三時間前、送別会の主役と今日になって初めて打ち解けた。五年前に同期で入社して、途中何度か異動はあったけれど最終的には同じ部署だったというのに、会話らしい会話をしたのは初めてだったかもしれない。それほど、玉城(たまき)朝人(あさと)という人は私にとって雲の上の存在だったのだ。営業成績ナンバーワンで外資にヘッドハンティングされた玉城と、部長に怒られてばかりの私。ずっと住む世界が違う人だと思っていた。
 だから浮かれていた。ちょっとした会話で同じ音ゲーという趣味があると知っただけで。難関曲をオールパーフェクトクリアしたと話したら褒めてもらったというだけで。好きな曲の話で盛り上がった、ただそれだけのことで。
「最悪……」
 改札の中に見える電光掲示板と大きなアナログ時計の両方が、終電がついさっき発車したことを示していた。
 大宮までの終電は二十三時台と早い。だから、普段は二次会なんて出ないで帰る。なのに今日は、玉城に「常盤さんも二次会来ます?」なんて聞かれてつい反射的に「はい!」と即答してしまった。
 さすがに途中で抜けてきたけれど、あと五分早く抜けてくれば間に合ったのに。昨日数年ぶりに東京に積もった雪が残っていて道が悪いことを考慮に入れていなかった。
 タクシー代は概ね一万六千円、インバウンド価格でホテル代も高額、となれば選択肢はネットカフェ泊になるけれど、みんな考えることは同じなのか検索して最初に出てきた予約サイトは満席と表示されていた。
「なんでいつもこうなんだろ……」
 そう。私はいつもワンテンポ遅い。大学の時、好きな人に告白したらその人には一週間前に彼女ができていて失恋。先着順の楽な単位の履修登録にも、一年生の春の大学近隣のアルバイトの面接にも出遅れ。親友にも「光莉(ひかり)っていつも間が悪いよね」と苦笑される始末だ。ため息をつかずにはいられない。

「はあー、やっべー。やらかした」
 私より大きなため息がすぐ隣で聞こえた。聞き覚えのある声の方向を見る。今日の主役、玉城と目が合った。
「あれ? 常盤(ときわ)さん、帰ったんじゃなかったんすか?」
「えっと、恥ずかしながら終電を逃してしまって」
「マジっすか? 俺もっす。さっき解散したんすけど、いやー、最後の最後にやっちまいました」
 私が途方に暮れている間に、いつの間にか日付はあと数分で変わろうとしていた。
「まいったな、今日金曜だしネカフェとか絶対混んでますよね」
「私が今見たところは満席でした」
 スマホの画面を見せると玉城は苦笑した。
「うえ、ここ満席ってなると全滅だろうな」
 玉城は顎に手を当てて少し考えた後、突然仕切り直すようにパンッと手を叩いた。
「考えたところで終電はもう出ちゃったし、ネカフェは満席。しゃーないっすね、切り替えていきましょう」
 この切り替えの早さはまぎれもなく玉城の長所だ。後輩ができたというのにいまだに判断力が足りなくて怒られてばかりの私が見習うべきところだ。後輩がミスをしても「しゃーない、切り替えていこう」と笑顔でカバーする玉城はみんなに慕われていた。そんな玉城は私の憧れでもあった。
「とりあえず、一回ゲーセン行って酔い覚ましません? 改札前で立ち話も迷惑ですし、常盤さんの手さばき見たいし」
 どう考えても音ゲーをしている場合ではない。でも、私も相当に酔っていて判断力が鈍っていた。あるいは、そういうことにしたかったのかもしれない。だって、私は玉城のプライベートの連絡先を知らないから今日を逃したら、きっとそれっきりだ。
「そうですね。行きましょうか。それからのことはそのあと考えましょう」
 ゲームセンターまでは少し歩く。気合を入れるために、飲み会の時は低い位置でまとめていた髪を高い位置で結びなおした。こうして玉城と二人、人の流れに逆行してゲームセンターに向かった。

「常盤さん、大丈夫っすか? 寒くないっすか?」
「大丈夫です。雪、慣れてるので」
「雪国育ちっすか?」
「はい、中学まで鳥取にいたので」
「あー、山陰ってめっちゃ雪降るっていいますもんね。羨ましい」
「楽しいのは小学生の頃だけですよ、親たちは面倒くさそうにしてました。高校生の頃に父がこっちに転勤になったんですけど、やっと雪かきから解放されるーって」
「それ、雪国の人みんな言いますよね。俺、宮崎出身なんで昨日も雪にはしゃいじゃいましたよ」
 玉城が赤い顔をして笑った。男性に対して失礼だけれど、不覚にも可愛いと思ってしまった。
「じゃあ、玉城さんこそ寒くないですか?」
「それはノープロブレムっす。俺、クラスで一番暑がりだったんすよ。冬でも半袖短パン、それでも暑くて暖房切ってくださいって先生に言って女子からブーイングくらいましたもん」
「あー、いるいる。クラスに一人はそういう男子いますね」
「常盤さんの学校にも超絶暑がり君いたんですか? その人、気が合うかも。友達になりたいかも」
「あはは、紹介しましょうか? 山根君っていうんですけど。玉城さんみたいに明るい子だったので、たぶん友達になれると思いますよ。なーんて」
 当然冗談だ。小学校時代は男女の別なく毎日遊びまわっていたけれど、埼玉に引っ越してもう十年以上たち、聯絡も途絶えてしまった。ムードメーカーの山根君、しっかり者の美咲ちゃん、気遣いのできる松本君……あの頃仲が良かったみんなは今何をしているのかさっぱりわからない。
 ノスタルジックな気持ちになりかけたところで、ゲームセンターに到着した。しかし、目がチカチカしそうになる光も、体中に内側から響き渡るような音も鳴りを潜めている。営業時間外、どうやら二十四時で閉まっていたようだ。
「うわー、馬鹿じゃん俺。そうだよな、普通深夜にゲーセンなんてやってないよな。何で気付かなかったんだろ。すいません、無駄に歩かせちゃって」
「いえ、私も気づかなかったので」
 酔って正常な判断ができなくなっていた私たちだが、急に現実に引き戻された。
「帰りましょうか」
「そっすね」
 結局何事もなかったかのようにタクシー乗り場へと向かう。しかし、気まずくならなかったのはコミュニケーション能力の高い玉城が会話を振ってくれていたからだと思う。
「さっきの話の続きですけど、常盤さんって小学生の時はどんな子供だったんですか?  当時から音ゲーで神業連発してたんすか?」
「別に普通ですよ。田舎でゲーセンなかったので、放課後は普通に友達とドロケイしてました」
「ドロケイ! 懐かしいその響き! そうですよね、ドロケイですよね。俺、大学でドロケイの話したら友達にケイドロだろって笑われたんですけど、ひどくありません?」
 玉城が拗ねたような声を出した。普通の子供だった幼少気を知ることで、違う世界の住人だった玉城がどんどん人間味を増していく。うっかり好きになってしまいそうだ。だめだ、あと数分でお別れなのに。
「えー、ひどーい。ドロケイがスタンダードですって」
 わざと明るい声で笑い飛ばした。
「ですよね! やっぱり常盤さんは仲間! ドロケイ同盟は永久に無敵っす」
 こんな小さな共通点があることすら嬉しく思ってしまう。心臓がトクンと鳴った。
「永久に無敵ってフレーズも懐かしいですよね。小学校の頃、しょっちゅう言ってました」
 今でこそ自己肯定感も何もあったものではないが、私にも根拠のない無敵感に満ち溢れていた時代があった。ただひたすらに無邪気で無鉄砲で、馬鹿みたいに笑って、自分は何にだってなれると信じていた頃があった。
 夜の町はいくら騒がしくとも、そこに無敵感はない。どこか疲れた顔をした大人ばかりだ。でも、今隣にいる玉城はきっと今も心に無敵感があるのだろう。だから、彼は眩しい。
「俺も言ってました。俺、すごい馬鹿な子供だったんですけど、自分のこと天才だって信じて疑ってませんでしたもん」
「すごい馬鹿は謙遜入ってますって。実際、天才だったでしょ」
 高二の終わりから死ぬ気で勉強して、世間的には難関大学と呼ばれる大学を出て、いわゆる大手企業に就職した。そこで出会った人たちは元神童ばかりで、数学オリンピックに出たとか、大手塾の優秀者に選ばれて海外研修旅行をプレゼントされたとかそういうエピソードには事欠かなかった。かといってガリ勉というわけではなく、書道とか音楽とか子供のころからやっている習い事で表彰されたりと一芸に秀でた人も多かった。私みたいな元平凡な子供は少数派で、思えばこの頃から少しずつ場違い感を感じていたのかもしれない。私の大学の人達ですら生まれながらに頭のいい人たちなのだから、さらに偏差値の高い国立大学出身の玉城が馬鹿なはずがない。
「いや、信じられないくらいの馬鹿でしたよ。宝くじって当たりと外れの二種類しかないから二枚買えば必ず当たるって親に自信満々にプレゼンしてましたもん」
「えー、うっそー!」
 私は驚愕した。それは決して侮蔑の感情からではない。
「私もまったく同じこと言ってました。発見した時、これで億万長者だって思って、親に話して笑われました」
「そうそう、それで当たるなら棒アイス二本買ったら必ず一本は当たるはずでしょ、でも当たらないじゃないの。って呆れられるまでテンプレっすよね」
「言われました。そう、当たったことないんですよ。結構好きで毎日のように食べてたのに。当たり率、四パーセントくらいでしたっけ?」
「やっぱり言われますよね。ちなみに俺は馬鹿だったので、それ聞いてアイス二本同時に買ったら必ず当たるのかって解釈して翌日二本買いました。もちろん両方外れ」
 玉城はけらけらと笑った。ツボに入ったのか笑い声がどんどん大きくなる。つられて私も笑った。心から笑えたのは久しぶりだった。遠い昔の鳥取と宮崎、直線距離にして五百キロ近くも離れた場所で私たちは同じ馬鹿なことをしていた。それが嬉しかった。もしもあの頃玉城と出会えていたら、絶対に会ったその日に友達になれた。もしかしたら、初恋は玉城だったかもしれない。
「やっぱ俺たち似た者同士っすね。当たりくじ同盟のよしみでコーヒーか何か奢りますよ。俺のせいで無駄に歩かせちゃったし」
 ありえないifに思いを馳せていると、突然玉城がコンビニを指さした。いつもなら遠慮してしまうけれど、今は玉城の厚意が素直に嬉しかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。いただきます」