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 数分前まで絶望に満ち溢れていた私が、今、高校時代の先輩と一緒に夜道を歩いている。

 綺麗な星達が光り輝く中、私はただただ緊張していた。

 「こんな時間まで仕事してたの?どんな仕事してんの?大変なの?」 


 あのときと変わらない、疑問文の多い由貴先輩の会話。

 当時の私はいつも先輩の多い質問にあくせくしながら答えていて、そんな私を上からそっと見おろす先輩の視線が……とても心地良かった。


 「仕事で遅くなっちゃいました。営業職なんですけど、多分私、向いてなくて……」

 同期は半年間の研修を経て、みんなそれぞれ希望どおりの本社勤務になっていた。

 それに対して私だけが、こんな都心から離れた小さな支店に異動を言い渡されてしまった。

 三階建てのボロボロ社屋で、フロアについているエアコンは三十年前のものだそうだ。今まで見たこともないような黄ばみかたをしていて、いつ発火してもおかしくないほどガタがきてしまっている。

 そしてこの夏いよいよ冷風がこなくなって、業者に修理をお願いすると『買い替えたほうが何倍も早いし安いですね』と即答されてしまった。

 そのことを本社に伝えてもいまだに購入許可は下りないまま、きっと忘れ去られているに違いない。


 私だって本当は都心のきれいなビルの中で働きたかった。

 お昼は同期や同じ部署の先輩たちとオシャレなお店に入ってランチをしたかったし、『本社勤務』っていう肩書きにすら憧れる。


 「同期がみんなすごすぎて、私は仕事できないっていうレッテルを貼られちゃってるんですよね……ハハッ」

 実際に同期の水嶋くんは期待のホープとしてバリバリ営業成績を伸ばしているし、小川さんは会社随一のエリート街道と言われる経営企画部への配属が決まって、毎日忙しそうだけれどとても充実した日々を送っている(と、彼女のSNSに書いてあった)。


 それに比べて私は……と、言いかけてやめた。

 久しぶりに会った由貴先輩に、これ以上恥をさらしたくはない。


 「人間、誰だって得手不得手ってあるでしょ」

 「そうかも、しれないですけど」

 「俺なんてサラリーマンとか絶対向いてないから意地でも会社勤めなんかするかっていう執念でここまできた、みたいなところあるよ?」

 「そ、それはだって由貴先輩は昔からすっごい絵が上手だったじゃないですか!それを活かさない手はないですよ!」

 運動が苦手で、小さいころから絵を描くことが好きだったからという理由で足を踏み入れた美術部には、いつも眠ってばかりの由貴先輩がいた。

 どうやら他の部員はみんな辞めてしまったようで、私は一年生にして由貴先輩から副部長の座を渡されたのがはじまりだった。

 いつだってやる気はなくて、二言目には『眠い』を繰り返す居眠りな先輩だったけど、絶対に提出しなくちゃいけないコンテストには必ず作品を仕上げて、そして毎回賞を取っていた。

『これ毎年同じトロフィーなんだよな』と言って、由貴先輩は金のトロフィーを私の誕生日プレゼントにしようとして怒ったこともある。

 『冗談だよ』って笑いながら、由貴先輩がくれた黒革の腕時計は……今も私の左腕についている。

 由貴先輩は気づいてくれているのかな。


 「懐かしいな、高校時代。もう何年前だっけ?六年?いや、七年か?」

 「由貴先輩、寝てばっかりでしたけどね」

 「ハハッ!今も俺めっちゃ寝るよ。多分毎日十時間くらい寝てる気がする」

 「ね、寝過ぎです!それって逆に体がダルくなっちゃうやつです!」

 「俺さ、あの埃っぽい美術室で美羽ちゃんといたあの時間が好きだったんだよね」

 「……っ!」

 「めっちゃ眠気誘われんの。居心地が良いっていうの?あの感じはもうずっと味わえてないなぁ」


 由貴先輩が何気なく発したその言葉に、私の顔が急激に火照りはじめる。

 深夜の生ぬるい夏の夜風じゃ足りなくて、パタパタと手で顔を仰いでなんとか紛らわせた。



 「そんなこと言ったって、由貴先輩がちゃんと勧誘してくれなかったから、結局私の卒業と同時に廃部になっちゃいましたけどね」

 顧問の先生から『部員の勧誘をしないと廃部になるぞ』、と再三言われていたのに、由貴先輩は一度だって勧誘活動をすることのないまま、あっさりと私だけをあの古びた美術室に残して卒業してしまった。


 だけど、私も由貴先輩と二人きりのあの部活の時間が好きだった。

 日当たりだけは抜群の、絵の具の匂いと油の匂いが少し混ざったあの空間が……大好きだった。


 「だって俺、もともと勧誘する気なかったから」

 「え?」

 「あの部は俺と美羽っちゃんだけがよかったから。だからむしろ他のやつ絶対入ってくんなって思ってた」

 「そ、それって……」

 「高校時代のあの美術部は、俺と美羽ちゃんだけのものってこと」

 「……っ!」


 真っ直ぐに前を向いて歩きながら、由貴先輩はそう言った。

 途端に私の心臓の鼓動が早くなっていく。

 弱虫だった自分のせいで花を咲かせることのできなかった当時のあの気持ちが、再び蘇ってこようとする。

 チリリと鳴く鈴虫の声と、二人の歩く音だけがいやに大きく耳に届いた。



 「そ、そういえば由貴先輩のあの虫さんシリーズの絵、冬のボーナスで買うのが私の目標なんですよね!」

 「……」

 「全部かわいいんですけど、私が欲しいのはてんとう虫さんの絵で……」

 「──ごめん、話題が変わる前にもう一個だけ聞いていい?」

 なんだかこの空気を変えたくて、大雑把に話題を変えた私にストップをかけた由貴先輩。

 それまで一定のリズムで歩いていた由貴先輩は足を止めて、私の目の前に繰り出した。


 「えっと、先輩……?」

 「それに答えてくれたら、虫さんシリーズの絵全部あげるから」


 深夜の暗がりにもすっかり慣れて、今は由貴先輩のことがハッキリと見える。

 背を屈めて上目遣いで私を見る先輩の表情は、真剣そのものだった。


 「なんであのとき、俺のところに来てくんなかったの?」

 「……」

 「俺、ずっと待ってたよ。卒業式のあと、あの美術室で」