金曜日の夜、真人から連絡がきた。高一の弟が小学生の頃からフェンシングを習っていて、明日試合に出るそうだ。
特段フェンシングには興味がなかったが、一緒に観に行こうと誘われたから着いていくことにした。
会場に着いたら、まずその広さに驚いた。高校の倍くらいの広さがある体育館で、天井もうんと高く、二階には観客席も設けられている。そこからコートを見下ろすと、自分が試合をするわけでもないのに、妙な高揚感を覚えた。
俺が一人で感動している間にどこかへ行っていた真人が戻ってきて、「はい」と紙コップを差し出した。中にはオレンジ色の炭酸が入っている。
「くれんの?」
「もちろんよ。今日付き合ってくれたお礼な」
「さんきゅ」
「にしても外暑いなあ。ここ冷房効いててよかったけどさ」
「たしかに」
外は三十度を超える真夏日。ここに来るだけで汗だくになってしまった。
「ちょっと来るの早かったか~」
「ここ……観客席って全部埋まる?」
観客席には、試合に出る学校の生徒らしき団体が散らばっているようだった。その空いてる隙間に、俺達のような応援に来た人がぽつぽつ見える。
「うーん多少は来ると思うけど、基本は試合に出る生徒ばっかだな」
ふーん、と言いつつ再び客席に視線を戻す。ちょうど俺達が座っている場所から反対側の席に、女子の集団が見えた。ここからじゃはっきりと見えないが、下にいる誰かに向かって手を振ったりしている。あの人達も応援に来たのだろうか。
疑問に思ってしばらく観察していると、あることに気が付いた。
「……なんであいつの名前が?」
細長いタオルのようなものを三人の女子が一緒に持って立っている。そこに書かれているのは、「高松くん頑張って」という文字。
周囲をよく見ると、女子達が懸命に視線を注いでいた人物は下の階にいる高松だということを知った。
あいつはあまり自分の話をしたがらない。いつも俺にばかり質問して、満足そうにしている。フェンシングをやってるなんてこと、まったく教えてくれなかった。
「あれ? あの人、碧の王子様じゃん!」
真人が高松を指差す。試合前のウォーミングアップなのか、仲間と喋りながら素振りをしている。
あいつが動くたびに、二階にいる女子達が黄色い声を出して騒ぐ。その様子は、さながらアイドルのコンサート会場にいるファンのようだ。
「……モテるんだな」
「まさかあそこにいる女子軍団って、王子様のファン?」
胸のあたりがモヤモヤする。いや、高松がモテるのは当然だ。あの容姿だし、性格も飛び抜けて優しいし、スポーツも得意となったら人気があるのは当たり前。そんなこと、分かっていたはずだ。うちの学校に来たときもあの騒ぎだったのだから。
なのに──、なんでこうも苛つくんだろう。モテることを羨ましいとは別に思わないのに。
「で、最近どうなんだよ。毎日お昼デートしてるけどさ」
「デート言うな。どうもこうも……普通だし」
友だちでもいいから、もっと碧くんと一緒にいたい。そう言われたあの日以降、俺達は何度も昼を一緒に過ごしてきた。
毎回決まってあいつが俺の分まで弁当を作ってくれるおかげで、菓子パン生活から抜け出せた。弁当のクオリティはいつも高い。「適当でいい」と言ってるのに、ちゃんと栄養バランスが取れたものを作ってくる。
行き帰りで偶然会ったときに話すようになったのも、大きな変化だ。なにより──、俺が指摘した服装の乱れや髪型をすべて直してくれた。今のあいつは、もはやただのモテる正統派イケメン。
ストーカー男のように鞄の中から写真が出てくることもないし、恋愛関係の話も持ち出されない。
正直、拍子抜けした。もっとしつこく迫ってくるか、可能性がないとわかったらすぐに諦めると思っていたからだ。
別に何かしてほしいわけではないけど、なんかこう、ちょっとアクションがあっても──と思いかけて首を振る。
俺はあいつにどうしてほしいんだろう。ハッキリと告白をされたわけではないけど、あんな断り方をしてしまって、少しだけ後悔してる自分がいる。
向かいの女子群が、柵から乗り出すようにして下の階に手を振っている。
たしかに、ああなる女子の気持ちもわかる。今日いつもより格好よく見えるのは、ユニフォームを着ているからだろうか?
長い手足と小さな頭によって、ただの上下真っ白な服を高貴なものだと錯覚させられる。その風貌はヨーロッパかどこかの優秀な騎士のようで、文字通り周囲が霞んで見えるほど格好いい。高校二年生とは思えない。
試合前で、表情も引き締まっているようだ。普段は絶対に見られない顔。俺の前では焦った情けない顔か、へにゃへにゃの笑顔ばかりなのに。
「まじで王子様みたいだな。こんなの見ちゃったら、碧ちゃん嫉妬するんじゃないの」
「……お前バカにしてる?」
「してないしてない」
どう見ても選び放題。あの様子じゃ、校内の女子からもモテることは間違いない。なのに他校の、しかも男に好意を寄せたということは、元々ゲイだったのか?
「なんで俺のこと好きになったんだろ……」
「え、やっぱ告られたの?! そうならそうと早く言ってくれよ~」
うっかり漏れてしまった言葉に、真人が過剰に反応した。これは面倒なことになったと顔を歪める。こいつ、他人事だからって。
「で、付き合う?」
「いや。男は好きになれないと思うって伝えたら、友達でもいいからって言われた」
「あーあ、そんな断り方したんじゃ王子様が泣いちゃうよ」
「うるせー」
「ただいまより、全国高等学校総合体育大会フェンシング大会を開始いたします。選手の皆さんは、アナウンスに従って所定の位置に集合してください」
アナウンスが流れた途端、生徒達が一斉に動き始めた。二階にいた人達も下に降り始め、体育館の奥のほうに学校毎にわかれて座った。手前のこちら側には、何枚も細長いマットが敷かれている。おそらくここで戦うのだろう。
開会式が終わったあと、思ったより自然な流れで試合が始まった。
フェンシングをちゃんと見るのは初めてだ。一対一とはいえ、これほどの人数が剣で戦っている光景は圧巻だった。
「なあ……俺フェンシングのことわかんないんだけど。今日の試合ってなに?」
「今日はフルーレ個人のトーナメントと学校対抗の試合だよ。ちなみに、昨日はサーブルのトーナメントとフルーレの予選な」
「ちょっと待て。なにその、ふるーれ? って」
「フェンシングは三種目あんの。エペ、サーブル、フルーレ。で、あの剣みたいなやつあるだろ? 種目によってあれを当てていい箇所が違う」
「へぇ、知らなかった。難しいんだな」
ということは、真人の弟も高松もフルーレをやっているのか。当てていい箇所が違うと説明されても、正直よく分からない。スマホで調べてみると、フルーレは戦略が大切で──などと色々書かれていて余計に分からなくなった。
「お前の弟はいつ出る?」
「あーどうだろ、実力順で戦う相手決まるから何時になるか分かんない」
「学年関係なく戦うってことか」
「そうそう。あの~誰だっけ、お前の王子様。あの人は強いんかな?」
「どうだろ」
「弟と戦ってくれたら面白いのに」
いつ高松の順番が来るんだろう。さっき一度見かけたきり、どこかに行ってしまって姿が見えない。騒いでいた女子がやる気なさそうに座っているところを見ると、別の場所にいる可能性もある。
そこまで考えて、ふと我に返った。いくらなんでも高松のことばかり考えすぎだ。今日は真人の弟の応援にきたというのに。
「……ちょっとトイレ行ってくる」
「おう。早く戻ってこいよ、いつ出るか分かんないし」
真人の言葉で踵を返しそうになったが、いやこいつが言ってるのは弟のことだと思い直して階段を降りる。それにトイレはロビーにあったはずだから、そこまで時間はかからないだろう。
トイレに入ろうとした瞬間、ちょうど中から出てきた人と肩がぶつかってしまった。
「あ、すみませ──」
相手の顔を見て思わず言葉に詰まった。よりによって、それが高松だったからだ。
「えっ」
よろけて壁に当たりそうになった体を、咄嗟に長い腕が支えてくれる。そのせいで至近距離で顔を見る羽目になった。
「……ごめん」
「え、なんで、碧くんが」
高松は相当驚いたようで、目を見開いたまま固まってしまった。体勢を直したあとも腕を離してくれないから、無理やり体を捩って逃げ出す。
驚いたのはこっちだって同じだ。今の今までお前のことを考えていて、そんなときに登場されたせいで心臓が縮み上がったんだぞ。
「どうしてここに?」
「友達の弟が試合出るから、応援の付き添い」
「ああ……そっか。びっくりした」
なぜか妙に納得したような──いや、どちらかというと落胆した顔で、高松が俯く。今の会話に落ち込む要素はどこにあったんだ?
それより、こいつがいつ試合に出るのか気になる。どうせなら戦っているところが見たい。でも、それは知られたくない。さりげなく聞き出す方法はないだろうか。
「お前フェンシング強いの?」
「えっ、あ、えっと……どうだろう」
「その感じで弱かったら面白いなと思ったけど」
「俺なんか、そんな強くないよ」
ここは男らしく、「活躍を見てくれ」くらい言えよ。好きな人に格好いいところ見せたいとか、そういうプライドもないのか? 情けない。
自信がなさそうな弱々しい態度に苛々してきて、つい手が出てしまった。あっと思ったときにはもう遅い。高松のユニフォームの襟を掴んで、手前に引き寄せる。
「勝つから見てろくらい言えないのか」
「え!? あ、碧く……」
「なんか腹立つお前」
この程度で顔を赤らめやがって。いちいち反応が初心すぎる。けど、さっき高松を見て騒いでいた女子ではなく、俺自身がそうさせているのだと思うと──なかなか気分は悪くない。
「か、勝つから……見ててもらえるかな」
「そんなんで勝てるのかよ」
「もし碧くんが応援してくれたら、頑張れる」
「お、応援って言われても。お前がいつ出るのか知らないし」
「個人と学校対抗の両方に出るよ。個人はこのあと、十時すぎになると思う」
「ふーん」
応援ってなにをすればいいんだ。俺ができることは、ただ遠くから見守るくらいしかないのに。
「俺さ、個人戦は……決勝まで進むから。絶対に。碧くんに見てもらいたい」
「あ、ああ……まあ、がんばれ」
「うん! 今のでやる気が出た。ありがとう」
「そんな、大げさな」
「翔平~? あ、いたいた」
いきなり、階段から男子生徒がひょっこりと頭を出した。こいつと同じ学校の人だろうか。
「あ、ごめん」
「顧問が呼んでるよ──って……その人は?」
「え?」
ぽかんと口を開けて凝視された。たしかに部外者といたら驚かれても当然だ。頭を下げて去ろうとしたが、なぜか男が近づいてきて身構える。
「あー……この人は」
「めちゃくちゃ可愛い……」
「は?」
じっとり顔を見つめながら言われた言葉に、鳥肌が立つ。急になんなんだ、この男は。高松といいこいつといい、初対面で言うことじゃないだろう。
「た、滝川。ごめん、その……その人のこと、あんま見ないで」
「なんでよ。うちの学校にこんなアイドルみたいな男いないじゃん。どこの高校っすか?」
いくら高松と同じ高校とはいえ、愛想良くして取り繕う必要があるとは思えない。しかも容姿を「可愛い」と表現されるのは、「綺麗」と言われるよりもよっぽど腹が立つ。
完全に無視するつもりで俯いた瞬間、目の前にパッと影が入った。顔を上げると、高松の大きな背中が視界に広がった。どうやら顔を見られないようにしてくれたらしい。
「悪い。教えたくないんだ」
「……高松?」
珍しいと思った。まるで怒っているかのような低い声も、きっぱりと断る姿勢も。
「ふーん? なんかよくわかんないけど、まあいいや。行こうぜ」
「うん……あ、碧くん」
振り返った高松が、少し屈んで耳元に唇を寄せてきた。男がまだ近くにいるからだろうか。小声で囁かれる。
「勝手なことしてごめん。他の人に取られたくなくて」
「なっ……」
「じゃあ、俺行くね」
爽やかな笑顔と共に立ち去った王子様とは対照的に、俺は耳に手を当ててその場にしゃがみ込んだ。
耳にかかった息が、いや、それもそうだけど、言われた言葉が──。頭の中で反響している。
さっきまであんなに自信なかったくせに、なんでこういう時だけハッキリ言えるんだ。あいつやっぱりおかしい。他の人に取られたくないとか言って、恥ずかしくないのかよ。
「……まじで意味わかんねぇ」
意味が分からないのは、ヘタレなあいつに翻弄されている俺のほうだ。
席に戻るなり、真人に「戻ってくるのが遅い」と怒られた。弟の試合はちょうど終わったらしく、負けてしまったと肩を落としていた。
高松の出番はいつだろう。時間的にはもうすぐなはずだ。戦っている人達を見ながら、落ち着かない気分で座り直す。
「そういや王子様って関城高校だよな? なんで俺らの学校に来なかったんだろ」
「たしかに」
うちの高校はフェンシング部に力を入れている。真人いわく、過去に男女両方の個人と学校対抗で何度も優勝したことがあるとか。距離的にも通えるはずだが、それ以外の理由があるとすれば、私立か公立かの違いだ。
もし同じ学校に通っていたら、今のような関係になっただろうか。同じクラスだったら俺に興味を持たなかったかもしれない。
「おっ、あれ王子様じゃん? 女子が騒いでる」
「……近いな」
試合をする場所は、俺らから見て斜め下の近距離だった。二階だからここにいるのはバレないと思うが、なんとなく気まずい。
細長いマットの上に、白いユニフォームを着た男が二人。頭には黒いヘルメットのような防具を身に着けている。スタイルの良さでどちらが高松かすぐにわかった。それは俺だけではない。周りにいる女子も、あいつにスマホのカメラを向けている。
審判の掛け声をきっかけに、二人が動き始めた。緊張でピンと張った固い空気を斬るように、高松の剣が相手に向けて真っ直ぐ伸びていく。
互いの動きを読み合う心理戦だ。フェンシングはもっと攻撃を繰り返すものかと思っていたが、少なくともフルーレは違うらしい。
「これルールは?」
「ん~、フルーレとサーブルは先に攻撃したほうが有利になるんだけど、それを防がれたら相手に攻撃権が移る。で、胴体を突けたほうに点が入るって感じかな」
「突いたっていう判定は審判がするのか?」
「審判も見てるけど、基本は機械が判定してる。剣の先に電気の信号を送る装置がついてるんだって。俺もその辺よく分からないけど、ユニフォームが電気を感知して判定器に伝わるらしいよ」
「なるほど。よくできてんな」
「あ、勝った」
見る限り相手も強そうだったのに、あっという間に高松は勝ってしまった。実力の順番で戦うのであれば、かなり強いほうなのかもしれない。
「やるなあ王子様」
「ここで勝ったら次はなに?」
「トーナメントだから、三回戦までいけたらそのあとに準々決勝だと思う」
「ふーん……先が長いな」
「この感じだと王子様の圧勝じゃね? たぶんめちゃくちゃ上手いよ、あの人」
「そうなのか。まあ別に、興味ないけど」
「嘘つけ~気になってるくせに」
「うるさい」
「でも、嫌いじゃないんだろ? 試しに付き合ってみれば良いと思うけどな。あんなイケメンなんだから」
「イケメンかどうか関係ないだろ」
「いや、いやいやある。顔は大事っしょ」
「てかなんで真人はそんなに付き合ってほしいんだよ」
「うーん。なんか、面白いから?」
「人の恋愛を面白がるな」
「でもさ、真面目な話。人に興味ない碧がこんな興味もってんの初めて見たから」
「……そうかな」
「そうじゃん! 人がなにしても関係ありませ~んみたいな顔してるくせに、今日お前ずっと王子様のことばっか見てるし」
「いや、そんなこと──」
ないとは言い切れない。自覚せざるを得ないほど、あいつに関心が向いているのは事実だ。でもそれを恋愛感情に結びつけていいものなのだろうか。
最初の試合から二時間ほど経ち、高松は順調に決勝戦まで勝ち進んだ。どの相手も強そうだったのに、負ける気配すら感じられなかった。
「俺の応援なんて必要ねぇじゃん……」
「決勝戦の相手、めちゃくちゃ強いらしいよ。強豪校の三年キャプテンだって」
「へぇ」
でも、どうせ高松が勝つんだろ。これまで余裕そうだったし──と、気を抜いて見始めた決勝戦。
真人の言葉通り、相手は群を抜いて身体能力が高く、高松は動きを崩されてばかりだった。なんなら少し苦戦しているように見える。
負けてばかりではないが、向こうが少しリードする形で点が増えていく。
「おお~! さすがに決勝はどっちも強いな。王子様……結構押されちゃってるけど」
あんなに騒いでいた女子達も、今やこの試合にのめり込んで見守っている。漂う緊張感に圧倒されたようだ。
会場に響くのは、キュッとスニーカーと床が擦れる音と、二人の激しい足音、そして剣先が当たったときのカチッカチッという音。たったそれだけ。
相手の剣先が高松の腹を突いた。動きが速すぎて分かりにくいが、判定器の数字は増えている。
ただ、高松もやられてばかりではない。引いたと思ったら足を大きく出し、体を捻って相手の背中に剣先を当てる。きっと高度な技なのだろう。
「真人、これってあと何点取ればいいの」
「十五点先取だから、あと一点取られたら王子様は負けるよ。でも二点連続で取れば勝てる」
おいおい、ギリギリじゃん。決勝で勝つところを俺に見てもらいたかったんじゃないのかよ。これで勝てたら、褒めてやろうと思ってたのに。
なんとなく見るのが怖くなって目を逸らしたら、真人が「よっしゃ」と小さくガッツポーズをした。幸いにも、高松に得点が入ったみたいだ。
これで相手に並んだ。あと一点取れば、あいつは個人で優勝できる。
絶対勝てよと念を送っていたら、高松がそれを受け取ったかのように、いきなり振り返ってこちらを見上げた。
「え……」
目が合ったかもしれないと思う前に、またすぐ前を向いてしまう。頭に防具を着けているから、どこを見たのかまでは分からなかった。
審判の合図と同時に、高松の体が動き出す。これまで駆け引きをしていたのに、今回は一瞬の迷いもなかった。パンッと鋭い音が響く。高松の剣先が、相手の胸を叩いた音だ。
「……勝った」
パネルの数字が十五に変わった。高松が頭の防具を取り、汗で張り付いた前髪を大雑把にかき上げる。その瞬間、女子達の悲鳴にも似た声が湧き起こった。
握っていた拳を緩め、椅子の背もたれに体を投げ出す。なんか見てるこっちが疲れた。
「やっぱ物語の最後は王子様が勝つんだなあ。羨ましい」
「最後お前もあいつのこと応援してなかった?」
「あ、バレた? なんか碧の彼氏だと思ったらつい」
「だから付き合ってねぇって」
「はいはい。いーじゃん細かいことは」
とにかく勝ててよかった。せっかくなら労いの言葉でもかけてやろうとスマホのメッセージ画面を開いたが、一体何を言えばいいのか分からない。
「……こういうときって普通なんて言う?」
「ん、なにが?」
「だから、あいつに送んの。お疲れとかでいいかな」
「え待って。まさか連絡先教えたの? 俺それ聞いてないんだけど?!」
そうだった、真人に報告するのをすっかり忘れていた。そういえば、最初はそれすら断っていたんだった。
「この前教えてやったんだよ。昼……一緒に食べるし、何かと不便だから」
「へぇ、そうなんだ。やるなあ王子様」
「ニヤニヤすんな。で、なんて送ればいい」
「え~俺が決めることじゃないっしょ。頑張ったねダーリン、とかでいいんじゃん」
「ふざけんなよ」
まったく参考にならない。フェンシングについてはちゃんと教えてくれたのに、あいつのことになるとすぐこれだ。
『お疲れ。頑張ったな』
ここは無難に、これでいいだろうか。でも高松はこれを読んでどんな反応をする? こんなメッセージもらったところで、ありがとうしか返せないはず。
悩んでいる間に、学校対抗の試合が始まっていた。真人に日程表を見せてもらったが、学校対抗の決勝戦は明日だから今日は一回戦しか見られないと言う。
一つのチームにつき三人の代表が出て、リレー形式で戦うらしい。学校対抗の男子が終わったあと、女子の試合がある。それが終われば表彰式。 つまりその間、男子は休む時間ができる。高松はモテるから、女子がすぐに近づくだろう。
文字を消して打ち直した。送るのはたった一言、『アイス』という単語だけ。伝われ。
学校対抗の男子の一回戦が終わったあと、俺は下の階に降りた。目的地は当然、アイスの自販機。トイレの近くにあるから、場所がわかればここに来るはず。
近くにあったソファーに腰を落とした。妙にそわそわする。待っている間どこを見たらいいか分からず、無駄に指の骨を鳴らしてみたりする。
高松が髪をかき上げたときの、女子の悲鳴が頭から離れない。たしかに叫びたくなるほど格好よかった。でもあれは、決勝で勝ったからそう思ったわけで──。
「あっ、碧くん?」
顔を上げると、高松が奥からこっちに向かって走ってきていた。まるで飼い主が帰って来たときの犬のようだ。
「……走ってくんなよ。試合で疲れてるだろ」
「いや全然、大丈夫」
隣に座った男の額には、見て分かるほど汗が滲んでいる。それに引き寄せられるように、目にかかりそうな髪を耳にかけてやった。途端、高松の火照った頬がさらに赤くなった。
汗が指に触れる。でも、不思議と気持ち悪くはない。努力の証だと分かっているからだろうか。
「あ、ご、ごめん汚いから……」
さっきまで自信に満ちていたはずの顔が、俯いていてよく見えない。
──こっちを向けって。俺のことが好きなんじゃねぇの。なんで見ないんだよ──と口から出そうになった言葉を唇と一緒に噛んで、立ち上がる。
(こいつ、反応がいちいち童貞っぽいんだよな)
きゃあきゃあ騒いでいた女子はこの姿を見てどう思うだろう。イメージと違うと手のひらを返しそうだ。
「アイスなにがいい」
「えっ、いや俺は……あ、碧くんは? 買うよ。ちょっと財布取ってくる」
「いいから」
「い、いやいや良くないよ」
なかなか譲らない高松に、また苛々してくる。奢ってやると言ってるんだから素直にもらえばいいのに。もう勝手に買って渡そう。遠慮されるのが面倒くさい。
アイスの自販機の前に立って、首をひねる。種類が多すぎるし、そもそもあいつの好みをよく知らない。
チョコミントと抹茶は好き嫌いがあるからパス。甘い系か柑橘系だったらどっちが好きだろうと考えた結果、チョコチップとソーダフロートの両方を買うことにした。好みじゃないほうを自分が食べればいい。
「選んで」
差し出されたアイスを目の前に、高松は申し訳なさそうな顔で慌て始めた。反応がいつもに増して面白い。
「お、俺にくれるの……?」
「ん。早く」
「えっと、じゃあ、こっち」
大きな手がチョコチップを掴む。そしてアイスの胴体部分を両手で包み込んで笑うのを見て、ぎょっとした。
「ありがとう。本当に……すごくうれしい。大事にする」
「そんなもん大事にするな! 溶ける!」
「今日頑張ってよかったあ」
普通、たかがアイスでそこまで喜ぶか? やっぱり変なやつだなと思うが、悪い気はしない。
「……おつかれ」
「うん。あのさ、試合中に……もしかしたら碧くんいるかもって顔上げたら、本当にそこにいたんだ。あのときたぶん目が合ったと思うんだけど」
「そうだっけ」
目が合ったのは勘違いじゃなかったらしい。そう考えると、途端に恥ずかしくなる。こいつは俺のことを意識しながら試合をしていたのか。
「俺、あのおかげで勝てたんだ。ありがとう」
「いや……お前の実力だろ。てか、早く食べろって溶けるから」
「あっうん」
「本当は何味がよかった?」
「ん? 碧くんが選んでくれたから、これが好きだよ」
そう言って嬉しそうにアイスを食べ始めた高松に、溜め息が出る。もはや驚きもしなかった。
「なんか……高松って、なんで俺のことが好きなの」
「え、っと。初めて会ったとき、すごい綺麗な人だなって思ったんだ。一目惚れなんて今までしたことなかったのに」
自分で聞いたくせに、猛烈な羞恥心に見舞われる。相槌を打ちながらアイスを頬張って誤魔化すことにした。
「それだけじゃないよ。お昼も一緒に食べてくれるし、連絡も返してくれるし、分かりにくいけど実は優しいところとか。あと仕草も、意外と男っぽい喋り方も……ぜんぶ」
「……そっすか」
甘いソーダの味が口いっぱいに広がる。恥ずかしさに叫びたいくらいだが、言った本人はなぜかスッキリした顔をしている。
「それと目も綺麗できらきらしてるし」
「も、いいって。わかったから」
綺麗とか、他の人に言われると腹が立って仕方ない。なのに──、どうしてこいつに言われても嫌じゃないんだろう。この真っ直ぐで淀みのない瞳にじっと見つめられたら、不思議と素直に言葉を受け止められる。
「……デートとか、したいのか」
「で……デート……?」
俺は何を言っているんだと、手に棒を持ったまま口を覆う。雰囲気に流されて余計な言葉が出た。ちくしょう、自意識過剰みたいで恥ずかしい。
「やっぱいい。今のなし」
「し、したい! デートしてもらえるなら、俺っ」
勢いよく手首を掴まれた。その衝撃で、棒の下のほうに少し残っていたアイスが床に落ちる。
「あ、おい。落ちたじゃん」
「ごごごめん、拭くもの持ってくる!」
高松は慌てた様子でトイレに走って行った。
完全に見えなくなったのを確認してから階段を登る。このまま先に帰ったら、きっとまた焦って謝罪のメッセージを送ってくるはずだ。そのときに空いてる日を聞けばいい。
「デートか……」
あまり馴染みのない言葉。デートをしたら、あいつとの関係が何か変わるのだろうか。


