〝卒業式のあと、あの美術室で〟

 その言葉一つで、私の頭の中には由貴先輩が欲しがっているであろう答えがすぐに浮かび上がってきた。

 それは今もずっと後悔の念にかられている、私の心の中の、わだかまりの話──。


 由貴先輩が卒業する日、私は彼に告白するつもりだった。

 だけど、お付き合いがしたいだとか、先輩の恋人になりたいだとか、そんなことを思っていたわけじゃない。

 入学当初から、由貴先輩が密かに女子たちの間で人気だったことは知っていたから。

 でも、同じ美術部の後輩として、せめて最後に想いを伝えたかった。

 美術部で過ごした一年間が、私にとってとてもかけがえのないものになったこと。

 寝てばかりの先輩が一度だけ私に絵を描くコツや色の出し方について教えてくれたことが本当に嬉しかったこと。

 そして、いつもやる気のない姿ばかり見てきたけど、そんな由貴先輩が大好きだったってこと。

 それを、卒業式のあとに全部伝えるつもりだった。


 『卒業式が終わって時間があるときに、少しだけお時間をください。いつもの美術室でお待ちしています!』

 前日に由貴先輩に宛てたこのメッセージを送るだけでも、どれだけ緊張したことだろう。

 『うん、いいよ。式終わったら速攻で向かうね』

 由貴先輩からそう返事が来たあの日の夜は、ソワソワして一睡もできなかった。

 明日から先輩はもう学校には来なくなって、だからもちろん美術室にもいなくなる。 いつも一番日当たりのいい席で伏せて眠っている由貴先輩を見ることは……もうできないんだ。

 そんな寂しさを抱えながらも、だからこそ最後くらいちゃんと想いを伝えようと決心した。


 ──だけど、できなかった。

 『あたし、由貴先輩に告白しようと思うんだよね』

 当時同じクラスでいつも一緒にいたグループの一人が、卒業式の日にそう告げた。

 あのときの私は友達関係もうまくいっていなくて、唯一属していたグループにしがみついていた。 嫌われないように毎日必死になって、本当はあまり興味がないジャンルの話題にもついていけるように勉強して。
 
 だから言えなかったんだ。

 私も今から由貴先輩に会いに行こうとしてるって。

 私だって由貴先輩のことが好きなんだって……どうしても言えなかった。


 弱虫だったあのときの私は、もしもそのせいで関係がこじれて一人ぼっちになることを何よりも恐れた。

 好きな人を横取りした、と謂れのない噂を広められるのが怖かった。


 『ねぇ、美羽?由貴先輩がどこにいるか知らない?』

 『え?』

 『だってほら、美羽と同じ部活じゃん由貴先輩って』

 『あぁ、えっと……』

 『ねぇお願いー!知ってたら教えてー!』

 『……うん。えっとね、美術室にいると思う……たぶん、だけど』
 
 そんな臆病者の私は、由貴先輩の居場所を教えて、友達を見送った。

 嬉しそうに教室を飛び出していく友達の背中を、ただ羨ましそうに見つめることしかできなかった。


 それからも由貴先輩に連絡をすることができなかった。

 由貴先輩のことが好きだといって告白しに行った友達は、その後進級してすぐに同じ学年の男子と付き合ったのに、私はそれでも当時のことを打ち明けられないまま、由貴先輩にも伝えなかった。



 「……俺、ずっと嫌われたのかと思ってたよ」

 「ちがっ、嫌ってなんかないです!嫌うわけ、ないじゃないですか」

 「まぁ確かに。俺、美羽ちゃんに嫌われるようなことした覚えはないけど。いや、でもいつも寝てたし……」

 「ただ、これは今もなんですけど、あのときの私は本当に弱虫で、いくじなしで、友達に嫌われたくなくて……っ、自分を守るのに必死だったんです」

 「……」

 「人生ではじめて舞い込んできた青春を、自分の手で殺したんです」

 由貴先輩がいなくなった美術室は、何か大事なものをなくしたみたいに寂しくてたまらなかった。

 その悲しさを感じるたびに、卒業式のあの日に告げられなかった思いが行き場をなくして後悔の念へと変わっていった。

 本当に大事なものは失ったあとに気づくという言葉は本当で、私はあのときの過ちを一生許せないまま今日まで過ごしてきている。


 だから、社会人になったら強くいられるようになりたかった。

 もうあんな思いはしないぞって、そんな気持ちで入社式を迎えたのに。




 「──じゃあさ、今からもう一回はじめようよ。美羽ちゃんの青春」

 「え?」

 「だって別に青春は十代まで、なんてルールどこにもないでしょ?」

 ハッと閃いたように、手のひらをポンと叩きながらそう言った由貴先輩。

 「美羽ちゃんはどんな青春がしたかったの?一緒に自転車乗るやつ?制服着てテーマパーク行くやつ?それとも夜の学校に忍び込む系?」

 「……ふふっ!なんですか、その例え」
 

 少しずつ鬱々とした感情に飲み込まれそうになっていた私の中に、先輩の明るい声がすんなりと入ってくる。

 二十四年間ずっとモヤモヤしていたものが、一気に晴れた気分になった。


 「全部やろうよ、あのときできなかった青春」

 「……っ」

 「その代わり、俺ももう一回やり直させてよ。美羽ちゃんとできなかった青春を」

 「わ、私と……?」

 大きく目を見開いて、背の高い由貴先輩を見上げていた私の頭をポンポンとなでながら、先輩はそっと手を差し出した。

 私よりも断然大きくて、少し骨ばった由貴先輩の手。


「俺はね、例えば美羽ちゃんが今度また終電を逃すようなことがあったら一番に呼んでもらいたいし、そうやって頼られる存在になりたいし、なんなら終電まで働かせるような会社なんて辞めて俺のところにおいでよってカッコつけたいし。あぁそうだ、俺のアトリエにも招待したいし」

 「ちょっ、ちょっと待ってください!由貴先輩、それ本気で言ってますか!?」

 「……当たり前じゃん、大真面目に言ってるよ。え、なに冗談っぽく聞こえた?」

 「だ、だだ、だって由貴先輩って昔からすぐ〝冗談〟っていうのが口癖だったじゃないですか!それに、由貴先輩のその口ぶり……まるで私のこと、その……」

 「──うん。好きだよ、ずっと。美羽ちゃんのこと」



 そのとき世界がグルリと回ったような気がした。

 心臓がドキドキと音を立てて、苦しいくらいに体が熱を持つ。


 ……あれ、私、今日って最悪な一日じゃなかった?

 だってはじめて一人で挑んだ商談は惨敗だったし、上司にも怒られた。

 挙げ句の果てに終電まで逃してしまって、ほんの少し前までどん底にいた私が、今、高校時代からずっと好きだった人に告白されている。


 「まあ、だからさ?まずははじめの第一歩として、俺と青春リスタートさせてみない?」

 「ほ、本当にいいんですか!?私、今度また終電逃したら本当に由貴先輩に連絡しちゃいますよ!?私本気で先輩のこと呼びつけちゃいますよ!?」

 「アッハハ!いいね、呼びつけてよ。寝ててもすぐ飛んでいくよ」

 「私ってすごく単純だから、由貴先輩が言ったこと真に受けちゃいますよ?本当に私と、青春してくれるんですか?」

 「うん、はじめよ。ただし俺とだけね?」


 そう言って笑った由貴先輩の優しい笑顔を見て、私は目の前に差し出されていた手をギュッと握った。

 なんだか夢を見ているみたい。

 今、目の前で起きていることは全部現実だって分かっているのに、足元がふわふわして落ち着かない。

 人生ではじめて終電を逃して不安でたまらなかったはずなのに、今、最後の電車を見送ってよかったと心底思えた。

 だってこうして由貴先輩と再会できたから──。


 私も、ここで変わらなくちゃ。

 あのとき、弱虫だった高校生の私。

 青春を謳歌できなかった私。

 今からだって、遅くはないよね?



 まだまだ全然格好いい大人じゃないけど。

 社会に出た今でも、世の中は怖いものだらけで、うまくいかないことだらけで、うんざりしちゃうことのほうが多いけど。


 「ねぇ、美羽ちゃん。美羽ちゃんがまた終電を逃して、俺を呼んで、こうしてあと三回一緒に帰ったらさ。そのときは聞かせてくれない?俺の卒業式のあの日、美術室で何を伝えようとしてくれてたのかを」

 「……っ」

 由貴先輩の熱い視線から、逃れられない。

 目を逸らしてしまいたいのに、それができないのは当時の私が頑張ろうとしているから。由貴先輩のことが好きだったのに、その気持ちに蓋をして友達に譲った、臆病で、愚かな私が、今ここで頑張らないとと必死になっている証だ。


 「分かり、ました。あと三回、ですね──」

 小さく頷きながらそう言うと、由貴先輩は少し安堵した様子で微笑んだ。


 「そのときは俺のアトリエにおいでね。そこで聞かせてよ、美羽ちゃんの言葉で」

 あのとき花を咲かせられなかった私の青春が、今、そっと動き出す。

『青春、リスタート【完】』