涼子は読書会に来ていた。

 かれこれ参加するのは四回目になる。

毎週参加できるわけではないので、気まずい思いがあったが、読書会のメンバーは全く気にしていないようだった。

前回と間隔をあけて参加しても、ずっと昔からの仲間であるかのように毎度歓迎してくれた。

「涼子さん、何飲みます?」

「えっと、紅茶をお願いします。ありがとう」

 部長の新見が紅茶を淹れてくれた。

 読書会の部屋には、飲み物が各種揃えられており、飲み放題だという。

これは夏希先生のポケットマネーから出ているらしい。太っ腹である。

 何度訪れても、オシャレな友人宅に来ているような不思議な気分になる。

 涼子は新見の淹れてくれた紅茶を飲みながら設備の整った部屋を見渡した。

「涼子ちゃんって、確かフリーライターだったよね」

 年長の顎髭が特徴の森本が話しかけてきた。

 気づいたら、みんな、涼子のことを自然に名前で呼んでくれるようになっていた。

彼らの高いコミュニケーション能力に驚くばかりだ。

「そうです、フリーです」

「奥さんが、フリーライターに憧れててさ。今度相談に乗ってもらえないかな」

「私でよければ、いつでも」

「ほんと? それは助かる」


 涼子は、周りに聞ける相手がいることの心強さを知っている。

今の時代、働き方はいろいろ選べるが、人と違うことをすると不安が伴う。

涼子もフリーになる前は知人にいろいろ聞いて不安を解消した。

いつかは自分の経験が、誰かの役に立てばいいと思っていたので、森本からの申し出が嬉しかった。

聞いてみると、どうやら森本は無職らしい。

中年の無職で妻子持ちと聞くとだらしがないように聞こえるが、マンションをいくつかもっており、家賃収入があるという。

代々持っていた土地だというので、なかなかのお坊ちゃんのようだ。

趣味で小説を書いているとも言っていたので、いかにも教養のあるお金持ちの坊ちゃんなのだな、と思った。

 生活には困っていないが、書く仕事をしてみたいと奥様が言い出したようだ。

お金持ちの趣味のようなものだとは思うが、涼子は、「書きたい」という同じ想いを持つ同志を見つけたような気がして嬉しかった。

いつものメンバーが揃い、ほぼ定刻に読書会は始まった。

 どれも読んだことがないので気になったが、一番印象に残ったのは、部長の新見が紹介した本だ。

 新見が紹介したのは、日本のミステリー小説で、大門剛明の『完全無罪』という作品だ。

誘拐事件の被害者だった主人公が弁護士となり、その犯人の冤罪再審裁判に奮闘する姿が描かれている。

裁判の行方と事件の真相を巡り、互いの想いと正義が交錯するヒューマンミステリーだ。

 詳しくはネタバレになるとのことで詳細は伏せられたが、タイトルの『完全無罪』という言葉の意味を深く考えるような作品らしい。

「罪があることの証明はできるけど、無罪であることは完全には証明できない。無罪の証明の難しさと、その確実性について考えさせられました」

 そんな新見の感想を聞いて、読書会メンバーは思考した。

「例えば、新見が私のお菓子を食べたかどうか判定する場合、もしも、食べていたら、身体検査すれば何かしら証拠はでてくる。でも、食べていなかった場合、同じく身体検査をして何も出てこなかったときに、それは本当に食べていないから出てこなかったのか、食べたけど、何かしらの工作で何も出てこなかったのか、実際はどっちかわからない、みたいなこと?」

「おう、そんな感じ」

「あれだよね、痴漢の冤罪とかそうだよね」

「そうですね、してないことの証明って、相当な労力がかかるし、その正当性に関しては懐疑的ですよね」

 読書会メンバー一同、神妙な顔をしていた。

 彼らは涼子と同様に、考えることが好きなようだ。

 難しいテーマで、答えのない問答でもあり、会話をする人を間違えば、それを考えることに何の意味があるのか? と言う人もいるだろう。

 しかし、ここの人たちは、そんなことは言わない。

じっくり一緒になって考え、ああでもないこうでもないと話すことに面白さを感じているのだ。

 涼子は、真面目に「もしもの話」ができるこの読書会をとても気に入っていた。

「みんな難しい顔して、どうしたの?」

「あ、夏希先生。遅いですよぉ」

「ごめん、ごめん。ちょっと野暮用で時間を読み違えてしまって」

 最後の森本の紹介が終わり、意見交換をしているときに夏希はやってきた。

 夏希はスーツ姿だった。仕事で外回りでもしていたのだろうか。

 夏希を交え、引き続き、無罪についての議論で盛り上がった。

 普段、生活をしていると、このような議題をじっくり考えることはない。
本日も充実感で満ちた読書会となった。

 読書会後、夏希は猫田の卒論についてのアドバイスをしていた。

 ――先生っぽいなぁ……

 涼子は離れたところから二人を見ていた。

 夏希はまるで、手に入れたばかりの宝物について語るような表情をしている。

 その姿を見ていると、夏希の授業を疑似体験したような気分になった。

 ――夏希くんの講義、受けてみたかったな。

 きっと、夏希の授業は人気だったのだろう。

 魅力的なのは、その美しい見た目だけではない。

夏希は聞く人を魅了する話し方をする。

ただ教科書の文字をなぞるのではなく、誰でもイメージしやすい実例を用いて、自身のこととして考えさせるように語りかける。

そこに独自の考えを交え、聴く人自ら知りたくなるような魅惑的な問いかけをする。

全てを教えるのではなく、考える余地を残して問いかけるのだ。

 読書会後、各々がやりたいように過ごし、それぞれのタイミングで部屋を後にした。

 涼子は使用したコップを洗い終え、ソファでPCを操作している夏希に話しかけた。

「夏希くんも、そろそろ帰る?」

気づけば、部室は夏希と涼子の二人だけになっていた。

「そのつもりです」

「この後、憩に行こうと思ってて、一緒にいいかな」

「もちろんです」

 何度見ても、夏希の笑顔は眩しい。


 二人で大学の最寄り駅まで並んで歩いた。

「なんか、怪しい天気ですね。予報では雨マークはついていないみたいなんですけど」

「ほんとだ」

 夏希はスマホの天気アプリを表示させた。曇りマークが一日続いているようだ。

 六月も中旬を過ぎ、ここ最近は雨の日が続いていた。

 雨が降っていないだけましだが、久しぶりに傘のいらない日だったので、涼子はこのまま天気でいてほしいと願った。

「一雨きそうだな」

 数分後、夏希の予想が当たってしまった。

 最寄り駅に着き、喫茶憩に向かって歩いていると急に土砂降りになった。

 喫茶憩は目と鼻の先だった。

 二人で小走りしたが、雨粒が大きいせいで全身びしょ濡れになった。

「これは、ひどい」

 頭から水をかぶったみたいなお互いの姿を見て笑った。

 喫茶憩の入り口にある庇の下に急いで入ったが、いまさら庇など意味をなさないほどに濡れていた。 

 街を歩いていた人々も、同じようにびしょ濡れになりながら移動している。

「さすがにこれじゃあ、入れないね」

 涼子は水が滴る服に触れ、今日は諦めて帰ろうとしていた。

「涼子さん、こっち」

 夏希は喫茶憩と隣の家の間にある小道の方へ進み、涼子を呼んだ。

 雨音で、涼子の声は届きそうになく、言われるがままについて行った。

 空は夜のように暗く、雷の音までしてきた。

雨はどんどん激しさを増している。

 すぐに懐かしいような古民家が現れた。

辺り一面、この天候で暗くぼんやりしているせいで、少しホラーな外観に見える。

夏希はガラガラと音のする引き戸を開けて中に入ると、「入ってください」 と、涼子にも入るように言った。

「でも……」

「入ってください」

 夏希は、躊躇している涼子に有無を言わさず中に入れた。

「……お邪魔します」

「ここで待っていてください」

 夏希は玄関に涼子を残して奥の方へ行ってしまった。

 服は絞れるくらい水が滴っており、立っているだけで身体が重たく感じた。

 涼子はできるだけ玄関を水で汚さないよう、目だけを動かして家の中を観察した。

 三十人分くらいは裕に靴を並べられそうなゆとりのある玄関だった。

玄関だけで、古き良き日本の家であることがわかる。

古い家ではあるが、無駄な置物などはなく、また、埃も見えない。

一目で掃除が行き届いていることがわかり、家主が綺麗好きであることが窺い知れた。

恐らくここは、喫茶憩と繋がっている家だ。

 何度か訪れたあの事務所はこの家の一部なのだろう。

 懐かしいような雨の匂いがする。古い家の木が湿気たような匂い。

遠い昔、祖父母の家で嗅いだような気がする。

 涼子がノスタルジーに浸っていると、夏希が戻ってきた。 

「応急処置ですが」

 そう言いながら、涼子の肩にバスタオルをかけてくれた。白く分厚いそれが体を包み、じんわりと温かさを感じ、体が冷えていたことを知る。

「ありがとう」

 涼子は自分を抱きしめるようにしてバスタオル羽織った。

 遠くの方から足音が近づいてきたと思ったら、彰が現れた。

「ありゃー派手に濡れたね、お風呂に入って温まりな」

「お邪魔しています。こんな格好ですみません」

「いいの、いいの。気にしないで」

 出迎えてくれた彰は、嫌な顔一つせず、快く部屋に通してくれた。

「そこにタオルがあるので好きに使ってください。洋服が乾くまでは、このスウェットを着てもらえますか。ちゃんと洗濯してあるので安心してください」

「あ……あの、お風呂はさすがに」

 勢いのままここまで来てしまったが、人の家で、しかもお世話になっている喫茶店の店主の家で風呂に入るなんて、さすがに気が引けた。

「浸かるのが嫌なら、シャワーだけでも浴びてください。そのままだと風邪をひきますよ」

 ――いや、そうじゃなくて……

「何か困ったら呼んでください。上の部屋にいます」

「……ありがとう」

 必要なことを言い終わると、夏希は上の部屋に行ってしまった。

涼子がもじもじしていることはわかっていただろうに、夏希は華麗にスルーし、涼子は辞退できないまま、流されるように風呂に入ることになった。

 羽織っていたバスタオルを外し、ふと鏡を見ると、薄いピンク色のシャツの下で、下着がくっきりと透けていた。

 ――応急処置ってこのことか……

 夏希のスマートで紳士的な対応に、涼子は胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。

 雨を全身に浴びたせいで、身体は芯から冷え切っていた。

 夏希も濡れて寒いだろうに、涼子を優先してくれる優しさが染みた。

有難さと申し訳なさを感じ、早く交代しようと、急いでシャワーを浴びた。

熱めのシャワーで身体は温まり、涼子は少しふわふわした気分になっていた。

涼子は借りたスウェットを着用し、髪を濡らしたまま肩にタオルをかけた状態で、二階の夏希に声をかけた。

「お待たせしてしまってごめんね。ドライヤー時間かかるから、夏希くん先に入って」

「早いですね。濡れたままだと風邪ひきますよ。こっちの部屋で乾かしてもらって大丈夫です」

「ありがとう」

 涼子は夏希に案内された、浴室に一番近い部屋で髪を乾し、ぼうっとしていた。

 ――いい匂い。

 夏希から借りたスウェットから、ほのかにフローラルな香りがする。

 世の男性は、みんなこんな甘い香りがするのだろうか。

 夏希のスウェットは厚みがあり、柔らかくて肌触りもよく、匂いまでいい。

 涼子は体育座りをして、自分の体を抱きしめるようにしながら匂いをかいでいた。

「……寒いですか?」

「ううん、大丈夫!」

 音もなく急に現れた夏希に驚き、涼子は体育座りのまま、背筋をピンッとさせた。

 体育座りで丸まっている姿は、具合が悪そうに見えたようだ。夏希は心配そうに涼子を見ている。

「これ、よかったら使ってください」

 再び、ふわっと甘い香りが涼子を包んだ。夏希が涼子の肩に厚手のカーディガンをかけてくれた。

脳が痺れるような甘い香りに、再び意識が飛びそうになる。

 ――変な物質が入ってるわけじゃないよね。

 ふと、夏希に目をやる。

 風呂上がりの夏希は、いつもに増して美しかった。

 水も滴るいい男という言葉があるが、その言葉のモデルにでもなったのではないかと思うほどに美しく、色気が駄々漏れだった。

夏希は、涼子と同じ黒色のスウェットを着ていたのだが、お風呂上りで顔がツヤツヤして見えるからか、妙な色気があった。

「何から何まで、ありがとう」

「いえいえ、お気になさらず……といっても、僕にとっても人の家なんですけどね」

「夏希くんは住んでいないの?」

「はい、時々泊まることはありますが、今は住んではいないです」

「昔は住んでいたの?」

「はい、社会人になるまでは」

 ここは彰の自宅で、彰とその妻が住んでいた家だという。
 
 夏希は二人分の麦茶らしきものが入ったグラスを机に置き、涼子の隣に腰を下ろした。

 それだけで、涼子はドキドキしてしまう。

「畳っていいですよね。畳の匂いが好きで、ここに来るたびにごろごろしてます」

 夏希は畳を撫で、昔を思い出すかのような表情をした。

「わかる。懐かしくって、落ち着く匂いがするよね」

 涼子も昔、祖父母の家に遊びに行っては畳で寝そべっていたことを思い出していた。


「雨、全然止まないね」

「むしろ、ひどくなってますよね」

 窓を打ちつける雨を二人で眺めていた。

どれくらい時間が経っただろうか。風呂上がりのせいもあり、二人は何を話すでもなく、畳でぼうっとしていた。

 ――なんだろう、この居心地の良さは……

 涼子は不思議でたまらなかった。

 人の家でシャワーを浴び、年下の男の子と二人、雨を眺めてぼうっとしている。  

ありえないシチュエーションであるのに、妙に居心地がよかった。

祖父母の家に遊びに来たような感覚と近いのかもしれない。

家の雰囲気がそうさせるのか、普通なら、緊張してしまうのに、いつでも眠ってしまえるくらいに落ち着いていた。


 ――バリバリッ

 光った、と思ったら、ものすごい音がした。

「絶対落ちたよね」

「落ちましたね」

 近所で落雷があったようだ。 

 部屋の電気が消えた。電化製品の電源が落ちたようで、部屋が静かになった。

 窓の外では雷と雨音が激しく鳴り響いている。

「雷、平気なんですか」

 暗闇の中で夏希が言った。

「うん、怖いけど、平気」

 家の中にいれば安全なので、さほど怖いとも思わなかった。

「かっこいいですね」

 夏希は面白そうに笑った。

 暗い部屋の中で夏希の楽しそうな声だけが響いて不思議な感じがした。

「全然つかないですね」

 待っていたらいつか電気がつくと思っていたが、待てども灯りはつかない。

 さすがに気になって、二人で部屋をうろうろしていると彰がやってきた。

「電気が使えないと何もできないね。店は閉めてきたよ。コーヒーは出せないんだけど、お酒でも飲む?」

「いいねー」

 彰が持っている懐中電灯のおかげで部屋の中が見えるようになった。

 彰は何やらいろいろ持ってきたようで、ライターでキャンドルに火を灯しているらしかった。

「素敵なキャンドルですね」

 幻想的なキャンドルだった。

まるで、夜空を切り取ったかのような濃紺のキャンドル。ガラスの中で、星座のようなモチーフと金箔が散りばめられていた。

 キャンドルに火が灯ると、さらに、視界が良くなった。

 ぼんやりと彰と夏希が暗闇に浮かんで見える。

「お客さんから頂いたんだけど、使う機会がなかったんだよね」

 きっと、綺麗な女性からもらったんだろうな、と涼子は見たこともないお客さんを想像した。

「洪水警報や避難勧告は出ていないようです。当分は家でじっとしているしかなさそうですね」

 夏希はスマホで災害情報を調べてくれていたらしい。

 見た目は激しいが、災害レベルは低く、いつもより激しい雷雨ということらしい。

 涼子は雷雨が落ち着くまで、ここにいさせてもらおうと思った。

 いつもは、喫茶店の店員と客という関係の三人。暗闇の中で酒を飲んでの談笑は何かのイベントのような雰囲気があった。

不謹慎ではあるが、涼子はこの非日常的な空間に心がときめいているのを感じていた。


「涼子さんテンション高いですね」

「そう? そういえば、お酒を飲むと話しやすくなるって言われたことはあるかも?」

「ちょっとわかるな」

「酔わないし、自覚はないんだけど、テンション高いんだ、これ」

「いやぁ、たまにはこういうのもいいね。暗闇で酒を飲んで、甥と美女と語り合う。今度お店のイベントとしてやってみるのもいいかもね」

「素敵。いいですね、それ! 灯りはキャンドルだけとか」

「提供できるものは限られますが、面白そうですね」

 酒が入ったこともあり、三人はいつもとは違う雰囲気を楽しんでいた。

 二、三時間くらい経っただろうか。

 涼子は眠たくなってきていた。

「朝まで飲み明かしたいなぁ……しかし、残念ながら老いには勝てそうにない。私はもう、眠くてたまらないので、今日はお暇するよ」

 名残惜しそうに彰は立ち上がった。

「涼子ちゃん、危ないから明るくなるまでここにいるんだよ。こんなときは動かない方がいいからね」

 窓の方を見ながら彰は言った。

 数時間前よりも、窓をたたく音は小さくなっていた。それでもまだ、雨は降り続いている。

「ありがとうございます。本当に、いつも甘えさせてもらって……」

「気にしないでゆっくりしていって。おやすみ」

「おやすみなさい」

 彰の足音が遠くなっていき、部屋は静けさに包まれた。

 キャンドルは少しずつ溶けて小さくなっている。

「なんか、不思議だね」

「そうですね」

 それまで涼子は何も考えずリラックスしていたが、ふと我に返ってしまった。

 暗闇に二人きり。

 キャンドルが一つ、二人を微かに照らしている。

 涼子は自分がそういう対象にならないことを自覚はしているものの、こんな状況で意識しないなんて無理だった。

「……お手洗い借りるね」

 二人きりになった気まずさに耐えきれず、ひとまずトイレにでも行って冷静になろうと思った。

既にトイレの場所を教えてもらっていたのと、夜目が効くようになっていたので一人でもたどり着けた。

 一つ屋根の下、真っ暗闇の中で、いい歳の男女が二人。

 彰がいたことで、アットホームな空間に寛げていたが、よくよく考えてみればとんでもない状況だ。

彰というバランサーがいない今、安心よりも緊張感が勝っていた。

 ――いや、でも、年上の色気のない女に変な気は起こさないか。

 そんな風に考えると、荒波のように激しかった鼓動は落ち着いてきた。

 ――何を心配していたんだろう。私たちは喫茶憩の店員と客だ。

「戻りました、うわっ……!」

「ちょっ……」

 涼子は考え事をしていたせいで引き戸の段差に躓き、視界が大きく揺れた。

「……」

静寂。

 涼子の下に夏希がいた。下敷きになった夏希の両腕で涼子は抱きかかえられていた。

 密着した夏希の胸は温かく、心地良い鼓動を感じた。

同じ夏希の服を着ているのに、夏希の匂いは、涼子のそれとは違い、クラクラするほど甘い香りがする。

 顔を上げると数センチ先に、作り物のように整った顔がある。

 暗闇の中で光る、夏希の薄茶色の瞳。

 キャンドルの灯りに照らされているせいか、吸い込まれてしまいそうな妖艶な色をしている。

 一瞬、息をすることも忘れ、その瞳に見惚れていた。

 夏希もこちらをまっすぐ見て、微動だにしない。

 雨はまだ降り続いているはずなのに、何も聞こえなかった。

 このまま、その薄茶色の瞳を見続けていると、囚われてしまうような気がした。

「ごめんっ……」

 涼子は、夏希の腕をそっとほどいて身体を起こした。

「……痛いところは、ないですか?」

「うん、ありがとう。夏希くんのおかげで大丈夫……夏希くんこそ大丈夫?」

「平気です」

 ――冷静に、冷静に、冷静に。

 大人な対応を意識した。

「涼子さんって、意外とおっちょこちょいですよね」

「よく言われる……って、ちょっとそんなに笑わないでよ。気にしてるんだから」

 ふふふ、と最初は上品に笑っていたが、ツボに入ってしまったのか、夏希は必死で声を押し殺すように笑っている。

 涼子は恥ずかしくなり、両手で顔を覆った。

 ちょっとしたハプニングの後ということもあり、再び心臓が騒いでいる。

顔も赤くなっているのだろう、じわじわと血が巡るのを感じた。 

「いやぁ……涼子さんってわかりやすいですよね」

「わかりやすい? そんなこと、一度も言われたことないよ……」

「本当に? さっきも、二人だと気まずいなって思って、とりあえずトイレに行ったんでしょう?」

 よく見えなくてもわかる。

夏希は今、ものすごく意地悪な顔をしている。

「……そういうことは、わかってても普通言わないの……って、ちょっと笑いすぎ!」

 はははと夏希の楽しそうな笑い声が、暗闇のなかで響いている。

 こんなこと、今までにあっただろうか。

何を考えているかわからないと言われることはあっても、わかりやすいなどと言われるのは初めてだった。

 夏希の前では、どうも調子が狂ってしまう。

思い出すとまた、顔が熱くなってきた。

「結構顔に出てますよ」

「……そんなことを言うのは夏希くんだけだよ。心理学に詳しいから、人よりも気づけることが多いんだと思う」

 夏希は、心理学を学び、人間という生きものの心と体について、人よりも多くの知識を持っている。

 そして、人にはない特殊な力を持っている。

 人間が心の奥底に秘めている、強い感情を視ることができる能力。

そんな能力と知識があれば、人よりも気づけるものは多いだろう。

「……あ!」

 自分でも驚くほど、声が出た。

 涼子はその時、重要なことに気づいた。

「どうしたんですか」 

「さっき、私に触れたよね」

「……気のせいでは?」

 付き合いのある人間の想いは視ないように、意識して触れないようにしていると夏希は言っていた。

 しかし、先ほど夏希と涼子は確実に触れ合った。

そして、涼子は夏希の熱を再び肌で感じ、先日のことを思い出した。

「なんなら、先日も事務所で……」

 言いかけて涼子は、また顔を赤くした。

 先日の雅也との出来事を自分から口にするなんて、無理だ、と思った。

あの日、年甲斐もなく取り乱して涙を見せてしまった。

おまけに、抱きしめられ、頭を撫でられた。思い出すだけでも恥ずかしい。

 ――暗闇で助かった……

涼子はまだ、先ほど触れた夏希のぬくもりを覚えている。

これを逃すと、もうないかもしれない、と思った。

「さっき、絶対視たよね?」

「視てません」

夏希は誤魔化すつもりらしい。

――そうは、させない。

「じゃあ、視て」

 涼子は、夏希の手を握り、まっすぐ夏希を見た。

 夏希の瞳は、ゆらゆらと揺れているように見える。

 ――なんて綺麗な瞳……

 涼子は、夏希の瞳の美しさに、凝りもせず見惚れていた。

「……勘弁してください……」

 夏希は迷っているようだった。

 しかし、夏希は涼子の手を振り払うことはしなかった。

 今この状況では、視ていないとは言い逃れることはできない。

「教えて。夏希くんが視たことを」

 涼子はこれまで、二度、他人の想いを視た夏希を見た。

あれらの出来事で、夏希の能力を信じつつあったが、涼子は知りたかった。自分でも知らない自分の強い想いを。 

この好奇心には抗えない。

嫌がる夏希から無理に聞き出そうとは思っていなかった。

しかし、触れ合ってしまった。あの瞬間、きっと夏希は何かを視た。

視られてしまったのなら、聞かないわけにはいかない。

誰にも話していない涼子だけの想いを、夏希には視られてしまっているのだから。

「……聞いても、何も変わらないって言えますか」

 呆れと諦めと、切なさのようなものが入り混じった声で言った。

 夏希はなぜか苦しそうだ。

 人の想いを視るというのは、苦しいものなのだろうか。

「うん。だって私の想いでしょ? 夏希くんから言われたからって何も変わらないよ」

「そうですか……」

 ひとり言のようにつぶやき、しばし沈黙の後、夏希は教えてくれた。

「高校生、陸上、インターハイ、少年、交通事故」

 夏希はお経のように、淡々と単語を言い連ね始めた。

 暗闇でよく見えないが、どこか遠くの方にある原稿を読み上げているようだった。

「涼子さんの強い想いは……高校時代…陸上のインターハイ直前、学校の帰り道で子どもを助けて交通事故にあったこと」

――ドクン。

 涼子の心臓が大きく跳ねた。

 聞こえるはずはないのに、暗闇の中で、自分の心臓の音が響いたような気がした。 

「……今よりも、髪の毛が長くて、日に焼けた涼子さんが視えました」

 夏希は涼子の短く切りそろえられた黒髪を細い指先で愛おしそうになぞった。

 まるで、目の前の涼子を通して、過去の涼子を見ているようだった。

 涼子は言いようもない胸のざわめきを感じた。

 ――私のロングヘアを知っているのは高校時代に出会った人だけだ。

 高校時代以外は、ずっとショートヘアだった。

そして、この事故の話を知っているのは、家族と当時の友人くらいだ。

東京でこんな大昔の話をする機会はないし、わざわざ夏希が誰かから聞き出すことも現実的ではない。

 涼子は遠い記憶を手繰りよせるように目を閉じた。

 深い海の底に近づくように。

 少しずつ息が苦しくなってくる。

 深く沈んだ遠い日の記憶。

 誰にも気づかれないようなところに隠された思い出の箱。

 涼子は静かに、そっと記憶に触れた。




学生時代は、陸上一筋だった。涼子は幼い頃から長身で、人よりも足が速かったことから、中学では陸上部に入部した。

淡々と練習をすることが向いていたのか、元から持って生まれた身体能力に技術が追加され、見る見るうちに成績を上げていった。

中学時代は百メートル走競技で全国五位入賞を果たした。

この成績のおかげで高校は、スポーツ推薦で難なく入学することができた。

 高校時代は、これまで以上にハードな練習に明け暮れた。陸上で将来食べていこうとは思ってはいなかったけれど、足の速さ以外に取り立て特技もなかったのと、周りがオリンピック選手になることを期待してくれていたことを理由に、ひたすら目の前の目標を達成するために努力した。

 高一の時、インターハイで二位になった。

あと一歩というところで優勝できなかった悔しさはあるものの、確実に努力が実っている手ごたえを感じていた。

 来年は絶対に優勝する。

 そんな思いで、さらに練習に力を入れるようになった。

翌年の高二の春、順調にインターハイへの出場権を手に入れていた。

薄っすらと初夏を感じる春の日のことだった。

学校で授業を受け、部活の練習を終えて帰宅をするところだった。

涼子の通う学校の周辺は住宅街で、車や自転車を利用する人口が多い地域だった。

涼子もその他大勢と同様に自転車通学をしており、その日も自転車で帰宅しようとしていた。

行き交う車や自転車、部活終わりにだべりながら帰宅する学生たち。

 いつも通りの光景で、もうすぐ日が落ちる時間だった。

 学校から一番近い横断歩道で信号が青に変わるのを待っていた。

この信号は変わるのは早いが、いつも足止めを食らっていた。

すぐに変わることはわかっていても、信号で待たされる時間というのは長く感じるものだ。

信号が変わるまでの間、帰宅してからの筋トレメニューについて思考を巡らせていた。

 その時、ふと、違和感を覚えた。

 少女が一人で歩いていた。

 違和感の答えは、この時間帯に一人で少女が歩いていることが珍しかったから。

そして、その少女は細く、その年頃にしては活力がないように見えた。

スカートから覗いた足が棒のように細く、心配になる細さだった。

 ――なんか、ふらついてる?

 活力がないと思ったが、それだけでなく、歩みがおかしかった。

少女の他に歩道を歩いている人はおらず、少女が異様に浮いて見えた。

 信号が点滅する。

 ――これ、まずくない?

 胸がざわざわした。

 よくないことが起こりそう。そんな根拠のない不安。

 涼子の不安は的中した。

 少女は、ガクっと膝から崩れ落ちた。
地面に膝と手をつき、かろうじて意識を保っている、そんな様子だった。

 信号が赤に変わる。

 信号が変わっても少女は横断歩道で動けずに固まっている。

 車からは死角になっているのか、少女に気づくことなく直進している。

 涼子は無意識に走り出していた。

 ガシャンと音をたてて、自転車が倒れる。

周りは何事かと涼子を見ていたが、涼子の目には少女しか入っていなかった。

 けたたましいクラクションの音。

 急ブレーキで地面が擦れる音。

 一瞬の出来事だった。

 涼子はその一瞬、スローモーションのように時空が歪んだように感じた。

「だい、じょう…ぶ…?」

「……」

 間一髪のところで、涼子は少女を救うことができた。

 涼子の記憶は、そこで途切れた。

 目が覚めると涼子は病院にいた。

 あの後、救急車で運ばれたらしい。

幸運なことに、命に別状はなかった。

 しかし、少女をかばって転がった勢いで、肩を脱臼、片足を骨折していた。

「あの……あの子は……大丈夫ですか?」

 病院で目が覚めた涼子は、見回りに来た看護師に質問した。

「大丈夫よ。検査の関係で他の病院に運ばれたみたいだけど、あなたのおかげで無傷だったみたい」

「そうですか……よかった」

 その後の検査で脳にも異常はないことが確認でき、三カ月程度で元の生活に戻れると医師から告げられた。

入院中には少女の家族がきて、涼子や親に何度もお礼を言っていたという。

涼子は、この時のことを実はよく覚えていない。

当時のことは、両親や友人に聞いたことで記憶を補完している。

もしかすると、都合のいいように改竄した記憶であるかもしれない。

涼子は、この時の自分の行動を意外に思っている。

基本的に自分から何かをするタイプではなく、どちらかというと受け身な人間だった。

だから、誰かを助けるなんて、自分が一番驚いていた。

なぜ、そんな行動に出たのか、自分でも説明できないが、本能的に動いたのだと思う。

後先なんて考えずに、身体が勝手に走り出していたとしかいいようがない。

 怪我で、インターハイ出場の夢は途絶えた。 

 悔しくて、泣くものだと思っていたが、案外すんなり受け入れていた。

 もしもあの時、少女が轢かれるのを目の当たりにしていたら――。

 その時はもっと、心に傷を負っていたかもしれない。

失ったものは大きいけれど、命には代えられない。

その後、医者から言われていた通り、怪我は問題なく完治した。

 涼子は退院してすぐ、陸上部を退部した。

そのことについて、周りは腫物に触るかのように理由を尋ねてくる人はいなかった。
それは、涼子がそうさせない雰囲気を出していたからだと思う。

「……やっぱりあの時なんだ……」

 なんとなく、そうではないかと予想はしていた。

しかし、いざ言い当てられると、なんとも言えないような感情が頭を埋め尽くした。

 二人を纏う空気が少しだけ変わったように感じた。

それまで聞こえなかった雨音が急に耳についた。

「もしも、あの時、少年を助けなかったら……インターハイに出場し、違う未来を進んでいたかもしれない……そんな想いが視えました……」

 夏希は気まずそうに、歯切れの悪い言葉を発した。

 涼子は、すぅ、と大きく息を吸った。

「夏希くん」

「はい」

「たぶん、勘違いをしていると思う」

「勘違い?」

「そう、勘違い。私は助けたことは後悔していないの。……信じてもらえるかわからないけど、良く思われたくて弁解しているわけじゃない。小さな命を救ったことは、当時も今も後悔したことは一度もないの」

 あの時の感情を誰かに話したことは、記憶の限りない。周りは、怪我をした涼子のことを不憫に思い、誰も事故のことを話題にしなかった。気づけばもう、二十年くらい昔の出来事で、言われなければ思い出すこともなかっただろう。

 夏希が視たものは正しい。

 しかし、解釈が間違っている。

「夏希くんが視た私の想いは、あの時のことを、何かを諦める理由にしている自分を恥じていることなんだと思う」

 断片的に視た夏希は、勘違いをしているかもしれないが、怪我は治った。

完治後、辛抱強くトレーニングに励んでいれば、翌年インターハイに行けたかもしれない。

でも、涼子はそうしなかった。

練習ばかりの日々で疲れていたのかもしれない。

入院中いろんな本を読んで、もっと勉強しなくてはいけないのだと気づいた。

もしかすると、ずっと、逃げる理由が欲しかったのかもしれない。

なんとなく始めた陸上だったが、自分以上に周りの期待が膨れた。

辞めたいだなんて言い出せないくらい、注目を集めてしまっていた。

そんな時、あの事故で自分の人生を見つめるきっかけができた。

走ることを職業にするなんて、ほんの一握りの人間にしか成しえない。

涼子は自分がその一握りではないことを漠然と理解していた。

 リハビリをしながら、いろんな本を読み漁った。

その時出会った本がきっかけで、本を好きになり、哲学をすることに夢中になった。

いつしか、言葉に関わる仕事に就きたいと思った。

 だからこそ、今があるのは、あの事故があったからだと思っている。

 しかし、今思うと、何かとあの頃から逃げていたのかもしれない。

夏希に言われて、自分が無意識下で、あの事故のことを意識していることを知った。

 成人式は出なかった。高校時代の部活の仲間と会うのが気まずかったからだ。

仕事ではスポーツに関する仕事には関わらないようにしていた。

「あの時、走り続けていたら……」そんな、たらればを想像することが嫌だったから。

走ることしか取り柄がないのが嫌で、それ以外でも価値があることを見出したかった。

 だから必死に仕事に食らいついた。

広告代理店での激務は、学生時代の練習の日々を思い出して、あのしんどさよりはマシだと思いながら耐えた。

 もう振り返らない、後悔はしないと思いながらも、あの事故は涼子の人生において、切っても切り離せない出来事として残っていた。

「……あんまり覚えてないけど、当時、リハビリは大変だったし、走ることをやめたら自分には何も残らないことを知って苦しくもなった。でも、あの日々があったから、今、この仕事をしたいって思えたの」

「……」

「人生何が起きるかわからないし、日々小さな後悔はしているけど、あの時の自分の選択は全く後悔していない。……でも、そっかぁ……やっぱり、何をするにもこの思い出が無意識にリンクしているんだね……」

 涼子にとって、忘れてはいけない出来事。

 今の自分を作ることになった、人生を左右する出来事だ。

 言われるまで忘れていたが、思い出してもなお、幼い子どもの命を救った自分を誇りに思った。

そして、選んだこの人生を、あのとき選ばなかったもう一人の自分に、後ろ指をさされないように生きようと思えた。

「教えてくれてありがとう。聞けてよかった」

 涼子は清々しく、前向きな気持ちになっていた。

「……なら、よかったです……」

 なぜか夏希は決まり悪そうな顔をしている。

「もう一つ訂正させてもらうと、私が助けたのは女の子だったよ」

「……そう、なんですか」

「うん。スカートを履いていて細いなぁって思ったことは覚えてるの。夏希くんに視えるものって、ちょっと加工が入ってたりするのかな」

「……読み取りミスですかね」

 夏希はちょっと悔しそうだった。

 前に夏希は、能力で視えるものは、時系列はバラバラで、いろんなシーンが連続して視えるといっていた。

そんなバラバラな情報を繋ぎ合わせて推理するのは、容易にできることではないのだろう。

いくら勘が鋭く賢い夏希でも、多少の読み違いくらいはあるのだろう。

「……ちょっと納得いかないかも」

「何がですか?」

「私のことばかり、夏希くんに知られてる」

「……そう、ですね」

 仕事のこと、雅也とのこと、学生時代のこと。

 涼子は夏希に丸裸にされたも同然だ。

 夏希も同じことを考えていたのか、気まずそうに同意した。

「夏希くんは、自分のことは話さないよね」

「隠しているわけではないんですけど……特に面白い話もないので」

「そんなことない。私は、もっと夏希くんのことを知りたい」

 涼子は無意識に、夏希の指先を握っていた。

 非日常の空間は、人をほんの少し変えることがある。

 この時、夏希の心臓が大きく脈打ったことを涼子は知らない。

「……質問があれば、受け付けます」

「何、それ……!」

 夏希の反応が面白く、涼子はクスクス笑った。

 ――なんだろう、この心地よさは……。

 夏希といると、なぜかいつも懐かしいような気持ちになる。

美しい容姿には慣れなくて相変わらずドキドキしてしまうが、それ以外は安心する。

自分の年齢や、二人の年の差も忘れて、楽しい気持ちになる。

 窓をたたく雨音は小さくなり、次第に外は明るくなってきていた。

 どちらが先だったかは、わからない。

 二人はいつの間にか眠りに落ちていた。

 明け方、二人はまるで恋人のように仲良く向かい合って眠っていた。

 彰はいつも通りの時間に目を覚ますと、そんな二人を見つけた。

愛おしそうに見つめ、そっとブランケットをかけると、音を立てずに部屋を後にした。



 





 ある日の読書会のこと。

 夏目漱石の「I love you.」の翻訳について議論していた。

「『月が綺麗ですね』で愛してる、だなんて、ちょっと回りくどくない?」

「猫ちゃんはわかってないねー。日本人男性は普通、『愛してる』なんて言えないのよ。この奥ゆかしい日本人の感性がわからんかね」


「元ネタ知らないと、『あ、ほんとだね』で終わっちゃいますよ」

「まぁ、確かにそうなんだけど。ロマンだよ、ロマン」

 文豪の夏目漱石が英語教師をしていた時、生徒が「I love you.」を「我君を愛す」と訳した。

それを聞いた漱石は、「日本人はそんなことは口にしない。

月が綺麗ですねとでも訳しておきなさい」と言った逸話から「I love you.」=「月が綺麗ですね」という表現が生まれたとされている。しかし、この表現は漱石の作品に出てくるわけではなく、実は明確な出典はないといわれている。

元ネタは不明であるのに、時代を超えて出回っているというのはなんとも不思議な話だ。

この遠回しな愛の表現を、現代でも使う若者がいるとかいないとか。

 この言葉には返しもあり、肯定的な返事の場合、「死んでもいいわ」というのがいいらしい。

これは、明治時代の文豪、二葉亭四迷がロシア語での愛情表現への返答「Ваш(あなたのものよ)」を「死んでもいいわ」と訳したことが発端となっているという。

 涼子はこの話を初めて聞いた時、いつの時代にもロマンチックな人はいるものだと思った。

そして、この「I love you.」の翻訳とその返答に関して、当時気になって色々調べた。

そのため、詳しい自信はあったが、いままでそれを披露する場はなかった。

やっと語り合える場に恵まれ、涼子は躍り出したいような嬉しさを噛み締めていた。

「森本さんなら、なんて訳します?」

「――目が覚めた時、君が隣にいてほしい」

「……ふーん、売れない小説家の割にはいい回答ですね。ドヤ顔なのは、イラッとしましたが」

「売れない小説家は余計だよ。趣味なんだからほっといて」

「森本さんって案外キザなタイプなんですね」

 意外そうに新見が頷いている。

「新見は?」

「えー……毎日君の作ったご飯が食べたいとか?」

「なんか亭主関白っぽい。今の時代、ご飯は作れる方が作ればいいんだよ」

「……愛してるなんて言ったことないし、それに代わる言葉なんて考えたことないよ。結局『好き』って言葉が一番伝わるんじゃないの」

 新見が不服そうに猫田に反論した。

「それはそうだけど……涼子さんは、どんなのがときめきますか?」

 なんという言葉が一番グッとくるだろうか。

 三人の会話を聞きながら涼子は考えていた。

 確かに、「好きだ」と言われるのは、わかりやすくて、嬉しい。

 しかし、哲学を志すものとして、中途半端な回答は出したくない。

「『目が覚めた時、君が隣にいてほしい』ってすごくいいと思います。『好き』って言われるのはもちろん嬉しいけど、自分とその相手が同じ世界に存在していることが文脈で想像できるのは、大切に想われている気がしませんか?」

「すごい! なんか、しっくりきました。それで言うと、新見のも案外悪くはないのかも?」

 新見は猫田の言葉で微かに顔をほころばせた。

ちょっと得意げに、でも大したことではないとでもいうように、指先で眼鏡をくいっと上げた。

 涼子は、自分と一回りくらい歳が離れている若い二人を見て、甘酸っぱく、くすぐったいような気持ちになった。

「夏希先生はなんて言うと思う?」

「先生は、キザに見えて、意外と苦手そう」

「わかる。たとえ、そういうのが苦手だったとしても、女が勝手に寄ってくる」 

「間違いない」

 満場一致で、全員が頷いていた。

「みんな、お疲れ様。遅くなってごめんなさい」

「先生! ちょうどいいところに」

 夏希が遅れてやってきた。大学の教授との約束があったようで、先に始めるようにと、直前に連絡があった。

「今、夏目漱石の「月が綺麗ですね」に代わる愛を伝える言葉について話していたんです」

「へぇ、随分ロマンチックな議題だね」

 そういいながら、夏希はソファに腰掛けた。

「先生なら何ていうかなぁって」

「夏希先生は、『愛してる』とか言いますか?」

「言わないね」

「やっぱり」

「やっぱりって、何」

 夏希は何とも言えない顔で笑っている。

 しかし、目を伏せて微笑む姿は美しく、どんな姿も様になる。

 夏希は不意に目だけで涼子の方を見た。

 バチッと涼子と目が合う。

 夏希はすぐに視線を外した。

 ――え、何……?

 夏希の謎のアイコンタクトに、涼子は目を丸くした。

「そうだなぁ……」

 夏希は足を組み、胸の前で両手をクロスさせ、斜め上の方を見つめ考えている。

「……僕がもし、それを翻訳するなら……」

 たっぷり勿体ぶるような間の後、夏希は言った。

「『あなたのことをもっと知りたい』かな」

 夏希は再び涼子を流し目で見ると、フッと笑った。

「……!」

 涼子は、あの嵐のような雨の夜を思い出していた。

 夏希の笑顔は、天使のようで、悪魔のようでもある。

 その悪戯っぽく、妖艶な笑みに、きっと誰もが心を鷲掴みにされてしまうのだ。

 読書会のメンバーは、夏希の翻訳に対して、何やらコメントしていたが、涼子の頭には、まるで入ってこなかった。

 心臓がうるさい。

 涼子は、この年下の美青年に出会ってから、心を乱されてばかりいる。

夏希を相手にすると、時々、自分が自分でないような不思議な気持ちになる。

もう十分、生きてきたつもりだったけど、まだまだ自分の知らない自分がいるようだ。

夏希といると、そんな新しい気づきがある。

 どうしてかはわからないけど、涼子はもっと知りたいと思ってしまうのだ。

 自分の知らない自分のこと、この謎多き男の子のことを。

 次は、どんなことを知れるのだろうか。

 涼子はほんのり顔を赤くしながら、これからも出会うであろう未知との遭遇に期待を膨らませていた。










「運命って信じますか?」

 気づけば、そんなことを口走っていた。

「っ……ロマンス詐欺か何かですか?」

 出会ったばかりの男からの胡散臭い問いかけに、ショーヘアが似合う美人な彼女は、むせながらも、ツッコミを入れた。

 悪気なく言った言葉だったが、すぐに失礼を詫びた。

 しかし、僕の態度が気に入らなかったのか、彼女は早々に帰ってしまった。

「一目惚れでもした?」

 遠くなっていく彼女の後ろ姿を目で追っていると、そんな茶化すような声が耳に届いた。

「……そんなんじゃないよ」

「またまたぁ」

 茶化しているが、実際のところはどちらでも良さそうだった。

 明確にわかるのは、この人は、この状況を面白がっているということだ。

 一目惚れなんて、そんなんじゃない。

 そんな言葉では言い表せない出会いだった。

 運命という言葉をこれまで信じたことはなかった。

物語の世界で、恋愛が加速するための意図的な装置でしかないと思っていた。

 でも、もしかしたら、それは本当にあるのかもしれない。

 そんな風に思ってしまうような、運命的な再会を果たした。

 僕は小学生の頃に事故に遭ったことがある。

 これまで事故のショックで、その前後の記憶が朧気だった。

 しかし、彼女に触れた瞬間、全身に電流が走ったのかと思うほど、一瞬であの日のことを思い出した。

あの日、彼女が身を挺して助けてくれなければ、僕はもう、この世にいなかったかもしれない。

 そんな、命の恩人のことを今の今まで忘れてしまっていたことを知った。

あの時の少女は、時を経て、知的で大人の色香を纏った素敵な女性に成長していた。

 もう、何年も昔のことだから、当然見た目や雰囲気は変わっていたが、あの記憶は、かつて自分が当事者として見たものと同じで、彼女があの時の恩人だということがわかった。

 あの日、失ったもの。手に入れたもの。

 彼女に触れたことで、いろんな感情が蘇った。

 今、再び出会ったことは、単なる偶然には思えなかった。

 自分があの時の少年だと言ったら、彼女はなんと思うだろうか。

彼女が失ったものを知った今、それは簡単に口にはできないことだと思った。

 お礼を言いたいなんて、救われた側のエゴかもしれない。

良かれと口にしたことで、嫌な記憶を呼び覚ましてしまう可能性がある。

 彼女のために、何ができるだろうか……。

 やはり、あの始まりの日を知ることからだろうか。

 長い間欠けていた記憶のピースがやっと見つかった。

 彼女に救われる前、僕はどこで、何をしていたかを思い出した。

 それは、停滞していた調査の大きな手掛かりだった。

 だけど――まだ、足りない。

 彼女を巻き込んでしまった事件の真相を、僕は、必ず突き止めなければいけない。

全てを明らかにしなければ、彼女に謝る資格もない。 

 これまでの日々が、全て繋がっていたような気がして、自分の進むべき道を確かめられたように感じた。

 夏希は、涼子と再会した日、ずっと心に秘めていた決意を強くした。





                                   (了)