5日前に送ったメッセージは既読無視から変化がない。
送信してから今日まで、仕事の合間に何度チェックしたかわからない。だけど何度見ても画面は変わらない。メッセージアプリを開き直したりスマホの再起動をしても結果は同じだ。
ようやく画面をオフにしてバッグにしまってから、時間を見るのを忘れていたことに気づいた。もう一度スマホを見たらまたアプリを立ち上げるのが目に見えていたので、代わりに腕時計を見る。
ああこれは、無理だな。
「諦めよう」
わざと声に出したのは自分に言い聞かせるためだ。
だから、駅へ入らず歩くことにした。
金曜日の夜、終電を逃した。
正確に言うと――わざと逃した。
しなくてもいい残業をして、ゆっくり外食して、足を伸ばしてカフェにまで寄った。
でも、巷で人気の季節限定ドリンクを楽しみたかったわけではない。
終電を逃すために、駅から逃げ回っていただけなのだ。
ギリギリ都会への通勤圏内に引っかかっていることでベッドタウンを名乗っている、私鉄の支線のどん詰まり。
私の最寄りはそういう駅だ。
都内から遠ざかるほどに最寄りまで行く便の終電は早くなる。それを逃して宙ぶらりんのまま降り立ったここが、電車で行ける最寄りまでの一番近い駅だった。
多分、23区内ならまだ電車は動いているし人はなんらかの活動を続けている。でも、この辺りではそれは当てはまらない。
健康的な街は街灯だけ残して夜に沈んでいる。
駅前のコンビニだけが溌剌と存在を主張しているのが眩しくて、足は自然とそこを避けていつもの道へ逃げ込んだ。
最寄りでないだけで、ここは馴染み深いものも、ひとも、思い出もたくさんある。
ロータリーを大回りして、車止めに守られた遊歩道に入る。
地面に逆Uの字を描いているだけの鉄の塊から内側にはコンビニの光は届かない。夜の境界線はここにあった。
そこからは目をつぶっていてもたどり着ける場所だけど、実際にやったらつまづいたのでもう二度とやらない。
※
「つくづくきみは期待を裏切らない子だね」
鼓膜の奥からあの日の声が浮かび上がる。
学年は同じなくせに、3月生まれの私を極端に子ども扱いして憚らない4月生まれのひねくれ者。
早生まれがどうのこうのなんて、せいぜい小学生までの話だろうに。ことある事に年上ぶってきたあの横顔に追いつきたかったけれど、あのせっかちはひらりとアメリカへの空を渡ってしまった。
「羽ばたくには空を映す清らかな水面でなく不恰好な岩を見つけることが肝要さ。上を目指すあまりに踏み込みを疎かにしては風切羽はただのアクセサリーになってしまうからね」
一事が万事、この調子。
思わせぶりな言い回しばかり好むのは、思春期に見た古い洋画かぶれを克服できなかったからだ。
手遅れな厨二病を宿した卵を後生大事に孵化させながら医学部へストレートで進学してしまった馬鹿な幼なじみ、真壁慧。
馬鹿と天才は紙一重という諺の通り、素人にはとうていたどり着けない閃きが彼のシナプスを縦横無尽に駆け回り、ついに彼は留学への翼を授かった。
国内では変わり者のレッテルを欲しいがままにしていた真壁慧だけど、かの地では寧ろそれが評価されているようだ。
はた迷惑でしかなかった発想力と頭脳で停滞していた分野にいくつもの風穴を開けていく様はまるでイカロス。翼をつけて太陽に挑もうとする英雄は危なっかしくもあり痛快だ。
それを見捨てることなく付き合ってやっていた私も、傍から見れば同類だったみたい。
……認めたくないけれど。
「そのココロは?」
一緒に歩いているくせに勝手にずんずん進んでしまう長い足は、天才の意志の支配下にないらしい。大声で問いかけた時にだけ、ぴたりと歩みを止めたことは一度や二度ではないのだ。
そしてその時も、真壁慧は呼びかけに応じて振り向いた。
ぴんと伸ばした人差し指を向けられて「人を指ささない!」と怒る直前、その指先は私の爪先へ急降下する。
「歩く時は誰かさんみたいに靴紐をたるませておかないってこと」
私もつられて足元を見る。確かに靴紐は緩んでいて、特に右足はあと数歩でほどけるところだった。
たったそれだけを指摘するのにこんなに勿体付けなくてもいいのに。その思考は思いやりというフィルターを通すことなく、長年の付き合いで培った憎まれ口のまま出力された。
「ハンドルやネジはきつく締めすぎたら事故の元。何事も遊びが必要でしょ」
「余裕と怠慢は鏡合わせの二卵性双生児さ。転んで泣いてるきみを連れてたら俺が泣かしたと思われる。さっさとそこへ座りな」
私のカウンターを軽くいなした真壁慧は近くの植え込みのレンガへと手を引いた。
腰を下ろした私の前に膝を着くと、手馴れた調子で靴紐を解く。
「自分でやるのに」
「時間は有限だってことくらい、きみも知っているだろ」
減らず口を叩きながら、真壁慧はそれぞれの紐を正しい順にシューホールに通して瞬く間に靴を整えていった。鮮やかな手技は縫合を思わせて、この器用さだけなら臨床向きだ。
「……よし、痛くないかい」
「ん、だいじょぶ」
軽くその場で足踏みして確認する。悔しいことに真壁慧の言う通り、私が自分であーでもないこーでもないと大騒ぎする百分の一の時間で靴紐は整えられた。
「行こう、上映時間を過ぎてしまう」
「何度も観てるんだし、冒頭くらい覚えてるよ」
「いいかい、舞台と違って映画は生の芸術ではないというけれど、それはあくまで上澄みだ。すべてのカットは、シーンは、試行錯誤を重ねた細胞だ。それをフィルムという血管が巡り、映写機に映し出された時点で映画は産声を上げる。そういう意味では映画こそが生そのものなのかもしれないね」
「あー……そうね」
よく動く口に呆れ返りながらも踵を返すことなく真壁慧の後に続く。
キネマジマ、とレトロな書体で書かれたボロ臭い看板を掲げているのが、私たちお馴染みのミニシアターだ。
おそらくオーナーがマジマさんで、キネマとかけて名付けたのだと勝手に推測している。
流行りや大作映画には見向きもせず、オーナーが厳選した往年の名作だけを流す、ミニシアター。古き良き学校の視聴覚室レベルの規模しかないここは、ミニシアターというよりミクロシアターだ。しかも営業は毎週金曜日のレイトショーのみ。通好みというか商売をする気があるのか疑わしい。
だからこそ、私たちは貸切状態のここにほぼ毎週通って映画鑑賞をしていたのだ。
古き良き洋画かぶれの真壁慧垂涎のセレクションがここにある。
モノクロの世界で繰り広げられる喜劇に悲劇。色をつけないことで美化された現実が不思議と自分たちの身近な出来事に寄り添うようで、実は私も気に入っていた。大っぴらには言わなかったけれど。
※
大通りから奥に入って、線路沿いに進む。踏切近くなのに喧騒を感じないのは遊歩道に植えられた街路樹のおかげなのだろう。
何年経っても変わらない看板。
何年経っても変わらない入口。
違うのは、キネマジマを訪れるのが私ひとりになっているという一点だけだ。
券売機で料金を払って館内に入る。銭湯の番頭さんのように入口に座っているおじいさん(私の推理が正しければマジマさん)に自分でもぎった半券を渡すと、皺だらけの手がそれをお菓子の空き缶に入れた。
「こんばんは」
「はいどうも」
挨拶しか交わさないままの間柄。このおじいさんは他に誰と何を話しているんだろう。
シアターの中は薄暗い。数列だけ進んでいつもの席に腰を下ろした。それを待っていたかのように更に照明が絞られる。
上映時間ほぼぴったりに間に合っていた。
金管楽器の割れたファンファーレと共にスクリーンに別世界が映し出される。
何度も繰り返し観た、男と女の出会いとハプニング。
社交界デビューにときめくご令嬢がいわく付きの発明家に振り回されて、わかりあったり反発したり。小さな村で起こる大きなラブロマンスは、ふたりが目指す明日への夢を風船のように膨らませて虹の向こう側へ導き幕を閉じる。
映画評論家なら撮り方だの視線の演技だの、そういう視点で語り尽くされて権威ある賞にふさわしきナントカとか後の名優の黎明期を飾る代表作だのとごてごてした飾りがつくのだろうけど、素人の私にはシンプルな筋書きがわかりやすくて楽しい――と、このくらいしか感想がない。
だって、真壁慧と見るにはこのくらいシンプルでないと鑑賞できないのだ。
「……ああ、ほらそろそろ例のセリフだ。聞き取れるかな? “あなたと一緒にいたら”……」
「“いくら翼があっても海を渡れないわ。だってあなたは嵐そのものなんですもの”」
「exactly!」
これみよがしに指をパチンと鳴らすのは真壁慧のクセだ。つくづくここが貸切状態で良かったと思えるクセのひとつでもある。
「だいぶリスニング力もついてきたんじゃないか。そろそろ再試験受けてみるかい」
「これだけ同じもの見て特定のセリフの前で合図されたら嫌でも覚えるって。私には慧と違って語学センスはないの」
「そう? 自分の実力に諦めをつけるには早いよ。なんなら付きっきりでコーチしてやろうか」
「ご冗談。こっちの語彙が医学用語まみれになりそう」
映画館で映画を見ながらこれだけベラベラと喋れるのも、貸切状態ならではである。真壁慧とは新作映画を見に行ったことはないけれど、行ったら一発で退場、出禁になることは目に見えている。
こんなふうに、お気に入りの映画を観ながらこの言い回しが良いだのここで悪役が頭から川に落ちるのがコミカルだの、決まりきった事柄を語り合う。
なんだかんだ言いつつ、私も真壁慧のことが気に入っていた。毎週金曜日の夜を空けておくくらいには。
そして多分、真壁慧の方も、毎度飽きずに私を誘って無駄口を叩くのを躊躇しないくらいには私を好ましく思っていた――と、思いたい。
映画は起承転結で言うところの転に差し掛かっていた。
ふたりは些細なことから喧嘩する。売り言葉に買い言葉で、令嬢が親の決めた婚約者と結婚すると宣言してしまうシーンだ。
「……おあいにくさまね! わたくしにだってお花をくださる方のひとりやふたりいらっしゃるのよ」
目をつぶっていても彼女のつんとした鼻が更に上向きになっているのが瞼の裏に浮かび上がる。
「へえ、この村の花屋はずいぶん気前が良いようだね」
彼の口元が耐えきれずにぴくりぴくりと引き攣っている。その嫌味ったらしい仕草にも令嬢の反発心につけられた導火線はどんどん短くなっていくのだ。
「そうよ。わたくし、決めたの」
耳に馴染んだ令嬢のセリフを口ずさむ。
「「結婚するわ」」
スクリーンの向こうとこちらのユニゾン。
一瞬の間。発明家の頭脳をもってしても彼女の真意は図りがたいものだった。
彼が口を開くより先に、令嬢はこうなれば破れかぶれとばかりにかぶりを振ってまくし立てる。
「「あなたよりうんとお金持ちな大人の男性よ。逆立ちしたってかないっこないんだから」」
令嬢と重なるのはセリフだけではない。
シミひとつない袖口が差し出された時のことが思い出される。
近所のおばさんの顔を立てると思って、と母親に拝み倒されて振袖の帯で文句を締め上げられ、連れ出された先で出会った年上の男性。細部にまで手抜かりのない、仕立ての良いスーツに身を包んだ彼の口元は真壁慧よりうんと寡黙で、それでいて端的に用件を伝えてきた。
――あなたのような女性と、家庭を築いていけたらと思っています。
目の前に広がるモノクロの世界では、令嬢は婚約者の資産家からプロポーズを受けても、はじめは気丈にもそれを突っぱねていた。
私は?
私は彼女と違って打算的だった。
目の前で差し伸べられた厚い手のひらに真壁慧の横顔は明滅して、歪な天秤は素人のヴァイオリンのような音を立てて軋んだ。
あの時、保留にしてしまった自分の心が汚いことは、よくわかっている。
だから今日、終電を逃すまで残業していたのだ。
5日前に送ったメッセージはひと言。
「結婚するの」
アメリカと日本で時差があるから、研究が忙しいから、冗談だと思われたかもしれないから――
そんな予防線を張って張って、がんじがらめになった蜘蛛の糸の真ん中で、ひたすら返事を待っていた。
でも、結局、返事は無い。
金曜日の夜、キネマジマ。
終わらせるならここしか考えられなかった。
恋心ともいえない未練は、フィルムに重ねてそっと殺してしまおう。
そのために私はここにやってきた。
薄っぺらく引き伸ばした時間は、映写機に巻き取られて規則正しく刻まれていく。
映画の終わりとともに涙ひとつぶ零して前に進もう。
そう決断しただけで、今の私には重労働だった。
瞬きするとスクリーンが歪んで見えた。
やだな、涙ぐんでる。
もう一度、今度はゆっくり目を閉じて三秒待ってから目を開ける。
うん、大丈夫。
映っているのは慌てた様子の発明家の男だ。この後に続く彼のセリフも覚えてる。
受験生の時に頻出熟語が生の会話で聞けるからと、真壁慧はここで何度も物語に割り込んだのだから。
英語は覚えられたけど、情緒もへったくれもない鑑賞の仕方だ。
「きみを結婚という枠におさめるなんてその人には荷が重すぎる」
「大きなお世話よ」
そうだ、この後に続くセリフは「じゃじゃ馬娘の手綱を僕にくれないっていうのかい」だ。
「じゃじゃ馬娘の」「きみの靴紐を結ぶ権利を」
「「俺にくれないって言うのか」」
男の声がブレて耳に届いた。
ユニゾンになりきらない不格好な二重唱に、はっと顔を上げて振り返る。
真壁慧が、真後ろの出入口に立っていた。
呼吸が荒い。肩で息をしている。
手にしたスマホは電源がつけっぱなしだ。暗い館内で煌々と青白い光を放っている。
「……なんで」
「ここにいると、思ったから」
「……何しに、来たの」
「きみを止めるために」
「ずっと既読無視だから、もう……」
あ、まずい。喋っているうちに目の奥が熱くなってきた。
何度も瞬きをして、涙になりきる前の水分を弾き飛ばす。だけど、そんなものでは間に合わないくらいに、心が、言葉が、想いが溢れて止まらない。
座席を立って階段を駆け上がる。だけど、何かに引っかかった足はすぐにもつれてかくんとつまづいた。
「あっ」
「危ない!」
間一髪。
真壁慧の長い足は、こういう時に役に立つ。
私が転ぶすれすれに滑り込んできた真壁慧は、私を床からすくい上げるように抱き上げた。
放り出されたスマホがアッパーライトになって私たちを照らし出す。スクリーンに映し出される予定調和の恋愛模様のすぐ脇で、私たちエキストラにも出番が用意されたようだった。
「言ったはずだ。靴紐はきちんと結ぶように」
「最初から、そうやってストレートに言ってくれればいいのに」
「教訓めいた言い回しのほうが洋画らしくてロマンチックだろう。きみの好みかと思って」
「なにそれ。全然私のことわかってない。私はわかりやすいのが好き。はっきりしてるのが好き。メッセージを送ったらすぐに返してくれるのが好き……で」
真壁慧は私を座席に座り直させる最中にもう一度きつく抱きしめた。
ずるい。もっと口答えしたいのに、言葉が止まってしまう。
「ごめん。研究が難航していてろくにスマホを見てなかった。でも何かに呼ばれるように画面を見たらきみからのとんでもないメッセージに肝が冷えた。同時に行き詰まっていた実験を解決に導く一手も見えた。きみはアリアドネか? いや、俺を思考の隘路に閉じ込めたのもきみだからミノタウロスかもしれない」
アリアドネの糸。古代ギリシア神話のひとつ。
怪物ミノタウロスの迷路で勇者を助けた女神が授けたひとすじの糸は、光となって勇者を導いた。
そんな伝説の女神に重ねて私を評する真壁慧はやっぱり大仰だし、怪物に喩えることも忘れなかったあたり、彼のデリカシーのなさは海を渡っても健在だった。
「……靴紐は結ばない。だから、それを辿って私を見つけてよ。私の靴紐を結び直してくれるのは、慧じゃなきゃだめ」
真壁慧は抱きしめていた腕を緩めた。腕の中で視線がようやく巡り会う。
「運命の赤い糸にしては太くて頑丈だな」
「その方が確実でしょ」
「……ああ。些かロマンに欠けるきらいはあるけれどね。その分、ごてごてと言葉で飾り立てていいのなら、心ゆくまで興じるのも悪くはない、か」
「キザすぎ。あんまりまだるっこしいことばっかり言ってると紐で締め上げるからね」
「それは怖いな……」
大袈裟に身震いした真壁慧がちらりとスクリーンのほうに顔を向けた。
モノクロの光に横顔が浮かび上がる。追いつきたかった輪郭がそこにあった。
確かめたくて手を伸ばす。
触れる寸前、しわがれ声のノイズが入った。
「あのう、いつものお兄さん。切符。買ってから入ってくんねかな」
「……あ」
出入口にマジマさん(推定)がガニ股気味に立っていた。薄暗い館内でも眉が八の字になっているのが薄ら見て取れる。どうやら真壁慧はチケットを買わずに館内に強行突破したらしい。
「うわっ、す、すみませんっ! 払います、払いますから通報しないでっ」
「すみません、私からも謝りますっ」
「いや、通報なんてしないけれどもね。でもこれ、決まりだから」
真壁慧はポケットの中身を引っ張り出して盛大に床にばらまいた。もうこっちのほうが実録の喜劇だ。
「すみませんすみません、割増払いますんで」
「いや、焦らんで。危ないから。もっと早く声かけようと思ったんだけどね。お兄さん、ただならぬ勢いだったから」
「うっ……」
真壁慧は押し黙る。長年一緒にいるけれど、こんなにも鮮やかにやりこめたのはマジマさんが初めてだ。亀の甲より年の功。素直に感心すると同時に、ちょっと羨ましさを覚える。
床からかき集めた財布の中身を手早く数えた真壁慧は、鑑賞料金より多いお札をマジマさんに恭しく渡した。
「……ん? いや、こんなに受け取れんよ」
「いえ、ご迷惑をおかけしたのでこのくらいは」
平身低頭という四字熟語の通りの姿勢で硬直した真壁慧を前に、マジマさんはちょっと困った顔をして、私に体を向けた。
「はい、御祝儀」
「え」
「なんだか、おめでたいことになるのかな。だから少し早いけど」
「…………あ、ええと、その」
突っぱねるのもおかしな気がして、でもこれは私が受け取っていいの?
結論を出せず慌てる私に、マジマさんはごく自然にお札を握った手を差し出す。
これって結局、真壁慧が払った金額だから御祝儀と呼べるのかは正直微妙……だけど要はマジマさんの気持ちだから、有難く受け取ることにした。
「……あ、ありがとうございます」
「ん。お幸せにね」
そこで館内がパッと白く明るくなった。
3人全員でスクリーンを見る。
映画のラストシーンだ。
苦難を乗り越えた発明家にヒロインが駆け寄り、ふたりは熱い抱擁を交わす。
丘の上で愛を誓うふたりを悪戯なそよ風がからかって、ヒロインの帽子が飛ばされていく――
真っ白な画面に「fin.」が綴られた。
一瞬、暗転。
再び明るくなった世界にエンドロールが流れ出す。
「……長いことここでこの映画観てるけど、こういう終わりは初めてだな」
「そう、ね」
しばらくの間、お互い無言のままエンドロールを見つめる。
「決まりきった結末。予定調和の物語。なのに……何故だかすごく新鮮だ」
それは、真壁慧の発した言葉の中でも珍しく素直に頷けるものだった。
擦り切れた弦楽器のメロディに隠れながら、真壁慧の袖口をそっとつまむ。わずかな振動に気づいた彼のぬくもりが手のひらに返ってきた。
よいしょ、と静かに声を出したマジマさんがゆっくり歩いて館内を出ていく。
一瞬、外からの光がスクリーンを縦に切り裂いて現実世界が割り込んでくる。
しかし瞬く間に縫い合わされた闇のおかげで世界は再び予定調和のワルツに閉ざされる。この時を止めた小さな世界の中で、私と真壁慧は小指だけを結んでエンドロールに浸っていた。
これが終われば私たちは始発を待って走り出す。
待ち遠しいような、まだこの思い出の時間を生きていたいようなもどかしさのまま、ひび割れたファンファーレの祝福に目を伏せた。
送信してから今日まで、仕事の合間に何度チェックしたかわからない。だけど何度見ても画面は変わらない。メッセージアプリを開き直したりスマホの再起動をしても結果は同じだ。
ようやく画面をオフにしてバッグにしまってから、時間を見るのを忘れていたことに気づいた。もう一度スマホを見たらまたアプリを立ち上げるのが目に見えていたので、代わりに腕時計を見る。
ああこれは、無理だな。
「諦めよう」
わざと声に出したのは自分に言い聞かせるためだ。
だから、駅へ入らず歩くことにした。
金曜日の夜、終電を逃した。
正確に言うと――わざと逃した。
しなくてもいい残業をして、ゆっくり外食して、足を伸ばしてカフェにまで寄った。
でも、巷で人気の季節限定ドリンクを楽しみたかったわけではない。
終電を逃すために、駅から逃げ回っていただけなのだ。
ギリギリ都会への通勤圏内に引っかかっていることでベッドタウンを名乗っている、私鉄の支線のどん詰まり。
私の最寄りはそういう駅だ。
都内から遠ざかるほどに最寄りまで行く便の終電は早くなる。それを逃して宙ぶらりんのまま降り立ったここが、電車で行ける最寄りまでの一番近い駅だった。
多分、23区内ならまだ電車は動いているし人はなんらかの活動を続けている。でも、この辺りではそれは当てはまらない。
健康的な街は街灯だけ残して夜に沈んでいる。
駅前のコンビニだけが溌剌と存在を主張しているのが眩しくて、足は自然とそこを避けていつもの道へ逃げ込んだ。
最寄りでないだけで、ここは馴染み深いものも、ひとも、思い出もたくさんある。
ロータリーを大回りして、車止めに守られた遊歩道に入る。
地面に逆Uの字を描いているだけの鉄の塊から内側にはコンビニの光は届かない。夜の境界線はここにあった。
そこからは目をつぶっていてもたどり着ける場所だけど、実際にやったらつまづいたのでもう二度とやらない。
※
「つくづくきみは期待を裏切らない子だね」
鼓膜の奥からあの日の声が浮かび上がる。
学年は同じなくせに、3月生まれの私を極端に子ども扱いして憚らない4月生まれのひねくれ者。
早生まれがどうのこうのなんて、せいぜい小学生までの話だろうに。ことある事に年上ぶってきたあの横顔に追いつきたかったけれど、あのせっかちはひらりとアメリカへの空を渡ってしまった。
「羽ばたくには空を映す清らかな水面でなく不恰好な岩を見つけることが肝要さ。上を目指すあまりに踏み込みを疎かにしては風切羽はただのアクセサリーになってしまうからね」
一事が万事、この調子。
思わせぶりな言い回しばかり好むのは、思春期に見た古い洋画かぶれを克服できなかったからだ。
手遅れな厨二病を宿した卵を後生大事に孵化させながら医学部へストレートで進学してしまった馬鹿な幼なじみ、真壁慧。
馬鹿と天才は紙一重という諺の通り、素人にはとうていたどり着けない閃きが彼のシナプスを縦横無尽に駆け回り、ついに彼は留学への翼を授かった。
国内では変わり者のレッテルを欲しいがままにしていた真壁慧だけど、かの地では寧ろそれが評価されているようだ。
はた迷惑でしかなかった発想力と頭脳で停滞していた分野にいくつもの風穴を開けていく様はまるでイカロス。翼をつけて太陽に挑もうとする英雄は危なっかしくもあり痛快だ。
それを見捨てることなく付き合ってやっていた私も、傍から見れば同類だったみたい。
……認めたくないけれど。
「そのココロは?」
一緒に歩いているくせに勝手にずんずん進んでしまう長い足は、天才の意志の支配下にないらしい。大声で問いかけた時にだけ、ぴたりと歩みを止めたことは一度や二度ではないのだ。
そしてその時も、真壁慧は呼びかけに応じて振り向いた。
ぴんと伸ばした人差し指を向けられて「人を指ささない!」と怒る直前、その指先は私の爪先へ急降下する。
「歩く時は誰かさんみたいに靴紐をたるませておかないってこと」
私もつられて足元を見る。確かに靴紐は緩んでいて、特に右足はあと数歩でほどけるところだった。
たったそれだけを指摘するのにこんなに勿体付けなくてもいいのに。その思考は思いやりというフィルターを通すことなく、長年の付き合いで培った憎まれ口のまま出力された。
「ハンドルやネジはきつく締めすぎたら事故の元。何事も遊びが必要でしょ」
「余裕と怠慢は鏡合わせの二卵性双生児さ。転んで泣いてるきみを連れてたら俺が泣かしたと思われる。さっさとそこへ座りな」
私のカウンターを軽くいなした真壁慧は近くの植え込みのレンガへと手を引いた。
腰を下ろした私の前に膝を着くと、手馴れた調子で靴紐を解く。
「自分でやるのに」
「時間は有限だってことくらい、きみも知っているだろ」
減らず口を叩きながら、真壁慧はそれぞれの紐を正しい順にシューホールに通して瞬く間に靴を整えていった。鮮やかな手技は縫合を思わせて、この器用さだけなら臨床向きだ。
「……よし、痛くないかい」
「ん、だいじょぶ」
軽くその場で足踏みして確認する。悔しいことに真壁慧の言う通り、私が自分であーでもないこーでもないと大騒ぎする百分の一の時間で靴紐は整えられた。
「行こう、上映時間を過ぎてしまう」
「何度も観てるんだし、冒頭くらい覚えてるよ」
「いいかい、舞台と違って映画は生の芸術ではないというけれど、それはあくまで上澄みだ。すべてのカットは、シーンは、試行錯誤を重ねた細胞だ。それをフィルムという血管が巡り、映写機に映し出された時点で映画は産声を上げる。そういう意味では映画こそが生そのものなのかもしれないね」
「あー……そうね」
よく動く口に呆れ返りながらも踵を返すことなく真壁慧の後に続く。
キネマジマ、とレトロな書体で書かれたボロ臭い看板を掲げているのが、私たちお馴染みのミニシアターだ。
おそらくオーナーがマジマさんで、キネマとかけて名付けたのだと勝手に推測している。
流行りや大作映画には見向きもせず、オーナーが厳選した往年の名作だけを流す、ミニシアター。古き良き学校の視聴覚室レベルの規模しかないここは、ミニシアターというよりミクロシアターだ。しかも営業は毎週金曜日のレイトショーのみ。通好みというか商売をする気があるのか疑わしい。
だからこそ、私たちは貸切状態のここにほぼ毎週通って映画鑑賞をしていたのだ。
古き良き洋画かぶれの真壁慧垂涎のセレクションがここにある。
モノクロの世界で繰り広げられる喜劇に悲劇。色をつけないことで美化された現実が不思議と自分たちの身近な出来事に寄り添うようで、実は私も気に入っていた。大っぴらには言わなかったけれど。
※
大通りから奥に入って、線路沿いに進む。踏切近くなのに喧騒を感じないのは遊歩道に植えられた街路樹のおかげなのだろう。
何年経っても変わらない看板。
何年経っても変わらない入口。
違うのは、キネマジマを訪れるのが私ひとりになっているという一点だけだ。
券売機で料金を払って館内に入る。銭湯の番頭さんのように入口に座っているおじいさん(私の推理が正しければマジマさん)に自分でもぎった半券を渡すと、皺だらけの手がそれをお菓子の空き缶に入れた。
「こんばんは」
「はいどうも」
挨拶しか交わさないままの間柄。このおじいさんは他に誰と何を話しているんだろう。
シアターの中は薄暗い。数列だけ進んでいつもの席に腰を下ろした。それを待っていたかのように更に照明が絞られる。
上映時間ほぼぴったりに間に合っていた。
金管楽器の割れたファンファーレと共にスクリーンに別世界が映し出される。
何度も繰り返し観た、男と女の出会いとハプニング。
社交界デビューにときめくご令嬢がいわく付きの発明家に振り回されて、わかりあったり反発したり。小さな村で起こる大きなラブロマンスは、ふたりが目指す明日への夢を風船のように膨らませて虹の向こう側へ導き幕を閉じる。
映画評論家なら撮り方だの視線の演技だの、そういう視点で語り尽くされて権威ある賞にふさわしきナントカとか後の名優の黎明期を飾る代表作だのとごてごてした飾りがつくのだろうけど、素人の私にはシンプルな筋書きがわかりやすくて楽しい――と、このくらいしか感想がない。
だって、真壁慧と見るにはこのくらいシンプルでないと鑑賞できないのだ。
「……ああ、ほらそろそろ例のセリフだ。聞き取れるかな? “あなたと一緒にいたら”……」
「“いくら翼があっても海を渡れないわ。だってあなたは嵐そのものなんですもの”」
「exactly!」
これみよがしに指をパチンと鳴らすのは真壁慧のクセだ。つくづくここが貸切状態で良かったと思えるクセのひとつでもある。
「だいぶリスニング力もついてきたんじゃないか。そろそろ再試験受けてみるかい」
「これだけ同じもの見て特定のセリフの前で合図されたら嫌でも覚えるって。私には慧と違って語学センスはないの」
「そう? 自分の実力に諦めをつけるには早いよ。なんなら付きっきりでコーチしてやろうか」
「ご冗談。こっちの語彙が医学用語まみれになりそう」
映画館で映画を見ながらこれだけベラベラと喋れるのも、貸切状態ならではである。真壁慧とは新作映画を見に行ったことはないけれど、行ったら一発で退場、出禁になることは目に見えている。
こんなふうに、お気に入りの映画を観ながらこの言い回しが良いだのここで悪役が頭から川に落ちるのがコミカルだの、決まりきった事柄を語り合う。
なんだかんだ言いつつ、私も真壁慧のことが気に入っていた。毎週金曜日の夜を空けておくくらいには。
そして多分、真壁慧の方も、毎度飽きずに私を誘って無駄口を叩くのを躊躇しないくらいには私を好ましく思っていた――と、思いたい。
映画は起承転結で言うところの転に差し掛かっていた。
ふたりは些細なことから喧嘩する。売り言葉に買い言葉で、令嬢が親の決めた婚約者と結婚すると宣言してしまうシーンだ。
「……おあいにくさまね! わたくしにだってお花をくださる方のひとりやふたりいらっしゃるのよ」
目をつぶっていても彼女のつんとした鼻が更に上向きになっているのが瞼の裏に浮かび上がる。
「へえ、この村の花屋はずいぶん気前が良いようだね」
彼の口元が耐えきれずにぴくりぴくりと引き攣っている。その嫌味ったらしい仕草にも令嬢の反発心につけられた導火線はどんどん短くなっていくのだ。
「そうよ。わたくし、決めたの」
耳に馴染んだ令嬢のセリフを口ずさむ。
「「結婚するわ」」
スクリーンの向こうとこちらのユニゾン。
一瞬の間。発明家の頭脳をもってしても彼女の真意は図りがたいものだった。
彼が口を開くより先に、令嬢はこうなれば破れかぶれとばかりにかぶりを振ってまくし立てる。
「「あなたよりうんとお金持ちな大人の男性よ。逆立ちしたってかないっこないんだから」」
令嬢と重なるのはセリフだけではない。
シミひとつない袖口が差し出された時のことが思い出される。
近所のおばさんの顔を立てると思って、と母親に拝み倒されて振袖の帯で文句を締め上げられ、連れ出された先で出会った年上の男性。細部にまで手抜かりのない、仕立ての良いスーツに身を包んだ彼の口元は真壁慧よりうんと寡黙で、それでいて端的に用件を伝えてきた。
――あなたのような女性と、家庭を築いていけたらと思っています。
目の前に広がるモノクロの世界では、令嬢は婚約者の資産家からプロポーズを受けても、はじめは気丈にもそれを突っぱねていた。
私は?
私は彼女と違って打算的だった。
目の前で差し伸べられた厚い手のひらに真壁慧の横顔は明滅して、歪な天秤は素人のヴァイオリンのような音を立てて軋んだ。
あの時、保留にしてしまった自分の心が汚いことは、よくわかっている。
だから今日、終電を逃すまで残業していたのだ。
5日前に送ったメッセージはひと言。
「結婚するの」
アメリカと日本で時差があるから、研究が忙しいから、冗談だと思われたかもしれないから――
そんな予防線を張って張って、がんじがらめになった蜘蛛の糸の真ん中で、ひたすら返事を待っていた。
でも、結局、返事は無い。
金曜日の夜、キネマジマ。
終わらせるならここしか考えられなかった。
恋心ともいえない未練は、フィルムに重ねてそっと殺してしまおう。
そのために私はここにやってきた。
薄っぺらく引き伸ばした時間は、映写機に巻き取られて規則正しく刻まれていく。
映画の終わりとともに涙ひとつぶ零して前に進もう。
そう決断しただけで、今の私には重労働だった。
瞬きするとスクリーンが歪んで見えた。
やだな、涙ぐんでる。
もう一度、今度はゆっくり目を閉じて三秒待ってから目を開ける。
うん、大丈夫。
映っているのは慌てた様子の発明家の男だ。この後に続く彼のセリフも覚えてる。
受験生の時に頻出熟語が生の会話で聞けるからと、真壁慧はここで何度も物語に割り込んだのだから。
英語は覚えられたけど、情緒もへったくれもない鑑賞の仕方だ。
「きみを結婚という枠におさめるなんてその人には荷が重すぎる」
「大きなお世話よ」
そうだ、この後に続くセリフは「じゃじゃ馬娘の手綱を僕にくれないっていうのかい」だ。
「じゃじゃ馬娘の」「きみの靴紐を結ぶ権利を」
「「俺にくれないって言うのか」」
男の声がブレて耳に届いた。
ユニゾンになりきらない不格好な二重唱に、はっと顔を上げて振り返る。
真壁慧が、真後ろの出入口に立っていた。
呼吸が荒い。肩で息をしている。
手にしたスマホは電源がつけっぱなしだ。暗い館内で煌々と青白い光を放っている。
「……なんで」
「ここにいると、思ったから」
「……何しに、来たの」
「きみを止めるために」
「ずっと既読無視だから、もう……」
あ、まずい。喋っているうちに目の奥が熱くなってきた。
何度も瞬きをして、涙になりきる前の水分を弾き飛ばす。だけど、そんなものでは間に合わないくらいに、心が、言葉が、想いが溢れて止まらない。
座席を立って階段を駆け上がる。だけど、何かに引っかかった足はすぐにもつれてかくんとつまづいた。
「あっ」
「危ない!」
間一髪。
真壁慧の長い足は、こういう時に役に立つ。
私が転ぶすれすれに滑り込んできた真壁慧は、私を床からすくい上げるように抱き上げた。
放り出されたスマホがアッパーライトになって私たちを照らし出す。スクリーンに映し出される予定調和の恋愛模様のすぐ脇で、私たちエキストラにも出番が用意されたようだった。
「言ったはずだ。靴紐はきちんと結ぶように」
「最初から、そうやってストレートに言ってくれればいいのに」
「教訓めいた言い回しのほうが洋画らしくてロマンチックだろう。きみの好みかと思って」
「なにそれ。全然私のことわかってない。私はわかりやすいのが好き。はっきりしてるのが好き。メッセージを送ったらすぐに返してくれるのが好き……で」
真壁慧は私を座席に座り直させる最中にもう一度きつく抱きしめた。
ずるい。もっと口答えしたいのに、言葉が止まってしまう。
「ごめん。研究が難航していてろくにスマホを見てなかった。でも何かに呼ばれるように画面を見たらきみからのとんでもないメッセージに肝が冷えた。同時に行き詰まっていた実験を解決に導く一手も見えた。きみはアリアドネか? いや、俺を思考の隘路に閉じ込めたのもきみだからミノタウロスかもしれない」
アリアドネの糸。古代ギリシア神話のひとつ。
怪物ミノタウロスの迷路で勇者を助けた女神が授けたひとすじの糸は、光となって勇者を導いた。
そんな伝説の女神に重ねて私を評する真壁慧はやっぱり大仰だし、怪物に喩えることも忘れなかったあたり、彼のデリカシーのなさは海を渡っても健在だった。
「……靴紐は結ばない。だから、それを辿って私を見つけてよ。私の靴紐を結び直してくれるのは、慧じゃなきゃだめ」
真壁慧は抱きしめていた腕を緩めた。腕の中で視線がようやく巡り会う。
「運命の赤い糸にしては太くて頑丈だな」
「その方が確実でしょ」
「……ああ。些かロマンに欠けるきらいはあるけれどね。その分、ごてごてと言葉で飾り立てていいのなら、心ゆくまで興じるのも悪くはない、か」
「キザすぎ。あんまりまだるっこしいことばっかり言ってると紐で締め上げるからね」
「それは怖いな……」
大袈裟に身震いした真壁慧がちらりとスクリーンのほうに顔を向けた。
モノクロの光に横顔が浮かび上がる。追いつきたかった輪郭がそこにあった。
確かめたくて手を伸ばす。
触れる寸前、しわがれ声のノイズが入った。
「あのう、いつものお兄さん。切符。買ってから入ってくんねかな」
「……あ」
出入口にマジマさん(推定)がガニ股気味に立っていた。薄暗い館内でも眉が八の字になっているのが薄ら見て取れる。どうやら真壁慧はチケットを買わずに館内に強行突破したらしい。
「うわっ、す、すみませんっ! 払います、払いますから通報しないでっ」
「すみません、私からも謝りますっ」
「いや、通報なんてしないけれどもね。でもこれ、決まりだから」
真壁慧はポケットの中身を引っ張り出して盛大に床にばらまいた。もうこっちのほうが実録の喜劇だ。
「すみませんすみません、割増払いますんで」
「いや、焦らんで。危ないから。もっと早く声かけようと思ったんだけどね。お兄さん、ただならぬ勢いだったから」
「うっ……」
真壁慧は押し黙る。長年一緒にいるけれど、こんなにも鮮やかにやりこめたのはマジマさんが初めてだ。亀の甲より年の功。素直に感心すると同時に、ちょっと羨ましさを覚える。
床からかき集めた財布の中身を手早く数えた真壁慧は、鑑賞料金より多いお札をマジマさんに恭しく渡した。
「……ん? いや、こんなに受け取れんよ」
「いえ、ご迷惑をおかけしたのでこのくらいは」
平身低頭という四字熟語の通りの姿勢で硬直した真壁慧を前に、マジマさんはちょっと困った顔をして、私に体を向けた。
「はい、御祝儀」
「え」
「なんだか、おめでたいことになるのかな。だから少し早いけど」
「…………あ、ええと、その」
突っぱねるのもおかしな気がして、でもこれは私が受け取っていいの?
結論を出せず慌てる私に、マジマさんはごく自然にお札を握った手を差し出す。
これって結局、真壁慧が払った金額だから御祝儀と呼べるのかは正直微妙……だけど要はマジマさんの気持ちだから、有難く受け取ることにした。
「……あ、ありがとうございます」
「ん。お幸せにね」
そこで館内がパッと白く明るくなった。
3人全員でスクリーンを見る。
映画のラストシーンだ。
苦難を乗り越えた発明家にヒロインが駆け寄り、ふたりは熱い抱擁を交わす。
丘の上で愛を誓うふたりを悪戯なそよ風がからかって、ヒロインの帽子が飛ばされていく――
真っ白な画面に「fin.」が綴られた。
一瞬、暗転。
再び明るくなった世界にエンドロールが流れ出す。
「……長いことここでこの映画観てるけど、こういう終わりは初めてだな」
「そう、ね」
しばらくの間、お互い無言のままエンドロールを見つめる。
「決まりきった結末。予定調和の物語。なのに……何故だかすごく新鮮だ」
それは、真壁慧の発した言葉の中でも珍しく素直に頷けるものだった。
擦り切れた弦楽器のメロディに隠れながら、真壁慧の袖口をそっとつまむ。わずかな振動に気づいた彼のぬくもりが手のひらに返ってきた。
よいしょ、と静かに声を出したマジマさんがゆっくり歩いて館内を出ていく。
一瞬、外からの光がスクリーンを縦に切り裂いて現実世界が割り込んでくる。
しかし瞬く間に縫い合わされた闇のおかげで世界は再び予定調和のワルツに閉ざされる。この時を止めた小さな世界の中で、私と真壁慧は小指だけを結んでエンドロールに浸っていた。
これが終われば私たちは始発を待って走り出す。
待ち遠しいような、まだこの思い出の時間を生きていたいようなもどかしさのまま、ひび割れたファンファーレの祝福に目を伏せた。



