この間、人生で初めてデートというものをした。あれから一ヶ月が経ち、ひとつだけ変わったことがある。それは、毎日の夜にしていた電話の回数がめっきり減ったということだ。理由はよく分からない。
 それに──、昼は今まで通り食べに来ているが、どことなくぎこちない空気を感じる。喧嘩をしたわけでもないのに。

 空の弁当箱を鞄に入れた高松が、すっと立ち上がった。まだ食べたばかりだし、戻るまで時間に余裕がある。なんですぐ行こうとするんだ。

「もう帰んの?」

「あ、うん……」

 早く戻らなきゃいけない理由を言うつもりもないらしい。電話だってそうだ。なにかしら説明してくれたら、気にしなくて済むのに。

「なあ、いつ見に行けばいいの。部活」

「いつでも大丈夫だよ。もう顧問には言ってあるから」

「今日でも?」

「もちろん」

「じゃあ……気が向いたら」

「うん。でも無理しなくていいからね」

 またねと足早に公園から出ていった高松を見送ったあと、ベンチでひとり頭を抱えた。

 最近の俺はなんか変だ。あいつのことばかり気にして、余計な不安を次々に生み出している。
 他人が何を言ったからとか、何をしたからとか。そんなことはどうだって良かったはずだ。俺に関係ないと分かっていても気になってしまうのは──、なんでだろう。

『俺にどう思われたいんだよ』

 この前、あいつにそう聞いた。でもきっとこれは自分が考えなきゃいけない問題だ。俺はあいつにどう思われたいのか。
 部活を見に来ていいと許可は得たけど、こんな状態で行っても気まずくなりそうで少し怖い。

「よお。あれ? 王子様は」

 公園の入口から真人が走ってきた。手に紙袋をぶら下げている。

「もう帰ったけど?」

「なんだ、帰っちゃったのか。これどうすっかな」

「それなに」

「なにって、プレゼント。今日誕生日だろ?」

「たん……え? あいつの?」

 頭が真っ白になった。誕生日だなんて一言も言ってなかったし、そんな素振りもなかったのに。
 しかも、なんで真人が高松の誕生日を知っているのだろう。プレゼントまで用意するとは。

「お前ら仲良かったっけ……」

「この前、弟が別のフェンシングクラブに通い始めたって言ったじゃん。そこに王子様もいるらしくて、なんかすげぇ懐いちゃったみたいでさ」

「懐いた?」

「あいつそういうとこあんだよ昔から。俺、高松先輩に弟子入りしたんだ~って目輝かせてたし」

「そうだったのか」

「可愛いだろ? んで、うちの高校に来るって言ったら、高松先輩に誕生日プレゼント渡して! 当日にあげたいってうるさくて。会ったときに渡せばいいのにな」

 俺のほうが先に知り合ったのに、誕生日すら知らなかった。言っておいてくれたら俺だって──。
 腹が立ったのは、あいつに対してじゃない。高松の性格をよく考えたら、たしかに自分から誕生日だよなんて言えるはずがないのだ。聞けば分かるようなことを、聞こうともしなかった俺が悪い。ほとんど毎日一緒に昼を過ごしているのだから、いくらでも聞けるチャンスはあった。

「……それ。俺があいつに渡す」

「え、放課後会うの?」

 さっきちょうど部活を見に来ていいと言われたばかりだ。これで行かなかったら絶対に後悔する。直接会って、俺からのプレゼントはなにがいいか聞けばいい。



 真人から袋を受け取って校門を出る。足を速めようとしたら、前を歩いていた二人組みの女子の声によって憚られた。

「ね~今日のお昼も来てたよ、高松君」

「ほんとかっこいいよね。三組のめっちゃ綺麗な男子知ってる? 高松くんと一緒にご飯食べてる人」

「知ってる。普通にアイドルになれそうな顔してるよね」

「え、わかる」

「目の保養はありがたいけどさ、私も混ぜてもらえないかなあ」

「それな。てか彼女いると思う?」

「あれでいないわけなくない? 逆に。無駄に片思いすんのやめよ」

「だよね」

 勝手に人のことを話すなよ。決めつけるな。そう言いたいのを堪えて、イヤフォンを耳に着ける。顔を見られないように俯いて、素早く通り抜けることしかできなかった。

 高松が通っている高校は、俺の学校から数個先の駅の近くにある。片道の移動時間は約十五分。短いように思えるが、昼休みに学校間を行き来したら、それだけで大幅に時間が削られてしまう。
 根気強くなければ、とてもじゃないけどこんなの毎日なんかできない。それを健気に何ヶ月も続けているあいつを、俺は一度でも気遣ってやったことがあるだろうか。
 ほとんど毎日部活でくたくたに疲れて、夜には俺の電話の相手をして、朝は早く起きて俺の分まで弁当を作り、短い昼休みにわざわざ十五分かけてやって来る。よく考えたら、そんな生活をしてる高松は相当疲れているはずだ。

 正門から入ろうとすると、受付の椅子に座っていたおじさんに呼び止められた。怪しむように見られ、慌てて「部活の見学にきました」と説明する。途端におじさんは笑顔になって、入館受付票とペンを差し出してきた。
 教えてもらったフェンシング部の活動場所は、校舎の隣にある体育館。向かう途中で他の部活動の生徒にジロジロ見られた。部外者だという自覚があるからこそ、余計に視線を感じる。

 体育館の扉は鉄素材でできていて、手をかけるだけでその重さが伝わってくる。簡単には開けられない。躊躇していると、中から威勢のいい掛け声が聞こえてきた。
(もしかして……このまま扉を開けたら目立ってしまうんじゃ?)
 そう考えた途端、手に力が入らなくなった。だが、ここまで来て何も見ずに帰るのは嫌だ。せっかくならあいつに会いたい。
 様子を伺うために少しだけ扉を横に開くと、僅かにできた隙間から中を見ることができた。

 白いユニフォームを着た人が大勢いる。この前、大会で見たときのように床にマットも敷かれている。練習試合でもしているのだろうか。
 顔を防具で覆っていても、どれが高松なのかすぐに分かった。スタイルの良さが軍を抜いているからだ。奥のほうで座って練習を見ている後輩らしき人達も、みんな高松のほうに顔を向けている。
 ──やっぱりここでも注目の的なんだな。
 試合に集中しているおかげで、これなら入ってもバレずに済みそうだと思った。音を立てないように足を踏み入れる。

 体育館の隅に移動すると、ちょうど高松の試合が終わってしまった。マスクを外した高松に、後輩の一人がタオルを渡す。随分と慕われているみたいだ。

「……あれ? えっと、なにか用ですか?」

 いきなり声をかけられて驚いた。あいつばかり見ていたせいで、周りに人がいることに気づかなかった。
 男が不思議そうな顔で見つめてくる。あの身長が高い高松よりも、さらに体が大きい男だった。

「え、あっ……いえ、俺は……」

 男の目線が明らかに興味津々といった感じで、思わず後ろに引き下がる。口籠っていると、俺の身長に合わせるように屈まれた。

「もしかして、翔平がいつも話してる人だったりします?」

「は?」

「やっぱり。ですよね? すごい綺麗な顔してるから分かっちゃった。今呼んできまーす」

「あ、はい……」

 呼んできてもらえるのはありがたいが、話しかけられたことですでに注目が集まっている。あの部外者は誰だ、と言わんばかりの視線が痛い。
 後輩と話していた高松が振り返る。俺の姿を捉えた途端、ばたばたと走ってきた。なぜか、高松を呼びに行ったさっきの男も隣にいる。

「碧くん! 本当に来てくれたんだ」

「ああ」

「いつも翔平から、いろいろ聞いてますよ」

「あ、ちょっとそれ、言わないで!」

「なんでいいじゃん」

 高松はこの男とかなり仲が良いらしい。笑いながら背中を叩いていたあと、男にこそこそと耳打ちする。こんなにはしゃいでる高松は初めて見た。なんでだろう──、なんか気分が悪い。

「あの」

「あ、ごめん碧くん。こいつのこと気にしないで」

「いいけど……もう練習終わったのか」

「うん。せっかく来てくれたんだから、見てほしかったな」

 がっくしと肩を下げた高松を見ながら、これはどんな気持ちで言っているのかと考える。本当は迷惑だとか思っているんじゃないか?

「あ、翔平。もう時間だけど」

「……部活終わる?」

「うん。でもまだ挨拶が残ってるんだ。碧くん、少し待っててもらえない?」

「いいけど」

「あの、こいつうちのエースなんですよ」

「もう~余計なこと言わないでって。行こ」

「へーい」

 二人はふざけながら体育館の中心に戻って行った。部活が終わったら、大勢の人がここを通る。出入り口も近い。見られるのは確実だ。

 脇にあった、二階に上がるための階段に隠れた。ここならちょうど死角になって見えないし、誰かに話しかけられることもないはず。

「気をつけ、礼」

 部長らしき人が全体を締めたあと、「ありがとうございました!」と挨拶する声が聞こえた。
 ちらっと中を覗く。後輩達が道具を片付けたり掃除をしているようだった。しばらく動かずじっと待っていたら、人の気配がなくなった。

 あいつまで帰っていたらどうしよう──という不安は、高松がいきなりこっちに顔を出したおかげで吹き飛んだ。

「あ、碧くんいた!」

 さっきまで着ていた暑そうなユニフォームから、普通のジャージに着替えていた。いつの間に着替えたのだろう。

「……おう」

「待たせてごめん。ここにいたんだ」

「邪魔かと思って」

「俺が来てってお願いしたのに邪魔なわけないよ。ありがとね、来てくれて」

「べつに」

 ふと、右手に持っている袋の存在を思い出す。そういえばこの誕生日プレゼントを渡すためにここに来たんだ。

「これ。真人が……あー、フェンシングクラブに中村っているだろ? お前に懐いてる高校一年の」

「うん。中村くんがなにかあった?」

「あの兄貴と俺、友達なんだよ。今日会えないから、高松に誕生日プレゼント渡してほしいって頼まれて……持ってきた」

「そうだったんだ。わざわざありがとう」

 へらっと笑う男を見て、唇を噛む。もっと早く知っていたら、こうやって喜んでもらえたのかと思うと……自分に腹が立って仕方ない。

「誕生日って、なんで言わないんだよ。せめて今日教えてくれればよかったのに」

「え、ご、ごめん。気を遣わせちゃうかなと思って」

「気遣うってお前な、俺らは──」

 友達だろ、と言おうとした言葉を慌てて飲む。
 ちょっと待て。俺達の関係は一体なんだろう。毎日会っているからとはいえ、ただの友達と言っていいのか。
 最初に俺はこいつの気持ちを拒んだし、それでもいいからと言われて中途半端な関係を続けてきた。なのに、真人の弟やさっきの男と仲良くしていることを知って、身勝手に腹を立てた。電話の回数が減って面白くないと思っていたのも、自分勝手にも程がある。

「碧くん?」

「……誕生日、おめでとう」

 肝心なことをすっかり言い忘れていた。
 素直に祝ったのに、しばらく反応はなかった。ぽかんと口を開けて見つめられる。

「なにその顔」

「あっ、いや! ありがとう。直接、祝ってもらえるなんて……うれしいな」

 高松が目元を染めてへへっと笑った。やっぱりこいつは犬みたいだ。

「なんか欲しいものある?」

「え……い、いや、そんなの大丈夫だよ」

「なんでもいいから。言えって」

「でも」

 今はどうだか知らないが、仮にも好きな人がプレゼントをくれるって言ってるんだから、素直に喜べよ。なんでこいつはいつまでも遠慮してる?
 ──俺にできることはなんだろう。なにも買ってきてないし、すぐに用意するのは難しい。とりあえず、今できることをするしかない。

「ちょっと、こっち」

 高松の手を引いて、階段を少し登った。
 自分より高い位置にある首に両腕を回すと、必然的に背伸びせざるを得なくなった。

「な、なに……っ?」

 誰かにこうやって抱きついたのは、人生で初めてだ。慣れないことをしたせいで、無駄に心臓がバクバク音を立てている。
 少し顔の向きを傾けたら、すり……と頬が高松の首筋に当たった。汗だろうか、僅かに湿っているような気がする。

「碧、くん、お……俺、汗臭いし汚いよ」

「別に臭くないけど」

「ええ……?」

「誕プレ、なにがいいか早く言えよ」

 一方的に抱きついているのはさすがに虚しい。せめて背中に腕を回してくれたらいいのに──と思った瞬間、ぐっと腰を抱き寄せられた。
 驚いている間に、耳に切羽詰まった声を吹き込まれる。

「ごめん、ほしいものっていうのは……」

「ちょ、っと、耳が──」

「これはだめかな」

「なん、だよ」

 低い声で囁かれるたびに、ぞくりと背中が震える。ただでさえこいつの声が好きなのに、そんなことをされると足の力が抜けてしまう。
 とうとう限界を迎えて踵を下ろすと、今度は高松が前屈みになってくれた。

「その……なんていうか」

「そんな言いにくい物? あんま高いと買えないけど」

「……ごめん」

 なんで謝られたのか分からない。顔を見ようと首から手を離したら、そのまま体を後ろの壁に押し付けられた。

「は? え、なに」

「キスしたい。お願い」

 言葉と共に唇を塞がれた。近すぎてぼやける視界いっぱいに、高松の顔が映る。
 人生初のキスが呆気なく奪われてしまった。驚きのあまり体を硬直させていたら、唇を甘噛みされて我に返る。

「ちょ、ん……っ」

 無防備に口を開いたせいで舌が入ってきた。ぬるっとした感触に、思わず目を閉じる。体を引こうにも、壁があって動けない。

「ぅ、んん……」

 俺の腕を押さえていた手はいつの間にか首に移動していて、うなじをゆっくり撫でられる。
 高松の肩を押し返そうとした指先が、震えて力が入らない。キスがこんなに気持ちいいものだと知らなかった。

「……はあ……っ」

 やっと離してもらえたというのに、俺は手の甲で口を押さえたまま声を出すことができなかった。
 普段の高松とはまったく違う。自分の欲に忠実で、やや強引だった。こういう面もあるのだと知ることができて、嬉しかった。けど、俺達は付き合ってない。じゃあなんでキスされた?
 ──まだ、高松は俺のことが好きなのか。

「なんで……」

「本当にごめん。嫌だったよね」

 考えれば考えるほど混乱して、顔に血が集まってくる。こんな状態で冷静に判断できるわけがない。

「悪い。帰る」

「ま、まって碧くん」

 腕を掴まれそうになったところをすり抜け、逃げるように体育館から飛び出した。受付のおじさんに入館証を返却し、挨拶もそこそこに校門を出る。

 道の途中にあった公園のトイレに駆け込み、個室に籠もった。時間が時間なだけあって、子どもは見当たらなかった。
 さっき高松からされたことが、頭から離れない。指で唇に触れると鮮明に蘇ってくる。あいつの唇は柔らかくて、温かくて──。
 しっかりと全部を思い出してしまった俺は、自身の異変に気がついた。視線を落とすと、ぐっと膨らんだものが視界に入る。

「あ……やば」

 とりあえず扉の内側に凭れ掛かった。ズボンのフックに手をかけたまま、呆然と下半身を見つめる。

「どうすんだよ、これ……」

 もう言い訳できない。キスされてこんなことになって、頭の中は高松で埋め尽くされている。
 ──友達には、こんな感情は抱かない。誰かと仲が良いからって嫉妬もしない。ただ、高松のことが好きなんだ。