これ以上打つ手がない。
新見駅長の低い声がいまだにこびりつく耳に手を当てながら、いつ119番通報しようかぼんやり考えていた。
通報する決意を固めながら三十分がたったころ、隙間だらけの駅舎に強い光が入った。車のヘッドライトだ。
「車……!」
私は助けを求めようと駅舎を飛び出した。駅前に停まった乗用車から降りてきたのは背の高い三十代くらいの男性だ。彼は駅から出てきた私に問いかける。
その声は、先ほど電話で聞いたのと同じだった。
「凛子さんですか」
意志の強そうな切れ長の瞳に、竹のようにまっすぐな姿勢。伝言板に書かれた筆跡を体現したかのような彼が新見駅長だと、疑う余地がなかった。
「はじめまして。駅長の新見です。これで確認を」
彼は丁寧に社員証を見せてくれた。顔写真入りで「新見正人」と書いてある。私が社員証を確認すると、彼は車のドアを開けた。
「良ければ、送ります。車へどうぞ」
まだ現実の彼をどう受け止めていいかわからない私は、目をぱちくりさせた。新見駅長の整った形をした眉が不安げに下がる。
「初対面ですので、車に乗って頂くのは難しいかもしれませんね。私が信用できないようでしたら、私から119番に事情を話してみましょうか」
119番と聞いて私はハッとした。新見駅長はまだこの駅の管理者だ。彼の駅で通報などして欲しくないだろう。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。こんな……お世話になっていいのでしょうか」
新見駅長の口元がささやかに緩む。小雪舞う中で、低い声が穏やかに届いた。
「凛子さんさえ良ければ」
咎める気のない声に押されて助手席へとお邪魔した。新見駅長が運転席に乗り込み、ドアを閉める。暖房が効いた車内は暖かく、今まで身体が強張り冷えていたことを知った。
「どうぞ」
新見駅長が遠慮がちに差し出したのは、自動販売機で売っているコーンポタージュ缶だった。
伝言板でのやりとりの中で私が好きだと言ったものだ。まさか、私が寒い駅舎にいたから、わざわざ買ってきてくれたのだろうか。
コーンポタージュ缶を受け取ると、手のひらがじんじんするほどあたかかった。
「ありがとうございます……」
「いえ、差し出がましいことをして、すみません。家はどのあたりですか」
「山麓駅の近くです」
山麓駅も新見駅長の管理する駅だ。彼はそうでしたかと短く言ったあと、小雪の夜道を車でゆっくりと走り始めた。車内には静かなピアノの曲が控えめに流れている。
彼はどうして終電に乗り遅れたのかとも聞かない。言葉少なな新見駅長の隣で、私はつぶつぶ噛み応えがあるコーンポタージュを飲んだ。
胃の形がわかるほど、ポタージュがとろんと温かい。
私はほっとして、思わず目が潤んだ。懸命に飲み込もうとしたのだが、ほろっと涙の粒がこぼれてしまった。
「……迷惑かけてご、ごめんなさい」
私は思うよりずっと、心細かったみたいだ。運転席からの視線を感じたが、彼は何も言わなかった。
新見駅長の運転する車は順調に山道を進んでいった。コーンポタージュを飲み干して落ち着いた私は、ようやく鼻をすすりながら新見駅長の横顔に声をかけた。彼のすっとした顎元が凛々しい。
「電話で変な言い方しかできなかったのに……あそこにいるって伝わっていて驚きました。それに業務時間外ですよね。わざわざ来て頂いて、本当にありがとうございます」
私は心の底からの感謝を伝えたつもりだった。だが、新見駅長は素っ気なく「いえ」とだけ答えて黙ってしまった。手間をかけさせてしまって情けなく、ぎゅっと膝の上で拳を握った。
しばらくして新見駅長の低い声が届いた。言うか言わないか迷ったかのような間がたっぷりとあった。
「凛子さんから……連絡があればと、思っていたので」
新見駅長の声を受け取った私の耳はいつの間にか熱を持ち、私はこくりと喉で空気を飲んだ。
「……もしかして、あの電話番号」
