涼子は、風船型の透明なガラスが褐色に染まる様子をうっとりと眺めていた。

 何度見ても飽きないその光景は、まるで魔女の実験現場に立ち会っているような気分になる。

 喫茶憩のカウンターでは、サイフォン式でコーヒーが出来上がる工程を楽しむことができる。
サイフォン式は、ドリップ式と違い、使用する機材が多く、出来上がるまでに時間がかかるのだが、この工程が面白く、いくらでも待っていられる。

 サイフォン式の歴史は諸説あるらしいが、もっとも有力なのは十九世紀のイギリスからだという。
日本で導入されたのは大正時代で、医薬品の輸出業者が、もっと美味しいコーヒーを飲みたいという理由で、持っていたフラスコにコーヒーを淹れたことが始まりだとされているらしい。

 ――最初にフラスコにコーヒーを淹れてみようと思った人って、すごい。

 涼子は、彰に教えてもらったコーヒーの歴史に思いを馳せ、顔も知らない創始者に感謝しながら、コーヒーが出来上がるのを待っていた。

「はい、お待たせ」

 彰は涼子の目の前で、湯気が出ている気球のような丸い形の透明なガラスを傾け、出来立てのコーヒーをカップに注いでくれた。
 ふわっと、芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。

 涼子は、うっとりしながら、熱々のコーヒーを口に含んだ。

「美味しい……佐野さんが淹れてくださるコーヒーが大好きです」

 安定の美味しさに、涼子は素直に思ったことを口にしていた。

「ふふふ、ありがとう。そう言ってもらえると、淹れ甲斐があるね」

 優しく微笑むイケオジを見て、涼子はさらに癒された。

「僕もそんなふうに言われてみたいな。涼子さん、おはようございます」

 カウンターの奥から、彰とはまた違う色香を放つ男が登場した。

「おはよう」

 イケオジこと佐野さんの甥、佐野夏希。

 朝のバイトの子が平日の朝に出勤できなくなったため、最近は夏希が代わりに入っている。
徐々にではあるが、涼子は夏希に慣れてきていた。

「百年早いね~。毎日ここに立たないと、なかなかいただける言葉じゃないよ」

「それもそうだね。励みます」

 やはり、先日の夏希先生とは別人に見えた。

 この場所で会うと、幾分か幼く見える。

 伯父さんがいるからか、と涼子は思った。

「そういえば、読書会はどうだった?」

「とても面白かったです! 誰かと、ああでもないこうでもないって話すのが新鮮で」

「それはよかった。仕事のいいネタになるといいね」

「はい! 世界が広がる気がします」

 意識していないと人付き合いの輪が狭くなる。
 輪が狭くなると、ネタが枯渇していく。

 フリーライターにとって、ネタの収集は欠かせない。

 涼子は人付き合いに積極的な方ではなかったので、思いもよらない出会いに感謝していた。

「涼子さんって、どんな記事を書かれているんですか?」

「人生とか、恋愛とか……ライフスタイルに関する記事が多いかな」

「ライフスタイルですか。範囲が広くて、難しそうですね」

「そうかな? 意外とそうでもないかも。答えがない問題の方が、解釈が委ねられるから書きやすいかも」

「そういう考え方もあるんですね。僕は答えがある方がすっきりして好きです。
心理学のように事象があって、その裏付けを数値化して証明できる方がしっくりくるんですよね」

「なるほどね。確かに、答えがあると、すっきりするのはいいよね」

 涼子はいつの間にか夏希に対して、無意識に敬語を使わなくなっていた。

「言われてみて思ったけど、私はどちらかというと数字に苦手意識があるのかも。反対に、感覚で感じて、それを言語化して、それからまた考えるっていう行為が好きかもしれない」

 涼子は自分が饒舌になっていることに自覚がなかった。

 昔から好きなことになると口数が増えてしまう。

「私の書いているジャンルは決まった答えがない。一つの事象に対して、人によって考え方が違うことで、答えが複数存在するの。答えが一つじゃないって、面白いとは思わない? その答えに行きつく過程も含めて面白いの。例えば恋愛。恋愛という単語は知っているし、なんとなく理解している気になっている。人生の中に当たり前のように恋愛は存在しているのに、それがなんであるか学校では習わないし、そもそも文部科学省は恋愛を定義していない。こんなに当たり前にあるのに、この曖昧な存在が気になって仕方がないの。決まった答えがないから知りたい。答えは一つではないから、より多くの答えを知りたい。そして、私なりの答えを見つけたいと思うの」

「涼子さんは、学者に向いていますね」

 その一言で、涼子は一方的に熱弁していたことに気づいた。

「ごめんなさい、また一方的に……」

 昔からこの手の話になると夢中になり、相手を置き去りにしてしまう。

「悪い癖だって自覚はあるんだけど、つい……」

「僕にも、思い当たる節があります」

 夏希はカウンター越しに前のめりになり、目をキラキラさせてこちらを見ている。

「我々は、同じ人間という対象を観察しているけれど、それぞれ違ったアプローチを試みている」

その言葉で、先日の読書会で聞いた夏希の説明を思い出した。

 始まりは同じものだったが、今は明確に分けられた二つの学問。
心理学は科学で証明できるもの、哲学は思考や論理そのものを指す。

心理学を追求する夏希と、哲学を追求する涼子。
二人は、異なるアプローチの仕方で、人間というものを知ろうとしている。

「僕も知りたいです。涼子さんが見つける答えを」

夏希は、まるで、将来の夢を語る幼子のように、無垢で、澄んだ表情をしている。

「僕にできることがあれば、いつでも言ってください」

 その言葉は、本心から言っているようだった。

 くだらないなんてバカにせず、むしろ、涼子がその答えを見つけ出すと信じて疑わないようなその眼差しに、なぜだか心を鷲掴みにされたような心地がした。

 ――もしかすると、夏希くんとなら、本当に見つけられるかもしれない……

 涼子は、漠然とそんなことを思った。

 こんな話をすると、たいていの人は呆れた顔をする。いい歳なんだからとか、現実を見ろとか、考えても答えがないことは考えるだけ無駄とか。

 涼子だって、彼らの言うことがわからないわけではない。

 でも、どうしても知りたいのだ。

 この衝動には抗えない。
三大欲求と変わらないくらいの欲望として、涼子は「知りたい」という欲が、人よりも大きかった。

涼子は、この点において、自分が人とは違うという自覚があり、誰かに理解してもらおうとは思っていなかった。
実際、理解を示してくれるような人もいなかった。

 だから、夏希のような年下の美青年から支持をしてもらえるなんて、晴天の霹靂だった。

「難しい話をしてるねぇ」と、彰がぼやいている。

 夏希がオーダーで呼ばれるまで、二人はひとしきり哲学の話題で盛り上がった。

「そうだ、夏希くん。探偵をしているって言ってたよね」

「はい。探偵といっても、大したことはしていませんが」

聞いてみると、主に伯父経由で入って来たお困り事の相談に乗っているらしい。

 イケメンで、心理学に詳しくて、資産運用もできて、さらに、困った人の相談を受けている。ますます欠点がない。

「何か、悩み事でも?」

「……実は最近、妙なコメントをしてくる人がいて……」

 夏希に見てもらうために、鞄からスマホを取り出してインスタグラムを開いた。

 涼子は二つのアカウントを使い分けて投稿している。
一つは、ポートフォリオとしての役割を果たす仕事用のアカウント、もう一つは、哲学に関する個人的な持論を展開するアカウントだ。

 哲学に関する個人的な持論というと、なんだか怪しい感じがするが、決して怪しい勧誘等は行っていない。
『愛とは何か』など、自分が考えた哲学的なことを言語化して発信しているアカウントだ。

涼子は、自分でも意外に思っているのだが、このアカウントは人気で、五万人のフォロワーがいる。
 その五万人のフォロワーがいる方のアカウントの様子が最近おかしいのだ。

「これ、ネットストーカーじゃないですか」

「そうだよね……」

 コメントの内容は、「駅前で見かけたよ」とか、「スカートよりパンツ派」「ブラウスはこの間の方が似合っていた」といった、投稿とは関係ないコメントが多い。特に服装に関するものが多かった。

 涼子は自身のプライベートな情報は載せないようにしていたが、書いていない情報に関するコメントがいくつもある。

 つまり、どうやら涼子の私生活を見て、コメントしている人がいるようなのだ。
ここ一カ月くらい、同じアカウントから投稿に関係のない、プライベートなコメントをされている。

「内容的に、嫌がらせというよりは、熱心なファンみたいなんだけど……ちょっと気味が悪くて」

「……気持ちのいいものではないですね。ちなみに、家のポストに変なものが入っていたり、後をつけられたりしている感じはありますか」

「それはないかな……今のところコメントが気になるくらい。内容的に、生活圏内にいることがわかるから、ちょっと怖くて」

「そうですよね……一度、調査してみましょうか」

「やってくれるの?」

「もちろんです」

「ありがとう、とっても助かる」

夏希は、二つ返事で引き受けてくれた。

 調査期間は七日間。
 涼子の一週間の予定と、自宅の住所を共有した。不審人物が近くにいないかを調査してくれるという。

 私生活を見られるのは恥ずかしいものがあったが、得体の知れない相手に動向を監視されていると思うと、背に腹は代えられなかった。









 七日後。

 涼子は喫茶憩でコーヒーを飲んでいた。

「涼子さん、後ほど裏に来ていただけますか」

 調査結果を教えてくれるというので、コーヒーが冷めないうちに、ぐいっと飲み干すと、夏希に続いて、カウンターの奥へ向かった。

 初めて立ち入る、喫茶憩のカウンターの奥。

 カウンターの奥に見える扉を開くと、廊下を挟んでまた、扉が現れた。

その扉を開くとそこは、こぢんまりとした秘密基地のような事務所だった。

 来客用と思わしき茶色の革張りのソファと机、シンプルなキャビネット、窓側には社長席のような執務スペースがあった。
アイテムは少ないが、どれもこだわりが見て取れる上質なものだった。

「それらしい人間はいませんでした」

 涼子は、初めて訪れた部屋に興味津々で、落ち着かないながらも夏希の報告に耳を傾けた。

 この一週間、涼子の家の周りに監視カメラや盗聴器を仕掛けていたが、とくに不審な動きをする者は現れなかったらしい。

「この一週間、コメントはありましたか」

「変わらず、一日一つはあったかな。全く気づかなかったんだけど、昨日なんかは急接近してたみたいで」

 涼子は、今朝方見つけたばかりのコメントを夏希にも見せた。

『一人で牛丼屋にも行くんだね! 牛卵定食美味しかったね!』

「ここまで近づいているのに、話しかけてこないなんて、逆に気になるよね……」

 夏希は眉間に皺を寄せ、深刻そうな顔を見せた。

「……つけられている感じはありましたか?」

「ううん、全く。なんにも感じなくて……牛丼屋にそんな人いたかなって」

 覚えているのは、休日なのに洒落たスーツを着たおじさんがいたことくらいだ。
私服姿の客の中で目立っていた。いかにもアパレル店員の遅めの休憩という感じで、接客業は大変だな、と思いながら見ていた。

「そうですか……一週間ではなんとも言えませんが、状況からして、身近にいるが、積極的な接触は好まず、あくまで『見ている』、『知っている』ということを誇示したいだけのように感じますね」

 現時点では、涼子に直接害を与えたいという意思は感じられない。

 ネット上で書き込みをした人間を特定することは不可能ではなく、サイト側に情報を開示してもらうことで特定できるのだという。しかし、この情報を開示してもらうことが容易ではなく、たいていの人はあきらめてしまうらしい。

「根本的な解決にはならないのですが、防犯ブザーを携帯するようにしてください。少しでもおかしなことがあれば、すぐに連絡してくださいね」

 そう言うと夏希は涼子に防犯ブザーを手渡した。

「もう少し調べてみます。ちなみに牛丼屋というのは、ここからすぐの牛丼屋ですか?」

「そう、駅から憩に来る途中にある牛丼屋」

 警察はストーカーに対して、証拠がなければ動いてはくれない。
こんなコメントだけでは動いてくれないことは涼子もわかっていた。

何もしないよりはマシだろうという考えから、夏希に相談したのだ。成果は得られなかったものの、夏希が相談に乗ってくれたことに感謝していた。

同時に、ネットストーカーを特定することは、やはり難しいのだと半ば諦めていた。

 そんな涼子とは違い、夏希はまだ諦めていないようだった。

 それから夏希は、差し支えなければ、という前置きをして、
「今、恋人はいますか?」
 と質問した。

 思ってもいない質問に、涼子は微かに動揺した。 

「……ううん、いない」

「最後にいたのはいつですか?」

「一年半、くらい……かな」

「その方が、ストーカーをしている可能性はありませんか?」

「それは、ない……と思う……」

 夏希に質問をされ、別れた恋人のことを随分久しぶりに思い出していた。

 彼は、みんなから慕われる、やんちゃで明るいタイプだった。

 ――まさか、あの人がストーカーなんて、するわけがない。

 ストーカーの正体はわからないままだが、現状維持をするしかなさそうだった。

「あ、そうだ。昨日ハンカチの落とし物ってなかった? ピンクのやつなんだけど、失くしてしまったみたいで」

 涼子は買ったばかりのハンカチを失くしたことを思い出した。

 昨日は、午前中は出掛けており、昼過ぎに最寄り駅に戻ってきて、昼ご飯を食べた。
その後、少しだけ喫茶憩に寄った。トイレにも行っていないので、喫茶憩で落とした可能性は低いだろうが、ダメ元で聞いてみた。

「ハンカチの落し物はなかったと思います」

「そう、だよね……」

「一応、伯父さんにも聞いてみましょうか」

 二人で喫茶店側に戻った。

 彰にも確認したが、ハンカチどころか、最近は落し物自体ないようだった。

 ――せっかくわざわざ並んで買ったのに……落ち込むなぁ……憩にないってことは、駅ナカか、家かな……

 家に帰って、もう少し探してみようと考えていると、後ろから彰に呼ばれた。

「涼子ちゃん、玉ねぎとじゃがいもいらない?」

「え、頂けるんですか」

「よかったら持っていって。姉夫婦が農家なんだけど、大量に送ってくれるのよ。最近、野菜も高いしさ」

「ありがとうございます!」

 ――なんて素敵なんだろう。

 ここが東京だということを忘れる、ローカル感溢れる会話。

 涼子は長いこと東京に住んでいるが、今までご近所付き合いなど、全くと言っていいほどなかった。
これがいわゆるそれか、と思った。

「重たくないですか」

「ちょっと重たいけど、持てなくはないかな」

「よければ、お持ちしますよ」

 そんなやり取りがあって、涼子は夏希に家までついてきてもらうことになった。

 涼子が両手で抱きしめるように持っていた紙袋を夏希は片手で軽々と持っている。

 そんな夏希を見て、華奢だが男の人なのだな、と思った。

 もうすぐ昼ごはんの時間だ。暖かい風に紛れて、近所の家から食欲をそそる匂いが流れてくる。

 涼子は穏やかな春の陽気を感じながら、ポトフでもしようかと考えていた。









「その後、何か変わったことなどありませんか?」

 夏希の問いかけに、涼子は一瞬何のことだろうと考え、ストーカーのことを言っているのだと気づいた。

「うん、特に変わったことはないかな」

 涼子は、喫茶憩で過ごす時間の中で、夏希がいることに対して違和感がなくなっていた。
毎朝顔を合わせていると、ずっと昔からの仲のような気がするのだから不思議だ。

 こんな風に何度も接触することでその対象について、いい印象を持つことを心理学用語では、単純接触効果というのではなかっただろうか。

夏希と知り合ってから、心理学に関する本に触れる機会が増え、知識が増えた気がする。

「コメントも変わらずですか?」

 ネットのストーカーらしき人物からのコメントは、相変わらず毎日続いている。
生活に実被害があるわけではないので、もう仕方がないことだと諦めつつあった。

「……うん」

「何か、気がかりがありそうですね」

 夏希は目聡く、涼子の微妙なリアクションから何かを察した。

「仕事用のアカウントにアンチコメントが増えてきたの。……実は、ストーカーっぽいコメントと同じくらいの時期から、こっちにも嫌なコメントがつくようになったの。こっちは明らかに嫌がらせで……」

 最新の投稿についたコメントをスマホで表示させ、夏希に見せた。

 涼子は二つの異なるアカウントを持っている。一つは仕事用、もう一つは個人的な趣味に関するものだ。

 趣味の方には、ストーカーのコメントがあり、仕事用の方にはアンチコメントが増えていた。
二つは、ほぼ同時期からコメントがつくようになったのだが、それぞれ別物として捉えており、ストーカーの相談をした際には、アンチコメントの方は話していなかった。

 しかし、最近はアンチコメントに頭を悩ませていた。

「……明確な悪意を感じますね」

 コメント欄に溢れているのは、涼子の制作物についての批判がメインだが、中には内容だけでなく、涼子の性格そのものを否定するものもあった。

 アンチが増える時というのは、投稿がバズり、普段見ないような人の目に晒された時に起こるものではないかと涼子は考えていた。
 しかし、閲覧数はこれまでと変わらずの推移を辿っていた。

それにも関わらず、少し前からこのような批判的なコメントがじわじわ増えてきている。
たまたまアンチ精神のある人の目に止まって、たまたま標的にされただけなのかもしれない。
アンチがアンチを呼び、連鎖的に増えてしまったのだろうか。

 これまで、このような批判的なコメントは、月に一度、あるかないかだったので、急に増えて驚いていた。
なぜ、急に増えたのか不思議で仕方がない。涼子は、全く身に覚えがなかったが、何かやらかしてしまったのだろうかと頭を悩ませていた。

「ストーカーよりも、こっちの方がきつくって、少しだけまいってる」

 涼子は、学生時代の部活や、サラリーマン時代の激務で鍛えられた精神力には自信があった。

 しかし、こうも毎日ストレートに言葉のナイフを刺され続けると、なかなか精神的にくるものがあった。

 そんな精神的な疲れは、喫茶憩に訪れることでなんとか癒されている。涼子は、仕事以外で、人と関わる事の大切さをひしひしと感じていた。

 感傷に浸っていると、「ちょっと、お借りします」と言われ、涼子は夏希にスマホを渡した。

「これ、どれも捨て垢ですね。それに……同一人物のような気がします」

 コメントを凝視しながら夏希が言った。

「やっぱりそう思う? 私も気になって見てみたんだけど、アイコンも登録していないし、フォロワーもいないものばかりなの。一見関連性のないアカウントなんだけど、文体とか内容がどことなく似てるんだよね」

 捨て垢とは、SNSなどのアカウントを何らかの目的のために作成し、短期間使用後、捨てる(使用しない)アカウントのことを言う。芸能人のSNSにつく、誹謗中傷のアカウントはだいたいこの捨て垢だ。

自分のリアルな生活用としてのアカウントとは別に作成するため、どれだけ批判的なコメントを残しても、コメントをする側は個人を特定されない。気が済むまでコメントをしてアカウントを消してしまえばいいのだ。

 前に夏希が言っていたが、コメントをした人間を特定する方法はあるが、開示するための条件が非常に厳しいため、よほどのことが起きない限り、コメントをされた側は我慢をして終わる。

 涼子は自分がこのようなアンチに攻撃されるなんて、考えてもみなかった。

アンチコメントなんて、誰もが知っているような有名人でないと、つかないものだと思っていたのだ。

これまでも、一部批判的なコメントはあったが、ここまで執拗なのは初めてだった。

「心あたりはありますか?」

「……それがないの。投稿内容も頻度も、特に何も変えてないの。だから、わからなくって……」

「人間関係で変わったことはありますか? 仕事でも、プライベートでも、何か変化があれば教えてください」

「交友関係は昔から狭くって、ここ何年も変わらないんだけど……あ、読書会に参加させてもらった。プライベートはそれくらいかな。仕事は……企業案件の担当者が新しく増えたくらいかな。あとは、特に変化という変化は、ないと思う」

「なるほど。読書会で面識があるメンバーは、新見くん、猫田さん、森本さん?」

「そう、その三人だった」

 人の名前を覚えるのは得意な方ではないが、比較的覚えやすい特徴のある三人だったので記憶に残っている。

「企業案件の新しい担当者はどんな方でしょうか」

「二十代の女性。元営業で、今回マーケティング部に配置転換されたって言っていたかな」

「他に何か特徴はありますか?」

「うーん……すごく仕事に熱心な子で、仕事はやりやすそうだなって思った。でも、この企業案件はもうすぐなくなるらしくて。せっかくお近づきになれたのに残念だなって思って、あまり話していないの」

「案件がなくなるかもしれないというのは? 急な打ち切りということですか?」

 おや、と夏希は不思議そうな表情をした。

「打ち切り……ある意味そうかもしれない。この企業とは、契約上は単発の都度契約をしていたんだけど、実際は長期案件のようなものだったの。フリーになる前から付き合いがある企業だから、普通のフリーランスよりも密な付き合いで、新商品が出る度に依頼をもらっていたの。感覚的には二カ月に一度はやり取りしていたかな……それがなくなるから、私としては長期案件の打ち切りのようなものかもしれない」

 定期の依頼がなくなるというのは、経済的にとても痛い。

「なぜ、なくなることになったのでしょうか? 前から決まっていたことですか?」

「これまで担当者とそんな話をしたことはなかったけど、社内では話題に上がっていたのかな。詳しいことはわからないんだけど、ちょっと前に、そうなりそうって、新しい担当の子が教えてくれたの。経費削減が理由だって言ってた」

 現状は単発の契約なので、先方としては契約違反をしているわけではない。

今後は、依頼されなくなり、時間の経過で案件がなくなったことを知ることになるのだろう。

 契約上は単発でも、永美堂とは長い付き合いなので、なくなるなら、一言あってもいいのではないかと、涼子はモヤモヤしていた。
「最後の契約はいつですか?」

「三月の中旬、かな」

「打ち切りの話を聞いたのは?」

「たしか、契約した翌週だったと思う」

「なるほど……」

 何がなるほど、なのだろうか。

「新担当者と会った日のこと、打ち切りを伝えられた日のことを、思い出せますか」

 夏希は、念を押すように、「すべて詳細に教えてください。どんな些細なことでも」と言った。

 涼子はここ最近、このことを誰かに聞いてほしいと思っていた。そんな心境を知ってか知らずか、夏希は話を聞いてくれるという。乗らない手はない。

 夏希の食いつきは意外だったが、涼子は思い出せる限りの記憶を絞り出した。

遡ること、一カ月前。

 涼子は、ライターとして、長期間お世話になっている企業へ訪問していた。

 その企業は、大手化粧品メーカーの永美堂である。

 涼子は主に、商品の魅力を伝えるためのLPライターとして採用されていた。

 LPとは、ランディングページの略称で、主にWEB広告などをクリックした際に、ユーザーが最初に訪れるページのことをいう。よく、HPと混同されるが、それぞれ目的が異なる。

HPは企業の総合的な情報提供や長期的なブランディングを目的としているが、LPは特定の目的に対し、効率的にユーザーを誘導することを目的としている。そういう理由で、たいていの企業が公式HPとは別にLPを作成し、特定のターゲットに対して訴求を行っている。涼子はその、LP構成の一部として、商品についての文章を担当するLPライターとして携わっていた。

 永美堂との付き合いは、かれこれ十年くらいになる。涼子がフリーになった際、広告代理店時代にお世話になった方が、声を掛けてくれたことをきっかけに、退職後も良好な関係が続いていた。

永美堂の案件は、勝手がわかっている企業であり、定期的に依頼をもらえる優良案件のため、安心して引き受けていた。

 その日は、五月中旬に発売する商品のサンプルを確認するために訪問していた。

 一般的にライターが来社することはあまりないが、古くからの付き合いということもあり、新担当の挨拶も兼ねて、サンプルを確認することになっていた。

「こちら、新担当の長野です」

 いつもやり取りをしているマーケティング部の緒方が、長野という若い女性を紹介してくれた。

「初めまして、長野と申します。いつもお世話になっております。本日はどうぞよろしくお願いします」

「市川です。こちらこそ、いつも大変お世話になっております。どうぞよろしくお願いいたします」

 簡単な挨拶をし、名刺交換をした。

「――いけない。すみません、肝心のサンプルを持ってくるのを忘れていました。少しお待ちくださいね」

 そう言うと、緒方は初対面の二人を残し、執務室の方へ急いで行ってしまった。

 ――初対面の人と二人きりは、緊張する。

 涼子は、何か話題はないかと思考を巡らせた。

「前はどちらの部署にいらしたんですか?」

 無難な会話で繋ぐ。

 見た目からして、入社して三、四年といったところだろうか。新入社員ほどの初々しさは感じない。

「営業部に三年いました。少し前に配置換えがあって、マーケティング部に異動になりましたが、営業部とはやることが全然違うので、毎日新鮮な気持ちです」

 長野は、少しもじもじしながら教えてくれた。どうやら、涼子と同じように人見知りをするタイプのようだ。

 緒方が戻ってくるまでの間、雑談をしながら、涼子は気づかれないように長野のことを観察していた。

 長野は、化粧っ気がなく、この業界にしては珍しく地味な印象を受ける人だった。地味な印象ではあるが、丁寧なケアをしているのか、肌は白く、きめ細かい肌質で、ハリがあって綺麗だな、と思った。そして、賢そうな一重の目が印象的だった。

 上司の緒方は、いかにもデパートの化粧品売り場にいるBA(ビューティーアドバイザーの略)のように、いつもバッチリメイクをしている、溌剌とした美人だ。

 涼子は、化粧品会社で働く人は、緒方のように華やかな人ばかりだと思っていたので、長野を見て、少し意外に感じていた。
 もっと意外だったのが、素朴な印象とは対照的な華美なネイルだった。

机の上に添えられた細くて白い指先にキラキラ光る爪が印象的だった。
薄いピンク色をベースに、白い蝶のパーツやシルバー系のラインストーンが散りばめられている。
薬指と中指の爪を合わせるとハート型になるようになっているようだ。

「ネイル、とても素敵ですね」

「わ、ありがとうございます! 昨日チェンジしたばかりなんですけど、自分でもお気に入りのデザインなんです」

 思ってもいないところで褒められて嬉しかったのか、長野は自分の爪を愛おしそうに撫でてはにかんだ。

「あ、もしかして……」

 涼子は既視感のようなものを感じていたが、その正体に気づいた。

 ごそごそとバックからスマホを取り出し、その画面を長野に見せた。

「これって長野さんだったりしますか?」

 涼子が見せたのは、化粧品をレビューしているインスタグラムのアカウントだった。
十万人以上のフォロワーがいる人気アカウントで、涼子が化粧品の記事を書く際に参考にしているアカウントの一つだった。

「――うちの商品ですね。確かに、似たデザインのネイル……でも、残念ながら私ではないです」

 涼子は、昨夜、情報収集をしていたこともあり、永美堂の商品と映ったネイルが似ていたことで、安易に結び付けてしまった。
 ――似たようなネイルなんてありふれているのに……

 涼子は、自分の安直すぎる思考回路に少し落ち込んだ。

「変なことを言って、すみません。それにしても、この化粧水、とても人気ですよね」

「そうなんです。このようなインフルエンサーが、口コミをしてくれるおかげで順調な売れ行きです」

 涼子の失言により、若干微妙な空気になったが、すぐに緒方が戻ってきて、打ち合わせが始まった。

 打ち合わせが始まると、長野が優秀な社員かつ、自社商品愛に溢れる人であることがわかった。
まず、自社の商品に精通している。どの商品も、使用感についての意見がリアルでわかりやすかった。

日頃から実際に使用し、良い点、悪い点を分析しているのだろう。
そして、商品について話す姿は、先ほどまで感じていた地味な印象が嘘のように溌剌としており、商品や会社が好きなことが伝わってきた。きっと、営業成績も良かったのだろう。

 永美堂は、誰もが知っている日本の化粧品会社であるが、未だベストコスメで覇権を握ったことがなかった。
今年は、有力商品があるため、なんとしてでも大賞を取りたい、と社員一同燃えているようだ。

 ベストコスメというのは、コスメの口コミサイトのことで、このサイトは、一年を通して、最もユーザーから支持を得た商品のランキングを発表している。これは、美容業界の売上に直結するほどの影響力がある。
大賞を取ると、専用の受賞マークをつけることができ、さらに消費者から選んでもらいやすくなるのだ。

 美容系のランキングは多数存在しているが、ベストコスメは消費者のリアルな声を集計していることから、信頼度の高いランキングとして、市場への影響が大きかった。

 永美堂は、どのカテゴリでもトップテン入りしているが、まだ大賞を取ったことがない。

今年発売された化粧水は、開発に十年を費やした力作で、発売当初から口コミで広まり、順調に売り上げを伸ばしている。
しかし、値段が高いことから、まだまだ浸透しきれていないという課題がある。

今後は、値段以上の価値があるという印象を与え、ユーザー層を拡大していきたいという狙いがあった。

この商品のシリーズラインである乳液が五月に発売される予定で、ライン使いをしてもらうことで、相乗的に美容効果を上げ、より価値を感じてもらうという戦略らしい。化粧水の口コミをしてくれた人に大容量の乳液のサンプルを提供することで、さらに、口コミをしてもらい、どちらも合わせて話題になることを期待している。

 涼子のミッションは、LP上でこの化粧水と乳液のライン使いをうまく伝えることであり、どちらも購入してくれる人を増やし、顧客単価を上げることが期待されている。

 永美堂は、今年頂点を取るために、いつも以上に広告に力をいれているようだった。

 緒方と長野の熱い想いを聞き、涼子もこれまで以上に気を引き締めた。

 永美堂からの帰り道、涼子はひとり静かに燃えていた。目標があると昔から燃えるタイプなのだ。

しかし、このやる気が早々に失われることになるとは、この時の涼子は知る由もなかった。









永美堂に来社した翌週。

LPデザイナーと長野と涼子の三人で、オンライン上で打ち合わせを行った。

打ち合わせ冒頭、長野から緒方の欠席を伝えられた。トラブルが発生し、その対応に追われているとのことだった。

その日のアジェンダは、デザイナーとのやり取りがメインであるため、緒方抜きでも問題なく進行した。

 まずは、涼子が作成したコピーを見せ、三者間でLP全体の構成イメージをすり合わせた。

 涼子が担当するLPライティングは、LP制作の一部で、ページそのものを調整するのは、LPデザイナーの領域だ。
ライティングとデザイナーを同時にやる人もいるが、涼子は、文章に特化したタイプであるため、分業制をとっていた。

 LP制作の具体的な流れとしては、ライターが作成した構成に基づいて、デザイナーがビジュアルレイアウトを決定する。
ライターの意図を理解し、ライターが作成したキャッチコピー、見出し、本文などのコンテンツを、デザイナーが効果的に視覚化する。

例えば、目立たせたいところを太字にしたり、フォントを変えてみたりといった調整をしてくれる。
さらに、LP全体の空白をうまく使うことで、ユーザーの視線導線を計算し、ユーザーが自然にコンバージョンへ導かれるようにしてくれるのだ。

涼子がどんなにいいコピーを書いても、このデザイナーの力なくして、ユーザーに訴求することはできない。
こうしてデザイナーとライターは相互に意見を出し合い、質の高いものを目指してページを完成させていく。
そういう理由で、デザイナーは切り離せない業務上の重要なパートナーだった。 

この日も、デザイナーとの調整は滞りなく完了した。

 このデザイナーとの付き合いも、永美堂の案件を対応するようになってからの仲であるため、スムーズなやり取りで、ストレスなく連携できている。そういう意味でも、この案件は手放せないと涼子は感じていた。

「イメージ通りです。いつも素敵なコピーを考えてくださり、ありがとうございます」

 LPデザイナーとの打ち合わせ後、長野と二人でSNS用のPRイメージを確認している時だった。

「とんでもないです。そう言っていただけると、頑張った甲斐があります」

 涼子はこの一週間、気合いを入れて作ったものが認められて安堵していた。

「……こんなにいいものを書いてくださるのに、やめてしまうなんて……」

 長野はひとり言のように、聞き逃せないことを言った。

「……どういう、意味でしょうか」

「いえ……実は昨日、上層部の会話をたまたま聞いてしまったんです……これは私のひとり言として聞いていただけますか」

「……ええ、もちろん」

 ――聞きたいけど、聞きたくない。

涼子は内心聞くことを恐れながら、話の続きを待った。

「このLPライティングですが、今後は社員で対応していく方向で話が進んでいるようなんです。なんでも、インフルエンサーへの依頼料に注力するみたいで……」

「……そう、なんですね……デザイナーと違って、文章を書くことであれば社内でも、できなくはないですもんね……」

 素人が書いたコピーでよかったら、この商売は成り立たないのだけれど、と涼子は心の中で毒づいた。

売上にどの程度の差があるのかはわからないが、涼子には、広告代理店時代から鍛え上げた実力が素人に負けることはないという自負があった。

「……市川さんが書いてくださるコピーや、記事、めちゃくちゃ好きです。だから、個人的には、続けてほしいです……でも、上が決めたとなるとどうしようもなく……他のお仕事との調整もあるかと思うので、できるだけ早くお伝えしなくてはと思って……まだオフレコなのですがお伝えしました」

 私が言ったことは、緒方にも秘密でお願いします、と長野は言った。

 ここ最近で、一番落ち込む出来事だった。

 永美堂の案件は、涼子が最も長く続けている、安定した収入源だった。それがなくなるダメージは大きい。

 この話が正しければ、永美堂との契約は、あと二週間ほどで終わる。

 ――ベストコスメで大賞を取るところを、近くで見届けることはできないのか。

安定した収入はもちろんのこと、やりがいのある仕事がなくなる喪失感があった。

 オフレコと言われていた手前、緒方に確認するのも憚れ、今日まで人知れずうなだれていた。

「――そういう訳で、今はこの案件に代わる優良案件を探しているの」

「……なるほど」

 夏希は、すっきりした、と言わんばかりのさっぱりとした表情を浮かべていた。


「涼子さん、その新担当の上司に確認はされましたか?」

「オフレコって言われてたし、緒方さん、最近忙しいみたいで、聞けてないの」

 永美堂は社用携帯を持っている部署とそうでない部署があるらしいが、緒方は後者だった。
一応、私用携帯の番号は教えてもらっているが、このようなことで電話するのもどうかと思い、今日までできていない。

「では、その新担当者と会うことは可能でしょうか。一度お話してみたいです」

 思ってもいない提案に、涼子はぎょっとした。

「え? 夏希くんが会うの? 長野さんに?」

「はい、次の打ち合わせに僕も参加させてもらえないでしょうか」

 謎の提案に、涼子の身体は後ろに仰け反った。

「……どうして、そうなるの?」

 涼子は夏希の意図が全くわからなかった。

 混乱している涼子とは対照的に、夏希は自信満々で得意げな顔をしている。

「僕なら、その企業案件、継続できるかもしれません」

 何かよからぬことを企んでいるのではないかと思えるほど、夏希は不敵な笑みを浮かべた。

「それは、有難いけど……」

「涼子ちゃん、騙されたと思って夏希の言う通りにしてみたらいいよ。このまま何もしなければ、案件はなくなってしまうんだよね? 夏希が行って案件が継続するなら、お給料はなくならない。試すほかないんじゃないかな?」

「ね?」
 イケオジ彰の後押しがあり、涼子は落ちた。

 背に腹は代えられない。何か継続できる策があるなら乗っかるしかない。

 涼子は腹を括った。









 三日後。

 涼子は夏希と永美堂に訪れていた。

 来社する用事はなかったが、夏希がどうしても新担当者と直接会いたいというので、直前でなんとか対面での打ち合わせを取り付けた。

「さすが、一流企業ですね。綺麗なオフィスだ」

 涼子は、スーツを身に纏った夏希にそわそわしていた。

 ネイビーカラーのスーツ姿は、いつもよりも大人びて見え、同じ職場で働いているような錯覚に陥った。

 ――前の会社にいたら、間違いなくモテて大変だっただろうな……

 会社員然とした夏希を見て、前の会社の同僚が肉食系の女性ばかりという、至極どうでもいいことを思い出していた。

「……変なことは言わないでね」

「涼子さんの不利になるようなことは言いませんよ」

 行ったことのない企業への訪問にも関わらず、夏希はいつも通り、リラックスした様子だ。繊細な顔立ちからは想像できない程の堂々とした態度に、少し驚きつつ、納得もしていた。

 ――探偵業で場慣れしているのかもしれない。

 未だに企業訪問の度に緊張してしまう涼子とは違う。

 長野が来るまでの間、エントランスのソファに座って待っていた。

 パタパタと微かにパンプスの音を響かせながら小走りで長野がやってきた。

「すみません、お待たせしました。緒方は急な打ち合わせが入ってしまって、私一人で申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「……緒方さん、お忙しいのですね」

 前回に引き続き、緒方不在の打ち合わせのようだ。

 新担当だけでの打ち合わせに一抹の不安を覚えたが、今後のスケジュールのことを考えるとリスケも厳しいのだろう。

「すみません、そちらの方は……」

 涼子はその声で、夏希の存在を忘れていたことに気づいた。

「あっ……」

「いつもお世話になっております。市川のアシスタントをしております、佐野と申します」

 ほんの一瞬だった。

 夏希をなんと紹介しようか、と涼子が逡巡している間に、夏希が声を発した。

「アシスタントさんでしたか。永美堂マーケティング部の長野といいます。よろしくお願いいたします」

 長野は一瞬、夏希に見惚れていたが、すかさずジャケットから名刺を取り出して挨拶をした。

「頂戴します。アシスタントになったばかりで、名刺が間に合っておらず、申し訳ありません。――長野さん、よろしくお願いします」

 ――ちゃんとしてるなぁ……

 涼子は、初めて見る夏希の仕事モードに感心していた。

 喫茶憩での立ち振る舞いもスマートだが、こうしてスーツを着て、それっぽい会話をしていると本当に会社員のようだ。

「っ……よろしくお願いします」

 心なしか、長野の頬は紅潮しているように見える。

 夏希の方を見ると、まっすぐ長野を見つめ、勘違いしてしまいそうな蠱惑的な笑顔を振りまいていた。

 ――これは落ちたな。

 無理もない。こんなイケメンに甘い笑顔でよろしくされたら、誰だってそうなってしまうだろう。
夏希はきっと何の意図もなく笑っているだけだが、受け手はそうはいかない。

――それにしたってアシスタントって……

口裏を合わせていなかったが、まさかライターのアシスタントを名乗るとは思ってもみなかった。 

 ――企業のライターならまだしも、フリーのライターのアシスタントなんて、少し無理があるような……

「アシスタントさんがいらっしゃるなんて、さすがですね!」

「……お陰様で、忙しくさせていただいております」

 涼子は、夏希の口から出任せに不安を感じていたが、長野は気にしていないようだ。
ある意味、緒方が不在で良かったかもしれない。 

 打ち合わせ中、夏希は借りてきた猫のように大人しく座っていた。

 大人しくしてくれるのは良かったのだが、終始、横から夏希の熱い視線を感じ、涼子は居心地が悪かった。
仕事中の涼子が新鮮だったのだろうか。
そんな夏希をちらちら伺う長野の視線にも気が散った。


「緒方さんにお会いしたいのですが、急な打ち合わせというのは、いつ頃終わりそうでしょうか」

打ち合わせの終盤、夏希が口を開いた。

「結構時間がかかりそうな内容でしたから……私の方から何かお伝えしましょうか?」

「いえ、緒方さんと直接、お話したいことがありまして」

「……ちょっとお待ちくださいね」

 緒方にどんな用があるというのだろうか。

 長野と涼子は、夏希の意図がわからず、何とも言えない表情を浮かべていた。

「……この後、外出の予定が入っているので、会って話すのは難しいかと……」

 社内でスケジュール表を共有しているようで、長野は手元のPCを使って、緒方の予定を確認してくれた。

「そうですか……では、また改めます」

 夏希は、少し残念そうに、しかし納得したような笑顔を浮かべた。

「申し訳ありません。次回は緒方も出席しますので、その際にお話しいただければと思います」

「承知しました。ちなみに、長野さんはこの後、打ち合わせなど、外出の予定はありますか?」

「いえ、この後は社内で自分のタスクを片付ける予定です。何かありましたか?」

「すみません、興味本位で聞いてしまいました。マーケティング部はやることが多くて大変そうですよね。あまり長居してはご迷惑になりそうなので、我々はこれで失礼します」

 夏希は長野の返答に満足したのか、それ以上言及することはなかった。 

 長野に見送られ、涼子と夏希は永美堂を後にした。

「ねぇ、緒方さんと何を話そうとしたの?」

 涼子は長野が見えなくなったことを確認し、気になっていたことを質問した。

「長野さんがついた嘘について」

「嘘?」

「涼子さん、緒方さんの連絡先わかります?」

「わかるけど、それがどうしたの」

「緒方さんに電話してみましょう」

「え? 外出の予定って言ってたから、出られないと思うけど」

「本当に外出の予定だったら、ね」

 急な要件以外で、緒方の私用携帯に電話することに躊躇いがあった。

 しかし、涼子にはわからない何かが夏希にはわかっているようだ。
自信満々な表情を見ると反論する気も失せ、言われた通りに電話をかけた。

「――お世話になります、永美堂の緒方です」

 出ないと予想していたのに反して、三コール目で繋がった。

「……市川です。緒方さん、外出中にすみません」

「いえいえ、今日はずっと社内にいるので大丈夫ですよ。それより、市川さん体調は大丈夫ですか?」

「……?」

 緒方が言っていることがわからず、涼子はフリーズした。

「横から失礼します。市川のアシスタントをしている者なのですが、本日、三十分程度、お時間いただけないでしょうか」

 夏希は、フリーズしている涼子からスマホを取ると、緒方と話し始めた。

 十分後に緒方との約束を取り付けたらしい。電話を終えると、涼子と夏希は再び永美堂のエントランスに向かった。









 十分後。

 先ほどと同じ部屋に再び案内された。

 そこで、夏希がファシリテーター役となり、答え合わせが行われた。

 緒方が言うには、本日の打ち合わせは涼子の体調不良でリスケになったらしい。

また、先日の打ち合わせも、涼子側で作業時間を要しており、延期したことになっていたようだ。
そして、涼子は今後、別の企業案件で長期拘束される予定のため、対応中の案件以降は、引き受けることができないと、長野から聞いていたという。

 ――そんなこと、一言も言った覚えはない。身体だって、ぴんぴんしている。

「ちなみに、来週の月曜日のご予定は?」

「その日は……大阪出張で一日外出していますね」

「やっぱり」

「何が『やっぱり』なの?」

 涼子は、緒方の目の前だということを忘れ、夏希に食い気味に質問していた。

「意図的に市川さんと緒方さんを会わせないように仕組まれていたんですよ」

「なんでそんなことを……」

 この場で夏希だけが、何かを理解しているようだった。涼子も緒方も訳がわからないといった様子で夏希の発言に耳を傾けていた。
「LPライターですが、会社として、外注をやめる予定はありますか?」

 ――単刀直入にも程がある。

 夏希は、涼子が怖くて聞けなかったことを躊躇せず、ストレートに質問した。

「期の終わりにまとまって予算を取っておりますので、そのような予定はありませんね。市川さんが、五月以降は対応できないと聞いていたので、別のライターを探していました」

「……そんな……長野さんから、ライティングは予算の関係で社員でやることになりそうだと聞いていました」
「社員で? そんな話は聞いたことがありません」

 緒方は怪訝そうな顔をした。

「状況は理解しました。理由はわかりませんが、長野さんにご確認いただけますか。我々がいない方が彼女も落ち着いて話せると思うので」

 夏希以外は明らかにモヤモヤした顔のまま解散した。

 エントランスを出て、緒方が見えなくなった瞬間、涼子は居ても立っても居られず、夏希に突っかかった。

「夏希くん!」

「落ち着いてください。憩でゆっくりお話しましょう」

 喫茶憩までの道中、夏希は勿体ぶって、教えてくれなかった。
今は話さないという、頑な夏希の意思を感じた。

電車に乗り、二人は横並びで座っていたが、終始無言だった。

涼子はスマホで何か操作をしている夏希を横目に見ながら、先ほどのやりとりを思い返していた。

喫茶憩に着いて、涼子が定位置のカウンター席に座ろうとすると、夏希に手招きされた。
どうやら例の事務所の出番のようだ。

「コーヒーでも飲んで、機嫌直してくださいね」

 夏希は、涼子の目の前にコーヒーを置き、「チョコレートもありますよ」と、お茶請けまでくれた。

現金だとわかってはいても、美味しくて機嫌が直ってしまう。

 てっきり夏希は涼子の正面のソファに座るものと思っていたが、そこには座らず、わざわざ一人用の椅子を引いてきて、そこに腰掛けた。どうやらそこが夏希の定位置のようだ。

長く細い足を組み、両肘を手置きに引っ掛け、椅子の背にもたれかかるように座っている。
椅子に座っているだけで、どこぞの王様のように偉そうに見えた。

 涼子が知らないことを夏希は知っている。

 そのことにアドバンテージを握られたような気分になり、勝負なんてしていないのに、不思議と負けたような気持ちになっていた。

「夏希くん……わかっていることを教えてほしい」

 コーヒーで一息ついたおかげで、涼子は素直にお願いすることができた。

 夏希は椅子に背を預けたまま、まっすぐ涼子の目を見つめると、満足したように笑った。

「恐らく、長野さんは、匿名で自社の商品をPRしていた。それを涼子さんが知ってしまい、会社側にバレることを恐れて、会社と涼子さんの接点をなくそうとした。そんなところでしょう」

「……ちょっと待って、よくわからない……証拠はあるの?」

「ないです」

「ない……?」

「証拠はありません。視えただけなので」

「視えるって、どういうこと? 全然わからない」

「――僕は、人に触れると、その人の強い想いの記憶のようなものを視ることができるんです」

「……いやいや……私のこと馬鹿にしてる?」

「全く」

「そんな特殊能力……あるわけ、ないじゃない」

「……そう、ですよね」

 夏希は大げさに肩を落とした。少し落ち込んでいるように見える。
椅子の肘掛けの上で頬杖をつき、ぼうっと遠くの方を見て黙ってしまった。

 悲しみに暮れたアンニュイな表情がまた、様になっている。

「……そのような能力があったとして、どんなものが視えたの?」

 夏希があまりに悲しそうな顔をするものだから、涼子は大人げない反応をしたことを反省した。

 ここで黙られては困るので、ひとまず話を合わせてみることにした。

「……彼女は学生時代、ひどい肌荒れに悩まされていた。そのときに出会ったのが永美堂のスキンケアだった。SNSでなんとなく投稿したものがバズって以来、コスメについての投稿を積極的にするようになった」

 夏希は、見えない原稿を読み上げるように、淀みなく話している。

「永美堂に就職してからも、投稿は続けていた。むしろ、自社商品の売上に貢献したい思いで投稿にも熱が入った。そんな中、自社商品について匿名で投稿をしていることを涼子さんに気づかれてしまったと思った。自分のしていることが露呈したら、会社には迷惑がかかり、フォロワーからの信頼も失う可能性があった。だから、涼子さんと永美堂との関係を失くす方法を考え、涼子さんと緒方さんを会わせないよう、双方に嘘をついた。同時に、涼子さんのライターとしての自信をなくすためにアンチコメントもするようにもなった」

「え、アンチコメントも長野さんなの?」

「はい、一見、別物に見えますが、これは同一人物によるものです」

 夏希の話を聞きながら、長野に会った日のことを思い出していた。

 何気なく言ったあの一言で、そんな行動に走ることがあるのだろうか。

「そもそも匿名で投稿ってそんな悪いことなのかな……」

「世間的に会社が問題視されることを恐れたのではないでしょうか。数年前に、化粧品会社に勤めている美容系インフルエンサーが自社の商品ばかり高評価の投稿をして、ステマではないかと問題視されたニュースがあります。それに関して、会社側は、謝罪文を出して終結していますが、インフルエンサーとしての信頼も、会社の評判を下げた汚名も取り返しがつかない」

 ステマとは、ステルスマーケティングの略で、広告であることを隠しながら事業者が商品・サービスを宣伝する手法を指す。
あたかも自然な口コミや推薦であるかのように見せる手法であるため、消費者としてはいい印象はない。

 一般消費者として、本当にいいものを紹介してくれていると思っていたアカウントが、実は自社の商品を推しているとなると、ステマであることを否定しきれない。

「なるほどね……」

 夏希の推測は妙な納得感があった。

「本人に聞くのが一番いいでしょう」

「そうだね……また来週にでも聞いてみる」

「今からです」

「え?」

「もうすぐ来る頃じゃないでしょうか」

「どういうこと?」

「メールを一本いれてあります。ここに来るように」

 ――いつの間に。

「着いたようです。涼子さんは、ここにいてください」

 夏希はスマホを見ながらそう言うと、喫茶店側へ行ってしまった。


 数分と経たず、夏希は長野を連れて部屋に戻ってきた。

 長野は部屋に入ったと同時に、涼子に向かって勢いよく頭を下げた。

「申し訳ありませんでした!」

 それから、半泣きの長野の口から発せられた言葉は、今し方、夏希から聞いた内容とほとんど変わらないものだった。
 まるで、先ほどの会話を復習するかのように長野の言い訳を聞いていた。

「……どうしてそんな……」

 事前に聞いていたからといって、驚きがなくなるわけではなかった。
本人の口から直接聞くことで、夏希の当てずっぽうではなかったのだとわかり、涼子は二重の意味で驚き、動揺していた。

「本当にすみませんでした。最低なことをした自覚はあります。市川さんがこの仕事に自信がなくなれば、仕事で関わること自体、なくなるんじゃないかって思って……」

「そんな理由で……」

 涼子は精神的なダメージを受けていたが、仕事ができないというほどではなかったので、長野が思ったような成果は得られなかったのだろう。

 しかし、涼子は愚かなことに、長野の嘘を疑いもせず、次回以降の依頼については諦めかけていた。

 結果として、長野の思惑通りに事は進んでいたのだ。

 ――夏希さえいなければ。

「虫がいいのはわかっています。でも……誰にも言わないでください……会社には迷惑をかけたくないです……なんでもします……」

「安心してください。誰にも言うつもりはないです」

「ほ、本当ですか……」

「本当です。……バラすメリットなんて、ないもの」

「よかった……」

 長野は目に涙を浮かべながら、心底安心したような表情を浮かべた。

「緒方さんとは話されましたか?」

「……まだです。メールを読んですぐに早退したので」

 次に長野が緒方に会う時は、質問責めにあう時だろう。

 涼子は少し、長野のことが不憫に思えた。

「……そう……SNSの投稿はどうするつもりなの?」

「辞めるつもりです。こんな風に怯えるのは、もう嫌なので……」

「……それが良さそうだね……」

 長野があのインスタグラムの投稿者だと知っているのは、恐らくここにいる人間だけだ。

仮に長野が投稿者であることを知ったとして、涼子はそれをバラそうだなんて全く考えてもみなかった。

お世話になっている会社を貶めるような行為をするなんて、よほどのことがない限りやれるはずがない。

 しかし、長野の立場からすると、涼子の存在は脅威だったのだ。
憧れの会社に就職し、人知れずSNSを利用して会社の売上に貢献できていた。

しかし、涼子に知られたことで、これまでの生活が脅かされる可能性が出てきた。
危険因子は早く取り除かねばならない。そんな風に思ったのだろう。

 涼子には、そこまで大切に思うものがない。だから、長野の気持ちはわからない。

 しかし、時に人は、大切なもののために、通常ではありえない行動を取ることがあるのだと、三十五年も生きていると、経験として知っていた。今回もきっと、それだったのだ。

涼子にはわからない感情を知っている長野のことが、少しだけ羨ましく思えた。

 長野は最後に、もう何度目かわからない謝罪を涼子にし、深く頭を下げて喫茶憩を後にした。

 再び涼子と夏希は二人きりになった。

「誰がやってるかなんて、誤魔化そうと思えばできたよね……長野さんがやった証拠なんてないんだから」

 あっけなく長野が罪を認め、謝罪したことを涼子は不思議に思った。

「そうですね。本人自らアカウントを見せてくれない限り、証拠はないですから、シラを切ることもできた。彼女はそこまで悪に染まっていなかったんでしょう」

「そういえば、長野さんになんてメールしたの?」

 長野は夏希のメールを見て、ここにやって来た。
メールに何か重要なことが書かれていたのではないかと涼子は思った。

 夏希はスマホを操作し、実際に送った文面を見せてくれた。

『アンチコメントもステマ投稿もあなたの仕業である証拠を持っています。本日十六時に、リンクの場所へ来てください。もしも本日中に連絡がなければ、然るべき対応を取ることになります』

 ――こ、怖。

 なかなかなことが書いてあった。罪に自覚のある人間なら、こんな文面が送られてきたら、さぞ肝が冷えることだろう。

「……これって、脅迫じゃない?」

「そういう解釈もできるでしょうね。内容的には脅迫罪で訴えられるスレスレですかね。直接的な脅しにならないように書きましたが、状況によっては脅迫罪が成立する可能性もありますから」

「脅迫罪……」

「あちらの出方がどうであれ、こちらとしてはアンチコメントに関する名誉棄損で訴えるとか、いくらでもやりようはありました。そもそも、メールを見て、ここに来た時点で、メールの内容を認めたことも同然です。素直に認めるかどうかは賭けではありましたが、良心は捨てていない子で助かりました」

 ――意外と、危ない橋を渡るタイプなんだ……

 物的証拠は持っていないが、「視たこと」から推測した内容で、相手を揺さぶったのだ。言われてみれば、ネイルが似ているくらいで、証拠という証拠は何もない。アンチコメントの方なんかは、本人が自爆したようなものだ。

 そんなことにも気づけないくらい、彼女は追い込まれていたのだろう。

 夏希がリスクを背負ってまで、涼子を助けようとしてくれたことに感謝と一抹の恐怖を感じた。

 ――絶対に敵には回したくない……

「でも、そもそもなんで長野さんだってわかったの?」

 そういえば、アンチコメントの相談をした時、夏希は、なぜか長野に会いたいと言い出したのだ。
その理由を聞いていなかったことに今さら気づいた。

「アンチコメントが急に増えるのは、炎上するような投稿をしたとか、バズる投稿があるはずなんです。でも、投稿自体には変化がないとおっしゃっていたので、これは身近な人間によるものではないかと考えました。ちょうど長野さんとの新しい出会いがあり、打ち切りの話が浮上している。これは、何かありそうだと思いました。しかし、最後の契約日と、打ち切りの疑惑が出たタイミングには違和感はありませんでした。一般的に企業は、決算のタイミングで契約などの見直しをしますから。なので、涼子さんから話を聞いた時点では、決め手がありませんでした。だから、彼女に会って、答え合わせができればいいなと思ったんです」

「……あの会話で、そこまで考えてたんだ……」

 夏希の勘の鋭さに涼子は驚きを隠せない。 

「彼女の……その、想いはいつ視たの?」

 夏希は人に触れると、その人の強い想いの記憶のようなものが視えると言っていた。

 そんな瞬間はあっただろうか、とふと疑問に思った。

「名刺交換のときです」

「……なるほど……」

 あまりに自然な触れ方で全く気づかなかった。

「ちょっとは、信じてみようって思えました?」

「……うん……」

 長野によって語られたことは、夏希の話とあまりにも一致していた。

嘘にしては、出来過ぎている。

「視えるってどんな感じなの?」

「……スマホのカメラで、連続でシャッターを押したときみたいに、画面が切り替わる感じって言えば伝わりますか? その人が見たもの、感じたことが一気に脳になだれ込んでくるんです」

「なんかそれ、酔いそう……」

「よくわかりますね」

「酔うの?」

「現実に戻ってくるときに時差ボケみたいな気持ち悪さがあります。内容や情報量にもよりますが」

 時間にして、一、二秒だという。

 そんな短時間で、相手の感情や記憶を視るなんて頭がおかしくなりそうだ。

「……その能力って、サイコメトリーっていうやつなのかな」

 サイコメトリーとは、超能力の一種で、物体に残る人の残留思念を読み取ることができる能力のことだ。涼子はその能力についてテレビや小説で薄っすらと知っていた。

「分類的には同じなんでしょうけど、僕の能力はそれよりも、もっと限定的です。物に触れても何も視えません。経験からして恐らく、人間に直接触れることで、その人の想いが視えます。そして、視えるものは不規則で、ほんの一部分だけなんです。サイコメトリーという能力自体、解明されていないことが多いので一概には言えませんが、僕個人の感覚的には似て非なるものかと」

「そうなんだ……能力にもいろいろあるんだね……私のも視れるの?」

「視えると思います」

「本当に?」

「はい。でも、視ません。自分と関わりのある人のは視ないようにしています。自分でも知らない感情を人に視られるのって、気持ち悪いでしょう」

「……確かに、ちょっと怖いし、恥ずかしいかも……でも、知りたいかも……」

「視ません」

 きっぱりと、つれない返事であしらわれてしまった。

 涼子は夏希の能力を信じたような、信じていないような、どちらともいえない気持ちになっていた。
たとえ騙されていたとしても、大した問題もなさそうだと思い、深く考えないことにした。

 自分の中にある強い感情。

 夏希には、何が視えるのだろうか。

 夏希が言うには、過去も現在もバラバラに視えるようで、視える範囲には規則性はないらしい。ただ一つ、わかっているのは、当人が意識、無意識関係なく強く想っていることが視えるということ。

 ――私が抱いている強い想いってなんだろう……

 夏希は嫌がっているが、いつか絶対に聞こう、と涼子は思った。







【長野志保の想い】
 物心ついた頃から、可愛いものに憧れていた。

 女の子なんて、だいたいみんなそういうもんじゃないかと思う。

女の子は幼い頃から女であることを無意識に自覚していて、可愛くなろうとする。

たまに遺伝子の成功みたいな、なんの努力もせず、生まれたまま可愛い子はいるけど、だいたいの子が、並みのビジュアルだ。
だから、プラスアルファの努力で、普通から「雰囲気可愛い」まで昇格する。

私は可愛いものに憧れてはいたけれど、自分がそれにはなれないことを随分早くから気づいていた。

だから、たいした努力もしてこなかった。
だって、ブスが努力したところで、所詮、普通以下だ。それってなんだか虚しいなって思った。

そのせいなのかはわからないけど、私は中学生の頃、重度の肌荒れに苦しんだ。

肌荒れのせいで、自分の容姿に対するコンプレックスはより強くなった。
食べているものはそこまでジャンキーではなかったし、人と比べて不摂生をしていた自覚もない。

きっと、思春期特有の肌荒れだったんだと思う。
ニキビ体質で、赤ら顔。爛れたような赤い顔が、ずっと恥ずかしかった。親も憐れむほどひどいもので、皮膚科に通って、やっと、まぁマシくらいになった。赤ら顔が改善したとて、日本人らしい平たい顔で、総じて特徴のないぼんやりとした顔だったので、下の下レベルの容姿であることにかわりはなかった。

 高校生になると、本格的にみんな色恋に夢中になった。
特に陽キャと言われる、クラスで目立つタイプの美人な子とスポーツ万能な男子は、自分たちがまるで世界の中心かのように青春時代を謳歌していた。

 私は、色恋など現をぬかしたりしなかった。
私のような見た目で誰かと恋愛しようだなんて、とてもじゃないけど思えなかったからだ。
とにかく勉強した。ブスでバカなんて、生きている価値がないから。

せめて、勉強くらいは可愛い子たちには負けないように努力した。
 そして、晴れて、誰もが知る私立の名門大学に合格した。

 大学生になり、居酒屋でバイトをするようになった。
そこでの出会いが、自分の人生を大きく変えることになるとは、当時の私は全く想像もしていなかった。

 カフェや書店でのバイトに憧れはあったが、少ない時間で稼ぐためには、居酒屋が一番効率が良く、学業とバイトを両立するための選択をした。

 バイト先の居酒屋は、チェーン店とは違い、常連客ばかりの地域で人気のある居酒屋だった。
客もバイトも年齢層が高く、若くてキラキラした人たちが苦手な私でも、気兼ねなく働くことができた。

 初めてのバイトだったけど、つらくなったり、辞めたくなったりしたことはなかった。
それは、一個上の小出先輩が仕事を一から丁寧に教えてくれたからだ。先輩の指導のおかげで、わりとすぐに戦力になれたし、働くことの楽しさを知れた。

そんな感じで、大学もバイトも楽しめていて、想像していた以上に大学生活は充実していた。
充実していた理由の一つとして、初めて好きな人ができたことが大きかったように思う。

恋愛に免疫のない典型的なブスの恋パターンで認めたくないけど、バイトのことを教えてくれた小出先輩のことを好きになってしまった。

先輩は、学校では交わることのないような、陽キャの先輩だった。
陽キャといっても、派手に遊んでいるタイプではなく、どちらかというと、生徒会長とか、部活で部長をしているタイプの真面目で人望のある人だった。

 当然、バイトメンバーからも愛されていて、私なんかが、付き合いたいなんて言えるような相手ではなかった。
一方的に想うだけなら許されるだろうと、密かに恋心を抱いていた。

 叶う恋だなんて一ミリも思っていなかったけど、少しでも良く思われたくて、これまで気にも留めていなかった、メイクや洋服に気を遣うようになった。コンプレックスだった肌を綺麗にしたくて、バイトで貯めたお金で、色々試した。

 我ながら、垢ぬけたと自信がついてきた頃。

あっけなく、間接的に失恋をした。

「小出くんの彼女って、すごい美人だよね」

「え? なんで知ってるんですか」

 ある日、店長と小出先輩が話しているのを聞いてしまった。
彼女くらい、いるだろうとは思っていたけど、実際にその事実を知るとショックだった。

「昨日、駅前のスーパーにいたよね?」

「……あー! 見られてたんですね。恥ずかしい」

 先輩は、珍しく照れたように笑った。見たことがない表情に胸がチクチクした。

「誰かが言ってたけど、読モなんだっけ。遠目で見ても綺麗でびっくりしたよ」

「いやぁー……隠し事はできないですね」

「なになにー」と、噂好きのおばちゃんが話に加わり、写真を見せろとせがんだ。
小出先輩はちょっと困ったように笑いながら、でも、誇らしそうに彼女の写真を見せてくれた。

 彼女だけが映った写真だった。
デート中のカフェで撮影されたであろう写真は、加工されていない自然な写真で、彼女が美人なことが十分すぎるほど伝わった。

顔が小さくて、目はぱっちりで、鼻がシュッとしていて、色白で毛穴のないつるつるの肌。私の憧れを具現化したような人だった。

 この時の会話で、自分が何かを発言したかまでは記憶にない。
ただ、かっこいい人は美しい人と一緒になるのが世の常なのだと、改めて現実を見直すきっかけになったことだけは覚えている。

 どれだけ努力したって、ブスはブス。元から美しい人には勝てっこないんだ。

 勘違いして、告白なんてしなくて良かった。

 それから、誰かに恋をすることはなかった。

 再び自信がなくなって、さらに内気になると思いきや、意外なことに、自分を磨くことが楽しくなっていた。

最初は、先輩に良く思われたくて始めたことだったけど、恋が終わっても、美意識は高いままだった。
努力が目に見えてわかることに、やりがいを感じるようになっていた。

 なんとなく始めたインスタの投稿が、ルーティンになった。

 最初は自分の記録用として投稿していただけだった。
 しかし、ある時、意図せず投稿がバズった。

それは、先輩への恋心を自覚し、どうにか肌荒れを直したくて、いろいろ試した中で出会った永美堂の美容液についての投稿だった。
あれが、私の人生が百八十度変わった瞬間だった。 

 永美堂の美容液は学生が手を出すには値段はしたが、それだけの効果があった。
興奮冷めやらぬ状態で、リアルな使用感をSNSで上げると、瞬く間にバズった。

顔出しをしなくても、ビフォーアフターがリアルで参考になると、たくさんコメントをしてもらえた。
大袈裟かもしれないけど、初めて世界に認められたような気がした。

容姿の美しさがなくても、注目してもらえる世界があるのだと知った。
むしろ、自分が肌トラブルを経験していなかったら、きっと、ここまで注目はされなかっただろう。

 初めて、美人にも勝てることを見つけた。

 それから、自分を変えるきっかけをくれた化粧品に更に夢中になった。

 いつしか、化粧品会社で働きたいと思うようになっていた。

 大学三年生も残すところわずかになり、就活が始まった。
化粧品会社に何社も応募したが、結果は壊滅的だった。美容業界は美しさが求められる。

わかってはいたが、第一関門の書類(容姿審査)で落とされまくった。想定内だった。

 しかし、永美堂だけは、通過した。

 偶然ではない。恐らく、尋常ではない入社意欲が人事に伝わったのだと思う。

三年生になってからすぐ、私は就活のスタートダッシュを始めていた。

永美堂のインターンや、イベントに精力的に参加した。書類にはそれらの経験を交えてびっしりと書き、他社とは比べ物にならないくらいの熱量をぶつけた。

 そんな熱意が届いたのか、永美堂だけは通過し、内定をもらうことができた。

 奇跡のようだった。

 こんなに地味で、美しさとは、ほど遠い私を受け入れてくれるなんて。

 永美堂の売上に貢献したいと心から思った。

 永美堂に就職し、営業部に配属された。

自社商品を扱っている店舗へ足繫く通い、売り場や在庫状況を見て、発注をしてもらえるように地道に交渉した。

私は、他社商品含め、流行や、商品の特性について熟知していたので、新入りでもすぐに信用してもらえるようになった。

 プライベートの方でも、インスタの更新は絶やさず、続けていた。

 そんなとき、たまたまあるニュースが飛び込んできた。
 いつものようになんとなくネットのニュースサイトを読んでいた。

『匿名インフルエンサー《自社商品激推し投稿》企業側関与のステマか』という、他人事とは思えないニュースが目に入った。食い入るように読んだ。

 自社商品への愛が強い社員だったのか、はたまたそれを利用した企業側の策略なのか、真実はわからない。

 しかし、自分のやっていることは、これに値するものではないかと思った。

自分の行為が、なんらかの形で世の中に露呈した場合、会社には迷惑をかけ、フォロワーからの信頼も同時に失うことになるだろう。
 
どうしようもなく、怖くなった。

 インフルエンサーとしての活動は、友達にも家族にも言っていない秘密だった。だから、誰にも相談できなかった。

それからの投稿は、これまで以上に意識して他社商品のレビューを組み込み、あくまで公平にレビューしているというスタンスを示すことを心がけた。

 そして、入社前から希望していたマーケティング部に配属となった。

 営業として、直接店舗に売り込むことには、やりがいがあった。

しかし、マーケティング部として、不特定多数の人に見られる媒体で、公式に宣伝することが楽しみで仕方なかった。
念願のマーケティング部への配属に胸が躍った。

 だから、冷静さを失っていたのだと思う。

 市川涼子というライターと初めて会った日、私はとうとうやってしまったことに気づいた。

投稿で身バレしないように、普段から個人を特定できるようなものは写真に入れないように注意していた。

しかし、ネイルを新しくして気分が高揚していたことと、時間がなく、雑なチェックをしてしまったことが良くなかった。

 市川に、自分の投稿を見せられ、「これはあなたではないか?」と質問された。

 恐らく彼女は、何の悪意もなく、純粋に質問しただけだった。

 なのに、私は怖くてたまらなくなった。

 もし、世間にこの投稿者が永美堂社員である私だとバレたら……

数年前のステマ疑惑のネットニュースを思い出して不安になった。

 市川に知られたところで、どうにもならなかったかもしれない。
でも、その時の私は、絶対に隠さなくてはならないという焦りでおかしくなっていた。

 市川と永美堂の契約を失くせばいいのではないか? 

 追い詰められた私は、そんな、ろくでもないことを考えて実行した。

 広告運用に関する予算は年間計画で確保しているため、会社側からの契約打ち切りはないことはわかっていた。
だから、市川との次の契約が発生しないようにどうにか調整できないかと考えた。

 本来、フリーランスに対して、そんなことをする必要はないのだろう。

しかし、面倒なことに、この市川というライターは会社として古い付き合いがあった。
契約自体は、短期契約だが、事実上、長期契約のようなもので、これまでも間隔を空けず、メール等で相互にやり取りしているようだった。

 このままでは、今後も市川との仕事が続いてしまう。

だから、自分が市川と緒方の窓口となることで、自然な形で契約がなくなるように小細工をすることにした。

 まずは、市川と緒方を会わせないように仕組んだ。

 緒方は別案件で忙しいため、自分が調整役をするという体で、すでにやり取りしていたメールから緒方を除き、緒方には市川と長野のやり取りを見えなくした。実際、緒方は多忙で、そのことについて何も気づいていなかった。

打ち合わせの日程は、事前に緒方が外せない予定とバッティングさせ、当日は急用で出られなくなったことにした。
緒方には、市川の体調不良や進捗の遅れを理由に、打ち合わせがリスケになったと伝えた。

 そして、計画通り、五月以降の案件依頼がなくなるであろうことを市川に吹き込んだ。
緒方には、今後の案件対応はできないと市川から申告があったと伝えた。

 こうして、新しい委託先を検討するところまで、首尾よく漕ぎつけた。

正直、こんなにうまくいくとは思っていなかった。意外なほど、すんなりと計画は進んでいた。

市川は、見た目の印象で、性格はキツく、勘の鋭そうな人だと勝手に思っていたけれど、全然違った。
想像以上に鈍感で、お人好しな人だった。

仕掛けた私が言うのも変だけど、「え、信じて大丈夫?」と確認したくなるくらい、簡単に信じた。

 緒方も緒方で、細かいことは気にしない人だった。

市川の体調不良や、今後の案件依頼ができそうにないことを伝えると、特に疑いもしなかった。

強いて言えば、新しいライターを探すのが手間だとぼやいていたくらいだ。

私が代わりに探すと言ったら、感謝され、ますます細工がしやすい状況を作れた。

彼女は、仕事はできるが、興味のないことに対しては雑のようだった。人間関係もサバサバしているので、今後も用事がなければ、緒方から市川に連絡することはないだろう。

 ここまでの計画だけでも、うまくいっていたが、一つ保険をかけていた。

それは、市川がライターを辞めたくなるように、彼女の仕事用のアカウントにアンチコメントを書いて精神攻撃をするというものだった。これは、契約が継続した場合の保険のつもりだったが、なんでも持っている市川に対して嫉妬心がなかったとは言い切れない。美しくて、仕事もできて、SNSでも人気がある。そんな彼女のことが、たぶん妬ましかったのだと思う。

いっそ、本当に仕事ができなくなればいいと思った。

 しかし、市川は、私と違って、大人だった。アンチコメントで落ち込んでいる様子なんて微塵もなかった。

 精神攻撃は効かなかったが、肝心の契約自体は自然消滅できそうだと安心した頃、状況は一変した。

 突如現れた佐野という、市川のアシスタントのせいで、すべてが破綻した。

 市川にアシスタントがいたなんて初耳だった。しかも、こんなに若くてイケメンだなんて、世の中は不公平だと思った。

「来社したい」と言われた時は、一瞬焦った。サンプル確認以降、市川が来社することはないと思っていたからだ。
焦りはあったが、次の打ち合わせの日程は、事前に緒方主催の外せない会議とバッティングさせていたので、対面であっても問題ないと判断した。

帰り際、緒方に会いたいと言われた時は、内心気が気でなかったけれど、冷静に外出の予定だと嘘をついた。

市川たちを見送り、一時間経たないくらいのタイミングで、社用メールにメッセージが届いた。

 知らない宛先だった。

『アンチコメントもステマ投稿もあなたの仕業である証拠を持っています。本日十六時に、リンクの場所へ来てください。もしも本日中に連絡がなければ、然るべき対応を取ることになります』

 心臓が止まるかと思った。

 市川からだろうか? 

 いや、おかしい。なぜ、匿名のSNS運用だけでなく、私が市川にアンチコメントをしていることも知っているのだろうか。
捨て垢を複数種類作っていて、簡単に個人は特定できないはずだ。開示請求でもしたというのか? 

いや、そんな短時間でできることではない。

 これは脅しではないか。

 警察や弁護士に相談した方がいいだろうか。
しかし、書かれていることは、どちらも長野にとって分が悪い内容だ。

そして、本日中と書いてある。考える時間はなかった。頼れる相手もいないし、行くしかなかった。

添付された地図を見ると、会社から三十分ほど離れた駅にある喫茶店のようだった。
第三者がいる場所で少しだけ安心した。

 会社には、体調不良を理由に早退を申し出て、急いで電車に乗った。

 目的地に到着して、拍子抜けした。

レトロでオシャレな外観の喫茶店と、脅迫メールとが結びつかない。
これから起きることが全く想像できなかった。

 しかし、緊張は続いていた。

 メールで到着したことを送り主に報告した。

 数分と経たず、扉は開いた。

 店の中から、市川のアシスタントが出てきた。

「お待ちしておりました」

「……」

 いかにも接客のようなその対応に戸惑った。

 証拠を提示されているわけではないから、シラをきるか、ここに来る道中、散々悩んだ。
しかし、佐野のすべてを見透かしたような視線に、「無駄な悪あがきはよせ」と言われているように感じ、これ以上嘘はつけないと思った。

 この佐野という男は、ただの美しい男ではない。

 今日初めて会ったばかりなのに、これまでの人生の恥部をすべて見透かされたような、不思議な感覚に陥った。笑っているのに、笑っていない。

 あのメールを送ってきたのは、間違いなく、この人だ、と直感でわかった。

 作り物のような整いすぎた顔が、笑っているのに、怖くて堪らなかった。
こんなに美しい男に出会ったのも、こんな恐怖を味わったのも生まれて初めてだった。

まるで、市川の番犬のようだ、と思った。

見かけによらず、鈍感で、おっとりとしていて、お人好しで、なんでも受け入れてしまう彼女を、人知れず守る番犬。

 これ以上、この人を相手に嘘を重ねると、とんでもないことが起きる。そんな漠然とした恐怖に襲われ、気づいたら謝っていた。

 心のどこかで、もっと早く楽になりたかったという気持ちもあった。
市川と関わる以前から、悪いことをしているわけではないのに、ずっと後ろめたかった。

大好きな永美堂の商品を、無関係な人間という立ち位置を装ってこそこそと投稿する日々に、嫌気がさしていた。

 佐野の冷たい視線を感じながら、市川にひたすら謝罪をした。

 市川は、終始温厚だった。怒るとか、責めるとかじゃなくて、どちらかと言えば、どうしていいかわからず困っているように見え、泣く子を宥める大人って感じだった。

仕事の邪魔をされ、執拗なアンチコメントまでされているのに、彼女はそれを咎めることはなかった。

 むしろ、私の今後のことを心配してくれた。お人好しにも程がある。美人でも、心が綺麗な人はいたのだと、卑屈な感情ではなく、純粋にそう思った。

 会社が好きだから、売上に貢献したかった。もっとみんなに使ってほしかった。
ただ、それだけだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。試行錯誤したものの、どれも稚拙で杜撰だった。

結局、自分の首を締めただけだった。

 私は一体、どうしたかったのだろうか。

 悪いことをするとバチは当たるのだ。露呈して初めて、自分の冷静さを欠いた行動を客観的に見ることができた。

 喫茶店を後にし、私は一人電車に揺られていた。

 スマホで、自分のインスタを表示させる。

スクロールして、過去の投稿に遡る。スクロールしても、しても、まだまだ続く。

 こんなにも多くの投稿をしてきたのかと、他人事のように驚いた。

 バズったあの日から、毎日投稿し続けた。

 楽しくって、無我夢中で。

 たかがSNSだと、笑われるだろうか。

 でも、私にとっては、この場所が大切だった。

 自分の投稿を待ってくれる人がいて、自分の存在意義を感じられた。
誰かのためになりたくて、いろんな化粧品を試した。安くない化粧品を買うためにたくさん働いた。
自分に自信をくれた永美堂に恩返しがしたかった。

 これ以上、スクロールできないところまでたどり着いた。

 最初の投稿を見る。
 日付は、七年前。

 デザインも、文言も我ながらセンスがない。
 でも、ここがすべての始まりだった。

 殻に籠っているだけでは、きっと、何も変わらなかった。

この日、踏み出した勇気が私を変えた。選択を間違えてしまったけれど、これまでの日々は、全てが無駄ではないはずだ。

 ぐっと滲む涙を堪え、設定ボタンを押して退会手続きをした。

 これから私はどうなるのだろうか。

 怖くて、不安で、逃げ出したくてたまらない。

 でも、受け入れるしかない。自分がしでかした罪に対する罰を。

 それから……

 ――もしもまだ、永美堂のために、私にできることがあるなら、それを粛々とやるだけだ。










 翌日、涼子は緒方から改めて謝罪を受けた。

 電話で「家まで行きます。家がダメなら最寄り駅まで」と物凄い勢いで言われたが、外出の予定があったので、用事を済ませたタイミングで近くのカフェに来てもらうことになった。

 菓子折りを渡され、何度も何度も謝罪された。緒方はいつも淡々としている印象だったので、少々面食らった。

涼子からすると、嘘をつかれ、アンチコメントをされたくらいで、大した実被害はなかった。

だから、そこまで深刻になられると、返って居心地が悪かった。
予想通り、長野は担当から外れ、部内で配置転換するとのことだった。本人からは、しばらく休むと連絡があったらしい。

 それが一番いいだろうな、と緒方の話を聞きながら涼子は安心していた。

 自分が受けた被害は、大したことはない。

しかし、好きなことに熱中するあまり、良いことと悪いことの区別がつかなくなり、他者を貶めることを厭わない精神状態は、決して良くはないだろう。彼女はまだ若い。若者の青臭い過ちを許せるくらいには、涼子は大人になっていた。

 かくして、これまで通り、永美堂の案件を継続できることになった。
一件落着である。涼子は、ここ最近の杞憂がなくなり、晴れやかな気持ちでいっぱいだった。

 夏希がいなければ、今ごろ涼子と長野はそれぞれ違ったモヤモヤを抱え続けていたに違いない。

夏希には頭が上がらない。

涼子は電車に揺られ、オレンジ色に染まっていく空を見ながら、夏希のことを考えていた。