――時計の針が、夜の終わりを告げる寸前で止まりかけていた。
図書館の閲覧室には、僕沢村秀樹と、ひとりの先輩しかいない。
――いつもそうだ。
僕がバイトの締め作業をしている頃、彼女は、誰もいない隅の席で静かにページをめくっている。
小さな灯りと、ページをめくる音と、淡い横顔。
名前は知らない。でも、何度も見かけている。たぶん、文学部の先輩。
『話しかけるなら、今日だ』と思っていた。
理由なんてない。ただ、そうしたかった。
でも──できなかった。
視線が一瞬だけぶつかったのに、
そのまま、彼女は目を伏せて本に戻ってしまった。
言葉は、また喉の奥に引っかかったまま。
足が動かず、その場でため息だけが落ちる。
何度目だろう、このすれ違い。
それでも、ほんの少しでも目が合ったことが、なんだか嬉しかった。
閲覧室の照明を落とし、扉を閉める。
終電まで、あと十五分。
……ぎりぎり、間に合う。
そう思って駅へ向かって走った。
けれど、遠くに見えた電車のテールランプが、音もなく夜に溶けていく。
そして同時に、携帯の画面に灯った時間が、午前0時前を示していた。
◆
足元から夜の空気が染み込んでくるようだった。
終電を逃した身体が、なにより先に帰り道をあきらめる。
それでもどこか、ほっとしていた。
まだ――彼女に会っていたいと思った自分がいたからだ。
誰もいない大学を逆戻りして、僕はもう一度、図書館の扉を押した。
ひんやりとした静けさの中、閲覧室の奥に灯る明かりが見える。
……まだ、いた。
先輩は、大きな分厚い専門書を開いたまま、膝に頬杖をついていた。
ページは捲られず、じっと思考に沈んでいるように見えた。
読み疲れたのか、どこか寂しげに見えた。
ほんのわずか、気配に気づいた彼女がこちらを見る。
目が合った。
今度こそ――そう思った僕は、ぎこちない声を発した。
「……まだ、いらしたんですね」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
けれど、先輩は静かに僕を見つめたまま、何も言わなかった。
僕はもう一言、勇気を振り絞った。
「あの、家……近いんですか?」
先輩は少しだけ瞬きをして、目を伏せた。
そして、やわらかく、けれどはっきりと境界線を引くように告げた。
「……集中したいので、あまり話しかけないでください」
声に刺はないのに、遠く感じた。
言葉が消えたあとの沈黙が、まるで境界そのもののようだった。
「すみません……」
謝るしかできず、僕は隣の席にそっと座った。
同じ空間にいるのに、会話の糸はほどけたまま。
時計の針が、夜の頂点を過ぎようとしていた。
静寂。紙の音さえ聞こえない静けさ。
秒針が0時を差した、そのときだった。
「(ほんとは、少しだけ、うれしかったのに)」
鼓膜の奥で、誰かの声が震えた。
聞き覚えのある声。けれど、彼女は口を動かしていない。
「(なんで、ちゃんと話せないんだろ……)」
また聞こえた。今度は、はっきりと。
――これは、彼女の……心の声?
思考が追いつかない。けれど確信があった。
今、彼女の本音が、言葉にならないまま、僕にだけ届いている。
……まさか、本当に聞こえるなんて。
僕は隣の席で、固まったまま動けなくなっていた。
先輩は何も言わず、ただページをめくる手を止めている。
けれどその沈黙のなかで、確かに聞こえたんだ。
「(なんで、ちゃんと話せないんだろ……)」
幻聴……じゃない。
だって、それは彼女の声で――彼女自身は、なにも喋っていないから。
――魔法だ。と、なぜか確信があった。
突然すぎて、信じる暇もない。
けれど、ただの妄想とは思えなかった。
だから、気づかれないように、小さく息を整える。
僕は、もう一度だけ、勇気を出した。
「……あの、自分、文学部の一年で。図書館のバイトしてて、たぶん、何回か……お会いしてますよね」
先輩はページからゆっくり顔を上げた。
ほんの一瞬だけ、驚いたような顔をして、すぐに目を逸らす。
「……そう、かもしれませんね」
その一言がうれしくて、僕はつい、もう一言重ねた。
「自分、顔とか覚えるの、けっこう得意で。なんかこう、同じ空気感の人って……気になるというか」
先輩は反応を返さなかった。
けれど、ふと、かすかに届く声があった。
「(そんなこと……言われたの、初めて)」
その言葉に、心のどこかが小さく揺れた。
僕はきっと、変なやつだと思われてる。
それでも、彼女の本音が聞こえる限り、怖くなかった。
「……邪魔だったら、黙りますので」
少しだけ肩をすくめて言うと、先輩は首を横に振った。
ほんのわずか、その頬がゆるんだ気がした。
「……別に、いいです。ちょっと、集中切れてたので」
「(ほんとは、話したかった……ずっと、前から)」
その声が、確かに届いた。
彼女は、僕と同じだったんだ。
話したい。でも、どうしたらいいか、わからないだけで。
不器用すぎて、言葉が棘になってしまうだけで。
魔法がなかったら、きっとわからなかった。
でも、今だけは――この奇跡が、彼女との橋になる気がしていた。
◆
夜の図書館は、世界から切り離されたみたいに静かだった。
蛍光灯の白が、ページの上に淡く滲んでいる。
僕と先輩だけが、この空間に取り残されているみたいだった。
会話は続いていない。けれど、沈黙ももう怖くなかった。
ときどき聞こえる、彼女の心の声が――どこまでもまっすぐで、少しだけ痛くて。
でも、それがたまらなく、愛おしかった。
「(どうせ私なんか……)」
「(ちゃんとした言葉にできない。気持ちを伝えるのが、ずっと、怖かった)」
彼女は、人と話すのが苦手なんじゃない。
自分が話すことで、誰かを傷つけるのが怖いんだ。
だから、本音を閉じ込めて生きてきた。
優しいくせに、不器用で、でも本当は人一倍、他人を想ってる人だ。
そんな彼女のことを、もっと知りたくなった。
ただ“気になる先輩”じゃなくて――
「先輩って、何年生なんですか?」
不意に投げた僕の言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。
「……四年です」
「じゃあ、卒論とか、忙しいですよね。何書いてるんですか?」
「……中也。中原中也について」
「へえ、中也。……なんか、わかる気がします」
「……どういう意味ですか?」
問いかけた先輩の目は、ほんの少しだけ興味を宿していた。
「中也って、不器用な人だったって聞いたことがあって。言葉の中に、いっぱい感情を詰め込んで……だけど、それがうまく伝わらなかったりするって」
彼女の視線が、ほんの少しだけ揺れた。
「(……なんで、そんなふうに言えるの)」
「(まるで……私のこと、知ってるみたい)」
それは、魔法が教えてくれた心の声。
けれど、もし魔法がなくても――僕は、きっと同じことを言ってた気がする。
この人と、ちゃんと話したい。
できることなら、魔法なんかなくても。
言葉で、目を見て、心を重ねたい。
たった数時間前まで、そんなこと考えもしなかったのに。
今の僕は、彼女のことをもっと知りたくて仕方がなかった。
◆
少しずつ、先輩と“会話”ができるようになってきた。
それでも、心の奥の距離は、まだ手探りのままで。
だから僕は、あの日の話をしてみることにした。
「……先輩って、いつ頃から文学やってたんですか?」
「中学のとき、少し。……でも、本格的に書いたのは高校から」
「そうなんですね。……自分は、高校の文芸部だったんですけど、正直あんまり自信なくて」
先輩はちらりとこちらを見た。僕は続けた。
◆
心の声が、少しずつわかるようになってきた。
意味もなく聞こえてくるわけじゃない。彼女の中には、言葉にできない想いがたくさんあるんだ。
静かな空間で、ぽつり、ぽつりと交わされる会話。
それだけで、胸がざわつく。
気づけば、僕は自分の話をしていた。
「……自分、文学部に入ったのって、ちょっと変な理由でして」
彼女は、ほんの少しだけ首をかしげた。
それは、続けてもいいという合図のようにも見えた。
「高校の文化祭のとき、文芸部で小説を展示してたんです。
あんまり読まれなくて……ちょっとだけ外に出て戻ってきたら、栞が挟まってたんですよ。
青い花のイラストが手描きであって、そこに──“あなたの物語、好きです”って」
そのときのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「誰が書いたか、わからなかったです。でも……嬉しくて。
なんか、世界に居場所があるような気がして。
その一行のせいで、ずっと忘れられなくて。気づいたら、大学でも文学を学びたいって思ってました」
彼女は視線を伏せたまま、小さく「へえ……」と呟いた。
「(……たった一言で、そんなふうに思ってくれてたなんて)」
ふっと、彼女の心の声が聞こえた気がした。
でも、そのときの僕はまだ、そこまで気づいていなかった。
「ずっと、捨てられないんですよ。……バカですよね、こんなのラミネートまでして取っておいて――」
僕が苦笑した、その瞬間だった。
――先輩の心が、はっきりと揺れた。
「(……待って、それって……)」
「(まさか、あの作品……後輩くんだったの?)」
「(うそ、気づかなかった……私、あのとき――)」
「(……そんなの、ずるいよ。そんなの……忘れられるわけないじゃん)」
……え?
喉の奥が、勝手に震えた。
あまりに強い感情が、心の中から溢れ出してくる。
この心の声は――確かに、目の前の彼女のものだ。
「……あの、先輩……!」
思わず声が出ていた。
抑えきれなかった。いや、止められなかった。
彼女がこちらを見た。
ゆっくりと、顔を上げて。
「……何か、問題でも?」
「いや……っ、あの、なんか、いま……先輩が……」
「……静かにしてください」
凛とした声。
でも、その奥にある、何かを押し殺すような気配に気づいた。
「ここ、図書館です。いくら深夜で誰もいないからって大声だしたらだめですよ?」
「……す、すみません……」
僕は慌てて頭を下げて、栞をそっと胸ポケットにしまった。
心臓が、ありえないくらい跳ねている。
気のせい、だと思いたかった。
けれど、違う。
今の心の声は、誰のものでもない――彼女の、声だった。
彼女は、あの“栞”を書いた人だった。
僕の人生を、ほんのひとことで救ってくれた――恩人だったんだ。
◆
しん、と静まり返った夜の図書館で、僕はひとり、呼吸を整えていた。
――あの栞を書いたのが、先輩だった。
驚きと戸惑い、それから、胸の奥がじんわり熱くなるような、言いようのない感情が満ちてくる。
あのとき、僕を救ってくれた言葉。
名前も書かれていなかったけど、あの一行に、僕は生きていい理由をもらった。
それをくれた人が、今ここにいる。
目の前に、あたりまえの顔をして、ページをめくってる。
――たまたまだろうか?
偶然じゃないと思いたかった。
こんな出会いを、運命って呼んでも、バチは当たらない気がした。
そして、きっとこの“声が聞こえる”という魔法も、偶然じゃない。
彼女の本音を知るために、与えられた時間なのかもしれない。
理由なんてなくても、信じたいと思った。
ただの“先輩”じゃない。
あのときの“誰か”だった人。
そんなふうに、心が揺れた夜だった。
◆
話しかけるたびに、少しずつ先輩が遠ざかっていく気がした。
「……先輩って、いつもこの時間に来てるんですね」
「ええ、まあ。……それ、聞いて何か意味あります?」
ぴしゃりと言い切られて、言葉が詰まる。
さっきまで笑っていたのに、今は冷えた空気が流れていた。
けど、そんな彼女の態度より、僕の心を刺したのは――
「(……まただ。どうして、普通に話せないんだろ)」
その声だった。
「(本当は、こんなふうに話してみたかったのに)」
彼女の声は、いつも遅れて届く。
現実の彼女は、そっけなく目を伏せているのに。
まるで、心と身体が別の人みたいに。
「……いえ、意味とかは別に。ただ、なんとなく気になって」
僕の声は情けないくらい小さくて、届いたのかもよくわからなかった。
先輩はため息をついた。
「人と話すの、苦手なんです」
それだけ言って、視線を戻した。
その声は、妙に淡々としていたけれど――
((……話すたびに、相手が傷ついた顔をするから)」
やっぱり、声は届いていた。
彼女は、自分の言葉に怯えていた。
誰かと話すことで、また誰かを傷つけてしまうんじゃないかと。
そんなふうに思いながら、それでもここに来て、静かにページをめくっていた。
その姿が、どうしようもなく胸に引っかかった。
◆
ページをめくる音だけが、空間を支配していた。
少し前まで、少しだけ、話せた気がしたのに。
その距離は、また元通りになってしまった。
──いや、違う。
僕だけは、まだ彼女の“声”を聞いている。
だから、知ってしまう。
言葉の裏にある、本当の気持ちを。
「(わたしなんかが話しかけても、きっと迷惑だよね)」
そんなふうに、誰かのことを思って傷つける人が、
ほんとうに人を傷つけるわけがないのに。
「(あの子、泣いてた。わたしのせいだった)」
突然、彼女の“声”が過去を語り始めた。
「(大事な友達だったのに。わたし、そんなつもりじゃなかったのに)」
言葉は、記憶の断片のように浮かんでは消えていく。
誰かを大切に思っていたのに、言葉が届かなくて、
それがズレになって、すれ違いになって──
「(また、わたしが誰かを傷つけるのが怖い)」
ああ、そうか。
彼女は、自分の言葉に怯えてるんだ。
だから、あんなに話すのが怖そうだったのか。
だから、無理に笑おうとしなかったのか。
「(ほんとは、もっと誰かと話したい。けど……)」
声が震えていた。
顔は静かで、何もなかったようにページをめくっているのに。
なのに、声だけが泣いていた。
その瞬間、胸が熱くなった。
彼女の心に、少しだけ触れた気がして。
この“声”が聞こえる魔法の意味を、ほんの少し、理解できた気がした。
◆
そのあとも、僕たちは少しだけ言葉を交わした。
本の話。天気の話。卒論の話。
でも、どこかぎこちなくて、
まるで言葉の間に、見えない壁が立っているみたいだった。
それでも、彼女の“声”は、ときおり僕に届いていた。
「(……楽しかったな。久しぶりに、誰かとこんなふうに話せて)」
そんなふうに思ってくれていることが、嬉しかった。
だから、勇気を出して聞いてみた。
「先輩って……いつも、もっと話したらいいのになぜ話さないんですか?」
彼女は一瞬、目を伏せてから、
静かに息を吐いた。
「……言葉って、こわいよ」
それは心の声じゃなくて、実際の言葉だった。
けど、それに続いた“声”は──
「(わたしが言うと、どうしてか全部、誰かを傷つける)」
「(だから、嫌われる前に距離をとるの。わたしのためにも、相手のためにも)」
「(人間関係なんて、いつか壊れるんだから。だったら最初から期待しないほうがいい)」
胸が締めつけられた。
言葉のひとつひとつが、彼女を縛っている。
まるで自分自身が、檻の鍵を握っているかのように。
そんなふうに生きてきたのかと想像すると、
僕は、どんな言葉をかければいいかわからなくなった。
いくら心の声が聞こえても。
彼女の本当の孤独に、踏み込める気がしなかった。
もし僕が、彼女の世界を壊してしまったら──
もしまた彼女が傷ついてしまったら──
そう思うと、言葉が出てこなかった。
彼女のことを、もっと知りたい。
でも、このままじゃ届かない。
魔法の力さえ、心の壁を越えられない気がした。
◆
僕は、彼女を救いたかった。
ずっとひとりで言葉を閉じ込めてきた彼女に、
「もう大丈夫だよ」って言ってあげたかった。
でも──その気持ちは、きっと僕のエゴだった。
「……先輩、そんなふうに、自分のことばかり責めなくてもいいと思います」
彼女が、ぴくりと肩を揺らした。
それでも僕は、止まれなかった。
「言葉って、全部が全部うまく届くわけじゃないですけど、でも……誰かのために選んだ言葉なら、きっと──」
そのときだった。
彼女が、ゆっくりと立ち上がった。
声はなかった。
けれど、わかってしまった。
その背中が、拒絶していた。
「……すみません。やっぱり、帰ります」
「先輩──」
「(だから、いやだったのに)」
「(わたしのこと、何も知らないくせに)」
「(勝手に踏み込まないで……)」
背中越しに響く心の声は、まるで刃のようだった。
たしかに、そうだ。
僕は、彼女の“声”を聞いているだけで、
本当の彼女のことなんて、なにも知らないのかもしれない。
踏み込みたかった。救いたかった。
◆
図書館の外へ消えようとしている彼女の背中。
あとを追うこともできず、僕は、カウンターの椅子に腰を落とした。
冷たい木の感触が、背中を締めつける。
──届かなかった。
どれだけ心の声が聞こえても、
本当の痛みに触れることはできなかった。
魔法なんて、役に立たなかった。
ふと、胸ポケットの内側に手を入れる。
手帳に挟んでいた、古びた紙片が指先に触れた。
栞だ。
あのとき、小さな文芸誌に挟まれていた、ただの一文。
でも、僕にとっては人生の針路を変えた、たったひとつの言葉。
──「あなたの物語、すきです。」
拙くて、誰にも読まれないと思っていた作品。
何度も辞めようと思った投稿。
でも、このたったひとことが、すべてを救ってくれた。
その言葉に背中を押されて、僕はこの大学に進んだ。
文学部に入って、創作を続けようって決めた。
……それが、彼女だったんだ。
あの夜、そっと挟まれていた栞の主。
僕の“きっかけ”だった人。
だったら──
今度は僕の番だ。
彼女がくれた一文が、僕を生かしたように。
今度は僕が、彼女の心をあたためたい。
心の声が聞こえなくても、
伝えたい言葉がある。
たとえ、彼女に拒まれても。
もしそれが彼女の痛みを癒やす光になるなら、
僕は、何度でも言葉を選び直せる。
静まり返った深夜の図書館で、
僕はゆっくりと立ち上がった。
彼女の元へ向かうために。
でも、僕の言葉は、彼女の過去と同じように──
彼女を、またひとりにしてしまった。
その足音が図書館の外に消える前に――
心の中の光が、ひとつずつ消えていくようだった。
魔法があるのに、何もできない。
魔法を使っても、伝わらない。
……これが、“すべてを失う”ということなんだと思った。
◆
彼女が静かに席を立った。
カバンを手に、出口の方へ歩き出す。
終電の時間はとうに過ぎている。
でも、そんなことより──このままじゃ、何も伝えられない。
沈黙の中で、何かが終わってしまいそうで。
「……待ってください!」
自分でも驚くほどの大きな声が出た。
深夜の図書館。その音が静寂を破った瞬間、彼女がぴたりと止まった。
振り返る。
その目に宿るのは、驚き、戸惑い……そして、少しだけ寂しさのようなものだった。
「……すみません、ただ、どうしても言っておきたくて」
言葉を選ぶ時間なんてなかった。
でも、今だけは、思ったままを口にしていい気がした。
「さっき話した、栞の話」
胸ポケットから、慎重に取り出す。
今も持ち歩いてる、あの日の栞。
「……先輩ですよね? それ、描いてくれたの」
彼女は、言葉を失っていた。
でも、その瞳が、少しだけ揺れていた。
「名前もなかったけど、その一行が、自分の全部を救ってくれたんです――」
彼女は答えなかった。
けれど、俯いたまま、小さく唇が動いた気がした。
「(……覚えてる。忘れるわけない。あのとき、わたしも救われてたんだ)」
「(心優しくて、当時言葉で人を傷つけた私には、とても優しくて、心休まる物語だった――)」
彼女の心の声が──かすかに、聴こえた。
でも、もうすぐ、それも聞こえなくなってしまう気がした。
時間が迫っているのかもしれない。
それでも、自分の気持ちは、今しか言えない。
「先輩に、ちゃんと伝えたかったんです。あの一言が、今でも僕の支えになってるって。
だから……今度は自分が、先輩の力になりたいんです」
彼女は驚いた顔をしたまま、ただ僕を見つめていた。
言葉が、ゆっくりと、胸の奥に降りていった気がした。
◆
静寂が戻った図書館の中で、僕たちはただ向かい合っていた。
どれくらいの時間が経ったのかもわからない。
──聞こえない。
さっきまで、あれほど鮮明だった彼女の“声”が、もうまったく聞こえなくなっていた。
魔法は、終わったんだ。
一夜だけの、不思議な時間は。
けれど、不思議と不安はなかった。
その代わりに、胸の奥が、やさしく熱を帯びていた。
「……わたし」
彼女が、ぽつりと声を落とす。
「……わたし、あのとき、どうしても名前が書けなかったんです」
言葉が震えていた。
けれど、その声は確かに届いていた。
「自信なんてなかった。誰かに読まれることも、怖かった。
でも、後輩くんの物語だけは、どうしても、好きだって伝えたかったんです」
彼女の指先が、小さく震えていた。
それでも、まっすぐに僕を見ていた。
「だから、あのときのお礼、ちゃんと伝えられて……よかった」
「……ありがとう」
胸が、じんわりと熱くなる。
それは、泣きたくなるような、でも泣きたくないような、あたたかさだった。
彼女の言葉が、いま、確かに届いた。
たぶんもう、心の声なんて聞こえなくてもいい。
本当の言葉で、こんなふうに伝え合えたのなら。
深夜の図書館。
カウンターの灯りが、ふたりの影を重ねていた。
◆
彼女は一瞬驚いたような顔をして──
それから、ゆっくりとうなずいた。
まるで、心の奥にやさしく栞を挟むみたいに。
長い夜が、終わる。
そして、新しい朝が始まる――そんな気がした。
「……沢村秀樹です」
僕は、少し息を整えてから、はっきりとそう告げた。
彼女は静かに、けれど確かに、僕の目を見てくれる。
「秀樹くん……」
名前を口にしたその声は、どこまでもやわらかくて。
胸の奥に、灯りがひとつ灯るようだった。
「先輩も……名前、教えてくれますか?」
彼女は少しだけ視線を落とし──
そして、ほんの一拍のあとで顔を上げ、微笑んだ。
「……柏木莉音。……です」
その声に、もう迷いはなかった。
名前を口にしたあと、彼女はふわりと、
照れくさそうに笑った。
その笑顔が、たまらなく愛おしかった。
僕が今まで見てきた、どんな本の中の言葉よりも。
「……莉音先輩、すごく素敵な名前ですね」
そう返すと、彼女はまた、ほんの少しだけ照れて──
でも今度は、ちゃんと僕の目を見て、笑ってくれた。
この笑顔を、ずっと見ていたい。
だから、そう思ったんだ。
「……先輩の笑顔が好きです。だから……」
「ずっと笑っててください。僕、頑張りますから。先輩が笑えるように」
「……なにそれ」
莉音先輩がちょっとだけむくれた顔をする。
でも、その目元は、きらきらと優しく揺れていた。
「“美しいものを美しいと言える、そんなあなたの心が美しい”──って、どこかの詩人が言ってましたよ」
「……詩人気取りのくせに、ちょっとだけズルい後輩」
「……優しすぎる先輩に、ちょっとだけ助けられました」
そんな会話を交わして、僕たちは図書館をあとにした。
長くて、でもあっという間だった夜が、静かに終わろうとしている。
ガラス戸の向こうで、世界がゆっくりと目を覚ましはじめていた。
魔法はもう、消えてしまった。
でも、最後に交わしたあの言葉だけは──
きっとこれからも、胸の奥に残り続ける。
確かな、“本物の言葉”として――。
◯用語紹介
・中原中也:1907年~1937年。30歳の若さで亡くなったが、生涯350編以上の詩を残した詩人
・美しいものを美しいと言える、そんなあなたの心が美しい
相田みつを:1924年~1991年が残した詩
図書館の閲覧室には、僕沢村秀樹と、ひとりの先輩しかいない。
――いつもそうだ。
僕がバイトの締め作業をしている頃、彼女は、誰もいない隅の席で静かにページをめくっている。
小さな灯りと、ページをめくる音と、淡い横顔。
名前は知らない。でも、何度も見かけている。たぶん、文学部の先輩。
『話しかけるなら、今日だ』と思っていた。
理由なんてない。ただ、そうしたかった。
でも──できなかった。
視線が一瞬だけぶつかったのに、
そのまま、彼女は目を伏せて本に戻ってしまった。
言葉は、また喉の奥に引っかかったまま。
足が動かず、その場でため息だけが落ちる。
何度目だろう、このすれ違い。
それでも、ほんの少しでも目が合ったことが、なんだか嬉しかった。
閲覧室の照明を落とし、扉を閉める。
終電まで、あと十五分。
……ぎりぎり、間に合う。
そう思って駅へ向かって走った。
けれど、遠くに見えた電車のテールランプが、音もなく夜に溶けていく。
そして同時に、携帯の画面に灯った時間が、午前0時前を示していた。
◆
足元から夜の空気が染み込んでくるようだった。
終電を逃した身体が、なにより先に帰り道をあきらめる。
それでもどこか、ほっとしていた。
まだ――彼女に会っていたいと思った自分がいたからだ。
誰もいない大学を逆戻りして、僕はもう一度、図書館の扉を押した。
ひんやりとした静けさの中、閲覧室の奥に灯る明かりが見える。
……まだ、いた。
先輩は、大きな分厚い専門書を開いたまま、膝に頬杖をついていた。
ページは捲られず、じっと思考に沈んでいるように見えた。
読み疲れたのか、どこか寂しげに見えた。
ほんのわずか、気配に気づいた彼女がこちらを見る。
目が合った。
今度こそ――そう思った僕は、ぎこちない声を発した。
「……まだ、いらしたんですね」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
けれど、先輩は静かに僕を見つめたまま、何も言わなかった。
僕はもう一言、勇気を振り絞った。
「あの、家……近いんですか?」
先輩は少しだけ瞬きをして、目を伏せた。
そして、やわらかく、けれどはっきりと境界線を引くように告げた。
「……集中したいので、あまり話しかけないでください」
声に刺はないのに、遠く感じた。
言葉が消えたあとの沈黙が、まるで境界そのもののようだった。
「すみません……」
謝るしかできず、僕は隣の席にそっと座った。
同じ空間にいるのに、会話の糸はほどけたまま。
時計の針が、夜の頂点を過ぎようとしていた。
静寂。紙の音さえ聞こえない静けさ。
秒針が0時を差した、そのときだった。
「(ほんとは、少しだけ、うれしかったのに)」
鼓膜の奥で、誰かの声が震えた。
聞き覚えのある声。けれど、彼女は口を動かしていない。
「(なんで、ちゃんと話せないんだろ……)」
また聞こえた。今度は、はっきりと。
――これは、彼女の……心の声?
思考が追いつかない。けれど確信があった。
今、彼女の本音が、言葉にならないまま、僕にだけ届いている。
……まさか、本当に聞こえるなんて。
僕は隣の席で、固まったまま動けなくなっていた。
先輩は何も言わず、ただページをめくる手を止めている。
けれどその沈黙のなかで、確かに聞こえたんだ。
「(なんで、ちゃんと話せないんだろ……)」
幻聴……じゃない。
だって、それは彼女の声で――彼女自身は、なにも喋っていないから。
――魔法だ。と、なぜか確信があった。
突然すぎて、信じる暇もない。
けれど、ただの妄想とは思えなかった。
だから、気づかれないように、小さく息を整える。
僕は、もう一度だけ、勇気を出した。
「……あの、自分、文学部の一年で。図書館のバイトしてて、たぶん、何回か……お会いしてますよね」
先輩はページからゆっくり顔を上げた。
ほんの一瞬だけ、驚いたような顔をして、すぐに目を逸らす。
「……そう、かもしれませんね」
その一言がうれしくて、僕はつい、もう一言重ねた。
「自分、顔とか覚えるの、けっこう得意で。なんかこう、同じ空気感の人って……気になるというか」
先輩は反応を返さなかった。
けれど、ふと、かすかに届く声があった。
「(そんなこと……言われたの、初めて)」
その言葉に、心のどこかが小さく揺れた。
僕はきっと、変なやつだと思われてる。
それでも、彼女の本音が聞こえる限り、怖くなかった。
「……邪魔だったら、黙りますので」
少しだけ肩をすくめて言うと、先輩は首を横に振った。
ほんのわずか、その頬がゆるんだ気がした。
「……別に、いいです。ちょっと、集中切れてたので」
「(ほんとは、話したかった……ずっと、前から)」
その声が、確かに届いた。
彼女は、僕と同じだったんだ。
話したい。でも、どうしたらいいか、わからないだけで。
不器用すぎて、言葉が棘になってしまうだけで。
魔法がなかったら、きっとわからなかった。
でも、今だけは――この奇跡が、彼女との橋になる気がしていた。
◆
夜の図書館は、世界から切り離されたみたいに静かだった。
蛍光灯の白が、ページの上に淡く滲んでいる。
僕と先輩だけが、この空間に取り残されているみたいだった。
会話は続いていない。けれど、沈黙ももう怖くなかった。
ときどき聞こえる、彼女の心の声が――どこまでもまっすぐで、少しだけ痛くて。
でも、それがたまらなく、愛おしかった。
「(どうせ私なんか……)」
「(ちゃんとした言葉にできない。気持ちを伝えるのが、ずっと、怖かった)」
彼女は、人と話すのが苦手なんじゃない。
自分が話すことで、誰かを傷つけるのが怖いんだ。
だから、本音を閉じ込めて生きてきた。
優しいくせに、不器用で、でも本当は人一倍、他人を想ってる人だ。
そんな彼女のことを、もっと知りたくなった。
ただ“気になる先輩”じゃなくて――
「先輩って、何年生なんですか?」
不意に投げた僕の言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。
「……四年です」
「じゃあ、卒論とか、忙しいですよね。何書いてるんですか?」
「……中也。中原中也について」
「へえ、中也。……なんか、わかる気がします」
「……どういう意味ですか?」
問いかけた先輩の目は、ほんの少しだけ興味を宿していた。
「中也って、不器用な人だったって聞いたことがあって。言葉の中に、いっぱい感情を詰め込んで……だけど、それがうまく伝わらなかったりするって」
彼女の視線が、ほんの少しだけ揺れた。
「(……なんで、そんなふうに言えるの)」
「(まるで……私のこと、知ってるみたい)」
それは、魔法が教えてくれた心の声。
けれど、もし魔法がなくても――僕は、きっと同じことを言ってた気がする。
この人と、ちゃんと話したい。
できることなら、魔法なんかなくても。
言葉で、目を見て、心を重ねたい。
たった数時間前まで、そんなこと考えもしなかったのに。
今の僕は、彼女のことをもっと知りたくて仕方がなかった。
◆
少しずつ、先輩と“会話”ができるようになってきた。
それでも、心の奥の距離は、まだ手探りのままで。
だから僕は、あの日の話をしてみることにした。
「……先輩って、いつ頃から文学やってたんですか?」
「中学のとき、少し。……でも、本格的に書いたのは高校から」
「そうなんですね。……自分は、高校の文芸部だったんですけど、正直あんまり自信なくて」
先輩はちらりとこちらを見た。僕は続けた。
◆
心の声が、少しずつわかるようになってきた。
意味もなく聞こえてくるわけじゃない。彼女の中には、言葉にできない想いがたくさんあるんだ。
静かな空間で、ぽつり、ぽつりと交わされる会話。
それだけで、胸がざわつく。
気づけば、僕は自分の話をしていた。
「……自分、文学部に入ったのって、ちょっと変な理由でして」
彼女は、ほんの少しだけ首をかしげた。
それは、続けてもいいという合図のようにも見えた。
「高校の文化祭のとき、文芸部で小説を展示してたんです。
あんまり読まれなくて……ちょっとだけ外に出て戻ってきたら、栞が挟まってたんですよ。
青い花のイラストが手描きであって、そこに──“あなたの物語、好きです”って」
そのときのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「誰が書いたか、わからなかったです。でも……嬉しくて。
なんか、世界に居場所があるような気がして。
その一行のせいで、ずっと忘れられなくて。気づいたら、大学でも文学を学びたいって思ってました」
彼女は視線を伏せたまま、小さく「へえ……」と呟いた。
「(……たった一言で、そんなふうに思ってくれてたなんて)」
ふっと、彼女の心の声が聞こえた気がした。
でも、そのときの僕はまだ、そこまで気づいていなかった。
「ずっと、捨てられないんですよ。……バカですよね、こんなのラミネートまでして取っておいて――」
僕が苦笑した、その瞬間だった。
――先輩の心が、はっきりと揺れた。
「(……待って、それって……)」
「(まさか、あの作品……後輩くんだったの?)」
「(うそ、気づかなかった……私、あのとき――)」
「(……そんなの、ずるいよ。そんなの……忘れられるわけないじゃん)」
……え?
喉の奥が、勝手に震えた。
あまりに強い感情が、心の中から溢れ出してくる。
この心の声は――確かに、目の前の彼女のものだ。
「……あの、先輩……!」
思わず声が出ていた。
抑えきれなかった。いや、止められなかった。
彼女がこちらを見た。
ゆっくりと、顔を上げて。
「……何か、問題でも?」
「いや……っ、あの、なんか、いま……先輩が……」
「……静かにしてください」
凛とした声。
でも、その奥にある、何かを押し殺すような気配に気づいた。
「ここ、図書館です。いくら深夜で誰もいないからって大声だしたらだめですよ?」
「……す、すみません……」
僕は慌てて頭を下げて、栞をそっと胸ポケットにしまった。
心臓が、ありえないくらい跳ねている。
気のせい、だと思いたかった。
けれど、違う。
今の心の声は、誰のものでもない――彼女の、声だった。
彼女は、あの“栞”を書いた人だった。
僕の人生を、ほんのひとことで救ってくれた――恩人だったんだ。
◆
しん、と静まり返った夜の図書館で、僕はひとり、呼吸を整えていた。
――あの栞を書いたのが、先輩だった。
驚きと戸惑い、それから、胸の奥がじんわり熱くなるような、言いようのない感情が満ちてくる。
あのとき、僕を救ってくれた言葉。
名前も書かれていなかったけど、あの一行に、僕は生きていい理由をもらった。
それをくれた人が、今ここにいる。
目の前に、あたりまえの顔をして、ページをめくってる。
――たまたまだろうか?
偶然じゃないと思いたかった。
こんな出会いを、運命って呼んでも、バチは当たらない気がした。
そして、きっとこの“声が聞こえる”という魔法も、偶然じゃない。
彼女の本音を知るために、与えられた時間なのかもしれない。
理由なんてなくても、信じたいと思った。
ただの“先輩”じゃない。
あのときの“誰か”だった人。
そんなふうに、心が揺れた夜だった。
◆
話しかけるたびに、少しずつ先輩が遠ざかっていく気がした。
「……先輩って、いつもこの時間に来てるんですね」
「ええ、まあ。……それ、聞いて何か意味あります?」
ぴしゃりと言い切られて、言葉が詰まる。
さっきまで笑っていたのに、今は冷えた空気が流れていた。
けど、そんな彼女の態度より、僕の心を刺したのは――
「(……まただ。どうして、普通に話せないんだろ)」
その声だった。
「(本当は、こんなふうに話してみたかったのに)」
彼女の声は、いつも遅れて届く。
現実の彼女は、そっけなく目を伏せているのに。
まるで、心と身体が別の人みたいに。
「……いえ、意味とかは別に。ただ、なんとなく気になって」
僕の声は情けないくらい小さくて、届いたのかもよくわからなかった。
先輩はため息をついた。
「人と話すの、苦手なんです」
それだけ言って、視線を戻した。
その声は、妙に淡々としていたけれど――
((……話すたびに、相手が傷ついた顔をするから)」
やっぱり、声は届いていた。
彼女は、自分の言葉に怯えていた。
誰かと話すことで、また誰かを傷つけてしまうんじゃないかと。
そんなふうに思いながら、それでもここに来て、静かにページをめくっていた。
その姿が、どうしようもなく胸に引っかかった。
◆
ページをめくる音だけが、空間を支配していた。
少し前まで、少しだけ、話せた気がしたのに。
その距離は、また元通りになってしまった。
──いや、違う。
僕だけは、まだ彼女の“声”を聞いている。
だから、知ってしまう。
言葉の裏にある、本当の気持ちを。
「(わたしなんかが話しかけても、きっと迷惑だよね)」
そんなふうに、誰かのことを思って傷つける人が、
ほんとうに人を傷つけるわけがないのに。
「(あの子、泣いてた。わたしのせいだった)」
突然、彼女の“声”が過去を語り始めた。
「(大事な友達だったのに。わたし、そんなつもりじゃなかったのに)」
言葉は、記憶の断片のように浮かんでは消えていく。
誰かを大切に思っていたのに、言葉が届かなくて、
それがズレになって、すれ違いになって──
「(また、わたしが誰かを傷つけるのが怖い)」
ああ、そうか。
彼女は、自分の言葉に怯えてるんだ。
だから、あんなに話すのが怖そうだったのか。
だから、無理に笑おうとしなかったのか。
「(ほんとは、もっと誰かと話したい。けど……)」
声が震えていた。
顔は静かで、何もなかったようにページをめくっているのに。
なのに、声だけが泣いていた。
その瞬間、胸が熱くなった。
彼女の心に、少しだけ触れた気がして。
この“声”が聞こえる魔法の意味を、ほんの少し、理解できた気がした。
◆
そのあとも、僕たちは少しだけ言葉を交わした。
本の話。天気の話。卒論の話。
でも、どこかぎこちなくて、
まるで言葉の間に、見えない壁が立っているみたいだった。
それでも、彼女の“声”は、ときおり僕に届いていた。
「(……楽しかったな。久しぶりに、誰かとこんなふうに話せて)」
そんなふうに思ってくれていることが、嬉しかった。
だから、勇気を出して聞いてみた。
「先輩って……いつも、もっと話したらいいのになぜ話さないんですか?」
彼女は一瞬、目を伏せてから、
静かに息を吐いた。
「……言葉って、こわいよ」
それは心の声じゃなくて、実際の言葉だった。
けど、それに続いた“声”は──
「(わたしが言うと、どうしてか全部、誰かを傷つける)」
「(だから、嫌われる前に距離をとるの。わたしのためにも、相手のためにも)」
「(人間関係なんて、いつか壊れるんだから。だったら最初から期待しないほうがいい)」
胸が締めつけられた。
言葉のひとつひとつが、彼女を縛っている。
まるで自分自身が、檻の鍵を握っているかのように。
そんなふうに生きてきたのかと想像すると、
僕は、どんな言葉をかければいいかわからなくなった。
いくら心の声が聞こえても。
彼女の本当の孤独に、踏み込める気がしなかった。
もし僕が、彼女の世界を壊してしまったら──
もしまた彼女が傷ついてしまったら──
そう思うと、言葉が出てこなかった。
彼女のことを、もっと知りたい。
でも、このままじゃ届かない。
魔法の力さえ、心の壁を越えられない気がした。
◆
僕は、彼女を救いたかった。
ずっとひとりで言葉を閉じ込めてきた彼女に、
「もう大丈夫だよ」って言ってあげたかった。
でも──その気持ちは、きっと僕のエゴだった。
「……先輩、そんなふうに、自分のことばかり責めなくてもいいと思います」
彼女が、ぴくりと肩を揺らした。
それでも僕は、止まれなかった。
「言葉って、全部が全部うまく届くわけじゃないですけど、でも……誰かのために選んだ言葉なら、きっと──」
そのときだった。
彼女が、ゆっくりと立ち上がった。
声はなかった。
けれど、わかってしまった。
その背中が、拒絶していた。
「……すみません。やっぱり、帰ります」
「先輩──」
「(だから、いやだったのに)」
「(わたしのこと、何も知らないくせに)」
「(勝手に踏み込まないで……)」
背中越しに響く心の声は、まるで刃のようだった。
たしかに、そうだ。
僕は、彼女の“声”を聞いているだけで、
本当の彼女のことなんて、なにも知らないのかもしれない。
踏み込みたかった。救いたかった。
◆
図書館の外へ消えようとしている彼女の背中。
あとを追うこともできず、僕は、カウンターの椅子に腰を落とした。
冷たい木の感触が、背中を締めつける。
──届かなかった。
どれだけ心の声が聞こえても、
本当の痛みに触れることはできなかった。
魔法なんて、役に立たなかった。
ふと、胸ポケットの内側に手を入れる。
手帳に挟んでいた、古びた紙片が指先に触れた。
栞だ。
あのとき、小さな文芸誌に挟まれていた、ただの一文。
でも、僕にとっては人生の針路を変えた、たったひとつの言葉。
──「あなたの物語、すきです。」
拙くて、誰にも読まれないと思っていた作品。
何度も辞めようと思った投稿。
でも、このたったひとことが、すべてを救ってくれた。
その言葉に背中を押されて、僕はこの大学に進んだ。
文学部に入って、創作を続けようって決めた。
……それが、彼女だったんだ。
あの夜、そっと挟まれていた栞の主。
僕の“きっかけ”だった人。
だったら──
今度は僕の番だ。
彼女がくれた一文が、僕を生かしたように。
今度は僕が、彼女の心をあたためたい。
心の声が聞こえなくても、
伝えたい言葉がある。
たとえ、彼女に拒まれても。
もしそれが彼女の痛みを癒やす光になるなら、
僕は、何度でも言葉を選び直せる。
静まり返った深夜の図書館で、
僕はゆっくりと立ち上がった。
彼女の元へ向かうために。
でも、僕の言葉は、彼女の過去と同じように──
彼女を、またひとりにしてしまった。
その足音が図書館の外に消える前に――
心の中の光が、ひとつずつ消えていくようだった。
魔法があるのに、何もできない。
魔法を使っても、伝わらない。
……これが、“すべてを失う”ということなんだと思った。
◆
彼女が静かに席を立った。
カバンを手に、出口の方へ歩き出す。
終電の時間はとうに過ぎている。
でも、そんなことより──このままじゃ、何も伝えられない。
沈黙の中で、何かが終わってしまいそうで。
「……待ってください!」
自分でも驚くほどの大きな声が出た。
深夜の図書館。その音が静寂を破った瞬間、彼女がぴたりと止まった。
振り返る。
その目に宿るのは、驚き、戸惑い……そして、少しだけ寂しさのようなものだった。
「……すみません、ただ、どうしても言っておきたくて」
言葉を選ぶ時間なんてなかった。
でも、今だけは、思ったままを口にしていい気がした。
「さっき話した、栞の話」
胸ポケットから、慎重に取り出す。
今も持ち歩いてる、あの日の栞。
「……先輩ですよね? それ、描いてくれたの」
彼女は、言葉を失っていた。
でも、その瞳が、少しだけ揺れていた。
「名前もなかったけど、その一行が、自分の全部を救ってくれたんです――」
彼女は答えなかった。
けれど、俯いたまま、小さく唇が動いた気がした。
「(……覚えてる。忘れるわけない。あのとき、わたしも救われてたんだ)」
「(心優しくて、当時言葉で人を傷つけた私には、とても優しくて、心休まる物語だった――)」
彼女の心の声が──かすかに、聴こえた。
でも、もうすぐ、それも聞こえなくなってしまう気がした。
時間が迫っているのかもしれない。
それでも、自分の気持ちは、今しか言えない。
「先輩に、ちゃんと伝えたかったんです。あの一言が、今でも僕の支えになってるって。
だから……今度は自分が、先輩の力になりたいんです」
彼女は驚いた顔をしたまま、ただ僕を見つめていた。
言葉が、ゆっくりと、胸の奥に降りていった気がした。
◆
静寂が戻った図書館の中で、僕たちはただ向かい合っていた。
どれくらいの時間が経ったのかもわからない。
──聞こえない。
さっきまで、あれほど鮮明だった彼女の“声”が、もうまったく聞こえなくなっていた。
魔法は、終わったんだ。
一夜だけの、不思議な時間は。
けれど、不思議と不安はなかった。
その代わりに、胸の奥が、やさしく熱を帯びていた。
「……わたし」
彼女が、ぽつりと声を落とす。
「……わたし、あのとき、どうしても名前が書けなかったんです」
言葉が震えていた。
けれど、その声は確かに届いていた。
「自信なんてなかった。誰かに読まれることも、怖かった。
でも、後輩くんの物語だけは、どうしても、好きだって伝えたかったんです」
彼女の指先が、小さく震えていた。
それでも、まっすぐに僕を見ていた。
「だから、あのときのお礼、ちゃんと伝えられて……よかった」
「……ありがとう」
胸が、じんわりと熱くなる。
それは、泣きたくなるような、でも泣きたくないような、あたたかさだった。
彼女の言葉が、いま、確かに届いた。
たぶんもう、心の声なんて聞こえなくてもいい。
本当の言葉で、こんなふうに伝え合えたのなら。
深夜の図書館。
カウンターの灯りが、ふたりの影を重ねていた。
◆
彼女は一瞬驚いたような顔をして──
それから、ゆっくりとうなずいた。
まるで、心の奥にやさしく栞を挟むみたいに。
長い夜が、終わる。
そして、新しい朝が始まる――そんな気がした。
「……沢村秀樹です」
僕は、少し息を整えてから、はっきりとそう告げた。
彼女は静かに、けれど確かに、僕の目を見てくれる。
「秀樹くん……」
名前を口にしたその声は、どこまでもやわらかくて。
胸の奥に、灯りがひとつ灯るようだった。
「先輩も……名前、教えてくれますか?」
彼女は少しだけ視線を落とし──
そして、ほんの一拍のあとで顔を上げ、微笑んだ。
「……柏木莉音。……です」
その声に、もう迷いはなかった。
名前を口にしたあと、彼女はふわりと、
照れくさそうに笑った。
その笑顔が、たまらなく愛おしかった。
僕が今まで見てきた、どんな本の中の言葉よりも。
「……莉音先輩、すごく素敵な名前ですね」
そう返すと、彼女はまた、ほんの少しだけ照れて──
でも今度は、ちゃんと僕の目を見て、笑ってくれた。
この笑顔を、ずっと見ていたい。
だから、そう思ったんだ。
「……先輩の笑顔が好きです。だから……」
「ずっと笑っててください。僕、頑張りますから。先輩が笑えるように」
「……なにそれ」
莉音先輩がちょっとだけむくれた顔をする。
でも、その目元は、きらきらと優しく揺れていた。
「“美しいものを美しいと言える、そんなあなたの心が美しい”──って、どこかの詩人が言ってましたよ」
「……詩人気取りのくせに、ちょっとだけズルい後輩」
「……優しすぎる先輩に、ちょっとだけ助けられました」
そんな会話を交わして、僕たちは図書館をあとにした。
長くて、でもあっという間だった夜が、静かに終わろうとしている。
ガラス戸の向こうで、世界がゆっくりと目を覚ましはじめていた。
魔法はもう、消えてしまった。
でも、最後に交わしたあの言葉だけは──
きっとこれからも、胸の奥に残り続ける。
確かな、“本物の言葉”として――。
◯用語紹介
・中原中也:1907年~1937年。30歳の若さで亡くなったが、生涯350編以上の詩を残した詩人
・美しいものを美しいと言える、そんなあなたの心が美しい
相田みつを:1924年~1991年が残した詩



