「終わった……」

 出来上がった集計表が無事上書き保存されたことを確認し、私ーー花村(はなむら)董佳(とうか)は息を吐いた。

 明日、朝一で行われる会議の資料をまとめていたのだ。

 「わ、もうこんな時間」

 パソコンのデジタル時計が『00:26』となっていることに気付き、慌てて終業記録をつける。

 コンプライアンスが厳しくなっている昨今、我が『香織(かおり)ホールディングス』社内でも、不必要な残業は極力減らすよう厳命されていた。

 私は、追い立てられるようにキーボードに指を走らせる。

 創業六十年、近年は海外進出も果たしているホテル業界の老舗ーー『香織ホールディングス』。
 そこへ新卒採用されて、一年と四ヶ月、新人研修を終えた私が振り分けられたのは、花形と揶揄われることの多い社長付きの秘書課だった。
 今は第三秘書として、おもに先輩方の補佐役に従事している。
 この資料作りも、その一環だった。

 早く終わらせて帰らないと。

 乗り損ねた最終電車を想い、タスク表にチェックを付けていく。
 あまり長居をすると、後日労務から注意が来てしまうのだ。

 ーーけれど、そんな時に限ってミスとは発覚するもので。
 私はタスク表の一覧から、今日中の仕事を発見してしまう。
 明日行われる社長の会食相手にお渡しする、土産品の購入だった。

 「どうしよう……」

 顔面蒼白となった私は、『00:35』と表示された時計を見やった。
 今から発注して間に合うだろうか。
 二十四時間営業の通販サイトなら、あるいは。
 一縷の望みをかけ、急いで会食相手の情報を確認する。

 「ええと」

 人数は二人で、年齢は四十代と六十代。趣味はゴルフとサッカー鑑賞。過去に贈った土産は高級ワインと時計。どちらも限定品で、これから入手するのは不可能な品だった。
 他に気の利いたものはないかと、画面を延々とスクロールしていく。けれど気ばかりが急いて、マウスもうまく動かせなかった。

 「ダメ……なにがいいかわからない……」

 数分後。難易度の高すぎる仕事に、私は文字通り頭を抱えていた。
 この半月、通常業務に加え、新規事業の立ち上げも同時進行されていて、終電帰り続きだった。
 おかげで疲労と寝不足がたたり、思考が回らない。気のせいかお腹まで痛くなってきた。こんな時間に上司に連絡をとるわけにもいかず、途方に暮れる。
 万事急須。
 それでも土産品の購入は必須事項だ。
 私は、挫けそうになった心をなんとか持ち直させ、もう一度パソコンに顔を向けた。
 その時だった。

 「……花村?」

 聞き覚えのある低い声が背後から届いて、跳ね上がらんばかりに驚いてしまう。

 「専務……!」
 「やっぱり花村か……どうしたんだ、こんな遅くまで」

 秘書課の入り口ーーガラスドアを開いて顔を出していたのは、すらりとした体躯のスーツ姿の男性。ついふた月前、専務取締役に就任した香織幸仁(ゆきひと)さんだった。
 幸仁さんはドアノブに手をかけたまま、形のよい眉を顰めていた。その視線が探るように私の背後、開いたままのパソコンで止まり、さらに鋭く細められる。咎めるように言われた。

 「残業か」

 身体の線に合った上質なスーツに、モデルさんのように長い手足、端正な顔。こんな時間まで残っていたというのに、幸仁さんの艶やかな黒髪はほつれひとつ知らず、今朝見かけたままのスタイルを保っていた。

 「は、はい。……お疲れ様です」

 私は慌てて立ち上がり、頭を下げる。

 香織ホールディングスの創業者ーー現会長のお孫さんである幸仁さんは、三十二歳という若さで、重役についていた。

 会長が祖父さま、社長がお父さま、専務は孫の幸仁さん……と、明らかな一族経営による人選だ。
 けれど幸仁さんの厳格な仕事ぶりを知っている私たち社員には、異論も反発もなかった。むしろそのストイックさには、尊敬の念を抱かざるを得ないほどだった。

 真面目で冷静、倹約家で現実的。
 世間一般のイメージする御曹司からかけ離れた幸仁さんには、私も何かとお世話になっていた。
 というのも、専務に就任する前、彼は秘書課に所属していて、私の指導も行ってくれていたからだ。

 その頃、彼から受けた叱責の数々は、今でも鮮明に覚えている。

 『これじゃ伝わらないだろう』
 『メモをとれ、スマホでも紙でもいいから』
 『忘れた理由を考えろ』
 『わからなかったら聞け、覚えるまで教えてやる』

 正直、配属されて最初の数週間は、その業務量の多さと幸仁さんのスパルタ指導に負けそうになっていた。
 仕事に耐えかね、転職サイトに登録もした。
 けれど、そんな過酷な環境と幸仁さんのプレッシャーに耐え続けた結果、私は、多少の困難や理不尽にも立ち向かう精神を育てることができた。辛かったけれどいい経験になったと感じている。

 それにーー。
 それに私は、幸仁さんがただ厳しいだけの人じゃないことも知っていた。
 だから彼に会うと嬉しくなるのだ。

 「とっくに就業時間は過ぎていると思うが? 何かあったのか?」

 幸仁さんももう帰るところだったのだろう。
 鞄を片手にした彼は、呆れたように言うと、そばまで歩み寄ってきた。私は現状を報告する。

 「申し訳ありません。会食相手にお渡しする土産品の選定に時間がかかっていて」
 「土産品? ……ああ、間宮(まみや)会長と如月(きさらぎ)さんの分か」

 パソコンに出してあったままのデータを覗き込み、合点がいったというように頷かれる。

 「待て。この会食、明日じゃなかったか?」
 「……はい。そうです。失念していました。でも、時間までには必ず準備します」
 「時間までにって……小野寺(おのでら)さんは? 同席するのは彼だろう」
 「小野寺さんは先ほど帰られました。いらっしゃる時に相談できれば良かったんですけど」

 小野寺さんは、今年還暦を迎える社長の第一秘書で、秘書歴二十年の大ベテランだった。
 社長ーー幸仁さんのお父さまにも全幅の信頼を寄せられているのだが、いかんせん、寄る年の波には勝てないらしく、最近は体調を崩しがちで。そんな小野寺さんに無理はさせられず、代わりに、私の仕事が急増していた。
 キャパシティをオーバーしている自覚はある。けれど、仕事は持ちつ持たれつだ。私は小野寺さんから仕事をなるべく引き継ぎながら業務に邁進していた。

 幸仁さんが小さく息を吐く。

 「……わかった。じゃあこの購入は俺がしておくから、花村はもう帰れ」
 「え」
 「昨日も遅くまで残ってただろう。顔色が良くないぞ」

 至近距離から見下ろされ、その綺麗な顔立ちに不覚にも見惚れしまう。

 「……花村?」

 幸仁さんが、不思議そうに呟いた。

 節電のため、十二畳ほどある秘書課内の照明は、半分まで消されていた。
 自社ビルの地上二十階に位置する秘書室から見下ろす都内は、星々が溢れ落ちたかのように輝いている。
 誰も、眠ってなどいないのだ。
 だったら終電をもう少し遅くしてくれたらいいのに。この光の中に、どれほど帰宅手段を失い彷徨っている人がいることだろう。
 駅員さんの事情も顧みず、勝手な願望を抱く。

 「……悪い。やっぱり俺には頼りにくいか」

 香水の種類がわかるほどの距離で見つめられたまま、微かに苦笑される。

 幸仁さんはずるい。
 普段はとても厳しくて冷たいくせに、時々ーーほんとうに時々、こうして寄り添ってくれる。
 秘書課にいた時もそうだった。

 『無理はするな』とか。
 『よくできてた』とか。
 『うまい飯奢ってやる』とか。

 仕事が終わったあとは必ず労ってくれて、小さな作業にも気づいてくれて。
 『お疲れ』と気まぐれで向けられる笑顔に、どれだけ心を揺り動かされていたことか。
 幸仁さんは小指の先ほども知らないのだろう。
 私は、募っていく想いを堪える。

 ーーひっきりなしに舞い込んでいる彼の縁談の相手は、大手企業の社長令嬢ばかりで、会社の未来を考慮すれば、近いうちにまとまるだろうと、小野寺さんが嬉しそうに話していたことを思い出す。

 遠い人。

 私は、幸仁さんと出会って始めて、届かない恋があることを知った。

 学生の頃は好きになったら告白をしたりされたりと、自分の気持ちひとつで楽しく甘酸っぱい駆け引きができた。
 けれど、幸仁さんを好きになってからは全てが違った。気持ちを伝えることさえ出来ないのだ。
 彼の肩には社員三千人の家族の生活がかかっている。自由恋愛など許されるはずがなかった。
 この令和の時代に何を、と思わないことはないけれど、事実、彼を取り巻く世界は私の世界とは違っていた。

 だからこの気持ちは秘めたまま。
 玉砕するとしてもまずは一人前になってから。
 私は、そう決めていた。
 
 彼の切れ長の瞳を見つめる。綺麗な一重だ。

 「そんなことはありませんけど」
 「けど? だったら言い訳しないで帰れ。必要な情報だけ転送させてもらうぞ」

 幸仁さんは椅子には座らず、屈むようにしてパスワードつきのデータを、自分のメールアドレスに送った。
 長い指。マウスを掴む、その大きな手を見やる。
 触れたことはこれまでに一、二度だけ。エレベーターに乗った時や、書類を受け渡す時少しだけ触ってしまって、あの時は心の中の少女が「きゃあきゃあ」と騒いで仕方なかった。全く、私はほんとうに子供だ。

 「……何がおかしいんだ?」
 「え?」
 「笑ってただろ、今」

 訝しげに尋ねられ、私ははっと顔を引き締めた。つい、頬が緩んでしまっていたらしい。

 「いえなんでもありません。それより、やっぱりその仕事、自分でします。お気にかけてくださってありがとうございます」
 「でも」
 「ほんとうに大丈夫ですから。それにいつまでも専務に頼るわけにはいきませんし」

 きっぱり言い切ると、幸仁さんはほんの少し眉尻を下げた。

 「前みたいに名前で呼んではくれないんだな」
 「え?」
 「いや、なんでもない。じゃあせめて送らせてくれ」 

 身体を起こした幸仁さんが切り替えるように言う。
 
 「こんな時間だ。家まで送る」
 「え、でも」
 「ほら行くぞ。余計なことかもしれないが、土産品の候補にいくつか心当たりがあるから、タクシーの中で伝える。心配しなくても家を特定したりしないし、運転手もいるから二人きりにもならない。だったらいいだろ?」
 「……そんなことは心配してないんですが」
 「じゃあなんだ」
 「……お忙しいのに、迷惑じゃないかなあって」

 幸仁さんの眉間に皺がよる。
 一見すると不機嫌にも見えるその表情は、彼が困った時に浮かべるものだ。
 幸仁さんは、ほんとうに心配してくれているらしい。
 だったら、と私はたくさんの言い訳を並べる。仕事も頑張っているし、遅刻もしていないし、今日みたいなミスはあるけど、乗り越えると誓うから。だから。
 
 私は迷いつつ、口を開く。

 「じゃあ、お言葉に甘えさせてください」

 今夜だけ。
 少しだけ、自分にご褒美を。
 頷くと、目の前で幸仁さんが柔らかく微笑った。


 深夜一時。
 乗り込んだタクシーが、滑るように夜を駆け抜ける。

 「なあ」
 「はい」
 「せっかくだから、飯も食っていかないか」

 ハラスメントに当たるだろうかと思い悩む幸仁さんを可愛く思いながら、私は、素直に頷く。

 「ぜひ。実は私、お腹ペコペコだったんです」

 それから彼が連れていってくれたのは、高級料理店でも会員制のバーでもない、店主のお爺さんがひとりで細々と深夜営業をしている小さな喫茶店だった。
 なんだかレトロな感じのする赤いフカフカの椅子に座ると、幸仁さんは「穴場なんだ」と秘密を打ち明けるように教えてくれた。

 そこで食べたナポリタンがことのほか美味しく、緊張も忘れて会話が弾む。

 「業務量が少し多すぎると思うから、俺も調整に加わっていいか?」

 軽食を食べ終えたあと、食後のコーヒーが運ばれてきたところで幸仁さんからそう言われた。
 熱々のコーヒーにミルクと砂糖を加え、ゆっくりとかき混ぜる。このご褒美の時間を少しでも延長したい、私の浅知恵だ。

 「はい。専務のご負担にならないようでしたら、お願いしたいです」

 答えると、真向かいに座り、ブラックのままのコーヒーに口をつけようとしていた幸仁さんが、その手を止めた。

 「……花村」
 「はい」
 「その呼ばれ方、少し違和感があって」
 「……? はい」
 「小野寺さんも名前のままだから、花村も、よかったら前みたいに名前で呼んでくれないか」

 歯切れ悪く言った幸仁さんに、目を丸くする。
 一族経営であるうちの会社には【香織】氏名の幹部が数人いる。そのため、近しい社員は下の名前で呼び合うことが多かった。
 かく言う私も、幸仁さんが秘書課にいたは【幸仁さん】と呼ばせてもらっていた。

 「私は、構いませんけど」
 「そうか。じゃあ、今度から名前で」
 
 幸仁さんがどこかスッキリしたような顔で微笑む。

 こじんまりとした喫茶店には、私と幸仁さんと、白髪混じりの店主さんと、私と同じような終電を逃したらしい会社員らしき男性が、ひとりいるだけだった。

 時刻は二時を回ろうとしている。

 「悪い、結局こんな時間まで付き合わせて」
 「いいえ。とっても美味しかったです。ご馳走様でした」
 「どういたしまして。俺も、久しぶりに花村と話せてよかった」

 喫茶店を後にし、タクシーをマンションの近くで停めてもらう。
 その降り際、タクシー代を払おうとしたところ断られて、私はさらに恐縮した。
 結局、お土産の選定も幸仁さんの助言を頼ってしまったし、今度改めてお礼をしようと思う。
 何がいいだろうか。

 「じゃあ、おやすみ。気をつけて」
 「はい、おやすみなさい。幸仁さん」

 離れがたく思いながら、遠ざかっていくタクシーを見送る。
 明日も出勤だから、早く帰って、お風呂に入って、少しでも睡眠を取らなければいけない。
 そう思うのに、私はなかなか家に入ることができなかった。

 この特別な夜が終わってしまうのが、寂しかったから。

 明日も頑張ろう。

 お月さまに誓う。明るい晩だった。

end