「土曜の夜、空いてたりしますか?」
週の始めに、夏希にそんなことを言われた。
「土曜日なら、空いてるけど……どうかしたの?」
涼子はスマホのカレンダーを確認した。翌日は友人との約束があったが、土曜日は空いていた。
「神奈川でディナーに付き合っていただけないでしょうか」
「……神奈川で、ディナー」
涼子は思わず夏希の言葉を復唱した。
夏希と、神奈川で、ディナー。一つもしっくりこない単語の羅列だった。
「急にすみません。あの、実は……」
何やら内緒話のようで、夏希は小声になり、カウンター越しに涼子に近づいた。
涼子も聞こえやすいように、夏希の方に耳を近づけた。
「――なるほどね」
夏希がやっているという探偵業の依頼のようだった。
依頼内容は、「密会する二人を調査してほしい」というもので、場所がホテルのレストランだという。
一人では行きにくい場所かつ、怪しく思われるといけないので、女性である涼子に付き合ってほしいというものだった。
「少し遠いですし、周りに誤解を与えかねない場所なので、嫌でなければ付き合っていただけると、とても助かります」
涼子は後ろを振り返り、聞き耳を立てている人間がいないかを確認した。
――仕事とはいえ、こんな年下のイケメンからお誘いを受けるなんて、私はひょっとしたら前世で徳を積んだのかもしれない……
「どうしたんですか……」
夏希は、不思議そうに涼子を見ている。
「……なんでもない。私でよければ、ご一緒します」
店内には若い女性の姿がないことを確認し、依頼を引き受けた。
*
神奈川ディナーの当日。
――ちょっと気合い入りすぎかな……
涼子は、ホテルでのディナーということで、珍しく念入りに化粧をし、服装にも気を遣った。
普段、ほとんど化粧をしないせいで、恐ろしく準備に時間がかかってしまった。
服装は迷走しつつ、無難なホワイトのブラウスに、レース素材で落ち着いた色味のゴールドベージュのタイトスカートを履いた。
夜はまだ冷えるのでジャケットを羽織り、足元はハイヒールを履いた。いつもは地味な色味で、安ものばかりを着ているため、久しぶりのかしこまった服装は、妙にそわそわした。
涼子は、ドキドキしながら、待ち合わせの駅の改札を出た。
少し離れたところで、夏希が手を振っている。
涼子は、速足で夏希の方に近づいた。
「こんばんは」
「こんばんは。ごめん、待った?」
「いえ、ちょうど着いたところです」
――なんだろう、このむず痒い会話は。
まるで、デートのような会話に、涼子は急に恥ずかしくなった。
そして、喫茶憩で見るのとは違う夏希の雰囲気にドキッとした。
普段の夏希も、十分すぎるほどイケメンだが、今日はさらに磨きがかかっていた。
重すぎないブラックトーンのセットアップの着こなしは、まるで雑誌から飛び出してきたかのようだ。
足が長くて、顔が小さいことなんて、以前から知っていたが、こうして、パリッとした恰好をすると、余計に際立って見える。
涼子がヒールを履いて並んでも、夏希の目線にはまだ届かないことから、身長が高いことがわかる。
「行きましょうか」
「うん」
通りすがりの女性が夏希を見ているように感じるのは、きっと気のせいではない。
――こんなイケメンがいたら、そうなるよね。
涼子は夏希と並んで歩くことに窮屈さを感じながらも、知らないふりをした。
目的地は、駅から徒歩三分の好立地で、高層階から横浜の夜景を一望できるらしい。
何を話そうかと考えているうちに、目的地に到着していた。
「こういうところに来るの、すごく久しぶりな気がする」
「僕もです。ちょっと緊張しますよね」
夏希は、ふふふっと少女のように可憐に笑った。
――全然緊張しているように見えないんだよなぁ……六つも年下なのに、しっかりしてる……こういう場所にも慣れているのかな。
夏希の落ち着きぶりに、涼子は胡乱な目を向けた。
「……どうしたんですか」
「慣れてるなぁって思っただけ」
「慣れてないですよ」
「ふーん」
夏希の言うことは真に受けないようにしようと軽く受け流した。
案内された席は、中央の二人掛けの席だった。
「わぁ……綺麗……」
高層階から見下ろす横浜の夜景は絶景だった。
それは、街と海が織りなす幻想的な風景。
ライトアップされた観覧車の寒色と街の灯りの暖色、それらが混ざり合い、まるで星屑が舞い降りたような大パノラマが広がっている。イベントでもやっているのかと思うほど、煌びやかな夜景だった。
「横浜の夜景を見ながらディナーって初めてかも……!」
普段見ることのない高さからの絶景に、心が躍った。
遊園地なんて、何年も行っていないので忘れていたが、涼子は自分が高いところが好きだったことを思い出していた。
そして、この歳になっても、こんなにも心が躍ることがあるのだと、驚きを感じていた。
――観覧車乗りたいな…
窓から見える、光る観覧車に年甲斐もなく心惹かれていた。
「涼子さんも、そんな風にはしゃぐんですね」
子どもを見守る親のような微笑みを向けられ、涼子は我に返った。
「……はしゃいでません」
「ふふ」
夏希はいつも通り、落ち着いていた。
どんな時もマイペースで、環境の変化に左右されない人のようだ。
思い返すと、永美堂の件や、ストーカーの件でも、喫茶憩での接客と変わらない落ち着きぶりだった。
「ターゲットは、三十分後、あそこの席に来る予定です」
夏希は、斜め向かいの窓側の席を指さして言った。
その言葉で、涼子は、本題を忘れていたことに気づいた。
「そういうのって、どうやって調べるの?」
どこに座るかなんて、店側に聞かないとわからないだろう、と涼子は疑問だった。
「まぁ、そこは探偵なので」
夏希は悪戯っぽく笑った。
――深くは聞かないでおこう。
永美堂の件で、夏希は意外と危ない橋を渡るタイプだということを知った。
だから、どんな手段で情報を入手していても驚かないが、こういうことは無闇に聞かない方が身のためだ。
「それで、私は、何をしたらいいのかな」
「守秘義務があるので本当は言えないんですけど、今から話すことは秘密にしてもらえますか」
「もちろん、約束する」
夏希は形式的にそんな確認をした後、状況を説明してくれた。
依頼人は今年三十歳の女性。ターゲットと交際して四年。
最近彼の様子がおかしいということで依頼してきた。
具体的には、今年に入ってから出張や外泊が増えたり、夜遅くに帰ってくると、女物の香水の匂いがしたりと、ほとんど黒のような内容だった。浮気を疑って彼のスマホを覗き見した際、出張だと言っていた日にこのホテルでのディナーの予約を見つけたらしい。
証拠を押さえたいが、現実を見る勇気がないので代わりに行ってきてほしいという依頼らしい。
「黒じゃないかな……」
「そうですね、これだけ怪しい情報があると……」
「四年も付き合って、浮気って……他人とは思えないくらいムカついちゃう」
付き合ってもうすぐ、五年。
彼女は今年三十歳。
女性にとって二十代後半からの大切な時期を捧げてきた相手からの裏切りはどうすれば許せるだろうか。
いや、許せないだろう。男性と違って、女性には身体的にリミットがある。
涼子の周りでも似たような話をよく聞くが、どう考えても許せない。
「そうですね……」
夏希は、静かに憤慨している涼子に、共感とも否定とも言えない反応をした。
――彼女とかいるのかな……?
涼子は、ふと疑問に思った。
――いや、いたらわざわざ私を誘う必要はなかったはずだ。
夏希は、誰もが羨むイケメンであるのに女の影がないことが不思議だった。
掴みどころがなく、ミステリアスな人だ。
涼子は夏希と毎日のように顔を合わせているので、昔からの仲のような錯覚をしていた。
しかし、考えてみれば深い話をすることがなく、夏希のことをほとんど知らないことに気づいた。
喫茶店のカウンターで話せるようなことなど、多くはない。
涼子が知っていることといえば、少し前まで大学で心理学を教えていたこと、今も心理学が好きなこと、読書が好きなこと、イケオジの甥であること、豆大福が好きなこと……。
出会った日から、夏希の個人的な情報はほぼ更新されていない。
――休みの日は何をしてるの? どんな人と仲がいい? 何をしている時が楽しい? 今までどんな恋をしてきたの?
もっと知りたいと思う。しかし、歳の離れた年下の男性に根ほり葉ほり聞いても良いものだろうか。
おばさんだと思われないだろうか。
そんなことが頭によぎり、浅い話ばかりしてしまう。
歳を重ね、怖いことなど無いと思っていたのに、意外とまだ怖いことはある。
今ならいくらでも深い質問ができるというのに、勇気がでない。
喫茶憩のカウンター越しと変わらない、当たり障りのない話をしていると、ターゲットが到着した。
夏希に目配せされ、少し背筋が伸びる。
夏希と話しながら、意識しすぎないように、ターゲットを視界の端で捉えた。
男側は聞いていた通りの三十代くらいで、年相応の見た目をしている。
黒いセットアップを着ており、シャキッとしているように見えるのだが、想像していたよりも気弱そうに見えた。
華奢な体格で、銀縁眼鏡をしているところを見ると、一見真面目そうに見える。
これで浮気疑惑があるので人は見かけによらないものである。
女の方は、男とはタイプが異なり、派手な生活をしてそうだな、という印象を受けた。
遠くから見てもわかるほど、メイクが濃く、目鼻立ちがくっきりしていた。
ワンピースもバッグも、一目で高いものだとわかる、誰もが知っているハイブランドだった。
――意外な二人だな……
あまりにも系統が違う二人は、言われなければ恋人には見えなかった。
ホステスと客、と言われた方がしっくりくるような二人だった。
依頼人は、ターゲットが香水の匂いをさせて夜遅くに帰ってくると言っていたらしいが、浮気ではなくホステス通いにハマった可能性もあるなと、涼子は二人を見て思っていた。
依頼人の席で接客をしていた店員が、涼子たちの席にやってきて「何かご注文はありますか」と聞いてきた。
その言葉で、自分が食い入るようにターゲットを見ていたことに気づいた。
店員にはオーダーはないことを伝え、涼子は思い出したかのように食べることに集中した。
「美味しい……」
カプチーノ仕立てのポタージュ。
こういうところでしか味わうことのない、洗練された味。
濃厚なのにさっぱりとしていて、身体に溶けるように染みこんでいく。
「美味しいですね。うちでも出せたらいいのになぁ」
「憩で食べられたらすごく嬉しい!」
「そう言われたら、頑張りたくなりますね」
「夏希くんも、調理するの?」
夏希が喫茶憩で料理をしている姿は、涼子の記憶の限り一度もない。
「一応、調理師の免許は持っているんですが、仕込みしかしませんね。店で提供しているものは一通り作れますが、伯父さんの味には敵わないので」
「そうなんだ。いつか、夏希くんの作ったものも食べてみたいな」
「涼子さんになら、いつでも作りますよ」
夏希は人懐っこい笑顔を浮かべて言った。
不意打ちのとびきりの笑顔に胸がキュンとした。
――なんて、罪作りな人なの……
リップサービスだとわかっていても、喜んでしまう。
勘違いしてはいけない、と涼子は自分に言い聞かせた。
「すみません、ちょっと席を外します」
夏希の声で、涼子はハッとした。
夏希を目で追うと、その先にターゲットの男がいて、早歩きで入り口の方へ向かっているところだった。
スマホを持っていたので、電話だろうか。
夏希は男の後をさりげなく着いて行った。
――どうする気?
男も夏希も姿が見えなくなった。
残された涼子とターゲットの浮気相手(仮)の女性。
こういう場所で一人にされると、手持ち無沙汰でそわそわしてしまう。
涼子は浮気相手(仮)の方をちらちら見ていたが、特に変わった様子はなかった。
飲み物の追加オーダーをしていたくらいで、相手の不在も気にしていないようだった。
時間にして五分。
「お待たせしました」
男が戻ってきたと思ったら、すぐに夏希も戻ってきた。
「……どうだった?」
夏希にしか聞こえないくらいの小声で尋ねた。
「白です」
「……白?」
「とりあえず、今日はご馳走を楽しみましょう」
これ以上聞くのは野暮、と言わんばかりの夏希の切り替えに、涼子は怪訝に思いながらも合わせることにした。
夏希は戻ってきてから、一度もターゲットに視線をやることなく、目の前の料理を嬉しそうに食べていた。
もう、興味はないといわんばかりだ。
――目的忘れてない?
心配になりつつ、涼子も夏希に倣って料理を堪能した。
涼子たちはターゲットよりも三十分早くコースをスタートしたため、必然的に早く食べ終えてしまった。
会計を終えると、涼子たちはターゲットを残し、店を後にした。
「調査はもういいの?」
「はい。だいたいわかったので」
「何がわかったの? ターゲットと話したの?」
「いえ、基本的にターゲットとは話しません」
話していないとなると、あの五分程度の時間で何がわかるというのか。
涼子は知りたいことばかりで、何から聞けばいいだろうかと思考を巡らした。
「……もしかして、視たの?」
ふと、夏希の不思議な能力について思い出した。
「ご名答」
夏希は口の端を吊り上げ、自信ありげな顔で肯定の意を表した。
フォーマルな場所で身体が固まっていたのか、夏希は歩きながら両手を挙げて全身を伸ばしている。
心なしか清々しそうにも見える。
涼子はわからないことだらけで悶々としているというのに。
「何が視えたの?」
「彼は、依頼人の彼女にプロポーズしようとしているようでした」
「……どういうこと?」
彼女以外の女性と隠れてデートをしておきながら、一方で彼女にプロポーズをしようとしている。
やっていることがめちゃくちゃだ。
涼子が依頼人の立場なら、この状況でプロポーズされても全く嬉しくない。疑惑を全て解消してからでないと、何も信じられない。
「ああいう店って、どんな時に使うイメージですか?」
涼子が悶々と考えていると、夏希が問いかけてきた。
「……何かの記念日のお祝いとか、ビジネスの会食とか……」
「そうですよね。会社員がデートでふらっと来るような場所ではないですよね。少なくとも、出張中に来るような店ではない」
夏希に言われ、確かにそうだと思った。直接的な表現はしていないが、浮気相手と出張中に逢瀬をするなら、わざわざ着飾って、時間のかかるコースを食べるだろうか。
答えは、否。
恐らく、浮気相手とは会える時間が限られている。
そんな二人がわざわざホテルのコースでゆっくり食事をするイメージが全く湧かなかった。
四、五十代のもう少し落ち着いた大人であれば、そんなデートスタイルもあるかもしれないが、三十代であれば、まだ少し早い気がする。
「でも、浮気相手との記念日デートという可能性もあるよね?」
「おっしゃる通りです。しかし、あの二人を見て、恋人のような空気を感じましたか?」
「それは……」
夏希も同じような空気を感じていたようだ。
二人は互いに興味がなさそうで、あまり会話が盛り上がっているように見えなかった。
恋人特有の甘い雰囲気も感じられなかった。
どちらかというと、長年寄り添った夫婦のような、落ち着き払った二人だった。
「例えば、兄妹で、彼女へのプロポーズの下見に来ているというのは考えられないでしょうか」
「……ありえなくはないけど……」
兄妹のいない涼子には判断がつかなかった。
「僕が視たのは、依頼主への強い想いです。慣れない新しい仕事をやりながらも、来月の五年記念日に最高のプロポーズをしたい。
二人が付き合うことになった観覧車が見えるあのホテルで」
まるで、直接男から聞いたかのように自信に満ちた言い方だった。
もしもこれが作り話だったら、夏希は詐欺師の才能がある。
それくらい、説得力を感じた。
現時点では、何が真実かはわからないが、そうであればいいと涼子は願っていた。
依頼人は浮気を疑っているのだから、間違いなく大きなサプライズプロポーズになるだろう。
「どうやって視たの?」
夏希の能力を使うためには、視たい相手に触れなければならないと言っていた。
「『ハンカチ落ちてますよ』っていう、常套手段で」
電話を切り、急いで戻ろうとする男の後ろから声を掛けたのだという。
ご丁寧に「常套手段」と言っているので、いつも使っているワザのようだ。
落としましたよと言われたら、だいたいの人は反応してしまうだろう。
違和感なく、知らない相手に接触する上手い方法だ。人の良さそうな顔をした夏希に声を掛けられて、それが演技だと誰も思うまい。
そういう演技もできるのか、と涼子はますます夏希のことが恐ろしくなった。
――私もすでに術中にハマッてたりして……
「明後日、依頼人と会う予定ですが、このことは上手く誤魔化すつもりです」
この件はやり切った、とでもいうような清々しい表情で夏希は言った。
涼子は夏希の話を聞きながら、自分の明後日の予定を思い出していた。
*
翌々日。
夕方に依頼人が訪れるという事前情報から、涼子もティータイムをする体で喫茶憩にやってきた。
涼子が彰お手製のチーズケーキを口にしているとき、依頼人と思しき人物はやってきた。
夏希は、喫茶憩の客ではないことを確認し、依頼人を裏の事務所へ案内した。
涼子はカウンターでチーズケーキを咀嚼しながら、目の前を通り過ぎていく女性を気づかれないように目だけで追った。
依頼人の女性は、一昨日ホテルのディナーで見た女性とは対照的な外見だった。
あのターゲットと付き合っているのはこっちの方だ、と納得していた。
人は見かけによらないというが、類は友を呼ぶ、という言葉もある。
涼子は自分が部外者である自覚はあったが、報告の行方が気になって仕方がなかった。
依頼人には事実を報告する義務がある。
しかし、すべてを報告すると、男のサプライズが台無しになってしまう。
夏希は上手く誤魔化すと言っていたが、どうやって乗り切るのだろうか。
涼子は、まるでマジシャンのショーを待ち焦がれる少年のような心で楽しみにしていた。
「気になる?」
じいっと、扉を睨む涼子を見て、面白そうに彰が問いかけてきた。
「……とても」
気になる気持ちを誤魔化しても、彰は、涼子が夏希と一緒にターゲットを偵察しに行ったことを知っている。
「これ、持っていく?」
彰は湯気が出ているコーヒーを指さしながら、夏希に似た悪戯っぽい笑顔を見せた。
イケオジの色気が駄々洩れである。
――さすが、佐野さん! イケオジ最高。
「……お言葉に甘えて」
負けた。好奇心に。
涼子は彰から差し出されたトレンチを左腕に載せ、扉を開いた。
そして、廊下を挟んだ向こう側にある事務所の扉をノックした。
「どうぞ」
夏希の声を確認し、扉を開けた。
「失礼します」
涼子は目を伏せ、邪魔にならないようにそぉーっと部屋に入った。
伏せていた目を上げると、夏希と目があった。
夏希は一瞬、微かに驚いた表情をしたが、直ぐに呆れた顔をした。状況を察したらしい。
何事もなかったかのように話を続けている。
依頼人は、涼子のことを客だと気づいていないのか、特に気にするそぶりを見せなかった。
涼子がコーヒーを置くと、依頼人は「ありがとうございます」と小さく言った。
怪しまれず、無事にミッションを終え、来た時と同じように聞こえるか聞こえないかくらいの声量で挨拶をすると静かに扉を閉めた。
――ドキドキした……!
涼子にしては大冒険だった。
飲み物を置くだけなのに変な汗が滲み出ていた。
もう十五年くらい前になるが、学生時代のカフェでのバイト経験が生きたのか、トレンチを片手で持つことを身体が覚えていた。
まだ手がプルプル震えている。心臓を落ち着かせるように、胸に手を当て深呼吸をした。
そして、気づかれないように、扉に耳を当て、二人の会話に耳を澄ませた。
「結論から申し上げますと、現時点でこちらからお伝えできることはありません」
「……どういうことですか? 彼は、浮気相手と会っていたんですよね」
「はい。二人が会っているのは確かに確認しました」
古い扉で隙間が空いているせいか、中の声が思ったよりもクリアに聞こえる。
なんとなく、いつもよりも夏希の声が大きいようにも感じた。
――バレてる?
夏希はこんなにもはっきりとした声で話すタイプだっただろうか。
もしかすると、涼子にも聞こえるように話してくれているのかもしれない。
「ご依頼の通り、証拠写真は撮れており、報告書もできあがっています」
「じゃあ、どうして……」
「……田辺様にとって、最善の方法を取りたいと考えております」
「最善……?」
何を言われているのかわからないというような声がギリギリ聞こえる。
「六月八日に、こちらをお渡しさせていただけないでしょうか」
こちらと言っているのは、恐らく報告書のことだろうと涼子は見えない光景を想像で補完した。
「六月八日って、一カ月も先じゃない……それまでに決着を着けたいんです」
六月七日は二人が付き合って五年の記念日らしい。依頼人は、モヤモヤしたまま、節目を迎えたくないと必死のようだ。
「お気持ちは理解しております。しかし、状況を鑑みて、本日ご報告することは、得策ではなさそうです。一カ月後、改めてご報告させていただけないでしょうか。八日にご報告をして、その内容に納得いただけなかった場合、報酬はいただきません」
一瞬の沈黙。
先ほどまでクリアに聞こえていた声が、聞き取りにくくなった。
夏希は、囁くような小声で、しかし訴えかけるような力強い話し方をしている。
「……真実を知っているからこそ、このようにお伝えしています……真実は変わりません。しかし、それを知るタイミングで物事の受け取り方は変わってしまう可能性があります」
すべてを聞き取れた自信はないが、要するに、自分が話すことによって、状況を悪くしないため、最もいいタイミングで報告をしたいというようなことを言っているのだと推測した。
「……わかりました……」
依頼人は、納得はしていないようだった。
しかし、夏希の説得が効いたのか、渋々返事をした。
「それでは、六月八日に改めて」
二人が席を立つ音が聞こえ、涼子は慌ててカウンター席に戻った。
「どう?」
彰が方眉を上げて、こちらを見た。
静かに涼子は親指を立て、目配せをした。
数分と経たず、二人は出てきて、夏希は依頼人を店の外まで見送った。
「……伯父さんでしょう」
扉を閉めると、夏希は胡乱な目つきで彰を睨んだ。
「涼子ちゃんだけ仲間外れはかわいそうでしょう」
「仲間外れって……」
「ごめんなさい、私が気になってしまって。佐野さんは何も悪くないんです」
涼子は自分が原因で繰り広げられている伯父と甥のやり取りに慌てて入った。
「……別に、怒ってないですよ」
怒っていないという割に、不服そうなのは気のせいだろうか。
「聞いていたかと思いますが、一カ月後に報告することで納得してもらいました。くれぐれも先日見たこと、聞いたことは、他言無用でお願いします」
「……はい」
――やっぱり、バレてた。
夏希は、涼子が盗み聞きしていたことをお見通しのようだった。
一カ月後の結果が知りたくて、もどかしくて仕方がなかった。
涼子は自分が一番部外者であることを思い出し、はやる気持ちを押し殺した。
*
涼子は依頼人への報告日を忘れないようにスケジュール帳に★印をつけていた。
しかし、仕事が忙しかったのもあり、★印をつけたことすらも忘れていた。
その日、涼子は偶然にも夕方に喫茶憩を訪れていた。
外出の予定を終え、喫茶憩で少し早めの夕飯を食べようと思ってのことだった。食後のコーヒーを味わっている時に、見覚えのある女性が来店し、「あ!」と、心の中で叫んだ。
一カ月はあっという間で、しかし、好奇心を維持するには少し長かったようだ。
それにしても、危なかった。今日、この時間に喫茶憩にいなければ大事な瞬間を見逃すところだった。
「本当に、ありがとうございました」
ホールで夏希と依頼人が話している。
涼子は声の主の方を、ちらっと見てしまい、依頼人と目があった。
依頼人は、涼子を見て一瞬、「あれ?」というような顔をしたが、涼子に会釈をして、夏希との会話に戻った。
恐らく依頼人は、以前、事務所に飲み物を持ってきた涼子のことを覚えていて、客のように座っていることを疑問に思ったのだろう。
間違っていない。涼子は正真正銘、ただの客だ。
涼子は会釈を返した後、これ以上怪しまれないように、前を向いたまま、背後のやりとりに全神経を集中させた。
「昨日、彼にプロポーズをされました」
「そうですか。それは良かったです」
「まさか彼がプロポーズを計画してくれていたなんて、全く気がつきませんでした。それなのに私は、浮気を疑ってしまって……」
依頼人の声から、未だ興奮冷めやらぬ状態であることが伝わった。
彼がサプライズをしてくれたのは初めてで、そういうことが苦手なタイプなのを知っていたから、頑張って計画してくれたことが本当に嬉しかったのだ、と言った。
「佐野さんは、このことに気づいて、隠してくださったんですね。何も気づかず、不躾な態度をとってしまって……本当にすみませんでした」
「いえいえ。あの日、何も報告していないことには変わりないので。結果的に、お二人にとっていい選択ができたようで良かったです」
もう必要ないかもしれませんが、と言いながら、夏希は依頼人に何かを手渡した。
恐らく、報告書とあの日の写真を渡したのだろう。
「ありがとうございます。彼が一生懸命準備してくれた思い出の品として、いただいておきます」
声だけだが、依頼人がすっきりしていることがわかった。
そういえば、と依頼人は前置きをした。
「一つだけわからないことがあって」
「なんでしょう」
「あの日、彼に電話を掛けるようにと言われて、言われた通りに掛けました。あれってなんのためにする必要があったんでしょうか」
涼子はこの質問で、あの時、ターゲットが席を外した電話は依頼人からだったことを知った。
「……浮気相手といる時に彼女から電話がかかってきたら、どのような反応をするのか確認するためにお願いしました」
「なるほど、そういうこともされるんですね」
依頼人は、特に疑うこともなく、簡単に納得したようだ。
涼子は、それが表面上の理由であること知っている。
夏希はあの時、ターゲットに触れる必要があった。
触れることで、想いを視ようとしていた。その隙をつくるためにあらかじめ、彼女に電話を掛けるようにお願いしていたのだろう。
電話に気がつかなかったり、知らないふりをしたりする可能性もあっただろうが、用意周到な夏希のことなので、その時はその時で、ターゲットに触れる作戦を考えていたのだろう。
依頼人からの素朴な疑問に、スマートにそれらしい回答をするところは、さすがとしかいいようがない。
依頼人は満足そうに挨拶をすると、喫茶憩を後にした。
「大きなダイヤが光っていたね」
彰が涼子に囁いた。
「ほんとですか?」
左手の薬指に嵌まっていたであろうダイヤと、幸せそうな依頼人の姿を一目見ておけばよかったと、涼子は悔やんだ。
「本当なんだ……」
涼子は無意識に声に出していた。
今回の件で、夏希の能力について信じつつあった。
「涼子さん、まだ疑っていたんですね」
夏希はそう言いながら、涼子の隣にやってきた。
長い足を放り出すように、椅子に浅く腰掛け、頬杖をついて涼子を見つめている。
――そんなに見られると緊張する……
普段カウンター越しの夏希が、珍しく隣に座っていて、涼子はソワソワした。
「単純に、頭の良い人という線も捨てきれなくて……」
「物理的な証拠はないですしね」
こんな反応には慣れている、というような諦めた口調だった。
「私の想いを視てくれたら、信じられるかもしれない」
涼子は、自分の強い想いを知りたいと思っている。
怖いけど、知りたい。知りたいけど、知りたくない。
夏希の能力を聞いてから、そんな相反する気持ちを抱えていた。
「前にも言いましたが、知り合いのものは視ないようにしています」
「佐野さんのも?」
「……伯父さんのは、不可抗力で視たことはあります。親族は一緒にいる時間が長く、物理的に距離が近いので、避けるのは難しいです」
「本人が知りたいって言っているんだから、視てあげればいいのに」
彰が二人のやり取りを聞いて、涼子に加勢してくれた。
「占いじゃないんだから……」
伯父には敵わないのか、夏希はいつも彰に振り回されている気がする。
夏希は、若い見た目に反して、中身は達観していて大人っぽい印象を受けるが、彰との掛け合いを見ると、時々思春期の学生のような幼さを感じる。
「……聞いて、良かった人はいませんよ……」
夏希の意味深な物言いに、能力に関して何か苦い経験があるのかもしれない、と涼子は思った。
――気になるけど、これ以上は聞けないな……
哀愁漂う夏希を横目に、冷めたコーヒーを口に含んだ。
――でもいつか、教えてもらおう。
こじ開けてはいけないことだとわかっていても、気になることは放っておけない自分の性格を理解している。
涼子はどうにかして夏希から聞き出せないかと、頭の中で作戦を練っていた。
【吉田和義の想い】
遡ること一カ月前。
吉田和義は、高級ジュエリー店に訪れていた。
自分がこのようなところに一人でやってくるのは恐らく、生涯で一度きりだ。
もうすぐ、美佳と付き合って五年の記念日だ。
その日のために指輪を買いに来た。サイズは美佳のジュエリーボックスに入っていた指輪で測っているので、恐らく問題ないだろう。
それに、万が一、合わなくてもサイズ直しをしてくれるということで、このブランドを選んだ。
美佳と付き合って四年、同棲して二年。
出会った当時ほどのときめきはないが、五年目を迎えようとしている今でも、美佳のことを心から好きだと感じる。
一緒にゲームをしたり、近所を散歩したり、餃子を作って食べたり、なんでもない毎日が美佳といると愛おしくなる。
美佳とずっと一緒にいたい。この気持ちは今も昔も変わらない。
二人とも今年で三十歳になる。
付き合って五年記念日という節目に、二人の思い出の観覧車が見えるレストランでプロポーズをしようと考えていた。
美佳への想いが溢れたあの日、告白して、手をつないだ。
二人の歴史はあそこから始まった。
あの頃の初心を忘れず、あらたなステージを二人で進んでいきたい。
そんな思いで、観覧車が見えるあの場所を選んだ。
美佳はあの景色を観て、同じように思ってくれるだろうか。
同棲を始めてから、待ち合わせをすることがなくなった。
家を出るのも、帰ってくるのも二人で、その日に別れる寂しさがなくなった。
共有する時間が増えて、楽しく幸せであったが、一緒にいる時間が長くなればなるほど、不満やすれ違いも起きた。
そばにいることが当たり前になって、お互いが大切な存在であることがわからなくなることもあった。
ある日、会社の同僚が同棲していた彼女と別れた話を聞いた。
別れた理由は、よくあるマンネリだった。仲は良かったが、お互いにドキドキしなくなっていたらしい。
二人は、恋愛のときめきがなくなっても仲は良く、一時期は結婚も考えていたらしい。
一緒に指輪を見に行って、あんなところで式を挙げたいなどと、話し合ったこともあったという。
それなのに別れた。理由は彼女に好きな人ができたからだという。
『あなたのことは大好きだけど、ドキドキしないの。一緒にいて落ち着くけど、もっとドキドキしたい。
ときめきたい。大きなサプライズなんていらないけど、小さなことで感動して、あなたのことが好きだと感じたかった』
そんなようなことを言われたのだと、同僚は酒を煽りながら言っていた。
彼女が好きになったという相手は、彼女の会社の後輩で、仕事ができて、気の利くマメなタイプらしかった。
確かに、同僚はどちらかというと雑で、女性が喜ぶようなことを率先してやるタイプではなかった。
「何が欲しい?」などと、ストレートに聞いて、プレゼントするようなタイプだ。
そりゃあ、マメな男と比べたら、勝ち目はない。
彼女は同僚と交際中に不貞をはたらいたわけではない。
こんな気持ちのまま一緒にはいたくないという、ある意味誠実な申告ではあったものの、同僚の心を抉るには十分だった。
「安心しすぎると、ダメなんだなぁ……浮気くらいすればよかったかな……」
真っすぐ彼女を愛していたのに、彼女の心は離れてしまった。
この時の同僚の言葉が忘れられない。
実際、二人の生活を直接見たわけではないので、同僚から語られた言葉がすべてではないと思っている。
しかし、俺は少なからず、この言葉に感化された。
自分たちも、悪い意味で慣れていないだろうか。
そう考えると怖くなった。美佳も、他の誰かに恋をしてしまわないだろうか。
同棲してこの二年、オシャレなデートに行った記憶がない。
出掛けるとしたら、お互い部屋着のような恰好のまま、駅前でご飯を食べに行くくらいだった。
自分はまだしも、自分といるときに美佳がオシャレをしているところを最近、見ていない。
考えれば考えるほど、同僚と同じ未来を辿りそうで怖くなった。
同僚と同じで、俺もマメなタイプではない。
サプライズなんて、人生で一度もしたことがない。
そんなことをする機会はないし、する必要もないと思っていた。
しかし、五年記念日が迫ったタイミングで、本当にこのままぬるっと婚約をしてもいいのだろうかと考えるようになった。
美佳といると安心する。美佳がいることになんの違和感もない。
恋焦がれるという感情は当てはまらないが、家族のような愛おしい存在であることは確かだ。
美佳も同じような気持ちでいてくれるだろうか。
美佳と離れたくない。ずっと一緒にいたい。好きでいてほしい。
同僚の話を聞いて、苦手でもなんでも、プロポーズくらいはときめくようなサプライズをして、美佳を喜ばせようと思った。
それから、作戦を練った。
プロポーズはどこで、どのようにするのがいいのか。
指輪はどのブランドがいいか。ネットでたくさん調べた。
同僚や友人にも経験談を聞いて、イメージを膨らませた。
二人の思い出の場所でプロポーズをされ、付き合った日の気持ちを思い出したという話を聞き、それだ、と思った。
店は実際に訪れ、雰囲気や料理の味を確認してから決定しようと思った。昔からやるとなったら完璧主義で、細かい確認をしなければ不安になるからだ。
そんな時、タイミング悪く、仕事で新規プロジェクトを任されることになり、忙しくなった。
念入りな市場調査が必要な仕事で、出張することが増えた。
飲みの席も多くなり、苦手な夜のお店にも付き合いで行くようになった。
ゆっくりプロポーズの下見をする時間はなかった。
しかし、タイミングは訪れた。
神奈川でのイベント運営にあたり、泊りがけの出張となった。
神奈川であれば、日帰りできる距離だが、入り時間が早いために、前泊をすることになったのだ。
運よく、目星をつけていたレストランと宿泊先が近く、もうこのタイミング以外、考えられなかった。
こうして、出張中にプロポーズの店の下見に行くことが叶った。
下見は、当然美佳がいないタイミングで行く必要があったが、一人で行くのは違うと思い、少し悩んだ。
女友達は何人かいたが、他の女性とあのような店に行くのは美佳に悪い気がした。
そうなると、頼れるのは一人しかいなかった。正月に連絡を取るくらいの関係の妹。
水商売をしていて、生活リズムも何もかも合わないが、血の繋がった妹だった。
理由を説明し、ご馳走するので来てほしいと頼み、なんとか付き合ってもらえることになった。
実際にレストランに訪れて、妹が来てくれてよかったと感謝した。やはり、このような場所で一人は気まずい。
元から二人とも口数は少ないため、当日ほとんど会話をすることはなかったが、下見ができてとても助かった。
途中、美佳からの電話にはドギマギした。
どこかで見られているような気がして胸がざわざわした。
美佳は電話が嫌いで、ほとんど電話で話したことはない。
連絡はいつもLINEだった。そんな美佳から着信があり、何かあったのではないかと不安になった。
場所を特定されないよう、急いで静かな場所に移動した。
不安とは裏腹に、びっくりするくらいなんでもない電話だった。
「今何してるの? ご飯食べた? イベントの準備は順調?」
これまで、このような連絡をされたことがなかったので不思議に思った。
会社の人と食事中であることを伝え、五分程度で会話を終了させた。
美佳はなぜ、電話をかけてきたのだろう?
悪いことはしていないのに、美佳に隠れて準備をしているせいで、罪悪感があった。
でも、これは二人の関係を維持するために必要なのだ。
プロポーズまで、あと一カ月を切っている。
美佳は喜んでくれるだろうか。
いや、必ず喜ばせよう。
一生、幸せにすると決めている。
同棲しているから、結婚しても大きな変化はないかもしれない。
それでも、「この人とずっと一緒にいるのだろうか」そんな、不安を抱かせないように、結婚しても、たまにドキドキしてもらえるような、小さなサプライズをしよう。
俺は、自分の中に芽生えた密かな決意に燃えていた。
