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「──嘘、やだ、待って!」
自分の虚しい声と一緒に、今日最後の電車が目の前を通り過ぎていった。
社会人二年目。
人生ではじめて〝終電を逃す〟という如何にも社畜めいた言葉が脳裏をよぎる。
電車のホームの生ぬるい風も、空気がこもった重たい匂いも苦手だ。
けれど、そんな場所に一人取り残された私は、一週間蓄積され続けた疲労も、今日の最悪な出来事の記憶も、全部押しのけて一気に不安が襲いかかってきた。
「ど、どうしよう。始発っていつだっけ……っ」
慌てて電車の時間を調べようとバッグの中からスマホを取り出した。
けれど、いくら画面をタップしてみても一向に電源は入らない。そして追い討ちをかけるように充電マークがピコピコと表示されてしまった。
「最悪だ」
本当に今日は最低最悪な一日だった。
大事な商談だったのに、担当者からの細かい質問に答えられずに契約を逃した。
はじめて一人立ちして挑む、私にとっては記念となる日だった。
規模は大きくなくても、それでも大切な商談だったのに、その結果は『君、この仕事向いてないんじゃない?』という哀れみにも近しい相手からの言葉をもらっただけで終わってしまった。
それだけじゃない。
午後からの会議がスケジュールから抜けていて何の準備もできないまま挑んでしまい、みんなの前で上司にしこたま怒られた。
先輩は『そんな日もあるよ』と慰めてくれたけど、結局一つミスをして遅れを取ると仕事は溜まっていくばかりで、どの作業から片付けていいのかさえ分からなくなって、今日は金曜日ということも相まってこんな時間までオフィスにこもっていた。
「ここからタクシーを使ったら……ダメだ、今月分の食費が消えちゃう」
駅を出て、街灯だけが頼りの暗い道を歩いていく。
終電を逃したとき、他の人はどうやって過ごしているんだろう。
ネカフェ?それともカラオケ店?どちらも少なくともあと三駅は歩いていかないと辿り着けない。
重たい足を引きずるように宛てもなく歩いている私の体力は、もう限界に近かった。
そんな絶望に近い何かを背負って歩く私の目の前に、怪しいネオンの効いた看板が目を引いた。
「おひとり様、休憩オーケー……かぁ」
きっとここはラブホテルだ。
かなり古いのか、この看板もずいぶんとくたびれている。
今まで一度も入ったことはないし、今だって本当はこんな怪しいところに一人で入りたくはないけれど、朝まで外をうろついているわけにもいかないし、睡魔と空腹と疲労の三コンボが何より私を苦しめてくる。
「……ハハッ。なんかダサいな、私」
大人になったら、もっと心に余裕ができて、自立した女性になれるものだと思っていた。
一人で家を借りて、丁寧な暮らしをして、平日はしっかりと会社の役に立てるような仕事を熟して、土日はジムに通ったり友達と遊んだり、キラキラした大人になれるんだって信じていた。
そんなふうにちゃんと自立してる女性になれたら、もっと私自身が強くなれると思ったのに。
だけどやっぱり社会人になったところで、このクヨクヨした性格までは変わらなかった。
「(と、とにかく今日はここで休むしか……)」
意を決して怪しい建物の入り口に入ろうとした、そのときだった。
「あれ、もしかして美羽ちゃん?」
「──!」
耳馴染みのいい、懐かしい声が私の元へ届いた。
ハッとして急いで振り返ると、そこには夜に溶け込んで姿形がはっきりとは見えない、一人の男性が立っていた。
けれど、私はその人物が誰なのかすぐに分かってしまった。
だって、それは──。
「由貴、先輩?」
「ハハッ、やっぱ美羽ちゃんだ」
高校時代の、唯一の部活の先輩だ。
廃部寸前の美術部の部長だった、二つ年上の由貴先輩。
どんなに頑張っても部員が集められなくて、結局私の卒業と同時に美術部はなくなってしまったのだけれど。
「久しぶりだね。どうしたの、なんか困ってる?」
「あ、えっと……」
「うん?なんでも言ってみ?」
「実は、終電を逃してしまいまして」
こんな情けない姿を見られたくなくて、せめてもの思いで背筋をピンと伸ばした。
高校時代の由貴先輩は、美術部に来てもたまにしか絵を描かずにほとんどを寝て過ごしていた不良部員だったけれど、今では人気作家として大活躍している真っ最中だ。
なんでも手のひらサイズの絵画『虫さんシリーズ』が大バズりし、今では入手困難になるほど売れに売れまくっている。
定期的に個展を開いたり、海外からの人気もすごくてきっと大忙しに違いない。
「じゃあさ、車で送ってってあげるよ。ここから家までちょっと歩くけど、一緒においでよ」
「い、いいです!あの、全然大丈夫です!始発まで一人でなんとか……」
「でもこのラブホ、あんまいい評判聞かないよ?口コミも最悪だし」
「え」
「幽霊とか出るらしいよ?女の人の声が聞こえるらしいし。地元ではお化けホテルって有名だよ、ここ」
「ぎゃっ!ちょっと、由貴先輩ストップ!」
「美羽ちゃんも呪われたくはないでしょ?」
「呪われたくはないです、けど」
「それにさ、ここで「んじゃ、バイバイ」ってしたら俺結構なロクデナシじゃん?そうはなりたくないんだけどなぁ」
すぐそこのコンビニの袋を下げながら、由貴先輩はそっと私に手を差し伸べた。
「だから遠慮せず、俺に送られなさいよ」と言って。



