4.高校生
朝6時。毎日同じ時間に目覚ましが鳴る。いい夢を見ていたからか目を開けたくない気分。
後5分、このままでいたい。欲を言えばさっきの夢の続きをもう一度見たい。
「起きてってば!ほんとに遅刻するよ!」
母が部屋に入ってきて寝ている私を揺すぶり叩く。
ドアが開く音がしなかったのにいつの間に入ってきていたんだろうと、薄目を開き携帯を見ると、6時15分。私は飛び起きる。
「やば!後15分じゃん!」
「何回も下から呼んだし電話もかけたのに」
「うっそ、全然気づかんかった。6時に一回起きたのにー」
私はぶつぶつと言い訳をしながら制服に着替える。
そんな私を見ながら母は呆れた表情を浮かべ、部屋のカーテンと窓を開ける。
「今日って寒い?」
「結構寒いと思うよ〜」
「じゃあマフラーデビューしよっと」
「カイロも持ってく?」
「うん」
「貼るカイロは?」
「んー、それはいいや」
そんな会話をして、私は急いで階段を降りていく。
顔を洗い口を濯ぎ、ねぐせだらけの髪を整えていると、リビングからパンの焼ける音がする。
「ほら半分くらい食べてって」
「えー時間ない〜」
「後5分あるでしょ、食べないと朝練中お腹空いちゃうよ」
テーブルには半分に切った状態の食パンが置いてあり、私の好きなブルーベリージャムがすでに塗られている。
隣にはお弁当が用意されていて、その横にはカイロが置いてある。
「今日って練習どこって書いてある?」
食パンを頬張りながら、洗い物をしている母に聞くと、母は後ろを振り返り、冷蔵庫に貼ってある一枚の紙を見ながら答える。
これは、高校生になってからの私の朝にはよくある様子だった。
「今日はー、西部だって」
「西部かー、じゃあ接骨院行って帰ってこようかな」
「そうしな〜また時間送っといてお迎えの」
「はーい」
半分しかない食パンは思ったより早く食べ終える。
私は歯磨きをしに洗面所に走って行き、時計を見るともう出ないといけない時間だ。
「やばいやばい!」
これでもかというくらいに急いで歯磨きをしてから、大きなリュックサックを背負うと、母がお弁当箱とカイロを手渡ししてくれる。
「はい、お弁当とカイロ」
カイロはすでに袋から出ていて、制服のポケットに突っ込む。
「ありがと!」
と勢いよく受け取り、振り返りもせずに玄関を出ていく。お母さんは後ろから
「行ってらっしゃーい」
と大きな声で叫ぶ。振り返る余裕がない時でも、私はいつも振り返って手を振る。
これが、忙しなく過ごした高校2年生の秋までの私と母の毎日だった。
・家族旅行にもっと行けばよかった
・もっと写真を撮っておけばよかった
・母の手料理を教えて貰えばよかった
・母の存在をもっと大切にしておけばよかった
・ありがとうとごめんねをもっと素直に言えばよかった
・ちゃんと、もっと、母の事を見ていればよかった
後悔は止まらない。悔しい。悲しい。苦しい。
私はこの先一生、あの怒涛の5日間を忘れないと思う。
自分の母親なのに、亡くなる2日前まで病気に気づいてあげられなかった。
いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
体調が良くないということは数ヶ月前から母が口にしていたので知っていた。
でも、「まさかな…」という気持ちが勝ってしまっていて、
「大丈夫?病院行きなよ〜」
くらいしか言えなかった。
『まさかあのままが病気なわけがない』『だってこんなに元気だし……』
今思うとそう心で思っていた日もあった。
どの病院に行っても、ちゃんとした結果がもらえず、きっと母は不安だったと思う。
それでも家ではいつも通りの姿だったから、私も深刻そうではないなと感じてしまっていた。
急変したのは姉の20歳の誕生日の日。怒涛の5日間の始まり。
その日は私の部活の公式戦で、なかなかレギュラーメンバーになれない私にとっては、チャンスの試合だった。高校でも部活をやるきっかけをくれた両親には必ず見て欲しい、そう心に秘めながら迎えた朝、母はソファーでぐったりしていた。
私が2階から降りてきたのにも気づかず、いつもの母からはありえない姿で、寝ているように横になっていた。
思わず声をかけたら、
「ごめん、今日見に行けないかもしれない」
そう言われてしまった。
その時、まだまだ子供だった私は、事の深刻さにも気づかず、自分の気持ちばかり優先してしまい、見に行けないと言う母に強く当たった。
毎朝玄関まで来て、送り出してくれる母の姿もなく、それにも何だかイライラして、どこにもぶつけれない、やるせない気持ちのまま家を出た。その時父に、怒っている私を宥める言葉をかけられたけれど、その言葉も筒抜けになってしまうくらい、私はモヤモヤしていた。
試合には父が見に来てくれて、いつも母が持っているビデオを手にしている姿を見て、母の体調のことなんて考えずに、来てくれなかったという思いだけが心に残った。
試合が終わった後、いつもならいる父の姿がなかった。
その時も、「え、帰っちゃったの」と勝手に寂しく思って、同時にまたモヤッとした。
今思うと、このモヤッとした気持ちは嫌な予感というものだったような気がする。
でもその時の私は怖くてずっと気づかないふりをしていた。
学校に戻り、練習するために準備をしていた時、父からメッセージと電話が来ていることに気がついた。
震えが止まらなくなって、その日ずっと目を背けていた嫌な予感というものが一気に体を襲ってくる感覚があった。
「ママが倒れたから、今すぐ大学病院に来てほしい」
そう父の声で聞いた時は体に重力を感じ、立っていられなかった。その時の父の声は、一家の大黒柱としてドシっとしている大きな背中のかっこいい父ではなく、今までに聞いたことのないような、動揺している声だったのを覚えている。
『まさかこんなことになるなんて』
まさに私の頭の中にはこの言葉が浮かんでいた。
病院に着いてからは、正直どう過ごしていたか記憶がない。
次に覚えているのは数時間経って母と対面した時の、母の笑顔。
「ごめんね、試合見に行けなくて〜」
そう優しい顔で言われた瞬間、自分が今日、どれだけ子供だったか。胸が張り裂けそうなくらい実感した。
「ごめんね〜びっくりさせちゃって〜」
そう微笑みながら言う母に、今朝の自分の態度について謝った。
そこからは今日の試合の話だったり、得意なボケなんてかましたりすると、母はいつも通りの笑顔で笑ってくれた。
病室に移動してからもずっと、姉も合流し、家族4人で沢山話した。
うる覚えだけれど、途中父か姉が一旦家に帰り、荷物取りに行ったり買い物に行ったような気がする。
そしてもう遅いからと言うことで、帰ることになったものの、ここでも私はとても子供で、母と離れたくないと言い張った。
離れたらどこかへ行ってしまう気がしたから。この笑った顔を見るのが、最後な気がして帰るのを拒んだ。
何も理由はないけれど、なぜかそう思った。でも、母に
「病院にいるんだからもう大丈夫」
そう言われて、渋々帰ることにした。
今日が姉の誕生日だと言うことを正直忘れてしまうくらい、母のことで頭がいっぱいだった。
帰宅すると、昔から家族ぐるみで仲がいい友達が姉の誕生日を祝いに来てくれていた。その日は毎年みたいなお祝いができなかったので、すごくすごく助かったし、その瞬間だけが一日の中で気が抜けた時間だった。これは後から知ったけれど、姉に母から「誕生日なのにごめんね」とメッセージが入っていたそう。
私は母のことで精一杯だったのに、母自身は自分のことよりも姉のことを気にしていたんだと思った。
そして夜中の3時を回ったぐらいの時。父に起こされて急いで病院へ向かった。向かっている車内で、母との別れ際に感じていた気持ちが蘇り、不安で怖くて、また震えが止まらなくなった。
そして祖母が亡くなった時も、こんな感じで急いで車で向かったのを思い出した。
ただ違うのは、車に乗っているのが四人ではなく三人と言うことだけ。あまりにも似ていて、涙すら出なかった。
病院に着くと、初めて見る母の姿があった。
ほんの数時間前まで笑いながら話していたのに、横たわったままで周りには沢山の機械が置いてあり、別室に案内されて病名を明かされました。
【胃の末期癌、ステージ4】
かなり深刻だと言われた。
数ヶ月間色んな病院で検査を受けてそれでも分からなかった病気が、危険な状態になったらこんなにもあっさり分かるなんてあるのかと、私は医者を睨みつけた。
「治療は月曜日からしかできない」
その日は日曜日で、明日からしか治療ができないと言われ、正直混乱していて記憶が曖昧だけれど、「月曜からしか機械が使えない」そう聞かされたと記憶している。
私は勉強が得意ではなく、家族の中では一番のバカだけれど、そんな私でも思った。
月曜からしかできない治療なんてあるのか。
母のように、たまたま土日に急変した患者は月曜まで待たないといけないのか。
その間に命を落としたら、病院側はどう責任を取るのか。
頭の中でたくさん思った。
言葉がたくさん頭に出てきて、でもその言葉を口に出せるほど、冷静ではなく、ずっと混乱していた。あまりにも現実味がなく、私たち家族が今、この状況になっている事がまだ、理解できていなかった。
きっと父も姉も同じ気持ちだったと思う。理解する前に、現実がどんどん進んでいってしまうあの感覚、今でも鮮明に覚えている。
私の家族は4人家族で、いつも賑やか。そんな家族が今までで一番静かな時間を過ごした。各々が、状況を飲み込む時間が必要だった。
日曜日は1日病院で過ごした。
明らかに弱っている母を目の前にして、「いつも通りにしよう」と思い、沢山話しかけた。
母が父に銀行の口座番号を伝えているのを聞いてしまった時は、もう笑うしかなかった。
もうその時には母自身、何かを感じていたのかもしれない。
子供が使うお絵描きのおもちゃに、「ママ大好きだよ」のメッセージと家族4人の似顔絵を一緒に書いた。
絵が得意ではないから、なかなかひどい絵ではあったものの、母に見せるとあの優しい顔で笑ってくれて、「ありがとう」と言って頷いてくれた。そんなことでしか、その時は気持ちを伝える事ができなかった。
次の日から治療が始まるからか、私は少し前向きな気持ちだった。
俗に言う闘病生活というものを、母は今後していくものだと思っていたから、帰り際、
「また明日くるね、おやすみ」
と当たり前の明日を約束した。すると母は小さな声で、
「おやすみ」
と言った。これが私と母が交わした最後の言葉になった。
夜帰宅した後、家にあるパソコンに、「ママの入院日記・一日目」と日記を書いた。
これから毎日書いて元気になった母に見せようと思って始めた。でもそれはその日以来一度も開かれていない。
母がお空に行ったあの日。今日から治療だから大丈夫、学校にはちゃんと行ってほしいと父に言われたので渋々学校に行き、朝練の準備をいつも通りしていた。
チームメイトのみんなにも沢山心配されたけれど「大丈夫」と言い返した。今日から治療が始まるから大丈夫だ、という意味で。
シューズを履いている途中、マネージャーの子がものすごい勢いで体育館に入ってきた。
私の携帯を持っていて、「早く病院行って」と言われ、訳がわからず、震えた体で必死に走り、父と姉が迎えにきてくれていた車に乗って病院へ向かった。
車内では父が、
「さっき急変して、もう危険な状態らしい」
と、私に伝えてきた。そこから、無感情というものを初めて味わい、人間のパニック状態を初めて味わった。
そして車内で流れている曲のある一部分が妙に頭に入ってきたのを覚えている。
「ごめんね、先に行くわね」
この歌詞が妙に母の声で聞こえて、無意識に空を見上げてしまっていたと思う。
病院についてエレベーターに乗っている時、私が母が手作りで作ってくれたお守りを握りしめていたら、父が
「大丈夫、人間はそんな簡単に死なないから」
そう私の手を握りしめてそう言った。
今思うと、不安がっている私に言っているのももちろん、父自身が自分にそう言い聞かせていたのかなと感じる。
急いで母の元に行ったら、もう既に心臓マッサージをされていた。
そこからは泣いて叫んで、乱れ、苦しんだ。
心臓マッサージをしてまた動き出す患者を、ドラマで見たことがあった私は、そうなれる、と何も根拠もなくそう思った。
まだ続けたら大丈夫かもしれない、
まだ姉も私も成人式や結婚式が待っているし、
もっと一緒にお買い物にだって行きたいし、
母には可愛いおばあちゃんになる夢だってあるし、
父ともとっても仲良しだから一緒に歳を取りたいだろうし、
そんなことがものすごいスピードで頭に浮かんだ。
『待って行かないで、置いていかないで、まだ連れていかないで』
そう天国にいる祖母に願い、声をかけたけれど、母は戻って来ない。
まだ間に合う、そう思っていた私を現実に引き戻したのは父の言葉だった。
眠っている母の頬をそっと撫でて、
「愛してるよ」
そう言っておでこにキスをした。その姿を見て、母の人生に終わりが来たんだと悟った。
治療が始まって、日に日に回復して、どれだけ時間がかかっても、当たり前にお家に帰ってくると思っていた。
当たり前に部活の大会を見に来て、卒業式を見に来て、成人袴姿を見てもらって、ウェディングドレス姿を見てもらって、「今日まで育ててくれてありがとう」と涙ながらに伝える日が来ると思っていた。
伝えたいことも伝えられなかった。
「産んでくれて、育ててくれてありがとう」
「ママの子供になれて幸せだったよ」
「来世でもパパと出会って結婚して、おねーちゃんと私を娘にしてね」
しっかりと目を見て、私の言葉で伝えたかった。
原因を後から先生に聞いた時、環境の変化で急激に症状が悪化してしまった可能性がある。そう言われて、私のせいだと思った。
当時私達家族は新築の一軒家に引っ越してまだ4ヶ月で。引っ越しを提案したのも、急かしたのも私だった。
憧れの新築の一軒家に住みたいという、ただそれだけの理由だった。
確かに、引っ越してから母は胸が痛いと、体調が良くないと言うようになっていた。
こんなことになるのなら、あのマンションに住んだままでもいい。ままを返して。そう思うことしか出来なかった。
そして、症状はずっと出ていて、胸や肺の痛みがそうだと言われた。
痛みの症状があることはずっと知っていて、母にもたれかかった時に「痛いからやめて〜」と言われたことがあった。
その時も私はちょっと拗ねた素振りをしてしまっていて、何も危険視しない、ただの子供で。
私がその時に、もっと深刻になって病院について行ったりしていれば、また違った未来だったかもしれない。
父から最愛の人をとったのも、姉から理想の母をとったのも、私から大好きな母をとったのも私だ。
後悔しても、もう遅い。そんな私には天罰が下る。
次の日にお通夜が開かれた。
家族全員で最後の夜を明かした後、カーテンを開けて、1日の始まりに「天気いいなあ」と口にしたのを覚えている。
母が死んだ当日も次の日もそのまた次の日も、憎たらしいくらいに晴天だった。
お通夜にはたくさんの人が来た。誰に聞いたのかわからないけれど、とにかく、呼んでもいない人が沢山きた。
娘の私が顔を見ても分からない人もいたし、中には、母が「苦手というかできれば関わりたくない」と愚痴をこぼしていたかつてのママ友もいた。
それでも「いや、呼んでないんですけど」なんて言える元気は、残された私たちにはさらさらなかった。
もちろん、「来てくれてありがとう」とも思えなかった。
お通夜が終わり、やっと人がいなくなった。ポツンと部屋の真ん中に一人になった母の隣に、私は一人座った。
眠っているようだった。
この顔を私は何度も見たことがある。いつも呼びかけたらすぐに起きてくれるのが母だった。
私の声が一番のアラームだと言ってくれた時があった。怖い夢を見たり、トイレに行きたくなったり、夜中によく起きる子供だった私にとって、それは安心する言葉だった。
もしかしたら、なんてほんの少しの希望を込めて一度呼んでみたけれど、もう起きてくれなかった。
やっぱり呼ぶんじゃなかったと後悔した。
怒涛の日々の最終日。
お葬式、昨日のお通夜より人が減った。子供達は学校の時間だからか、参列者はママ友がほとんどだった。
涙が枯れ、抜け殻のようになっていた私に、ある人は声をかけてきた。
「大丈夫、ママはいつでもここにいるからね」
眉を下げた表情をしながら、手を胸に当てさせられた。
「ありがとう」とありきたりなことを言えばよかったのだろうけれど、その時はどうしても嘘がつけなかった。
大丈夫なわけがないと何度も心で喋っていたら、結果、善良な心で話しかけてくれたその人に冷たい態度をとってしまった。
火葬場に向かっている車の中、空を見上げているとある事がフラッシュバックしてきた。
母が亡くなった当日の夜、
「どうして気づいてあげられなかったの」
と母が眠っている横で、ある人に怒られたことだ。
末期癌だったと診断された母は、以前から症状があったはずで、身体中が痛かったのを心配をかけたくないから我慢をした。我慢強いお母さんだと医者に言われた事を知ったママ友が、私にそう言った。
どうして気づいてあげられなかったんだろう。
私が一番、母のことを見ていたのに。
真剣に考えてみても、答えが見つからなかった。いつの母を思い出しても、いつも通りの母だったからだ。
ママ友の震えた肉声と変な体の硬直感だけが残って、それは繰り返し再生され、気がついたら火葬場に着いていた。
思ったより早く着いたなと感じ車から降りた時、空調の効いた車内にいたはずなのに、一筋の汗が私の額を辿り、瞳に溜まった涙と共に流れ落ちた。
そして私は、愛する母の肉体を炙るため、鉄の建物に足を踏み入れた。
なんとも言えない感情。
それは屈辱であり、夢の中にいるような、非現実的な感覚だった。
『どうして気づいてあげられなかったの』
この言葉は私の天罰だ。頭から離れることはない、離れてくれない言葉。
私はずっと、この言葉と共に、何度も夜を超えて生きている。
きっと、この先もずっと、それだけは変わらないのだと思う。
朝6時。毎日同じ時間に目覚ましが鳴る。いい夢を見ていたからか目を開けたくない気分。
後5分、このままでいたい。欲を言えばさっきの夢の続きをもう一度見たい。
「起きてってば!ほんとに遅刻するよ!」
母が部屋に入ってきて寝ている私を揺すぶり叩く。
ドアが開く音がしなかったのにいつの間に入ってきていたんだろうと、薄目を開き携帯を見ると、6時15分。私は飛び起きる。
「やば!後15分じゃん!」
「何回も下から呼んだし電話もかけたのに」
「うっそ、全然気づかんかった。6時に一回起きたのにー」
私はぶつぶつと言い訳をしながら制服に着替える。
そんな私を見ながら母は呆れた表情を浮かべ、部屋のカーテンと窓を開ける。
「今日って寒い?」
「結構寒いと思うよ〜」
「じゃあマフラーデビューしよっと」
「カイロも持ってく?」
「うん」
「貼るカイロは?」
「んー、それはいいや」
そんな会話をして、私は急いで階段を降りていく。
顔を洗い口を濯ぎ、ねぐせだらけの髪を整えていると、リビングからパンの焼ける音がする。
「ほら半分くらい食べてって」
「えー時間ない〜」
「後5分あるでしょ、食べないと朝練中お腹空いちゃうよ」
テーブルには半分に切った状態の食パンが置いてあり、私の好きなブルーベリージャムがすでに塗られている。
隣にはお弁当が用意されていて、その横にはカイロが置いてある。
「今日って練習どこって書いてある?」
食パンを頬張りながら、洗い物をしている母に聞くと、母は後ろを振り返り、冷蔵庫に貼ってある一枚の紙を見ながら答える。
これは、高校生になってからの私の朝にはよくある様子だった。
「今日はー、西部だって」
「西部かー、じゃあ接骨院行って帰ってこようかな」
「そうしな〜また時間送っといてお迎えの」
「はーい」
半分しかない食パンは思ったより早く食べ終える。
私は歯磨きをしに洗面所に走って行き、時計を見るともう出ないといけない時間だ。
「やばいやばい!」
これでもかというくらいに急いで歯磨きをしてから、大きなリュックサックを背負うと、母がお弁当箱とカイロを手渡ししてくれる。
「はい、お弁当とカイロ」
カイロはすでに袋から出ていて、制服のポケットに突っ込む。
「ありがと!」
と勢いよく受け取り、振り返りもせずに玄関を出ていく。お母さんは後ろから
「行ってらっしゃーい」
と大きな声で叫ぶ。振り返る余裕がない時でも、私はいつも振り返って手を振る。
これが、忙しなく過ごした高校2年生の秋までの私と母の毎日だった。
・家族旅行にもっと行けばよかった
・もっと写真を撮っておけばよかった
・母の手料理を教えて貰えばよかった
・母の存在をもっと大切にしておけばよかった
・ありがとうとごめんねをもっと素直に言えばよかった
・ちゃんと、もっと、母の事を見ていればよかった
後悔は止まらない。悔しい。悲しい。苦しい。
私はこの先一生、あの怒涛の5日間を忘れないと思う。
自分の母親なのに、亡くなる2日前まで病気に気づいてあげられなかった。
いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
体調が良くないということは数ヶ月前から母が口にしていたので知っていた。
でも、「まさかな…」という気持ちが勝ってしまっていて、
「大丈夫?病院行きなよ〜」
くらいしか言えなかった。
『まさかあのままが病気なわけがない』『だってこんなに元気だし……』
今思うとそう心で思っていた日もあった。
どの病院に行っても、ちゃんとした結果がもらえず、きっと母は不安だったと思う。
それでも家ではいつも通りの姿だったから、私も深刻そうではないなと感じてしまっていた。
急変したのは姉の20歳の誕生日の日。怒涛の5日間の始まり。
その日は私の部活の公式戦で、なかなかレギュラーメンバーになれない私にとっては、チャンスの試合だった。高校でも部活をやるきっかけをくれた両親には必ず見て欲しい、そう心に秘めながら迎えた朝、母はソファーでぐったりしていた。
私が2階から降りてきたのにも気づかず、いつもの母からはありえない姿で、寝ているように横になっていた。
思わず声をかけたら、
「ごめん、今日見に行けないかもしれない」
そう言われてしまった。
その時、まだまだ子供だった私は、事の深刻さにも気づかず、自分の気持ちばかり優先してしまい、見に行けないと言う母に強く当たった。
毎朝玄関まで来て、送り出してくれる母の姿もなく、それにも何だかイライラして、どこにもぶつけれない、やるせない気持ちのまま家を出た。その時父に、怒っている私を宥める言葉をかけられたけれど、その言葉も筒抜けになってしまうくらい、私はモヤモヤしていた。
試合には父が見に来てくれて、いつも母が持っているビデオを手にしている姿を見て、母の体調のことなんて考えずに、来てくれなかったという思いだけが心に残った。
試合が終わった後、いつもならいる父の姿がなかった。
その時も、「え、帰っちゃったの」と勝手に寂しく思って、同時にまたモヤッとした。
今思うと、このモヤッとした気持ちは嫌な予感というものだったような気がする。
でもその時の私は怖くてずっと気づかないふりをしていた。
学校に戻り、練習するために準備をしていた時、父からメッセージと電話が来ていることに気がついた。
震えが止まらなくなって、その日ずっと目を背けていた嫌な予感というものが一気に体を襲ってくる感覚があった。
「ママが倒れたから、今すぐ大学病院に来てほしい」
そう父の声で聞いた時は体に重力を感じ、立っていられなかった。その時の父の声は、一家の大黒柱としてドシっとしている大きな背中のかっこいい父ではなく、今までに聞いたことのないような、動揺している声だったのを覚えている。
『まさかこんなことになるなんて』
まさに私の頭の中にはこの言葉が浮かんでいた。
病院に着いてからは、正直どう過ごしていたか記憶がない。
次に覚えているのは数時間経って母と対面した時の、母の笑顔。
「ごめんね、試合見に行けなくて〜」
そう優しい顔で言われた瞬間、自分が今日、どれだけ子供だったか。胸が張り裂けそうなくらい実感した。
「ごめんね〜びっくりさせちゃって〜」
そう微笑みながら言う母に、今朝の自分の態度について謝った。
そこからは今日の試合の話だったり、得意なボケなんてかましたりすると、母はいつも通りの笑顔で笑ってくれた。
病室に移動してからもずっと、姉も合流し、家族4人で沢山話した。
うる覚えだけれど、途中父か姉が一旦家に帰り、荷物取りに行ったり買い物に行ったような気がする。
そしてもう遅いからと言うことで、帰ることになったものの、ここでも私はとても子供で、母と離れたくないと言い張った。
離れたらどこかへ行ってしまう気がしたから。この笑った顔を見るのが、最後な気がして帰るのを拒んだ。
何も理由はないけれど、なぜかそう思った。でも、母に
「病院にいるんだからもう大丈夫」
そう言われて、渋々帰ることにした。
今日が姉の誕生日だと言うことを正直忘れてしまうくらい、母のことで頭がいっぱいだった。
帰宅すると、昔から家族ぐるみで仲がいい友達が姉の誕生日を祝いに来てくれていた。その日は毎年みたいなお祝いができなかったので、すごくすごく助かったし、その瞬間だけが一日の中で気が抜けた時間だった。これは後から知ったけれど、姉に母から「誕生日なのにごめんね」とメッセージが入っていたそう。
私は母のことで精一杯だったのに、母自身は自分のことよりも姉のことを気にしていたんだと思った。
そして夜中の3時を回ったぐらいの時。父に起こされて急いで病院へ向かった。向かっている車内で、母との別れ際に感じていた気持ちが蘇り、不安で怖くて、また震えが止まらなくなった。
そして祖母が亡くなった時も、こんな感じで急いで車で向かったのを思い出した。
ただ違うのは、車に乗っているのが四人ではなく三人と言うことだけ。あまりにも似ていて、涙すら出なかった。
病院に着くと、初めて見る母の姿があった。
ほんの数時間前まで笑いながら話していたのに、横たわったままで周りには沢山の機械が置いてあり、別室に案内されて病名を明かされました。
【胃の末期癌、ステージ4】
かなり深刻だと言われた。
数ヶ月間色んな病院で検査を受けてそれでも分からなかった病気が、危険な状態になったらこんなにもあっさり分かるなんてあるのかと、私は医者を睨みつけた。
「治療は月曜日からしかできない」
その日は日曜日で、明日からしか治療ができないと言われ、正直混乱していて記憶が曖昧だけれど、「月曜からしか機械が使えない」そう聞かされたと記憶している。
私は勉強が得意ではなく、家族の中では一番のバカだけれど、そんな私でも思った。
月曜からしかできない治療なんてあるのか。
母のように、たまたま土日に急変した患者は月曜まで待たないといけないのか。
その間に命を落としたら、病院側はどう責任を取るのか。
頭の中でたくさん思った。
言葉がたくさん頭に出てきて、でもその言葉を口に出せるほど、冷静ではなく、ずっと混乱していた。あまりにも現実味がなく、私たち家族が今、この状況になっている事がまだ、理解できていなかった。
きっと父も姉も同じ気持ちだったと思う。理解する前に、現実がどんどん進んでいってしまうあの感覚、今でも鮮明に覚えている。
私の家族は4人家族で、いつも賑やか。そんな家族が今までで一番静かな時間を過ごした。各々が、状況を飲み込む時間が必要だった。
日曜日は1日病院で過ごした。
明らかに弱っている母を目の前にして、「いつも通りにしよう」と思い、沢山話しかけた。
母が父に銀行の口座番号を伝えているのを聞いてしまった時は、もう笑うしかなかった。
もうその時には母自身、何かを感じていたのかもしれない。
子供が使うお絵描きのおもちゃに、「ママ大好きだよ」のメッセージと家族4人の似顔絵を一緒に書いた。
絵が得意ではないから、なかなかひどい絵ではあったものの、母に見せるとあの優しい顔で笑ってくれて、「ありがとう」と言って頷いてくれた。そんなことでしか、その時は気持ちを伝える事ができなかった。
次の日から治療が始まるからか、私は少し前向きな気持ちだった。
俗に言う闘病生活というものを、母は今後していくものだと思っていたから、帰り際、
「また明日くるね、おやすみ」
と当たり前の明日を約束した。すると母は小さな声で、
「おやすみ」
と言った。これが私と母が交わした最後の言葉になった。
夜帰宅した後、家にあるパソコンに、「ママの入院日記・一日目」と日記を書いた。
これから毎日書いて元気になった母に見せようと思って始めた。でもそれはその日以来一度も開かれていない。
母がお空に行ったあの日。今日から治療だから大丈夫、学校にはちゃんと行ってほしいと父に言われたので渋々学校に行き、朝練の準備をいつも通りしていた。
チームメイトのみんなにも沢山心配されたけれど「大丈夫」と言い返した。今日から治療が始まるから大丈夫だ、という意味で。
シューズを履いている途中、マネージャーの子がものすごい勢いで体育館に入ってきた。
私の携帯を持っていて、「早く病院行って」と言われ、訳がわからず、震えた体で必死に走り、父と姉が迎えにきてくれていた車に乗って病院へ向かった。
車内では父が、
「さっき急変して、もう危険な状態らしい」
と、私に伝えてきた。そこから、無感情というものを初めて味わい、人間のパニック状態を初めて味わった。
そして車内で流れている曲のある一部分が妙に頭に入ってきたのを覚えている。
「ごめんね、先に行くわね」
この歌詞が妙に母の声で聞こえて、無意識に空を見上げてしまっていたと思う。
病院についてエレベーターに乗っている時、私が母が手作りで作ってくれたお守りを握りしめていたら、父が
「大丈夫、人間はそんな簡単に死なないから」
そう私の手を握りしめてそう言った。
今思うと、不安がっている私に言っているのももちろん、父自身が自分にそう言い聞かせていたのかなと感じる。
急いで母の元に行ったら、もう既に心臓マッサージをされていた。
そこからは泣いて叫んで、乱れ、苦しんだ。
心臓マッサージをしてまた動き出す患者を、ドラマで見たことがあった私は、そうなれる、と何も根拠もなくそう思った。
まだ続けたら大丈夫かもしれない、
まだ姉も私も成人式や結婚式が待っているし、
もっと一緒にお買い物にだって行きたいし、
母には可愛いおばあちゃんになる夢だってあるし、
父ともとっても仲良しだから一緒に歳を取りたいだろうし、
そんなことがものすごいスピードで頭に浮かんだ。
『待って行かないで、置いていかないで、まだ連れていかないで』
そう天国にいる祖母に願い、声をかけたけれど、母は戻って来ない。
まだ間に合う、そう思っていた私を現実に引き戻したのは父の言葉だった。
眠っている母の頬をそっと撫でて、
「愛してるよ」
そう言っておでこにキスをした。その姿を見て、母の人生に終わりが来たんだと悟った。
治療が始まって、日に日に回復して、どれだけ時間がかかっても、当たり前にお家に帰ってくると思っていた。
当たり前に部活の大会を見に来て、卒業式を見に来て、成人袴姿を見てもらって、ウェディングドレス姿を見てもらって、「今日まで育ててくれてありがとう」と涙ながらに伝える日が来ると思っていた。
伝えたいことも伝えられなかった。
「産んでくれて、育ててくれてありがとう」
「ママの子供になれて幸せだったよ」
「来世でもパパと出会って結婚して、おねーちゃんと私を娘にしてね」
しっかりと目を見て、私の言葉で伝えたかった。
原因を後から先生に聞いた時、環境の変化で急激に症状が悪化してしまった可能性がある。そう言われて、私のせいだと思った。
当時私達家族は新築の一軒家に引っ越してまだ4ヶ月で。引っ越しを提案したのも、急かしたのも私だった。
憧れの新築の一軒家に住みたいという、ただそれだけの理由だった。
確かに、引っ越してから母は胸が痛いと、体調が良くないと言うようになっていた。
こんなことになるのなら、あのマンションに住んだままでもいい。ままを返して。そう思うことしか出来なかった。
そして、症状はずっと出ていて、胸や肺の痛みがそうだと言われた。
痛みの症状があることはずっと知っていて、母にもたれかかった時に「痛いからやめて〜」と言われたことがあった。
その時も私はちょっと拗ねた素振りをしてしまっていて、何も危険視しない、ただの子供で。
私がその時に、もっと深刻になって病院について行ったりしていれば、また違った未来だったかもしれない。
父から最愛の人をとったのも、姉から理想の母をとったのも、私から大好きな母をとったのも私だ。
後悔しても、もう遅い。そんな私には天罰が下る。
次の日にお通夜が開かれた。
家族全員で最後の夜を明かした後、カーテンを開けて、1日の始まりに「天気いいなあ」と口にしたのを覚えている。
母が死んだ当日も次の日もそのまた次の日も、憎たらしいくらいに晴天だった。
お通夜にはたくさんの人が来た。誰に聞いたのかわからないけれど、とにかく、呼んでもいない人が沢山きた。
娘の私が顔を見ても分からない人もいたし、中には、母が「苦手というかできれば関わりたくない」と愚痴をこぼしていたかつてのママ友もいた。
それでも「いや、呼んでないんですけど」なんて言える元気は、残された私たちにはさらさらなかった。
もちろん、「来てくれてありがとう」とも思えなかった。
お通夜が終わり、やっと人がいなくなった。ポツンと部屋の真ん中に一人になった母の隣に、私は一人座った。
眠っているようだった。
この顔を私は何度も見たことがある。いつも呼びかけたらすぐに起きてくれるのが母だった。
私の声が一番のアラームだと言ってくれた時があった。怖い夢を見たり、トイレに行きたくなったり、夜中によく起きる子供だった私にとって、それは安心する言葉だった。
もしかしたら、なんてほんの少しの希望を込めて一度呼んでみたけれど、もう起きてくれなかった。
やっぱり呼ぶんじゃなかったと後悔した。
怒涛の日々の最終日。
お葬式、昨日のお通夜より人が減った。子供達は学校の時間だからか、参列者はママ友がほとんどだった。
涙が枯れ、抜け殻のようになっていた私に、ある人は声をかけてきた。
「大丈夫、ママはいつでもここにいるからね」
眉を下げた表情をしながら、手を胸に当てさせられた。
「ありがとう」とありきたりなことを言えばよかったのだろうけれど、その時はどうしても嘘がつけなかった。
大丈夫なわけがないと何度も心で喋っていたら、結果、善良な心で話しかけてくれたその人に冷たい態度をとってしまった。
火葬場に向かっている車の中、空を見上げているとある事がフラッシュバックしてきた。
母が亡くなった当日の夜、
「どうして気づいてあげられなかったの」
と母が眠っている横で、ある人に怒られたことだ。
末期癌だったと診断された母は、以前から症状があったはずで、身体中が痛かったのを心配をかけたくないから我慢をした。我慢強いお母さんだと医者に言われた事を知ったママ友が、私にそう言った。
どうして気づいてあげられなかったんだろう。
私が一番、母のことを見ていたのに。
真剣に考えてみても、答えが見つからなかった。いつの母を思い出しても、いつも通りの母だったからだ。
ママ友の震えた肉声と変な体の硬直感だけが残って、それは繰り返し再生され、気がついたら火葬場に着いていた。
思ったより早く着いたなと感じ車から降りた時、空調の効いた車内にいたはずなのに、一筋の汗が私の額を辿り、瞳に溜まった涙と共に流れ落ちた。
そして私は、愛する母の肉体を炙るため、鉄の建物に足を踏み入れた。
なんとも言えない感情。
それは屈辱であり、夢の中にいるような、非現実的な感覚だった。
『どうして気づいてあげられなかったの』
この言葉は私の天罰だ。頭から離れることはない、離れてくれない言葉。
私はずっと、この言葉と共に、何度も夜を超えて生きている。
きっと、この先もずっと、それだけは変わらないのだと思う。


