喫茶憩では穏やかな時間が流れていた。

 昼時が過ぎ、ティータイムにはまだ少し早い時間のためか、客足はまばらだ。
 一人席には見慣れた顔ぶれがあり、それぞれの時間を楽しんでいる。

 夏希はその中の一人に向かって、
「失礼します。少し、よろしいですか」
 と、声をかけた。

 いつも窓側の席に座る、スーツを着た中年の男性だ。

「……なんでしょうか」 

 夏希は男性の向かい側の席に座った。

 店員である夏希の無礼な行動に男は顔を歪めた。

夏希は男の表情に気を止めることなく、スマホの画面を見せた。

「これで伝わりますか?」

 画面を見た瞬間、男はぎょっとして、目が泳いだ。

「……なんのことでしょう」

「これを見ても?」

 机の上に五枚の写真を無造作に置いた。
 どれも目の前の男が映った写真だ。

「と、盗撮じゃないですか」

「うちの監視カメラに映ったものなので、盗撮ではありません」

 夏希は店内のカメラがあるところを指さした。

「……これが、なんです? 私が映っているようですが」

 男がシラを切るのは想定内だった。夏希は男の自白を微かに期待していたが、叶いそうもないことを悟った。

「彼女は先ほどお見せしたインスタグラムの投稿者です」

 夏希は机の上に並べた写真に写っているショートヘアの女性を指さした。

「彼女からストーカーの相談を受け、当店のカメラで彼女の入退店の様子を確認しました。ある時から、彼女の退店後にあなたが退店する姿が撮れています。これは偶然でしょうか? 不思議なことに、曜日も時間もバラバラなのに帰るタイミングが同じなんです。面識のない二人の常連客が、同じタイミングで店を出る確率はどれほどでしょうか。加えて、あなたは彼女よりも先に来店している。それにも関わらず、まるで、彼女が帰るのを待っているかのように同じタイミングで帰っているんです。清算もある時を境に、先に行うようになりましたね。彼女の後をつけられるように、先に清算をするようにしていたのではありませんか?」
「言っている意味が、よくわかりません」

「――あなたは彼女のストーカーをしている。それも、リアルとネットのどちらも。リアルでストーキングをして得た彼女の情報をSNSのコメント欄に残している。彼女のことは何でも知っている、とネット民に対してマウントを取りたいがために」

「……言いがかかりです」

 男は明らかに狼狽している。その態度が自白のようなものであるのに、まだ否定し続ける男に夏希は呆れ、早くこの会話を終わらせようと思った。

「……では、その鞄の中にあるハンカチはなんですか?」

「……⁈」

「なぜ、それを知っている? と言いたそうですね」

 男の額には汗が滲んでいた。

「たまたま、視えたんですよ。それ、実は彼女の名前が刺繍されているんです。女性に人気のブランドのハンカチで、刺繍を入れられるらしいです。ブランドロゴのような刺繍なので気づかなかったかと思いますが、どこにでも手に入るようなものではないんですよ」

 たまたま視えたというのは嘘だ。

 喫茶憩の防犯カメラでストーカーにある程度あたりをつけ、この男が会計をする際に、男の身体に触れて視たのだ。
涼子を見つめる男の想いや、ハンカチを拾うシーンを視て、すべてが繋がった。

 先日、涼子は買ったばかりのハンカチを失くしたと言っていた。
店に落ちていなかったかと聞かれて探したが、残念ながら見つからなかった。

わざわざ買いに行ったお気に入りだと落ち込んでおり、その印象が記憶にあった。

 視たことから推測するに、この男がそれを拾ったらしい。 

「四月十三日、あなたは彼女が牛丼屋に入店するのを見て、後を追うように入った。そのハンカチは牛丼屋で拾ったのではありませんか?」

 視ることはできるが、それを視たとは正直に言えない。
 だから、この能力を使う場合、視たことをもとに証拠を集め、それらしい理屈をつけて相手を納得させる必要がある。

 この男は牛丼屋に行った日、そうとわかるコメントを残していた。
男自身が意図せず作った証拠だった。なんとも律儀なストーカーだ。

「そんなの、証拠にならない……客に対して失礼ではないですか」

「……では仕方ない。実は、牛丼屋の店主と顔見知りなんですよね。その日の監視カメラの映像を見せてもらえば、あなたがそのハンカチを拾う瞬間が映っているでしょうね。そして、たまたまこれらの報告書があなたのご実家のスーツ屋に郵送されてしまうかもしれません」

「なっ……」

「いろいろ調べさせていただきました。どうします? ご実家にご報告させていただいたほうがよろしいでしょうか?」

 夏希は、ストーカーに向けるにはふさわしくない爽やかな笑顔を見せた。

「……ゆ、許してください!」

 ガンッと鈍い音が店内に響いた。

 座ったまま、男は勢いよく頭を下げ、机に頭をぶつけたようだ。

「認めるんですね」

「……はい……」

「ここでは他のお客様の目もありますので、裏でお話しましょうか」

 夏希は男に、「ついてこい」と言わんばかりの挑発的な視線を送った。

「伯父さん、ちょっと裏にいるね」

「はいよ」

 店主である伯父に一言告げると、二人は店の奥に消えた。 

 男から聞いた情報を整理する。

 男はオーダーメイドのスーツ店の息子で、スーツのデザイナーでもある。
スーツ店はこの辺りでは有名な老舗で、男の両親が運営している。

男はデザイナーとして活動しながら店を手伝い、バイヤーとしての役割を担っていた。

 男は、近所にある喫茶憩を昔から息抜きに利用していた。

ある時、喫茶憩で涼子を見かけて、「稲妻が走った」そうだ。涼子は男の理想の女性だという。

厳密に言うと、男のデザインしたスーツを着こなすことのできる理想の女性だ。

男はスーツを作る際、女性のスリーサイズを幾度も図ってきたため、今ではメジャーで図らずとも、目検でだいたいわかるという。

そんな理想の彼女を見つけ、気づけば目で追うようになっていた。

「見れば見るほど、彼女のことが気になってしまって……彼女がSNSをやっているらしいことを聞いて、調べて彼女のインスタにたどり着きました。最初は、彼女の服装が彼女の魅力を引き出せていないことを残念に思い、服装についてコメントをしました」

「それから、ストーキングもするようになった」

「はい……良くないことだと思いつつ、半ば習慣化してしまいました。あの日、たまたまハンカチを拾って、それをきっかけに話しかけようと思いました。でも、勇気がでなくて……ハンカチはいつか渡そうと思って鞄に入れていました。……信じてもらえないかもしれませんが、家までつけたことはありません。嫌がらせをしようだなんて思ったこともありません。私は彼女のファンなんです。私にとって彼女はミューズと言ってもいいでしょう。彼女を見ていると、いいデザインが書けるんです」

 目の前の男は、顔を青くしたと思ったら、今度は目をキラキラさせた。

 悪いことをしている自覚はあるが、ある意味、本能レベルで涼子に夢中になっていることが伝わる。

 しかし、涼子の気持ちを思いやることを忘れてはいないだろうか。

「知らないおじさんが毎日自分を観察しているなんて気持ちが悪いとは思いませんか?」

「……気持ち悪いです」

 一応常識はあるらしい。男は自身の行いを顧みて、再び顔を青くした。

「証拠はありますから、警察に行けばそれなりの対処をされるでしょう」

「……虫がいいことは重々承知なのですが……警察にだけは……」

「さて、どうしましょうか……そこで待っていてもらえますか? あ、逃げても良いことはないので、余計なことはしないでくださいね」

 夏希は、扉を閉めるとポケットからスマホを取り出して電話を掛けた。









 日曜日の昼下がり。

 涼子は自宅のソファでうたた寝をしていた。

 前から気になっていた本を読んでいたところ、連日多忙だったせいか、序章であっけなく睡魔に負けた。

 ――ブーブー……

 電話が鳴る音で、現実に引き戻された。

「……もしもし」

 寝起きの第一声でくぐもった声が出た。

「佐野です、こんにちは」

 夏希からの電話であることに、そこでようやく気がついた。

 涼子は自分の顔の上で曲がった眼鏡を直しながら、上体を起こした。

「もしかして、お昼寝してました?」

「……ううん、平気。どうかしたの?」

「実は例のストーカーの正体がわかりました」

「え?」

「うちの常連の男でした。今、憩の事務所で事情聴取中なのですが、警察沙汰にしないでほしいとごねています。一応、涼子さんに了承をとって警察に突き出そうかと」

 夏希は、何でもない今日の予定を共有するかのように報告してきた。

「ちょっと待って、憩の常連がストーカー?」

 全く予想もしてない展開に、涼子は混乱していた。寝起きのせいもあるだろう。

 ――憩に不信な人物なんていただろうか……

 喫茶憩での時間を回想してみたが、それらしい人物の記憶が全くなかった。

 警察沙汰になれば、喫茶憩の評判に悪い影響を与えるだろうか。

 考えることがありすぎて、寝起きの頭では対処しきれなかった。

「今からそっちに行ってもいい?」

「……ストーカーがいますが、怖くないですか?」

「うん、考えがまとまらないから、とりあえず会ってから決めてもいいかな」

「……涼子さんが、それでいいなら……」

 電話の奥で夏希の戸惑っている声がしたが、気にしないことにした。


 三十分後。

涼子は喫茶憩の事務所でストーカーと向き合っていた。

 ――この人がストーカー……

 想像していた人物像とかけ離れていて、拍子抜けした。

 目の前で意気消沈している男は、ストーカーをするような人間には見えない。

 ――ストーカーをしそうな人間って、逆にどんな感じなのかもわからないけど……それにしても爽やかだ。

 男は春らしく清潔感のあるグレージュのスーツを着ていた。

量販店では見ないような素材の良さを感じる。洗練された着こなしであり、普通の会社員には出せない風格があった。
歳は涼子よりも少し年上に見える。スーツの合わせも、後ろでまとめられた少し長めの髪の毛も、会社員らしくない。

 男の職業はアパレル関係ではないかと推測した。

「本当に、申し訳ありませんでした!」

 男は床に膝をつき、さらに頭を地面に擦りつけて涼子に謝罪した。

「あの、頭を上げてください。……座ってください」

涼子は慌てて男をソファに座らせた。

 人生で初めて土下座というものをされた。決して気持ちのいいものではない。

――最近、人に謝られてばかりいる気がする……

「……本当にあなたが、その、私のストーカーなのでしょうか」

「……はい……」

「これらのコメントもあなたが?」

「……はい。申し訳ございません」

「他に、自覚のある行為は?」

「この店から出ていくあなたについていきました」

「しっかりストーカーですよね」

 夏希の軽蔑したような物言いに、男は肩を縮ませた。

「はい……駅前でお買い物をする姿を拝見したり、牛丼屋でご飯を食べたり……でも、家までつけたことはありません」

「だからと言って、許されるものではありませんよね。やられた側は気分が悪いですから」

「……はい」

 涼子は夏希と男のやり取りを静かに聞いていた。

 少年のような見た目の夏希に説教をされているスーツ姿の中年男性。

 不思議な光景だった。

 気のせいか、夏希は相手を追い詰めるという行為に慣れているように感じた。
言い方は丁寧で、声を荒げることはしないが、正論で急所を突くような責め方で、聞いていてヒヤヒヤした。

 こんな風に責められたら、自分なら一溜まりもないな、と涼子は恐怖を感じた。

「どうしましょうか」

「そう……ね……」

 男は泣きそうな顔で涼子を見つめている。

 その顔が、何かに似ている気がしていたが、ミニチュアシュナウザーだ、と思った。

「憩の常連さん、なんだよね」

「はい、二日に一度は来ていて、ホットコーヒーとたまごサンドを召し上がられています。伯父さんの話によると、五年ほど前から通われているようです」

「五年……私よりも憩の先輩……」

 常連のストーカーを涼子は正面から、じっと見つめた。

 ――見覚えがあるような、ないような。

 言われてみれば、喫茶憩の客はオシャレなスーツを着ている人が多いという印象があったが、それはこの男を見てそう思ったのかもしれない。身にまとっているものはオシャレで目を惹くが、本人の気配が薄すぎるのか、全体的に印象に残らない。

男は、喫茶憩から五分ほど離れたところにある、オーダーメイドのスーツ屋の息子らしい。

手伝いでスーツの販売を行いつつ、スーツデザイナーとしても活動しているという。
通りでスーツの着こなしが上級なわけだ。

 涼子のストーキングをするようになったのは、涼子の体型がスーツのモデルにぴったりだと思ったからだという。

涼子が喫茶憩の常連であることを知り、これまで以上に喫茶憩に入りびたり、涼子を見ながらスケッチをしていたようだ。

 涼子は、恐れ多いような、気持ちが悪いような複雑な気持ちだった。

 男は人見知りで、仕事以外では人に話しかけることが苦手なようだ。

涼子に話しかけたかったが、勇気が出ず、気づけばこのようなストーカー行為をするようになっていたらしい。

 やっていることはよろしくないが、創作への熱い想いからの行為だと知ると、涼子は一刀両断に警察へ突き出すことに躊躇う気持ちが出てきていた。

「あ、あの……これ」

 男はおどおどしながら、本革の鞄からピンク色の何かを取り出すと、涼子に差し出した。

「あ! これ、どこで……!」

 涼子が失くしていたハンカチだった。

 筆記体で読みにくいが、涼子の名前が刺繍されている。

「牛丼屋でたまたま拾って……お渡しするのが遅くなってすみません」

「ありがとうございます! そっかぁ……牛丼屋かぁ……」

涼子は牛丼屋にもハンカチの落とし物がないか聞きに行ったが、それらしいものはないと言われ、もう見つからないものだと諦めていた。

涼子は再び自分の手元にハンカチが戻ってきたことが嬉しくて仕方がなかった。

「……警察は、いいかな」

我ながら単純だな、と思いつつも口に出していた。

「ほ、本当ですか! ありがとうございます! ありがとうございます!」

 ミニチュアシュナウザーが目を輝かせ、ぶんぶん尻尾を振っているように見える。

「……いいんですか?」

「うん、だって、憩の大事なお客さんだし」

 ――ハンカチの恩人だし。

少し変わった人なだけで、悪い人ではないのだろう。

「お気持ちは嬉しいのですが……」

「犯人がわかってすっきりしたから、私は平気」

「……」

 夏希は眉間に皺をよせ、心配そうな表情を浮かべている。

「その代わり、条件があります。守ってもらえるなら、警察には突き出しません」

 涼子が提示したのは四つ。

 一.コメントはしない。何かあるなら直接言う。

 二.家までは絶対についてこない。怪しい行動が発覚すれば即、通報する。

 三.喫茶憩には変わらず通うこと。

 四.涼子に合うスーツを仕立てること。



「いいんですか⁈」

 興奮して、身体を前のめりにするミニチュアシュナウザー。

「……」

 夏希は無言で苦虫を嚙み潰したような表情をしている。

「前からオーダーメイドのスーツを揃えたいなって思ってたの。やってくれますか?」

「も、もちろんです!」

 涼子は少年のように目を輝かせた中年の男を見て微笑んだ。

 ――この人が悪い人には見えない。

 自分でも不思議なくらい、男のことを怖いと思わなかった。

 得体のしれない人物から監視されている状態は気持ちが悪かったが、今は不思議とすっきりとした気持ちになっていた.
むしろ、喫茶憩という第二の家ともいえる場所で多くの時間を共有していたことを知り、親近感のようなものが芽生えていた。

 純粋に男の服装のセンスの良さに惹かれていたのと、初めてデザイナーという人種に出会ったことによる好奇心があったのも否定できない。

 涼子は、デザイナーが自分のために作ってくれる服に興味があった。

「……仕方ありませんね……」

 夏希は呆れているようだ。呆れを通り越して不機嫌そうだった。

 夏希は不服そうにしつつも、涼子が提示した条件を記載した簡易的な契約書をつくってくれた。
涼子はそれに署名し、拇印を押した。

 おまじないのような効力しかないだろうが、一応、ストーカーとしての証拠が諸々揃っているというので、もしも約束を反故にするようなことがあれば、いつもで警察に突き出せるだろう。そうならないことを祈るばかりだ。

 この日を境に、安西忠夫というスーツデザイナーと頻繁に談話するようになるとは、この時の涼子はまだ知らない。

 男と簡単な契約書を取り交わした後、涼子と夏希は喫茶店側に戻り、店員と客として、互いの定位置に戻っていた。

「そうだ、夏希くんにこれを渡そうと思ってたの」

 涼子は椅子に置いていた紙袋を夏希の前に差し出した。

「なんですか?」

「ほんの気持ちですが……永美堂の件、本当にありがとうね」

 ストーカーの件も、と付け足すように言った。

 永美堂案件の継続は涼子の懐事情にわかりやすく影響を及ぼす金額だった。

 夏希には頭が上がらない。 

「おいしそうなクッキー……とおせんべい?」

 先ほどまでの不機嫌さが消えた夏希の表情に、涼子はほっとしていた。

「夏希くんの好みがわからなくて。甘いものとしょっぱいもの、どっちもあったらどっちか当たるかなと思って」

「どっちも好きです。ご丁寧に、ありがとうございます」

「嫌いじゃなくてよかった。ちなみに、一番好きな食べ物は?」


「一番好きな食べ物……あまり食べ物の好き嫌いの差がないんですよね」

 夏希は難題を解くように複雑な表情を浮かべた。

 確かに夏希はあまり食べ物を食べているイメージがない。通りで細いわけだ、と線の細い夏希の身体を見た。

「あ、甘いものなら、豆大福が好きです」

 閃いたように、夏希が言った。

「豆大福……」

 涼子の頭の中では和装姿の夏希が浮かんだ。

 和装の夏希と豆大福。

 ――いい。非常にいい。

 涼子は、祖父母と仲良く大福を食べている夏希を想像して癒された。

 今度、何かを渡すときは豆大福にしようと、涼子は心に決めた。