もうすぐ終電が出てしまう。
だけど椎葉香澄は駅へ行かなかった。ううん、行けなかったのかも。
街の中にぽっかり口をあける地下鉄の入り口を見た時、そこに吸い込まれるのが嫌になった。理由はわからない。とにかく香澄は立ちどまった。
後ろから追い抜いていく人たちが香澄を邪魔そうににらむ。そりゃそうだろう。みんな電車に駆け込もうとしているところだ。終電の一本でも二本でも前ならなおいい。早く家に帰りたいし混雑がややマシだ。
このままじゃ突き飛ばされて階段を落ちる。そう思った香澄は端によけ、フラフラとそこを離れた。
「……まいったなぁ」
ひとりごちたけど、言葉ほど困っていない。なんだかいろいろどうでもよくなっていた。少し酔ったせいだろうか。
どうということもない飲み会だった。同じ部署の先輩が結婚するというので軽くお祝いしただけ。
今は披露宴に職場の人間が大挙して出席するようなご時世でもない。居酒屋で席をもうけ、ちょっとしたプレゼントを渡す。それぐらいがドライでいい。
でも、行かなければよかった。
香澄の彼氏は先々月、交通事故で亡くなっていた。
二十八歳になった香澄。そろそろ結婚を視野に入れてもいいお年頃だ。そんな時期に突然放り出されたカワイソウな女――という周囲の視線が刺さった。
「うっせえわ」
香澄は吐き捨てた。
人を可哀想がるならせめて、大切な人間を失ったことを哀れんでほしい。婚期がどーのこーのじゃなく。
「……嘘つき」
そのつぶやきが彼に向けたものならばどれほどよかったか。
嘘つきなのは、香澄だ。
「ほんとに大切な人だったかなんて――もうわかんないくせに」
たとえば彼が「一生愛してる」や「一人にしない」みたいな言葉をささやく人で、それを信じていたのなら。遺された香澄はボロボロ泣いたろう。
でも、おあいにくさま。そんなロマンチックな事実はない。だから悲劇のヒロインにはなれない。
ぶっちゃければ最近はケンカばかりしていた。何かと意見が食い違い、ずっと一緒にいられるか不安になっていた。こりゃ別れるしかないかと香澄は本気で検討しかけていて――その矢先の事故死だ。
ささやかな価値観のズレなんて、住む世界が違ってしまったらどうでもよくなった。いや、どうにもできなくなった。この世とあの世だし。
「あー、どうしよっかなあ」
とりあえず今夜をどうするか、だ。
人生については別の機会に考えるからいい。
帰りたくなくなったのは仕方ない。理由はどうあれ事実として受けとめよう。
でも幸い季節は初夏。外で夜明かししても凍死しないし夜明けも早い。明日は土曜日で一日寝ていられるから無問題。
夜の街を散歩したり、ぼんやりながめたりしようか。どこかの店でシメの甘味に走る手もある。それともネカフェに腰をすえるとか?
「……なんかどれも楽しそう」
徹夜も外泊もずっとやっていない。大人としての分別と、彼への遠慮がそうさせていた。
「馬鹿みたいだね、私」
彼と折り合うためにした努力。こんなにすぐ香澄の前からいなくなってしまうのならば必要なかった。もう何もかもが水の泡。
――くやしくて泣きそうだ。
✶ ✶
「大誠くんはぁ! もうあたしなんか好きじゃないんでしょ!」
そんなセリフが香澄の耳に飛び込んだのは、居着ける店を探そうと歩きかけた時だった。
振り向いた先の道端にいるのは、若い会社員風の男女。ヒラ、と短めなスカートがあざとい女は泣き声でわざとらしく拗ねている。対する男、「大誠くん」は頼りなさげな困り顔だった。
「そんなこと――」
「だってぜんぜんお願いきいてくれないもん! あたしラブホは嫌って言ったのに!」
あちゃー。
香澄は生あたたかい目で女を見た。それ大声で言う?
まあ誰もが足早に駅へと急ぐこの時間帯、盗み聞きしているのは香澄ぐらいのものかもしれない。他に立ちどまる人などいなかった。
「だ、だってさ。金曜の夜なんて混んでるし高いし、ちゃんとしたとこは無理だよ」
「嘘! 部屋取ろうとしてくれなかったんでしょ! もういい、帰る」
「あっ」
あざとい彼女はツーンと背を向けて、駅に駆け込んでいった。大誠の方は立ちすくんだまま動かない。
「……はあぁぁ」
大きなため息をつき、がっくり肩を落とした大誠は置いてけぼりだ。これからどうしようかと振り返ったのだろう。そこで香澄と目が合った。
「!」
うっかりのアイコンタクト。大誠はバツが悪そうにごまかし笑いする。
「……どんまい」
香澄はひと声励まし、小さく親指を立てた。
一部始終を見てましたと告げるようなものだが、危険はないとの判断だった。この男がキレる系ならとっくに彼女にキレてるだろうし。
思った通り、大誠は逆におどおどした。一歩近づいてきて頭を下げる。
「……その、すいません」
「なんで謝るんです」
「いやなんか。みっともないところを」
ゴニョゴニョ言われて香澄は苦笑する。
大誠はたぶん香澄よりいくつか年下だ。二十代ど真ん中ほどか。そしてやさしい男なのだろう。我がまま彼女に付け込まれるぐらいに。
なんだか応援したくなった。知らない相手にそんなこと、酔っぱらい仕草だとわかっているが。
「すっごく余計なお世話ですけど、あの女はやめた方がいいです」
「はい?」
「自分の要求ばっかりの相手と続けるのは難しいから」
これでもやんわり言ったつもりだ。あからさまに伝えていいなら「あなた搾取用ですよ」と告げるところ。他に本命男がいてもおかしくないと思った。
彼女が大誠に望むのは、食事とプレゼントといいホテル。たまに旅行。きっとインスタで自慢するために。
それでも向こうは悪いなんて思っていない。「カワイイあたしを彼女にできて、たまに寝てあげるんだから超お得でしょ」というのが言い分のはずだ。
すると大誠は黙ってしまった。香澄は早口で言い訳する。
「失礼しました。彼女の悪口なんて嫌ですよね」
「……いいえ。やっぱりそう見えますか?」
謝って逃げようと思った香澄だったが、思いのほか真剣に大誠が食いついてきた。
「なんか最近……お金のかかることばっかりねだられて。できないと怒るし」
「それ駄目でしょ」
素のあきれ声で応えてしまい、香澄はハッと口を押さえる。さすがに社会人としてよくない。
「ごめんなさい」
「ほんとのことだから」
ハハハ、という大誠の笑いは乾いている。そして真面目に申告された。
「僕あまり女性と付き合ったことないんです」
「はあ」
「……すいません見栄張りました。初彼女です。だから流されちゃって」
「そこまで聞いてないです」
なんでこんな話に。香澄は首をかしげた。
どちらも軽く酔っているのがいけないのか。それとも夜の街に揺蕩う雰囲気のせいか。
帰ることをあきらめた人々のダルさ。
居場所になるよと煌めいて誘う店々の灯り。
今この時、心にも物にも、どこに真実があるのかわからない。誰もが嘘つきな気がした。
だけど大誠は馬鹿正直につぶやく。
「……もう別れた方がいいですよね」
それは表面的には捨鉢な言葉。だけど不思議とやさしく響いた。
「ええっと……」
「ああ、あなたに責任負わせるつもりはないです。ここんとこずっと考えてて」
「はあ」
「告白されて舞い上がって付き合ってみたけど、落ち着かなかったんです。このままでいいのかわかんなくなってました。客観的なご意見ありがとうございます」
ペコリ。
一礼する大誠はサッパリした顔だ。酔いが醒めた――というか、女の毒気が抜けたのかもしれない。
そこに、かん高い声が戻ってきた。
「もう! 電車なくなっちゃったじゃない! 大誠くんのせいだよぉ!」
ぷんぷん。
そんな擬音を背負って駆けてきたのは先ほどの彼女だ。大誠と向かい合う香澄に気づき、疑る目になる。
「……この人、だぁれ?」
大誠に向けては可愛く拗ねるアヒル口。香澄は白目になりかけた。ウザ。
「ええぇ? 誰でもないでぇす」
口ぶりを真似て返してやった。知らない人間にケンカ売るレベルで酔っていることにしてしまおう。彼女はちゃんとムッとしてくれた。
「なんかあざとぉい。地味なカッコしてるのに変なの」
「はは、あなたに言われたかないわ」
「や、やめて下さい」
あわてふためく大誠がおかしくて香澄は笑い出した。
「あは、ふふふ」
「は? あの」
「ごめんなさい。からかっただけ」
こんなふうに誰かに言葉をぶつけるなんて久しぶりだった。大人の分別などくそくらえ――そう思ったのはやっぱり、この夜のせい?
とろりと沈んだ空気はまだ初夏の熱気をはらんでいる。飲食店街特有のどこか饐えたにおいが流れてきた。似たようなシチュエーションを歩いた記憶が脳裏をよぎる。
何度も、何度もこういうことがあったね。
灯りがにじむ。
ざわめきが遠い。
――そしてもう、彼はどこにもいない。
香澄はぐいと目をぬぐった。思ったより傷ついていたのかも。
あの人とは、二度と言い争うことができない。いない人とは和解する手立てもない。
最後の日にした、くだらないケンカが胸に刺さったままだった。勝手にこの世から出ていってしまった男のことを恨んだ。
だからこの二人に口出しするのは、たんに八つ当たりなのだ、きっと。
だってこうして言葉を交わせるだけいいじゃないか。ちゃんと別れ話をできることがどんなに幸せか。
終電をなくした夜の街。独りうずくまる香澄に比べれば、ずっとずっとマシ。
「萌奈ちゃん」
いきなり大誠がキリッとした声を出した。彼女――萌奈と香澄の間に体を割り込ませる。
「この人はたまたまここにいて、ちょっと話してただけだよ。失礼なこと言わないでくれるかな」
「そうなの? なんかぁ、大誠くんが絡まれてるのかと思っちゃった。大誠くん気が弱いんだもん。あたし心配してぇ」
猫なで声で甘える萌奈に、大誠は悲しそうにした。
「僕は頼りないからね」
「やあだ、そんなんじゃないよぉ。ね、電車なくなったし二人でどっかいよ? もうどこも行けないし、大誠くんだって困ってたんでしょ」
あっさり香澄を無視し、萌奈は大誠の腕にしなだれかかった。しょうがないからラブホでもいいよ、と態度で示したつもりだろう。
だが大誠はスイと体をよける。できる限りの真っ直ぐなまなざしを萌奈に向けた。
「あのさ、僕――もう萌奈ちゃんのために何もしてあげられないと思う」
「――え?」
「だって萌奈ちゃんのお願いには今日も応えられなかったよね。僕といても楽しくなくない?」
「何それ」
聞こえた言葉の意味を萌奈はムッスリと考え込む。数秒してフラれたと理解したのか、いきなり顔がゆがんだ。
「あたしと別れるってこと?」
「――その方がいいんじゃないかって」
決意をこめて、大誠は言い切った。
「はあぁ!?」
萌奈が食ってかかる。それはまるで手負いの小犬だ。きゃんきゃん吠える。
「何言ってるのよ、あたしと付き合えて喜んでたくせに!」
「それはまあ、嬉しかったよ。だけど萌奈ちゃんは僕のこと別に好きじゃないよね」
悲しげに、でも冷静に大誠は言う。そうっと数歩下がっていた香澄は大誠を見直した。なんだ、いろいろ見えている人なのか。
「萌奈ちゃんにとって僕は、ちょっとした遊びだから。都合よくチヤホヤされたい時に呼ぶ相手なんだよね? そうじゃないかって、わかってきた。だからもうやめよう。萌奈ちゃんも自分のこと大切にしなきゃいけない」
誠意をこめた言葉を懸命につらねたと香澄には聞こえた。拍手したくなるのを我慢する。ここは壁や障子になるべき場面だ。
「……なに、よ」
言われた萌奈はふるえていた。おそらく下に見ていた男から図星を指された怒りだろう。憎々しげに大誠をにらむ。
「こんな時間に女の子を放り出すの? 信じらんない、これからどうしろって言うのよ!」
「それは……」
「責任とってくんなきゃ総務にセクハラだって訴えるからね!」
「……ちょっとごめん、これ業務時間外なんじゃない? だいたいあなたたち今さっきまで付き合ってたんでしょ? セクハラは通用しないわー」
さすがに我慢しきれず香澄は口を挟んだ。アホすぎて黙っていられない。香澄のあきれた声に恥ずかしくなったのか、ギロッとすごい目をされた。
「何よ部外者! 女のくせに男の味方するの?」
「男とか女とかじゃないって。電車ないなら勝手にタクシーでもなんでも使って帰りなさいよ。さんざん男におごらせてきたんでしょうに、タクシー代ぐらい自腹で出せないの?」
貧乏か、と暗にあおる。萌奈はじとっと香澄を睨めつけた後、大誠に視線をやった。ウウッとのどの奥から泣き声がもれる。
「ひどぉい――っ!」
――悲劇のヒロイン仕草とともに萌奈は走り去った。タクシー乗り場方面へ。
よかった、と香澄は安堵する。萌奈はプライドにかけてちゃんと帰宅することだろう。
✶ ✶
「――僕が不甲斐ないばっかりに。いろいろすいませんでした。あと、お口添えありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ関係ないのに不躾な物言いをしちゃいまして」
萌奈が消えてから、香澄と大誠はペコペコ謝り合った。ひとしきり頭を下げて、ふと上げた目が合い――同時に笑い出す。夜の空気が揺れた。香澄の胸が少しだけ軽くなった気がした。
「僕だけじゃまだ悩んでたと思います。おかげさまでスッキリしました」
「よかったです」
「あなたの分析で背中押されました。恋愛経験豊富なんですね。あ、これ失礼になるのかな」
「ううん……私ちょっと前にゴタゴタしてフリーになったばっかなので。いろいろ考えてたところなんですよ」
「へえ。あ、嫌なこと思い出したりしましたか? 大丈夫ですか?」
大誠は心配そうにしてくれる。自分だって今、別れ話をしたばかりで苦しいだろうに。香澄は笑ってみせた。
「へーきですよ。モヤモヤしてたこと、少しわかった気がしました。ありがとう」
「お役に立てたなら……あの、家は近いんですか。僕らのせいで終電逃したとかじゃ」
「それは違います。なんか……帰りたくなかっただけなので」
きっぱり否定すると顔を上げて、香澄は夜を見た。
夜は嫌いだ。苦しいことを思い出させる。
でも夜に浸りたい時もある。今のままじゃ香澄は動けないから、あがくために。そしてそんな時の夜は、暗くやさしい。
「私どこに行けばいいのかな……」
「何時間かで始発ですしね。そしたらどこにでも行けますけど。あれ、電車動いても……帰れなかったりします?」
深いことをつぶやいたつもりだったのに、大誠からは現実的な答えが返ってきた。
あっさり「どこにでも行ける」と言い切った明快さに救われる気がする。それでいいのかもしれない。香澄はフフ、と微笑んだ。
「……もう帰れそう」
「それならよかった。まあしばらく暇つぶさないといけませんけど」
大誠はスマホを出して時間を確認する。そしてヒッと息をのんだ。
「うわ、わ」
「どうしました」
「あの、萌奈ちゃんからメッセージが」
のぞき込むと大量の恨み言が着信していた。香澄の頬も引きつる。完全な逆恨みモードだ。
「どうしよう。これ着拒するしかないんでしょうか。なんか悪いなあ……」
「ああ、いえ。証拠保全のために取っといたらどうですか」
「証拠?」
「だってセクハラで訴えかねない子なんですよね。これまでのやり取りもスクショしといた方がいいかも」
「わわわわ」
大あわての大誠がスマホをお手玉する。ギリギリ落とさなかったスマホを握りしめ、大誠は目を上げた。香澄を見つめて迷う。
「あの……連絡先、教えてもらえませんか?」
「はい?」
「いや、その……もしもにそなえて」
怯えた顔つきをされて香澄は了解した。もし総務課に呼び出されたりした場合にそなえ、今夜のことを知る証人としてか。それは仕方ない。強くうなずいて受けあった。
「わかりました。証言しますよ、何かあったら」
「ありがとうございます!」
そして名刺の交換。夜中だというのにこんなに色気抜きの男女の出会いったらない。香澄の名刺を大事にしまい、大誠は申し出た。
「ご迷惑おかけしてるので何かおごらせて下さい。飲み直しでも、シメのラーメンでもパフェでも」
「じゃあパフェで……ていうか結局誰かにお金使うことになってるのヤバくないです?」
「ああああ、僕は駄目な奴だ……」
大誠が天を仰いだ。本当に色っぽいことにはならなそう――でも今は、こんなでもいいのか。
傷と向き合った香澄。別れを決めた大誠。
どちらもこれから行き先を決められるのだから。始発が出るのはまだ先だ。
夜明けまでは、あと何時間あるだろう。
天の東が明らむまでの時を数えて誰かと過ごすのは悪いものじゃない。こんな偶然の相手とでも。
だけどいつか。気持ちの通じた人と夜明けを待つ。
そういう日がまた来ることを――信じてもいいのだろうか。
この街はまだ夜の気配に沈んでいる。
だけど、ほら。
空の端からゆっくりと、光は満ちていくはずだ。
了



