夏希と神奈川でディナーをした翌日、涼子は百貨店でベビーグッズを見ていた。

学生時代の友人が出産し、ようやく落ち着いたと連絡をもらい、家まで遊びに行くことになっていた。

 年齢的に、涼子の友人のほとんどが子育てに励んでいる。

結婚し、子どもができると、これまでと同じようにフラっと飲みに行くことがなくなり、ちょっとずつ疎遠になってきている。

近況はSNS上で知ることになるのだが、会ったこともない子どもの成長を知っているというのは、なんとも不思議な感覚だった。

 一方で、涼子と同じように仕事に生きるタイプの友人もいる。家庭か仕事かという、両極端な生き方では、共有できる悩みや話題がなくなってくるので、気づけば同じ独身仲間とばかり遊ぶようになっていた。

同じ場所で生きていたのに、どこかで分岐し、それぞれの世界を生きている。

意識はしていなかったが、これまで育休中の友人と会う機会がなかった。

だから今日、初めて友人の子どもに会う。

 涼子は親友の出産祝いということで、リサーチに精を出していたが、難航していた。

随分前から、ネットで大量のブックマークを付けていたのにも関わらず、優柔不断な性格が出てしまい、ついに当日を迎えてしまった。

結局、早めに家を出て、百貨店のベビーグッズ売場で直接選ぶことにした。
店頭でも悩み、最終的に店員に相談をして、無事プレゼントを決めることができた。

 時間通りに友人宅に到着し、インターホンを押した。

「はぁーい。ちょっと待ってね」

インターフォン越しに聞く友人の声に胸が高鳴る。

 立派な一軒家に感動しつつ、友人が出てくるのをドキドキしながら待っていた。

「わぁ~涼子だー! ひさしぶり! 上がって上がって」

「奈菜、久しぶり。お邪魔します」

 扉が開いたと思ったらすぐ、テンションの高い奈菜に圧倒された。

「よく来てくれたよー。ありがとー!」

「こっちこそ、大変なのにありがとう。体調は大丈夫?」

「最初に比べたら全然平気! ずっと寝不足だけど今は慣れたって感じ。それよりもね、まだ、おしゃべりができないでしょ? それが結構くるんだよね。誰かと会話したい! ってめちゃくちゃ思うの。大人との話し方を忘れそうで怖いよ」

「そっか。奈菜は話すのが好きだし、きついよね」

「そうそう。二人で外出するのも大変だから、来てもらえてほんと助かる。いま、この瞬間も話せて最高に嬉しい!」

 寝不足でハイになっているのか、奈菜は早口で「嬉しくて仕方がない」ということを全身で表現していた。
どうやら本当に、会話に飢えていたらしい。

「陽太くんはどうしてるの?」

「ちょうど寝たところなの」

 息子の陽太が寝たことを思い出したらしい。奈菜は急に小さな声になり、すぐ隣の部屋を指で差しながら言った。

「ごめん、インターホンうるさかったね」

「大丈夫、一回寝たら、なかなか起きないの。起きたら泣き出すからそれまでがチャンス!」

「チャンスって」

 奈菜が小声で、そんなことを言うものだから面白くて笑った。

 奈菜は初めての子育てでわからないこと、慣れないことに苦戦しながらも、工夫してなんとかやれているらしかった。

三年ぶりに会う奈菜は、以前よりも少しやつれていた。寝れていないといっていたが、申告どおり、クマがひどい。
肌も乾燥しているからか皺が目立っていた。

 悩んで購入したプレゼントを渡すと、出迎えてくれたときと同じくらいのハイテンションで喜んでくれた。

「子育てってさ、なんでこんなに大変なのかなぁ。そりゃぁ子どもはかわいいけどさ、想像以上に大変すぎるよ。三人くらいほしいって思ってたけど、二人目もちょっと考えちゃう。そら、少子化になるよ」

 積もりに積もった奈菜の愚痴を聞いた。それから、思い出したかのように学生時代の思い出話に花が咲いた。

 奈菜は小中高と同じ学校に通った数少ない友人だ。

そして、中学・高校と陸上部でつらい練習を乗り越えた仲間だった。

当時から奈菜は明るく元気で、ムードメーカーとして愛されていた。今も変わらず、そのキャラを貫いているようだ。

 高校卒業後、二人はそれぞれの進路に進んだ。涼子は私立の大学へ、奈菜は看護の専門学校に進んだ。

時間にゆとりのある大学と違って、専門学校は大変そうだった。
涼子が人並みに大学生活を謳歌している間に、奈菜は専門学校を卒業し、一足先に社会人として働いていた。

高校を卒業してからも、連絡を取り合い、時間を見つけて遊びに行っていたが、毎日顔を合わせていた高校時代と違って、共有できるものがどんどん減っていった。

 奈菜のことを知っている気になっていたが、何も知らなかったのかもしれない。

そんな風に思ってしまうくらい、徐々に溝が生まれた気がする。

あくまで、涼子側の主観であるので、奈菜はそうは思っていないかもしれない。

しかし、涼子は、会うたびに知らない奈菜が増えていくことを切なく感じていた。

 やがて、涼子も就職し、仕事に追われる日々を過ごした。そこからは、正直記憶がない。

それくらい必死に働いて、気づけば十年くらい経っていた。

 最後に奈菜と会ったのは、奈菜の結婚式だった。

 仕事柄生活リズムが異なる二人は、予定を合わせにくく、遊びに行くことはなくなっていた。

それでも、一年に一度は、お互いの誕生日にメッセージを送ることは欠かさず、そこで近況を報告し合っていた。

そのタイミングで結婚報告をもらい、結婚式にも招待してもらえた。

 久しぶりの再会である結婚式では、当然ゆっくり話す時間はなかった。
「またゆっくり話そう」という言葉で、互いに満足し、今日までその機会はやってこなかった。

 あれから三年。

 やっと二人でゆっくり話す時間ができた。

 奈菜から出産の連絡をもらい、「落ち着いたらまた会おう」と、社交辞令のようなやり取りをした。

報告をもらえたことは嬉しかったが、当分会うことはできないだろうと涼子はどこかあきらめていた。

 だから、奈菜から連絡をもらったときは本当に嬉しかった。

 涼子は昔から、遊びに誘うことが苦手だった。

いろいろ考えてしまい、自分から誘えないのだ。

奈菜は不思議といつも涼子が会いたくなるタイミングに誘ってくれていた。

しかし、それは環境の変化とともになくなり、二人で会うことはもうないのだろうと、どこかで感じていた。

 だから、また誘ってもらえたことが純粋に嬉しかった。

しかし、同時に戸惑いもあった。母になった奈菜と、これまでのように仲良くできるのだろうか、と。

 奈菜と会って、話して、それは杞憂であったとわかった。

 結婚しても、母になっても、奈菜は奈菜だった。

 二人で話せば、いつでもあの頃に戻れるのだなと、涼子はしみじみと感じていた。

「涼子は結婚しないの?」

 結婚しなきゃダメって言ってるわけじゃないよ! と、奈菜は慌てて付け足した。

「結婚しないというか、相手がいないからできないよね」

「相変わらず、受身だよなぁ」

「どうしようもないよね。誰かとずっと一緒にいたいとか、この人の子どもが欲しいとか、そういう感情が私にはないのかもしれない」

「すごい、他人事みたいなこというよね」

「不思議だよね」

「涼子は昔から達観してるよね。難しく考えすぎなところがあるというかさ」

「そうだよねぇ、ちょっと頭が固いよね」

「そうそう。カチカチ頭よ」

「そこ、同意しないで。否定して」

 久しぶりの軽快なやり取りに、二人で笑った。

 ――そうそう、この感じ。

 二人で話していると凹凸がうまくハマる感じがする。

「愛が何かわからないんだ、とか言うんでしょ、また」

「あ、バカにしたね? そうだよ、わからないんだよ」

「バカにはしてないよ。でも、もっと単純でいいんじゃないかなとは思う。愛はね、理屈じゃなくて、感じるもんなんだぜ」

 奈菜の疲れ切った顔とドヤ顔のちぐはぐさが面白く、涼子は声を出して笑った。それにつられて、奈菜も笑った。

「私たちさー大人になったよねー」

「どこが……?」

「……大人になったんだよ、年齢的には。でもさ、なんにも変わらないよね。大人のフリしてるけど、ずっと心は中学生くらいだよね」

「確かに、そうかも」

「ビックリするくらい子どものまんま。涼子じゃないけど、たまに陽太のこと、ちゃんと愛せてるのかなってわからなくなっちゃうんだよね。母親としてこんなんで、大丈夫かなって。年齢的には大人になって、大人なフリがうまくなったけど、いつか大人のフリをしてることがバレて、愛情も、フリなんじゃないかって言われそうで……時々、そんなことを考えて不安になるの」

 見た目だけ大人で、母親で。心は未熟なまま。

時々、我が子を愛しているのかわからなくなる。

子どもを産んでも自分が変わらないことに気づいた。でも、環境が大人にさせるのだ、と奈菜は言った。

 奈菜は一見、順風満帆な人生を歩んでいるようだったが、少し人生設計が狂ったらしい。

子を授かったのは本人の意思とは反するものだった。

いつかは欲しいと思っていたが、もう少し夫婦二人での生活を楽しみたかった。

仕事もできることが増えて楽しくなってきたので、もう少し頑張りたかったと、後ろめたさを隠しきれない表情で言った。

「まぁ、ご縁なので、たぶん今だったんだろうなって思うの。やり切れてないこともあるし、もどかしさはあるんだけど、今は自分の人生は一旦、お休みって感じかな」

 昔から、子どもが欲しいと言っていたので、少し意外に感じたが、何事も熱心なタイプだったので、仕事をもっと頑張りたいと思う気持ちもわからなくはなかった。

 子どもは欲しいと思ってもなかなかできないことがある。
一方で、欲しくないと思っていてもできることがある。

子どもが母親を選んで、いいタイミングでやってくるというのを聞いたことがある。

本人が意図しないタイミングであっても、子どもがやってきたことにはきっと何か意味があるのだろう。

奈菜にとっていいタイミングではなかったけれど、好きな人の子どもを手放すことはできない。
だから、一旦自分の人生は休むことにしたのだという。

 奈菜は、涼子の何歩も先を見ている、と思った。

 学生時代は、涼子がノートを貸したり、わからないところを教えてあげたり、何をするにも奈菜は妹のような存在だった。

いつの間にか、奈菜は随分先へ行ってしまったのだな、と涼子は置いて行かれたような気持ちになった。
そして、こうして人は大人になっていくのだ、と感じた。

 母になることで、大人になっていく。

 そうであるならば、結婚もせず、子どももいない涼子はいつまでも子どものままなのだろうか。

「また頭カタイって言われるかもしれないけど」

「うん、なになに」

「不安になるくらい、考えられてる時点で、ちゃんと愛せてるんじゃないかな」

 母親だって、一人の人間だ。ある意味自分の人生を後回しにして子育てをしている。

毎日寝不足で言葉の通じない相手とのやり取りに疲れてしまって、投げ出したいと思うことはおかしいことではない。

それでも愛しい我が子と向き合おうとするところに愛が生まれるのではないだろうか。

「本の受け売りなんだけど、母性愛って本能じゃないんだって。だから、自然に愛せなくてもおかしくないんだよ。人間だから、嫌だなってときもある。だから、無理して理想の母親とか、大人になる必要もないんじゃないかな。奈菜は奈菜のままでいいと思う。
それでも、母親の愛で子どもは愛というものを知るらしいから、ちょっとずつ、奈菜なりに大事にしてあげたらいいんじゃないかな。自分でフリだと思ってしまっても、そうしようとするところに、すでに愛があると思うよ」

 結婚もしていない私に言われても響かないかもしれないけど、と涼子が自虐的に笑いながら言うと、奈菜は顔を歪ませた。

「……りょうこぉーー」

「わ、なんで泣くの」

 奈菜の大きな瞳から涙がぽろぽろこぼれてきた。

 いつものような茶化したツッコミを想像していたので、予想外の事態に動揺した。

「めっちゃいいこと言うじゃん……」

「思った反応と違うんだけど……」

「ありがとー……涼子って自覚なくいいこと言うよね」

 奈菜は子育ての不安でいっぱいいっぱいだったようだ。

 ――こういう悩みって、なかなか人にも言えないよな……。

涼子は全く異なる境遇ではあるが、奈菜の悩みを察することができた。

その後も、愚痴やら、お買い得情報やらいろんなことを聞かせてもらった。

今日、奈菜と話すまでは、生きている環境が違いすぎて、自分には何もしてあげられないと思っていた。

しかし、話し相手になることは、昔と変わらず自分にもできることだとわかった。

それは、かつての友との付き合い方について漠然と悩んでいた涼子にとって、大きな収穫だった。

「たぶんだけど、涼子はいいお母さんになると思う」

「相手もいないのに?」

「今はいないだけだよ。絶対いい人と一緒になるよ」

「そうかなぁ」

「本人にやる気がなさそうなのが問題ではあるけど……恋は突然やってくるものだからね」

 奈菜は学生時代から変わらない、自信満々な顔で言った。

「奇跡が起こったら連絡する」

「それ、一生連絡しないやつじゃない⁈」

「いやそれ、一生独り身だと思ってる人のツッコミだから」

 二人で、しょうもないことで笑いあった。

「あ、起きちゃった」

 隣の部屋から加減もせず、全力で泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

「ちょっと待っててね」

 そう言うと、奈菜は速足で隣の部屋に行った。

 泣き声が小さくなったと思ったら、奈菜が陽太を抱いて戻って来た。

「はじめまして~涼子さん、陽太くんですよ~」

 涼子は陽太を覗き込む。

 生まれて初めて会う、同級生が産んだ子ども。

 何もかも小さくて、やわらかそうで、穢れなど知らない無垢そのもの。

 陽太は不思議そうに大きな黒目で涼子を見て、小さな口をぱくぱくさせている。

「あーあーあぅ」

 声にならない声で何かを伝えている。

「初めまして、陽太くん。涼子さんですよー」

 まん丸の目は涼子を見ている。まだ涼子のことを認識できていないのか、目は合わない。

「涼子のことタイプなのかな。すごく大人しい。初めましてはだいたいギャン泣きしちゃうんだけど」

「陽太くんは賢いですねー」

 涼子は、ぷくぷくのほっぺたをつんつんしてみた。

「あ、笑った。陽ちゃん、やっぱメンクイ説」

 奈菜はけらけら笑い、体を揺らしながら陽太を抱っこしている。

 発言も、笑い方も涼子の知っている奈菜だったが、やはり、母なのだなと感じた。

 感覚的なもので不確かだけれど、奈菜から、感じたことのない「母性」のようなものを感じた気がした。

 ――ちゃんと、愛せてるじゃん。

 陽太を見つめるまなざしは、見たことがないくらい、優しく、慈しむようだった。

 それから陽太と三人で、何をするでもなく一緒にいた。

 確かにこれを毎日二人で過ごすのは大変だな、と感じた。
人の子どもと数時間過ごすだけでも大変なのに、それが毎日ずっと続くなんて、想像もつかなかった。

 ――私も、いつかこんな風に誰かを愛せるのだろうか。

 涼子は奈菜と陽太を見て、無性に切ない気持ちになった。

 そして、一番、愛に近かった存在のことを何気なく思い出していた。

きっと、もう会うことも、心を交わすこともない存在。

 閉じ込めていた記憶や感情が、思い出の蓋をこじ開けて溢れそうになっていた。
 少しだけ感傷に浸り、もう終わったことだと再び蓋をした。

 そう遠くない未来で、あっけなくこの蓋が全壊することになるとは、この時の涼子は知る由もなかった。








 
 喫茶憩のカウンターで始まる穏やかな朝。

 店内に入ってくる心地の良い日差しを感じながら、涼子はホットコーヒーを飲んでいた。

 ここ何日か雨模様が続いており、久しぶりの貴重な晴れ間だった。

 もう少ししたら、アイスコーヒーが美味しい季節がやってくる。

「涼子さん、これはどうでしょう?」

「爽やかでいいですね」

「本当ですか? アイボリーとオフホワイトで悩んでいて、どっちが好きですか?」

「私の肌の色味的には、オフホワイトの方が合いそうですよね」

「そうですよね! 私もそう思っていました!」

 涼子は喫茶憩の定位置、カウンターの左隅でコーヒーを飲んでいた。

その隣には、仕立ての良いスーツを着た男が座り、スケッチブックを涼子に見せながら熱く語っている。

 涼子の元ストーカーこと、安西忠夫。

 元ストーカーで、喫茶憩の常連客であり、スーツ屋の男だ。

安西は、喫茶憩から歩いてすぐ近くにあるスーツ屋の息子で、デザイナーをしている。

デザイナーという点を除けば、どこにでもいそうな中年男性だ。

スーツをこよなく愛していて、そのデザインモデルとして涼子を買ってくれている。

 安西は約束した通り、ネットへの書き込みをやめた。

その代わり、デザインしたものを直接見せてくるようになり、時々、こうして喫茶憩で交流をしている。

安西が描くスーツはどれもセンスが良く、涼子の楽しみの一つになっていた。

「安西さん、それ以上近づかないでくださいね」

 夏希がカウンター越しに、無表情で安西を睨んでいる。

「わ、わかっています! デザインを見てもらっているだけです!」

「それならいいです。約束は守ってくださいね」

「約束は、守ります」

 安西は武士のような男気のある返事をした。

 とてもストーカーをしていた人には見えない。

 二人のやり取りを聞いて、涼子は目じりを下げて微笑んでいた。

「あ、いい時間……そろそろ行きますね」

 涼子は腕時計で時間を確認して席を立った。

 それに合わせて夏希も一緒にレジに向かう。

「……涼子?」

 涼子がレジ前で小銭の枚数を数えている時だった。

「……?」

 後ろから男の人に声を掛けられ、振り向いた。

「やっぱり、涼子だ」

「……」

 男は目を輝かせ、嬉しそうに涼子の方に近づいた。

 男とは対照的に、涼子は自分の顔が引き攣るのを感じていた。

「……雅也」

 消え入りそうな声で、男の名をつぶやいた。

「久しぶり! 元気にしてた?」

 低く落ち着いた声が、涼子の頭上よりも高い位置から届いた。

 涼子は、その懐かしい声の方を見上げた。

「……うん、まぁ」

「この辺で約束があって、たまたまここで時間を潰してたんだ。まさか、涼子がいるなんて……この辺に住んでたんだ? さっき、お店の人と話してたのも涼子だよな? ここによく来るの?」

 雅也は偶然の再会に興奮しているからか、涼子の反応を気にすることなく話をつづけた。

「……ごめんなさい、ちょっと約束があるので、行きます」

「あ、ごめん。そしたら、また!」

 興奮気味に話す雅也を遮って会計を済ませると、涼子は足早に喫茶憩を後にした。

 ――また、なんてあるはずない。あっていいわけがない。

 涼子は、一年半ほど前のことを思い出していた。

『俺たち、付き合わない?』

 そんな一言で、涼子と雅也は恋人になった。
一見、チャラチャラしているセリフだが、気を張らず、お互いを尊重した、二人らしい始まり方だった。

 雅也は、前の会社の同僚で、二つ年上の先輩だった。

一緒に激務に耐えた同志ともいえる。業界的に残業が多く、一緒にいる時間が多いからか、社内でそういう関係になる人は少なくはなかったが、二人はなかなか進展しなかった。

 雅也から告白されたのは、涼子が退職してからだった。

仕事を辞めた涼子の近況を気にかけてくれた連絡がきっかけで飲みに行き、告白されて付き合うことになった。

男友達のような、気を遣わない存在で、涼子はこの関係がとても好きだった。

いい歳をして、恋愛経験がほぼない涼子を思いやってなのか、そもそも涼子にそういう女性的な魅力がなかっただけなのかはわからないが、付き合ってからも、二人の関係は、一緒に働いていた時とほとんど変わらなかった。

一般的な恋人としての行為のない二人だったが、そこに不満は全くなく、家族のような安心感が心地よく、このままの関係でずっと一緒にいられたら幸せだろうと思っていた。

 しかし、ある日、そう思っていたのは涼子だけだったと知ることになった。

『浮気をしてしまった』

 カフェで一緒にランチをしている時、唐突に言われた。

 好きな人ができたと、雅也は言った。

 涼子がハムチーズトーストにかぶりついている時だった。
口の中に熱々のパンとチーズが溢れていて、すぐに言葉が繋げなかった。

 あのとき、なんと返したのかは、もう覚えていないが、「わかった」と言ったのだと思う。

責めたり、別れたくないとごねたりした記憶はない。

 雅也とはいろんなことを話してきたが、こんな悪趣味な冗談を言ったことは一度もなかった。

だから、何の前触れもなく告げられたショックな告白は、信じたくはなかったけど、雅也が言うなら、そうなのだと思った。

好きな人ができてしまったのなら、涼子にできることは、別れることぐらいしかない。

 プレイボーイと噂があった雅也が、半年一緒にいて手を出してこなかった。
浮気したというひとことで、涼子には女としての魅力が足りなかったのだ、とも腑に落ちた。

 こうして、私たちが恋人でいた時間はあっけなく終わった。

同僚として一緒に過ごしてきた時間の半分にも満たない時間だった。

 別れたその日の夜、涼子は眠れなかった。散々悩んだ挙句、外が明るくなったのを見て、雅也の連絡先をそっとブロックした。

二人とも元から頻繁に連絡をするタイプでもなかったので、連絡先が残っていても、きっと何も変わらなかっただろう。

それでも消さずにはいられなかったのは、裏切られたショックを忘れたかったからだ。

 ――あれから一年半も経ったんだ。

 当時は、どれくらいで忘れられるだろうかと思っていたが、日々に追われていると、意外とあっけなく忘れてしまうのだな、と嬉しいような悲しいような気持ちになった。

 ――愛っていったいなんなのだろう……

 多分、それに近い感覚を知った気がしていた。しかし、それはあっけなく消えてしまった。

一方的に裏切られたと思った。

相手への想いが恨めしいような気持ちに変わりそうで、これ以上、考えることが苦しくて、なかったことにした。

 もしも、涼子が愛というものを知っていたなら、たとえ雅也が一度の過ちを犯したとしても、許せたのではないか。
結局は自分が一番かわいくて、利己的な思いを捨てきれず、許すことができなかった。

 あの時の経験が、より一層、『愛』というものを追求するきっかけになった。

 誰かを愛するとは、どういうことなのか。

 もしも、あの時、愛していたとしたら、どうすることが正しかったのだろうか。

 未だ誰も導きだせていない『愛』というものの正体を、涼子なりに探している。

 雅也との再会で、忘れていた当時の気持ちが蘇ってきた。

 ――いや、もう終わったこと! 今度こそ、会うこともない!

 しかし、涼子の努力も虚しく、雅也とは度々顔を合わせることになる。









「涼子!」

「……」

「やっぱりまた会えた! ここに来たら会えるかなって思って来てみた」

 ――来てみた、じゃない!

涼子が喫茶憩に来るのを待っていたのか、涼子が来店してすぐ、店の奥から雅也が近寄って来た。

こんな忠犬ハチ公みたいな人だっただろうか。

 涼子は無意識に定位置のカウンター席に座ろうとしていたが、彰や夏希に雅也との会話を聞かれることを恐れ、雅也に導かれるまま、店の奥の二人掛けの席に座った。

「……ご注文はお決まりですか?」

 夏希は、涼子の異変を察し、何も聞かず、あくまで店員としてオーダーを取った。

「……アイスコーヒーをお願いします」

「かしこまりました」

 涼子はいつも、ホットコーヒーをゆっくり楽しむ。

 しかし、今は、予期せぬ雅也との再会に、喉がカラカラだった。とりあえず、冷たいアイスコーヒーで喉を潤したかった。
そして、長居はせず、すぐに帰るつもりでいた。

「涼子は変わらないな」

 目の前に座る雅也は、まるで恋人を見るかのような優しい表情で、少し切なそうに涼子を見ている。

 そのまなざしが懐かしくて、別れたことを一瞬忘れそうになった。

「……雅也も変わってない」

 相変わらず、七三分けのツーブロックで、こざっぱりしていて、できる営業マンの風格がある。
日本人離れした彫の深い顔も、あの頃と変わらず、自信に満ちていて、でも、少しだけ目尻の皺が深くなったような気がした。

「まぁ、そうだな。一年半で急に老けたりしないよな」

 雅也は、二人が付き合っていたことや、別れた事実がなかったかのように平然と話しを続けた。

 なんでもない話をした。
ほとんど、雅也の話を一方的に聞いて相槌を打っているだけだったけれど。

そういえば、昔もこんな感じだったな、と涼子は懐かしくなっていた。

 三十分ほど、昔話や、共通の知り合いの話をした。

「ごめん、次の予定があるから行くね」

「おう、また!」

 自分の飲み物代をテーブルに置いた。

「いいよ、これくらいは払わせて」

「ううん、自分の分は自分で出す」

 雅也に受け取ってもらえないので、夏希に直接伝票を渡し、会計をしてもらうことにした。

「……大丈夫ですか?」

「……うん、平気。……ありがとう」

 会計中、小声で夏希に話しかけられた。

 この状況で長々とやり取りをするのは気が引けて、簡単に返事をして店を出た。

 次の日も、その次の日も、雅也は喫茶憩にやってきた。

涼子は、二日連続で喫茶憩に現れた雅也に呆れつつも、感情的になってはいけないと思い、前日と同様にやり過ごした。

 しかし、三日目。

 連日仕事に集中できない苛立ちから、ついに涼子は自ら核心をつくことになった。

「ねぇ、仕事は?」

 三日連続、涼子よりも先に雅也は喫茶憩にいた。そして、涼子よりも後に帰っている。

広告代理店の仕事は暇ではなかったはずだ。

「有休取ってる」

「三日も?」

「うん」

「せっかく三日も取ってるなら、どこか出かければいいのに……」

 涼子が知る限り、雅也はよほどの理由がない限り、平日に休みを取るような人間ではなかった。
むしろ、公休も足りていないような人ではなかったか。

 この三日、涼子が知らない一面がでてきて、自分は本当に雅也と付き合っていたのだろうかと自信がなくなっていた。

「涼子に会うために休んでるんだよ」

「……何、言ってるの?」

「あ、デートしてくれる?」

「いや……」

 呆れて言葉が出てこなかった。

「……私たち、もうとっくに終わってるよね。今さら、どうしたの……」 

「俺、ずっと涼子に会いたかった。謝って、やり直したかった。でも、いくら電話しても、LINEしてもだめだった。俺のこと、ブロックした?」

「それは……」

「同期に住所を教えてもらって、何度か行こうと思ったけど、さすがに、それはどうかと思って……正直もう、諦めてた。でも、また、偶然出会えた。運命感じたの、俺だけじゃないよな。涼子と話がしたい。許されるなら……またやり直したい」

 ――こういうとこだ。

 昔から変わっていない。自分が一番正しいと思って疑わないところ。相手に否定させないように、逃げ道をふさぐような情緒的な訴え方。

「……どうしてそんなことが言えるの? 忘れてないよ……浮気されたこと」

 涼子は静かに怒りで震えていた。自分が感情的になっていることに、気づけなくなっていた。

「嘘なんだ。本当は、浮気なんてしてない」

「……今さらバカにしないで……」

「待って」

 ――これ以上、ここにいたくない。

 ギリギリの理性で、声を荒げないように堪え、この場から離れることだけを考えた。

 雅也の大きく骨ばった手が、涼子の腕を掴んだ。

「……離して」

「嫌だ」

「離してっ……!」

 自分の中で何かが切れるような音がした。

 涼子は拒絶の意を表し、雅也を睨んだ。

 雅也も真剣な表情で涼子から目を離さない。

 どちらも一歩も譲らない。

 永遠のように長く感じられたが、恐らくほんの一瞬の出来事だったのだろう。

「――お取込み中、失礼します。他のお客様もいらっしゃいますので……よろしければ、奥の部屋でお話しされませんか?」

 夏希はそう言いながら、涼子の腕を引っ張る雅也の手をそっと掴み、二人を引き離した。

「は?」

 雅也は突然割って入ってきた店員を不思議そうに見た。

「……ごめんなさい」

 涼子は、自分がどこで何をしていたのかを思い出し、急に冷静になった。

 店内を見渡すと、常連客しかいなかった。

苦情を言うような人はいなさそうだが、これは他人に見せるようなものではない。

いったい、どこからこの醜態を見られていたのだろうか。

 涼子は急激に体温が上がるのを感じた。

 今すぐ帰りたい、とごねたかったが、両者一歩も譲らずの状況で、これ以上醜態をさらし、彰や夏希に迷惑はかけたくなかった。

とりあえず、夏希の提案を受け、一度奥の部屋を借りようと思った。

 雅也は一瞬、戸惑いを見せたが、状況を察したようだ。

「すみません」と言って、店側の好意に甘えることを選んだ。

 夏希に案内され、カウンターの奥にある事務所に移動した。

「そこにお掛けください」

 涼子は雅也と向き合う形でソファに腰掛けた。

 夏希は窓側に置いてあった椅子を引いてくると、まるで裁判官かのように涼子と雅也の中間に座った。
細く長い足を組み、膝の上で両手の指先を交差しているだけなのに、妙に様になっている。

 ――このポーズよく見るな……

 夏希の癖だろうか。

「では、続きをどうぞ」

「……あの、二人で話したいんですが……」

 試合再開の合図をする審判のような夏希の声掛けに、雅也が居心地悪そうに異議を唱えた。

「何かあっては困るので、決着が着くまでいます。涼子さんは嫌ですか?」

「……大丈夫」

 本当は、全然大丈夫ではなかったが、弱い自分が押され負けしないよう、夏希にいてほしいと思った。

「涼子、知り合いなの?」

「うん、いつも親切にしてくださる店員さんなの」

「……なるほど?」

 雅也は腑に落ちたような、落ちないような声を出したが、気にするのはやめたらしい。

不思議な状況に居心地の悪さを感じながらも、雅也は先ほどの続きを始めた。

「なるほど、涼子さんの気を引きたかっただけだと」

 会話に入ってくるなよ、と言いたそうな顔をしつつ、雅也は夏希の言うことに頷いた。

 涼子は二人の会話をどこか他人事のように聞いていた。

 つまり、浮気の事実はなく、涼子の気持ちを確かめたくて浮気をしたという嘘をついただけ。

「……そんなの、わかるわけない……」

 ――今さらそんなことを言われても、遅すぎる。

 一年半ぶりに告げられた真実に、涼子の心はかき乱されていた。

 ――なぜ、あの時、すぐに嘘だと言ってくれなかったの? 
あの時、私が連絡先をブロックしなければ、二人は今も一緒にいられたの?

 言葉にならない想いが溢れる。

「ごめん……不安で嘘ついた。付き合ってからも涼子は何も変わらなかったから……」

 寂しくて嘘をついてしまったのだ、と雅也は言った。

「……」

 後ろは振り返らない。そう思って、あの日から前だけを向いていた。

 信用していた相手からの裏切りに、傷つかないわけがなかった。
忘れるために時間が必要だった。

 それなのに、嘘だったとは、どういうことか。

 ――私はあの時、どうすればよかったの……?

 涼子は、消えかけていた記憶を手繰り寄せた。

 当時の涼子たちは、年齢の割に、学生のような純粋な恋人関係にあった。

それは、涼子が相手だからそうだったのかは、雅也に聞いてみないとわからない。

昔から涼子は一人で行動をすることを好み、友達ともたまにしか遊ばなかった。

雅也との付き合いも例外ではなく、涼子がデートに誘うことはなかった。

いつも雅也から誘われてデートをした。手を握られると、握り返し、繋いだまま歩いた。

基本的に、涼子は受身ではあったが、求められたら、それなりに応えてきたつもりだった。

もしも、あの時、それ以上の関係を望まれたとしても、拒むことはなかっただろう。

涼子は雅也に対して何の不満もなかった。でも、それは涼子だけだったようだ。

 付き合う以前と何も変わらない関係に不満があったのか、雅也は浮気をした。

浮気現場を見たわけではなく、雅也本人が申告してきたのだ。それが、涼子が記憶している二人の終わりの原因だった。

「……嘘をついたことは、悪いと思ってる。でも、本当に浮気はしてないんだ。こんなに時間が空いてしまったけど、会ってわかった。俺はまだ、涼子のことが好きだ。……やり直したい」

「……」

「涼子」

 ――そんな目で見ないでよ。

 涼子は何も言えなかった。
なんと返せばいいのか、わからなかった。

 今にも泣き出してしまいそうな危ういまなざしを向けられ、動けなかった。

この期に及んで、まだ嫌われたくないと思ってしまう自分の弱さが憎かった。

「涼子さん」

 不意に、夏希の声が響いた。

「涼子さんは、どうしたいですか?」

 夏希の声が、涼子を現実に引き戻した。

 ――そうだ。これは、すでに終わったことだ。

 絆されてはいけない、と思い直したが、同時に違和感を覚えた。

――なんだろう、この突き放されている感覚は……

 涼子を呼ぶ夏希の声は、出口のない部屋から救い出す救世主のようだった。

 しかし、同時に、目には見えない線を引かれたようにも感じた。

 無表情で美しいその顔は、まるで悪魔のようだと思った。

「私は……前に進みたい」

「つまり、復縁はない、ということですね」

 夏希は明確な言葉で涼子の気持ちを確認した。

 涼子は一瞬、目を伏せ、改めて雅也の目をまっすぐ見た。

「はい」

「涼子……」

 ――いまさら何を言われても、私たちはもう、もとには戻れない。

「……雅也のこと、ちゃんと好きだったよ。私なりに、好きだった……でも、雅也が求めているものは私にはなかった……だから、何度繰り返しても変わらないと思う。私といると……雅也は寂しいと感じてしまうんだと思う」

 寂しいという感情が涼子にはわからなかった。

 涼子は雅也といて寂しいと感じたことがなかった。二人でいれば満たされていた。

それなのに、雅也は寂しかったという。こういうことを価値観の差というのではないだろうか。

「それでもいい、涼子といたい」

 雅也は涼子の手をとり、再びまっすぐな想いをぶつけた。

 ――本当にずるい。

 涼子の弱点を雅也は知っている。
まっすぐな気持ちをぶつけられると、途端にぶれる。つくづく受身な自分が嫌になる。

 伏せていた瞼をあげ、ふと夏希の方を見ると、挑発的な顔をしていた。

「涼子さん、それでいいの? 選ぶのは涼子さんだよ」とでもいうような、表情だ。

それを見て、涼子は自分を取り戻すことができた。

「……浮気したって言われたとき、すごく傷ついた。あの時はそれを信じてすごく傷ついたんだよ。たとえ事実でなくても、嘘をつかれたことは、許せない……雅也のこと、信じてたから」

 だから、あなたとは一緒にはいられない。

 なんて残酷な言葉だろうか。

 涼子は自分の口から発した言葉であるのに、どこか他人事のように感じていた。

浮気をしていたとしても、していなかったとしても、どちらでも関係なかった。

信じていた相手に、試されていたという事実が、涼子には耐えられなかった。

涼子は雅也の言葉をいつだって信じていた。だけど、雅也はそうではなかった。

 涼子の気持ちを疑って、試したのだ。

 浮気されている方が、よっぽどマシだったかもしれない。

「…ごめん」

 涼子の一言は、二人の関係を明確に終わらせる合図だった。

 それは、雅也に対して、涼子が初めて自分の意思を伝えたことだった。

「……わかった……こっちこそ、ごめん」

 いままでありがとう。

 ありがとうという言葉が、こんなにも切なく感じたのは、生まれて初めてだった。

 涼子は部屋を出ていく雅也と夏希を黙って見ていた。

 さすがに、一緒には行けなかった。

 一人、部屋に取り残され、喪失感に襲われていた。 
 
 何気ない毎日が楽しかった。一緒にいるだけで、なんでもない話をしているだけでよかった。
しかし、自分の気づかないところで、相手を不安にさせてしまっていたのだと知った。

 ――私はこれからも誰かを満たすことはできないのかな……

「泣いてるの?」

 夏希の声で、自分の頬が濡れていることに気がついた。

 いつの間にか戻ってきた夏希に、至近距離で見つめられている。

 ソファに座る涼子の目の前でしゃがみ、下から涼子を見上げる夏希。

小さい子どもに大人が目線を合わせるような体勢だ。

 心配そうに見つめる淡い茶色の瞳に、涼子は吸い込まれてしまいそうになった。

 雅也と別れてから涼子は一度も涙を流したことはなかった。

 ――どうして今さら涙が出るんだろう。もうずっと昔に終わったことなのに。

「ごめんなさいっ……」 

 涼子の思いとは裏腹に、涙が溢れて止まらない。

 ――これは何に対する涙なのだろう。

「……っ」

 みっともない姿を見せまいと涙をぬぐっていたら、温かいものに包まれた。

 目の前には夏希の鎖骨があった。
夏希の左手は涼子を抱き抱えるように支え、右手は子供をあやすように、そっと頭を撫でてくれた。

 なぜか、とても懐かしいような気がした。

 自分でも驚くほど声をあげて泣いた。

 涼子は、自分の中にこれほど強い感情があったことを初めて知った。

 ――そうか、私は雅也のことが好きだったんだ。

 うまく愛せなかったけど、信じてほしかった。雅也のことを愛したかった。

 こんな風になってからやっと、自分の本心を知った。

 涼子はそれまで、恋も愛も知らなかった。

恋人と付き合っていても、小説に書かれているような恋や愛というものを感じたことはなかった。

だから、自分には一生わからないものだと思っていた。

 しかし、それは気づいていなかっただけで、あったのかもしれない。

 ――気づくのに、時間、かかりすぎだよ……

 涼子は夏希に包まれながら、生まれたての赤ん坊のようにひたすら泣いた。










 涼子が落ち着いたことを確認すると、夏希はそっと両手を離した。

 ――物足りないような気持ちになるのはなぜだろう。

「物足りない?」

 夏希は左手の指先で挟むように涼子の両頬を摘み、悪戯っぽく妖艶な笑みを浮かべた。

 涼子の心臓は、部屋中に響き渡りそうなくらい、バクバクしていた。

 それまで感じていた悲しみや不安、夏希がくれた安心感、それらが一気に形を変えた。

先ほどとは違う熱で、全身が火照っている。

 ――少年のような優しい男の子はどこへいってしまったのだろう。

 今は、男の色気を纏った、悪い男にしか見えない。

 夏希は時々、別人のように見える瞬間がある。
まるで、悪魔が乗り移ったかのようで、見るものを弄ぶような淫靡で意地の悪い表情をしている。

 この表情を目にする度、全身が、ぞくりとする。

夏希のからかうような言葉に、涼子は年甲斐もなく、悔しくなった。

「怒った顔も、悪くない」

反抗するように無言で睨んだが、逆効果だった。

 夏希は鼻で笑いながら、頬を摘まんでいた手を放した。

 けれど、涼子を見つめる瞳は少しも動かない。

「あの人、本当に涼子さんのことが好きだったみたい」

 夏希は壊れ物に触れるかのような優しい手つきで、涼子の髪を掬った。

 ふと、いつもの夏希に戻ったような気がした。

「そんなの……わかるの?」

「わかるよ。少なくとも……僕には伝わった」

 夏希は切なそうな顔をして、涼子の頭を撫でた。

「……そっか」

 なぜだかわからないけど、夏希が言うことは信じられる気がした。

「戻りたくなった?」

「……まさか」

 涼子は泣いたおかげで、すっきりした気持ちになっていた。

 それは、長い間視界を塞いでいた霧が晴れたようだった。

 恋人との別れは、いつも消化不良だった。

その理由が、今日、やっとわかった気がする。

自分の気持ちを伝え、相手と考えを共有すること、そんな当たり前のようなことがこれまでできていなかった。

もういい歳の大人になって、この先成長なんてものとは無縁だと思っていた。

だから、そんな自分の中の小さな変化が新鮮で、嬉しかった。

「――コーヒーのお代わり、淹れてくれる?」

「もちろんです」

 今は、とりあえず、夏希が淹れてくれる温かいコーヒーが飲みたいと思った。


 涼子は乱れた顔を簡単に整え、いつもの席に戻ると、美味しいコーヒーが出来上がるのを待った。

 






【藤村雅也の想い】 
 アンドロイドみたいな奴だな、と思った。

 市川涼子は、几帳面な漫画家が描いたような左右対称の整った顔をしていて、おまけに、表情を変えずに淡々と話すせいで、本当に人間だろうかと疑ったのが彼女の第一印象だった。

 俺は二つ年下の涼子の教育係として広告代理店の営業の仕事を教えるようになった。

 涼子は一度教えれば、たいていのことはすぐにできるようになった。

淡々とした仕事ぶりを見て、仕事に熱くならず、割り切って働くタイプなのだと思っていた。

 しかし、のちにそれが偏見だったことを知る。

 すぐには気づかなかったが、涼子が誰よりも努力していたことを知った。

涼子は強制されているわけではないのに毎日一番に出勤し、フロアの掃除をしていた。

上司から聞いた話によると、執務スペースが綺麗だとチームの仕事のパフォーマンスが上がるからという理由で自主的にやっていたらしい。涼子が来るまでは、常に散らかっていて、気が滅入る部屋だった。

涼子のおかげで気分よく働けていた人間は俺だけではなかったと思う。

のちに、このことを本人に聞いてみると、「仕事を覚えたての自分にはできることが少ないので、少しでもチームに貢献したかった」と言っていた。

なんて真面目な奴なんだろうと思った。

他にも業務面では、特に商談の事前準備が念入りだった。

取引先の担当者の好みや性格を細かく記録しているようで、それぞれに合ったもてなしをすることで着実に気に入られ、信頼を得ていた。他部署の仕事の内容を理解することにも精力的で、突発的に発生する意義の見いだせない業務でも意欲的に取り組んでいた。

 完璧そうに見えるだけで、実は努力型なのだと知った。

 涼子は、「言葉」というものに対して並々ならぬ情熱を持っており、誰よりもこの仕事に情熱を注いでいることがわかった。

また、表情の差が人よりもわかりにくいだけで、注目して見ていると、いろんな表情をしていることがわかった。

 知れば知るほど、面白い女で、後輩以上の感情を抱くようになるには、そう、時間はかからなかった。

本人は自覚がないようだったが、涼子に想いを寄せている人間は多かった。

告白しては、あっけなく振られていく同志とも呼べる戦士たちの敗北を目の当たりにして、当たって砕ける勇気は俺にはなかった。

もっというと、同じだと思われたくなかった。
俺は、誰よりも近くにいて、容姿だけではない涼子の魅力を知っていたからだ。

涼子には好意を悟られないように、長い間、仲の良い先輩を続けていた。

気づかれないように努力したのもあるが、涼子は鈍感で、全く気づいていなかったと思う。

 涼子はもともと、WEBデザインやコピーライターに興味があったため、四年余りで、希望の部署へ異動した。

涼子が異動してからも定期的に飲みに行くことで、良好な関係を築いていたと思う。

 気づけば俺も中堅社員の域を超え、ベテラン社員になっていた。周りはどんどん結婚していった。家を買い、子どもが生まれた。

 涼子が仕事を楽しんでいることをいいことに、長い間、先輩と後輩の距離を維持していた。

しかし、さすがにいい加減、どうにかしなくてはいけないと思っていた。

 そんな矢先、涼子が退職することになった。

可能性としてはゼロではないはずなのに、都合よく、涼子はいなくならないのだと思っていた。

俺が女々しく何もできないまま、涼子は会社からいなくなった。

辞めた後も、涼子を思い出さない日はなかったと思う。それくらい、俺たちは長い間、仕事で苦楽を共にしてきた。

 フリーランスとしての近況はどうかと、それっぽい話を持ち出して、飲みに誘った。

 その日、告白すると決めていたわけではなかったが、気づいたら、「俺たち付き合わない?」などという軽薄な言葉を口にしていた。本当はもっと考えていたのに、緊張しすぎて、酔いが回ったのに便乗した。

 しかし、奇跡が起こった。

 涼子は「うん」と小さく頷いた。

 あの時の感情は今でも忘れられない。

 あの満たされた感覚は、この先、一生味わえないんじゃないかと思う程だった。

 酔っていたこともあって詳細は覚えていないが、あの日、頷いて、照れくさそうに俯く涼子の姿は、この先もきっと忘れないだろうと思う。

 付き合ってからも、二人の関係に大きな進展はなかった。週一くらいの頻度で一緒の時間を共有した。

特に同じ趣味があるわけではなかったし、見たい映画も、好きな食べ物も違っていたけれど、大した問題にはならなかった。

ただ、一緒にいるだけで楽しかったし、幸せだった。

 なのに、俺は欲張りになっていた。

 年齢の割に進展が遅い二人だったけど、体の関係を急ぐような気持ちはなかった。

どちらかというと、涼子の口から「会いたい」とか「好き」とか、そんな言葉を聞きたいと思ってしまった。

 今考えたら、いい大人がガキみたいで恥ずかしい。

 でも、それくらい、涼子のことが好きで、だから不安だった。

 ある時、こんな会話をしたことがあった。

「涼子は俺がいなくても平気?」

「え? 雅也どっか行くの?」

「いや、そうじゃなくて。会えない間、寂しいとか思わないのかなって」

 その日、二人が会うのは三週間ぶりだった。

 会えない間、それなりに連絡は取り合っていたが、俺は涼子に会いたくて仕方がなかった。

三週間が、永遠のように長く感じた。

 でも、そう思っているのは自分だけだということを突きつけられる気がして、そんなそぶりは見せないようにした。

「うーん……それはないかな。言われてみたら、寂しいって感情がないかも。会いたいと思ったら会えばいいんだから、寂しくはならないよね」

 そんな女もいたのか、と衝撃を受けた。

 これまで付き合ってきた子は寂しがり屋が多く、俺から連絡するまでもなく、相手からメッセージが届いた。

会えない日は、毎日のように「寂しい」「好き」「会いたい」というような連絡をもらっていた気がする。


 女って、そういう生きものだと思っていた。

 そして、案外自分は、かまってほしいタイプの人間であったことを自覚し、心の中で自嘲した。

 俺と涼子とでは、そもそも会いたいと思う頻度が違う。

俺は、涼子から言われるよりも先に連絡してしまう。

この先も涼子から連絡をもらうことはないのだろうか。一体どれくらい間隔を置けばいいのだろうか。

 これが、好きになった方が負けということなのだな、と身に染みて思った。

 そのやり取りから少しして、同期の飲み会があった。

 そこで、お笑い担当の女子が言っていたことに、俺は感化された。

 彼女はイケメンの旦那がいるのだが、どうやって捕まえたのか、というくだりで、「押してダメなら引いてみるのが一番いい」と豪語していた。使い古された恋愛の戦法ではあるが、なぜか彼女の話が心に残った。

 最初は彼女から猛烈アタックしていたけれど、彼女のキャラクターもあり、女として見てもらえなかった。

だからある日、「元カレから言い寄られていて、なし崩しに付き合ってしまいそう」みたいなことを言ってから、火がついたらしい。

人間、手に入らなくなると思うと急に惜しくなるのだろう。

それだけが成功の要因ではないだろうが、大事な一押しだったに違いない。

 この手は、涼子に使えないだろうか。

 そう考えたことが、すべての終わりの始まりだった。

 涼子と俺はその時すでに付き合っていたので、同期のやり方を応用して、「浮気をした」と言ってみるのはどうだろうかと考えた。

さすがに動揺するだろうか。

 そんな試すような気持ちになっていた。興味の方が勝ってしまい、涼子への配慮が欠如していた。

「わかった」

 一言だった。

 涼子は、一瞬、フリーズし、ぽつりと言った。

 俺のついた嘘を信じているらしかった。

 その時、「嘘です」なんて言える雰囲気じゃなかったし、何より、浮気したという嘘をあっけなく受け入れたことに腹が立った。

そうか、涼子にとって、たった一言で終わるような関係だったのか。質問とかないのか? こういう時、責める言葉があるもんじゃないのか? そもそも、こんなわかりきった嘘を簡単に信じるなよ。どう考えても俺は、涼子一筋だったじゃないか。

怒りなのか悲しみなのかはわからない。心の中がぐちゃぐちゃだった。

 嘘をついた自分がどう考えても悪いのに、簡単に受け入れてしまう涼子に腹が立って仕方がなかった。虚しかった。

 気持ちを落ち着けるために、一旦時間を置こうと思った。

一日寝かせれば、きっと冷静に話せる。涼子だって、別れたくないと思い直してくれるかもしれない。

 そんな淡い期待で、一日寝かせた。

 次の日、「ごめん、会って話したい」と、LINEした。

 しかし、翌日になっても、三日経っても既読がつかなかった。電話もしたが、繋がらなかった。

 どうやらブロックされたらしいと、そこで気づいた。

 共通の知人を経由して、涼子と会えないかと画策したが、知人にはやんわり止められた。

それから、タイミング悪く、出張が続き、俺は忙しさに忙殺され、過労で倒れた。

若い頃から働くことが好きで、無理な働き方をしてきたが、二十代と同じようにはいかなかったらしい。

夜ご飯を買いにコンビニ向かったところまでは覚えていたが、気づけば病院のベッドの上に横たわっていた。
幸い大したことはなく、数日で退院できた。

 しかし、体の不調で気持ちまでまいっていた。

休んだ分だけ仕事は溜まっており、再び仕事に忙殺される日々を送っていると、涼子との関係を修復してやり直したいという気持ちがどんどん遠のいていくのを感じた。

昔からチャラチャラしているところはあっても、意外と繊細で、怖がりなのだ。

 もう傷つきたくないと思った。

 涼子と付き合うまでは体の関係だけの女が何人かいた。

でも、涼子と向き合うと決めてから、一切遊ばなくなった。

そんな小さな決意も今となっては何の意味もない。

 きっとこれは、過去のだらしない自分の行いによるバチなのだ、と思った。

 直ぐには忘れられないけど、忘れなくてはいけない。

 そもそも涼子は自分なんかが手を出していいような相手ではなかった。

 涼子は誰よりも誠実で、実直で、清廉で、純粋で、美しい人だった。

 ずっとそばにいたけど、きっと少しも近づけていなかった。

 それぞれが、正しい場所に戻るだけだ。

 そう思って、涼子と過ごしたこれまでの日々を全部忘れようとした。

 しかし、一年半の時を経て偶然涼子と再会した。

 たまたま初めて訪れた喫茶店が涼子の行きつけだった。

 運命だと思った。

 あの日、あの時間に訪れなければ、涼子と再び会うことはなかっただろう。

 自分の中で整理がついたと思っていたのに、涼子に会うと、一瞬で時が戻った。

 やっぱり、好きだと思った。

 変わらない美しい容姿も、嫌だと思っても相手の気持ちを考えて無下にできないところも、困ったように笑う笑い方も、しっとりとした耳心地の言い声も。

 全部、たまらなく愛おしかった。触れたくて仕方がなかった。

 だから、涼子が迷惑だと思っていることがわかっても、会いに行った。

この期を逃すと、もう一生チャンスがないと思って必死だった。

 我ながらしつこい自覚はあった。

まさか自分が、嫌がる相手を追いかけるようになるなんて、夢にも思わなかった。

でも、それくらい涼子が欲しかった。

「あなたとは一緒にいれない」

 涼子から言い放たれた言葉が、心臓を貫いた。

 心に寿命があるとすれば、あの時、俺は死んだのだと思う。

 涼子はいつも受身で、残酷なほど優しかった。

 あの言葉は、恐らく、涼子から俺に発された初めての拒絶の意だった。

 ああ、本当に終わりなんだな。

 あの時、やっとわかった。

 涼子は涼子なりに、愛してくれていた。

 それなのに、俺は自分勝手に傷つけてしまったのだ。

 涼子は俺に嘘をついたことなど、一度もなかった。好意を自分から伝えることはしなくとも、涼子なりに愛情を示してくれていた。

 そんなことも気づけなかった、愚かな過去の自分。

 もしも、過去をやり直せるのなら、間違いなくあの瞬間に戻るだろう。

 俺が涼子に放った言葉、涼子が傷ついたこと、二人が離れていた時間、全て元には戻らない。

 後悔ばかりが募るが、格好悪くても、いまさらでも、ちゃんと伝えられて良かったと思った。

思い返してみれば、俺たちはケンカをしたことがなかった。
皮肉なことに、別れて初めて、互いに向き合うことができた。

 誰かを好きになって、それが報われて、想い合って生きていくって、本当に奇跡みたいなことなんだな。

 俺は、この先、涼子以上に愛おしいと思える人に出会えるだろうか。

 今度こそ、真っすぐに愛し合えるだろうか。

 今はまだ、苦しくて、先のことまで考えられないけど、そうなれたらいいなと思う。

 そして、願わくば、涼子にもそんな存在が見つかって、幸せになってほしい。

 もしかしたら、もういるのかもしれないけど……


とりあえず、今はまだ、知らないままでいさせてほしい。