そして、季節が巡り、また夏がやってきた。
「皆さん、おはようございます。いよいよ今日、七月六日は、この聖川市にとって新たな門出となります。以前から発表のあった白瀬グループと天宮ホテルが一つとなり、聖川ホテルとして生まれ変わります」
 結婚式前日、美琴と飛鳥のホテルが合併した。街はお祝いムード一色の様子で、地元のニュース番組もずっとこの話題で持ちきりだった。
「聖川市に一つの大きなホテルが完成するということで、より多くの人々がこの街に訪れることが期待され……」
 僕はラジオを切った。毎朝、彼女と僕の共通点だったラジオを聴くことが日課となっていたけれど、今日だけは聴く気になれなかった。
 彼女と連絡を絶ったクリスマスの日以来、何だか僕の身体はずっと重たいままだ。
「シャキッとしろ、自分」
 もう一度顔を洗って、僕は仕事に向かった。

 外に出ると、聖川ホテル誕生の話題があちこちで飛び交っており、今まで見たことのないくらい活気づいていた。それはまるで、聖川市民にとって、一番大切な日と言わんばかりの賑わいぶりだった。
 僕にとっては、今日という日よりも、人生で最も重大な決断をした、あのクリスマスイブの日の方がよっぽど大切で、これから先、何があっても忘れることはない。
 でも、周りの人たちにとって、去年のクリスマスイブは、何の変哲もない一日でしかなくて、約半年たった今、振り返ってみても、イルミネーションが綺麗だったなとか、大切な人と過ごせて良かったとか、そういったごく普通の感情しか残っていないことだろう。特に、聖川市民にしてみれば、毎年代わり映えのないクリスマスよりも、今日の方が大いに盛り上がって当然なわけであって、もちろん一番ではないにしても、記憶に残り続ける瞬間であることに間違いはない。
 そんな、世間の話題に対する反響や盛り上がり方というものは、時として時代の流れを感じさせるほど、日々激しく移ろいを見せているが、僕の時間は、あのクリスマスイブの日から止まったままだ。
 誰かが、「時間よ、このまま止まってくれ」と思っても、今僕たちが生きている、この世界の時間の流れが止まることはなく、今日もまた、淡々と仕事をこなし、気がつけば一日が終わろうとしている。
 でも、いくら時計の針が進もうとも、僕の心の中の時間は、少しも進んでいる感じがしなくて、まるで僕だけがクリスマスイブに取り残されたような、そんな錯覚に陥っている。
 アインシュタインが「時間の進み方は、人によって異なる」と言っていたと聞くが、まさにその言葉どおりだな、などと、相対性理論もよくわからず、きっと間違っているであろう解釈の下で、妙に納得してしまっている自分がいる。
 いつかまた、僕の心の中にある時計の針も、動き出すときが来るのだろうか。少なくとも、この半年間は、そういった気配は全くない。
「はぁ……」
 帰宅してすぐ、僕はベッドの上に転がり込んだ。なぜだろう、今日は一段と、心身ともに疲れ切っているように感じる。
「今、何時だ?」
 時計を見ると、もうすでに日付が変わろうとしていた。今日は七月六日で、明日は七日……。そういえば、明日は美琴の誕生日か。聖川ホテルは今日、合併して開業、そして次の日に美琴と飛鳥の結婚式。僕にとっては、なんとも耐え難い現実だ。
 こんなことを考えていても仕方がない。もう今日はこのまま、目覚ましもかけずに、眠りにつこう。どうせ明日は土曜日で、仕事も休みだ。
 気持ちを切り替えようとしながらも、どこかスッキリとしない気分で、僕は眠りについた。
 そして、次の日の朝。部屋のインターホンが鳴った。

 飛鳥と分かれてからの帰り道。夕方五時のチャイムが、街中に響き渡る。
 金沢令央のラジオが始まる時間だな。僕は、ポケットからラジオとイヤホンを取り出した。
「皆さん、こんばんは、金沢令央です。一日限りではございますが、またこの場所に戻ってくることができて、本当に嬉しく思っています。これもひとえに、皆様の熱い応援のお陰です」
 そういえば、このラジオは美琴との共通の趣味だったな。
 そのことを知ってすぐに、番組が終わってしまったけれど、メッセージアプリで、美琴と彼のラジオの話題を頻繁に話していた。
「僕はずっとラブストーリーが嫌いでした。いわゆるハッピーエンドの形で終わることが多いですが、でも二人の物語はそこから始まるのであって、そこで終わりじゃない。
 結婚報道とかでも、よくゴールインなんて表現が使われますが、むしろそれがスタート地点ですよね。作品は終わっても、物語は続いていく。なのに、どうして付き合うことになったら、ハッピーエンドとして、そこで終わってしまうんだろうって。
 もちろんそれは、恋愛作品に限った話ではなく、この世に生み出される創作物すべてに、どうしても結末が設定されてしまい、そこから先の物語は見ている人に託されることになります。個人的には、テレビで富士山登頂後に下山する話が放送されないのと同じで、続きのストーリーを描いても面白みが出ないから、なのかなと思っていますが……」

 部屋に戻ってくると、扉の前で一人の男性が立っていた。ラジオはまだ途中だったが、イヤホンを耳から外すと、その人が声を掛けてきた。
「久しぶりだね」
 それは、美琴のお父さんだった。
「式場の方は、大丈夫なんですか? それに娘さんのことも……」
「あぁ、そっちは今、飛鳥くんのご両親が対応してくれているからね。娘も大丈夫だよ」
「でも、どうしてここに?」
「今日は君に大事な話があってね」
 部屋に入って、お茶を用意した。美琴のお父さんは、それを一口飲むと、僕に向かって土下座で謝罪をし始めた。
「本当に、申し訳なかった。実は今回、美琴が失踪したのは、すべて私のせいなんだ」
「土下座なんて、やめてください。一体どういうことなんですか?」
「一昨年の事故の日、私は美琴に怪我をさせた相手に会ったんだ。本来ならば、そこで彼に自首をするように促すべきだった。でも、私は彼の両親とともに、事故の真相を揉み消すように働きかけたんだ」
 なんで、そんなことを……、そう聞く必要もなかった。
 美琴のお父さんも、社会の中で生きていくうえで、そうせざるを得ない状況に追い込まれてしまったということはすぐにわかった。けれど、聖川署のトップまで務め、今は市長である人物が、そのような行動に出てしまったことは、本当にショックでしかなかった。
「私はこれまでずっと、君や美琴、そして聖川の人々を欺いてしまっていた。君のお父さんは、最後まで正義を貫いたというのに……。記念式典での事故の日、君のお父さんは、式典に呼ばれて来たわけじゃなかった。あの日は私のところにやって来て、もう市民の人たちを欺くようなことはやめて、早く手抜き工事の事実を世間に公表すべきだって、言ってきたんだ。そんな彼の言葉も聞かずに半ば門前払いしてしまったが、その数分後に、鉄筋が美琴の近くに落ちてきて……」
「そ、そんな……」
「君のお父さんは、最後まで正義を貫いただけではなく、美琴のことまで助けてくれた。それなのに私は、またあのときと同じ過ちを……。本当に申し訳なかった」
 美琴のお父さんはまた、僕に土下座をしてきた。だが、僕は先ほどの話にかなりのショックを受けてしまったため、それを止める気力が残っていなかった。
「それと、今日ここへ来たのにはもう一つ理由がある」
 そう言って、美琴のお父さんがスーツの懐から取り出したのは、一通の封筒だった。
『鷲翔へ』
 それは、一目でわかる、特徴的な字だった。
「これを、美琴から預かって来たんだ」
 僕はその封筒を受け取るや否や、慌てて封を破り、中に入っていた手紙を開いて読み始めた。

   鷲翔へ
 急にいなくなってしまって、ごめんなさい。あと、手紙もありがとう。遅くなってしまったけど、これはあのときの返事です。
 今回、私が姿を消したのは、自らの意思です。私自身が逃げ出したいと思ったから、こんな行動に出ています。
 鷲翔だけじゃなく、みんなに心配をかけてしまっているということは、十分に理解しています。でも、私たちには一度立ち止まって考える時間が必要だと思いました。
 これまでの私は、今自分が置かれている状況を憂い、どうにかしてこの苦しみから脱出できないかと、その答えばかり探していました。
 でも、歳を重ねていくにつれて、これまで以上に、思い通りにならないことが増えていって、自分や周りの人たちを悲しませないようにと、ウソをつくことも増えていきました。
 こんな人間のままで、本当に良いのだろうかと、ずっと疑問に思いつつも、これが大人になるということなんだと、自らに言い聞かせてきました。
 そして、気がつけば、私は私を見失っていて、自分は何を目標にして、なぜ今も生きているのかと、自問自答の日々を過ごしていました。
 でも、出口の見えないトンネルの中を歩いていた私に、鷲翔が一筋の光を差し込んでくれました。
 鷲翔との「七夕クリスマスの会」を通じて、私は、大人になるということを勘違いしていたのかもしれない、ということに気がつきました。
 それは決して、うまくいかないことがあれば我慢をする、ということではなくて、自らの素直な気持ちと、ちゃんと向き合えるかどうかが問われているのだと、今になって思い始めています。
 私たちの多くは、どうしようもできない現実に直面して、仕方がないと諦めて、自分の理想に蓋をしてしまいがちです。
 でもそれは、返って自らの首を絞め、苦しめることにしかなりません。
 よく、「自分ではない誰かの心を動かすことは難しい」と言われますが、金沢令央さんも仰っていた通り、人の心を動かすことよりも、自らの思いを無理やり捻じ曲げて、変えようとすることの方がよっぽど難しいです。
 私は、とにかく自分の気持ちに見て見ぬふりを続けてきましたが、鷲翔のおかげで、私も自由に生きていいんだと思えるようになりました。
 とは言っても、これ以上、私のわがままに鷲翔を巻き込むわけにはいきません。鷲翔には、鷲翔の人生を歩んでいって欲しいから。
 この六年間、毎年クリスマスイブに付き合わせてしまって、本当にごめんなさい。
 それと、もう一つ謝りたいことがあります。
 テーマパークに行ったとき、これからはウソをつかない、と約束をしたことがあったと思います。でも、私はずっと、人生最大のウソをついてしまっていました。
 私、天宮美琴は、夜野鷲翔くんのことが、世界で一番大好きだということです。
 あのときの約束、守れなくてごめんなさい。あーあ、鷲翔にハリセンボン飲まされちゃうなぁ、私(笑)。
 こんな拙い文章を、最後まで読んでくれてありがとね。
                                                     天宮美琴

P.S.
 これまで撮った写真も、一緒に入れておくね。

 封筒の中には手紙とともに、これまでの七夕クリスマスの会で撮った、僕と彼女の写真が入っていた。
 誕生日ケーキを作ったとき、美琴の部屋の飾り付けをしたとき、テーマパークに行ったとき、天体観測をしたとき、東京で観覧車に乗ったとき……。
 一枚ずつめくっていき、最後の写真になった。去年のクリスマスイブに、もう二人で会うことはしないと決めた、食事の後に撮ったものだ。
 二人とも、酔っぱらって顔が真っ赤になっていたけれど、そこには確かに、世界で一番大切な人の、とびっきりの笑顔が写っていた。
 僕って、本当にバカ野郎だな。
 手紙を読みながら、大量に涙を流していた自分のバカさ加減に、うんざりした。
 なんで、自分の気持ちにウソをついて、美琴との関係を終わらせようとしてしまっていたのだろう。世界で一番大切な人のことは、どんな理由があったとしても、最後の最後まで諦めちゃいけないのに。
 そんな当たり前のことに、今の今まで気づいていなかった自分は、本当に大バカ野郎だ。
「鷲翔くん、今さらこんなお願いを私からしてしまって申し訳ないが、美琴のことをお願いできないだろうか」
 美琴のお父さんが土下座をしながら、そう僕に言ってきた。
 僕は、部屋のど真ん中で、天を仰ぎながら、涙を拭いた。
「すみません、ちょっと俺、運命に抗ってきます」
 僕は、美琴のお父さんにそう伝え、机の上に部屋の鍵を残して、部屋を飛び出した。そして、急いで靴を履き、玄関の扉を開け、走り出した。

 その頃、降七山に、警察の姿があった。
「霜山警部補、例の車、見つかりました!」
「白のスポーツカー、ナンバーも一致しているし、これに間違いないわ。中を調べて、早く令状を!」
「はい!」
 数時間前、聖川署宛てに、一通の封筒が届いた。中身を開けると、一枚の紙と腕時計の針が出てきた。そして、紙には一言、「全ての答えは、降七山にある」とだけ書かれていた。
 朱鷺羽には、その奇妙な手紙の送り主が、すぐにわかった。自らがずっと傍に立って守り続けてきた存在であり、そして密かにライバル視していた人物の字だったからだ。
「ったく、やっと心決めたのか……」
 朱鷺羽は一抹の寂しさを感じながらも、どこかスッキリしたような顔をして、胸元についていた監視カメラを指で押し潰した。

「私、金沢令央がお送りしている一夜限りの特別番組も、お別れの時間が近づいていますが、最後に一つだけ話をさせてください。
 三年前のクリスマスイブの日、私は自身のラジオ番組が終わることを皆さまに伝えさせていただきました。そのとき私は、人生における選択についての話をしたかと思います。
 ラブストーリーにしても、その他の種類の話にしても、架空の物語には結末が存在しますが、現実では最期を迎えない限り、人生は続いていく。現実を生きる僕たちは、主人公の二人が付き合うことになったとして、そこから二人の物語はどのように続いていくのかについても知りたいのに、物語が結末を迎えた以上、その先は見てくださった人のご想像にお任せします、という形で投げられてしまいます。
 私は、人生の分岐点で難しい選択を迫られつつも、それを乗り越えて生きていかなければならない皆さんの、心の支えになりたいと思い、この仕事を始めました。しかし、それぞれの作品の決められた時間の中でしか、メッセージを届けることができない、ということに、ずっともどかしさを感じてきました。
 結局、僕たちは、決断を迫られた際、誰かの言葉や何かの作品のメッセージを参考にすることはあっても、最終的には自分自身で決めなければならない、それは決して変えることのできない事実です。
 でも、僕たちがどんな選択をして、それがいかなる結果を生み出すことになったとしても、生きている限り、必ず人生という物語はその後も紡がれていきます。
 なので、私はいち表現者として、自分の思う最良の選択をすれば、少なくとも何かしらの結果を得ることができる、だから決断時の悩みや葛藤すらも楽しんで乗り越えていってほしい、ということを、作品を通じて伝えていければと思っています。
 今夜は私のラジオを聴いて下さり、本当にありがとうございました。またどこかでお会いしましょう、さようなら」

「ハァハァ……」
 結婚式場まで走ってきたが、彼女の姿は見当たらない。それどころか、月明かりの下には、もう誰の姿も見えなかった、ただ一人を除いては。
「俺さ、いつもテレビで、誰かが捕まった映像を見る度に思うんだ。僕とこの人ってそんなに違いあるのかなって」
 僕は息を整えてから、そいつに話しかけ始めた。
「もちろん、警察に捕まるということは、何かいけないことをやらかしたってことで、一方の僕はそうじゃない。でも、ふとした拍子で僕も同じような行動をとっていたかもしれない。そう考えると、本当にボーダーラインの際どい所に、僕もこの人たちもいるんだろうなって」
 話を進めながら、前へと進めていた足を止めた。暗闇の中で見えづらかった顔がはっきりと見える位置で立ち止まった。
「そう、俺とお前のように、だ」
 予想通り、そこにいたのは、僕がよく知っている人物だった。
「なあ、お前もそう思わないか、飛鳥」
 飛鳥が、式場の一番前の席に座っていた。
「フッ、どうしてここに?」
「美琴を探しに、とりあえずこの式場に来てみたんだが、やっぱりお前しかいなかったか」
「まるで俺がここにいることを知っていたかのような言い方だな。美琴に会う前に、俺に話をしに来たのか?」
「あぁ、そうだ。もうそろそろ、はっきりさせておこうと思ってな」
 そこで息を大きく吐き、一呼吸置いた。自らが辿り着いた真実を、確かめるために。
「爆破予告とひき逃げ事件、両方ともお前がやったんだな?」
 僕だって、ウソだと思いたかった。でも、これを直接飛鳥に確かめられるのは、僕しかいない。だから、全てにケリをつけるために、ここへやって来た。
「さすがだな。どこでわかった?」
 飛鳥が、認めた。
 その事実に、様々な感情が心の中で湧き出してきたが、グッとこらえた。
「竜頭、って言うらしいな、これ」
 僕は、ネジのような部品を懐から取り出し、飛鳥に見せた。
「事故のとき、気づいたらこれがポケットに入ってたんだよ。あの日病院に来たとき、お前はいつもの腕時計をしていなかった。僕も不思議には思っていたが、慌てて家を飛び出してきたから、つけ忘れたんだろうと思っていた。でも後から気づいたんだ、これはお前の時計から取れた部品だった、ということに」
 そう、事故のとき、運転席の窓は開いていた。飛鳥がその場から逃げようとハンドルを切った際、窓の縁に腕時計をぶつけて、その衝動で時計がバラバラになったんだ。
「それだけじゃない。どうしてあのとき、僕と彼女が一緒にいることを知ってたんだ? お前には、美琴が事故に遭って怪我をしたことしか伝わっていなかったはずなのに」
 飛鳥が病院に駆け込んできたとき、僕への第一声は「どうしてお前が美琴と一緒にいた?」だった。でも、事故の際、僕が彼女と一緒にいたことは、警察を除けば誰も知らなかったはずなのに、彼はそのことを知っていた。
「そう、それは飛鳥が事故の犯人だから、知り得た事実なんだって気づいたんだよ」
 僕がそう言うと、彼は深呼吸をした。
「ハハッ、まさか時計に足をすくわれるなんてな。あのとき外れた部品は、それだけじゃない。時計はすべて粉々になっちまったから、病院にはつけて行くことができなかったんだ」
「なんで、なんでこんなこと、しちまったんだよ……」
 自分の声が、明らかに枯れている。知りたくなかった事実が次々と明るみになっていき、僕は動揺を隠しきれなかった。
「本当に自分が美琴に車をぶつけてしまったのか、確認しようとして、車の窓を開けた。そしたら、頭から血を流して倒れている彼女の姿が見えた。俺はなんてことをしてしまったんだって、パニックになって、慌てて窓を閉めてハンドルを切った。そのときに時計が引っかかって、部品がバラバラになったんだ。時計も、美琴のことも、傷つけるつもりなんてなかったのにな」
 やっぱり、飛鳥の狙いは初めから……。
「本当は鷲翔、お前を轢こうとしたんだよ。自分でもなぜそんな行動に出たのか、今でもよくわからない。けど、お前と美琴が一緒にいる姿を見たら、不意に怒りが込み上げてきて……、衝動的な感情だった。気づいたら、俺はお前に向かって車をぶつけようとしていた」
 結果的に車に轢かれたのが美琴だったから、僕も勘違いをしていたけれど、事故が起きたとき、あの横断歩道を渡ろうとしていたのは僕であって、車は僕に向かってぶつかってきたんだ。
 それが意図的だったのか、偶然だったのかはわからないままだったけれど、意図的なのだとすれば、そうした行為に出る人物は一人しか思い浮かばなかった。
「その後、病院でお前を見たとき、震えが止まらなかった。俺は、こいつを殺そうとしたんだよな、って急に怖くなった。鷲翔を殴ることで、その怖さを取っ払おうとした」
 飛鳥が僕にそうした感情を抱いた理由は、もう十分わかっている。僕も飛鳥も、同じ人のことを愛してしまったからなんだって。
「鷲翔の言う通り、俺らって、実は隣り合わせなのかもしれないな。幼い頃から、美琴と三人で、ずっと同じ時間を過ごしてきて……。でも、俺とお前は何年も隣にいたのに、今ではもう、その間に大きくて太いラインが横たわっているんだよな」
「あぁ。お前は、自分からその一線を越えてしまったんだ。絶対に、何があっても越えてはいけなかったのに」
 僕は語気を強めて、飛鳥に言い放った。
「でも、ラインを越えたという意味では、僕も同じなんだろうな。一年に一度だけではあったけど、婚約者のいる美琴とともに二人だけで同じ時間を過ごしたというのは、社会通念上、許されることじゃないし、それで飛鳥のことも傷つけてしまった」
 飛鳥は僕の言葉に首を振った。
「いや、俺と美琴の婚約は親どうしが勝手に決めたことだし、そうなるように仕向けたのは俺自身だ。だから、鷲翔は何も悪くないし、彼女が本当に一緒にいたいと思える人と過ごすことの方が正解だったんだ……。あーあ、ボクは一体どこで間違えてしまったんだろうなぁ」
 飛鳥はクシャクシャになった顔に流れる涙を、手で拭った。それでも、彼の涙は次から次へと溢れ出ていた。
「恋愛って一つの壮大な物語で、物語には始まりがあって、始まりがあると、必ず終わりもやってくる。でも、俺の考えていた物語の結末はこんな形じゃなかった。自分が主人公として、ハッピーエンドを迎えるはずだったのに、実際には脇役でバッドエンドだった……。俺はお前と彼女の物語の悪役だったんだな、初めからずっと」
「そんなんじゃねぇよ。仮にバッドエンドを迎えることになったとしても、全力で立ち向かって、自分だけの物語を作っていくために必死にもがいて、努力したヤツこそが、きっと本当の正解なんだろうぜ。そういった意味では、あまりにも未熟すぎたんだよ、俺もお前も」
 飛鳥は否定したけれど、僕も一線を越えてしまったのは、やっぱりあまりにも早く大人になろうとしすぎたからなんだろうなと、今では思う。
「俺たち、ずっと三人で笑い合っていたかったのにな……。けど、今となってはもう、それも叶わない夢になっちまった」
 昔のままでいることができれば、どんなに良かっただろう。まだ何も知らない、純粋な心のままでいられたら、ただひたすらに前に向かって走り続けられたのかもしれない。でも、現実を知って、周りの様子を窺って、自分の気持ちにウソをついたり、願いを叶えるために誰かを傷つけてしまったり……。
 それで、結局こんなエンディングを迎えてしまっては、元も子もない。こうなってしまった以上は、もう……。
「この騒動に区切りをつける」
 飛鳥が言った。
「きっと今頃、美琴と俺の両親たちも覚悟を決めているところだと思う。おそらく警察も証拠を捕まえに動いているはずだ。だから俺も、この騒動を終わらせなければならない。だから鷲翔も、行くべき場所に向かえ」
「わかった。でも、その場所がなかなか見つけられないんだ」
「その答えは、お前らだけが知っている場所なんじゃないか?」
「僕と美琴だけが知っている場所……」
 今、この日、この時間に、彼女が待っているとしたら……。
〝いつか二人で見てみたい〟
 美琴の言葉が脳内にフラッシュバックしてきた。
「そうか……。ありがとう、飛鳥」
 僕は彼に背を向けて、走り出した。
「バカ野郎、俺はお前らに、散々酷いことをしてきたってのによ」
 式場のドアが開く。差し込んできた月の光に、飛鳥の涙が照らされた。
「月が綺麗だな。ここからは見えないけれど、きっと星も美しく輝いているんだろう、アイツの進む未来のように」

「突然ですが、これから聖川市の天宮市長が緊急記者会見を開くということで、その模様を速報でお伝えいたします。あっ、ちょうど今、市長が報道陣の前に姿を現しました。それにもう一人、えー、市長の会見のはずですが、聖川ホテルの社長である白瀬氏も、続いて入ってきました。大勢の市民が見守る中で、一体どのような発表がなされるのでしょうか」
 街中のテレビに、市長の会見が臨時の生中継として流れる。
「皆様、お集まりいただき、ありがとうございます。本日は他でもなく、私たちの犯した過ちについてお話をさせていただくため、このような場を設けさせていただきました。そのお話に先駆けまして、私は市長の職をここに辞することといたしました」
 市長の突然の発表に、会場全体がざわつく。「辞意表明」のテロップが出るのも二、三歩遅れたほど、その一言目は市民にとって衝撃だった。
 市長は話を続ける。
「私は、ある青年に大変な迷惑をかけてしまいました。まずは、その彼にこの場で謝罪をさせていただきたいと思います」
 そう、あれはちょうど、美琴ちゃんの両親と私たち夫婦、四人でお茶をしていたときだった。
 飛鳥が何も言わずに、ただひたすら泣きながらウチに帰ってきた。白い車体に大きな傷がついた彼のスポーツカーを見て、私は悟った。
 息子は事故を起こしたのだ、と。
 それも、きっと飛鳥がよく知っている人、いや、それ以上に愛している人を傷つけてしまったのだと、直感的にそう思った。
 それからしばらく経った後、やはり美琴ちゃんが病院に運ばれたとの連絡が入った。
 その知らせを受けたとき、飛鳥だけでなく、私と妻も完全に気を取り乱してしまった。
「飛鳥がやったんじゃないわ」
 妻がそう言い出した。
「そうよ、飛鳥じゃない。私の息子がそんなことをするわけないわ」
 私たちは、事故の痕跡を隠す決断をした。
 やってはならないことだと分かっていた。でも、正気を失った私に、自らも過ちを犯すことを止めることはできなかった。
 そして気がつけば、街の人たちは皆、飛鳥ではなく「彼」が犯人であるという噂を信じ込み、いつしかそれが、さも事実であるかのような風潮になっていった。
 私もそんな噂に踊らされ、いつの間にか、本当に「彼」が悪者である、と自らに言い聞かせるようになってしまった。少し昔の私のままだったら、絶対にこんなことはしなかっただろう。
 そして、つい先ほど飛鳥から、脅迫事件も自分がやった、これからすべてのケジメをつけてくる、という話があった。なんとなく、それもわかっていたことだが、私ももう現実から逃げてはいけない、このままではアイツに顔向けできなくなる、そう思った。
 美琴を、私の娘を、アイツは二度も救ってくれたのに、私は美琴のことを何度も苦しめてしまった……。娘の心を、殺してしまったのだ。
 そんな私を変えてくれたのは、奇しくもアイツの息子である「彼」だ。

 市長の会見速報が流れていた駅前の大型ビジョンには、多くの人の視線が注がれていた。そんな光景を横目に、鷲翔は美琴の元へと走った。

 僕は、ずっと前を向くことができなかった。
 それは、君と過ごした時間が、あまりにも眩しすぎたから。高校を卒業して、少しずつ君と会える時間が少なくなっていって、気づけば僕は、前に進むことが怖くなっていた。
 君のいない世界は、まるで自分の時間だけが止まったかのような不思議な感覚で、僕自身がどこに向かっているのかわからなくなって、いつの間にか自分を見失っていた。
 本当は最初からわかっていたのに、ずっと自分の気持ちに噓をついてきた。
 気づいちゃいけない、押し殺さなければ……。そう思う度に、僕の歩く場所は、どんどん暗くなってしまっていた。
 でも、そんな僕にも、君は未来を見せてくれた。
 僕は走った。ただひたすらに、彼女の元へと走った。
 どうして、もっと早く自分の気持ちに素直にならなかったのだろう。自らの運命に、必死に抗っていた彼女の手を、とればよかっただけなのに。
 こんなに苦しい気持ちを、君はずっと感じていたのかもしれない、そう思うと僕の胸が締めつけられる。

 時計台の階段を駆け上がっていく。
 今になって、こうして走っている僕は、本当にバカだな。自分は、彼女とはこれ以上関わってはいけない運命にあるのだと、勝手に決めつけて、身を引こうとして……。そういうのが一番嫌いな性格であるというのは、すでにわかっていたことなのに。一番大事なところで、自分の気持ちに蓋をしようとしてしまっていた。
 もうすぐ日が暮れようとしており、辺りは暗くなってきている。でも、今僕が走っている先は、驚くほどに輝いて見える。
眩しすぎて、まだ真っ白な世界を、君とともに色づけていきたい。僕にとって、虹色の未来を作りたいと思えるのは君しかいないんだって、今になってやっと気づいたんだ。
 いつだって、人を動かすのは、誰かを大切に想う気持ち、なのだろう。
 周囲の反応や体裁ばかりを気にして、自分に嘘をついても、後悔しか残らない。
 だったら、思いっきり自らの意のままに行動してみよう。そうすれば、きっとその先に、自らの求めていた答えが隠されているはずだから。
 結局、僕は君の前で少しも格好良いところを見せられなかったな……。けど、君を想う気持ちだけは誰にも負けない。
 階段は全て駆け上がった。あとは、この先の扉を開けるだけだ。

 君と僕との間には、あの伝説のように天の川が漂っていて、でも君は最初からずっと、そこに橋を架けてくれていた。だから僕は今、その橋を渡ろうと思う。
 目を瞑り、大きく息を吸い込んで、深呼吸をした。
 どんな未来が待っていても構わない。この先に待っている君と、また会えるのなら。
「ヨシッ!」
 目を開けて、両手に精一杯力を込めて、屋上の扉を押した。

 視界が開けた先には、手すりにもたれかかるように立っている美琴の姿があった。
「ねぇ、見て。ちょうど太陽が沈んで、夜空の星が綺麗だよ」
 美琴は、まるで僕が来ることが分かっていたかのように、こちらを振り返ることなく、いつものトーンで話しかけてきた。
 彼女が指を差す方向の空には、無数の星が輝いていた。
「ホントだ、凄いなぁ。ここから見える星空も、こんなに綺麗だったなんて、全然知らなかった……」
 僕は、走って荒くなっていた息を整えてから、返事をした。
「でも、これだけ星がたくさんあったんじゃ、どれが夏の大三角か、わからないね」
「うん……」
 ダメだ、やっぱり声を出そうとするたびに、いろいろな感情が混じって、まともに声が出てこないや。
 ひととおり空を見渡した美琴が、そんな僕の方を振り返ってきた。
「やっぱり来ちゃったんだね」
 彼女も、きっと僕と同じように、心の中で様々な感情が渦巻いているのだろう。目に涙を浮かべていたが、それを隠すようにして笑顔を見せた。
「遅くなったけど、誕生日おめでとう」
「ふふっ、今それ言うんだ。でも、ありがとね」
 そこには、いつもと変わらない彼女の笑顔があった。
「なーんか、こうやってちゃんと話すのも久しぶりだね」
「確かに。去年のクリスマスイブ以来、かな」
「あれから変わっちゃったね、色々と」
 これまでを振り返るように、彼女の目はどこか遠くを見つめていた。
「七夕クリスマスの会が始まってから、鷲翔と過ごす時間が、人生で一番の楽しみになって……。でも結局、私たちは自らに課せられた運命に抗う勇気を持てずに、年に一度だけ会うことすら辞める決断をしてしまった。そしたら、今の自分って何のために生きているんだろうって思えてきちゃって」
「だから、姿を消すという決断を?」
「うん。一度、檻から思いっきり出てみようと思って。これまでも、そうしてきたつもりだったんだけど、中途半端だったから」
 水族館で、僕は美琴に「もう少し檻から出たままでもいいんじゃない」と言った記憶がある。でも僕たちは、七夕クリスマスの会という形で檻から出ていたつもりだったけれど、結局それは、本気で現状に抗おうという意思ではなくて、ただ単に心の拠り所とか、もっと言えば一時的な自己満足でしかなかったのかもしれない。
「ほんの数時間だけだったけど、自由な世界に出てみて、わかったことがあるの。たった一度しかない人生で、遠慮ばっかりして生きてちゃダメだなって。自分の人生、自分が生きたいように生きないと、後悔する羽目になるということぐらい、何で最初からわかってなかったんだろうな、私」
 十代から二十代になるという過渡期を、あまりにも生き急いでしまった結果、いつの間にか僕たちは本当に大切なものを見失ってしまっていた。周囲の人々の想いを汲み取ることも大切だけれど、自分の本当の気持ちこそが、何よりも生きる意味なんだと、ようやく気づくことができた。
「私も鷲翔も、周りの人たちの気持ちばっかり気にして、結局こんな結末になっちゃって。それに、飛鳥だって……」
 ふと、美琴が飛鳥の名前をつぶやいた。
「飛鳥は、周囲からの信頼も厚くて、悩みを抱えた人たちの傍で寄り添って、何もかも完璧なリーダー、っていう風に見えていた。けど、きっと彼も、人には言えない悩みをずっと抱えていながら、仮面を被った姿を演じ続けていたんだと思う。それでも、私の記憶の中では、好青年のままで居続けたからこそ、なかなか彼の想いを拒むことができなかった。人の記憶ほど、不確かで曖昧で、頼りないものはないっていうのにね……」
 飛鳥について話す美琴の顔は、どこか寂しそうだった。美琴も、本意ではなかったかもしれないけれど、結婚する直前まで至った彼に対して、少なからず不愉快な気持ちは抱いていなかっただろうし、一番傍で彼の姿を見てきたのに、彼がその本心を見せてくれなかったことに対して、つらい思いも味わったことだろう。
「飛鳥を狂わせてしまったのは、間違いなく、この私。彼だって、本当なら他の選択をして、今とは全く違う人生を歩んでいたはずなのに」
 その言葉から、美琴も何となく気づいていたのだと感じた。飛鳥が、事件を起こしてしまった張本人であり、それは彼が美琴を想うあまりに、あのような行動に至ってしまったということを。
「飛鳥だけじゃない。私と彼の両親も、私の周りの人たち全員の歯車が、少しずつ狂い始めていって。そしていつしか私も、自分がわからなくなっちゃった……。そんな私を救ってくれたのが鷲翔だった。ありがとね、同じ時間を共に過ごしてくれて」
 僕も美琴と同じ気持ちだった。自分の気持ちを見ないようにしていたら、逆にみんなを苦しめてしまって、何が正解なのかがわからなくなってしまった。でも、彼女との七夕クリスマスの会は、唯一自分が自分でいられる場所で、この時間が永遠に続いてほしい、そう思っていた。
「でも、鷲翔もそうだし、他の人たちにも感謝しないとね。ありのままの私でありたいって思うきっかけを作ってくれたし。特に、あの刑事さんには感謝しないとね」
「刑事って、あの霜山って人だっけ? 確かに、お節介なほど美琴に干渉していたけど、凄く美琴のことを考えてくれているんだなって思ったな」
「フフッ、相変わらず鷲翔は何もわかってないなぁ……。人ってね、焦り出すようなきっかけが起きて、初めて自分の本当の気持ちに気づくの。その意味で、私にとって最大のライバルがあの刑事さんだったからこそ、感謝しないといけないなぁって思ってるんだよ?」
 僕には、美琴の言っていることが、完全にはわからなかった。けど、僕にとっても、あの刑事さんの存在はとても大きかったように思う。きっと僕たちが毎年会っていることに気づいていたはずなのに、それについて彼女は、ほとんど何も追求してこなかった。
「それに、今日姿を消したのは、パパの協力もあったからだし」
「そういえば、さっき美琴の書いた手紙を受け取ったのも、美琴のお父さんからだった……」
「うん、実は、ウチのパパ、勝手に鷲翔からの手紙読んじゃってさ。それで、私に土下座しながら謝ってきたんだ。一昨年の交通事故の日のこと、全部話し始めて……、脅迫事件のことも何となくわかってたんだって。それと、鷲翔には本当に悪いことをしてしまった、申し訳ないって」
「そう、だったんだ……」
「でもバカだよね、ホント。飛鳥だけじゃなくて、飛鳥と私の両親四人も、みんなでグルになって、事件を揉み消そうとしてたなんて。彼を無理やり、好青年のままで居させようとしたって仕方ないことぐらい、わかってたはずなのに」
 美琴の強い言葉からは、怒りの感情が見て取れた。ただ、怒りだけではなく、悔しいという思いも含まれているような気がした。一番傍にいた身として、彼らの暴走を止められなかったことが、彼女にそのような感情を抱かせてしまっているのだろう。
「私さ、前に話したよね。人生が終わるときに、少しだけでも大人になれたなって感じたい、って。きっと本当の幸せって、そういうことなんだと思う。誰かにとって、理想の姿であり続けることよりも、自分が行きたい道をまっすぐに突き進んで、手に入れた結果こそが何よりも正解なんだって。でも私には、その勇気が足りなかった。いつまでも周囲の求める私であろうとして、そしていつしか壊れていった。私って何なんだろうって、もう訳が分からなくなっていって……」
 美琴の目からは大量の涙が溢れていた。いつも笑顔だった彼女が、こんなにもつらい思いを抱えていたことに、どうして僕はもっと気づいてあげられなかったのだろう。
「そんな中で、七夕クリスマスの会も終わりを告げてしまって、自分の生きる意味が何もかも失われてしまったような気がした。だから今日、全てを投げ出したくなって、みんなの前から姿を消すことにしたんだ」
 お互いが幸せになるために、会わない決断をしたはずだったのに……。結局、僕たちは何が幸せであるかということを見誤っていて、僕が手を引けば、美琴は飛鳥と、誰もが祝福してくれる輝かしい人生を送れるんだと、そう信じ込んでしまっていた。
「私は、鷲翔のお父さんともう一人の人に、この命を救ってもらった。だから今、生きていられるのは奇跡でしかなくて、それに鷲翔がいてくれたことで、私の人生は本当に唯一無二で、特別なものになった。こんなに幸せな人生を与えてくれた神様に、感謝しなきゃね」
 今抱くべき感情ではないのかもしれないけれど、涙を流す美琴の姿は、息を吞むほど美しかった。あぁ僕は、僕はこんなにも美琴のことを……。
「でも、もう限界なんだよね……。ごめんね、鷲翔」
 その瞬間、強い風が吹いた。
 果たしてそれが、風のせいだったのか、彼女の選択だったのかは、定かではない。でも、きっとそれは美琴の意思、だったのだと僕は思う。
 彼女の片足が屋上の端から外れ、身体が宙を舞った。
「美琴!」
 君がその選択をするのなら、僕だって……。
 気づけば、僕は彼女の元へと走り出していた。
 ほんの一瞬の出来事が、スローモーションのように見えた。必死になって走っているのに、最悪の結末だとわかっているのに、幸せな時間がゆっくりと流れているようだった。
 僕は空へと飛び出し、手を精一杯伸ばして、美琴の腕をつかんだ。

 母さん、ごめん。僕、母さんの分まで長生きするっていう約束守れそうにないや……。
 それに、この聖川市を世界一の街にするっていう、父さんの夢を叶えることも、結局果たせないまま終わってしまうことになるんだな。
 でも、少しは僕も大人になれたのかもしれない。今こうして、やっと自分の気持ちに素直になれたのだから。
 昔の自分のままだったら、きっとまだ現実から目を逸らして逃げ続けていたことだろう。でも、もう迷うことなく、どんなに難しい決断でさえもできるようになったのは、やっぱり傍に美琴がいてくれたから。
 けど、大人になるのが、少し遅かったな……。
 僕は逆さまに落ちながら、そんなことを思った。

 美琴への衝撃を和らげるため、彼女の身体を引き寄せながら、僕が下側になった。
「好きだよ、鷲翔」
「俺も美琴が好きだ」
 僕たちは、強く、強く抱きしめ合った。
 お互いの声は聞こえない。でも、思っていることは同じだった。

 夏の夜空が見える。彼女がずっと見たいと言っていたベガとアルタイル、そしてデネブが光り輝く、綺麗な星空だ。そうか、美琴も落ちる瞬間に、この景色を……。
 僕は、空に向かって右手を伸ばした。身体は地面に向かって落ちているのに、伸ばした手は今にも星空に届きそうで、星をつかめそうだった。
 頬に涙が一粒、流れてきた。
 これが最後の景色で本当に良かった。そう思えるほど、美しい三角形だった。
 二人の体に強い衝撃が走った。