夏が始まったなって感じの七月の初め。
「ああ、俺彼女と別れた」
角南がそんなことを言うのが聞こえたから、その日の飲み会はずっと心ここにあらずだった。
サークルの飲み会が終わって金曜二十三時。
「じゃあカラオケ行く人こっちー」
「レポート、マジでヤバいかも。飲んでる場合じゃなかった〜」
「じゃあねーおやすみー」
オールになるであろう三次会や、駅方面やバス停にみんなが散っていく。
「角南!」
同じ学科の角南 恭平のTシャツの裾をチョイチョイと引っ張ったのは、私こと田中芙夕奈、二十一歳。
「何?」
涼しい顔でサークルメンバーたちを見送って駅方面へ向かおうとしていた彼に、驚いた顔で見下ろされる。
「まだ終電大丈夫でしょ? ちょっと食後のデザート、付き合ってよ」
親指を立てたグーの形にした右手を後ろに向けて「行くよ」のサインを送る。
「呼び出し? 俺説教されるようなことしたっけ」
違う。逆だよ、逆。
そんな感じで怪訝な顔をした角南を、ラストオーダーギリギリのカフェに連行するみたいにつれて行く。
「ここね、締めパフェが人気なんだよ」
締めパフェというのは締めのラーメンみたいなもので、飲みの後に食べるパフェのこと。札幌発祥らしいけれど、最近は全国的に……いや、そんなことは今はどうでもいい。
「はあ」
「角南甘い物好きじゃん。何でも好きな物注文しちゃって」
「いや、田中あのさ、」
「あ、甘い物の気分じゃなかったら飲み物だけでも」
可愛らしいフルーツパフェやフルーツサンドなんかの載っているメニューをめくって見せる。
「あーチョコバナナパフェのミニサイズいいな」
「いいね、定番」
「だよな……って、そうじゃなくて、何?」
「へ?」
きょとんとした顔で彼を見てしまった。
「どうした、急に。こんなとこ連れてきて」
そこでハッと気づく。
「あ、ごめん! 大事なとこ抜けてた!」
ふぅって、深呼吸なのかため息かよくわからない呼吸を漏らしてもう一回角南を見る。
「彼女と別れたって聞こえたから……なんか、居ても立ってもいられなくて」
私の言葉に、彼はフッて眉を下げて笑みをこぼした。
「励ましてくれてるってこと?」
角南に言われてコクリと頷く。
「だって、三か月前に角南がしてくれたから……」
そう。これは恩返しなんだ。
「はは。ありがと」
角南は屈託なく笑ってくれて、安堵するような……彼の傷の深さが読み取れなくて心配になるような。
「じゃあチョコバナナパフェと、季節のフルーツパフェと、プリンアラモードと、」
「ちょっとー! 食べ切れる量にしてください」
「もちろん注文した分は全部食うよ。だからこのクレープとさ――」
「いや破産するから」
今度はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
結局角南はミニサイズのチョコバナナパフェを、私はレモンゼリーを注文した。
「いつ?」
「うまいな、生クリーム。ん?」
「その……彼女と別れたの」
「二週間くらい前」
まだ最近だ。
――『好きな分だけ、涙が出るに決まってる』
彼がくれた言葉がよぎる。
角南はどれくらい泣いたんだろう。
心臓が引っかかれたみたいに微かに痛む。
別れた理由を聞いてもいいのだろうか。
「田中は?」
「え?」
「その後どう? あの時の彼氏のこと忘れられそう?」
こちらが聞かれてドキリとする。
「う、うん。もう三か月も経つからね」
「忘れた?」
「え? えっと……ん」
私は曖昧な笑顔を作る。
◇
三か月前、私は失恋した。
友だちの紹介で知り合って、一年くらい付き合った年上の彼氏だった。
恥ずかしながら恋愛経験がほとんどないから、なんだかずっと舞い上がっているような恋だった。
ファッションとメイクは彼好みのフェミニンな感じに変えて、デートでドライブに行けばナビや飲み物の準備なんかを頑張って、食事に行けば積極的に話題を振ったし、メッセージだってマメに送った。バレンタインもクリスマスもプレゼントは気合いをいれたし、サークルで合宿に行った時には彼や彼の家族にお土産だって買った。
頑張った。頑張った結果。
『重い』
究極のひと言で、恋の終わりを迎えた。
なんなら〝大学卒業したら結婚!〟くらいに思っていたからショックは計り知れず――それがまさに重いんだって、今ならわかって穴があったら入りたいけれど、あの頃は全然わからなかった。
ちょうどその頃、サークルの飲み会があった。
飲み会といっても部室で集まって、床に座って飲んでいただけだけれど。
『芙夕奈、彼氏は? 春休み旅行とか言ってなかったっけ?』
『あー……なんか、フラれちゃった』
缶ビールを飲みながら、『嫌だなぁ』って思いながらも白状した。
だって恋バナってギブ&テイクだから。
『え、理由は?』
相談に乗ってもらったら相談に乗るし、こういう質問にだってできるかぎり正直に答えなくちゃいけない。
『えーと……性格の不一致ってやつかな』
わかってはいるのにまだ全然割り切れていなくて、嘘ではないけど上澄み程度でしかない答えを返す。
それからごまかすみたいに笑うことしかできなかった。
『性格の不一致にもいろいろあるじゃん』
お酒が入っていたからか、友だちの追及はなかなか終わらなかった。
『えっと――』
『田中』
後ろから呼ばれて、振り向いたら角南が立っていた。
『買い出し行こーぜ』
『え? でも』
室内を見回したら、飲み物もおつまみもまだまだ足りているように見える。
『俺アイス食いたい。買いに行くの付き合って』
そういえば角南って甘い物が好きだったな、なんて思い出しながら、二人で部室を出た。
だけど、角南はそのまま買い出しに行くのとは反対の方向に廊下を歩いていった。
そのまま突き当たりの階段を上っていく。
『え? ちょっとどこ行くの? アイスは?』
『ああ、アイスね。これ食おうぜ』
そう言って、彼はシャツの胸ポケットからアイスの袋を取り出して見せた。
小さなボトル型のアイスが二つセットになっているアイス。
〝買いに行く〟はずのアイスがもうそこにあることにまた〝?〟を浮かべながら階段を上った。
『ここ』
◇
「ありがとな、田中」
角南の声にハッと我に返る。
カフェを出て、彼と私は再び駅に向かおうとしていた。
繁華街でタクシーや乗用車のライトが私たちを照らしては通り過ぎていく。
結局カフェでは何も聞けなかった。というより、聞いていいのか悩みすぎて時間が過ぎてしまった。
「生クリームうまかった。今度なんか返す」
「ダメだよ。今日のがお返しなんだから」
「あーそっか。サンキュー」
角南はどこか飄々とした笑みを浮かべている。
「……でも、正直全然足りてないと思う」
私の言葉に彼はきょとんとした顔をした。
「私は! 角南にもっと元気になって欲しいんだよ。私があの日、そうなれたみたいに」
こんな街角で何を熱くなっているんだと思わなくもないけれど、とにかく気持ちが落ち着かないんだ。
「と、とにかく! 気晴らしならいつでもなんでも付き合うから!」
角南はまた「サンキュ」って笑って言って、ポケットから取り出したスマホに視線を落とした。
「あーやべ」
そして眉を寄せた。
「終電行っちゃった」
「え! どうしよう……私が引き止めたせいだ」
「いや、なんか今日地元でイベントがあって特別ダイヤだったらしい。アプリの通知見逃してた」
励ますとか言っておきながら、足を引っ張ってしまった。
「どうすっかなー。あそこのネカフェ値上げしたんだよなー」
目の前の角南が困っている。
私はまだお酒も残っている頭でぐるぐると素早く思考を巡らせた。
そして緊張でゴクリと唾を飲む。
「……う、うちならまだ……終電、大丈夫だよ」
「え?」
我ながら、どうかと思う。男子相手にこんなこと。
「だ、だって私が引き止めたせいだし、角南なら泊まったって――」
と、目をグッとつぶって言った瞬間、頭上にチョップらしき手が下りてきた。
「バーカ」
チョップされた頭を押さえながら角南を見上げる。
「いくら友だちで、仮に恩人だとしても泊めたらダメだろ。自分を大事にしろー」
ぶっきらぼうに言われてしまった。
こういうところ、つい胸をくすぐられてしまう。
「でもまあ、あんまり帰りたい気分でもなかったから、ちょうど良かったかもな」
角南は行き交う車を見ながらポツリとつぶやいた。
それから腕を組んで何かを考えていたかと思ったら、こちらをジッと見た。
「さっき『気晴らしならいつでもなんでも付き合う』って言った?」
「え? う、うん」
「それって今夜でもいいってことだよな? 田中、今夜は帰らなくても大丈夫?」
「うん、まあ。カラオケでも行く? ボーリングもまだやってるかな」
私の答えに、角南はなぜかニヤリと口角を上げ、悪そうな顔をした。
「もっと楽しいことしようぜ。一晩中」
「え!?」
「今夜は寝かさないゼ☆」
思いっきりふざけたチャラいウインクをされてしまったけれど、私の単純な心臓はついつい鼓動を早めてしまっている。
さっき、そういうことはナシになったはずでは……?
兎にも角にも、こうして私は誘われるまま終電を逃し、角南の夜にご一緒させてもらうことになった。
「え? 本当にここ?」
来る途中、コンビニに寄って飲み物やおつまみをたくさん買った。
だから〝やっぱりどこかに泊まるのかなぁ〟なんて緊張していたのだけれど、角南に連れてこられたのは予想外の場所だった。
【私立 根朱学院大学】
そんな文字の銘板が、照明に鈍く光る。
夕方に横を通り過ぎたばかりの、私たちの大学の正門だ。
「まさか角南、学校に忍び込もうとしてる?」
いくら在学生とはいえ、それは不法侵入だ。思わず顔をしかめてしまった。
「田中、俺という男をみくびってるな」
彼はフッと得意げな顔で言うと、正門に隣接している守衛室に向かった。
「ナベさーん」
角南が呼ぶと、中から六十代か七十代かという男性の守衛さんが顔を出した。
「お、恭ちゃん」
ナベさん? 恭ちゃん……?
「もしかして、また?」
「さっすがナベさん。これ、差し入れ」
そう言ってコンビニで買ったおつまみの一部と、ノンアルコールビールを差し出した。
「部室棟でおとなしく過ごすからさ」
「しょうがないな」
守衛さんは手をサッサと払うようにして、暗に中に入るよう促した。
「どういうこと?」
訝しんだまま中に入ったところで尋ねる。
「たまに気晴らししたくなったら泊まってんだよ、学校」
「はぁ?」
忍び込んではいないけれど、守衛さんに賄賂を渡しているということ?
「いつもは一人だけどな」
角南は「内緒な」って人差し指を口に当てた。
思いがけない秘密の共有に、先ほどとはまた違う感情で胸がドキドキしている。
さっき彼は『部室棟でおとなしく過ごす』と言っていた。
その言葉で、余計に胸が高鳴っている。
だって、部室棟にはちょっぴり特別な場所があるから。
ずんずん進んでいく角南の背中に、リーチの違う歩幅で慌ててついていく。
風は生ぬるくて、当然のことながら構内は静まり返っている。夜の学校って、いくつになってもどこか特別だ。
彼はなぜか持っている部室棟の鍵を取り出してドアを開けた。
それから私たちの『英語研究会』の部室で箱のようなものを手に取ると、三か月前と同じように廊下を抜けて奥の階段を上っていく。
そして……。
「気晴らしっていったらやっぱここだろ」
彼は部室棟の屋上のドアを開けた。
◇
『ここ』
三か月前の角南も、私をこの屋上へ連れ出した。
『屋上、出られたんだ』
外に出た瞬間、春の夜風が顔に触れる。
夜の屋上は照明で照らされた構内を見下ろせて、ときどき遠くから車やバイクの音が聞こえてきた。
『ほんとはダメかも』
私が『えっ』って驚いたら、彼は笑っていた。
『ほい』
半分に切り離したアイスをくれた。
『シチリアレモン味が一番うまいよな』
『レモンもいいけどキウイも推す』
そのまま、屋上のフェンスの側に行く。
『アイス買ひに行ふんひゃなかったの?』
すでに目の前にあるボトル型のアイスを咥えて絞り出しながら聞いた。
『やーなんか、キツそうだったから、田中』
思わず角南の顔を見上げてしまった。
『根掘り葉掘り聞かれるのってキツいだろ。泣きそうな顔してた』
つまりは助け舟を出してくれたということだ。
どうしてわかったんだろう。
泣かないように普通にしてたつもりだったのに。
『ごめん、心配してもらっちゃって』
『べつに無理に笑わなくていいんじゃねえ?』
『え?』
『ここなら誰も見てないし』
角南はアイスを咥えて遠くを見ながら言ってくれた。
『でも……泣くのってなんか、気ぃつかわせちゃうじゃん』
――『お前ってなんか、重いんだよな』
元カレに言われた言葉は胸に突き刺さったままだ。
あれ以来、友人関係や家族に対しても自分の行動が重いんじゃないかと不安を抱くようになってしまった。
『私って重いんだって』
小さな声でこぼした。
なんとなく恥ずかしくて誰にも言えなかった。
『一人で突っ走ってバカみたい。かっこ悪くて間抜けで、泣く資格もないんだよ』
言いながら、喉の奥がグッと重く、熱くなる。
『いいじゃん、重いのも突っ走るのも。それだけ好きだったんだろ?』
彼があっさりと言ってくれたその言葉だけで、はっきり言ってもうダメだったのだけれど……。
『好きな分だけ、涙が出るに決まってる』
それで涙のダムが盛大に決壊してしまった。
咥えていたアイスをグッと噛み締めて、それから握りつぶして。
〝子どもかっ〟ってくらいわんわん泣き喚いて『好きだったんだもん』とか『結婚したかったのに』とか情けないことを言いまくった。
角南は『わかる』って言って、ずっと静かに聞いてくれたんだ。
散々泣いて落ち着いたら恥ずかしくなった。持っていたミニタオルは涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったし。
『ありがとね、角南。おかげでスッキリした』
鼻をすすりながら、若干の気まずさに眉も寄せながらお礼を言った。
『いいだろ? ここ。開放感があって結構星とかも見えて』
私はコクリと頷いた。
秘密の場所って感じも良かったけれど、角南が誰もいない場所に連れてきてくれたことが本当に嬉しかった。
『またなんかあったら、いつでも相談に乗るからさ』
角南は私のぐちゃぐちゃな顔を見てもバカにしたりしないで、ずっと穏やかな顔で笑ってた。
……だから、ついうっかり――。
◇
角南に言われて、なぜか屋上の出入口のある塔屋と呼ばれる建物部分の壁の方を見て座る。
「とりあえず乾杯」
二人で缶ビールで乾杯した。
「なんで壁向き?」
私の質問に、左隣の角南はまたニヤリと笑った。
「何その悪そうな顔」
「俺のとっておきの趣味を教えてやろう」
そう言うと、彼は先ほど部室で手に取った箱を取り出した。
「あれ? その箱って確か……」
中から出てきたのは小型のプロジェクター。
「屋外対応なんだよこれ」
英語研究会はときどき洋画を字幕なしで見たりするから、このプロジェクターを使っている。
「屋上星空シアター」
目を輝かせた角南が慣れた手つきでスイッチを入れると、暗闇の壁にスタンバイ画面が映し出された。
「何見る? アメプラで映画観ようぜ。やっぱゾンビ系? サメ映画もいいよなー」
彼は意気揚々とプロジェクターに接続したスマホの画面をスワイプしている。
「まさか学校に泊まってしょっ中こんなことしてるの?」
「そんな頻繁ではないけどな。今日みたいに終電逃した時とか、むしゃくしゃした時とか。部費払ってんだから見逃してくれよ」
部費なら私もみんなも払ってますが……と思ったけれど、そんなことより角南にも『むしゃくしゃした時』があるんだと驚いてしまった。
……じゃあ、今夜は?
それから角南チョイスのB級サメ映画を二本観終えて、すでに三本目に入っている。
音はワイヤレスのイヤホンを半分こして聞いた。
ゆっくり飲んでいるお酒も、もう二本目だ。
保冷剤代わりに買ったプラケース入りの氷も、もうほとんど溶けて水っぽくなっている。
「いやー飽きるな、サメ。二本でお腹いっぱい。てか俺これ観たことあるかも」
「えぇっ? あんなに爆笑してたのに?」
私の言葉に角南はまた笑った。
この状況はなんなんだろうと、口元に戸惑いを浮かべる。
私は角南を励ますためについてきたはずでは?
だけど当の本人はB級映画に爆笑していた。
「田中、観たいやつある?」
角南がイヤホンを外しながら聞く。
「え、うーん、映画はもういいかな……」
私って、人の話を聞くのが下手なのかも。
角南みたいに上手く本音を引き出したいのに。
だけど、もしかしたら彼は私ほど悩んでいないのかもしれない。
また突っ走ってしまったのではと心の中で反省する。
そうだよ。角南が楽しそうならそれでいいじゃない。
「映画終わりか。……じゃあ、タイパババ抜きでもする?」
「え? 何それ。タイパ?」
聞き慣れないワードが飛び出した。
「俺気づいちゃったんだよね。二人でやるババ抜きって最後の三枚だけでいいって」
角南はTシャツの胸ポケットからトランプを三枚取り出した。
「いつもトランプ持ち歩いてるわけ?」
「結構便利なんだよこれ、奢るやつ決めるときとか。もう流行ってるかと思ってたわ」
「私のとこまではまだ届いてないなー」
二人してフッて笑う。
角南の口から飛び出した【タイパババ抜き】という遊びのルールは単純だった。
用意されているのはトランプのジョーカー一枚と、ハートとスペードのエースそれぞれ一枚。
ジョーカーとエース一枚をペアにしたものと、エース一枚に分けたものを、じゃんけんでどちらが持つか決める。
そして、エース一枚を持っている人が、もう一人のカードを抜くところから始めて、あとは普通のババ抜き。
要するに、ラスト三枚だけのババ抜きだ。
「たしかに、奢る人を決める時なら盛り上がりそうだけど……今?」
私と角南で?
「勝った方が負けた方に何でも質問できるとか、どう?」
角南がこちらをジッと見たから、なんだかギクリとしてしまう。
「なーんかさっきから、言いたいことがありそうなんだよな、田中」
角南の観察眼の前では、私の浅はかな思考なんてお見通しなんだ。
そのゲームはタイパというだけあって当然のようにすぐに勝負がついて、一回目から私が勝ってしまった。
「どうぞ、なんでも」
「………」
いざ質問となると、これが結構悩ましい。
「どうした?」
「んー……えっと……」
よく考えたら、これって〝根掘り葉掘り〟ってやつじゃない?
「別れた理由とか聞きたいんじゃねえの?」
やっぱりお見通しだ。
本人がそう言っているのなら聞いてもいいのだろうか?
「じゃ、じゃあ彼女って……どんな人だったの?」
「年上。高校の先輩」
「そうだったんだ」
「今は会社員してるよ」
角南って年上が好きなのかな? と、胸がチクリと痛む。
二回戦も私が勝った。
「じゃあ……えっと」
質問を待つ角南の視線が痛い。
〝どうして別れたの?〟とか〝どこが好きだった?〟なんて、聞きたいことはいっぱいあるんだけど……。
「今日、どうして私をここに連れてきてくれたの?」
角南には意外そうな顔をされてしまった。
けれど、自分が嫌だった経験があるだけに恋愛のことに踏み込むのってやっぱり少し慎重になってしまう。
「うーん……俺より田中の方が思い詰めた顔してたからなー」
「え?」
「ここにずっとシワ寄ってた」
彼は眉間を指さしたから、思わず自分の眉間に手を当てた。
「俺、田中には笑ってて欲しいんだよね」
笑いながら意外なことを言う角南に、思わず「え……」と声が出た。
「田中は俺を恩人みたいに言うけどさ、恩人は田中の方だから」
どういう意味だろう。まったく心当たりがない。
「俺って転科組じゃん?」
「そういえばそうだったね」
すっかり馴染んでいて忘れていたけれど、角南は二年からうちの科に転科してきたんだった。
「だから追いつかなくちゃいけない授業なんかが結構あったけど、田中がノートとかレポート見せてくれたよな」
二年の頃の記憶が蘇る。
サークルが同じだったし、必修以外の授業なんかも被ることが多かったから自然な流れでよく話しかけていた。
「そのくらい当たり前……」
「微妙にわかんない一年の頃の話題なんかも、さりげなく説明してくれたりしてさ」
たしかにそうだったかもしれない。
「でもそれってお節介ってやつかも」
私の重い部分。
だけど、角南は首を横に振った。
「俺はすげー助かった。マジで田中は恩人なんだよ」
そう言って角南はニカッて笑った。
「だから田中が笑える夜を過ごしたいな、って」
角南のこういうところ、私の心臓を刺激してくる。
私が励ますはずか、励まされてしまった。
三回戦も私が勝って、彼がB型だという情報を得た。
四回戦も私が勝って……。
「角南わざと負けてない? もしかして何か仕掛けでもあるの?」
私のツッコミに、彼は可笑しそうに笑った。
「別に。ただジョーカーのカードの端がちょっと折れてるだけ」
そう言われてカードを見たら、たしかに角のところが少し折れている。
「なんでわざと負ける必要があるのよ」
「んー? なんか余計なこと聞いちゃいそうだなって思って」
「余計なこと?」
「たとえば――」
角南は少し考えるように間を置いてから口を開いた。
「――田中って、俺のこと好きなの? とか?」
不意打ちのド直球な質問に、心臓がドクンと大きく脈打った。
「…………」
うまく誤魔化すこともできずに言葉も頭も真っ白になってしまった。
そう。そうなんだ。
失恋してあんなに泣いたくせに、私はあの日から角南のことが気になって気になって、この三か月でうっかり本気で好きになってしまった。
屋上での優しさに触れたせいか、ここ最近のことだけでなく今までに角南がしてくれた親切なんかも思い出して、そのすべてにときめいてしまった。
そしてついつい、目で追ってしまったりなんかもする。
我ながらチョロすぎる恋愛脳に呆れてしまう。
だけどまさか、本人にバレていたなんて。
「え、えっと……」
たったの三か月前のあの失恋大号泣を見られているだけに、軽い女だって呆れられてしまうかも。
なんて答えたら――。
「って、俺が負けたんだった。田中の質問コーナーだった。悪い」
「ん、うん……」
「田中、次どれ飲む?」
話題はなんだかうやむやに流されて、そのままタイパババ抜きは終了した。
なんだかんだで時刻は三時になろうとしている。
しばらくは二人で夜空をながめながらお酒を飲んでいた。お酒のおかげか、動揺していた気持ちもいつの間にか落ち着いている。
「部室の冷凍庫にアイス入ってるけど、食う?」
「食べない……っていうか、部室に生活感出し過ぎ」
これはやはり頻繁に泊まっている気がする。
「春先とか初夏とかさ、ここで寝て目が覚めると気持ちいいんだよ。案外虫もいないし」
「外で寝てるの? 風邪ひきそう」
想像して眉を寄せる。
「起きた瞬間、目の前が真っ青で。天井が空って感じの解放感」
「ふーん」
春はともかく今の時期は朝といえど紫外線がすごそうだ、なんて現実的なことを考えてしまった。
「それにしても角南」
「んー?」
「『今夜は寝かさないゼ☆』じゃなかったの?」
彼はもう、コンクリートの地面に仰向けになろうとしている。リュックを枕にして。
「『一晩中』って言ってた割に娯楽が少ないんですけど」
映画とババ抜きと乾杯しかしていなくて、苦笑いを浮かべてしまう。
「楽しかっただろ、どれも」
まあ、それは否定しない。
だけど始発までにはまだまだ時間がある。
「音楽でも聴こうかな。電車が動くまで暇だし」
目が冴えてしまっている私は、プロジェクターに自分のスマホを接続した。
「あ、俺も聴く」
寝ようとしていたはずの角南もひょっこり起きてきて、また壁に向かって並んで座った。
イヤホンもまた半分こ。
左隣の気配に慣れなくて、胸が高鳴ってしまう。
「あ、これ。私たちの世代ドンピシャのプレイリストじゃない?」
動画サイトの、イメージ動画つきプレイリストを見つけた。
私たちの中学から高校時代に流行っていた曲名やアーティスト名がずらりと並んでいる。
「懐かしい」と言いながら、再生ボタンを押した。
「これ! 高一の時に流行ってたね」
「懐かし」
スクリーン代わりの壁には、海や空、花なんかの綺麗なムービーが次々に映し出されていく。
音楽って、不思議なほどにその頃の記憶を呼び覚ます。
よく過ごした場所だとか、その時一緒にいた人だとか、その頃の気持ちだとか。
「あー、この曲も懐かしい。キラキラの女子高生してたなー」
それはロックバンドのバラード曲。
当時はカラオケでもよく歌っていたから、ついつい鼻唄なんかも唄ってしまう。
「この頃、角南もどこかで高校生してたんだって思うとなんか不思――」
その瞬間、左肩にずっしりとした重みを感じた。
角南が急にもたれかかってきたとわかって、心臓が大きく跳ねる。
「す、角南?」
左、すぐ近くの頭を見下ろす。
「――やべえ、この曲」
「え……?」
「彼女……元カノと会った頃の曲」
先ほどまでと全然違う、掠れた小さな声。
やっぱり、全然平気なんかじゃなかったんだ。
こっちの心臓まで子猫の鳴き声みたいにキュッて軋む。
「角南」
「ん?」
「ババ抜きの質問、最後の一個が残ってたよね」
うやむやになった最後の一回分。
「……彼女と別れて、泣いた?」
角南はもたれかかったまま、首をわずかに横に振った。
「……男が泣くとか、ダサいじゃん」
そう言って彼は鼻で笑った。
角南がそんなことを言うなんて意外だった。
男がどうとか女がどうとか、それに泣くのがダサいなんて絶対に言わない人だって知っているから。
「そんなの嘘」
意外すぎて、らしくなさすぎて、すぐにわかってしまう。
「本当は泣きたいのに泣けなくて……泣くきっかけを探してる。とか、そういうやつなんじゃないの?」
角南は黙っている。
「私はそうだった」
あの屋上の日まで、悲しいのに自分を責めてしまって泣けなかった。
悪いのは、重たかった自分だってブレーキがかかった。
泣いていいんだよって、誰かに言って欲しかったんだ。
「『好きな分だけ、涙が出るに決まってる』って、角南が言ったんだよ」
角南と彼女の思い出の曲が、ずっと流れ続けている。
「本当は、聞いて欲しかったんじゃないの? 彼女の話」
「…………」
「だから急にあんなゲームしたんでしょ」
だからわざと負けたんだ。
――『別れた理由とか聞きたいんじゃねえの?』
だからあんな風に聞いたんだ。
「好きなだけ話してよ。話したいことだけ」
曲が終わりに近づいている。
「少しでもいいから、スッキリしようよ」
私がそうだったみたいに。
「……あーあ」
角南はもたれかかったまま大きくため息をついた。
「ずるいよ田中」
「え?」
「急にするどいんだもんな」
画面が切り替わって、次の曲が始まった。
「当たり前だよ」
また懐かしいバラードだと、イントロのピアノでわかる。
「……最近ずっと見てたんだから。角南のこと」
突っ走ってるって思われたっていい。重いって言われたっていい。
「……ごめん」
角南がつぶやいた。
「俺、田中の気持ちを利用しようとしたんだよな。きっと」
「……いい、べつに」
これは、恩返しの続きなんだから。
「この曲も、一緒にいる時……よく聴いた」
角南の声がまた掠れて、静かに泣いているんだってわかった。
それから角南は、私の質問に答えるかたちでポツリポツリと彼女との思い出を話してくれた。
高一の時に出会った二つ上の彼女。
付き合おうって言ったのは向こうだけど、その時にはもう角南も好きだったって。
「高校の先輩って、どういうきっかけで知り合うの? 部活とか?」
あまり先輩との接点の無かった自分の高校時代を思う。
「昼休みに購買で、生クリームメロンパン譲ってあげて知り合った」
「なにそれかわいい」
甘い物が好きな彼らしいエピソード。
高一の角南はどんな感じだったんだろうと想像する。
どんな髪形で、声はどんな感じだったんだろう。
当たり前だけど角南と彼女には四年分の思い出がある。
聞きながら胸がチクリチクリとサボテンのトゲみたいな痛みを訴えてくる。
けれど、私の知らない彼を知りたいという気持ちもある。
「……なんで、別れたの?」
「…………」
「答えたくなかったら、いい」
壁の動画を見ながら、空になりかけているビールの缶を口に当てた。
角南も一呼吸置くようにビールを飲んだ。
「ガキなんだって、俺って」
角南の視線もずっと壁の方。
きっと二人とも、映像はただ目の中を滑っていくだけで、頭になんて入っていない。
「社会人と大学生になってみて、はっきりしたって」
左肩には、ずっと角南の熱を感じている。
「そんなこと言われても、どうしようもないのにな」
「そんなの、角南が年下だって最初からわかってるのに」
「まあ、どこに本音があるのかわからないけど」
年齢のことは別れるための建前だったのかも、って角南は皮肉っぽく笑って言った。
「角南、さっき終電逃した時『あんまり帰りたい気分でもなかった』って言ってたよね」
「地獄耳」
「……そこそこ大きい声だった」
まあ、小さい声でも聞き漏らさなかったかもしれない。
「……うちにまだ彼女の私物が残ってるから、メッセ送ったんだ。送るか取りに来るかって」
角南はため息をつく。
「わざわざ電話してきてさ。全部捨ててくれって、それだけ言って切られちゃった」
自分のことでもないのに、胸がギュッと押しつぶされる。
喉の奥の方が重たくて鼻先がツンと苦しい。
「たしかに最近はぶつかることも多かったけど、いつの間にかそんな嫌われてたのかって」
彼女とケンカした時が、角南の〝むしゃくしゃする時〟ってやつなのかな。
恋人同士のうまくいかない、どうしようもない空気感は私にだってわかる。
好きな気持ちが強いほど、相手との気持ちの溝が深いほど、空回りしてぶつかってしまう。
「虚しいよな」
ただただ、胸が、苦しい。
「…………っ」
「なんで田中が泣くんだよ」
笑った角南の声も、少し鼻声だ。
「だって……」
この涙は角南を好きだからかもしれない。
三か月前の自分の失恋と重ねているのかもしれない。
勝手な同情かもしれない。
こんなの、角南の涙を横取りするみたいで最低だ。
だけど感情が掻き回されて、抑えられない。
私はまた、子どもみたいに泣いてしまった。
鳥の声が聞こえ始める。
空がだんだんと明るくなって、壁の映像もゆっくりと薄くなっていく。
「好きだったなー。すげー好きだった」
画面を見ながら言った角南はまた、音楽で彼女のことを思い出しているみたいだ。
だけど声は少しだけ明るくなった気がする。
「好きだった」
いいな。角南に想われて。
こんな風に好きになってもらえて。
角南の心にはまだ彼女の感触が残っているんだって思うと、胸が切ない音を鳴らす。
私って、大馬鹿なのかもしれない。
「私だって、同じだよ」
「え?」
――『俺、田中には笑ってて欲しいんだよね』
「角南に笑っててほしい」
そう言ったら、彼はちらりとこちらを見た。
そして「そんな思い詰めた顔で言われても」って言って、くしゃっとした顔で笑った。
「角南だって、ひどい顔」
そう言って私も笑う。
「朝になっちゃったね」
プロジェクターをオフにして壁に背を向けたら、まだ顔を出し始めたばかりの朝日が目に入った。
空が、遠くの方からどんどん光を帯びていく。
「いいよな、この景色」
彼の言葉に黙って頷く。
水色と、ピンクと、オレンジと、それからグレー。
空はカラフルに色づいていく。
なんだか恋愛しているときの感情みたいだなんて思ったけれど、少し安っぽい気もした。
「田中」
持っていたタオルで顔を拭いながら、角南の方を見る。
「多分まだしばらくは時間がかかると思うんだけど」
「…………」
「……待てる?」
角南は普段通りの表情に戻っているけれど、泣いたからか寝不足だからか目は真っ赤だ。
「ずるいなぁ」
思わず「ふふ」と笑ってしまった。
私の目だってきっと同じ色をしている。
「まあ、少しならね」
本当は一年くらいなら、余裕で待ってしまいそうだけど。
あんなに真っ暗だった空はもう、随分と明るい。
fin.
「ああ、俺彼女と別れた」
角南がそんなことを言うのが聞こえたから、その日の飲み会はずっと心ここにあらずだった。
サークルの飲み会が終わって金曜二十三時。
「じゃあカラオケ行く人こっちー」
「レポート、マジでヤバいかも。飲んでる場合じゃなかった〜」
「じゃあねーおやすみー」
オールになるであろう三次会や、駅方面やバス停にみんなが散っていく。
「角南!」
同じ学科の角南 恭平のTシャツの裾をチョイチョイと引っ張ったのは、私こと田中芙夕奈、二十一歳。
「何?」
涼しい顔でサークルメンバーたちを見送って駅方面へ向かおうとしていた彼に、驚いた顔で見下ろされる。
「まだ終電大丈夫でしょ? ちょっと食後のデザート、付き合ってよ」
親指を立てたグーの形にした右手を後ろに向けて「行くよ」のサインを送る。
「呼び出し? 俺説教されるようなことしたっけ」
違う。逆だよ、逆。
そんな感じで怪訝な顔をした角南を、ラストオーダーギリギリのカフェに連行するみたいにつれて行く。
「ここね、締めパフェが人気なんだよ」
締めパフェというのは締めのラーメンみたいなもので、飲みの後に食べるパフェのこと。札幌発祥らしいけれど、最近は全国的に……いや、そんなことは今はどうでもいい。
「はあ」
「角南甘い物好きじゃん。何でも好きな物注文しちゃって」
「いや、田中あのさ、」
「あ、甘い物の気分じゃなかったら飲み物だけでも」
可愛らしいフルーツパフェやフルーツサンドなんかの載っているメニューをめくって見せる。
「あーチョコバナナパフェのミニサイズいいな」
「いいね、定番」
「だよな……って、そうじゃなくて、何?」
「へ?」
きょとんとした顔で彼を見てしまった。
「どうした、急に。こんなとこ連れてきて」
そこでハッと気づく。
「あ、ごめん! 大事なとこ抜けてた!」
ふぅって、深呼吸なのかため息かよくわからない呼吸を漏らしてもう一回角南を見る。
「彼女と別れたって聞こえたから……なんか、居ても立ってもいられなくて」
私の言葉に、彼はフッて眉を下げて笑みをこぼした。
「励ましてくれてるってこと?」
角南に言われてコクリと頷く。
「だって、三か月前に角南がしてくれたから……」
そう。これは恩返しなんだ。
「はは。ありがと」
角南は屈託なく笑ってくれて、安堵するような……彼の傷の深さが読み取れなくて心配になるような。
「じゃあチョコバナナパフェと、季節のフルーツパフェと、プリンアラモードと、」
「ちょっとー! 食べ切れる量にしてください」
「もちろん注文した分は全部食うよ。だからこのクレープとさ――」
「いや破産するから」
今度はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
結局角南はミニサイズのチョコバナナパフェを、私はレモンゼリーを注文した。
「いつ?」
「うまいな、生クリーム。ん?」
「その……彼女と別れたの」
「二週間くらい前」
まだ最近だ。
――『好きな分だけ、涙が出るに決まってる』
彼がくれた言葉がよぎる。
角南はどれくらい泣いたんだろう。
心臓が引っかかれたみたいに微かに痛む。
別れた理由を聞いてもいいのだろうか。
「田中は?」
「え?」
「その後どう? あの時の彼氏のこと忘れられそう?」
こちらが聞かれてドキリとする。
「う、うん。もう三か月も経つからね」
「忘れた?」
「え? えっと……ん」
私は曖昧な笑顔を作る。
◇
三か月前、私は失恋した。
友だちの紹介で知り合って、一年くらい付き合った年上の彼氏だった。
恥ずかしながら恋愛経験がほとんどないから、なんだかずっと舞い上がっているような恋だった。
ファッションとメイクは彼好みのフェミニンな感じに変えて、デートでドライブに行けばナビや飲み物の準備なんかを頑張って、食事に行けば積極的に話題を振ったし、メッセージだってマメに送った。バレンタインもクリスマスもプレゼントは気合いをいれたし、サークルで合宿に行った時には彼や彼の家族にお土産だって買った。
頑張った。頑張った結果。
『重い』
究極のひと言で、恋の終わりを迎えた。
なんなら〝大学卒業したら結婚!〟くらいに思っていたからショックは計り知れず――それがまさに重いんだって、今ならわかって穴があったら入りたいけれど、あの頃は全然わからなかった。
ちょうどその頃、サークルの飲み会があった。
飲み会といっても部室で集まって、床に座って飲んでいただけだけれど。
『芙夕奈、彼氏は? 春休み旅行とか言ってなかったっけ?』
『あー……なんか、フラれちゃった』
缶ビールを飲みながら、『嫌だなぁ』って思いながらも白状した。
だって恋バナってギブ&テイクだから。
『え、理由は?』
相談に乗ってもらったら相談に乗るし、こういう質問にだってできるかぎり正直に答えなくちゃいけない。
『えーと……性格の不一致ってやつかな』
わかってはいるのにまだ全然割り切れていなくて、嘘ではないけど上澄み程度でしかない答えを返す。
それからごまかすみたいに笑うことしかできなかった。
『性格の不一致にもいろいろあるじゃん』
お酒が入っていたからか、友だちの追及はなかなか終わらなかった。
『えっと――』
『田中』
後ろから呼ばれて、振り向いたら角南が立っていた。
『買い出し行こーぜ』
『え? でも』
室内を見回したら、飲み物もおつまみもまだまだ足りているように見える。
『俺アイス食いたい。買いに行くの付き合って』
そういえば角南って甘い物が好きだったな、なんて思い出しながら、二人で部室を出た。
だけど、角南はそのまま買い出しに行くのとは反対の方向に廊下を歩いていった。
そのまま突き当たりの階段を上っていく。
『え? ちょっとどこ行くの? アイスは?』
『ああ、アイスね。これ食おうぜ』
そう言って、彼はシャツの胸ポケットからアイスの袋を取り出して見せた。
小さなボトル型のアイスが二つセットになっているアイス。
〝買いに行く〟はずのアイスがもうそこにあることにまた〝?〟を浮かべながら階段を上った。
『ここ』
◇
「ありがとな、田中」
角南の声にハッと我に返る。
カフェを出て、彼と私は再び駅に向かおうとしていた。
繁華街でタクシーや乗用車のライトが私たちを照らしては通り過ぎていく。
結局カフェでは何も聞けなかった。というより、聞いていいのか悩みすぎて時間が過ぎてしまった。
「生クリームうまかった。今度なんか返す」
「ダメだよ。今日のがお返しなんだから」
「あーそっか。サンキュー」
角南はどこか飄々とした笑みを浮かべている。
「……でも、正直全然足りてないと思う」
私の言葉に彼はきょとんとした顔をした。
「私は! 角南にもっと元気になって欲しいんだよ。私があの日、そうなれたみたいに」
こんな街角で何を熱くなっているんだと思わなくもないけれど、とにかく気持ちが落ち着かないんだ。
「と、とにかく! 気晴らしならいつでもなんでも付き合うから!」
角南はまた「サンキュ」って笑って言って、ポケットから取り出したスマホに視線を落とした。
「あーやべ」
そして眉を寄せた。
「終電行っちゃった」
「え! どうしよう……私が引き止めたせいだ」
「いや、なんか今日地元でイベントがあって特別ダイヤだったらしい。アプリの通知見逃してた」
励ますとか言っておきながら、足を引っ張ってしまった。
「どうすっかなー。あそこのネカフェ値上げしたんだよなー」
目の前の角南が困っている。
私はまだお酒も残っている頭でぐるぐると素早く思考を巡らせた。
そして緊張でゴクリと唾を飲む。
「……う、うちならまだ……終電、大丈夫だよ」
「え?」
我ながら、どうかと思う。男子相手にこんなこと。
「だ、だって私が引き止めたせいだし、角南なら泊まったって――」
と、目をグッとつぶって言った瞬間、頭上にチョップらしき手が下りてきた。
「バーカ」
チョップされた頭を押さえながら角南を見上げる。
「いくら友だちで、仮に恩人だとしても泊めたらダメだろ。自分を大事にしろー」
ぶっきらぼうに言われてしまった。
こういうところ、つい胸をくすぐられてしまう。
「でもまあ、あんまり帰りたい気分でもなかったから、ちょうど良かったかもな」
角南は行き交う車を見ながらポツリとつぶやいた。
それから腕を組んで何かを考えていたかと思ったら、こちらをジッと見た。
「さっき『気晴らしならいつでもなんでも付き合う』って言った?」
「え? う、うん」
「それって今夜でもいいってことだよな? 田中、今夜は帰らなくても大丈夫?」
「うん、まあ。カラオケでも行く? ボーリングもまだやってるかな」
私の答えに、角南はなぜかニヤリと口角を上げ、悪そうな顔をした。
「もっと楽しいことしようぜ。一晩中」
「え!?」
「今夜は寝かさないゼ☆」
思いっきりふざけたチャラいウインクをされてしまったけれど、私の単純な心臓はついつい鼓動を早めてしまっている。
さっき、そういうことはナシになったはずでは……?
兎にも角にも、こうして私は誘われるまま終電を逃し、角南の夜にご一緒させてもらうことになった。
「え? 本当にここ?」
来る途中、コンビニに寄って飲み物やおつまみをたくさん買った。
だから〝やっぱりどこかに泊まるのかなぁ〟なんて緊張していたのだけれど、角南に連れてこられたのは予想外の場所だった。
【私立 根朱学院大学】
そんな文字の銘板が、照明に鈍く光る。
夕方に横を通り過ぎたばかりの、私たちの大学の正門だ。
「まさか角南、学校に忍び込もうとしてる?」
いくら在学生とはいえ、それは不法侵入だ。思わず顔をしかめてしまった。
「田中、俺という男をみくびってるな」
彼はフッと得意げな顔で言うと、正門に隣接している守衛室に向かった。
「ナベさーん」
角南が呼ぶと、中から六十代か七十代かという男性の守衛さんが顔を出した。
「お、恭ちゃん」
ナベさん? 恭ちゃん……?
「もしかして、また?」
「さっすがナベさん。これ、差し入れ」
そう言ってコンビニで買ったおつまみの一部と、ノンアルコールビールを差し出した。
「部室棟でおとなしく過ごすからさ」
「しょうがないな」
守衛さんは手をサッサと払うようにして、暗に中に入るよう促した。
「どういうこと?」
訝しんだまま中に入ったところで尋ねる。
「たまに気晴らししたくなったら泊まってんだよ、学校」
「はぁ?」
忍び込んではいないけれど、守衛さんに賄賂を渡しているということ?
「いつもは一人だけどな」
角南は「内緒な」って人差し指を口に当てた。
思いがけない秘密の共有に、先ほどとはまた違う感情で胸がドキドキしている。
さっき彼は『部室棟でおとなしく過ごす』と言っていた。
その言葉で、余計に胸が高鳴っている。
だって、部室棟にはちょっぴり特別な場所があるから。
ずんずん進んでいく角南の背中に、リーチの違う歩幅で慌ててついていく。
風は生ぬるくて、当然のことながら構内は静まり返っている。夜の学校って、いくつになってもどこか特別だ。
彼はなぜか持っている部室棟の鍵を取り出してドアを開けた。
それから私たちの『英語研究会』の部室で箱のようなものを手に取ると、三か月前と同じように廊下を抜けて奥の階段を上っていく。
そして……。
「気晴らしっていったらやっぱここだろ」
彼は部室棟の屋上のドアを開けた。
◇
『ここ』
三か月前の角南も、私をこの屋上へ連れ出した。
『屋上、出られたんだ』
外に出た瞬間、春の夜風が顔に触れる。
夜の屋上は照明で照らされた構内を見下ろせて、ときどき遠くから車やバイクの音が聞こえてきた。
『ほんとはダメかも』
私が『えっ』って驚いたら、彼は笑っていた。
『ほい』
半分に切り離したアイスをくれた。
『シチリアレモン味が一番うまいよな』
『レモンもいいけどキウイも推す』
そのまま、屋上のフェンスの側に行く。
『アイス買ひに行ふんひゃなかったの?』
すでに目の前にあるボトル型のアイスを咥えて絞り出しながら聞いた。
『やーなんか、キツそうだったから、田中』
思わず角南の顔を見上げてしまった。
『根掘り葉掘り聞かれるのってキツいだろ。泣きそうな顔してた』
つまりは助け舟を出してくれたということだ。
どうしてわかったんだろう。
泣かないように普通にしてたつもりだったのに。
『ごめん、心配してもらっちゃって』
『べつに無理に笑わなくていいんじゃねえ?』
『え?』
『ここなら誰も見てないし』
角南はアイスを咥えて遠くを見ながら言ってくれた。
『でも……泣くのってなんか、気ぃつかわせちゃうじゃん』
――『お前ってなんか、重いんだよな』
元カレに言われた言葉は胸に突き刺さったままだ。
あれ以来、友人関係や家族に対しても自分の行動が重いんじゃないかと不安を抱くようになってしまった。
『私って重いんだって』
小さな声でこぼした。
なんとなく恥ずかしくて誰にも言えなかった。
『一人で突っ走ってバカみたい。かっこ悪くて間抜けで、泣く資格もないんだよ』
言いながら、喉の奥がグッと重く、熱くなる。
『いいじゃん、重いのも突っ走るのも。それだけ好きだったんだろ?』
彼があっさりと言ってくれたその言葉だけで、はっきり言ってもうダメだったのだけれど……。
『好きな分だけ、涙が出るに決まってる』
それで涙のダムが盛大に決壊してしまった。
咥えていたアイスをグッと噛み締めて、それから握りつぶして。
〝子どもかっ〟ってくらいわんわん泣き喚いて『好きだったんだもん』とか『結婚したかったのに』とか情けないことを言いまくった。
角南は『わかる』って言って、ずっと静かに聞いてくれたんだ。
散々泣いて落ち着いたら恥ずかしくなった。持っていたミニタオルは涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったし。
『ありがとね、角南。おかげでスッキリした』
鼻をすすりながら、若干の気まずさに眉も寄せながらお礼を言った。
『いいだろ? ここ。開放感があって結構星とかも見えて』
私はコクリと頷いた。
秘密の場所って感じも良かったけれど、角南が誰もいない場所に連れてきてくれたことが本当に嬉しかった。
『またなんかあったら、いつでも相談に乗るからさ』
角南は私のぐちゃぐちゃな顔を見てもバカにしたりしないで、ずっと穏やかな顔で笑ってた。
……だから、ついうっかり――。
◇
角南に言われて、なぜか屋上の出入口のある塔屋と呼ばれる建物部分の壁の方を見て座る。
「とりあえず乾杯」
二人で缶ビールで乾杯した。
「なんで壁向き?」
私の質問に、左隣の角南はまたニヤリと笑った。
「何その悪そうな顔」
「俺のとっておきの趣味を教えてやろう」
そう言うと、彼は先ほど部室で手に取った箱を取り出した。
「あれ? その箱って確か……」
中から出てきたのは小型のプロジェクター。
「屋外対応なんだよこれ」
英語研究会はときどき洋画を字幕なしで見たりするから、このプロジェクターを使っている。
「屋上星空シアター」
目を輝かせた角南が慣れた手つきでスイッチを入れると、暗闇の壁にスタンバイ画面が映し出された。
「何見る? アメプラで映画観ようぜ。やっぱゾンビ系? サメ映画もいいよなー」
彼は意気揚々とプロジェクターに接続したスマホの画面をスワイプしている。
「まさか学校に泊まってしょっ中こんなことしてるの?」
「そんな頻繁ではないけどな。今日みたいに終電逃した時とか、むしゃくしゃした時とか。部費払ってんだから見逃してくれよ」
部費なら私もみんなも払ってますが……と思ったけれど、そんなことより角南にも『むしゃくしゃした時』があるんだと驚いてしまった。
……じゃあ、今夜は?
それから角南チョイスのB級サメ映画を二本観終えて、すでに三本目に入っている。
音はワイヤレスのイヤホンを半分こして聞いた。
ゆっくり飲んでいるお酒も、もう二本目だ。
保冷剤代わりに買ったプラケース入りの氷も、もうほとんど溶けて水っぽくなっている。
「いやー飽きるな、サメ。二本でお腹いっぱい。てか俺これ観たことあるかも」
「えぇっ? あんなに爆笑してたのに?」
私の言葉に角南はまた笑った。
この状況はなんなんだろうと、口元に戸惑いを浮かべる。
私は角南を励ますためについてきたはずでは?
だけど当の本人はB級映画に爆笑していた。
「田中、観たいやつある?」
角南がイヤホンを外しながら聞く。
「え、うーん、映画はもういいかな……」
私って、人の話を聞くのが下手なのかも。
角南みたいに上手く本音を引き出したいのに。
だけど、もしかしたら彼は私ほど悩んでいないのかもしれない。
また突っ走ってしまったのではと心の中で反省する。
そうだよ。角南が楽しそうならそれでいいじゃない。
「映画終わりか。……じゃあ、タイパババ抜きでもする?」
「え? 何それ。タイパ?」
聞き慣れないワードが飛び出した。
「俺気づいちゃったんだよね。二人でやるババ抜きって最後の三枚だけでいいって」
角南はTシャツの胸ポケットからトランプを三枚取り出した。
「いつもトランプ持ち歩いてるわけ?」
「結構便利なんだよこれ、奢るやつ決めるときとか。もう流行ってるかと思ってたわ」
「私のとこまではまだ届いてないなー」
二人してフッて笑う。
角南の口から飛び出した【タイパババ抜き】という遊びのルールは単純だった。
用意されているのはトランプのジョーカー一枚と、ハートとスペードのエースそれぞれ一枚。
ジョーカーとエース一枚をペアにしたものと、エース一枚に分けたものを、じゃんけんでどちらが持つか決める。
そして、エース一枚を持っている人が、もう一人のカードを抜くところから始めて、あとは普通のババ抜き。
要するに、ラスト三枚だけのババ抜きだ。
「たしかに、奢る人を決める時なら盛り上がりそうだけど……今?」
私と角南で?
「勝った方が負けた方に何でも質問できるとか、どう?」
角南がこちらをジッと見たから、なんだかギクリとしてしまう。
「なーんかさっきから、言いたいことがありそうなんだよな、田中」
角南の観察眼の前では、私の浅はかな思考なんてお見通しなんだ。
そのゲームはタイパというだけあって当然のようにすぐに勝負がついて、一回目から私が勝ってしまった。
「どうぞ、なんでも」
「………」
いざ質問となると、これが結構悩ましい。
「どうした?」
「んー……えっと……」
よく考えたら、これって〝根掘り葉掘り〟ってやつじゃない?
「別れた理由とか聞きたいんじゃねえの?」
やっぱりお見通しだ。
本人がそう言っているのなら聞いてもいいのだろうか?
「じゃ、じゃあ彼女って……どんな人だったの?」
「年上。高校の先輩」
「そうだったんだ」
「今は会社員してるよ」
角南って年上が好きなのかな? と、胸がチクリと痛む。
二回戦も私が勝った。
「じゃあ……えっと」
質問を待つ角南の視線が痛い。
〝どうして別れたの?〟とか〝どこが好きだった?〟なんて、聞きたいことはいっぱいあるんだけど……。
「今日、どうして私をここに連れてきてくれたの?」
角南には意外そうな顔をされてしまった。
けれど、自分が嫌だった経験があるだけに恋愛のことに踏み込むのってやっぱり少し慎重になってしまう。
「うーん……俺より田中の方が思い詰めた顔してたからなー」
「え?」
「ここにずっとシワ寄ってた」
彼は眉間を指さしたから、思わず自分の眉間に手を当てた。
「俺、田中には笑ってて欲しいんだよね」
笑いながら意外なことを言う角南に、思わず「え……」と声が出た。
「田中は俺を恩人みたいに言うけどさ、恩人は田中の方だから」
どういう意味だろう。まったく心当たりがない。
「俺って転科組じゃん?」
「そういえばそうだったね」
すっかり馴染んでいて忘れていたけれど、角南は二年からうちの科に転科してきたんだった。
「だから追いつかなくちゃいけない授業なんかが結構あったけど、田中がノートとかレポート見せてくれたよな」
二年の頃の記憶が蘇る。
サークルが同じだったし、必修以外の授業なんかも被ることが多かったから自然な流れでよく話しかけていた。
「そのくらい当たり前……」
「微妙にわかんない一年の頃の話題なんかも、さりげなく説明してくれたりしてさ」
たしかにそうだったかもしれない。
「でもそれってお節介ってやつかも」
私の重い部分。
だけど、角南は首を横に振った。
「俺はすげー助かった。マジで田中は恩人なんだよ」
そう言って角南はニカッて笑った。
「だから田中が笑える夜を過ごしたいな、って」
角南のこういうところ、私の心臓を刺激してくる。
私が励ますはずか、励まされてしまった。
三回戦も私が勝って、彼がB型だという情報を得た。
四回戦も私が勝って……。
「角南わざと負けてない? もしかして何か仕掛けでもあるの?」
私のツッコミに、彼は可笑しそうに笑った。
「別に。ただジョーカーのカードの端がちょっと折れてるだけ」
そう言われてカードを見たら、たしかに角のところが少し折れている。
「なんでわざと負ける必要があるのよ」
「んー? なんか余計なこと聞いちゃいそうだなって思って」
「余計なこと?」
「たとえば――」
角南は少し考えるように間を置いてから口を開いた。
「――田中って、俺のこと好きなの? とか?」
不意打ちのド直球な質問に、心臓がドクンと大きく脈打った。
「…………」
うまく誤魔化すこともできずに言葉も頭も真っ白になってしまった。
そう。そうなんだ。
失恋してあんなに泣いたくせに、私はあの日から角南のことが気になって気になって、この三か月でうっかり本気で好きになってしまった。
屋上での優しさに触れたせいか、ここ最近のことだけでなく今までに角南がしてくれた親切なんかも思い出して、そのすべてにときめいてしまった。
そしてついつい、目で追ってしまったりなんかもする。
我ながらチョロすぎる恋愛脳に呆れてしまう。
だけどまさか、本人にバレていたなんて。
「え、えっと……」
たったの三か月前のあの失恋大号泣を見られているだけに、軽い女だって呆れられてしまうかも。
なんて答えたら――。
「って、俺が負けたんだった。田中の質問コーナーだった。悪い」
「ん、うん……」
「田中、次どれ飲む?」
話題はなんだかうやむやに流されて、そのままタイパババ抜きは終了した。
なんだかんだで時刻は三時になろうとしている。
しばらくは二人で夜空をながめながらお酒を飲んでいた。お酒のおかげか、動揺していた気持ちもいつの間にか落ち着いている。
「部室の冷凍庫にアイス入ってるけど、食う?」
「食べない……っていうか、部室に生活感出し過ぎ」
これはやはり頻繁に泊まっている気がする。
「春先とか初夏とかさ、ここで寝て目が覚めると気持ちいいんだよ。案外虫もいないし」
「外で寝てるの? 風邪ひきそう」
想像して眉を寄せる。
「起きた瞬間、目の前が真っ青で。天井が空って感じの解放感」
「ふーん」
春はともかく今の時期は朝といえど紫外線がすごそうだ、なんて現実的なことを考えてしまった。
「それにしても角南」
「んー?」
「『今夜は寝かさないゼ☆』じゃなかったの?」
彼はもう、コンクリートの地面に仰向けになろうとしている。リュックを枕にして。
「『一晩中』って言ってた割に娯楽が少ないんですけど」
映画とババ抜きと乾杯しかしていなくて、苦笑いを浮かべてしまう。
「楽しかっただろ、どれも」
まあ、それは否定しない。
だけど始発までにはまだまだ時間がある。
「音楽でも聴こうかな。電車が動くまで暇だし」
目が冴えてしまっている私は、プロジェクターに自分のスマホを接続した。
「あ、俺も聴く」
寝ようとしていたはずの角南もひょっこり起きてきて、また壁に向かって並んで座った。
イヤホンもまた半分こ。
左隣の気配に慣れなくて、胸が高鳴ってしまう。
「あ、これ。私たちの世代ドンピシャのプレイリストじゃない?」
動画サイトの、イメージ動画つきプレイリストを見つけた。
私たちの中学から高校時代に流行っていた曲名やアーティスト名がずらりと並んでいる。
「懐かしい」と言いながら、再生ボタンを押した。
「これ! 高一の時に流行ってたね」
「懐かし」
スクリーン代わりの壁には、海や空、花なんかの綺麗なムービーが次々に映し出されていく。
音楽って、不思議なほどにその頃の記憶を呼び覚ます。
よく過ごした場所だとか、その時一緒にいた人だとか、その頃の気持ちだとか。
「あー、この曲も懐かしい。キラキラの女子高生してたなー」
それはロックバンドのバラード曲。
当時はカラオケでもよく歌っていたから、ついつい鼻唄なんかも唄ってしまう。
「この頃、角南もどこかで高校生してたんだって思うとなんか不思――」
その瞬間、左肩にずっしりとした重みを感じた。
角南が急にもたれかかってきたとわかって、心臓が大きく跳ねる。
「す、角南?」
左、すぐ近くの頭を見下ろす。
「――やべえ、この曲」
「え……?」
「彼女……元カノと会った頃の曲」
先ほどまでと全然違う、掠れた小さな声。
やっぱり、全然平気なんかじゃなかったんだ。
こっちの心臓まで子猫の鳴き声みたいにキュッて軋む。
「角南」
「ん?」
「ババ抜きの質問、最後の一個が残ってたよね」
うやむやになった最後の一回分。
「……彼女と別れて、泣いた?」
角南はもたれかかったまま、首をわずかに横に振った。
「……男が泣くとか、ダサいじゃん」
そう言って彼は鼻で笑った。
角南がそんなことを言うなんて意外だった。
男がどうとか女がどうとか、それに泣くのがダサいなんて絶対に言わない人だって知っているから。
「そんなの嘘」
意外すぎて、らしくなさすぎて、すぐにわかってしまう。
「本当は泣きたいのに泣けなくて……泣くきっかけを探してる。とか、そういうやつなんじゃないの?」
角南は黙っている。
「私はそうだった」
あの屋上の日まで、悲しいのに自分を責めてしまって泣けなかった。
悪いのは、重たかった自分だってブレーキがかかった。
泣いていいんだよって、誰かに言って欲しかったんだ。
「『好きな分だけ、涙が出るに決まってる』って、角南が言ったんだよ」
角南と彼女の思い出の曲が、ずっと流れ続けている。
「本当は、聞いて欲しかったんじゃないの? 彼女の話」
「…………」
「だから急にあんなゲームしたんでしょ」
だからわざと負けたんだ。
――『別れた理由とか聞きたいんじゃねえの?』
だからあんな風に聞いたんだ。
「好きなだけ話してよ。話したいことだけ」
曲が終わりに近づいている。
「少しでもいいから、スッキリしようよ」
私がそうだったみたいに。
「……あーあ」
角南はもたれかかったまま大きくため息をついた。
「ずるいよ田中」
「え?」
「急にするどいんだもんな」
画面が切り替わって、次の曲が始まった。
「当たり前だよ」
また懐かしいバラードだと、イントロのピアノでわかる。
「……最近ずっと見てたんだから。角南のこと」
突っ走ってるって思われたっていい。重いって言われたっていい。
「……ごめん」
角南がつぶやいた。
「俺、田中の気持ちを利用しようとしたんだよな。きっと」
「……いい、べつに」
これは、恩返しの続きなんだから。
「この曲も、一緒にいる時……よく聴いた」
角南の声がまた掠れて、静かに泣いているんだってわかった。
それから角南は、私の質問に答えるかたちでポツリポツリと彼女との思い出を話してくれた。
高一の時に出会った二つ上の彼女。
付き合おうって言ったのは向こうだけど、その時にはもう角南も好きだったって。
「高校の先輩って、どういうきっかけで知り合うの? 部活とか?」
あまり先輩との接点の無かった自分の高校時代を思う。
「昼休みに購買で、生クリームメロンパン譲ってあげて知り合った」
「なにそれかわいい」
甘い物が好きな彼らしいエピソード。
高一の角南はどんな感じだったんだろうと想像する。
どんな髪形で、声はどんな感じだったんだろう。
当たり前だけど角南と彼女には四年分の思い出がある。
聞きながら胸がチクリチクリとサボテンのトゲみたいな痛みを訴えてくる。
けれど、私の知らない彼を知りたいという気持ちもある。
「……なんで、別れたの?」
「…………」
「答えたくなかったら、いい」
壁の動画を見ながら、空になりかけているビールの缶を口に当てた。
角南も一呼吸置くようにビールを飲んだ。
「ガキなんだって、俺って」
角南の視線もずっと壁の方。
きっと二人とも、映像はただ目の中を滑っていくだけで、頭になんて入っていない。
「社会人と大学生になってみて、はっきりしたって」
左肩には、ずっと角南の熱を感じている。
「そんなこと言われても、どうしようもないのにな」
「そんなの、角南が年下だって最初からわかってるのに」
「まあ、どこに本音があるのかわからないけど」
年齢のことは別れるための建前だったのかも、って角南は皮肉っぽく笑って言った。
「角南、さっき終電逃した時『あんまり帰りたい気分でもなかった』って言ってたよね」
「地獄耳」
「……そこそこ大きい声だった」
まあ、小さい声でも聞き漏らさなかったかもしれない。
「……うちにまだ彼女の私物が残ってるから、メッセ送ったんだ。送るか取りに来るかって」
角南はため息をつく。
「わざわざ電話してきてさ。全部捨ててくれって、それだけ言って切られちゃった」
自分のことでもないのに、胸がギュッと押しつぶされる。
喉の奥の方が重たくて鼻先がツンと苦しい。
「たしかに最近はぶつかることも多かったけど、いつの間にかそんな嫌われてたのかって」
彼女とケンカした時が、角南の〝むしゃくしゃする時〟ってやつなのかな。
恋人同士のうまくいかない、どうしようもない空気感は私にだってわかる。
好きな気持ちが強いほど、相手との気持ちの溝が深いほど、空回りしてぶつかってしまう。
「虚しいよな」
ただただ、胸が、苦しい。
「…………っ」
「なんで田中が泣くんだよ」
笑った角南の声も、少し鼻声だ。
「だって……」
この涙は角南を好きだからかもしれない。
三か月前の自分の失恋と重ねているのかもしれない。
勝手な同情かもしれない。
こんなの、角南の涙を横取りするみたいで最低だ。
だけど感情が掻き回されて、抑えられない。
私はまた、子どもみたいに泣いてしまった。
鳥の声が聞こえ始める。
空がだんだんと明るくなって、壁の映像もゆっくりと薄くなっていく。
「好きだったなー。すげー好きだった」
画面を見ながら言った角南はまた、音楽で彼女のことを思い出しているみたいだ。
だけど声は少しだけ明るくなった気がする。
「好きだった」
いいな。角南に想われて。
こんな風に好きになってもらえて。
角南の心にはまだ彼女の感触が残っているんだって思うと、胸が切ない音を鳴らす。
私って、大馬鹿なのかもしれない。
「私だって、同じだよ」
「え?」
――『俺、田中には笑ってて欲しいんだよね』
「角南に笑っててほしい」
そう言ったら、彼はちらりとこちらを見た。
そして「そんな思い詰めた顔で言われても」って言って、くしゃっとした顔で笑った。
「角南だって、ひどい顔」
そう言って私も笑う。
「朝になっちゃったね」
プロジェクターをオフにして壁に背を向けたら、まだ顔を出し始めたばかりの朝日が目に入った。
空が、遠くの方からどんどん光を帯びていく。
「いいよな、この景色」
彼の言葉に黙って頷く。
水色と、ピンクと、オレンジと、それからグレー。
空はカラフルに色づいていく。
なんだか恋愛しているときの感情みたいだなんて思ったけれど、少し安っぽい気もした。
「田中」
持っていたタオルで顔を拭いながら、角南の方を見る。
「多分まだしばらくは時間がかかると思うんだけど」
「…………」
「……待てる?」
角南は普段通りの表情に戻っているけれど、泣いたからか寝不足だからか目は真っ赤だ。
「ずるいなぁ」
思わず「ふふ」と笑ってしまった。
私の目だってきっと同じ色をしている。
「まあ、少しならね」
本当は一年くらいなら、余裕で待ってしまいそうだけど。
あんなに真っ暗だった空はもう、随分と明るい。
fin.



