新見駅長も食べ終わって、一緒に食後のコーヒーを飲み始めた。

 お腹がいっぱいであったかさに安心した私は、両手でカップを包みながら口を開いた。今なら、と思ったから。

「新見駅長……その、ずっと聞きたかったことがあって」
「何でしょうか」

 コーヒーカップを丁寧にソーサーに置いた新見駅長が、私を見つめる。

「伝言板のやりとりはその……迷惑ではなかったですか。調子に乗ってずっと返信を書いてしまっていて。今さらですけど新見駅長の負担だったのなら、謝らないとと思っていて」

 一年間、勝手に親近感を持っていた。だが、私の独りよがりだったらどうしようかと思っていたのだ。夜のカフェは温かく静かで、打ち明け話をするにはもってこいだろう。緊張した私の耳は、新見駅長の息遣いまで察知しそうだ。

「謝る必要は全くありません」

 新見駅長は真顔で言うが、私はその言葉をやすやすと受け取れない。

「新見駅長は大人なので、そう言ってくれるのだろうと思っているのですが……」
「疑われているようですね」
「疑っているというか、普通に考えると迷惑だったかなと」
「ではもう少し、凛子さんからの質問に深く答えさせてください」

 質問があればどうぞ、から始まった私と新見駅長の伝言板だ。新見駅長はずっと私の質問に誠実に答えてくれる。

 新見駅長は大きな硝子窓の外にふと視線をやった。まるで遠い日を見ているような目だった。
 
「私は昨年の今頃から駅長になったのですが、駅長に就任するには年齢的に早い方なのです」

 きっちりした新見駅長はきっと職場でも優秀なのだろうと予想できる。

「駅長に就任した直後から、年上の部下に……嫉妬のようなものを向けられて……折り合いが良いとは言えない状態でした」
「年上の部下、ですか……」

 新見駅長の声は淡々としている。だが、新しく就任した職場に、年上の部下。難しい環境なのはすぐ伝わった。

 伝言板で新見駅長の挨拶を見て、新しい場所で一緒にがんばろうと思ったことはあながち間違いではなかったようだ。

「息苦しい環境の中で、伝言板に凛子さんの書き込みが来て。誰かが片隅であがいている私を……見つけてくれたような気がしました」

 新見駅長の切れ長の瞳が細くなる様に、目を奪われた。駅長の制服を着た彼が、桜舞うあのホームで伝言板の前に立っている姿が目に浮かぶ。

「夏に、部下と口論になり憔悴した日がありました。その時に凛子さんが『今日も暑いのによくがんばりましたよね、私たち』と書いてくれて……」

 ちらちらと降る小雪を見つめる新見駅長の横顔が、その日を思い出しているかのように穏やかだ。

「もう笑えないと思っていた夜でしたが、凛子さんの一言に触れて、笑えたんですよ」

 触れた、とは例えだと思う。

 けれど私が書いた伝言板の字に、新見駅長の指先が触れた日があったかもしれない。そう思うと、みぞおちの奥でミネストローネが熱く疼いた。

「……そうやって笑顔をもらったことが何度も、ありました」

 真正面に座る新見駅長が、私をまっすぐ見つめて微笑んだ。

 私も、同じだった。

 新しい職場に馴染もうとして、空回って疲れた日。もう疲れ切ったと思った夜。伝言板の前で何度、心をほどいてもらっただろうか。

 もし私の知らないところで、新見駅長もそうだったのだとしたら。

 私の「迷惑ではなかったですか」という問いへの、きわめて誠実な答えだった。

「新見駅長のお気持ちを聞けてほっとしました」

 新見駅長はあの無人駅の駅長でなくなってしまうのだ。私はこの一年の深い礼を込めて、頭を下げた。

「一年間、本当に……ありがとうございました」

 顔を上げると、新見駅長の眉尻は下がっていて、彼は少し困ったように言った。

「こちらこそ、一年間、ありがとうございました」

 新見駅長の返答をもらって、ああ、もうあの伝言板の日は終わってしまったのだなと痛感した。

 あの冬の出会い、桜の高鳴り、夏の励ましに名残惜しさがわき上がる。この胡桃の椅子から立ち上がりたくなかった。

 けれど容赦なくコーヒーの残量は減り、底が見えてしまって、私たちは腰を上げた。

 もうこの店を出れば、新見駅長とのつながりは全て、終わるのだ。