それまで教室内がざわついていたのがいきなり静まり返った。たっぷり10秒ぐらいは時が止まったと思う。智明と光村が自分の席に戻っていったのを皮切りに、徐々に周囲のざわめきが復活し始め、俺は瞬きをひとつした。
 隆光は欲望に忠実であり勉強熱心である。文献よりも経験重視の彼の真剣な眼差しにうっかり「やらないか☆ なんて言う訳ないだろうが!」
 
 机をバンと叩く。一瞬だけ静寂が訪れ、今度はほどなくしてまた教室内がざわめきに包まれた。

「隆光のことは親友として大好きだけど、さすがにセックスは無理。ケツは出すところであって入れるところじゃない。あと俺は童貞を捧げる相手はもう既に決まってるんだ。お前も知ってるだろ?」
「ああ、知ってる。だけどお前は別に童貞捨てなくてもいいぞ。俺が捨てるから」
「不穏なことを言うのはやめろ」

 タマがひゅんってなるだろ。
 いつも俺の欲望に寄り添ってくれるやつではあったけど、こんなこと言い出すなんて思いもよらなかった。いったいどうしちゃったっていうんだ。まさか熱でもあるのか? 熱中症か?
 7月中旬で最高気温の摂氏40度を達成してしまったせいで脳みそが茹で上がってしまったんだろうか。
 隆光の額にそっと手のひらを押し付けてみるけれど、特段熱はなさそうだ。伊達眼鏡の向こう側にある眼光は鋭く、捕食される寸前の獲物になった気分である。
 額に当てた右手を握りこまれ、隆光が身体を前に倒して顔を寄せてきた。

「わかった。じゃあ、俺と付き合おう」
「なんでそうなるんだよ」
「セックスが無理なら男同士の恋愛の行く末を体験してみたい」
「はい?」

 何を言っているんだコイツは。
 教室のいたるところで女子の黄色い悲鳴が沸き起こった。今や素知らぬ顔をしたクラスメイトたちの耳がダンボとなって俺たちの会話の行く末を見守っている状態である。なんだこの羞恥プレイは。
 隆光の言葉を飲み込むのにいつもよりも大幅なタイムラグが起こってしまっている。無理もない。大親友が俺にホモになれと言っているも同然だからだ。いや、こいつは最初からホモだったのか? ゲイか? こういう場合はなんて言うんだっけか?
 とにかく、俺の初恋を成就させるために、野郎とズッコンバッコンしている場合ではないのだ。
 俺には夢がある。親戚の姉ちゃんと恋仲になって、ふかふかおっぱいの谷間にもう一度顔を埋めるという夢が。

「いくら隆光の頼みといえど――」
「恋愛経験皆無で童貞を捧げるには、あまりにも心許ないと思わないか」

 もっともらしいこと言いやがって。
 核心的な言葉が耳をすり抜けて直接脳内にインプットされる。思わず拒否しそうになったが、でも……そうだ。よく考えてみろ、孝明。2人きりで出掛けたことがあるとはいえ、恋愛に発展するとなるといつものようにショッピングに出かけてはい終了というわけにはいかない。食事だっていつも社会人の彼女におごられてばかり、デートプランというものも、デートスポットとかいう場所も、これからは考えなければならないのだ。
 経験が無い状態で、いきなりそつなくこなせるだろうか? 一度の失敗もなく彼女をエスコートすることができるだろうか?

――否、俺の性格上、絶対にできない。

 下げていた視線をそろそろと上げる。隆光の真剣な眼差しに、ごくりと喉を鳴らす俺。謎の動悸で胸が痛い。
 幸いというべきか、隆光の容姿は悪くない。むしろどっかの雑誌に載っていても不思議ではないレベルで顔整い族である。そして俺も、髪は短く切りそろえてはいるものの若干の癖毛が隠しきれない猫毛、幅広な二重で目は大きい方だと言われるし、どちらかといえば女子にモテるよりもじいちゃんばあちゃんに好かれる顔立ちをしている――つまりはベビーフェイスであるという周りの評価もあって、隆光と並んで歩いてもそうそう浮きはしないだろう。……多分。

「……経験が大事……だよな?」
「ああ。何事も経験がものをいう世の中だ。酸いも甘いも嚙み分けられるほど経験して、初めて大人になれるんだ」
「大人へのハードル高くない?」
「兎角、俺は孝明なら抱けると思ったし、俺の煩悩を理解してくれるのも孝明しかいない。頼む。俺の疑似恋愛に一肌脱いでくれないだろうか! 物理的に!」
「最後の一文が無かったら頷いたのに!」
「悪い。最初から言い直す」
「巻き戻し過ぎ。俺の疑似恋愛に、からでいいよ」
「俺の疑似恋愛に一肌脱いてくれないだろうか!」
「しょうがないな。大親友の望みとあらば、きかないわけにはいかないよな」

 隆光が「ありがとう!」と言いながら俺の右手を握ったまま立ち上がる。俺もつられて立ち上がり、上下に振られる腕に身体をもっていかれそうになるのを必死に耐えた。周りからは拍手が沸き起こっている。そうして我に返った。

「あれ、これ、公認カップルになってね?」

 俺の呟きを肯定するかのように、教室内で沸き起こる拍手のボリュームがもう一段階上がったのである。