バーを出た頃には、すでに時間はギリギリだった。急ごうにも、ヒールのせいでまともに走れない。
「……何やってるんだろう。私」
駅のロータリーに着いた頃には、無情にも終電が走り去っていく姿が見えた。私を置いていかないで! と叫びそうになったけど、深夜とはいえ街中でそういうことが出来ない程度には、私はまだ理性的だった。熱帯夜の温い風が、私をあざ笑うかのように肌をなぞっていく。
仕事の残業や、用事が長引いて終電を逃した経験はあるけど、お酒を飲んで終電を逃したのはこれが初めてだ。ちなみに私はお酒にめっぽう強い。お酒は入っているけど、足取りも思考もまともだ。バーで時間を忘れていたのはお酒に飲まれていたからではない。考え事が多すぎて、時間にまで意識が向いていなかったからだ。
「どこかで時間を潰すしかないか」
自宅まで歩いて帰れない距離ではないけど、今日はヒールだし、深夜でも靴を売っている店を探す気にもなれない。幸いにもここは都市部だし、数時間も経てば始発が動き出す。無茶はせずに今夜はどこかで時間を潰すことにしよう。といってもこの辺りは、自宅や職場の最寄り駅じゃないから、周辺にそこまで詳しくはないけれども。漫画喫茶でもカラオケでもいい。24時間営業の店舗を求めて、繁華街の方へ少し進むと。
「ここにしよう」
たまたま最初に目についたのは、通り沿いにある全国チェーンのファミレスだった。漫画喫茶やカラオケは普段あまり利用しないから会員証も持っていないし、あまり慣れない場所だけど、高校、大学とファミレスでアルバイトをしていた私にとってはある意味、一番気安い場所だ。もっともここは、私がバイトしていたのとは違う会社のチェーン店だけども。
「いらっしゃいませ。空いているお好きな席へどうぞ」
ホールは若い男性店員一人で回しているようだった。深夜とあってお客さんは少なく、席は選び放題のようだ。利便性を考えて、ドリンクバーに近い席に座ることにした。私以外にお客さんは、ノートパソコンを広げている若い眼鏡の男性がいるだけのようだ。
「ドリンクバーと、フライドポテトをお願いします」
ドリンクバー単品だと割高なので、付け合わせにフライドポテトも注文することにした。深夜のフライドポテトは背徳感があるけれど、傷心の今日ぐらいは見て見ぬふりをしよう。
フライドポテトが届くまでの間、ドリンクバーにジュースを取りに行く。お酒を飲んだ帰りだし、烏龍茶にしておこうかな。手早くグラスに氷を入れて、烏龍茶を注ぐ。最後にストローを取ろうと手を伸ばそうすると。
「もしかして、有沢先輩ですか?」
私の名前は有沢夏帆。名字に先輩とつけて呼ぶその声には、確かに聞き覚えがあった。視線を左に向けると、ファミレスの先客だった眼鏡の若い男性が、空のグラスを持ってドリンクのおかわりに来ていた。当時はかけていなかった眼鏡姿だったから一瞬だけ混乱したけど、すぐに顔と声が一致した。
「そういう君は、榎本快くん?」
「ご無沙汰しています。先輩の卒業以来ですよね」
榎本快。彼は高校時代の後輩にあたる。私たちは生徒会に所属していて、当時三年生だった私は副会長で、一年生だった有沢くんは庶務を務めていた。私は最後の年だったので、一緒に活動した期間は秋に引退するまでの七ヶ月程度だったけど、榎本くんは行動力があって、一年生ながら生徒会の中心メンバーとして活動を盛り上げてくれた。庶務として、副会長の私の補佐をしてくれる機会も多くて、お互いの名前に夏が含まれるからと、夏夏コンビと呼ばれていたことが懐かしい。後に、榎本くんが生徒会長になったと人伝に聞いていたけど、それも納得だ。
「高校の時は眼鏡かけてなかったよね」
「先輩が卒業した次の年からです。元々騙し騙しだったんですけど、もっと早くかけてれば良かったな」
そう言って苦笑すると、榎本くんはドリンク片手に、一度席に戻り。
「先輩、もし良かったら、そっちの席に移ってもいいですか?」
「もちろん。私も久しぶりに色々話したいし」
断る理由なんてない。快諾すると、榎本くんは飲み物とノートパソコンを持って席を移動し、私の向かいに着席した。ちょうどそのタイミングで私が頼んでいたフライドポテトが届いたので、榎本くんが律儀に店員さんに席を移った理由を説明していた。
夜中に一人でフライドポテトを食べる罪悪感が、榎本くんのおかげで和らぐ。二人でフライドポテトをつまみながら、様々な話題に花を咲かせることになった。
「榎本くんは二つ下だから、二十三歳か。今は何をしてるの?」
「今は大学院生です。研究職志望で。そういう先輩は?」
「こっちで会社員してるよ。今年で三年目」
数時間前にも別件で近況報告をしたので、我ながら説明はスムーズだった。
約七年ぶりの再会だったけど、自然と昔のような夏夏コンビの距離感で話せている。もちろん、一晩で七年分の空白が埋まりはしないけど、始めたてのジグソーパズルみたいに、白地の上に、ポツポツと話題というの名のピースがのせられていく。そうして一通り、お互いの近況について語り終えると。
「それにしても、こんな時間にどうしたんですか? 終電逃したのは察しがつきますけど、見たところ私服だし、仕事で残業って感じではなさそうだけど」
「……バーで飲んでたら、終電の時間を失念してて。始発までここで時間潰そうかなって。違うチェーン店だけど、学生時代はファミレスでバイトしてたから、何となく気安いんだよね」
苦笑交じりに、フライドポテトを一本つまむ。二人で食べているから、いつの間にかお皿の半分まで減っていた。
「そういう榎本くんも、もしかして終電を逃した口?」
「残念ながら、僕はうっかり終電逃したわけじゃないです。そこが最寄り駅なんですけど、実は家のエアコンが壊れてしまって。朝になれば修理が来るんですけど、この熱帯夜でしょう。家にいても暑くて暑くて。片付けたいパソコン作業もあったから、こうして涼を求めて外出した次第です」
「それは災難だったね。そっか、榎本くんはこの辺りに住んでるのか」
直接会うのは七年ぶりだけど、この辺りは私の普段の生活圏からそこまで離れていないし、もしかしたら気づかなかっただけど、これまでもどこかですれ違ったりしたことはあったのかもしれない。それはそれとして、真夏にエアコンが故障するのはかわいそうだ。
「有沢先輩。大丈夫ですか?」
「何? 急に」
「本当は何かあったんじゃないですか? 夜中まで飲み明かすためのおしゃれって感じでもないし」
私は思わず息を飲んだ。榎本くんは高校時代から鋭いところがあった。さながら推理小説に登場するような名探偵のように。この七年間で、さらに磨きがかかっていても不思議ではない。
それとも、私が分かりやすすぎるだけなのかな。久しぶりに再会した後輩とのお話は楽しかったけど、時折私はどんな表情をしていたのか。無意識ゆえに自分でもよく分からない。外だったら、暑さのせいにも出来たのに。
「僕で良かったら、話ぐらいは聞きますよ。聞くことしか出来ないけど」
そう言って、榎本くんは微笑んだ。聞くことしかできないという言葉が何よりも優しかった。もし力になりたいとか言われてたらたぶん、私はこの話は無かったことにしていたと思う。
「つまらない話だよ」
そう前置きすることが、私の細やかな抵抗だ。榎本くんに対してではくて、小さなプライドに囚われた私自身に対する最後の抵抗。お酒に酔えなかった今、誰かに話を聞いてもらいたくて仕方がなかった。
「……夕方から、こっちにいる高校時代の同級生たちと、小さな同窓会があってね。そのためのオシャレだったの」
とうとう言ってしまった。私の高校の同級生。榎本くんにとっても当時の先輩だから、知っている名前もいくつかあるはずだ。
「もしかして、織部先輩や秋月先輩も?」
「来てたよ。あの二人はクラスも一緒だったから」
生徒会に所属していた榎本くんは、やはり二人のことを覚えていた。当時の生徒会長だった織部秋と、書記の秋月菜乃花。一緒に生徒会で活動した仲間たちだ。
「その同窓会で、何か事件でも起こりましたか?」
「事件だなんて。久しぶりに再会する子もいて、思い出話や近況報告で盛り上がったし、おめでたい話題も飛び出したし、良い集まりだったと思うよ……ただ私が、一方的に拗らせちゃっただけだから」
「それは、織部先輩に関係ありますか?」
「……もう。どうしてそう鋭いかな」
「ご一緒したのは最後の一年だけでしたけど、有沢先輩が生徒会に青春を注いでたことはよく分かっているつもりです。そんな先輩が同窓会に何か因縁が生じるならやっぱり、生徒会関係かなって」
ここまで見透かされているなら、いっそ清々しい。この先を話すにあたり、気持ちが少しだけ軽くなった。
「織部くんと菜乃佳、結婚するんだって。幹事の子もそのことを知っていて、同級生への発表の場として、同窓会を企画したみたい」
「織部先輩と秋月先輩が。それはめでたいですね」
「うん。お似合いの二人だと思うし、結婚報告する二人の顔は本当に幸せそうだった。祝福の言葉をかけて、思い出話に花を咲かせて、美味しい料理を食べて……二人の良き友人のままでいられるように、適当な理由をつけて二次会には参加しなかった。失言してしまいそうで怖くて……」
「それで一人でバーに?」
私は俯き加減に首肯した。
「同窓会のメンバーと鉢合わせないように、わざわざ反対方向の駅で降りてね。酔って全部忘れちゃうつもりだったけど、我ながらお酒には強くてね。酔うどころか、正常な思考のまま自慢自答を繰り返して、挙句の果てに終電を逃しちゃった。本当に何やってるんだが」
オシャレをして家を出た時は、まさかこんなことになるだなんて思ってもみなかった。数年ぶりに再会する顔も多い。人が変わるには十分な時間だ。誰にどんな変化が起きていてもそれを受け入れて、笑顔で今を共有するつもりでいた。お酒に強いから、二次会でも三次会でも、最後まで付き合うつもりだった。それなのに。
「有沢先輩、よく織部先輩のことを見ていましたものね」
「副会長が生徒会長をよく見ているのは、当たり前のことでしょう」
見透かされているのは分かっている。だからこそ、ちょっとだけ意地悪が言いたくなった。
「程度の問題です。熱量というのは存外、周りの人間の方が感じ取っているものですよ」
「熱量とか言われると、ちょっと恥ずかしいな。当時の私、そんなに分かりやすかった?」
「こうして、七年越しの話題に上がるくらいにはね」
そう言って、榎本くんは爽やかに笑う。全てを許してしまいそうになるその笑顔を見ていると、ついつい毒気を抜かれてしまう。
「ずっと想っていたんですか?」
「まさか。あれはただの、青春時代の淡い思い出。大学に入ってから付き合った相手だっていたし、同窓会の話が出るまで、織部くんのこと、忘れていたのに……」
結婚報告を聞いたら、想像していた以上に感情がグチャグチャになっていた。そのことに私自身が一番驚いた。私は織部くんにとって何者でもないのに。私にとっての織部くんは何者だったのだろう。
「やっぱり、学生時代に自分の思いに決着をつけるべきだったのかもしれない。そうすれば、ただの同級生、ただの副会長として二人に接することも出来たのに……滑稽だよね」
「滑稽だと笑えるような高みに、僕はいませんよ。学生時代に相手に想いを伝えられないまま卒業した人間なんてきっと世の中に、たくさんいます。言ってしまえばありふれた話だ。有沢先輩は特別でもなんでもない。その程度で自分を痛い奴と自称するのは思い上がりだ。その方がよっぽど滑稽ですよ」
厳しいのか優しいのか。いや、迷うまでもない。榎田くんの言葉が優しすぎることは、痛い奴を自称する滑稽な私でも分かる。そう。こんなのはよくある話だ。
「榎本くんの言葉は鋭いね。胸にシュっと入ってくる」
スッと入ってくると呼ぶには強引で、だからこそ心に訴えかけてくる。そんな厳しくも優しい鋭利さが、榎本くんの言葉には宿っている。
「すみません。ただ話を聞くだけとか言っておきながら」
「ううん。責めてるんじゃないの。むしろ気持ちが楽になったよ。ただの独り言になってしまうよりは、ずっと良かったと思う」
「恐縮です」
私を傷つけたわけじゃないと分かり安堵したのか、榎本くんは少し背中を丸めて、ストローに口をつけていた。高校生の頃からそうだったけど、榎本くんは気遣いの人だ。今のやり取りも私のために、彼なりにキャラ作りをして頑張ってくれていたんだと思う。
お互いにもう成人しているし、学生時代の関係性なんて細やかなことだけど、これじゃあどっちが先輩か分からないや。
「終電を逃して良かった。そうでなきゃ、こうして榎本くんと再会してお話することは出来なかったし」
ファミレスで孤独な夜を過ごしていたらきっと、バーで懲りずにまた自問自答を繰り返して、そのことを含めてしばらくは引きずっていたかもしれない。もちろんすぐに割り切れるわけではないけど、榎本くんのおかげで、ずっと早く立ち直れると思う。こんなのはよくあることだって、笑い話に出来ると気づかせてもらえたから。
「僕も、久しぶりに有沢先輩とお話できて良かったです。真夏にエアコン壊れるなんて勘弁してくれよって感じでしたけど、そのおかげで今の時間がありますから」
そう言った直後、榎本くんはどこか名残惜しそうに窓の方を見た。
夏の夜明けは早い。最初に近況報告や思い出話で盛り上がっていたこともあって、思いのほか時間が経過していた。曙の空が、朝の訪れを予告している。
「夜明けも近い。もうすぐでお別れですね」
「お別れだなんて大袈裟だよ。遠くに住んでるわけでもないし」
「だったら、またお話できますか?」
ずっと落ち着き払った印象だった榎本くんが、緊張しているのか、この時は瞬きの回数が増えているような気がした。
「うん。榎本くんには話を聞いてもらったし、私でよければいつでも話聞くよ。何でも相談して」
お礼とか関係なく、可愛い後輩のお願いだし、断る理由なんてない。社会人として相談に乗れる話もあると思うし。
「いえ、相談とかではなくて」
そう言って、榎本くんは気まずそうに天井を見た。屋内と屋外ほどではないと信じたいけど、私たちには何やら温度差がありそうな気がする。
「……その、固い話は抜きに、気軽にお話したいなって」
わずかな沈黙の後、榎本くんは私の顔を見て、照れくさそうにそう言って、途端に俯いてしまった。
そんな榎本くんの姿を見て、鈍感な私も流石に悟った。そうか、あのころ織部くんを見ていた私を、榎本くんは見ていたんだ。
「連絡先は変わってないから、いつでも連絡して」
空が、明るくなったような気がした。
※※※
「懐かしいね。あのファミレス」
「確かに懐かしい。前はよく使ってたのに」
快くんと二人で歩いていると、昔、快と再会したファミレスの前を通りかがった。今日は近くに用事があって来たけど、快くんが数年前に引っ越しをしたのもあって、この辺りを歩くのは久しぶりだ。
「そういえば、快くん知ってる? 都内含め、24時間営業のファミレスって、もうほとんど無いんだって」
「そうなんだ。最近は夜遅くにファミレス行くこともないから、全然気がつかなかったよ。いつ頃から?」
「ここのグループは確か、5年前ぐらいだったかな。深夜営業の廃止が1年早かったら、私たち再会出来てなかったかもね」
深夜のファミレスで再会したあの日から、早いもので6年が経つ。この6年間色々なことがあったけど、私と快くんの関係は、一つの大きな変化を迎えつつある。
「帰りに、久しぶりにここで食べていこうよ」
「そうだね。僕たちにとっては、間違いなく思い出の場所だ」
手を繋いで、目的地に向けて歩き始めた。私たちは今、結婚式場の見学に向かっている。
了
「……何やってるんだろう。私」
駅のロータリーに着いた頃には、無情にも終電が走り去っていく姿が見えた。私を置いていかないで! と叫びそうになったけど、深夜とはいえ街中でそういうことが出来ない程度には、私はまだ理性的だった。熱帯夜の温い風が、私をあざ笑うかのように肌をなぞっていく。
仕事の残業や、用事が長引いて終電を逃した経験はあるけど、お酒を飲んで終電を逃したのはこれが初めてだ。ちなみに私はお酒にめっぽう強い。お酒は入っているけど、足取りも思考もまともだ。バーで時間を忘れていたのはお酒に飲まれていたからではない。考え事が多すぎて、時間にまで意識が向いていなかったからだ。
「どこかで時間を潰すしかないか」
自宅まで歩いて帰れない距離ではないけど、今日はヒールだし、深夜でも靴を売っている店を探す気にもなれない。幸いにもここは都市部だし、数時間も経てば始発が動き出す。無茶はせずに今夜はどこかで時間を潰すことにしよう。といってもこの辺りは、自宅や職場の最寄り駅じゃないから、周辺にそこまで詳しくはないけれども。漫画喫茶でもカラオケでもいい。24時間営業の店舗を求めて、繁華街の方へ少し進むと。
「ここにしよう」
たまたま最初に目についたのは、通り沿いにある全国チェーンのファミレスだった。漫画喫茶やカラオケは普段あまり利用しないから会員証も持っていないし、あまり慣れない場所だけど、高校、大学とファミレスでアルバイトをしていた私にとってはある意味、一番気安い場所だ。もっともここは、私がバイトしていたのとは違う会社のチェーン店だけども。
「いらっしゃいませ。空いているお好きな席へどうぞ」
ホールは若い男性店員一人で回しているようだった。深夜とあってお客さんは少なく、席は選び放題のようだ。利便性を考えて、ドリンクバーに近い席に座ることにした。私以外にお客さんは、ノートパソコンを広げている若い眼鏡の男性がいるだけのようだ。
「ドリンクバーと、フライドポテトをお願いします」
ドリンクバー単品だと割高なので、付け合わせにフライドポテトも注文することにした。深夜のフライドポテトは背徳感があるけれど、傷心の今日ぐらいは見て見ぬふりをしよう。
フライドポテトが届くまでの間、ドリンクバーにジュースを取りに行く。お酒を飲んだ帰りだし、烏龍茶にしておこうかな。手早くグラスに氷を入れて、烏龍茶を注ぐ。最後にストローを取ろうと手を伸ばそうすると。
「もしかして、有沢先輩ですか?」
私の名前は有沢夏帆。名字に先輩とつけて呼ぶその声には、確かに聞き覚えがあった。視線を左に向けると、ファミレスの先客だった眼鏡の若い男性が、空のグラスを持ってドリンクのおかわりに来ていた。当時はかけていなかった眼鏡姿だったから一瞬だけ混乱したけど、すぐに顔と声が一致した。
「そういう君は、榎本快くん?」
「ご無沙汰しています。先輩の卒業以来ですよね」
榎本快。彼は高校時代の後輩にあたる。私たちは生徒会に所属していて、当時三年生だった私は副会長で、一年生だった有沢くんは庶務を務めていた。私は最後の年だったので、一緒に活動した期間は秋に引退するまでの七ヶ月程度だったけど、榎本くんは行動力があって、一年生ながら生徒会の中心メンバーとして活動を盛り上げてくれた。庶務として、副会長の私の補佐をしてくれる機会も多くて、お互いの名前に夏が含まれるからと、夏夏コンビと呼ばれていたことが懐かしい。後に、榎本くんが生徒会長になったと人伝に聞いていたけど、それも納得だ。
「高校の時は眼鏡かけてなかったよね」
「先輩が卒業した次の年からです。元々騙し騙しだったんですけど、もっと早くかけてれば良かったな」
そう言って苦笑すると、榎本くんはドリンク片手に、一度席に戻り。
「先輩、もし良かったら、そっちの席に移ってもいいですか?」
「もちろん。私も久しぶりに色々話したいし」
断る理由なんてない。快諾すると、榎本くんは飲み物とノートパソコンを持って席を移動し、私の向かいに着席した。ちょうどそのタイミングで私が頼んでいたフライドポテトが届いたので、榎本くんが律儀に店員さんに席を移った理由を説明していた。
夜中に一人でフライドポテトを食べる罪悪感が、榎本くんのおかげで和らぐ。二人でフライドポテトをつまみながら、様々な話題に花を咲かせることになった。
「榎本くんは二つ下だから、二十三歳か。今は何をしてるの?」
「今は大学院生です。研究職志望で。そういう先輩は?」
「こっちで会社員してるよ。今年で三年目」
数時間前にも別件で近況報告をしたので、我ながら説明はスムーズだった。
約七年ぶりの再会だったけど、自然と昔のような夏夏コンビの距離感で話せている。もちろん、一晩で七年分の空白が埋まりはしないけど、始めたてのジグソーパズルみたいに、白地の上に、ポツポツと話題というの名のピースがのせられていく。そうして一通り、お互いの近況について語り終えると。
「それにしても、こんな時間にどうしたんですか? 終電逃したのは察しがつきますけど、見たところ私服だし、仕事で残業って感じではなさそうだけど」
「……バーで飲んでたら、終電の時間を失念してて。始発までここで時間潰そうかなって。違うチェーン店だけど、学生時代はファミレスでバイトしてたから、何となく気安いんだよね」
苦笑交じりに、フライドポテトを一本つまむ。二人で食べているから、いつの間にかお皿の半分まで減っていた。
「そういう榎本くんも、もしかして終電を逃した口?」
「残念ながら、僕はうっかり終電逃したわけじゃないです。そこが最寄り駅なんですけど、実は家のエアコンが壊れてしまって。朝になれば修理が来るんですけど、この熱帯夜でしょう。家にいても暑くて暑くて。片付けたいパソコン作業もあったから、こうして涼を求めて外出した次第です」
「それは災難だったね。そっか、榎本くんはこの辺りに住んでるのか」
直接会うのは七年ぶりだけど、この辺りは私の普段の生活圏からそこまで離れていないし、もしかしたら気づかなかっただけど、これまでもどこかですれ違ったりしたことはあったのかもしれない。それはそれとして、真夏にエアコンが故障するのはかわいそうだ。
「有沢先輩。大丈夫ですか?」
「何? 急に」
「本当は何かあったんじゃないですか? 夜中まで飲み明かすためのおしゃれって感じでもないし」
私は思わず息を飲んだ。榎本くんは高校時代から鋭いところがあった。さながら推理小説に登場するような名探偵のように。この七年間で、さらに磨きがかかっていても不思議ではない。
それとも、私が分かりやすすぎるだけなのかな。久しぶりに再会した後輩とのお話は楽しかったけど、時折私はどんな表情をしていたのか。無意識ゆえに自分でもよく分からない。外だったら、暑さのせいにも出来たのに。
「僕で良かったら、話ぐらいは聞きますよ。聞くことしか出来ないけど」
そう言って、榎本くんは微笑んだ。聞くことしかできないという言葉が何よりも優しかった。もし力になりたいとか言われてたらたぶん、私はこの話は無かったことにしていたと思う。
「つまらない話だよ」
そう前置きすることが、私の細やかな抵抗だ。榎本くんに対してではくて、小さなプライドに囚われた私自身に対する最後の抵抗。お酒に酔えなかった今、誰かに話を聞いてもらいたくて仕方がなかった。
「……夕方から、こっちにいる高校時代の同級生たちと、小さな同窓会があってね。そのためのオシャレだったの」
とうとう言ってしまった。私の高校の同級生。榎本くんにとっても当時の先輩だから、知っている名前もいくつかあるはずだ。
「もしかして、織部先輩や秋月先輩も?」
「来てたよ。あの二人はクラスも一緒だったから」
生徒会に所属していた榎本くんは、やはり二人のことを覚えていた。当時の生徒会長だった織部秋と、書記の秋月菜乃花。一緒に生徒会で活動した仲間たちだ。
「その同窓会で、何か事件でも起こりましたか?」
「事件だなんて。久しぶりに再会する子もいて、思い出話や近況報告で盛り上がったし、おめでたい話題も飛び出したし、良い集まりだったと思うよ……ただ私が、一方的に拗らせちゃっただけだから」
「それは、織部先輩に関係ありますか?」
「……もう。どうしてそう鋭いかな」
「ご一緒したのは最後の一年だけでしたけど、有沢先輩が生徒会に青春を注いでたことはよく分かっているつもりです。そんな先輩が同窓会に何か因縁が生じるならやっぱり、生徒会関係かなって」
ここまで見透かされているなら、いっそ清々しい。この先を話すにあたり、気持ちが少しだけ軽くなった。
「織部くんと菜乃佳、結婚するんだって。幹事の子もそのことを知っていて、同級生への発表の場として、同窓会を企画したみたい」
「織部先輩と秋月先輩が。それはめでたいですね」
「うん。お似合いの二人だと思うし、結婚報告する二人の顔は本当に幸せそうだった。祝福の言葉をかけて、思い出話に花を咲かせて、美味しい料理を食べて……二人の良き友人のままでいられるように、適当な理由をつけて二次会には参加しなかった。失言してしまいそうで怖くて……」
「それで一人でバーに?」
私は俯き加減に首肯した。
「同窓会のメンバーと鉢合わせないように、わざわざ反対方向の駅で降りてね。酔って全部忘れちゃうつもりだったけど、我ながらお酒には強くてね。酔うどころか、正常な思考のまま自慢自答を繰り返して、挙句の果てに終電を逃しちゃった。本当に何やってるんだが」
オシャレをして家を出た時は、まさかこんなことになるだなんて思ってもみなかった。数年ぶりに再会する顔も多い。人が変わるには十分な時間だ。誰にどんな変化が起きていてもそれを受け入れて、笑顔で今を共有するつもりでいた。お酒に強いから、二次会でも三次会でも、最後まで付き合うつもりだった。それなのに。
「有沢先輩、よく織部先輩のことを見ていましたものね」
「副会長が生徒会長をよく見ているのは、当たり前のことでしょう」
見透かされているのは分かっている。だからこそ、ちょっとだけ意地悪が言いたくなった。
「程度の問題です。熱量というのは存外、周りの人間の方が感じ取っているものですよ」
「熱量とか言われると、ちょっと恥ずかしいな。当時の私、そんなに分かりやすかった?」
「こうして、七年越しの話題に上がるくらいにはね」
そう言って、榎本くんは爽やかに笑う。全てを許してしまいそうになるその笑顔を見ていると、ついつい毒気を抜かれてしまう。
「ずっと想っていたんですか?」
「まさか。あれはただの、青春時代の淡い思い出。大学に入ってから付き合った相手だっていたし、同窓会の話が出るまで、織部くんのこと、忘れていたのに……」
結婚報告を聞いたら、想像していた以上に感情がグチャグチャになっていた。そのことに私自身が一番驚いた。私は織部くんにとって何者でもないのに。私にとっての織部くんは何者だったのだろう。
「やっぱり、学生時代に自分の思いに決着をつけるべきだったのかもしれない。そうすれば、ただの同級生、ただの副会長として二人に接することも出来たのに……滑稽だよね」
「滑稽だと笑えるような高みに、僕はいませんよ。学生時代に相手に想いを伝えられないまま卒業した人間なんてきっと世の中に、たくさんいます。言ってしまえばありふれた話だ。有沢先輩は特別でもなんでもない。その程度で自分を痛い奴と自称するのは思い上がりだ。その方がよっぽど滑稽ですよ」
厳しいのか優しいのか。いや、迷うまでもない。榎田くんの言葉が優しすぎることは、痛い奴を自称する滑稽な私でも分かる。そう。こんなのはよくある話だ。
「榎本くんの言葉は鋭いね。胸にシュっと入ってくる」
スッと入ってくると呼ぶには強引で、だからこそ心に訴えかけてくる。そんな厳しくも優しい鋭利さが、榎本くんの言葉には宿っている。
「すみません。ただ話を聞くだけとか言っておきながら」
「ううん。責めてるんじゃないの。むしろ気持ちが楽になったよ。ただの独り言になってしまうよりは、ずっと良かったと思う」
「恐縮です」
私を傷つけたわけじゃないと分かり安堵したのか、榎本くんは少し背中を丸めて、ストローに口をつけていた。高校生の頃からそうだったけど、榎本くんは気遣いの人だ。今のやり取りも私のために、彼なりにキャラ作りをして頑張ってくれていたんだと思う。
お互いにもう成人しているし、学生時代の関係性なんて細やかなことだけど、これじゃあどっちが先輩か分からないや。
「終電を逃して良かった。そうでなきゃ、こうして榎本くんと再会してお話することは出来なかったし」
ファミレスで孤独な夜を過ごしていたらきっと、バーで懲りずにまた自問自答を繰り返して、そのことを含めてしばらくは引きずっていたかもしれない。もちろんすぐに割り切れるわけではないけど、榎本くんのおかげで、ずっと早く立ち直れると思う。こんなのはよくあることだって、笑い話に出来ると気づかせてもらえたから。
「僕も、久しぶりに有沢先輩とお話できて良かったです。真夏にエアコン壊れるなんて勘弁してくれよって感じでしたけど、そのおかげで今の時間がありますから」
そう言った直後、榎本くんはどこか名残惜しそうに窓の方を見た。
夏の夜明けは早い。最初に近況報告や思い出話で盛り上がっていたこともあって、思いのほか時間が経過していた。曙の空が、朝の訪れを予告している。
「夜明けも近い。もうすぐでお別れですね」
「お別れだなんて大袈裟だよ。遠くに住んでるわけでもないし」
「だったら、またお話できますか?」
ずっと落ち着き払った印象だった榎本くんが、緊張しているのか、この時は瞬きの回数が増えているような気がした。
「うん。榎本くんには話を聞いてもらったし、私でよければいつでも話聞くよ。何でも相談して」
お礼とか関係なく、可愛い後輩のお願いだし、断る理由なんてない。社会人として相談に乗れる話もあると思うし。
「いえ、相談とかではなくて」
そう言って、榎本くんは気まずそうに天井を見た。屋内と屋外ほどではないと信じたいけど、私たちには何やら温度差がありそうな気がする。
「……その、固い話は抜きに、気軽にお話したいなって」
わずかな沈黙の後、榎本くんは私の顔を見て、照れくさそうにそう言って、途端に俯いてしまった。
そんな榎本くんの姿を見て、鈍感な私も流石に悟った。そうか、あのころ織部くんを見ていた私を、榎本くんは見ていたんだ。
「連絡先は変わってないから、いつでも連絡して」
空が、明るくなったような気がした。
※※※
「懐かしいね。あのファミレス」
「確かに懐かしい。前はよく使ってたのに」
快くんと二人で歩いていると、昔、快と再会したファミレスの前を通りかがった。今日は近くに用事があって来たけど、快くんが数年前に引っ越しをしたのもあって、この辺りを歩くのは久しぶりだ。
「そういえば、快くん知ってる? 都内含め、24時間営業のファミレスって、もうほとんど無いんだって」
「そうなんだ。最近は夜遅くにファミレス行くこともないから、全然気がつかなかったよ。いつ頃から?」
「ここのグループは確か、5年前ぐらいだったかな。深夜営業の廃止が1年早かったら、私たち再会出来てなかったかもね」
深夜のファミレスで再会したあの日から、早いもので6年が経つ。この6年間色々なことがあったけど、私と快くんの関係は、一つの大きな変化を迎えつつある。
「帰りに、久しぶりにここで食べていこうよ」
「そうだね。僕たちにとっては、間違いなく思い出の場所だ」
手を繋いで、目的地に向けて歩き始めた。私たちは今、結婚式場の見学に向かっている。
了



