朝のホームルームが始まる前だというのに、既にだるい。早く家に帰りたい。
 机に突っ伏していたら、真人が「元気出せよ~」と雑に頭をかき乱してきた。いつもなら抵抗するところだが、それすらやる気が起きない。

「ん? まじで大丈夫?」

「なんだよ」

「いつもは、髪くしゃくしゃになるからやめろってすぐ怒るのに」

「……お前うるさい」
 
「なあ~何があったんだ? 碧がそんな落ち込んでるの珍しいじゃん」

「いろいろあって」

「あの王子様と?」

「……なんでわかんの」

「だって最近一緒に飯食ってないし」

「ああ」

「までも、大会の準備で忙しいらしいな。弟もめちゃくちゃ練習に気合入れてるわ」

「そうなんだ」

 高松とキスした日から、俺達の関係はぎくしゃくしている。日課だった電話はしなくなったし、昼もたまにしか来なくなった。
 元気がないのはそのせいだ。高松の手作り弁当に慣れてしまった体は、もう菓子パンでは満足できない。それだけじゃなく、寝る前の睡眠導入剤だったあの声も聞けなくなったせいで、寝不足気味だ。

「真人、聞いていい?」

「え、なんだよ急に改まって」

「キスってさ……普通は好きだからするもんだよな」

「キ……キス!? したのか……いつだよ、てか誰と?」

「うるさいな」

「おい答えろって~!」

「……あいつと、した」

 真人が目をかっと開いて固まった。よほど衝撃を受けたらしい。「な、え、なん、え?」と意味のない言葉を繰り返している。そんなに驚くことだろうか。

「それで、なんか……気まずくて」

「ちょっと待て。え、そのキスってどっちから?」

「あいつだけど」

「そうだよな。そりゃそうか。うーんまあ、向こうからしてきたんだから、好きってことだろ」

「……そう思う?」

 好きなら、なんで電話をやめたんだ。忙しいにしても、それが来なくなった理由だとは考えられない。

「てか、キスしてなんで気まずいの? 普通は付き合う流れじゃん」

「あーそれは」

「どんな反応したんだよ。まさか殴ってないよな?」

「殴るわけないだろ。ただ……走って逃げた」

 言った途端、真人が盛大な溜め息を吐いた。俺だって自分の行動にうんざりしている。

「それじゃん。気まずいのは向こうのほうだろお、可哀想に」

「いやだって、びっくりしたし……どうしたらいいか分かんなくて」

「だとしてもすぐ連絡しないと。そういうのは」

 正直、高松に甘え過ぎていたという自覚はある。俺の中途半端な態度にも呆れず、ずっと健気に好意を寄せてくれて、それが居心地良かった。──なんて、ただの言い訳にしかならないだろう。

「電話……しようとはしたんだけど」

「なんだそれ? まだしてないの」

 努力をしたのは事実だ。昨日の夜だって、無性に声が聞きたくなって電話をかけるか悩んだ。けど、何を言えばいいのか分からず、結局三十分うだうだ考えたあとに諦めた。

「まったく……でもなんでそんな、たかが電話にビビってるんだよ」

「うるさいな……俺にも分かんないって」

「お前、素直じゃないもんなあ」

 再び顔を机に伏せた瞬間、スマホの画面が明るくなった。メッセージの通知だ。
(高松からだ……っ)
 送り主の名前を見て、すぐさま内容を確認する。いつものように通知だけで中身を見ようとしたが、指が滑ってメッセージを開いてしまった。

『今日は自分のところで食べるね。言うのが遅くなってごめん』

 申し訳ないという気持ちが感じられる文章と、土下座の絵文字。来れない理由は書かれていない。たったこれだけで、落ちていた気分がさらに落ちた。

「はあ……」

 きっとこれは、待っているだけじゃだめだ。自分から動かないと何も変わらない。

「どした?」

「真人。あいつの住所わかる?」

「じ、住所なんてさすがに知らないよ。弟もそこまで仲良くはないし」

「そっか」

 電話で気持ちを確認するくらいなら、直接行って確かめてやる。今はなにより高松の声が聞きたい。あいつの、困ったように笑う顔が見たい。

 本人に住所を聞くか迷ったが、断られたくなくてやめた。でもまだ手段はある。駐輪場のじいさんに言えば、もしかしたら契約時の書類を見せてくれるかもしれない。

 授業が終わったあと、駐輪場まで走った。教えてもらえるとも限らないのに、気持ちばかり焦ってしまう。
 受付の窓は開いていた。じいさんとちょうど目が合って、頭を下げる。

「すみません」

「おう。おかえりなさい」

「あの……高松翔平ってわかりますか」 

「うん、もちろん。なにかあった? そういえば最近なんか元気なさそうだったなあ」

 あいつの元気がない? 大会の準備はそれほど忙しいのだろうか。

「俺、友達なんですけど、あいつ風邪引いたみたいで」

「あら、大丈夫かね」

「風邪薬……届けたくても住所がわからなくて。教えてもらえないですか」

「あ~はいはい、ちょっと待って」

 ファイルを持って奥から戻ってきたじいさんが、書類を捲りながら小声で言う。

「本当は個人情報だから教えちゃだめなんだけど……君たちが一緒にいるの見たことあるから、特別ね」

「ありがとうございます」

「あ、それと、高松くんにどら焼き美味しかったよって言っておいて」

「……わかりました」

 あいつ、またここの人達にお菓子を渡したのか。相変わらず誰にでも優しいんだな。



 鈴木さんから教えてもらった住所をスマホに打ち込み、自転車で向かった。
 十分ほど漕いだところに公園が現れた。ペダルから一旦足を離し、地図を確認する。方向音痴なせいで、地図を読むのに時間がかかる。赤いピンはこの近くに刺さっているから、恐らくこの辺であることには間違いないはず──。

「え、ほんとですか~?」

 突然耳に入ってきた女性の声に、思わず振り返る。なんとなく気になった。確認するために自転車を押して角を曲がろうとしたら、その家の前に人がいることに気が付いて立ち止まる。
 制服を着た女子のすぐ隣に、高松が立っているのが見えた。
(ふたりきりで何してんだ……?)
 あの人は一体誰だろう。華奢でスタイルが良く、制服のスカート丈が短い。そして高い位置で結ばれたポニーテールを、ふりふり揺らしながら話している。端から見たら、文句のつけようがない美男美女のカップル。

 女子が高松の肩に手を置いたまま、あははっと大きな声で笑った。高松はその手を気にすることもなく、笑顔で話し続ける。

 ──なんだ、そういうことかよ。あまり俺に会いに来なくなったのも、電話もしなくなったのも、全部その人に乗り換えたからか。
 あんなに犬みたいに懐いてきたくせに、飽きたらあっさり離れるんだ。俺にあんなキスしてきたくせに。
 高松が作った弁当は、俺と会わない日はその人が食べているのだろうか。そう思うと、怒りがふつふつ沸いてくる。

 自転車を押しながら二人に向かって歩き出した途端、ちょうど女子が踵を返してこちらに向かってきた。その人に対して呑気に手を振っている高松が俺の顔を見た瞬間、手を止めて固まった。

「あ……碧くん……?」

 自転車を適当に停めて、玄関の前に立つ。高松を振り返ったら、びくっと驚いたように肩を動かしていた。さすがに外で話す内容じゃないから、部屋に入れてもらいたい。

「ここってお前の家?」

「えっ!? あ、そうだよ」

「入ってもいい?」

「う、うん。ちょっと待って、今開ける」

 なぜか鍵を開ける高松の手が震えている。なにを怯えているのか、「どうぞ……」と硬い声で言った高松は、二階にある自分の部屋に案内してくれた。


 外見に興味がないと言っていただけあって、高松の部屋はシンプルだった。まず物が少ない。勉強机とベッドとテレビ、それから小ぶりのクローゼット。これも母親が揃えたのだろう、色合いやデザインが絶妙にダサい。
 この容姿でこれなのだから、女子が来たら確実に驚くはずだ。

「えっと……飲み物とか持ってくる?」

「いらない。こっち来て」

 ベッドにギリギリまで近づいて、手招きする。「なに?」と寄ってきた高松の体を両手で思い切り押すと、ちょうどベッドの真ん中に倒れてくれた。

「うわっ」

 体格差があるが、上手くいったのはこいつが無防備だったおかげだ。肘をついて振り返った高松の体に跨り、肩に手を置く。

「ち、ちょっとまって……っ、碧くん」

 唇が触れる寸前まで顔を近づける。あと少し、わずかに頭を下げるだけでキスができる。
 もっと俺のせいで動揺してほしい。もっと、こいつを困らせたい。

「なあ……さっきの誰?」

「あ、同じクラスの人、だよ。フェンシング興味あるから今度教えてほしいって」

「ふーん。じゃあそれ断ってくんない?」

「えっ、なんで……」

「嫌だから」

 目の前にある形のいい唇に、最初は指で触れてみる。色が薄くて、ふにふにして柔らかい。それでいて少しカサついたそこにもっと触れたくなって、今度は唇を合わせてみた。

「……っ?!」

 勢いに任せてやってしまったけど、キスに慣れてないせいで、このあとどうすれば良いのか分からない。
 とりあえず高松の上唇に軽く噛みついたら、「うっ」と変な声を出されて笑いそうになった。

「キスってどうやんの。この前みたいなやつ」

「ど、どうっていうのは」

「お前がやって」

「……してもいいの?」

 返事の代わりに再び唇を押し付けて、試しに舌を入れてみる。だが、やっぱりよくわからない。柔らかい高松の舌を吸うと、触れている肩がびくりと跳ねた。
 新鮮な反応が面白くてそのまま唇をくっつけていたら急に腕を掴まれた。どんっ、という音と共にあっという間に体勢が逆転し、押し倒される。

「なに」

「碧くん……っ!」

 よく見たら、綺麗な目元も頬も、さらには首まで真っ赤に染まっている。こんな余裕のない高松を見るのは、あの誕生日のキス以来だ。

「なんでそんな顔してんの」

「もうだめだ……我慢できないよ」

 泣きそうな声だった。目が潤んでいて、きらきら光って綺麗だなと呑気に思っているうちに、ぐいっと力強く唇を塞がれる。

「ふ、っ……ん」

 熱い舌が滑らかに、口の中を勝手に動く。ドッドッと鼓動が速くなりすぎておかしくなりそうだ。動けないように両手で頭を固定されているせいで、息が上手くできない。
 ──こんなキスするくせに、もう俺には興味ないのかよ?
 もっとしたいという欲を全力で振り切り、高松の胸を手で押し返す。

「っはぁ……お前、何なの? まじでむかつく」

「ご、ごめ──」

「他に好きな人ができたからって、すぐそっち行くのかよ」

「……え?」

 こんなに俺のことが好きそうな表情で、こんなキスまでしておいて、他の人が好きだなんて言わせない。

「くそ……」

「ち、ちょっと待って。えなに、なんの話」

「とぼけるな。さっきの人に乗り換えたんだろ」

「違う。碧くん勘違いしてる。あの人はただのクラスメイトだし、好きじゃないよ」

「……あっそう。なら俺のこと避けてる理由は?」

 そう言うと、わかりやすいほど目を泳がせた。やっぱり避けられていたのは気のせいじゃなかったのだ。好きな人ができたわけではない、となると──、俺に興味を失ったのか?

「もう好きじゃなくなったなら」

「好きだよ。碧くんが好き」

 偽りのない、澄んだ瞳に捕らわれる。力強い言い方で、とても嘘をついているようには見えなかった。

「す、好きなら、なんで避けてんの」

 高松は唇を噛んで俯いた。じっと見つめても、目を合わせてもらえない。焦れったい空気に耐えられず、もう一度聞くと、諦めたように長い息を吐き出した。声が震えている。

「この前は……キスして、ごめん。自分の欲を押し付けたこと、後悔してる。碧くんも怒ってるかなって思ったし……」

「怒ってない。逃げたのは悪かったけど、嫌じゃなかった」

「ほ、本当に……? いやでも、もう駄目だよ。碧くんと一緒にいればいるほど、好きな気持ちが抑えられなくて」

「もっと好きになればいいじゃん」

「なんでそんなこと言うの……俺、諦めなきゃって必死なのに」

「なあ。俺が、好きでもない人に自分からキスすると思うか?」

「え……」

「いい加減、気づけよバカ。毎日律儀に弁当作って来られて電話もして、俺のことばっか考えてくれて……好きになるだろ普通」

「っ、え、すす好き……!?」

 限界まで目を見開いて口をぽかんと開けた顔が面白くて、つい吹き出した。イケメンがする顔じゃないだろう。

「いや、でも、男は好きになれないって」

「高松が作った弁当が好き」

「あ、弁当……」

「んで、その声も好き。寝る前に聞いたら熟睡できる。最近は電話すらしてくんないから、寝不足なんだけど」

「そ、そうなの……?」

「男は好きになれないかもって言った。けど、お前のことは好きになった。それじゃだめ?」

 高松が眉をハの字にして、ぶんぶん頭を左右に振った。ふわふわで柔らかい髪の毛が踊る。やっぱり犬みたいだと手で撫でると、がばっと抱きしめられた。

「碧くん、だいすき……っ」

 ──この、俺より少しだけ高い体温が好きだ。ドキドキするし、同時に安心して体の力が抜けていく。心地良い。ずっとこのままでいたい。
 背中に手を回してもっと体を密着させると、太ももの辺りに違和感を覚えた。少し身体を引いて視線を下げる。
 
「あああっ、ごめん。気にしないで」

 下腹部を隠すように手で覆った高松が、耳まで赤らめて謝った。隠すようなことじゃないのに。
 むしろ、俺で反応してくれたのが嬉しい。こうなるのは自分だけじゃなかったのだ。

「気にすんなって言われても……なあ、親ってもう帰ってくる?」

「う、うん……六時半くらいには」

 背中越しに部屋の時計を見ると、ちょうど針が六時半を指していた。もうすぐ帰ってきてしまう。

「じゃあだめか」

 もっと時間があれば、そういうこともしてみたかったのに。仕方ない。でも──、あと少しだけ。今まで足りなかった分を補いたい。
 離れた体を引き戻すように背中に腕を回し、首筋に鼻を押し付ける。ここの匂いが好きで堪らない。きっと汗をかいてるはずなのに、まったく臭くない。
 ちょっと舐めてみたらどうなるだろうと、唇を突き出して触れた途端、高松が慌てたような声を出した。

「あ、ああおいくん」

「ふはっ、お前の心臓の音でかすぎ」

 直接伝わってくる激しい鼓動は、感情が分かりやすくていい。俺のことが好きなんだと言われている気分になる。

「だって……こんな風に碧くんに触れる日が来るなんて、考えたこともなかったから」

「俺も」

「なんか本当に……信じられない。俺なんかで、いいの?」

「お前がいいの。何回も言わせんな」

「あーもうっ、うれしすぎる」

 ぐりぐりと頭を押し付けられる。飼い主のことが好きで堪らない大型犬みたいだ。目を細めると、パタパタ揺れる尻尾が見える気がする。

「高松ってまじで犬みたいだな。可愛い」

「か、かわいい?」

「あ」

 下の階で物音がしたと思ったら、「ただいま~」と帰宅を知らせる声が聞こえて飛び起きる。
 高松の家族が帰って来てしまった。別にやらしいことをしたわけではないが、なんとなく気まずい。

「もう帰らないと」

「待って」

 部屋を出ようとしたところで腕を掴まれた。振り返る前に、ぎゅっと抱きしめられる。

「……なに」

「あの、もし嫌じゃなかったら……今日、電話してもいいかな。それから、明日のお昼もそっち行きたい」

「は? 付き合うんだから当たり前だろ。いちいち確認取るなよ」

「あ、そう、そうだよね……!」

「これからは彼氏としてよろしく」

 体を回転させて、自分より高い位置にある唇にキスをする。ちゅっと可愛らしい音が鳴った。
 それが恥ずかしいと思う前に、高松が「はあああ」と大きな声で息を吐いた。手で顔を覆ってその場にしゃがみ込む。

「ずるいよ碧くん……」

 バカだな、こいつ。本当に翻弄されているのはお前じゃなくて、俺のほうだってこと──、いつになったら気づくんだろう。



 部活が忙しいというのは本当だったらしく、夜の電話は時間があるときに向こうがかけてくることになった。
 昼も毎日来てもらうのが大変だから、一緒に食べるのは週に三回程度に変えた。場所も今までとは違う。二人の中間地点の駅にある小さな公園だ。「来てもらうの申し訳ないよ」と頑固に断る高松を説得するのに時間がかかった。

 場所を変えたメリットは沢山あった。大きなビルの隣にある公園だから、どこに座っても日陰の下で食べられる。
 そして人の気配がほとんどなく、トイレの裏に隠れるようにベンチがぽつんと置かれているおかげで、食べ終わったあとに高松の膝の上に寝転んでも問題ない。

「……こうされんの嫌?」

 下から見てもわかるほど高松の顔は赤い。さすがに嫌がってるようには見えないが、嫌じゃないなら、頭を撫でるなり何なりしてくれたらいいのに。

「い、いやじゃない。全然、すごくいい」

「もう慣れろよ」

「だって……可愛くてたまらないんだもん……」

 付き合う前から、高松のことを可愛いと感じるようになった。その可愛いは容姿ではなく、愛しさが溢れたときに出る感情なのだと最近知った。
 きっと、こいつも俺に対して同じような気持ちを抱いているのだと思うと、可愛いと言われても気分は悪くない。

「碧くん、前に俺のことを犬みたいって言ったの、覚えてる?」

「ああ」

「なんか碧くんは……猫ちゃんみたいだよね」

「……は? それ褒めてんの」

「も、もちろん褒めてる!」

「まあ……いいけど」

 俺のどこに猫の要素があるんだよ。猫はプライドが高く、気まぐれで人に甘えてきて、懐いたら体の上に乗ってくる生意気な生き物──って、そう考えたら俺……本当に猫みたいじゃないか?
 思い当たる節がありすぎて、かっと瞬時に頬が熱くなった。急いで立ち上がる。今までずっと猫みたいだと思われていただなんて、恥ずかしい。

「帰る」

「えっ、あ、まって」

 ベンチに置いてある鞄を取ろうとした手を、いきなり横から掴まれた。そのまま引かれたせいで足がもつれ、高松の体に飛び込む形になった。

「あ、危ねえな」

 正面からぎゅうっと強く抱きしめられて戸惑う。いくら人が来ないとはいえ、さすがにこの状況を見られるのはまずい気がする。俺は良くても、こいつは高校生のフェンシング選手として顔が知られているからだ。

「なあ、見られるって」
 
 俺の肩に顎を乗せた高松が、深い溜め息を吐いた。悩ましい声で、耳元で囁かれる。

「今日……家に来てもらえないかな」
 
「別にいいけど」

「さっき、親から帰りが遅くなるっていう連絡があって」

「あー……おっけ」

 分かりやすい誘いに、鼓動が速くなる。この前は時間がなくてできなかったから、今日こそは──もっといろんなところに触れられるだろうか。想像するだけで緊張してくる。

「……キスしてもいい?」

「だめに決まってんだろ。ここどこだと思ってんだよ」

「そうだよね……家まで我慢する」

 ここで強引にキスするのではなく、素直に頷いて、しゅんと耳を垂らすのが高松だ。こういうのを見せられると、また可愛いと思ってしまうから困る。
(そんな顔されたら──、俺のほうが我慢できなくなるのに)
 鞄を持って周囲に人がいないことを確認したあと、そばにある木の影に連れて行く。ここなら見られないはず。

「あ、碧くん? どうしたの」

 顔を鞄で隠しながら、背伸びして高松の唇を塞ぐ。触れたのはたった一瞬。だけど言い訳のしようもないほど、ちゃんとしたキスだった。

「うわあ……」

「帰るまで我慢。できる?」

 高松は返事の代わりに、また顔を真っ赤にして頭を縦に振った。
 ──こんなことを覚えたら、悪い癖がつくだろうか。昼の時間がもっと楽しくなりそうだと、高松の手を引きながら密かに思った。