ちょうど一年前の三月、今と同じように寒い日に、私は産休に入った前任者の代わりに赴任してきた。
山と山の間にひっそりと息をする辺鄙な村の中学校への転勤で、私はこの無人駅を毎日利用するようになった。
転勤のおかげで家族や地元の友だちとは遠く離れ、新しい土地に不安ばかりの初出勤日。
出勤するには早すぎる時間に駅に到着した私は、この無人駅を見て回っていた。
そのときホームの端の伝言板で、新見駅長の書き込みを見つけたのだ。
『本日より新しく駅長になりました新見正人です。山麓駅とこちらの駅を兼任いたします。留守の時も多いですが、この駅も大切にします。よろしくお願いいたします。ご質問などがありましたら、この伝言板をご利用ください』
「こんな伝言板なんて、誰も見ないだろうに……」
新しい駅長事情など知らせなくてもいいのに。誰も見ていないところで律儀に挨拶を書いた彼の実直さと、几帳面な字から目が離せなかった。
私と時を同じくして、新しい場所で頑張ることになったのだろう彼に、私は妙に親近感が湧いた。
その後、しばらく見ていたが、伝言板に何かを書き込む人はいなかった。誰もわざわざ見に来ないホームの端の伝言板に、ひっそりと佇むきちんとした文字たち。
その字が一人で気丈に踏ん張っているような気がして、放っておけなかった。
新しい職場に馴染もうとしながらも、やはりまだどこか一人きりの感覚が抜けない私と同じに思えた。
私は新しい場所で踏ん張る彼と、自分へのエールを込めて、伝言板に初めて書き込みをした。チョークを手に取り黒板に質問を記す。
『新見駅長、初めまして。ひっそりした駅ですが、よろしくお願いいたします。駅長さんの好きな本は何ですか。凛子』
私の丸い字の書き込みで伝言板は少しだけ賑やかになって、私はふふっと笑った。
「一緒にがんばりましょうね、新見駅長」
新見駅長が本を好きかどうかはわからないが、私は誰かの人となりを聞くときにまずどんな本を読むのか聞きたいのだ。選書には人の好みがもろに出るからだ。
私は返信があるかどうかが気になって、毎日ホームの端まで行って伝言板を覗くようになった。するとしばらくして、新見駅長から伝言板に返信があった。
『ご質問ありがとうございます。私はミステリーをよく読みますが、読書が好きなのでどのジャンルでも読みます。おすすめがあれば教えてください』
私は眉と眉の間がパッと広がるほど目を見開いて、さっそくチョークを手に取った。一時間に一本しかない電車を逃して、次の電車が来るまでじっくり伝言板に私のおすすめを書き残した。
あまりにびっしり書きすぎて、新見駅長が引いたかもしれないと気づいたのは電車に乗って帰路についた後だった。
けれど新見駅長は、角張ったハネの強い文字で「全部読んでみます」と返信をくれた。
春が訪れ、桜舞うホームで、新見駅長から本の感想を受け取った。
『朝食に誘うことが告白をほのめかすラストの余韻が、特に美しかったです』
「そう!そうなんですよ、そこ!わかってる新見駅長!」
私は誰もいない駅の伝言板の前で、ひとり大騒ぎしてしまった。桜の花びらが新見駅長の文字にくっついていたのをよく覚えている。
スマホでぽんと言葉が届く今の時代に、一週間に一度程度の返信。あまりにのんびりしたやりとりは、長い息をつくように私に染み入り心地よかった。
私と新見駅長は伝言板でささいな会話を続けた。無人駅でそもそも利用者が少ないうえに、ホームの端にある伝言板に興味を示す人は私以外にいなかった。
蝉がうるさく鳴いてうだるように暑い夏の日に「今日も暑いのによくがんばりましたよね、私たち!」と書けば「私たちほどがんばっている人はいません」と返ってきて夏の励ましになった。
ホームから見える山々の紅葉が色づき始める頃に「最近、夜カフェ読書にハマっている」と書くと、新見駅長は「私も夜カフェを探してみます」なんて言ってくれる。
私は伝言板でもおしゃべりなので、新見駅長の方が話す言葉は圧倒的に少なかった。けれど彼は必ず私の言葉に反応してくれて、私が好きだと言ったものに興味を持って返信してくれた。
新見駅長の方から「以前、凛子さんが言っていたコーンポタージュ缶を飲んでみました」なんて心ある言葉をくれたりもする。
新見駅長は職務として利用者の一人と交流を持っていてくれるだけだろう。でも私は、新見駅長のハネが強い字を心待ちにし、自然と心を寄せていた。
