――時計の針が、夜の終わりを告げる寸前で止まりかけていた。
 図書館の閲覧室には、僕沢村秀樹(さわむら ひでき)と、ひとりの先輩しかいない。
 ――いつもそうだ。
 僕がバイトの締め作業をしている頃、彼女は、誰もいない隅の席で静かにページをめくっている。
 小さな灯りと、ページをめくる音と、淡い横顔。
 名前は知らない。でも、何度も見かけている。たぶん、文学部の先輩。

 『話しかけるなら、今日だ』と思っていた。
 理由なんてない。ただ、そうしたかった。
 でも──できなかった。
 視線が一瞬だけぶつかったのに、
 そのまま、彼女は目を伏せて本に戻ってしまった。
 言葉は、また喉の奥に引っかかったまま。
 足が動かず、その場でため息だけが落ちる。
 何度目だろう、このすれ違い。
 それでも、ほんの少しでも目が合ったことが、なんだか嬉しかった。
 閲覧室の照明を落とし、扉を閉める。
 終電まで、あと十五分。
 ……ぎりぎり、間に合う。
 そう思って駅へ向かって走った。
 けれど、遠くに見えた電車のテールランプが、音もなく夜に溶けていく。
 そして同時に、携帯の画面に灯った時間が、午前0時前を示していた。



 足元から夜の空気が染み込んでくるようだった。
 終電を逃した身体が、なにより先に帰り道をあきらめる。
 それでもどこか、ほっとしていた。
 まだ――彼女に会っていたいと思った自分がいたからだ。
 誰もいない大学を逆戻りして、僕はもう一度、図書館の扉を押した。
 ひんやりとした静けさの中、閲覧室の奥に灯る明かりが見える。
 ……まだ、いた。
 先輩は、大きな分厚い専門書を開いたまま、膝に頬杖をついていた。
 ページは捲られず、じっと思考に沈んでいるように見えた。
 読み疲れたのか、どこか寂しげに見えた。
 ほんのわずか、気配に気づいた彼女がこちらを見る。
 目が合った。
 今度こそ――そう思った僕は、ぎこちない声を発した。

 「……まだ、いらしたんですね」

 自分でも驚くくらい、声が震えていた。
 けれど、先輩は静かに僕を見つめたまま、何も言わなかった。
 僕はもう一言、勇気を振り絞った。

 「あの、家……近いんですか?」

 先輩は少しだけ瞬きをして、目を伏せた。
 そして、やわらかく、けれどはっきりと境界線を引くように告げた。

 「……集中したいので、あまり話しかけないでください」

 声に刺はないのに、遠く感じた。
 言葉が消えたあとの沈黙が、まるで境界そのもののようだった。

 「すみません……」

 謝るしかできず、僕は隣の席にそっと座った。
 同じ空間にいるのに、会話の糸はほどけたまま。
 時計の針が、夜の頂点を過ぎようとしていた。
 静寂。紙の音さえ聞こえない静けさ。
 秒針が0時を差した、そのときだった。

 「(ほんとは、少しだけ、うれしかったのに)」

 鼓膜の奥で、誰かの声が震えた。
 聞き覚えのある声。けれど、彼女は口を動かしていない。

 「(なんで、ちゃんと話せないんだろ……)」

 また聞こえた。今度は、はっきりと。
 ――これは、彼女の……心の声?
 思考が追いつかない。けれど確信があった。
 今、彼女の本音が、言葉にならないまま、僕にだけ届いている。
 ……まさか、本当に聞こえるなんて。
 僕は隣の席で、固まったまま動けなくなっていた。
 先輩は何も言わず、ただページをめくる手を止めている。
 けれどその沈黙のなかで、確かに聞こえたんだ。

 「(なんで、ちゃんと話せないんだろ……)」

 幻聴……じゃない。
 だって、それは彼女の声で――彼女自身は、なにも喋っていないから。
 ――魔法だ。と、なぜか確信があった。
 突然すぎて、信じる暇もない。
 けれど、ただの妄想とは思えなかった。
 だから、気づかれないように、小さく息を整える。
 僕は、もう一度だけ、勇気を出した。

 「……あの、自分、文学部の一年で。図書館のバイトしてて、たぶん、何回か……お会いしてますよね」

 先輩はページからゆっくり顔を上げた。
 ほんの一瞬だけ、驚いたような顔をして、すぐに目を逸らす。

 「……そう、かもしれませんね」

 その一言がうれしくて、僕はつい、もう一言重ねた。

 「自分、顔とか覚えるの、けっこう得意で。なんかこう、同じ空気感の人って……気になるというか」

 先輩は反応を返さなかった。
 けれど、ふと、かすかに届く声があった。

 「(そんなこと……言われたの、初めて)」

 その言葉に、心のどこかが小さく揺れた。
 僕はきっと、変なやつだと思われてる。
 それでも、彼女の本音が聞こえる限り、怖くなかった。

 「……邪魔だったら、黙りますので」

 少しだけ肩をすくめて言うと、先輩は首を横に振った。
 ほんのわずか、その頬がゆるんだ気がした。

 「……別に、いいです。ちょっと、集中切れてたので」
 「(ほんとは、話したかった……ずっと、前から)」

 その声が、確かに届いた。
 彼女は、僕と同じだったんだ。
 話したい。でも、どうしたらいいか、わからないだけで。
 不器用すぎて、言葉が棘になってしまうだけで。
 魔法がなかったら、きっとわからなかった。
 でも、今だけは――この奇跡が、彼女との橋になる気がしていた。



 夜の図書館は、世界から切り離されたみたいに静かだった。
 蛍光灯の白が、ページの上に淡く滲んでいる。
 僕と先輩だけが、この空間に取り残されているみたいだった。
 会話は続いていない。けれど、沈黙ももう怖くなかった。
 ときどき聞こえる、彼女の心の声が――どこまでもまっすぐで、少しだけ痛くて。
 でも、それがたまらなく、愛おしかった。

 「(どうせ私なんか……)」

 「(ちゃんとした言葉にできない。気持ちを伝えるのが、ずっと、怖かった)」

 彼女は、人と話すのが苦手なんじゃない。
 自分が話すことで、誰かを傷つけるのが怖いんだ。
 だから、本音を閉じ込めて生きてきた。
 優しいくせに、不器用で、でも本当は人一倍、他人を想ってる人だ。
 そんな彼女のことを、もっと知りたくなった。
 ただ“気になる先輩”じゃなくて――

 「先輩って、何年生なんですか?」

 不意に投げた僕の言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。

 「……四年です」

 「じゃあ、卒論とか、忙しいですよね。何書いてるんですか?」

 「……中也。中原中也(なかはら ちゅうや)について」
 「へえ、中也。……なんか、わかる気がします」
 「……どういう意味ですか?」

 問いかけた先輩の目は、ほんの少しだけ興味を宿していた。

 「中也って、不器用な人だったって聞いたことがあって。言葉の中に、いっぱい感情を詰め込んで……だけど、それがうまく伝わらなかったりするって」

 彼女の視線が、ほんの少しだけ揺れた。

 「(……なんで、そんなふうに言えるの)」
 「(まるで……私のこと、知ってるみたい)」

 それは、魔法が教えてくれた心の声。
 けれど、もし魔法がなくても――僕は、きっと同じことを言ってた気がする。
 この人と、ちゃんと話したい。
 できることなら、魔法なんかなくても。
 言葉で、目を見て、心を重ねたい。
 たった数時間前まで、そんなこと考えもしなかったのに。
 今の僕は、彼女のことをもっと知りたくて仕方がなかった。



 少しずつ、先輩と“会話”ができるようになってきた。
 それでも、心の奥の距離は、まだ手探りのままで。
 だから僕は、あの日の話をしてみることにした。

 「……先輩って、いつ頃から文学やってたんですか?」
 「中学のとき、少し。……でも、本格的に書いたのは高校から」
 「そうなんですね。……自分は、高校の文芸部だったんですけど、正直あんまり自信なくて」

 先輩はちらりとこちらを見た。僕は続けた。



 心の声が、少しずつわかるようになってきた。
 意味もなく聞こえてくるわけじゃない。彼女の中には、言葉にできない想いがたくさんあるんだ。

 静かな空間で、ぽつり、ぽつりと交わされる会話。
 それだけで、胸がざわつく。
 気づけば、僕は自分の話をしていた。

「……自分、文学部に入ったのって、ちょっと変な理由でして」

 彼女は、ほんの少しだけ首をかしげた。
 それは、続けてもいいという合図のようにも見えた。

「高校の文化祭のとき、文芸部で小説を展示してたんです。
 あんまり読まれなくて……ちょっとだけ外に出て戻ってきたら、栞が挟まってたんですよ。
 青い花のイラストが手描きであって、そこに──“あなたの物語、好きです”って」

 そのときのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ熱くなる。

「誰が書いたか、わからなかったです。でも……嬉しくて。
 なんか、世界に居場所があるような気がして。
 その一行のせいで、ずっと忘れられなくて。気づいたら、大学でも文学を学びたいって思ってました」

 彼女は視線を伏せたまま、小さく「へえ……」と呟いた。

「(……たった一言で、そんなふうに思ってくれてたなんて)」

 ふっと、彼女の心の声が聞こえた気がした。
 でも、そのときの僕はまだ、そこまで気づいていなかった。

 「ずっと、捨てられないんですよ。……バカですよね、こんなのラミネートまでして取っておいて――」

 僕が苦笑した、その瞬間だった。

 ――先輩の心が、はっきりと揺れた。

 「(……待って、それって……)」
 「(まさか、あの作品……後輩くんだったの?)」
 「(うそ、気づかなかった……私、あのとき――)」
 「(……そんなの、ずるいよ。そんなの……忘れられるわけないじゃん)」

 ……え?
 喉の奥が、勝手に震えた。
 あまりに強い感情が、心の中から溢れ出してくる。
 この心の声は――確かに、目の前の彼女のものだ。

 「……あの、先輩……!」

 思わず声が出ていた。
 抑えきれなかった。いや、止められなかった。

 彼女がこちらを見た。
 ゆっくりと、顔を上げて。

 「……何か、問題でも?」
 「いや……っ、あの、なんか、いま……先輩が……」
 「……静かにしてください」

 凛とした声。
 でも、その奥にある、何かを押し殺すような気配に気づいた。

 「ここ、図書館です。いくら深夜で誰もいないからって大声だしたらだめですよ?」
 「……す、すみません……」

 僕は慌てて頭を下げて、栞をそっと胸ポケットにしまった。
 心臓が、ありえないくらい跳ねている。
 気のせい、だと思いたかった。
 けれど、違う。
 今の心の声は、誰のものでもない――彼女の、声だった。
 彼女は、あの“栞”を書いた人だった。
 僕の人生を、ほんのひとことで救ってくれた――恩人だったんだ。



 しん、と静まり返った夜の図書館で、僕はひとり、呼吸を整えていた。
 ――あの栞を書いたのが、先輩だった。
 驚きと戸惑い、それから、胸の奥がじんわり熱くなるような、言いようのない感情が満ちてくる。

 あのとき、僕を救ってくれた言葉。
 名前も書かれていなかったけど、あの一行に、僕は生きていい理由をもらった。
 それをくれた人が、今ここにいる。
 目の前に、あたりまえの顔をして、ページをめくってる。
 ――たまたまだろうか?
 偶然じゃないと思いたかった。
 こんな出会いを、運命って呼んでも、バチは当たらない気がした。
 そして、きっとこの“声が聞こえる”という魔法も、偶然じゃない。
 彼女の本音を知るために、与えられた時間なのかもしれない。
 理由なんてなくても、信じたいと思った。
 ただの“先輩”じゃない。
 あのときの“誰か”だった人。
 そんなふうに、心が揺れた夜だった。



 話しかけるたびに、少しずつ先輩が遠ざかっていく気がした。

「……先輩って、いつもこの時間に来てるんですね」
「ええ、まあ。……それ、聞いて何か意味あります?」

 ぴしゃりと言い切られて、言葉が詰まる。

 さっきまで笑っていたのに、今は冷えた空気が流れていた。
 けど、そんな彼女の態度より、僕の心を刺したのは――

「(……まただ。どうして、普通に話せないんだろ)」

 その声だった。

「(本当は、こんなふうに話してみたかったのに)」

 彼女の声は、いつも遅れて届く。
 現実の彼女は、そっけなく目を伏せているのに。
 まるで、心と身体が別の人みたいに。

「……いえ、意味とかは別に。ただ、なんとなく気になって」

 僕の声は情けないくらい小さくて、届いたのかもよくわからなかった。
 先輩はため息をついた。

「人と話すの、苦手なんです」

 それだけ言って、視線を戻した。
 その声は、妙に淡々としていたけれど――

((……話すたびに、相手が傷ついた顔をするから)」

 やっぱり、声は届いていた。
 彼女は、自分の言葉に怯えていた。
 誰かと話すことで、また誰かを傷つけてしまうんじゃないかと。
 そんなふうに思いながら、それでもここに来て、静かにページをめくっていた。
 その姿が、どうしようもなく胸に引っかかった。



 ページをめくる音だけが、空間を支配していた。

 少し前まで、少しだけ、話せた気がしたのに。
 その距離は、また元通りになってしまった。
 ──いや、違う。
 僕だけは、まだ彼女の“声”を聞いている。
 だから、知ってしまう。
 言葉の裏にある、本当の気持ちを。

「(わたしなんかが話しかけても、きっと迷惑だよね)」

 そんなふうに、誰かのことを思って傷つける人が、
 ほんとうに人を傷つけるわけがないのに。

「(あの子、泣いてた。わたしのせいだった)」

 突然、彼女の“声”が過去を語り始めた。

「(大事な友達だったのに。わたし、そんなつもりじゃなかったのに)」

 言葉は、記憶の断片のように浮かんでは消えていく。
 誰かを大切に思っていたのに、言葉が届かなくて、
 それがズレになって、すれ違いになって──

「(また、わたしが誰かを傷つけるのが怖い)」

 ああ、そうか。
 彼女は、自分の言葉に怯えてるんだ。
 だから、あんなに話すのが怖そうだったのか。
 だから、無理に笑おうとしなかったのか。

「(ほんとは、もっと誰かと話したい。けど……)」

 声が震えていた。
 顔は静かで、何もなかったようにページをめくっているのに。
 なのに、声だけが泣いていた。
 その瞬間、胸が熱くなった。
 彼女の心に、少しだけ触れた気がして。
 この“声”が聞こえる魔法の意味を、ほんの少し、理解できた気がした。



 そのあとも、僕たちは少しだけ言葉を交わした。
 本の話。天気の話。卒論の話。
 でも、どこかぎこちなくて、
 まるで言葉の間に、見えない壁が立っているみたいだった。
 それでも、彼女の“声”は、ときおり僕に届いていた。

「(……楽しかったな。久しぶりに、誰かとこんなふうに話せて)」

 そんなふうに思ってくれていることが、嬉しかった。
 だから、勇気を出して聞いてみた。

「先輩って……いつも、もっと話したらいいのになぜ話さないんですか?」

 彼女は一瞬、目を伏せてから、
 静かに息を吐いた。

「……言葉って、こわいよ」

 それは心の声じゃなくて、実際の言葉だった。

 けど、それに続いた“声”は──

「(わたしが言うと、どうしてか全部、誰かを傷つける)」
「(だから、嫌われる前に距離をとるの。わたしのためにも、相手のためにも)」
「(人間関係なんて、いつか壊れるんだから。だったら最初から期待しないほうがいい)」

 胸が締めつけられた。
 言葉のひとつひとつが、彼女を縛っている。
 まるで自分自身が、檻の鍵を握っているかのように。
 そんなふうに生きてきたのかと想像すると、
 僕は、どんな言葉をかければいいかわからなくなった。
 いくら心の声が聞こえても。
 彼女の本当の孤独に、踏み込める気がしなかった。
 もし僕が、彼女の世界を壊してしまったら──
 もしまた彼女が傷ついてしまったら──
 そう思うと、言葉が出てこなかった。
 彼女のことを、もっと知りたい。
 でも、このままじゃ届かない。
 魔法の力さえ、心の壁を越えられない気がした。



 僕は、彼女を救いたかった。
 ずっとひとりで言葉を閉じ込めてきた彼女に、
 「もう大丈夫だよ」って言ってあげたかった。
 でも──その気持ちは、きっと僕のエゴだった。

「……先輩、そんなふうに、自分のことばかり責めなくてもいいと思います」

 彼女が、ぴくりと肩を揺らした。
 それでも僕は、止まれなかった。

「言葉って、全部が全部うまく届くわけじゃないですけど、でも……誰かのために選んだ言葉なら、きっと──」

 そのときだった。
 彼女が、ゆっくりと立ち上がった。
 声はなかった。
 けれど、わかってしまった。
 その背中が、拒絶していた。

「……すみません。やっぱり、帰ります」
「先輩──」

「(だから、いやだったのに)」
「(わたしのこと、何も知らないくせに)」
「(勝手に踏み込まないで……)」

 背中越しに響く心の声は、まるで刃のようだった。
 たしかに、そうだ。
 僕は、彼女の“声”を聞いているだけで、
 本当の彼女のことなんて、なにも知らないのかもしれない。
 踏み込みたかった。救いたかった。



 図書館の外へ消えようとしている彼女の背中。
 あとを追うこともできず、僕は、カウンターの椅子に腰を落とした。
 冷たい木の感触が、背中を締めつける。
 ──届かなかった。
 どれだけ心の声が聞こえても、
 本当の痛みに触れることはできなかった。
 魔法なんて、役に立たなかった。
 ふと、胸ポケットの内側に手を入れる。
 手帳に挟んでいた、古びた紙片が指先に触れた。
 栞だ。
 あのとき、小さな文芸誌に挟まれていた、ただの一文。
 でも、僕にとっては人生の針路を変えた、たったひとつの言葉。

 ──「あなたの物語、すきです。」

 拙くて、誰にも読まれないと思っていた作品。
 何度も辞めようと思った投稿。
 でも、このたったひとことが、すべてを救ってくれた。
 その言葉に背中を押されて、僕はこの大学に進んだ。
 文学部に入って、創作を続けようって決めた。
 ……それが、彼女だったんだ。
 あの夜、そっと挟まれていた栞の主。
 僕の“きっかけ”だった人。
 だったら──
 今度は僕の番だ。
 彼女がくれた一文が、僕を生かしたように。
 今度は僕が、彼女の心をあたためたい。
 心の声が聞こえなくても、
 伝えたい言葉がある。
 たとえ、彼女に拒まれても。
 もしそれが彼女の痛みを癒やす光になるなら、
 僕は、何度でも言葉を選び直せる。
 静まり返った深夜の図書館で、
 僕はゆっくりと立ち上がった。
 彼女の元へ向かうために。
 でも、僕の言葉は、彼女の過去と同じように──
 彼女を、またひとりにしてしまった。
 その足音が図書館の外に消える前に――
 心の中の光が、ひとつずつ消えていくようだった。
 魔法があるのに、何もできない。
 魔法を使っても、伝わらない。
 ……これが、“すべてを失う”ということなんだと思った。



 彼女が静かに席を立った。
 カバンを手に、出口の方へ歩き出す。
 終電の時間はとうに過ぎている。
 でも、そんなことより──このままじゃ、何も伝えられない。
 沈黙の中で、何かが終わってしまいそうで。

「……待ってください!」

 自分でも驚くほどの大きな声が出た。
 深夜の図書館。その音が静寂を破った瞬間、彼女がぴたりと止まった。
 振り返る。
 その目に宿るのは、驚き、戸惑い……そして、少しだけ寂しさのようなものだった。

「……すみません、ただ、どうしても言っておきたくて」

 言葉を選ぶ時間なんてなかった。
 でも、今だけは、思ったままを口にしていい気がした。

「さっき話した、栞の話」

 胸ポケットから、慎重に取り出す。
 今も持ち歩いてる、あの日の栞。

「……先輩ですよね? それ、描いてくれたの」

彼女は、言葉を失っていた。
 でも、その瞳が、少しだけ揺れていた。

「名前もなかったけど、その一行が、自分の全部を救ってくれたんです――」

 彼女は答えなかった。
 けれど、俯いたまま、小さく唇が動いた気がした。

「(……覚えてる。忘れるわけない。あのとき、わたしも救われてたんだ)」
「(心優しくて、当時言葉で人を傷つけた私には、とても優しくて、心休まる物語だった――)」

 彼女の心の声が──かすかに、聴こえた。

 でも、もうすぐ、それも聞こえなくなってしまう気がした。
 時間が迫っているのかもしれない。
 それでも、自分の気持ちは、今しか言えない。

「先輩に、ちゃんと伝えたかったんです。あの一言が、今でも僕の支えになってるって。
 だから……今度は自分が、先輩の力になりたいんです」

 彼女は驚いた顔をしたまま、ただ僕を見つめていた。
 言葉が、ゆっくりと、胸の奥に降りていった気がした。



 静寂が戻った図書館の中で、僕たちはただ向かい合っていた。
 どれくらいの時間が経ったのかもわからない。
 ──聞こえない。
 さっきまで、あれほど鮮明だった彼女の“声”が、もうまったく聞こえなくなっていた。
 魔法は、終わったんだ。
 一夜だけの、不思議な時間は。
 けれど、不思議と不安はなかった。
 その代わりに、胸の奥が、やさしく熱を帯びていた。

「……わたし」

 彼女が、ぽつりと声を落とす。

「……わたし、あのとき、どうしても名前が書けなかったんです」

 言葉が震えていた。
 けれど、その声は確かに届いていた。

「自信なんてなかった。誰かに読まれることも、怖かった。
 でも、後輩くんの物語だけは、どうしても、好きだって伝えたかったんです」

 彼女の指先が、小さく震えていた。
 それでも、まっすぐに僕を見ていた。

「だから、あのときのお礼、ちゃんと伝えられて……よかった」
「……ありがとう」

 胸が、じんわりと熱くなる。
 それは、泣きたくなるような、でも泣きたくないような、あたたかさだった。
 彼女の言葉が、いま、確かに届いた。
 たぶんもう、心の声なんて聞こえなくてもいい。
 本当の言葉で、こんなふうに伝え合えたのなら。
 深夜の図書館。
 カウンターの灯りが、ふたりの影を重ねていた。



 彼女は一瞬驚いたような顔をして──
 それから、ゆっくりとうなずいた。
 まるで、心の奥にやさしく栞を挟むみたいに。
 長い夜が、終わる。
 そして、新しい朝が始まる――そんな気がした。

「……沢村秀樹です」

 僕は、少し息を整えてから、はっきりとそう告げた。
 彼女は静かに、けれど確かに、僕の目を見てくれる。

「秀樹くん……」

 名前を口にしたその声は、どこまでもやわらかくて。
 胸の奥に、灯りがひとつ灯るようだった。

「先輩も……名前、教えてくれますか?」

 彼女は少しだけ視線を落とし──
 そして、ほんの一拍のあとで顔を上げ、微笑んだ。

「……柏木莉音(かしわぎ りおん)。……です」

 その声に、もう迷いはなかった。
 名前を口にしたあと、彼女はふわりと、
 照れくさそうに笑った。

 その笑顔が、たまらなく愛おしかった。
 僕が今まで見てきた、どんな本の中の言葉よりも。

「……莉音先輩、すごく素敵な名前ですね」

 そう返すと、彼女はまた、ほんの少しだけ照れて──
 でも今度は、ちゃんと僕の目を見て、笑ってくれた。

 この笑顔を、ずっと見ていたい。
 だから、そう思ったんだ。

「……先輩の笑顔が好きです。だから……」
「ずっと笑っててください。僕、頑張りますから。先輩が笑えるように」
「……なにそれ」

 莉音先輩がちょっとだけむくれた顔をする。
 でも、その目元は、きらきらと優しく揺れていた。

「“美しいものを美しいと言える、そんなあなたの心が美しい”──って、どこかの詩人が言ってましたよ」
「……詩人気取りのくせに、ちょっとだけズルい後輩」
「……優しすぎる先輩に、ちょっとだけ助けられました」

 そんな会話を交わして、僕たちは図書館をあとにした。
 長くて、でもあっという間だった夜が、静かに終わろうとしている。
 ガラス戸の向こうで、世界がゆっくりと目を覚ましはじめていた。

 魔法はもう、消えてしまった。
 でも、最後に交わしたあの言葉だけは──
 きっとこれからも、胸の奥に残り続ける。

 確かな、“本物の言葉”として――。

◯用語紹介
・中原中也:1907年~1937年。30歳の若さで亡くなったが、生涯350編以上の詩を残した詩人
・美しいものを美しいと言える、そんなあなたの心が美しい
 相田みつを:1924年~1991年が残した詩