終電まであと3分。
三月を迎えても、山深いこの地にはまだ春の気配はない。
今夜は雪が降りそうなくらいの底冷えだ。身を切るほどの冷たい風を突っ切って走り、あるようでない無人駅の改札を通り抜ける。
やや小高いホームを上ると、一両だけの終電電車がちょうどホームに入ってくるところだった。
しかし、私はホームに止まろうとする電車を素通りして、ホームの端っこを目指す。
無人駅だというのに無駄に長いホームの端だが、ぱっと行って戻れば、終電の出発までに間に合うはずだ。
ホームの端には雨ざらしの、古い黒板の伝言板があるのだ。昔ながらの伝言板を、帰る前に絶対に見ておきたい。
そろそろ、返事があるはずだからだ。
予想通り、伝言板のちょうど私の目線あたりに書かれていた文字を読み始めた。
『駅長が変わることになりました。一年間、お世話になりました』
「え……嘘でしょ……」
几帳面で角張っていて、ハネが強いその筆跡。
この一年、私の側に居続けてくれたその文字が別れを告げていた。
私は突然の別れの言葉を受け入れがたく、見慣れた筆跡を幾度も繰り返して読んでしまった。いくら読んでも、その文字が示す内容が変わることはないのに、私の目も耳も頭もこの几帳面な字で埋め尽くされていた。
どれくらいそこに立ち尽くしていたのだろうか。
ふと気づくと、駅には私一人っきりだった。
いつの間にか一両だけの終電電車は行ってしまったようで、世界にひとりかと思うほどホームは静まり返っていた。
「帰らないと……」
私はやっと伝言板の前から去って、プレハブ程度しかない木の駅舎を通り抜ける。人は一人もおらず、真っ暗で身を切る風の音しかしない駅前をぐるっと眺める。
「あ……ど、どうやって帰ろう」
伝言板の別れの衝撃も受け取りきれないまま、私は家に帰ることすら困難な状況であることにやっと気づいた。
この無人駅の近くにある中学校で国語教師として赴任してもうすぐ一年。ここがどれほどの田舎であるかはわかっている。
最終バスは5時間前に終了。終電の時間にはタクシーは配車拒否される。しかも今晩は雪が降る予報だ。この頼りない無人駅で夜を明かせば凍死の可能性がある。雪国出身の私は寒さの怖さを親から刷り込まれている。
「教頭先生に、電話を……!」
先程、駅まで送ってくれた教頭先生に助けを求めようとスマホを取り出す。
「やば、電池2%しかない!」
焦りながら教頭先生の電話番号を探しているうちにしゅんとスマホの画面が暗くなる。
「待って待って待って……」
私はスマホに呼びかけたが、無情にもスマホは眠った。人が住む集落や最寄りの交番は駅から5㎞以上離れている。私は両手で顔を覆った。
「マジで死ぬんじゃないこれ……」
幸い最大防寒装備をしているが、多少でも寒風を避けるために駅舎の中へ逃げる。私は駅舎の壁際に座り込んでホッカイロを握りしめながら、両膝に顔を埋めた。
新見駅長とはお別れで、終電を逃して無人駅に取り残された。
「はぁもう……最悪」
深いため息をついてから顔をあげると、古めかしい薄ピンクの公衆電話と目があった。
「あ、これがあった……!」
ひっそりとしたこの駅だが、公衆電話が置かれ続けていた。災害用にと、新見駅長が定期点検していると伝言板でお知らせしていたのを思い出す。
「さすが新見駅長、仕事ができる!」
私は公衆電話にすがった。
「どこにかけよう……さすがに119番はちょっと……」
だが、他に助けを求められる電話番号を一つも覚えていない。情報は全部スマホの中。両親の電話番号すら覚えていない。
私はふと思い立ち、再びホームの端へ向かい、伝言板の前に立った。伝言板には別れを告げるお知らせの後に、もう一文があるのだ。
『もし、何かお困りの際はこの番号へご連絡ください。新見正人』
伝言板に記された電話番号は、携帯の番号だ。
仕事用の携帯だろう。この無人駅を管理しているのは、三つ隣の比較的大きな駅、山麓駅だ。山麓駅の駅長である新見駅長が、この無人駅の管理も兼任している。
この沿線は終電が早いので、もう駅長の仕事は終わっている時間だろう。電話をかけてもつながるかわからない。
けれど今、私の助けに応えてくれる可能性が一番高いのはこの電話番号だ。
この駅で起こったことだから、新見駅長に連絡を入れるのは妥当なはずだ。
新見駅長がこの無人駅に見回りに訪れるとき、私はこの駅にいたことがない。だから新見駅長がどんな人なのか、私は顔も知らなかった。
私と新見駅長はこの伝言板だけのつながりなのだ。
三月を迎えても、山深いこの地にはまだ春の気配はない。
今夜は雪が降りそうなくらいの底冷えだ。身を切るほどの冷たい風を突っ切って走り、あるようでない無人駅の改札を通り抜ける。
やや小高いホームを上ると、一両だけの終電電車がちょうどホームに入ってくるところだった。
しかし、私はホームに止まろうとする電車を素通りして、ホームの端っこを目指す。
無人駅だというのに無駄に長いホームの端だが、ぱっと行って戻れば、終電の出発までに間に合うはずだ。
ホームの端には雨ざらしの、古い黒板の伝言板があるのだ。昔ながらの伝言板を、帰る前に絶対に見ておきたい。
そろそろ、返事があるはずだからだ。
予想通り、伝言板のちょうど私の目線あたりに書かれていた文字を読み始めた。
『駅長が変わることになりました。一年間、お世話になりました』
「え……嘘でしょ……」
几帳面で角張っていて、ハネが強いその筆跡。
この一年、私の側に居続けてくれたその文字が別れを告げていた。
私は突然の別れの言葉を受け入れがたく、見慣れた筆跡を幾度も繰り返して読んでしまった。いくら読んでも、その文字が示す内容が変わることはないのに、私の目も耳も頭もこの几帳面な字で埋め尽くされていた。
どれくらいそこに立ち尽くしていたのだろうか。
ふと気づくと、駅には私一人っきりだった。
いつの間にか一両だけの終電電車は行ってしまったようで、世界にひとりかと思うほどホームは静まり返っていた。
「帰らないと……」
私はやっと伝言板の前から去って、プレハブ程度しかない木の駅舎を通り抜ける。人は一人もおらず、真っ暗で身を切る風の音しかしない駅前をぐるっと眺める。
「あ……ど、どうやって帰ろう」
伝言板の別れの衝撃も受け取りきれないまま、私は家に帰ることすら困難な状況であることにやっと気づいた。
この無人駅の近くにある中学校で国語教師として赴任してもうすぐ一年。ここがどれほどの田舎であるかはわかっている。
最終バスは5時間前に終了。終電の時間にはタクシーは配車拒否される。しかも今晩は雪が降る予報だ。この頼りない無人駅で夜を明かせば凍死の可能性がある。雪国出身の私は寒さの怖さを親から刷り込まれている。
「教頭先生に、電話を……!」
先程、駅まで送ってくれた教頭先生に助けを求めようとスマホを取り出す。
「やば、電池2%しかない!」
焦りながら教頭先生の電話番号を探しているうちにしゅんとスマホの画面が暗くなる。
「待って待って待って……」
私はスマホに呼びかけたが、無情にもスマホは眠った。人が住む集落や最寄りの交番は駅から5㎞以上離れている。私は両手で顔を覆った。
「マジで死ぬんじゃないこれ……」
幸い最大防寒装備をしているが、多少でも寒風を避けるために駅舎の中へ逃げる。私は駅舎の壁際に座り込んでホッカイロを握りしめながら、両膝に顔を埋めた。
新見駅長とはお別れで、終電を逃して無人駅に取り残された。
「はぁもう……最悪」
深いため息をついてから顔をあげると、古めかしい薄ピンクの公衆電話と目があった。
「あ、これがあった……!」
ひっそりとしたこの駅だが、公衆電話が置かれ続けていた。災害用にと、新見駅長が定期点検していると伝言板でお知らせしていたのを思い出す。
「さすが新見駅長、仕事ができる!」
私は公衆電話にすがった。
「どこにかけよう……さすがに119番はちょっと……」
だが、他に助けを求められる電話番号を一つも覚えていない。情報は全部スマホの中。両親の電話番号すら覚えていない。
私はふと思い立ち、再びホームの端へ向かい、伝言板の前に立った。伝言板には別れを告げるお知らせの後に、もう一文があるのだ。
『もし、何かお困りの際はこの番号へご連絡ください。新見正人』
伝言板に記された電話番号は、携帯の番号だ。
仕事用の携帯だろう。この無人駅を管理しているのは、三つ隣の比較的大きな駅、山麓駅だ。山麓駅の駅長である新見駅長が、この無人駅の管理も兼任している。
この沿線は終電が早いので、もう駅長の仕事は終わっている時間だろう。電話をかけてもつながるかわからない。
けれど今、私の助けに応えてくれる可能性が一番高いのはこの電話番号だ。
この駅で起こったことだから、新見駅長に連絡を入れるのは妥当なはずだ。
新見駅長がこの無人駅に見回りに訪れるとき、私はこの駅にいたことがない。だから新見駅長がどんな人なのか、私は顔も知らなかった。
私と新見駅長はこの伝言板だけのつながりなのだ。
