目をつぶって息を吸う。その瞬間、コーヒーの香りが、鼻から全身に駆け巡る。

楽しそうに話す婦人の声と、低く落ち着いた男性の相槌が、斜め後ろの方から聞こえてくる。

 ありふれた日常の断片。

 市川涼子にとって、このなんでもない時間は、何にも代えがたい至福の時間だ。

 涼子はコーヒーの香りを楽しんだ後、一口含み、壁際の棚に丁寧に並べられたコーヒーカップたちを愛おしむように見ていた。

「お待たせしました。ビーフカレーです」

 目の前に、出来立てのビーフカレーが置かれた。

「いただきます」

 手を合わせると、写真を撮る時間も惜しんで、一口目を口にした。

「……ん。美味しい……」

 目をぎゅっと閉じ、ビーフカレーの旨みを全身で嚙み締めた。

「相変わらず、いいリアクションだなぁ。涼子ちゃんは、なんでも美味しそうに食べてくれるから作り甲斐があるよ」

カウンターを挟んで、黒いシャツに身を包んだ佐野彰が満足そうに言った。

「本当に美味しいんですもん」

 佐野彰は、「ありがとう」と言い、微笑みながら食器を拭いている。

「珍しいね。土曜の夜に来るなんて。最近忙しいの?」

「そうなんです。最近、対応している案件が平日稼働することが多くて。こんな風に土日の休みは、サラリーマン時代を思い出します」

 涼子はフリーのライターをして生活をしている。

十年勤めた広告代理店を退職し、この二年でフリーライターとして、会社に勤めなくても生活できるくらいの収入を得ている。

企業からオファーがきて記事を書くこともあれば、自分が興味をもった題材で書くこともある。

会社員と違って、何から何まで自分でやらなくてはならず、大変ではあるが、やったらやった分だけ成果が得られるため、やりがいを感じていた。

 この働き方をするようになってから、時間の使い方が会社員時代とは大きく変わった。

今は、喫茶店でゆっくり朝ごはんを食べ、そこで一時間程執筆活動をし、昼前にのそのそと取材に行ったり、買い出しに行ったり、ゆとりある生活をしている。

 余裕のない朝からの解放は、本当に最高だった。

 会社を辞めてから何をするかは明確に決めていなかったが、長年の貯蓄のおかげで焦ることなく、新たな適職と出会うことができた。

そして、この喫茶憩(いこい)とも出会うことができた。

 喫茶憩は、その名の通り、寛ぐことに適している、穴場の喫茶店で、涼子の住む家の最寄り駅から数分離れたところにひっそりとあった。

民家の間に建っている喫茶憩は、レンガ造りの外壁と木枠のガラス扉で、そこだけ、まるで外国に来たかのような、心躍る外観をしていた。

入るとそこは、タイムスリップしたかのようなレトロな空間が広がり、視界が暖かみのある琥珀色に包まれた。

ダークブラウンのテーブルに、赤いベロア生地のソファ。壁際にずらりと並んだコーヒーカップは、ヨーロッパ製のランプに照らされて幻想的だった。

喫茶憩という日本らしい店名からすると、意外なほど異国情緒溢れるレトロモダンな雰囲気があった。 

 この心躍る非日常的な空間と、もてなされるコーヒーの味わいに、涼子はたった一度の訪問で虜になった。

涼子が通い出したのは、ここ何年かだが、一人暮らしを始めてすぐの頃から、気になっていた喫茶店だった。

 当時の涼子の生活は、平日は朝から晩まで働き、帰ったら寝落ちをする日々で、喫茶店でゆっくり過ごす日々とは、無縁の生活だった。

休みの日は、平日にできなかったことをやるため、一瞬で終わる。そんな生活を続けていたら、気づけば十年が過ぎていたのだ。

 会社を辞めてからも、長年の習慣で、朝早く目が覚めた。

早く起きてもやることがないので、なんとなく散歩をしていたところ、喫茶憩が目に入った。

 モーニングが食べられるということで、入店したのがきっかけだった。

 あれから二年。

 すっかり常連となり、今では店主の佐野とも、互いの名前で呼び合うくらい仲良くなった。

 平日の朝は、毎日のように喫茶憩に通っている。

 軽い散歩と、朝食、軽いデスクワーク。
喫茶憩のおかげで退職後も変わらず、規則正しい生活を送ることができている。

 平日の喫茶憩の朝は、出勤前のサラリーマンが朝食を取りにきたり、近所の老夫婦が散歩の休憩に立ち寄ったりしている。

人の出入りはゆったりとしているが、かといって閑散としているわけではなく程よい。

チェーン店のモーニングとは違い、バタバタしている感じはなく、優雅な時間を過ごすことができる。

 気のせいかもしれないが、服装は飾りすぎず、しかし、オシャレで、品のある人が多い印象だ。

例えば、スーツ姿の男性客の場合、どこにでもある無難なスーツではなく、色味や素材にこだわりを感じる。

見る度に違うものを着ているので、見ていて楽しい。

二日に一回は訪れるマダムも、長年愛用していることがわかる本革のバッグを持っている。

これ見よがしなハイブランドの新品ではないところに品性を感じている。

涼子は時折、そんな観察をしており、実は富裕層が通う喫茶店なのではないかと密かに思っている。

 また、店主の人柄が良いので、当然のように常連客は多かった。
 
店主の佐野は、俗にいう「イケオジ」である。

年齢的には孫がいてもおかしくなさそうだが、オシャレで若々しく、紳士的で、色気のあるおじ様なのだ。

 薄っすら白髪が交じった黒髪のベリーショートが爽やかで、端整な顔立ちを強調している。

男性的で低い声は、寝る前のラジオで聞きたいような、心を解してくれる声だ。

 そんな佐野目当てで訪れている客も少なくないのだろう。

一人でカウンターに座り、佐野と談笑する意味深な美女をたまに見かけるし、平日のお昼頃には佐野と同年代くらいのおば様方が団体でやって来ては、うるさくならない程度にはしゃいでいる。

 気づけば、涼子もご多分に漏れず佐野と喫茶憩のファンになっていた。

 涼子は、佐野が淹れてくれるコーヒーがこの世で一番美味しいと思っている。

 佐野の作る料理も、毎日食べたいくらい美味しい。それくらい、喫茶憩のコーヒーと料理は絶品なのだ。

 イケオジのいる絶品喫茶店というテーマで記事を書けば、間違いなく、老若男女、客が殺到するだろう。

 現実問題、そんなことがあっては困るので、書くことはない。何度か書きたい衝動に駆られたことはあるが、その度になんとか思いとどまっている。

 涼子は、ルーの痕が皿から消えるまで綺麗に食べきった。

「ふぅ……」

 水が半分になったグラスに、佐野がすかさず水を注いでくれる。

 ――今日も佐野さんは素敵だ。

店員としての振る舞いだとわかっていても、涼子は今日もときめいてしまうのであった。

「土曜の夜って、こんな感じなんですね。平日の日中しか知らなかったので、なんだか新鮮です。夜の雰囲気も素敵ですね」

 一日の始まりの新鮮な空気を纏った静かな朝とはまた違う、大人な空間。暖かみのあるライトがバーのような大人な空間を演出している。

気のせいか、客側からも、いつもに増してリラックスした気配を感じた。

「昼と夜とで、照明やBGMを調節しているからかな? 夜も気に入ってもらえて嬉しいよ。――ひょっとして、涼子ちゃんは夏希と会ったことがない?」

「なつきさん?」

 従業員は、たしか、大学生でバイトの陽菜ちゃんしか知らない。

 二年近く通っているが、他にも従業員らしい人がいたなんて気づかなかった。

「そうそう。私の甥。土日の夜、気まぐれに手伝ってくれてるんだよ。たまにだし、夜だから会うことがなかったんだね」

「……甥」

 甥、ということは、佐野の兄妹の息子ということだ。

なつきという名前の響きから、女の子だと思ったが、どうやら男の子のようだ。

 涼子は頭の中で佐野の甥を想像した。 

「噂をすれば」

「ん? 何?」

 カウンターの奥の方から、男性にしては、高く柔らかい声がした。

 首をかしげ、きょとん、とした表情で、涼子を覗き込む美少女がいた。

 ――いや、男の子だったか。

「……伯父さん、お客さん固まっちゃったみたい」

涼子は、想像を上回る美青年を目の前に、絶句していた。

頭の中では興奮状態にあったが、表面的には真顔で停止しているように見えていたらしい。

 ――佐野さんと同じ遺伝子!

 涼子は佐野の甥を見て、昔の佐野を見たような気分になった。

 佐野と同じ黒いシャツに身を包んだ彼は、少し長めのサラサラの黒髪を片耳に引っ掛けている。

その髪型は、美青年を美青年たらしめていた。

また、白く長い、首筋から顎にかけてのラインは、この世のものとは思えないくらいの造形美だ。

少女のように白くて透き通った肌に、女優のような鼻梁。切れ長の目の奥で光る、色素の薄い茶色い瞳。長いまつ毛が瞬きする度に揺れ、妙に色っぽかった。

 まるで、その美青年のところだけ、スポットライトが当たっているかのように輝いて見えた。

話し方や、骨ばった体型を見なければ、美少女と言われてもわからないくらい、性別を超越した美貌の持ち主だった。

 涼子は顎下で短く切り揃えられた自分の髪を耳にかけた。

何年も同じヘアスタイルであるにも関わらず、その時、急に首回りがスース―するような感覚がして、左手で首筋をさすりながら言葉を絞り出した。

「……佐野さん、あの……」

「なんでしょう」

 絞りだした涼子の声に、美青年がにこりと笑って答えた。

「ややこしいね、私も佐野だけど、この子も佐野だから」

「初めまして。ややこしいので、夏希って呼んでください」

 キラースマイルが投下された。

涼子は思わず身体の重心を後ろに倒し、危うく椅子から落ちるところだった。

何か言おうとして彰を呼んだのだが、その内容のことは一瞬で忘れてしまった。

「あ……初めまして、市川涼子といいます」

涼子はイケメン二人に囲まれ、脳内は混乱状態にあった。
しかし、脳内とは対照的に、いつも通りのやや低めの声で挨拶を済ませると、何事もなかったかのようにホットコーヒーを口に含んだ。

「涼子ちゃんって、そういえば人見知りだったね」

 彰が一人、楽しそうに笑っている。

 いつもの彰とのやり取りと比べると、少し硬かったかもしれない。

 涼子の表情は、緊張で強張っており、左右対称の顔は、見る者に冷たい印象を与えた。

涼子本人は自覚がないが、まるで几帳面な職人によって精巧に作られた人形のような無表情だった。

 夏希は特に気にすることなく、コーヒーの準備を始めた。

 こうして、伯父の方を佐野さんと呼び、その甥を夏希くんと呼ぶことになった。

 今日の仕事は、すでにひと段落していた。

急いでやることはなかったが、涼子は心を落ち着かせたくてノートを広げた。

とりあえず、来週中にやることの整理に思考を巡らせた。

 涼子が何かをしているときは、彰も夏希も話しかけてこなかった。

グラスの水が減ると、そっと注ぎ足してくれる。
このささやかな配慮が心地よく、喫茶憩の好きなところの一つでもあった。

 涼子は、文字を書き始めると、次第に落ち着きを取り戻していた。

 ふと、顔を上げると、目の前では、夏希がコーヒーを淹れていた。

 ――絵になるなぁ……。

 見惚れてしまうくらい、美しい。

 コーヒーから立ち上る湯気がまた、夏希を色っぽく見せた。少女のような繊細さがあるが、仄かに滲み出る男の色気。

薄っすらと彰と同じ遺伝子を感じた。

 ――カタッ…

 夏希を見ながら、手で遊ぶように回していたペンが床に落ちた。

 夏希はそれに気づくと、カウンター側から、素早くこちらに回って拾ってくれた。

 ――なんという素早い動き。そして、美しいだけでなく、紳士的だ。

 涼子は、夏希の華麗な動きに見惚れ、ペン先を超え、指ごと掴んでしまった。

「あっ、すみません。ありがとうございます」

「――いえいえ」

 夏希は口元を上げて微笑むと、再びカウンター側に戻った。

 涼子は、未だに緊張が取れていないことを自覚した。

 指ごと掴んでしまったことを変に思われていないか、気が気でなかった。

「涼子さん」

「はい」

 夏希に改まって名前を呼ばれ、涼子は反射的に返事をした。

 ――やっぱり、挙動不審で気持ちが悪かっただろうか。

「運命って信じますか?」

内心焦る涼子の気持ちも知らず、夏希はとんでもないことを言い出した。

 夏希は手元の作業を止め、真顔で涼子をまっすぐ見ている。

「っ……ロマンス詐欺師か何かですか?」

 涼子はむせながらも、彰の方を向いて助けを仰いだ。

 ――何がどうなったら、初対面の客にそんな質問をするの⁈

 めまいのような感覚がした。

「ははははは! そんなことはさせないよ。夏希、涼子ちゃんびっくりしてるよ。ごめんね。涼子ちゃんが綺麗だから、わからなくもないけどさ」

 珍しく、彰が声を上げて笑っている。

 涼子は心臓がバクバクしているせいで、推しのレアシーンを純粋に楽しめない。

「あ、すみません……でも、仲良くなりたいです。涼子さんと」

 ――仲良く? 

友達になりたいという意味でいいのだろうか。

『運命を信じるか』という突飛な質問に引っ張られているせいか、言葉通りに受け取っていいのかわからず、涼子の頭の中では疑問符が咲き乱れていた。

「嫌、ですか?」

「……嫌では、ないです……」

「そっか。よかった」

 夏希は満足そうに微笑んだ。

 ――なんて恐ろしい子なの……

今どきの子は、こんな風に年上を誑かすのだろうか。

 それからすぐ、夏希は他の客に呼ばれ、席に向かった。涼子はそんな夏希の様子をこっそりと窺っていた。

 どうやら席で会計をしているようだった。

喫茶憩は基本的に後会計制だが、一部の常連客は会計を先に済ませているところをたまに見かける。ゆっくり過ごし、自分の好きなタイミングで帰りたいらしい。

常連客につくづく手厚い店だな、と席で会計をする夏希を見ながら感心していた。

夏希と会話をしなければ、落ち着くと思っていたが、涼子の心臓はまだ大きく波打っていた。

耳に心臓が付いていると錯覚してしまいそうなほどうるさい。

――今日はもう、ダメそうだ。

「お会計お願いします」

 涼子は伝票を持って立ち上がった。

「涼子ちゃんまたね」

「ごちそうさまでした」

 涼子は、心の中とは裏腹に淡々と会計を済ませると、喫茶憩を後にした。











 涼子は、午前六時に起床した。

カーテンを明けると、外はまだうす暗いが、部屋は明るくなった。

お気に入りの日めくりカレンダーをめくり、日付と曜日を意識した。

フリーランスをしていると、曜日の感覚が鈍くなるので、この日課は欠かせない。

 歯を磨き、スキンケアをしながら、軽く部屋を片付けた。

それから、寝間着からラフな普段着に着替えると、喫茶憩へ向かった。

 これが、平日の朝のルーティンだ。

「おはよう、涼子ちゃんいらっしゃい」

「おはようございます」

 ――今日も、佐野さんは美しい。

 いつも通りの清々しい朝。

 一日の始まりの、希望に満ちたさわやかな店内。

 店のあちこちにある、ヨーロッパ製のランプの優しい灯りで心が癒される。
 涼子にとって、これらは愛しい日常の一部だ。

「涼子さん、おはようございます」

 ――いつもと違う美青年!

「おはようございます」

 涼子は、内心、ずっこけそうになりながらも、表面上は爽やかに挨拶を返した。

 ――確か、手伝っているのは土日の夜ではなかった?

一瞬、自分の曜日間隔がずれているのではないかと疑い、スマホで曜日を確認した。やはり、今日は水曜日だ。

「朝のバイトの子が、入れなくなってしまったんです。新年度で必修授業の時間帯が変わってしまったみたいで」

 涼子の疑問は、表情に出ていたのかもしれない。聞いていないにも関わらず、夏希は疑問に対する答えをくれた。


 シフトに穴が空いた分は当面、夏希が手伝うらしい。

夏希は朝だというのに、少しもけだるさを感じさせない。

 涼子はふと、自分の顔が浮腫んでいないかが気になり、顔にそっと触れた。

「どうぞ」 

 夏希は、朝の新鮮な空気のように澄み渡った笑顔を見せ、芳醇な香りが漂う出来立てのコーヒーを涼子の目の前に置いた。

 涼子はコーヒーカップを手に取り、香りを楽しんでから、ゆっくり口に含んだ。

「……美味しい!」

「本当ですか? よかった」

「……すごく美味しい」

 涼子は酸味がなく、コクが深いものが好きだった。

 この店のコーヒーは、中煎りだと聞いているが、彰が淹れるコーヒーは、ほろ苦く、深煎りに近い味がする。

一方、夏希が淹れたコーヒーは、彰が淹れたものに限りなく近いが、どちらかというと後味がすっきりとしていて、爽やかな風味を感じた。

目立った酸味はなく、コクがあるのにさっぱりとしている。体内に静かに染みわたっていくような味だった。

 同じ豆を使用し、同じ抽出方法であるのに、淹れる人が変わると、こんなにも違う印象を与えることがあるのかとコーヒーの奥深さを感じた。

 涼子は、一回りは年下に見える美青年を視界の端に捉えながら、どこまでも恐ろしい子だな、と思った。

 数日前、初めて会った時と比べると、少しだけ夏希に対して免疫がついた気がしていたが、悪魔的に美味しいコーヒーに解されただけかもしれない。

涼子は少しそわそわしながらも、いつものようにコーヒーを飲みながら簡単なデスクワークをした。

「よし……」

 涼子は、更新ボタンを押した。

自分で設定したノルマをやり終え、清々しい気持ちで、ふぅ、と深く息を吐いた。

すっかり集中していたようで、来店時にいた客の姿はなく、知らない顔ぶれになっていた。

涼子は昔から、集中すると何も聞こえなくなるくらい、目の前のことに没頭してしまう癖がある。

「すごい集中力ですね」

 夏希は、涼子に話しかけながら、グラスに水を注いだ。

 涼子が文章を書いている間、夏希は一言も声をかけてこなかった。

彰と同じで、空気を読むのも上手いらしい。

 この喫茶憩は、長時間の滞在を快く受け入れてくれるところに、とても助かっている。

美味しいコーヒーと料理、そっと見守ってくれる店主。唯一無二の喫茶店だ。

「ここに来るとスイッチが入るのか、家でやるより作業が捗る気がします。……すみません、いつも長居してしまって……」

「いえいえ。いつもご利用いただきありがとうございます。どうぞ、好きなだけご利用ください」

 どこかの執事のような完璧な受け答えだ。

 ――イケメン執事喫茶という記事を描いたら、この居心地のいい空間は間違いなくなくなるだろうな……
 
凝りもせず、涼子は頭の片隅でそんなことを考えていた。

「ちなみに、図書館のような静かな場所よりも、喫茶店やカフェの方が集中できることが心理学的に証明されているのはご存じですか?」

 夏希は真っ白なクロスでコーヒーカップを拭きながら、なぞなぞを出す少年のようなイキイキとした表情で質問してきた。

 涼子は執事喫茶について考えていたことを悟られないように、自然に会話に戻った。

「心理学的に証明……それは知らなかったです。でも、なんとなく、人がいる環境の方が自分を律し易いな、とは思っていました」

「その通りなんです! 他人がいる方が、作業効率が高まる現象を心理学用語では『社会的促進』というのですが、カフェのような場所では、この『社会的促進』が生まれやすい環境になっているんです。他にも、適度な騒音があると、作業のパフォーマンスが上がるとも言われていて、カフェには集中力が高まる要素が複数存在しているんです」

「――へぇ! お詳しいんですね」

 涼子は突然始まった雑学話に驚きつつ、その内容に興味を惹かれていた。

「いえいえ。喫茶店の鉄板ネタですよ」

「日常の不思議って、わかると楽しいです」

 どうやら夏希は、日常の不思議に関する小ネタをたくさん持っているようだ。

いくつか話を聞かせてもらい、二人で盛り上がった。

 涼子はこういった、何気ない学びが好きだった。

 夏希も同じようで、話してくれる姿は、少年のようにキラキラとしていて、年齢不詳な人だな、と感じていた。

 雑学話でひとしきり盛り上がり、それから派生して本好きという共通点を見つけた。

「そうだ、読書会に興味はありませんか?」

「読書会?」

「はい。名前の通り、本を紹介し合う会です。難しいことは全くなく、ただ好きな本の話をしています。紹介はせず、聞くだけの人もいますよ」

「面白そうですね」

「ちなみに、この後のご予定は?」

「この後は……特にないです」

 急ぎの仕事はなかった。涼子は少なくとも、今週中は自由に時間を使えるくらいには、計画的に仕事を終えていた。

「それなら、ちょうどいいですね。今日は活動日なので、よければ午後から一緒に行きましょう」

 目が回る急展開だ。

 夏希は楽しそうだった。雑学の話をしていた時とはまた違う、わくわくした表情をしている。

夏希の表情は微妙なグラデーションがあって、思わず見惚れてしまう。

 よければ、と言っているのに有無を言わせない爽やかな圧力を感じ、涼子は読書会に参加することになった。

 約束の時間までは少し余裕があるので、涼子は一度家に帰り、無駄な荷物を置いた。

そして、ほんの少しだけ、いつもよりも身だしなみを整えた。

 知らない会に参加するのは、勇気がいる。

しかし、夏希の紹介なので、一人で飛び込む時と違って安心感があった。

 フリーライターという職業柄、意識して人に会わないと、世界が狭くなる。

新鮮なネタを集めるために、新しいコミュニティに参加することは悪くないと思った。

 思い立ったが吉日。すぐに行動に移せるのは、時間に余裕のあるフリーの特権だ。

 ――それにしても、イケメンというのは、距離の詰め方が違う……

 嫌ではなかった。しかし、嫌ではないことそのものが問題だな、と涼子は思った。









読書会の活動拠点は、喫茶憩の最寄り駅から四駅ほど離れた場所にあるらしい。

「夏希くんは、大学何年生なんですか?」

 各駅電車に揺られながら、店員の時とは違う夏希の恰好を見て、涼子は無意識的に質問していた。

 夏希は、綿素材の白いシャツの上にゆるっとした黒いカーディガンを羽織り、足元はブラウンのスラックスを履いていた。

全体的にゆったりとした恰好のため、柔らかい印象を受けた。

 年下なのは見て明らかだったが、実際何歳なのかは聞いていなかった。

読書会は大学で行われているということだったので、恐らく大学生なのだろうと思っての質問だった。

「……そんなに幼く見えますか……もうすぐ三十なんですが……」

 夏希は、眉をハの字にして笑った。

「ごめんなさい、そういうわけではないんだけど……え、三十?」

 夏希は、シュンと落ち込んだ子犬のような顔をしている。

 落ち込む夏希を尻目に、涼子は驚いていた。

――こんな少年みたいな顔で、もうすぐ三十?

もうすぐ、ということは現在二十九歳なのだろう。

改めて、まじまじと夏希を見たが、どう見ても三十手前には見えなかった。

 まるで、不老不死の薬でも飲んだかのような、年齢を感じさせない容姿だ。

「私からすると、羨ましいです。昔から老けて見られてきたので」

 涼子は昔からどっしりと構えたところがあり、逆年齢詐欺をやってきた自覚があった。

三十歳を過ぎたあたりでやっと、年齢が涼子の見た目に追いついてきた。

「大人っぽいってことですよね、羨ましい。僕たち、交換できないですかね」

 そんな他愛もない話をしている間に、目的地に到着した。

 それは、天明大学の敷地内にあった。

「実は、この読書会って一応天明大学の公式サークルという扱いなんです。ここの学生が運営しているのですが、地域の人にも参加してもらえる珍しいサークルなんです」

 もともとは、社会心理学部生が地域の人と交流をするために創設されたらしい。

社会心理学では、フィールドワークといって、テーマに即した場所を実際に訪れ、その対象を直接観察し、聞き取り調査やアンケート調査を行うことがあるのだそうだ。

フィールドワーク時の戸惑いを少なくし、自分とは異なる生活を送る他者との接点を持つ場所としてこのサークルを創ったのだという。

 夏希は説明をしながら、部屋へ案内してくれた。

 部屋に入ると、一瞬、オシャレな友人宅に招かれたような錯覚を覚えた。

 涼子は一般的な大学の教室のような、駄々広く机が並んだ部屋を想像していたので面食らった。

 広さとしては十二畳くらいだろうか。

ライトグレーのソファをはじめ、系統が統一された家具は、その辺のホームセンターで揃えてきた安物には見えず、家具屋でそれぞれこだわり抜いて見繕ってきたであろうことが推測された。

全体的にシンプルな色味や素材ではあるが、ソファに置かれたクッションの黄色と深緑色がアクセントとして映えていた。

窓際には観葉植物まで置いてある。

まるで、住宅展示場のモデルルームのようだ、と思った。

「あ、夏希先生、こんにちは」

 黒ぶち眼鏡の青年がソファに座ったまま、こちらを見上げるようにして声をかけてきた。

青年は、立ち上がり、手にしていたスマホをポケットに入れながら近づいてきた。

一目でわかるほど長身で、ダボッとした黒いパーカーを着ているからか、立ち上がると、やたらに大きく見えた。

「こんにちは」

「先生の……彼女……?」

 青年は不思議そうに、夏希と涼子を交互に見て言った。

「残念だけど、違います。読書会に見学に来てくれた市川さんです」

「初めまして、市川といいます。いきなりお邪魔してしまってすみません」

夏希に苗字で呼ばれたことに新鮮さを感じながらも、すかさず挨拶をした。

「こちらこそ、失礼しました。我が読書会に起こしくださり、ありがとうございます! 部長をしています、新見です」

 ようやく状況を理解した新見は、簡単に挨拶をしながらペコリと頭を下げた。

「先生、見学者が来るなら先に教えてくださいよ。もっと、うまいこと魅力を伝えられるように準備したのに……」

「ごめん、ごめん。それが、今朝急に決まったから、つい。体験してもらえれば、きっと伝わるから大丈夫」

 受け入れ側の事情を気にせず、急に来てしまったことを申し訳なく感じ、涼子は肩をすくませるように立っていた。

「涼子さん、そのあたりに座っていてもらえますか」

「あ、はい」

 あと数分もすれば、メンバーがやってくると聞き、涼子は近くのソファにできるだけ邪魔にならないようにして座っていた。

「こんにちは~」

 予告通り、一人、二人とメンバーがやってきて、座っている涼子に挨拶をした。

「夏希先生、こんな美女とどこで知り合ったんですか?」

 一番年長に見える、顎髭が特徴の男が夏希に茶々をいれた。

「秘密です。いろいろコネクションがあるんですよ」

 ――秘密、なんだ。

 涼子が喫茶憩の客であることは言わないらしい。

理由はわからないが、夏希が隠すなら、涼子も言わないようにしようと思った。

「これだからイケメンはずるいよね。市川さん、気をつけてくださいね。夏希先生は見た目通りイケメンだから」

「森本さん、よくわからない営業妨害はやめてください」

 年齢はバラバラだが、夏希を中心に和気あいあいとしているようだ。

「じゃあ、時間なので始めましょうか」

 夏希の言葉を合図に皆、席についた。

「初めに、改めて紹介しますね。こちら、見学の市川涼子さんです。みなさん、粗相のないようにね。読書会メンバー側は、部長の新見くん、猫田さんと森本さんが参加しています。メンバーとしては、あと何人かいますが、彼らはたまに来る程度で、この三人が常連メンバーです。予定が合う人は来るといった、ゆるい会なので、リラックスして、楽しくお話しましょう」

 夏希は言い終わると、涼子の方を見てニコリと微笑んだ。

「そうだ、自分の紹介を忘れていました。天明大学心理学部の准教授をしていたご縁で、この読書会に呼んでもらって参加しています。なので、みんな佐野先生とか、夏希先生って呼んでくれています。教職は退いているので、現在は先生ではありませんが、好きに呼んでください」

「え、自己紹介してなかったんですか?」

 読書会メンバー側の唯一の女性、猫田が不思議そうに質問した。

「してなかったね。名前しか言ってなかった」

「夏希先生って、そういうとこ、ありますよね……」

「これだからイケメンは……」

「皆さんが、夏希先生って呼んでいたので、なんとなくそうかな、と思っていました。改めまして、市川といいます。本日は、よろしくお願いします」

「お願いしまーす」

 皆、口を揃えて言いながら、お辞儀をした。

 説明の通り、ゆるくて、アットホームな会のようだ。

 その後、部長の新見が読書会の活動について簡単に説明してくれた。



◆読書会の活動とは
 ・読書を通じて世代や性別を超えて相互理解を深めることを目的としている
 ・読んだ本や、気になる本を紹介し、意見交換を行う


 想像していたものと異なる点はなく、いたってシンプルな活動内容だった。 

 活動日は週に一度、毎週水曜日の三時だが、部屋自体は読書会の日以外も自由に使用可能とのこと。

また、物語に出てくる場所へ実際に行く聖地巡礼や、修学旅行もあるそうだ。

夏希による卒論の個別相談を受けにやってくる学生もいるという。

あくまでサークルという、単位取得に関係ない活動ではあるが、元准教授の夏希が所属しているため、それを目当てで参加する人もいるらしい。

 好きな時に来て、好きなことについて語り合い、自分の知らない情報を入手できる。

 なんて素敵な場所なのだろうと、涼子はわくわくしていた。

「時計周りで始めましょうか。猫田さんからでいいかな」

 夏希の合図により、本の紹介が始まった。

「はーい。私が紹介するのは、心理学の雑学本です。タイトルは、『それ、「心理学」で説明できます!』です。書店で平積みされているのを見て、気になって買っちゃいました。どれも、興味深い内容でしたが、『良好な人間関係を築くためには空腹を避けるのがいい』という内容が面白かったです。ハーバード大学のナーグラー博士は『空腹を満たせば、ケンカの大半は回避できる。ケンカすべき相手は、実は、血糖値なのだ』と言っているらしいです。確かに、思い返すと、お腹が空いているとき、母から何か言われると、満腹時よりも態度が悪くなっているような気がしました。なので、これから誰かにお願いをするときは、まずは空腹を満たしてからにしようと思います。皆さんも、私のことを空腹にさせないでください」

 猫田は言い終わると、満足気な笑顔を浮かべた。

「猫田さん、ありがとう。心理学の雑学本とは、さすが、心理学部生だね。ちなみに、友人関係もそうだけど、ビジネスでも似たようなことがある。例えば、商談を持ち掛けられている側は、接待で相手にご馳走をしてもらうと「ご馳走してもらったから……」というような気持ちが働いて、交渉を呑むことがある。これを心理学では「返報性の法則」と言いますが、この場合、空腹を満たしている上、「返報性の法則」も働いているので、接待をしない交渉よりも、商談の成約を獲得しやすくなっているんです。ビジネスマンがよくやっている手法ではありますが、日常でも使えるテクニックなので、皆さんも、やってみるといいですよ」

「さすが、夏希先生。講義みたいになってる」

 森本が茶化す。

「すみません、つい。元、職業病ですね」

 夏希は、照れたように笑った。

「でも、確かに猫ちゃんはわかりやすいよね」

「お菓子をあげると、目がきらきらしますよね」

 森本と新見が隣同士で話している。
 猫田はどうやら、みんなから「猫ちゃん」と呼ばれているらしい。

 確かに、白色のアメリカンショートヘアに少し似ていると思った。

完全に苗字の猫にイメージがもっていかれているが、聡明さを感じる整った容姿のなかに溌剌とした人懐っこさを感じる。

 一見、高嶺の花のように見えるが、気取らないところが愛されるのだろうな、と涼子は感じていた。

「俺は、空腹でも平気な方だから、そんなに変わらないかもなぁ」

 森本は顎髭を触りながら、天井を見上げて考えるように言った。

 涼子も自身の場合はどうだろうか、と考えてみたが、考え事をする時はいつも、何かを食べている気がした。

「私も猫田さんと同じで、空腹だと何をしてもダメです。怒りっぽいっていうか、そわそわして集中力がない気がしますね」

「ですよねー。なんか、男の人ってめちゃくちゃ食べる人と、食べなくても平気って人が両極端なイメージがありますよね」

「空腹を感じる人とそうでない人の差ってなんなんでしょうね」

「空腹の耐性に性差ってあるんですかね。女性は、女性ホルモンの増減で食欲が増えるって言うじゃないですか」

 次から次へと、疑問が出てくる。

 ――楽しい……!

 涼子は、表立ってはしゃぎはしなかったが、楽しくて仕方がなかった。

 フリーに転身してから、職場でこういった何気ない、なぜなぜタイムがなくなってしまったことで、自分がこの手の会話に飢えているらしいことに気づいた。

 最初は、飛び交う意見に耳を傾けることに全集中していた涼子だったが、雰囲気に慣れてくると、メンバーの観察をする余裕がでてきた。

そこでやっと、新見が書記をしていることに気がついた。

 新見がPCで入力しているものを一同はプロジェクタースクリーンで眺められるようになっている。

紹介者、紹介する本、手に取ったきっかけ、読んで感じたこと、それを読書会で共有した際に議題に上がったこと等をメモしているようだ。

「他にも日常の心理学ネタがたくさんあって面白かったので、気になる方は、お声かけくださーい。お貸しします」

――後で、猫田さんに話しかけよう!

「次は、夏希先生」

 猫田の紹介が終わり、次はその隣に座っている夏希の番だ。

 ――夏希くんは、どんな本を読むのだろう……

 午前中、喫茶憩で話している時から気になっていた。涼子はその答え合わせができる瞬間を密かに楽しみにしていた。

「紹介するのは、『暇と退屈の倫理学』で、最近数年ぶりに再読しました。この本は、タイトルの通り、暇と退屈の違いについて書かれたもので、それぞれどういった状況を指すのかや、それらを感じるようになった時代背景が記載されています。そして、どのようにして、それらと向き合って生きていくのかが書かれています。現代人が無意識に感じている不安に対するヒントが書かれており、人生について考えるきっかけになる本だな、と改めて感じました。思考の体操にちょうどいいので、これはたまに読み返しています」
「私も好きです! 哲学というと、難解で眠たくなってしまいがちですが、これは読者を取りこぼさず、一緒になって考え、進んでいけるような内容ですよね!」

 夏希が言い終わるのと同時に、涼子は、前のめりになって発言した。

「市川さん、哲学に興味がおありなんですか?」

「はい。哲学あっての人生です」

「すごい言い切り」

 涼子の興奮した様子に、読書会メンバーは少々面食らっていた。

「市川さんも読まれているんですね」

 新見が、へぇといいながら議事録を書いている。

「たしか、東大&京大ですごい人気だったような」

「そうそう、そんな帯がついて出回っていたね。特に人生のモラトリアム期である大学生は一度読んで見るといいかもしれない」
「先生って、哲学も詳しいんですね」

「いや、そういう訳ではないんだけど、これは結構読みやすくて好きかな」

「そういえば、心理学と哲学ってどう違うんだ? 多分、違うんだろうけど、なんか似てる」

 森本が顎髭を左手で撫でながら疑問を投げかけた。森本は考えごとをする際、顎髭を触る癖があるらしい。

「わかりやすくいうと、心理学は『科学』で証明できるもの、哲学は『思考や論理』のようなもの。心理学は哲学から派生したものとも言えます。哲学者で有名なプラトンは、『心の動きは、イデアの世界(真・善・美の世界)にあった霊魂が脳にはたらきかけることから生まれる』と考えていました。これは、霊魂という実体が存在すると考えていたからです。なので、しばらくは哲学的な思索を通じて「こころ」の実体を探求していました。しかし、『心の動きは脳のはたらきによって生み出されている』ことがわかって、心理学と哲学は区別されることになり、人間の心や行動のメカニズムを実証的に研究する学問としての心理学と、抽象的な思考と論理でこころを導き出す哲学というすみ分けがされました。つまり、どちらも同じ人間を追及する学問ではあるけれど、アプローチ方法が異なるということです。なので、今でも心理学と哲学は、切っても切れない関係であるといえますね」

「さすが、夏希先生」

「よくある質問なので」

「先生って、専門について話す時が一番イキイキしてますよね」

 猫田が少し意地悪な笑みを浮かべ、上目遣いで夏希を見ている。

 森本と新見も、うんうん、と頷いているので、そう、らしい。

「一応、それなりに学んできましたからね」

 教員時代を思い出してか、夏希は遠い目をして微笑んだ。

「そしたら……順番だと市川さんですが、どうします? 今日は聞くだけにしますか?」

「……私も紹介していいですか?」

「もちろんです。お願いします」

 どの本を紹介するか、読書会に誘われてから、今の今まで考えていた。

好きな本は、自分というものが出てしまいそうで、怖かった。

こういう場所で紹介するのに適した本はなんだろう。

直前まで不安があったが、夏希の紹介を聞いて、涼子は紹介する本を決めた。

「哲学の話が出てきたので、その流れで。紹介するのは『悲しみよこんにちは』です。みなさん、お若いので、ご存じないかもしれませんが……」

「タイトルは聞いたことがありますね」

猫田は、うーんと思い出すような表情をした。

「フランス文学ですね……初回からサガンとは」

夏希だけは読んだことがあるのか、感心したような表情をし、小刻みに頭を上下に揺らしている。

「はい、おっしゃる通り、フランス文学の名作で、十代の女の子の、ひと夏の思い出について書かれた小説です。主人公の家庭環境は複雑で、一見、重苦しい内容になりそうなのに、一貫して、なぜか爽やかなんです。主人公は納得できない家庭環境を変えるべく、色々画策するのですが、その中で表現される少女の心理描写に切なくなり、ラストではタイトルが胸に響きます。フランス文学ってあまり馴染みがなく、万人受けはしませんが、私が読書をするきっかけを与えてくれた本です」

 涼子は、哲学に夢中になるきっかけをくれた本との出会いを、今でも鮮烈に思い出すことができる。

 涼子が高校二年生の時。

 近所の小さな書店の棚で一冊だけ光って見えた。それが、『悲しみよこんにちは』という小説だった。

フランスの有名な作家が書いた作品で、映画化もしているというのは、なんとなく知っていた。

一センチにも満たない細い背表紙なのに、その小説のタイトルだけが目に入り、「今すぐ買わなければ!」という、正体不明の使命感に襲われた。

 読んでみて、衝撃を受けた。

 主人公は幼いころに母を亡くしている、自由奔放な十七歳の女の子。

その父はプレイボーイで愛人がいた。主人公と父、そして、その愛人で夏のバカンスに行く。

そこに途中から父の再婚相手(亡き母の旧友)が合流し、主人公の母親のようにふるまうことで、主人公の自由が脅かされることになり、それを阻止しようとする話だった。

 カオスすぎる話に、最初は頭が爆発しそうになった。

 しかし、こんなに泥沼な展開なのに、なぜか清涼感がある。読み終わった後も、しばらく残る、タイトルの余韻。

 それ以前も、本は好きだったが、ここまで心を持っていかれたのは、初めての出来事だった。

しかも、それは、作者が自分と同じ十代のときに書いた物語だと知った衝撃は、今でも忘れられない。

 それから涼子は、サガンの本を読み漁り、サガンという人について調べた。

調べれば調べるほど、自分とは、かけ離れた人物だということがわかった。

 彼女の著書は『愛』と『孤独』について書かれていた。どれも面白いが、理解できない価値観、共感できない感情ばかりだった。

同じ人間であるのに、こんなにもわかり合えないことがあるのかと、読めば読むほど衝撃を受けた。

 この出来事が、涼子の人生の『核』のようなものになっている。

 サガンの言う、『愛』というものは自分にとって、どんなものだろうか。

『愛』というものを知りたい。「なぜ?」と問い続け、自分なりの答えを知りたい。

 その思いが、今日までの涼子を突き動かしている。

 会社員としての生活も悪くはなかったけれど、一つのことに対して、夢中になって考え、それを文章に落とし込む今の仕事は天職であると思っている。

単調な作業はあれど、興味のある分野について文章を書くという仕事を、涼子は、とても気に入っていた。

「直接的に本書と哲学は関係していないのですが、サガンと出会って、本を好きになり、哲学にも興味を持つようになりました。愛とは何か……自分なりに哲学をするようになったんです。ずっと昔から、愛をテーマにいろんな人が様々なことを論じています。正解がないもどかしい問であることは理解しています。――でも、それが何であるのか、自分なりに知りたいと思っています」

 パチパチと、拍手に包まれていた。

「学者みたいですね」

「素晴らしい紹介、ありがとうございます。正直、フランス文学ってちょっと難しそうなイメージで読んだことがなかったです。でも、『悲しみよこんにちは』は読んでみたくなりました。帰りに書店で探してみます」

 新見は関心しながら、議事録を取っている。

「愛って、なんなんですかねー」

「森本さん『愛してる』って感覚わかります?」

「猫ちゃん、俺のことバカにしてるね? わかるよ! こんなんでも妻子持ちなのでね!」

「……愛を知りたい、か」

 皆、ぶつぶつと好きなことを言っていたが、新見の合図で森本の番になった。

 涼子は、少し緊張しつつも、自分の想いをぶつけることができて安堵していた。

我に返ると、なかなかの暴走をしていたのではないかという不安もあったが、誰も引いたような素振りを見せていないので、きっと大丈夫だろう。

 SNSでは感じることのできない、リアルな体験。

 この場所に来て良かったと思った。

「心理学、哲学、フランス文学、と賢そうな紹介の後で非常にやりにくいんだけど……俺は俺の好きな作品を紹介するわ。紹介するのは、東野圭吾の『宿命』って小説」

「森本さんってほんと、東野圭吾が好きですよね」

 すかさず、新見が言う。

「そりゃあ、面白くってハズれないからね。俺の読書歴はほぼ、東野圭吾だから」

「森本さんが読書会に来てくれたら、読んでなくても東野圭吾通になりそう」

「おう、任せてくれ。しっかりご紹介させていただきますよ」

 『宿命』の主人公は、警察官として、ある事件に関わり、十年ぶりに高校時代のライバルと再会する。
そのライバルは初恋の女性の夫であることを知るという、皮肉な巡り合わせで物語は始まる。そして、捜査をしていく中で、さらに衝撃的な事実を知ることとなる。

 森本いわく、「最後の一行がやばい」らしい。

 森本の紹介は、感覚的な説明が多く、決して語彙力があるとは思えなかったが、身振り手振りを交えた熱弁で、興味を惹かれるものだった。

「これ、初版は一九九三年なんですね」

 新見がPCで検索した結果が、スクリーンに映し出されている。

「あ、そんなに昔なんだ」

 紹介した森本も驚くほど、昔の作品だった。

 ウィキペディアによると、著者がデビューしたのは、一九八五年。

その後、『秘密』で直木賞を受賞して有名になったのが一九九九年のようなので、初期の作品のようだ。

 この『宿命』を読むだけで、東野圭吾のファンになるから絶対に読んでほしい、と森本から念を押された。

 涼子以外のメンバーは、森本の熱い紹介に慣れているのか、リアクションはあっさりしていた。

涼子としては、ここまで熱弁をされたら、読まずにはいられないので、この後は本屋に行くつもりだ。 

 最後は部長の新見が紹介する番だったが、時間が押していたため、次週へ見送る形となった。

各自、雑談をしながら、お菓子のごみを捨てたり、食器を洗ったり、身の回りの片づけをした。

 涼子は、片づけをしながら、自然な会話の流れで、猫田から本を貸してもらうことに成功した。 

書店で買うのもいいが、人から借りるのもコミュニケーションの一つだ。

 これが、読書会唯一の女性メンバーと仲良くなるきっかけになればいいな、と涼子は密かに考えていた。

「それじゃあ、新見くん、戸締りよろしくね」

「はい」

「では、行きましょうか」

 夏希が涼子の方を見て言った。

「えー夏希先生、これからデートですかぁ?」

「帰り道が一緒なんだよ」

「ふぅーん」

 猫田が不服そうに口をすぼめ、上目遣いで夏希を見ている。

 夏希の方を見ると、やや困り顔で薄く笑っていた。

「それじゃ、また来週」

「はーい」

夏希は猫田の態度を気に止めることなく挨拶をし、涼子とその場を後にした。

「楽しめました?」

 二人は横並びで歩き、駅に向かっていた。

「はい! とっても。今まで本の話をする相手がいなかったので、新鮮でした」

「なら、よかったです」

「夏希先生も、見れましたし」

 涼子は悪戯っぽい笑顔を夏希に向けた。

「……勘弁して下さい」

夏希は、少し照れているようだ。

「憩での夏希くんと、夏希先生は別人に見えました。あんな風に学生と話しているのを見ると、いい先生で慕われていたんだろうなって」

「慕われていたかはわかりませんが……好きなことを誰かと話すのは楽しいです」

「辞められたのは、ご事情があるんですか? ……あ、すみません、言いにくかったら、言わなくて、大丈夫です」

 涼子は口に出してから、しまった、と思った。

 先ほどの夏希を見ると、なぜ教員を辞めてしまったのだろう、と不思議に思った。

 しかし、深く考えないまま質問してしまったことをすぐに後悔した。

「大した理由はないですよ」

 好きなことを仕事にするのも、生徒と関われるのも楽しい。

しかし、専門と関係のない業務に費やす時間が多いことをもったいなく感じ、准教授になってすぐ、退職したのだという。

 大学の先生をしていたと聞いて、すごいと思ったが、まさか准教授だったとは。

 そして、准教授になってからすぐに辞めたということに、さらに驚いた。

そもそも准教授ってこんな若くしてなれるものなのか、と涼子は疑問に思った。

「なので、病んで辞めたとかではないのでご安心ください。自由人なので、拘束時間が長い職場が向いていなかったんですよね。准教授時代の生徒だった新見くんが誘ってくれたおかげで、こうして今も、心理学を志す仲間と触れ合えています。これくらいの関わり方が僕には向いているようです」

「若いのに達観していますよね」

「本当ですか? もう若くもないのですが、『若いもんは堪え性がない!』って言われるやつですよ、これ」

「自分にとって何が大事で、どうしたいかがわかって行動に移すのって、なかなかできないと思います。――今は、喫茶店が本業なんですか」

 その割には、全然出勤していないな、と涼子は自分で聞いておきながら不思議に思った。

「いえ、憩はほとんど趣味というか、気分転換で顔を出しているだけです。普段は、探偵のようなことをしています。とは言っても、そっちも利益は少ないので本業とも言えないかもしれませんが」

 主な収入源は株や、家賃収入だという。

 つまり、噂のFIREという生き方である。

 FIREとは経済的自立と早期退職という意味があるが、資産運用で生計を立てる人のことを指す。

 こんなに若いのに、と涼子は驚きが隠せない。

 ――世の中の人が、手に入れたいと思うものを、この人は一体どれだけ手にしているんだろう……

「……若いのに、本当にすごい」

 心の底から、素直に出た言葉だった。

「そんなに変わりませんよ」

「いや、全然変わります!」

 急に圧の強い返事をした涼子に面食らったのか、夏希が一回り小さくなったように見えた。

「……感じ方は、人それぞれだと思います……涼子さんだって、自分がどうしたいか考えて、行動に移したってことですよね」

「……まぁ、そうですね。夏希くんのように、うまく資産運用とかはできないけど。文章を書くのが好きだから、それで生活できているというのは、有難いことだと思っています」

「いいですね、好きなことを仕事にできるのって」


「それは、同感です」


 夜が始まりかけていた。
 数日前よりも日が伸びた気がした。 

 涼子は、春のぬるい風に、少し切ないような夕方の匂いを感じていた。