、壁に腕を突っ張る。
 静かすぎる密室。
 顔を上げれば、彼女と数センチの距離。
 ──壁ドン。
 彼女の身体が、僕の腕の中で固まってる。

「……ちが、違うんだ、これは……! 事故で、あの、ほんとに……!」

 真っ赤な顔で手を引っ込めた。背中に汗がにじんでる。
 沈黙。
 そのあとで、くすっ──と小さな笑い声がこぼれた。

「……なにそれ。コンボすぎ」
「えっ?」
「音痴で爆音で、足引っかけて、押し倒して、飲み物ぶちまけて、おまけに壁ドンて……」

 彼女は、ゆっくりとフードを取った。

 そこには、想像していたよりあどけない顔と、笑いをこらえる口元があった。

「……バカすぎて、ちょっと笑った」

 僕は頬を赤くしながら、苦笑いで頭をかく。
 ──たった数秒前まで、壁ドン未遂からのレモンティー噴射、そしてスマホ落下という三連コンボを決めたばかりだった。
 なんとかテーブル周辺の混乱をおさめ、ふたりで軽く後片づけをしたあと、ようやくソファに腰を下ろす。
 深く息を吐いたそのとき──



「……濡れてない?」

 彼女がぽつりとつぶやいた。

 僕はスマホを胸に抱きながら、ソファにへたり込んでいた。濡れたシャツが肌に張りついて気持ち悪い。でもそれより、頭の中が真っ白だった。

「たぶん……ギリ、セーフ。画面も割れてないし。むしろ、僕の精神が割れた」

「……コンボだったもんね」

 くすりと笑う声が、さっきよりもやわらかく響いた。僕はその声に、少しだけ救われた気がした。

 彼女は紙ナプキンを持ってきて、テーブルの上を拭きはじめる。僕も慌てて手伝おうとしたけど、手を止められた。

「いいよ。こっちの失態だし」
「……いや、僕が転んだからで……」

 気まずい空気が流れかけたけど、彼女がふっと息をついて、リモコンを手にした。

「ねえ、さっきの曲……もう一回、歌ってみて?」
「えっ、いま? 無理ですよ。恥ずかしいし……僕、さっきけっこうひどかったじゃないですか」

 彼女は、ほんのり笑いながら首をかしげた。

「……ひどかった、とは言ってないよ?」
「いや、顔に出てました。めっちゃ出てました」
「そっか。じゃあ、今度は出さないように聴く」

 さらっと毒を盛ってきた。けど、そのあと、少しだけ真剣な目をした。

「……でも、歌は気持ち。音が外れても、ちゃんと伝わるよ。歌いたいって気持ちは」

 ……こんなこと、誰かに言われたの、初めてだった。

 僕はそっとマイクを受け取る。冷たいはずのそれが、じわりと手の中で重くなった。
 伴奏が流れ始める。さっきと同じ曲なのに、今は少し違って聞こえる。
 僕は、震える声で歌い出した。声は揺れて、ブレスも足りなくて、リズムも微妙にズレる。それでも、歌った。
 彼女は、静かに聞いてくれていた。
 途中でそっと近づいてきて、僕の手元を直す。

「ここ、もうちょっとだけ、力抜いて」

 そして、ほんのワンフレーズ──彼女が代わりに、歌ってくれた。

「──風が 揺らす心に あなたの名前が 落ちてくる……」

 その瞬間、胸の奥が不意に跳ねた。どこか、触れられてはいけないところに、そっと手を差し伸べられたような。

「……こんなふうに?」
「うん。でも、真似しようとしなくていい。あなたの声でいいから」
「……自分の声?」

 小さくつぶやいて、僕はもう一度、マイクを握り直した。
 不格好な歌が、でも僕だけの形で、そこにあった。
 曲が終わる。
 しばらく、彼女は何も言わなかった。

「……なんか、変な話ですけど」

 息を整えながら、僕はぽつりとこぼす。

「歌って、こんなに楽しかったんですね。今日、初めてそう思いました」

 彼女が、ふと目を見開いた。
 そして、少しだけ目を伏せる。

「……前にもいたんだ。歌、好きって言ってくれた子。でも……急にいなくなっちゃって」

 彼女は少し遠くを見るような目をしていた。何かを懐かしむような、少しだけ寂しそうな目。
 でもすぐに、視線が戻る。

「ま、今さら関係ないけどね。……ほら、一応プロなんで」

 冗談めかして、ウィンク。

「だから、次からは有料だよ?」

「お財布……軽いんで、分割でお願いします」
「却下。あと録音も禁止ね」

 僕は思わず吹き出した。笑い合う空気が、いつのまにか心地よくなっていた。
 そのとき、彼女が言った。

「……ちょっと、そこ座って」

 ソファの中央をぽん、と叩く。

「え、めっちゃ近くないですか?」
「じゃないと、声が届かない」

 僕はぎこちなく隣に座る。近すぎて、息がかかりそうな距離。

「さっきの二番のサビ、もう一回いこっか」

 マイクを渡され、僕はゴクリと息を飲む。

「“風が揺らす心に”のところ、ブレスが苦しそうだった。いったん、喋ってみて」
「喋る……?」
「歌じゃなくて、言葉として。リズム取って。……そう、それでいい」

 彼女は、僕のブレスに合わせてリズムを取ってくれた。息づかいひとつにも気を配ってくれるのが、なんだかくすぐったかった。

「じゃあ、今度は歌で。私も少しだけ重ねるから」

 彼女の声が、すぐ耳元で重なる。

「──風が 揺らす心に──」

 あ、近……
 僕の声が裏返った。慌てて咳き込む。立ち上がろうとした瞬間──
 ガンッ!
 また照明に頭をぶつけた。スピーカーが暴走して、爆音が室内に響き渡る。

「うるさっ!?」

 二人でリモコンを取り合い、ようやく音を止める。

「……またコンボ?」
「まさかの二曲目で再発とは……」

 僕はソファに崩れ落ちて、天井を仰いだ。

「……てか、こんな距離でレッスンとか、初めてです」

 横を見ると、彼女が肩を揺らして笑っていた。

「私も、久しぶりだな……教えるの」
「……さっき言ってた人、ですか? “前にもいた”って」

 彼女は少しだけ目を丸くして、すぐに視線を落とした。

「うん。音程とかリズムとか、めちゃくちゃだったけど──」
 彼女は小さく笑った。どこか、懐かしそうに。
「でもね、すっごく楽しそうに歌うの。大きな声で、間違えても気にしないで、何回でも歌って……。聴いてるこっちが、笑っちゃうくらいに」
 
 ふいに、彼女の指先が止まった。

「……あの子の歌、好きだったな。うまいとかじゃなくて、“まっすぐ”だったの」

 僕は黙って頷いた。

「でも──突然、来なくなっちゃった。引っ越したのか、何かあったのか……わからないまま」

 彼女の声が、少しだけ揺れていた。
 僕はそっと彼女を見た。その横顔には、笑みの名残と、少しだけ──寂しさの影が残っていた。

 言葉の先を、彼女はゆっくりと飲み込んだ。

「──それから、誰かに歌を教えるの、ちょっと怖くなったのかも」

 しばしの静けさ。僕は口を開く。

「……僕も、音痴だけど、今日が一番楽しかったです」

 その言葉に、彼女の表情がほんの少し和らいだ。

「……じゃあさ」

 彼女が立ち上がって、マイクを手に取る。

「最後、私が歌う番ね」
「え?」
「今日だけ特別。無料サービス。……でも、録音は絶対禁止」

 曲が流れる。
 彼女の声が、そっと重なって、部屋を包んでいく。
 それは、初めて聴いたときよりもやさしくて、あたたかくて。
 そして何より、やっぱり──美しかった。
 彼女は、曲のラストを静かに締めくくったあと、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、歌って、いいな」

 その言葉は、まるで彼女が、ずっとしまい込んでいた気持ちを、自分自身にそっと語りかけるようだった。

 僕は、何も言わずにうなずく。
 この夜が、彼女にとっても“何か”を始めるきっかけになればいい──そう願いながら。

 少しの沈黙が流れたあと、彼女がふと僕を見た。

「……え?」

「ううん、なんでもない。ただ──もうすぐ、時間かもね」

 彼女はそう言って、ゆっくりと視線を落とした。
 カラオケの画面には、残り時間の数字が静かに減っていた。



 スマホを確認すると、すでに午前五時を回っていた。
 東の空が、うっすらと明るんでいる。

「始発、出ますね」

「だね……そろそろ、帰ろっか」

 僕たちは、無言で荷物をまとめた。
 リモコンも、マイクも、テーブルの上に戻す。
 個室を出て、フロントへ向かう廊下を並んで歩いた。
 ガラス扉の向こうには、白む空と、ほのかな朝の光が広がっていた。

 自動ドアの前で、彼女が立ち止まる。
 僕も、そっと隣に立つ。

「……あの、また、どこかで──」

「うん。また“相席”になったらね」

 言いかけた僕の言葉を、彼女がそう言って笑いながら遮った。
 まるで、“それ以上は言わせない”ように。

「……あ。これ、あげる」

 そう言って、彼女が紙ナプキンにくるんだ何かを差し出してきた。
 中には、さっきのレシートと──僕の歌のプレイリスト番号が書かれていた。

「えっと、これって……?」
「課題曲。次までに練習してきて。……指導料、上がるかもだけど」

 思わず吹き出す。

「財布、頑張ります」
「うん。頑張って」

 彼女は小さく手を振って、出口のセンサーに向かって歩き出す。
 扉が音もなく開いて、淡い光が差し込んできた。

 その背中を見送りながら、僕はつぶやいた。

「……いつなら、また会えるんだろ」

 そのときだった。

「──あ、そうだ」

 彼女が、ふいに振り返った。
 僕もちょうど、一歩前に出ようとした。

 ──ドン。

「……んぐっ!?」

 顔面に、柔らかい感触。

 沈黙。沈黙。超・沈黙。

 僕の顔が、彼女の胸元にダイレクトヒットという、
 極限まで説明したくない体勢で、凍りついた。

「……えっと、」
「──ッッ!?」

 僕は慌てて後ずさり、足をもつれさせながらソファに倒れ込む。

「す、すみませんすみませんすみませんすみません……!」

 彼女は顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。
 でもその口元が、わずかに引きつったように緩んでいた。

「……もう。減点五千点」
「致命傷じゃないですか……!」

 彼女はそのまま、笑いをこらえながら、もう一度だけ手を振った。

「レシートちゃんと見といてね」
 
 そして、朝の光と一緒に、扉の向こうへと消えていった。


 
 最寄り駅に戻った頃には、すっかり朝だった。
 コンビニで買った缶コーヒーを片手に、改札を抜ける。
 ホームから吹いた風が、シャツの裾をそっと揺らした。
 スマホの音楽アプリを開く。
 検索欄に彼女の名前を打ち込むと──すぐに出てきた。
 そこには、プロとして活動する“彼女の声”が、いくつも並んでいた。

「……やっぱ、すごいな」

 流れてきたのは、夜のカラオケで彼女が最後に歌ってくれた曲。
 同じ曲なのに、あのときよりも少しだけ遠く感じる。
 届きそうで届かない、けどちゃんとそこにある──そんな声だった。
 ポケットから、くしゃくしゃのレシートを取り出す。
 その裏には、あの人の手書きメモ。

 《次までに、キー下げて練習しておくこと》
 《高音は腹から、ね》
 《課題曲:3つ。……これ、内緒だよ》
 《※毎週火曜の夜なら、たぶん空いてるかも。……たぶん、ね?》

 ……ずるいな。
 そんなメモ書きひとつで、こっちは何回読み返してると思ってるんだ。

 音楽を止めて、イヤホンを外す。
 水曜の朝にしては騒がしい駅前で、僕はひとり、空を見上げた。

「……火曜、か」

 その言葉に、背中をちょっとだけ押された気がした。
 また会えるかもしれない。いや、会えないかもしれない。

 でも、それは──
 次の火曜の夜に、答え合わせすればいい。


 
 終電を逃して、ただ時間を潰すだけの夜だと思ってた。
 でも、あの声が──たった一晩の出会いが、
 気づけば、僕の中に残ってる。
 火曜日が、ちょっとだけ待ち遠しいなんて。
 ……ほんと、ずるい人だよ。あの人は。