1.幼稚園

 幼稚園の年少の頃、私は酷く泣き虫だった。毎朝迎えにくる幼稚園バスに乗ることを拒み、結局母が自転車で送ってくれることばかりだった。
 自転車の母の後ろに乗るのが好きだった。風になびく髪の毛がふわふわしていて可愛かった。背中から安心感が滲み出ていて、風が強い日だって、おしゃべりをしながら幼稚園に向かった。いざ幼稚園に着くと、母と離れることが嫌で、また泣いた。

 とにかく可愛いと言われたくて、運動会でのダンス発表では、必要以上にお尻をプリッと見せたり、両親がどこにいるのかを分かった上で、そちらににっこり笑って見せたり、幼いながらになかなかの策士だった。
 泣いて媚びてのそんな年少だった。

 年中にもなれば、幼稚園が楽しくて仕方なくなった。
 授業参観があると誰よりも両親の方を見て手を振った。
 
 「ほら前向いて」

 と口パクで言われることすら嬉しかった。
 親子で参加するイベントがとにかく好きだった。親子でお芋掘りがあった日、母と一緒に居られるのが嬉しくて、テンションが上がり、調子に乗った私は鉄棒で頭を打った。
 結果、頭に冷えピタを貼って写真に映る羽目になった。それでも楽しさが優った。

 年長になった時のお泊まり保育で、初めて母と離れ離れで寝たあの日のことは今でも覚えている。
 友達と夜まで一緒にいられる楽しさで忘れていたのに、いざ寝る時が来て明かりが暗くなると寂しさのあまり涙が溢れた。みんなに気づかれないように、静かに。
 パジャマの袖で涙を拭って、明日になれば母に会えると何度も言い聞かせた。
 次の日、母が迎えに来てくれて、顔を見ただけで崩れ落ちそうなくらい安心した。

 「寂しくなかった?」

 と聞かれて、

 「寂しくなかったよ」

 と強がった。その時もなんだか泣きそうになった。




 2.小学校

 小学生になると、一日のほとんどを学校で過ごして、家に帰ると今日あった出来事を話すのが日課だった。
 キッチンに立っている母に毎日「今日は〇〇があってね」と些細なことまで話した。

 「そう言う所は、幼稚園の頃から変わらないね」

 と頭を撫でられたこともあったくらいに、泣き虫だった子はおしゃべりな子になっていた。
 母の料理をしている姿が大好きで、意味もなく一緒にキッチンに立ったり、つまみ食いをした。

 「こら〜」

 と怒られても、

 「へへへ」

 と笑って返した。
 
 ある日、男の子たちに意地悪をされた。
 悔しくて悔しくて、泣きたかったけど奥歯を噛み締めて我慢した。もう泣き虫は卒業したからだ。
 家までの一本道を拳に力を入れて歩いた。家のドアを開けると、玄関まで迎えに来てくれるいつも通りの母の姿があった。母の顔を見た瞬間、拳に入っていた力は抜け、奥歯を噛み締めていた力も緩み、全力で泣いた。
 母の膝に座り、抱きしめられ背中を撫でられる。ヒクヒクと喉を痙攣させながら、拙い言葉で出来事を話す。母は、

 「そう、そんな事があったんだね」

 と全て受け止めてくれる。
 夕飯の準備が途中でも、洗濯物を畳む作業が途中でも、何もかも置いて、私と向き合ってくれる。そんな母にいつも救われた。
 友達と上手くいかなかった時も、いつもそうしてくれた。姉とは違い、母の膝の上にはよくお世話になった。
 外で泣かない分、母の前でよく泣いた。背中を撫でる母の手のひらはやっぱり魔法のようだった。

 家の近くにできた雑貨屋さんに、遊びの帰りに寄って、誕生日プレゼントを買った。
 少ないお小遣いの中で買うには選びきれず時間がかかってしまい、5時の鐘をお店の中で聞いた。
 「早く帰らなきゃ」と思ったのと同時に、「プレゼント買って帰るんだから怒られないだろう、むしろ喜んでくれるんじゃないだろうか」なんて浅はかな事を思った。
 悩みに悩んで、小さなガラスのグラスに四葉のクローバーが一つ入った置き物にした。この小さい感じと、四葉のクローバーが母らしいと思ったからだ。足取りも軽く家に帰ると、母に酷く怒られた。

 「何時だと思ってるの」

 と言われ、最悪だった。プレゼントを渡すタイミングを失い、不貞腐れながら

 「ごめんなさい」

 と謝った上で、

 「プレゼント買ってて遅くなったの」

 と終いには、吐き捨てるようにプレゼントを渡した。こんなつもりじゃなかったのにと、自分の布団に包まりながら泣いた。
 しばらくして母が部屋に入ってきて、

 「プレゼントありがとう、嬉しい。でもね、帰ってくる時間が遅くなってまで買ってきて欲しいとは思わない。帰りが遅いと、危ないから言ってるんだよ」

 と今度は優しい口調で注意を受けた。私も今度は素直な気持ちで

 「ごめんなさい」

 と謝り、その後はいつも通り仲良く夕食を食べた。


 小学3年生の頃、学校に行けなくなった。理由は友達からのいじめ、男の子たちからの意地悪。
 ただ順番が回ってきただけのいじめだったけれど、なかなかにきつかった。特に大きな事をされたとかではない。だんだんとじわじわと攻めてくる感じだった。その出来事のほとんどを今は忘れているから、大したことではなかったんだろうけれど、教室に行ってもすぐ保健室に行きたくなって、頭が痛いと嘘をついたことは覚えている。
 母が自転車で迎えにきてくれて、歩いて一緒に帰る。そんな毎日を過ごしていた。
 だから私は東日本大震災が起こった時、母と二人で家の中にいた。震源から遠く離れた私達の家までかなり揺れて、飼っていた魚の水槽の水が飛び散った。外に飛び出てしまった魚を素手で捕まえて、

 「バケツ取ってきてー!」

 と私に向かって大きく叫ぶ母の姿は今でも鮮明に残っている。
 そんな生活をしていたのに、母は私を全く攻めなかった。行きたくないなら行かなくていいと言った。休んだ日は一緒に映画を見た。母の左側にくっついてみる映画は、普段見ている時よりも何倍も幸せな気持ちになった。

 
 学年が上がると、自然とまた学校に行くようになった。友達付き合いにも苦労しなくなり、学校に行きたいと思うようになった。
 特別母と話したことはなかったけれど、母には心配をかけたと思う。普通の小学生になれてきっと安心しただろうとも思う。

 高学年になり、背が高く明るくて華奢な女の子になった。放課後は毎日友達と遊び、サッカーをして体を動かしたり、駄菓子屋でお菓子を食べた。それでも家に帰ったら、そのことを細かく母に話すことは変わっていなかった。
 好きな子の話も一緒にした。恋愛の話が特に盛り上がった。


 小学6年生の頃、私に初めてのアレが来た。
 トイレに行くと、下着が真っ赤に染まっていて、私は叫んだ。

 「ままー!!やばい!血!」

 私の叫びに慌てた足取りで扉を開けた母は、安心した顔をして、

 「これはね、女の子が通る道なの、安心してね。ちょっと早い気がするけど、病気じゃないからね」

 そう言って沢山知識を教えてくれた。
 その日、殺人事件の現場のような血の量に、私は『女の人』になるのはこんなにも大変なんだと思い知った。



3.中学校

 背が高くて、小学生の頃から「頼れるお姉さん」になっていた私は、班長や学級委員、応援団、議員などの役職に就くようになった。めんどくさいなぁと思う時がほとんどだったけれど、期待には答えたいし、それが私の居場所だった。

 部活動に入り、中学2年生で先輩たちが引退した後、私は部長になった。学校外のクラブチームにも入ってバスケと向き合った。
 クラブチームの送り迎えはいつも母がしてくれた。私はその道中が大好きで、母と一緒に歌を歌ったり、その日の出来事を話す時間が大切だった。
 スランプに陥り、何もかも手放したい時があった。
 大好きだったバスケもやりたくない、どうせ失敗するんだと落ち込んでいた時、母にこう言われた。

 「辞めたいなら、辞めなさい。無理して続けることはないよ」

 それは優しさの言葉だけれど、私は突き放されたと思った。
 私は、「頑張りなさい」と言われるんだと思っていたからだ。「簡単に辞めたらこの先何も続かないよ」とありふれた綺麗事を言われるのだと思っていたのに、母は正反対のことを言った。

 その瞬間、辞めちゃダメだなと思った。今思うと、私がこう感じるのが分かっていて、母は「辞めたいなら、辞めなさい」と言ったのではないかと思う。流石母親、流石魔法使い。あっぱれとしか言いようがない。

 中学生になっても、授業参観が大好きだった。
 いつもすっぴんで眉毛を描くだけの母が、少しだけおめかしをするからだ。いつも可愛いけれど、その日は特別可愛くなる。唇が赤くなって、眼鏡を外す時もある。
 母を見つけると大きく手を振って一緒に教室に入る。
 授業中、何度も振り返りたくなる。「頼れるお姉さん」なのに……と思いながらも我慢しきれず何回か振り返って、やっぱり口パクで「前向いて」と言われた。
 それがなんだか嬉しくて、クスクス笑う。幼稚園の頃から何も変わっていないなと、我ながら呆れるくらい楽しくて、嬉しかった。

 そして私は中学の3年間の中で、よく忘れ物をして母に電話をかけた。学校に置いてあるダイヤル式の電話。

 「もしもし、望月です〜」

 母の外行きの声。いつもより高くて、いつもより明るい。

 「あ、もしもし、凪だけど」
 「え?凪ちゃん?どうしたの」
 「家庭科の宿題、忘れた……持ってきてくれる?」
 「んもーーー!昨日あんなに入れときなさいって言ったのに〜」
 「ごめん……しかも次の時間なの」
 「次って、今お昼時間でしょ?後30分もないじゃない」
 「そう、持って来れたらで大丈夫なんだけど……」
 「分かった。下駄箱入れとくね」
 「ごめん、ありがとう」

 休み時間が終わる頃、下駄箱に行くとちゃんと届いていた。
 なんてことが、本当に何回もあって、母には苦労かけたと思う。忘れるのはいつも宿題だけではなくて……

 「あ、鍵忘れた」

 いつも気がつくのは放課後で、中学校の近くでパートをしていた母の職場に行き、初めて鍵を忘れた時は、どこから入ったらいいか分からず、その場で、

 「ままーーーーー!!!!」

 と叫んだ。今思うと、よくそんなことが出来たなと自分にも驚くくらい。
 あの時は本当に怖い物知らずで、母も相当慌てた様子で窓から、

 「ちょっと!静かにして!!!」

 と怒られた。次からはここの部屋に来ることと教えられた場所で、待ち伏せして驚かしたこともある。
 母の聞いたことのない驚いた声にケタケタ笑ったりして、本当、どうしようもない娘だったと思う。

 中学生の頃の私は、母と過ごす毎日が当たり前に続いていくと思っていた。
 しかも、永遠に続いていくと、なぜかそう確信があった。
 理由は一つ。
 母との別れなんて、一ミリも想像したことがなかったからだ。
 無償にもらっていた愛が、無限に続くと、信じて疑わなかった。