うだるような暑さを抱え込んだ教室の中。
 俺――伏屋孝明(ふしやこうめい)は高らかに叫んだ。


「おっぱいは世界を救う!」


 瞬間、「朝っぱらからうるせえ!」という怒号とともに後頭部を叩かれ、衝撃で前につんのめる。

「いてえな智明(ともあき)。ちょっとは加減しろよ」
「最高気温突破してうぜえってのに、暑苦しいのがいたらそりゃ叩くだろ」
「叩かねーよ!」

 地味に痛む後頭部をさすりながら後ろを振り返る。汗ばんだシャツをはためかせながら教室に入ってきたクラスメイトが眉間にしわを寄せ、口を歪ませて、これでもかと不愉快な表情を作り上げてさっさと席に荷物を置いてこちらに戻ってきた彼の名は前田(まえだ)智明。彼の席は窓際なので直射日光に当たりたくないのだろう。
 かくいう俺も、最後尾とはいえ窓際の席なので一番日の当たらない比較的涼しい教室の出入り口付近で吠えた訳だが。嫌そうな顔をしつつもこちらに合流した智明が、適当な椅子に座って俺を見上げた。いい加減その顔を元に戻せ。
 目顔で「お前も座れ暑苦しい」と言われた気がして大人しく近くの椅子に鎮座する。

「お前も毎朝懲りないね」
「みっちゃ~ん! みっちゃんも智明に言ってやってよ。もっと俺に優しくしてって」
「君こそ、おっぱい星人のおっぱい論を毎朝聞かされてる俺たちに優しくするべきだね」

 智明の次に登校してきたのはみっちゃんこと、光村信三(みつむらしんぞう)くん。眼鏡をかけた少しぽっちゃり体型のおっとりした喋り方とは裏腹に、出てくる言葉は辛辣である。ちなみにおっぱい星人というのは俺のことらしい。彼は俺が『毎朝』おっぱい論を語っていると言うが、厳密に言うと毎朝ではない。さすがの俺もそんな基地外じみたことはしない。弁えているつもりだ。
 ただ、聞いてくれる人間がいるとつい感情が昂ってしまって、結果的に叫んでしまうのである。

「ふかふかおっぱいは革命なんだぞ。……あー、早く成人してえな。そんで親戚の姉ちゃんに告っておっぱい揉ませてもらって童貞を卒業するんだ」
「君のおっぱい論によると、そのお姉さんの豊満な谷間に顔面からダイブしたせいでおっぱい星人になっちゃったんだよね?」

 酷い言いようだなみっちゃん。だがその毒舌なところが彼らしい魅力のうちのひとつだ。
 ただ、自分からおっぱいにダイブしたわけじゃない。


「違うぞみっちゃん。こけそうになったか弱い10歳の俺を支えようとしてくれた姉ちゃんの谷間が、偶然俺の顔面に飛び込んできたんであって、最初からやましい気持ちがあったわけではない。ここ重要。試験に出ます」
「出てたまるか」


 そう突っ込んだのは智明である。なんでもいいけど人の真横で堂々と脇に制汗剤を噴くな。ちょっとは恥じらいを持て。
 両肘を机につき、両手で顎を支えながら大きめの溜息を吐く。親戚の姉ちゃんに助けてもらったあの時から、俺の淡い初恋となり、そして純潔になった。18歳を迎えたら、俺は純潔を姉ちゃんにささげるつもりだ。親戚の集まりに必ず顔を出す訳ではない、少しばかり年上の彼女とは何度かメールのやり取りをする仲である。母の日のプレゼントを一緒に買いに行ったこともある。俺が未成年だから子ども扱いをしてくることに解せない気持ちは抱きつつも、華奢で清楚で豊満で、笑えばえくぼができる愛嬌抜群の笑顔を見ればそんなプライドも霧散するのだ。
 俺は彼女の笑顔を思い浮かべながら18歳の誕生日まであと何日かを頭の中で数え始めた。
 今は高校3年の夏。7月にしては湿気の無い暑さが続き、季節の変わり目特有の雨もあまり降らない珍しいから夏だ。
 期末試験も無事に乗り越え、あと数日で夏休みが始まる。ということで、俺の誕生日は12月だから――……駄目だ。暑すぎて数える気にもならない。


「18歳までが遠い……!」
「あんまり欲望にまみれてっとその親戚の姉ちゃんとやらに逃げられるぞ。キモイ~つって」
「何を言うかね、智明くん。生きることに於いて欲望とはなくてはならないものなんだぞ」


 智明の冷やかしを一刀両断したのは、先ほどから俺の目の前で俺の熱弁に耳を傾けてくれていた大親友、(あずま) 隆光(たかみつ)である。
 
「出たよ。寺の子の説法」
「お寺の子とは思えないぐらい欲望に寛容だよね、隆光くん」
「生まれた瞬間から悟りを開くわけじゃないからな。そもそも人間が生きるために「水を必要とする、即ち欲する」という時点で、生と欲は表裏一体なのだよ」

 短く切りそろえられたダークブラウンの短髪、鼻は高く彫りの深い顔立ち、黒縁の伊達メガネが良く似合う細身の骨格。高校生にしては低音ボイスが、「いいかい」と前置く。

「人間というものは欲望でできている!」
「よっ! さすがは寺の子! 俺の救世主!」

 キリッという効果音が聞こえてきそうな決め台詞に、俺はスタンディングオベーションを送った。
 彼は寺の子でありながら欲望に忠実であり勉強熱心な性格で、常に俺のおっぱいはいかに人を幸せにするかを存分に語れる数少ない貴重な存在なのである。隆光だけが異論なく自分の想いを肯定してくれる。
 にこにこと話を聞いてくれるだけで、どれだけ俺が救われているか!

「隆光が女だったら、童貞捨てても良かったな」
「それじゃあ、雄っぱい揉ませてやるから俺のお願いを聞いてくれないか」
「雄っぱいはお呼びでねえ。……お願いって?」

「男同士でセックスしてみたい」