あのあと、思った通り高松から連絡がきた。ただデートという言葉を文字にしたくなくて返信に悩んだ結果、面倒になって電話をかけたら面白いほど驚いていた。

 電話越しに聞く声が新鮮だった。姿勢の良さが伝わってくるような張りのある声なのに、少し低くて耳にすとんと落ちてくるのが心地よい。
 もしかしたら俺は、声フェチだったのかもしれない。そう思うほど高松の声が気に入った。

 デートの詳細を決めた日からほとんど毎日、夜に電話している。時間は三十分程度。明日の弁当はもう作ったとか、他校とフェンシングの練習試合をしたとか、なぜか高松は電話だと自分のことをよく話す。いつも質問されてばかりだったから、新鮮だった。おかげで声をたくさん聞けてありがたい。寝る前にぴったりの睡眠導入剤だ。

「明日はデートだね」

「……ああ」

 自分から言っといてなんだが、デートと表現するのはむず痒いからやめてほしい。高松のテンションが上がっているのが、声を聞くだけでも分かる。
 明日のプランはほとんど向こうが決めてくれた。駅で待ち合わせして、一緒に電車で三十分も移動する。アイススケートをやってみたいらしく、この時期にそれができる場所は少し離れたところにある施設しかない。

「楽しみだなあ」

「高松はやったことあんの? アイススケート」

「ううん、初めて」

「へぇ。どうせ滑れるんだろうな」

「いやあ、俺バランス感覚ないからきっと下手だよ。碧くんは?」

「俺も経験ない」

「じゃあ俺と一緒だね」

 運動神経が抜群にいい高松が、下手なわけない。だが、何でも完璧にこなしてしまうからこそ弱点を見てみたい。俺だけ情けない姿を見せる羽目にならないか不安だ。

 今日は体育の授業が水泳だったから、体が疲れている。でもあともう少しこいつの声を聞いていたい。なんなら、声を聞きながら眠れたらいいのにと思う。

「碧くん、眠い?」

「ん……? あー、まあ」

「じゃあ寝よっか。明日楽しみにしてるね」

「おう」

「おやすみ」

 あっさり電話は切れた。なんで、俺が眠いと分かったんだろう。
 いつもそうだ。あくびが漏れたら、「そろそろ切ろうか」と気遣われる。その瞬間がなんとなく、あいつらしさを感じていい。

 正直──かなり絆されている自覚はある。でも仕方ないと思う。今どきあれほど純粋で誠実な男、他にいるだろうか。しかも毎日俺のために弁当を用意してくるとなったら、心を開いて当然だ。

 翌日の朝、待ち合わせより早めに着くように家を出た。もしかしたら駅までの道で会うかもと周りを見ながら自転車を走らせたが、姿は見えなかった。
(早く来すぎたか……)
 自転車を降りて駐輪場に入ったとき、奥のほうに高松が立っているのが見えた。

「あ、碧くん! おはよう」

「……はよ。早くね?」

 いつから待っていたんだ。まだ待ち合わせの時間より二十分も早いのに。

「待たせたくなくて早く来ちゃった」

「だからって……お前、汗かいてんじゃん」

 午前中だが、気温はすでに三十度を超えた。湿度もかなり高い上に、この駐輪場は風通しも悪い。こんなところで待っていたら熱中症になってしまう。

「大丈夫だよ」

「次からは駅で待ち合わせな。こんなとこで待つなよ」

「えっ次があるの?」

「……あ、あればの話」

 目を輝かせた高松の顔が、一瞬にして暗くなる。「そうだよね。そっか」とぼそりと呟いて、肩を落とした。何気なく出た言葉にそこまで反応されても困ってしまう。
 
「いいから行こう」

「うん。あ、碧くんの私服、見れて嬉しいな」

「……お前は普通だな。思ったより」

 白い半袖シャツに黒い半ズボン。至ってシンプルだからこそ、スタイルの良さが引き立っている。高松は外見に興味ないと言っていたし、最初の制服の着崩し方を考えたら、もっと酷い服装だと勝手に思っていた。

「こういう無地の服しか持ってないんだ。あんまり興味なくて」

「なんかお前って……」

「ん?」

「いや、なんでもない」

 いろんな面でギャップがありすぎる。が、容姿に無沈着なのは顔が良いおかげだ。俺みたいにコンプレックスを抱えている人間は、気にせずにはいられない。

 スケートの前に昼飯を食べることになり、近くのファミリーレストランに入った。女子ならまだしも、男子高校生なんてこんなものだ。お洒落なカフェにも入らないし、ラーメンとかハンバーガーとか、さっと食えるものでいい。

 高松が注文したあと、タブレットの履歴を見て驚いた。チキンステーキと大盛りご飯、サラダ、スープ、ポテト、そしてデザート。
 これからすぐ運動するのにこんな食べて大丈夫なのか? そう思いながら、次々と運ばれてくる皿を横目に、俺はパスタとコーヒーゼリーを食べた。
 いつも持ってくる弁当箱もそこそこ大きいし、毎日部活で運動してるから、こいつにとってこれくらいは大したことないのだろう。勢いよく頬張る男を目の前にしてそう思った。

「碧くんはそれだけで大丈夫? 足りなかったら俺の食べてね」

「お前が食べ過ぎなんだよ」

「え、そうかな……」

「なあ。フェンシングっていつから始めたの」

「えっと、小学三年生の頃かな。家の近所にフェンシングクラブがあって、通い始めたのがそれくらい」

「ふーん」

「なんで?」

 大きな丸い目で見つめられて、思わず皿に視線を落とす。こうして対面で見つめ合うことが普段ないから、なんだか気恥ずかしい。

「……いや、……上手かったから」

「あ、ありがとう。うれしい」

「てか、俺の高校のほうがフェンシング強いのになんでこっち来なかったんだ?」

「ああ……それね。母親が学業を優先したい人で、私立じゃダメって反対されたんだ」

「なるほど」

「碧くんと同じ学校だったらよかったのになあ」

「……だな」

「え!?」

 目をかっと開いて素っ頓狂な声を出すもんだから、思わず吹き出しそうになった。イケメンが取り乱す姿はいつ見ても面白い。

「なんだよ」

「え、い、いまなんて」

「早く行こうぜ。ここ混んできたし」

「あ……うん」

 本当に同じ学校だったら良かったのに。そうしたら部活の練習を見に行くこともできたはずだ。こいつがクラスでどんな様子なのか、知ることもできたのに。



 受付で支払いを終え、ロッカーに荷物を預けて長ズボンに履き替えた。ヘルメットを被り、スケート靴を借りてリンクの出入り口にあるベンチに腰を下ろす。

「この靴、履きにくいな」

 借りたものが元々キツく紐が締められていたせいで、一度解かなくてはいけなかった。履くのに手こずっている間に、高松はあっさり準備を終えていた。焦って余計に上手く紐が結べない。

「俺やろうか?」

「あー、じゃあそうして」

 高松はわざわざ俺の目の前に屈み、靴紐に手をかけた。長い指先が器用に結んでいく光景に見入っていると、いきなり顔を上げられたせいで目が合う。

「きつくない?」

「いや……、大丈夫」

「じゃあ反対側もやっちゃうね」

「まじで王子様みたいじゃん」

「お……俺が王子様? そ、そうかな」

 プリンセスにガラスの靴を履かせる王子様みたいだと思ってつい言ってしまったが、本人は俺や真人からそう呼ばれていることを知らないんだった。
 分かりやすく照れ始めた高松に、「早くやって」と促す。お礼を言うべきだと思いつつもすぐに言葉が出てこなかった。綺麗に結んでもらった靴で立ち上がり、手を差し出す。

「……助かった」

「えっ、あ、うん……」

 触れた手は熱かった。ぎこちなく立ち上がった高松の背中を押して、先にリンクに入ってもらう。

 初体験のスケートは、しばらく滑ったら体が勝手に覚えて、ある程度動けるようになった。最初こそ転びそうになったものの、意外に慣れるまで時間はかからなかった。
 予想外だったのは──あの高松が、まったく滑れないことだ。フェンシングではキレのある動きをしていたのに、今は腰が引けてよたよたと壁に掴まっている。

「大丈夫か?」

「うん……でも恥ずかしすぎるから……、あんまり見ないで」

「意外だな、そんな運動神経いいのに」

「だから下手だって言ったでしょ」

「って言ってもお前、あ」

 俺が話しかけたせいで気が散ったらしく、高松の足が見事につるんと滑った。「うわあ!」という情けない声と共に、氷の上に体がどてんっと落ちる。

「ふっ、お、おま」

 高松ほどの身体能力があれば格好良く着地できてもおかしくなかったのに、あまりにも面白い転び方に笑いが止まらない。
 たしかに弱点を知りたいと思っていたが、これほどまでダメダメな高松を見たのは初めてだ。
 ──結構かわいいところ、あるじゃん。

「碧くんが笑った……? かわいい……」

 起き上がりもせず、ぼけっと口を開けた高松がうわ言のように呟いた。

「は?」

 聞き捨てならない言葉に顔を顰めるも、犬みたいにへらへら笑われて何も言えなくなる。
(変なの。笑っただけでそんな喜ぶか?)
 いつまでもそこに座っているから、腕を引き上げて立たせてやる。この調子じゃ一緒に滑るのは難しそうだ。

「俺、ちょっと滑ってくる」

「あっ……じゃあ俺、ここで練習するね」

「わかった」

 高松を置いて、人が少ない奥のほうに向かった。スピードはまだ出せない。けど、少し体を乗せて勢いをつけることはできる。
 普段あまり運動が得意なほうではないからこそ、そこそこ滑れるのが気持ちいい。もう少し上手くなれば、あいつの手を引いてやって一緒に滑れるかもしれない。そう思って、しばらく集中して練習した。

 ふと、高松の様子が気になった。リンクの反対側を見る。まだ壁の近くにいるようだが、一人ではない。よく見えなくて目を細めると、隣にいるのが女性だというのが分かった。

「あいつなにしてんだよ」

 こんなところでも逆ナンか。しかも全然滑れてなくてもモテるとは、ここまで来ると才能だと思う。
(こっちはお前のために一人で練習してたっていうのに……っ)
 舌打ちをしつつ、急いで高松の元に向かう。なにを話しているのか分からないが、女性はあいつの腕を掴んで笑いかけていた。

「──なんです。良かったら連絡先、教えてくれませんか?」

「えっと、それは」

「なにしてんの?」

「あ、碧くん」

 二人の後ろから突然現れた俺に、女性がちらっと視線を配る。それでもなお、高松の前から退こうとはしなかった。その様子に腹が立って、女性が掴んでる腕を引き離す。

「こいつに何か用ですか?」

「はい? いえ、用っていうか連絡先を……」

「そういうの興味ないんで」

「え……すみませんが、なんでそんなことあなたに言われなきゃいけないんですか。私は高松くんに聞いてるんです」

 ──名前を知っているだと?
 もうそんな仲になったのか。名前を教えたということは、高松もそういう気があるのだろうか。
 心臓がバクバクする。人は怒ると心拍数が速くなるのだと、本で読んだことがある。久しぶりに怒ったからそのことをすっかり忘れていた。誰かのせいでここまで感情を左右されたのは、初めてだ。

 たしかに、俺にはこの二人の恋愛を止める資格は一切ない。高松にその気があるなら、尚更。
 それでも──嫌なものは嫌だ。今日は俺とデートをしている。その間に、他の女に気移りするのはいくらなんでも違うだろう。

「高松。お前は教えたいの?」

「えっいや、俺は……あの、すみません。好きな人がいるので連絡先とかはちょっと」

 一度俺に返事をしかけた高松が、女性のほうを振り返って言った。それでも引き下がろうとしない相手に焦れて、今度は高松の腕を掴む。

「行くぞ」

「あ、うん」

 大人しく腕を引かれた男が、後ろを向いて女性に軽く頭を下げる。最早その動作にすら苛ついた。今日、こいつは俺のものなのに。

 手を引いたままベンチまで戻ってきた。なんとなく、滑り続ける気になれなかったからだ。
 なぜか何も話さない高松を無理やり座らせ、その目の前に立つ。
 急にこの髪に触れたくなった。指を通すと動物の毛みたいにふわっと柔らかく、最初とは違ってワックスがついてないさらさらな髪の毛。少し癖がある。くしゃくしゃに乱すと余計に犬みたいに見えて可愛い。

「お前、犬みたいだよな。本当に」

「え……」

「どこにいてもすぐ人が寄ってくるし。お前も俺に寄ってくるし」

「あーっと、ご、ごめんね。すぐ断ったんだけど何回も聞かれちゃって」

「お前もその気あったんじゃないの? 名前教えたじゃん」

 高松がふっと顔を上げた。指の隙間から、茶色くて綺麗な瞳が見つめてくる。

「俺、教えてないよ。あの人……なんかフェンシングの試合観に来てたみたいで、知ってたみたい」

「ああ……そういうこと」

「碧くん、なんか怒ってる?」

(怒る? 俺が? なんでだよ)
 そう反論したかったが、客観的に見てさっきから俺は明らかに怒っている。これが俗に言う、嫉妬というものなのだろうか。初めての経験で正直、戸惑いのほうが強い。

「べつに……っ」

 この感情は一体何なんだろうと、考えている間。高松はまるで、撫でられるのが気持ちいいとでも言うように、すりっと頭を手のひらに押し付けてきた。

「おい」

 思わず手を離した瞬間、「あっ」と声が漏れた。ひどく名残惜しそうな声だった。
 ああ、もうダメだ。こんな動作でさえ可愛く見えてしまう。もう手遅れなのかもしれない。絆されすぎている自覚はある。それが悔しくて唇を噛むと、高松が心配そうな顔で見上げてきた。

「碧くん?」

「……もう帰るか」

「あ、うん……」

 帰り道、特にこれといった話はしなかった。思ったより外が暗くなってたねとか、もっと練習して碧くんと一緒に滑れるようになるよとか、高松はそんなことをひたすら話していた。

 こいつは今、俺のことをどう思っているんだろう。「好きな人がいるので」と言っていたが、まだ俺に気があるのだとしたら──どうする?
 今さら考えても無駄かもしれない。自分勝手なやつだと思われるのは嫌だ。

 最初は駐輪場で解散するつもりだった。でも別れの言葉が見当たらなくて、自転車を押しながら途中まで一緒に帰ることにした。
 背が高いから歩幅が大きいはずなのに、速度を合わせて隣に並んでくれる。夕日が落ちて薄暗くなった街の中でも、たかが電灯でも、高松の顔はよく見える。

「あのさ、碧くん」

「……なに」

「今日デートしてくれてありがとう。すごい楽しかったよ。もうちょっと一緒に滑れたらよかったんだけど……はは」

 なんと返したらいいのか分からない。そうだな、でもなく、こちらこそありがとうでもない。俺らしい言葉が思い浮かばなかった。
 ちりちりちり……と静かに回っていた自転車のタイヤは、いつの間にか止まっていた。こんな道の真ん中で二人して止まったら迷惑になる。そう分かっていても、足は動かなかった。

「それでね、かっこ悪いところばっかり見せちゃって悔しいから、挽回させてもらいたいんだ」

「え?」

「俺の高校でやってるフェンシング部の練習、見に来てもらえないかな」

「練習って……校舎、勝手に入れないだろ」

「顧問に言うから大丈夫だよ。受付で入館許可証を取ってもらう必要があるけど……」

「顧問厳しくないのか?」

「うん、全然。親戚がフェンシング興味あって見学したいって言えば問題ないし」

「なんだそれ。本当にいけんのかよ」

「お願い! かっこいいところ見せたいから」

「……お前、俺にどう思われたいの。なんでそこまでして」

 まだ俺のこと好きなのかよ。そう聞きたい。けど、自分のくだらないプライドがそれを許してくれない。

「えっと……お、俺は」

「やっぱいい。じゃあまた」

「待って!」

「練習、見に行くから」

「本当に……? ありがとう」

 片手を挙げたら、そこに優しくぽんぽんとハイタッチされた。ただの挨拶のつもりだったが、思いがけないスキンシップに戸惑う。
 高松は屈託のない笑顔を浮かべたまま、「連絡するね、ばいばい」と言って去っていった。