「二人とも、こんなところで何をやっているの?」
「おわ、っと」
僕と飛鳥が着替えていた部屋の扉が開き、パンツ一丁の姿だった僕は、慌てて服を着た。
ドアを開けたのは、霜山刑事だった。
「何だ、誰かと思えば、あんたかよ。俺たちに何か用でもあんのか?」
上半身裸だった飛鳥が、苛立った口調で刑事さんに言った。
「まさか、夜野鷲翔と一緒だったとはな。今、お前の両親が今日の式に来てくれていた人たちに、必死になって頭を下げているっていうのに、こんなところで油売ってんじゃないわよ。ほら、早く着替えて戻るぞ」
刑事さんに連れられてやって来たのは、聖川ホテルの結婚式場だった。本当であれば、飛鳥たちの結婚式が、今日ここで開催されるはずだった。
「今、招待客の人たちに、全員帰ってもらっているところだよ。仕事で付き合いの深い人たちばっかりだから、今後に影響を与えないように、お前の両親がああやって頭下げてんだ。ほら、早くお前も行けっ」
刑事さんは飛鳥のお尻を叩き、お前も謝罪をして来いと、彼を急かした。
「いってぇ。ったく、マジでお前、クビにするぞ」
「フッ、望むところだ。できるもんなら、やってみろ」
飛鳥は急ぎ足で、彼の両親の元へ向かった。
「夜野くん、あなたは大人しく自分の家に戻りなさい。今ここにあなたがいると、彼らに迷惑がかかるだけだから」
「は、はい……」
刑事さんの威圧的な声に、僕は完全にひるみ、しゅんとした声でしか返事ができなかったのだった。
「本日ここにお集まりいただいた皆さんが、この聖川の街のために誠意を尽くし、ご活躍されることを期待しています」
ホテル白瀬で行われた、聖川市役所の入庁式。市長の挨拶とともに、僕の新社会人としての生活が始まった。
「そして、この場をお借りいたしまして、重大発表をさせていただきます。この度、聖川市は聖川ホテルグループと連携し、観光プロジェクトを立ち上げることとなりました」
アナウンスがなされると、大きな垂れ幕が下がり、会場内にどよめきが起こった。
毎年、市役所のホールで行われている入庁式が、なぜ今年に限り、このホテルで行われることになったのか疑問に感じていたが、ようやく腑に落ちた。
「観光課をはじめ、市の全部署が一丸となって、この事業を進めてまいります。新規採用の皆さまにも、ぜひ率先してこのプロジェクトに参加していただきたく……」
そうして、式は滞りなく進んでいき、最後に辞令交付が行われた。
「聖川市役所 新規採用者代表 夜野鷲翔」
「はい」
「夜野鷲翔、貴殿に観光課配属を命ずる」
僕は、壇上に上がり、市長から辞令を受け取った。
「ねぇ、彼じゃない? ほら、去年のクリスマスイブに、天宮家のお嬢様を車で轢いちゃった、あの事件の犯人だよ」
どこからともなく、そんな話し声が聞こえてくる。
この狭い街の中では、元々僕の顔を知っている人も多く、あの刑事さんが言っていたとおり、被害者であるはずの僕が、誰かと協力して美琴を事故に遭わせた、という噂が街中に広がっているようだった。
彼女は飛鳥と婚約中の身であり、そのカップルが聖川市民にとって明るい希望の星となっている中で、僕が二人の間に割って入ろうとしている、という見方が人々の間で強いことが、噂に拍車をかけているのだろう。
なぜ美琴を轢いた犯人が市役所で働くことができるのか、どうして新規採用の代表なのか、という周囲の同期たちの冷ややかな視線を感じた。
式典が終わり、会場を出ると、なぜか美琴がいた。僕と目が合うなり、こちらに向かって大きく手を振ってきた。
「何でここに?」
僕は、慌てて彼女の元に駆け寄り、小声で話しかけた。
「鷲翔のことで、みんなが変な噂してんじゃないかなーと思ってさ」
「バカ、声が大きいって」
周囲に聞こえるようにわざと大きな声を出す美琴に、僕は余計に焦りを感じた。
「私が鷲翔と普通に話してたら、きっと誤解も解けるはずだから」
「それって逆効果なんじゃ……」
周囲を見渡すと、先ほどの式典以上に変な目で見られてしまっていた。こういう場合、当事者どうしが会うことは控えた方が良いというのは、口にするまでもなく明らかだ。だが、美琴はそういう視線を気にすることなく、むしろ僕を庇うため、意図的に目立つ場所で会うことを選んだようだった。
「仕事が始まるまで、まだ時間あるでしょ、一緒にランチでもどう?」
僕は美琴に誘われるがまま、近くのレストランに入った。
「けど、ビックリしたよ。まさか、美琴のホテルと市が連携して観光促進プロジェクトを始めるなんて。美琴は事前に聞かされてた感じなの?」
プロジェクトの話を始めると、彼女はなぜか浮かない顔をした。
「私もこのプロジェクトの手伝いをすることになってるんだけど、あんまり乗り気になれないんだよね」
「どうして?」
「なんか、ウチの両親も、飛鳥の家の人たちも、本当に観光客を増やそうと思って今回の計画を進めているのかなーって。この街の未来のためだって言ってるけど、みんなの姿を見ていると、どこか違う目的があるように感じるんだよね。それに、鷲翔と天体観測をした、あの山も再開発のために買い取るなんて、絶対に間違ってるよ……」
「そっか、降七山もプロジェクトの一部に……」
もうすでにそこまで話が進んでいたとは全く知らず、僕は驚きを隠せなかった。
確かに美琴も感じているように、一緒に天体観測をした山が再開発されることになるのは、正直に言って寂しいし、この街から緑が失われてしまうことが本当にショックで仕方ない。
それに、美琴は「違う目的」があるように感じているというが、それが何に起因しているのか、本当に市の未来のためではない別の理由があるのか、様々な感情や疑問が僕の中を駆け巡った。
「でも、信じるしかないよね。この街がより良い方向に進んでいくための再開発なんだって。それに、僕はちょうど観光課に配属されたから、このプロジェクトに関わっていくことになるだろうし、そうなると美琴たちと仕事ができるってことだから。それは、本当に幸せなことだし、この巡り合わせには感謝しないとね」
たとえどんな陰謀が近くで渦巻いていたとしても、美琴と一緒なら一大プロジェクトだって何だって乗り越えていける。そう思うと、僕の心のモヤモヤが少しだけ晴れた気がした。
「疑問に思ったり、不安に感じたりすることはたくさんあるけど、クリスマスイブの日以外にも鷲翔に会えるのは、私も嬉しいから、それでヨシとしよっと。あれ、こんな話してたら、もう行かないといけない時間じゃない?」
時計を見ると、午後の開始時間が迫っていた。
「あ、ホントだ、ヤベッ!」
「頑張れ、新社会人」
挨拶もせずに慌てて出ていこうとした僕に向かって、美琴が笑顔でグーサインをしてきた。
「おう! 行ってきます」
僕もグーサインで返し、店を後にした。
始まるんだ、これから。僕の新社会人としての生活が。身の引き締まった思いで、僕は職場へと走り始めた。
「本日からお世話になります、夜野鷲翔と申します。よろしくお願いします」
市役所に着くなり、仕事の同僚となる方々に挨拶を行った。
「よろしく~、君のデスクはここね。あと、あそこに座っているのが、この観光課の課長さんね」
「ありがとうございます」
課長はちょうど机に向かって書き物をしていたため、顔がはっきりと見えなかった。僕は、近くまで駆け寄っていった。
「夜野鷲翔です。本日からよろしくお願いします」
課長が僕の声に気づき、こちらを見ると、それは見たことのある顔だった。
「あ、あなたは確か、公園にいらっしゃった……」
美琴の婚約発表の日、公園のベンチで僕の隣に座っていた方だ。
「何ともこれはまあ、めぐり逢いというのは不思議なものだね」
僕を見るなり、課長はフッと笑みを浮かべた。どうやらお互いに、あのときのことを覚えていたらしい。
「ここの課長さんだったんですね」
「あれ、課長とお知り合いの方ですか?」
隣のデスクの人も気になったのか、会話に入ってきた。
「いや、知り合いというか、たまたま公園で……」
「もしかして課長に突然声を掛けられた人ですか?」
「え、そうですけど、どうして?」
「課長は休みの日、よくあの公園で知らない人に声かけてるんですよ。この前も、たまたまあそこに私が行ったら、後ろから課長に話しかけられて。顔を見て、お互いビックリしちゃったんですよね」
どこで出会ったのか、説明するのが難しいなと思っていたが、どうやら僕以外にも同じように声を掛けられたことがある人がいるようだった。しかし、まさかこんな場所で再会するとは思わなかったな。
「こうして同じ職場になったのも何かの縁だ。改めて、よろしく」
「よろしくお願いします」
「早速だが、君には先ほどの入庁式でも発表があった、市の観光プロジェクトに参加してもらいたい。やってくれるかな?」
やはり事前の読み通り、この部署に配属されたということは、美琴たちとも働くことになるのだろう。聖川市を世界一の街にする、という父の思いを叶えるため、まずはこのプロジェクトを成功させなければならない。
「はい!」
僕は、力強く返事をした。これから始まる、新たな世界への第一歩を踏み出した瞬間だった。
働き始めてから、数ヶ月。太陽が強く照り付けて蒸し暑い、とある夏の日。僕は、母のお墓に手を合わせていた。
先日、母が息を引き取ったとの連絡が病院から入ってきた。
「母さん、最後を看取ることができなくて本当にごめん……」
結局、母と最後に話したのは、飛鳥たちの婚約発表の数日後に、病室を訪れたときだった。あの日以降、母は会話ができる状態ではなくなっていき、最後まで延命治療を続けてもらっていたが、それももう、ほとんど意味を成していなかった。
母が長生きすることを望んでいたのかはわからない。それでも僕は、母に少しでも長く生きていてほしかった。せめて、僕が誰かとともに生きていくことを報告する日までは、生きていて欲しかったが、それも叶わずじまいとなった。
ちょうど目を開けたときに、見慣れた人がこちらへ来ようとしていた。
「久しぶりだね、鷲翔くん。入庁式の日以来かな」
その人は、この街の市長、つまり美琴のお父さんだった。
「お久しぶりです、わざわざありがとうございます」
「いやいや、君のお母さんには、本当にお世話になったからね」
美琴のお父さんは、持ってきていた菊の花を供え、母の墓に手を合わせた。
「市長に来ていただけて、きっと母も喜んでいると思います。でもまさか、父と同じ日に亡くなるとは思いませんでしたけど」
「君のご両親は本当にいい人だった」
どこか懐かしい目をしながら、美琴のお父さんが言った。
「たしか、市長は父と親しい間柄だったと聞いていますが」
「ああ、そうだ。私は警察署、彼は市役所と、組織は違えど、この聖川の街をより良くしていこうとお互いに誓い合った仲だった。けど、君のお父さんは市役所を辞めて、その後すぐに亡くなり、君のお母さんも過労で倒れてしまった。それは全て私に責任があるんだ」
「責任? 私の両親が亡くなったことと、市長に一体どんな関係があるって言うんです?」
お線香を供えて、手を合わせ終えると、市長は重たい口調で再び話し始めた。
「ここからも見える、ホテル白瀬の高層タワー。あれが全ての始まりだった」
母の墓がある場所からもはっきりと見えた。高さ百五十メートルを超える、市内で最も高い三十階建ての高層タワー。周囲の他の建物と比べ、頭一つ分以上抜けており、この街のシンボル的存在でもある。
「君も覚えていると思うが、十六年前、あのタワーで事故が起きた。そう、建設五周年記念式典の際に、突然鉄筋が落下し、その真下にいたウチの娘を助けようとして、君のお父さんと当時の市長秘書の方が亡くなられてしまった。原因は、もともと手抜きの突貫工事だったうえ、その後の検査でも、修繕が必要だった部分を看過してきたことにあった」
そう、美琴を助けるために、僕の父は自ら犠牲となった。
白瀬グループの会長である飛鳥のお父さんが、泣きながら謝罪会見を行い、当時の聖川市長とともに大バッシングを浴びることとなった。建設当初は市全体が大歓迎ムードだった分、裏切られる形となってしまったことに、市民たちは深い憤りを覚えてしまったのだろう。
「君は知らないかもしれないが、あの事故よりもはるか前、建設プロジェクトの段階から、君のお父さんは、その危険性を訴えていたんだ。
今からちょうど二十五年前、建設工事が始まってすぐの頃は、あんなに大きなタワーができることに誰もが興奮していて、当時観光課の職員だった君のお父さんも、この街に明るい未来が待っていることに凄く喜んで、プロジェクトのメンバーに参加した。けど、建設が進むにつれて、すぐに反対するようになったんだ。
無茶ぶりな工事期限に間に合わせるため、関係者は何十時間も働かされ、誰かが毎日倒れていたからね。そのうえ、手抜き工事という事実も、水面下で噂になっていたが、上層部がそれを揉み消した。二、三十年前のご時世でもあり得ないようなことばかりをやってしまっていたんだ」
そうだったのか……。初めて知る過去の出来事に、僕は驚きを隠せなかった。
確かに、この街の発展を心の底から願っていた父も、多くの人たちが犠牲になってまで無理にタワーを完成させようとすることは、望んでいなかったはずだ。それでも結局、建設プロジェクトは最後まで推し進められ、人々の理想を詰め込んだシンボルは、父を死に追いやることとなった。
「その後まもなく、君のお父さんは市役所を辞めた。私は彼の意志を継ぐために市長になろうと決めた。それがせめてもの償いだと思ったから」
「償い?」
「君のご両親が亡くなってしまったのは、間違いなく私のせいなんだ」
市長はそう言っているが、父が亡くなったのは明らかに手抜き工事が原因だし、それを指示したのは飛鳥のホテルグループの当時の上層部であって、美琴のお父さんは何も関係ないように思える。なのに、どうして自分の責任だと言うのだろうか。
「当時、私は天宮家の婿養子に入って間もない頃だった。だから私にとっては、白瀬家と天宮家が今後も良好な関係を築いていけるように、タワー建設プロジェクトを最後まで支え続けることが至上命題となっていた。少しでも反対の声を上げる者がいれば、どんなに汚い手を使ってでも排除していたんだ。そんな私の前で、君の両親が反対の意を唱え始めた。
悪いことは言わないから、反対するのはよせ、って彼に忠告したんだ。けど、彼の聖川の人々を思う気持ちは、揺らぐことがなく、本当に真っ直ぐだった。苦しんでいる人たちが大勢いて、何がこの街の未来のためだ、って。彼はそう言って、プロジェクトチームの中から声を上げ始めた。
彼の意見に賛同する人が次第に増えていってね。いつの間にか、どこかの国で起こっている改革運動かっていうぐらいに、彼の周りには人が集まっていた。今思えば、私も彼と同じように、異議を唱えるべきだった。でも、結局私は、自らの立場に抗おうともせずに、彼にプロジェクトの一員を辞めるように促した。その後、彼は市役所自体から姿を消して、奥さんのやっていた料亭を手伝い始めたんだ」
そうか、三年前、飛鳥と美琴のホテルが合併に至ったのは、そのときからの関係があったからなんだ。
「もしかして、あの出来事も……」
過去の記憶が、ふいに頭をよぎった。
僕がまだ小学生に入る前、美琴の両親がウチの料亭を訪ねて来て、僕の両親が何かを言われ、涙を流していた姿を見たことがあった。
「十七年ぐらい前、市長と奥様がウチを訪ねてこられた際に、私の母が涙を流していたことがありましたよね。それも、そのときの出来事が関係しているんですか……?」
「それはきっと、君の料亭からの仕入れを断ったときのことだろう。君のお父さんが市役所を辞めて、料亭で働き始めてからも、ウチは君のご両親から料理を提供してもらう関係を続けていた。だが、あるとき、私の妻が突然、それを辞めると言い出したんだ。明らかに、あの建設プロジェクトに反対したことをまだ根に持っていて、その仕返しだと言わんばかりの行動だった。本当はそれも私が止めるべきだったのに、彼女の圧に屈してしまった」
「そ、そんな……」
あまりにもショックが大きすぎたためか、僕は思わず後ずさりしてしまった。
市長が、責任は自らにあると言った意味をようやく理解した。だから、僕の両親が営んでいた料亭は経営が厳しくなって、父も亡くなったため、母は過労で倒れることになってしまったのか……。
確かに、僕が市長の立場だったら、きっと同じことをしてしまっていたかもしれない。市長だけではなく、当時天宮家のホテルで働いていた誰しもが苦しい思いをしながら、望んでいない判断を下す羽目になったのかもしれない。でも……。
「せめて、仕入れを止めるという判断だけは回避できなかったんですか……?」
涙が流れ始めた僕は、今さら言っても仕方のないことを口にした。
多分、恨みだけではなく、総合的な面から考えて、僕の両親の料亭との関係を続けていくことが難しくなったために、そうした決断に至ったのだろう。だが、結果として母がああいう最期を迎えてしまったということは不変の事実であり、どうしてもそのことに対して、いたたまれない気持ちを強く感じてしまっている。
「君を観光課に配属するように進言したのは私だ。君には、君のお父さんが成し得なかった、この街を世界一にする夢を果たして欲しかったからね。でも、本当に申し訳ない。私には、私自身も妻も止めることができなかった」
「そう、だったんですね……」
ずっと疑問に思っていた、本当に美琴と働けることになったのは偶然なのかって。それは、彼女のお父さんが、僕に、この街の未来のために頑張るという父の意志を継いでほしいと願ったからだったということで、ようやく腑に落ちた気がした。
「でも、ありがとうございます。市長のお陰で、今の僕には父の思いを叶えるチャンスが回ってきたってことなので。それに母はずっと言ってました、料亭を二十年も続けてこられたのは間違いなく、天宮さんのご協力があったからだって。だから、市長も負い目とか責任を感じることはないと思います。きっと僕の両親はそんなこと、望んではいないと思うので」
そうだ、たとえ過去に色々あったとしても、起きてしまったことは変えられない。もう同じ過ちを繰り返すことだけはしないように、前を向いていくしかないんだ。多分、父も母も、いつまでも過去を引きずっていて欲しくないと思っていることだろう。
「いや、私が謝らなければならないのは、君のご両親だけじゃなく、君に対しても、だ。私は、いつまで経っても、君や君のお父さんみたいに、正義を貫けなかった」
「正義?」
「市長、お時間です」
声が聞こえてきた方向を見ると、市長秘書の方が車のドアを開けて待っていた。時計を見ると、僕が母の墓に来てから、もう一時間近くも経っていた。
「とにかく君には、ぜひお父さんの意志を継いでもらいたい。この聖川の街をよろしく頼む」
美琴のお父さんは車に乗り、その場を去っていった。
最後の言葉だけが妙に引っかかった。どうして市長は僕にも謝罪をしたいと言ってきたのだろう。もちろん両親が亡くなってしまったことで、遺族の僕にもそのような気持ちを抱くのは当然かもしれない。でも、市長の話しぶりから察するに、きっとまだ他にも何か僕に対して話せていないことがある、ということのような気がしている。
釈然としない気持ちで、僕は母の墓を後にした。
市役所の前で開かれたクリスマスイベントには、多くの人々が集まっていた。
僕と美琴は、観光プロジェクトの第一弾である、このイベントの開催に向けて、ともに力を尽くしてきた。
その美琴からは、今朝、「イベント終わったら、七夕クリスマスの会やろうね」というメッセージが来ていた。だが、彼女の母親からのけん制があって以降、美琴とはほとんど連絡を取らないようにしていた僕は、そのメッセージにも、何も返信をしなかった。
ひとまず、このイベントに集中しよう。そう思って、イベント会場に足を踏み入れた。
会場内の中心には、ラジオブースも設置され、聖川FMのクリスマス特別回が、放送されていた。
「さて、今夜は特別に、クリスマスイベントが行われている市役所前からお届けしております。そしてここで、今回のイベントの主催者である、聖川市役所の職員の方々にお越しいただきました。皆さん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす」
「うぉっ、やはり若い人たちの挨拶は、元気があっていいですねぇ」
僕を含め、主に新規採用の職員たちが、このラジオのゲストに招かれることとなった。
「初めに、皆さんの自己紹介をお願いします。では、手前の方からどうぞ」
パーソナリティに一番近い席に座っていた僕が、最初に発言するよう、指名された。
「あ、はい。観光課の夜野と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします。せっかくなので、もう少し夜野さんのこと、教えてもらえますか?」
所属と名前しか言わなかった僕は、慌ててマイクをもう一度手に取った。
「えっと……、私は両親に影響を受けて、この市役所で働くことに決めました。二人とももうこの世にはいないのですが、父も母も、この街を人々の笑顔でいっぱいにすることを、常に考えてきた人でした。僕も聖川市を世界一の街にしたいと思って、この場所で日々奮闘しています。今日はぜひ、一人でも多くの方々にこのイベントを楽しんでいただければと思います」
「ありがとうございます。では次の方、どうぞ」
そうして、ラジオが進んでいくとともに、僕の緊張も少しずつほぐれていった。
「えー、ここでお便りが届いています。聖川市のラジオネーム・バサバサ翼さんからです。『来年、私は社会人になるのですが、皆さんが働き始めてから、一番大切だなと感じたことはありますか』ということですが、これも順番にお伺いしていきましょうかね。では、また夜野さんからどうぞ」
一番大切なこと、か……。
僕自身、特に学生の間、そして社会人になってからも、様々な問題や悩みに直面し、そうした状況の中で、本当に色々なことを考えてきた。でも、その中で一番大切だと感じたことは何だったのだろう。
「夜野さん、大丈夫ですか」
少し考え込んで、口を閉ざしてしまっていた僕は、声を掛けられて、ハッとした。
「あ、すみません、一番大切だと感じたことですよね。それはやっぱり……、決断する勇気、じゃないでしょうか」
「ほう、というと?」
「ある人が言ってたんです、人は重大な決断をする度に、過去に戻ってやり直したいと後悔する生き物なんだ、と。でも、願いや理想を叶えるためには、今を動かして、思い描く未来へと繋げるしかない。そうは言っても、未来を作るのは、過去に戻ること以上に大変なことなんだと、僕も最近ようやく気がついて……。それこそ、思い通りの結末に辿り着く可能性なんて、多分〇・〇一%ぐらいしかないんだと思います。
僕たちは、そのわずかな可能性に全力を賭けて、挑むんですよね。その過程の中で、時には重要な選択を迫られることもあって、ベストだと思うものを選ぶんですけど、結局後になってから、それは間違いだったと後悔することになってしまう。それが嫌で決断を避けるようになるかもしれないんですけど、それでも選ぶことから絶対に逃げちゃダメなんだって。きっと、仕事でもプライベートでも、決断する勇気を持った人だけが、自らの理想を叶えられるんだと思うようになりました」
ふと我に返り、周囲を見渡すと、僕以外の全員が、完全にフリーズしていた。
「あ、すみません。僕一人、長く喋りすぎちゃって……」
「いやいや、素敵なお話、ありがとうございました。では次の方、どうぞ」
でも、決断する勇気が一番ないのは、僕自身だ。社会人になってからの僕は、周りの様子を窺って、自分で何かを選択するということがなくなってしまった。美琴とのことも、結局色々と曖昧な状態にしてしまって、何も決断できずにいる。
ラジオ番組が終わり、イベントの運営に戻ってバタバタしていると、市役所の中にあるホールで、美琴とバッタリ遭遇した。
「鷲翔……。どうして、今朝のメッセージに返事してくれなかったの? なんか最近、ずっと変な感じだし、私のこと避けてるよね」
「そ、そんなことないよ……。最近ちょっと仕事が忙しくて、あんまり連絡できてないだけだから」
美琴には、彼女のお母さんとの出来事について、一切話していない。言えば、確実に二人の関係はより悪化してしまうし、美琴の性格上、それに反抗するように、僕に会おうとしてくるだろう。
「じゃあ、イベントが終わったら、駅前のレストランに集合すること。わかった?」
「うん……」
僕は仕方なく頷いた。
「約束だよ? 大事な話があるから、絶対来てね」
「大事な話?」
「うん、実はね……」
美琴がそう言いかけた途端、外で雪が降ってきたのが、窓越しに見えた。
「久しぶりの雪だね。確か、最初の七夕クリスマスの会で、誕生日ケーキを作ったとき以来じゃない?」
美琴の方を見ると、どこか懐かしそうな目をしていた。もう、七夕クリスマスの会も今日で早六年を迎える。
美琴もこちらを見てきた。
え? 見てきたというより、それは見つめてきた、という感じだった。
何だろう、これがスノーマジックというやつなのだろうか。僕は本当にバカ野郎だ。彼女への思いを絶とうとしているのに……。
お互いの顔が近づいていく。いけないことだとわかっているのに、自然と体が動いていた。
「天宮さーん、どこにいらっしゃいますか?」
もう少しでキスをしてしまいそうなところで、誰かが美琴を呼ぶ声が聞こえてきた。
僕たちは慌てて、お互いに距離をとった。
「ごめん、また後でね」
美琴がその場を後にした。
イベント終了後、美琴と約束したレストランにやって来た。
「で、美琴の話って?」
彼女は、深呼吸をした。
「実はさ、私が市のプロジェクトに関わるのは、これで最後なんだ」
「え?」
そもそも今回の聖川市と聖川ホテルの共同企画イベントは、僕が社会人になったときと同じタイミングで始まったため、まだ一年も経っていない。僕と同じように、美琴も立ち上げメンバーとして、これからも市の活性化のために、このプロジェクトを進めていくものだと思っていた。
「あとは、ウチのホテルの、他の人が引き継いで、私はホテルの運営に専念する、っていうことになってて」
「ことになってる?」
「本当は私も、このまま市の観光プロジェクトに関わっていたいよ。でも、ウチの両親がそう決めたことだから、ホテルという組織の中にいる以上、人事は絶対だから」
美琴はまだ大学生だが、卒業後には聖川ホテルで働くことを決めていたようだった。そのために、東京の大学で経営学の勉強をしていたのだろう。そして、学生の身でありながら、すでにホテルの一員として、このプロジェクトにもたくさん携わってきた。
「それでね、私も決めたんだ。このまま飛鳥との結婚を受け入れて、頑張っていくしかないって。東京で鷲翔が言っていた、私たちの『七夕クリスマスの会』という物語に終止符を打つタイミングは、今なんだと思う」
「そう、なんだ……」
美琴の急な発言に、僕は明らかに動揺していた。自分も同じことを考えていて、彼女にそう伝えようとしていたはずなのに、いざ美琴本人の口から先に直接言われると、思っていた以上の衝撃を感じた。
「あの事故をきっかけに、やっぱり私は、現状に抗えるほどの勇気と力を持っていないことに気づいちゃったんだよね。で、このまま鷲翔の連絡先を持ち続けていたら、多分また会いたいって思っちゃうから、今日ここで消そうと思って」
美琴は、スマホを取り出して、メッセージアプリを起動した。
これまでの彼女の姿とは打って変わって、まるで別人が憑依したかのような、突然すぎる行動の連続に、僕は驚きを隠せなかった。
「わかった。じゃあ、僕も美琴の連絡先を消すよ」
僕もスマホを出して、美琴の連絡先のページを開けた。
だが、明らかに、僕のスマホを持つ手が震えている。
「じゃあ、お互いのスマホを差し出し合って、私が鷲翔のスマホから、鷲翔が私のスマホから連絡先を消し合うっていうのはどう?」
「うん、じゃあそうしよう」
僕たちは自らのスマホの画面を見せ合った。
「じゃあいくよ、せーの!」
僕たちはお互いの連絡先を消去した。
これでよかったんだ。僕が彼女と関われば、周りの人たちに迷惑がかかってしまう。僕が彼女の世界から消えれば、みんなが幸せになれるんだ……。
僕はそう、自分に言い聞かせた。
帰り道、彼女はひどく酔っぱらっていた。
「美琴、大丈夫か?」
「らいじょーぶ、らって」
大丈夫とは言うものの、全く呂律が回っておらず、足元もおぼつかなかった。
それもそのはず、先ほどのレストランで、普段の美琴ではあり得ないほどの量のワインを注文し、僕の制止にも耳を貸さずに、全て飲み干したからだ。
「そうだ、鷲翔。一緒に写真撮ろうよ」
「写真?」
彼女はスマホを取り出し、自撮りを始めた。
「ほら、笑って~。はい、チーズ」
パシャ。
「アハハッ、何て顔してんのよ、鷲翔」
撮った写真を見ながら、美琴は爆笑した。
それにしても、どうしていきなり写真なんか撮ろうと言い出したのだろう。せっかくお互いの連絡先を消したのに、このままだと結局……。
半分呆れ顔で美琴を見ていると、彼女は、道の脇にあった石につまづき、よろけかけた。
「危ないっ!」
僕は、彼女の腕をつかんで、身体を支えた。
「大丈夫か?」
「う、うん……、ありがと」
僕たちは、いきなり顔が近くなって、突然ぎこちなくなった。
「ねぇ、もう少しだけ一緒に居たい……」
急に美琴がそう言い出した。
トロけた彼女の顔に、僕は我慢ができなかった。街の大通りであるにもかかわらず、僕たちは口づけを交わした。
その夜、僕たちは同じベッドに入った。
朝、目が覚めると、もう彼女の姿はなかった。
ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。ったく、僕は何をやってんだ……。
今になって、昨夜の出来事を後悔していた。ようやく彼女も心を決めたというのに、最後の最後であんなことをしてしまうなんて、やっぱり僕はダメな奴だな。
また美琴のいない日々が今日から始まる。
でもそれは、これまでみたいにまた一年経てば、会うことができる、というものではない。もう二度と、僕たちの人生が交差することはなくて、お互いのいない世界を歩んでいくことになる。
もっと強く、ならないとな。僕はもう一度顔を洗って、仕事へと向かった。
はぁーっ。職場の座席の上で、大きく背伸びをした。すでに時刻は、夜の八時を過ぎていた。
そろそろ帰るかな。そう思った矢先、机の上に置いていた、星空の写真がふと目に留まる。降七山に登ったときの写真だ。そういえば、これを撮ったの、美琴だったっけ。
彼女は今、元気にしているだろうか。この同じ空の下にいて、一緒にいる誰かと笑い合っていてくれれば、それでいい。それで、いいんだ……。
「あれ、まだ帰っていなかったのか」
後ろから声を掛けられて振り返ると、そこには課長がいた。
「あ、ちょうど帰ろうとしていたところでして。課長こそ帰宅されたのかと思っていましたが、どうかされたんですか?」
「忘れ物をしてしまってね。あ、やっぱりここにあったか」
それは、いつも課長が持参しているお弁当箱だった。
「これは私にとって、とても大切なものでね。今となっては、自作の総菜を入れるしかなくなってしまったが、昔は毎朝、妻がお弁当を作ってくれていたんだ。でも、その妻は十六年前の事故で帰らぬ人となってしまった」
「十六年前の事故って、まさか……」
「そう、ホテル白瀬のタワー事故だ。建設五周年記念パーティーの際、鉄筋が落ちてきて、真下にいた少女を助けようとして、私の妻と地元の小料理屋の亭主が亡くなってしまった」
そうか、あのとき、父とともに美琴を助けた人は、この人の妻だったのか。
「人は誰しも、いくつかの思い出とともに、これまで関わってきた人たちのことを記憶している。そして、思い出が積み重なっていくほど、その人にまつわる記憶や感情は、より強い形で脳裏に刻まれる。だからこそ、その人と永遠に別れるときがやってきても、いつまでも過去にとらわれてしまって、どうしてあのとき、もっと素直に自らの気持ちを伝えなかったのかって後悔することになるんだ。私も、その苦しみからなかなか抜け出せずにいる人間でね……」
あの事故の日、おそらく僕は病院で、課長が泣き崩れている姿を見たんだ。ハッキリと顔を見ることはなかったけれど、人は、大切な誰かを失うと、こんなにも絶望の淵に立たされ、溢れ出てくる涙を止めることができなくなってしまうのかと、衝撃を受けた記憶がある。きっと母も、泣きたい気持ちを無理やり抑えて、僕に寄り添ってくれたのだと思う。
当時の僕はまだ幼くて、身近な人の死を初めて経験して、悲しいという感情はありつつも、それ以上に現実から目を背けることに必死で、とにかくつらい事実を認めたくなかった。それからだろうか、何事に対しても真正面から向き合おうとしなくなってしまったのは。
美琴への気持ちにも、もっと正直になれれば良かったのに、結局はあんな終わり方になってしまった。
「でも、君にとって大切な人は、今もこの地球上のどこかで生きているんだろう? だったらまだ、君の気持ちを伝えるチャンスがあるじゃないか」
課長のその言葉に、僕はハッとした。
そうだ、僕にはまだ、この想いを伝えられる可能性が残っているじゃないか。たとえ彼女に会えなくても、僕の素直な言葉を届けられる方法が全くなくなったわけじゃない。
「ありがとうございます、失礼します」
駆け足で帰る僕の後ろ姿を、課長は笑顔で見つめていた。
「時が経つのも、早いものだな。お前の息子は、もうこんなにも立派になっているぞ」
課長は、自らの席の上に置いてあった写真を手に取った。そこには、自分と妻と、鷲翔の父が写っており、『同期会』の文字が書かれていた。
自宅に帰るなり、僕は机の蛍光灯の明かりを点け、便箋を取り出し、自らの想いを書き始めた。
美琴へ
昨日は、ごめんなさい。
ちゃんとお別れの挨拶もできなかったし、本当に色々と申し訳なかったと思っています。なので、昨日伝えられなかったことを、最後にこの手紙に書き残します。
美琴と過ごした六年間のクリスマスイブは、これまでの僕の人生の中で、一番眩しく輝いていて、かけがえのないひとときでした。
十二月二十四日。一年にたった一日だけ、美琴に会うために、一年間頑張ろうって思えたのは、本当に奇跡でしかなかったと思っています。
そんな、宝物のように大切な時間を手放すという決断をしたことは、きっと自分を後悔させるんだとわかっています。
でも、大人になっていく中で、僕はこの決断を受け入れなければならない。そう思って、「七夕クリスマスの会」を終わらせることに決めました。
振り返れば、七夕クリスマスの会は、美琴の何気ない一言から始まりました。でも、僕にとって、その最初の一ページは非常に大きな転換点で、まだ何色にも染まっていなかった僕の世界に、色をつけてくれた美琴との壮大なストーリーの始まりでした。
美琴が始めてくれた物語に、僕が終止符を打とうとしていいのか、正直自分の中で物凄く葛藤しました。まだ美琴との時間を続けていたい、という気持ちが僕の心の中から消えることはなくて、むしろ一年に一度だけじゃなくて、毎日の何気ない瞬間をも美琴と共有したいと、今でも強く思っています。
でももう、昔みたいに何もかもが自分の思いどおりになる、ということが、次第になくなっていって、僕たちがわがままを続けることにも限界が来ていると思い、そして昨日の、あの瞬間を迎えることになりました。
自分の本当の気持ちに蓋をすることは、他のどんな苦行よりも耐え難いことだとわかっていますが、人生は何か一つでも願い事が叶えば勝ち、というくらい難しいもので、僕たちがこれからも同じ時間を過ごしていくことは、神様に認められなかったのだと、自らに言い聞かせて前に進むしかないと思っています。
これから先は、お互い別々の道を歩んでいくことになりますが、きっとそれぞれに、明るい未来が待っているはずです。
僕は、また新たなスタートを切って、人生の答えを探す旅を始めようと思っているので、天宮さんも自分にしか描けない、色とりどりのストーリーを紡いでいってください。
お互いのこれからに、幸があることを祈っています。
夜野鷲翔
美琴に伝えきれていなかった言葉を、手紙に書き連ねた。
本当は美琴に会いたい。会って直接、僕の気持ちを伝えたい。でも、もう僕たちは会わないと決めたし、その決断を簡単に覆すことはできない。それに、彼女には飛鳥がいて、いよいよ来年に迫った結婚式に向けて着々と準備が進んでいることだろう。
だから、これでいいんだ。これでもう、何も思い残すことはない……。
僕はそう、自らに言い聞かせながら、美琴への手紙が入った封筒を、ポストの中に入れた。
「おわ、っと」
僕と飛鳥が着替えていた部屋の扉が開き、パンツ一丁の姿だった僕は、慌てて服を着た。
ドアを開けたのは、霜山刑事だった。
「何だ、誰かと思えば、あんたかよ。俺たちに何か用でもあんのか?」
上半身裸だった飛鳥が、苛立った口調で刑事さんに言った。
「まさか、夜野鷲翔と一緒だったとはな。今、お前の両親が今日の式に来てくれていた人たちに、必死になって頭を下げているっていうのに、こんなところで油売ってんじゃないわよ。ほら、早く着替えて戻るぞ」
刑事さんに連れられてやって来たのは、聖川ホテルの結婚式場だった。本当であれば、飛鳥たちの結婚式が、今日ここで開催されるはずだった。
「今、招待客の人たちに、全員帰ってもらっているところだよ。仕事で付き合いの深い人たちばっかりだから、今後に影響を与えないように、お前の両親がああやって頭下げてんだ。ほら、早くお前も行けっ」
刑事さんは飛鳥のお尻を叩き、お前も謝罪をして来いと、彼を急かした。
「いってぇ。ったく、マジでお前、クビにするぞ」
「フッ、望むところだ。できるもんなら、やってみろ」
飛鳥は急ぎ足で、彼の両親の元へ向かった。
「夜野くん、あなたは大人しく自分の家に戻りなさい。今ここにあなたがいると、彼らに迷惑がかかるだけだから」
「は、はい……」
刑事さんの威圧的な声に、僕は完全にひるみ、しゅんとした声でしか返事ができなかったのだった。
「本日ここにお集まりいただいた皆さんが、この聖川の街のために誠意を尽くし、ご活躍されることを期待しています」
ホテル白瀬で行われた、聖川市役所の入庁式。市長の挨拶とともに、僕の新社会人としての生活が始まった。
「そして、この場をお借りいたしまして、重大発表をさせていただきます。この度、聖川市は聖川ホテルグループと連携し、観光プロジェクトを立ち上げることとなりました」
アナウンスがなされると、大きな垂れ幕が下がり、会場内にどよめきが起こった。
毎年、市役所のホールで行われている入庁式が、なぜ今年に限り、このホテルで行われることになったのか疑問に感じていたが、ようやく腑に落ちた。
「観光課をはじめ、市の全部署が一丸となって、この事業を進めてまいります。新規採用の皆さまにも、ぜひ率先してこのプロジェクトに参加していただきたく……」
そうして、式は滞りなく進んでいき、最後に辞令交付が行われた。
「聖川市役所 新規採用者代表 夜野鷲翔」
「はい」
「夜野鷲翔、貴殿に観光課配属を命ずる」
僕は、壇上に上がり、市長から辞令を受け取った。
「ねぇ、彼じゃない? ほら、去年のクリスマスイブに、天宮家のお嬢様を車で轢いちゃった、あの事件の犯人だよ」
どこからともなく、そんな話し声が聞こえてくる。
この狭い街の中では、元々僕の顔を知っている人も多く、あの刑事さんが言っていたとおり、被害者であるはずの僕が、誰かと協力して美琴を事故に遭わせた、という噂が街中に広がっているようだった。
彼女は飛鳥と婚約中の身であり、そのカップルが聖川市民にとって明るい希望の星となっている中で、僕が二人の間に割って入ろうとしている、という見方が人々の間で強いことが、噂に拍車をかけているのだろう。
なぜ美琴を轢いた犯人が市役所で働くことができるのか、どうして新規採用の代表なのか、という周囲の同期たちの冷ややかな視線を感じた。
式典が終わり、会場を出ると、なぜか美琴がいた。僕と目が合うなり、こちらに向かって大きく手を振ってきた。
「何でここに?」
僕は、慌てて彼女の元に駆け寄り、小声で話しかけた。
「鷲翔のことで、みんなが変な噂してんじゃないかなーと思ってさ」
「バカ、声が大きいって」
周囲に聞こえるようにわざと大きな声を出す美琴に、僕は余計に焦りを感じた。
「私が鷲翔と普通に話してたら、きっと誤解も解けるはずだから」
「それって逆効果なんじゃ……」
周囲を見渡すと、先ほどの式典以上に変な目で見られてしまっていた。こういう場合、当事者どうしが会うことは控えた方が良いというのは、口にするまでもなく明らかだ。だが、美琴はそういう視線を気にすることなく、むしろ僕を庇うため、意図的に目立つ場所で会うことを選んだようだった。
「仕事が始まるまで、まだ時間あるでしょ、一緒にランチでもどう?」
僕は美琴に誘われるがまま、近くのレストランに入った。
「けど、ビックリしたよ。まさか、美琴のホテルと市が連携して観光促進プロジェクトを始めるなんて。美琴は事前に聞かされてた感じなの?」
プロジェクトの話を始めると、彼女はなぜか浮かない顔をした。
「私もこのプロジェクトの手伝いをすることになってるんだけど、あんまり乗り気になれないんだよね」
「どうして?」
「なんか、ウチの両親も、飛鳥の家の人たちも、本当に観光客を増やそうと思って今回の計画を進めているのかなーって。この街の未来のためだって言ってるけど、みんなの姿を見ていると、どこか違う目的があるように感じるんだよね。それに、鷲翔と天体観測をした、あの山も再開発のために買い取るなんて、絶対に間違ってるよ……」
「そっか、降七山もプロジェクトの一部に……」
もうすでにそこまで話が進んでいたとは全く知らず、僕は驚きを隠せなかった。
確かに美琴も感じているように、一緒に天体観測をした山が再開発されることになるのは、正直に言って寂しいし、この街から緑が失われてしまうことが本当にショックで仕方ない。
それに、美琴は「違う目的」があるように感じているというが、それが何に起因しているのか、本当に市の未来のためではない別の理由があるのか、様々な感情や疑問が僕の中を駆け巡った。
「でも、信じるしかないよね。この街がより良い方向に進んでいくための再開発なんだって。それに、僕はちょうど観光課に配属されたから、このプロジェクトに関わっていくことになるだろうし、そうなると美琴たちと仕事ができるってことだから。それは、本当に幸せなことだし、この巡り合わせには感謝しないとね」
たとえどんな陰謀が近くで渦巻いていたとしても、美琴と一緒なら一大プロジェクトだって何だって乗り越えていける。そう思うと、僕の心のモヤモヤが少しだけ晴れた気がした。
「疑問に思ったり、不安に感じたりすることはたくさんあるけど、クリスマスイブの日以外にも鷲翔に会えるのは、私も嬉しいから、それでヨシとしよっと。あれ、こんな話してたら、もう行かないといけない時間じゃない?」
時計を見ると、午後の開始時間が迫っていた。
「あ、ホントだ、ヤベッ!」
「頑張れ、新社会人」
挨拶もせずに慌てて出ていこうとした僕に向かって、美琴が笑顔でグーサインをしてきた。
「おう! 行ってきます」
僕もグーサインで返し、店を後にした。
始まるんだ、これから。僕の新社会人としての生活が。身の引き締まった思いで、僕は職場へと走り始めた。
「本日からお世話になります、夜野鷲翔と申します。よろしくお願いします」
市役所に着くなり、仕事の同僚となる方々に挨拶を行った。
「よろしく~、君のデスクはここね。あと、あそこに座っているのが、この観光課の課長さんね」
「ありがとうございます」
課長はちょうど机に向かって書き物をしていたため、顔がはっきりと見えなかった。僕は、近くまで駆け寄っていった。
「夜野鷲翔です。本日からよろしくお願いします」
課長が僕の声に気づき、こちらを見ると、それは見たことのある顔だった。
「あ、あなたは確か、公園にいらっしゃった……」
美琴の婚約発表の日、公園のベンチで僕の隣に座っていた方だ。
「何ともこれはまあ、めぐり逢いというのは不思議なものだね」
僕を見るなり、課長はフッと笑みを浮かべた。どうやらお互いに、あのときのことを覚えていたらしい。
「ここの課長さんだったんですね」
「あれ、課長とお知り合いの方ですか?」
隣のデスクの人も気になったのか、会話に入ってきた。
「いや、知り合いというか、たまたま公園で……」
「もしかして課長に突然声を掛けられた人ですか?」
「え、そうですけど、どうして?」
「課長は休みの日、よくあの公園で知らない人に声かけてるんですよ。この前も、たまたまあそこに私が行ったら、後ろから課長に話しかけられて。顔を見て、お互いビックリしちゃったんですよね」
どこで出会ったのか、説明するのが難しいなと思っていたが、どうやら僕以外にも同じように声を掛けられたことがある人がいるようだった。しかし、まさかこんな場所で再会するとは思わなかったな。
「こうして同じ職場になったのも何かの縁だ。改めて、よろしく」
「よろしくお願いします」
「早速だが、君には先ほどの入庁式でも発表があった、市の観光プロジェクトに参加してもらいたい。やってくれるかな?」
やはり事前の読み通り、この部署に配属されたということは、美琴たちとも働くことになるのだろう。聖川市を世界一の街にする、という父の思いを叶えるため、まずはこのプロジェクトを成功させなければならない。
「はい!」
僕は、力強く返事をした。これから始まる、新たな世界への第一歩を踏み出した瞬間だった。
働き始めてから、数ヶ月。太陽が強く照り付けて蒸し暑い、とある夏の日。僕は、母のお墓に手を合わせていた。
先日、母が息を引き取ったとの連絡が病院から入ってきた。
「母さん、最後を看取ることができなくて本当にごめん……」
結局、母と最後に話したのは、飛鳥たちの婚約発表の数日後に、病室を訪れたときだった。あの日以降、母は会話ができる状態ではなくなっていき、最後まで延命治療を続けてもらっていたが、それももう、ほとんど意味を成していなかった。
母が長生きすることを望んでいたのかはわからない。それでも僕は、母に少しでも長く生きていてほしかった。せめて、僕が誰かとともに生きていくことを報告する日までは、生きていて欲しかったが、それも叶わずじまいとなった。
ちょうど目を開けたときに、見慣れた人がこちらへ来ようとしていた。
「久しぶりだね、鷲翔くん。入庁式の日以来かな」
その人は、この街の市長、つまり美琴のお父さんだった。
「お久しぶりです、わざわざありがとうございます」
「いやいや、君のお母さんには、本当にお世話になったからね」
美琴のお父さんは、持ってきていた菊の花を供え、母の墓に手を合わせた。
「市長に来ていただけて、きっと母も喜んでいると思います。でもまさか、父と同じ日に亡くなるとは思いませんでしたけど」
「君のご両親は本当にいい人だった」
どこか懐かしい目をしながら、美琴のお父さんが言った。
「たしか、市長は父と親しい間柄だったと聞いていますが」
「ああ、そうだ。私は警察署、彼は市役所と、組織は違えど、この聖川の街をより良くしていこうとお互いに誓い合った仲だった。けど、君のお父さんは市役所を辞めて、その後すぐに亡くなり、君のお母さんも過労で倒れてしまった。それは全て私に責任があるんだ」
「責任? 私の両親が亡くなったことと、市長に一体どんな関係があるって言うんです?」
お線香を供えて、手を合わせ終えると、市長は重たい口調で再び話し始めた。
「ここからも見える、ホテル白瀬の高層タワー。あれが全ての始まりだった」
母の墓がある場所からもはっきりと見えた。高さ百五十メートルを超える、市内で最も高い三十階建ての高層タワー。周囲の他の建物と比べ、頭一つ分以上抜けており、この街のシンボル的存在でもある。
「君も覚えていると思うが、十六年前、あのタワーで事故が起きた。そう、建設五周年記念式典の際に、突然鉄筋が落下し、その真下にいたウチの娘を助けようとして、君のお父さんと当時の市長秘書の方が亡くなられてしまった。原因は、もともと手抜きの突貫工事だったうえ、その後の検査でも、修繕が必要だった部分を看過してきたことにあった」
そう、美琴を助けるために、僕の父は自ら犠牲となった。
白瀬グループの会長である飛鳥のお父さんが、泣きながら謝罪会見を行い、当時の聖川市長とともに大バッシングを浴びることとなった。建設当初は市全体が大歓迎ムードだった分、裏切られる形となってしまったことに、市民たちは深い憤りを覚えてしまったのだろう。
「君は知らないかもしれないが、あの事故よりもはるか前、建設プロジェクトの段階から、君のお父さんは、その危険性を訴えていたんだ。
今からちょうど二十五年前、建設工事が始まってすぐの頃は、あんなに大きなタワーができることに誰もが興奮していて、当時観光課の職員だった君のお父さんも、この街に明るい未来が待っていることに凄く喜んで、プロジェクトのメンバーに参加した。けど、建設が進むにつれて、すぐに反対するようになったんだ。
無茶ぶりな工事期限に間に合わせるため、関係者は何十時間も働かされ、誰かが毎日倒れていたからね。そのうえ、手抜き工事という事実も、水面下で噂になっていたが、上層部がそれを揉み消した。二、三十年前のご時世でもあり得ないようなことばかりをやってしまっていたんだ」
そうだったのか……。初めて知る過去の出来事に、僕は驚きを隠せなかった。
確かに、この街の発展を心の底から願っていた父も、多くの人たちが犠牲になってまで無理にタワーを完成させようとすることは、望んでいなかったはずだ。それでも結局、建設プロジェクトは最後まで推し進められ、人々の理想を詰め込んだシンボルは、父を死に追いやることとなった。
「その後まもなく、君のお父さんは市役所を辞めた。私は彼の意志を継ぐために市長になろうと決めた。それがせめてもの償いだと思ったから」
「償い?」
「君のご両親が亡くなってしまったのは、間違いなく私のせいなんだ」
市長はそう言っているが、父が亡くなったのは明らかに手抜き工事が原因だし、それを指示したのは飛鳥のホテルグループの当時の上層部であって、美琴のお父さんは何も関係ないように思える。なのに、どうして自分の責任だと言うのだろうか。
「当時、私は天宮家の婿養子に入って間もない頃だった。だから私にとっては、白瀬家と天宮家が今後も良好な関係を築いていけるように、タワー建設プロジェクトを最後まで支え続けることが至上命題となっていた。少しでも反対の声を上げる者がいれば、どんなに汚い手を使ってでも排除していたんだ。そんな私の前で、君の両親が反対の意を唱え始めた。
悪いことは言わないから、反対するのはよせ、って彼に忠告したんだ。けど、彼の聖川の人々を思う気持ちは、揺らぐことがなく、本当に真っ直ぐだった。苦しんでいる人たちが大勢いて、何がこの街の未来のためだ、って。彼はそう言って、プロジェクトチームの中から声を上げ始めた。
彼の意見に賛同する人が次第に増えていってね。いつの間にか、どこかの国で起こっている改革運動かっていうぐらいに、彼の周りには人が集まっていた。今思えば、私も彼と同じように、異議を唱えるべきだった。でも、結局私は、自らの立場に抗おうともせずに、彼にプロジェクトの一員を辞めるように促した。その後、彼は市役所自体から姿を消して、奥さんのやっていた料亭を手伝い始めたんだ」
そうか、三年前、飛鳥と美琴のホテルが合併に至ったのは、そのときからの関係があったからなんだ。
「もしかして、あの出来事も……」
過去の記憶が、ふいに頭をよぎった。
僕がまだ小学生に入る前、美琴の両親がウチの料亭を訪ねて来て、僕の両親が何かを言われ、涙を流していた姿を見たことがあった。
「十七年ぐらい前、市長と奥様がウチを訪ねてこられた際に、私の母が涙を流していたことがありましたよね。それも、そのときの出来事が関係しているんですか……?」
「それはきっと、君の料亭からの仕入れを断ったときのことだろう。君のお父さんが市役所を辞めて、料亭で働き始めてからも、ウチは君のご両親から料理を提供してもらう関係を続けていた。だが、あるとき、私の妻が突然、それを辞めると言い出したんだ。明らかに、あの建設プロジェクトに反対したことをまだ根に持っていて、その仕返しだと言わんばかりの行動だった。本当はそれも私が止めるべきだったのに、彼女の圧に屈してしまった」
「そ、そんな……」
あまりにもショックが大きすぎたためか、僕は思わず後ずさりしてしまった。
市長が、責任は自らにあると言った意味をようやく理解した。だから、僕の両親が営んでいた料亭は経営が厳しくなって、父も亡くなったため、母は過労で倒れることになってしまったのか……。
確かに、僕が市長の立場だったら、きっと同じことをしてしまっていたかもしれない。市長だけではなく、当時天宮家のホテルで働いていた誰しもが苦しい思いをしながら、望んでいない判断を下す羽目になったのかもしれない。でも……。
「せめて、仕入れを止めるという判断だけは回避できなかったんですか……?」
涙が流れ始めた僕は、今さら言っても仕方のないことを口にした。
多分、恨みだけではなく、総合的な面から考えて、僕の両親の料亭との関係を続けていくことが難しくなったために、そうした決断に至ったのだろう。だが、結果として母がああいう最期を迎えてしまったということは不変の事実であり、どうしてもそのことに対して、いたたまれない気持ちを強く感じてしまっている。
「君を観光課に配属するように進言したのは私だ。君には、君のお父さんが成し得なかった、この街を世界一にする夢を果たして欲しかったからね。でも、本当に申し訳ない。私には、私自身も妻も止めることができなかった」
「そう、だったんですね……」
ずっと疑問に思っていた、本当に美琴と働けることになったのは偶然なのかって。それは、彼女のお父さんが、僕に、この街の未来のために頑張るという父の意志を継いでほしいと願ったからだったということで、ようやく腑に落ちた気がした。
「でも、ありがとうございます。市長のお陰で、今の僕には父の思いを叶えるチャンスが回ってきたってことなので。それに母はずっと言ってました、料亭を二十年も続けてこられたのは間違いなく、天宮さんのご協力があったからだって。だから、市長も負い目とか責任を感じることはないと思います。きっと僕の両親はそんなこと、望んではいないと思うので」
そうだ、たとえ過去に色々あったとしても、起きてしまったことは変えられない。もう同じ過ちを繰り返すことだけはしないように、前を向いていくしかないんだ。多分、父も母も、いつまでも過去を引きずっていて欲しくないと思っていることだろう。
「いや、私が謝らなければならないのは、君のご両親だけじゃなく、君に対しても、だ。私は、いつまで経っても、君や君のお父さんみたいに、正義を貫けなかった」
「正義?」
「市長、お時間です」
声が聞こえてきた方向を見ると、市長秘書の方が車のドアを開けて待っていた。時計を見ると、僕が母の墓に来てから、もう一時間近くも経っていた。
「とにかく君には、ぜひお父さんの意志を継いでもらいたい。この聖川の街をよろしく頼む」
美琴のお父さんは車に乗り、その場を去っていった。
最後の言葉だけが妙に引っかかった。どうして市長は僕にも謝罪をしたいと言ってきたのだろう。もちろん両親が亡くなってしまったことで、遺族の僕にもそのような気持ちを抱くのは当然かもしれない。でも、市長の話しぶりから察するに、きっとまだ他にも何か僕に対して話せていないことがある、ということのような気がしている。
釈然としない気持ちで、僕は母の墓を後にした。
市役所の前で開かれたクリスマスイベントには、多くの人々が集まっていた。
僕と美琴は、観光プロジェクトの第一弾である、このイベントの開催に向けて、ともに力を尽くしてきた。
その美琴からは、今朝、「イベント終わったら、七夕クリスマスの会やろうね」というメッセージが来ていた。だが、彼女の母親からのけん制があって以降、美琴とはほとんど連絡を取らないようにしていた僕は、そのメッセージにも、何も返信をしなかった。
ひとまず、このイベントに集中しよう。そう思って、イベント会場に足を踏み入れた。
会場内の中心には、ラジオブースも設置され、聖川FMのクリスマス特別回が、放送されていた。
「さて、今夜は特別に、クリスマスイベントが行われている市役所前からお届けしております。そしてここで、今回のイベントの主催者である、聖川市役所の職員の方々にお越しいただきました。皆さん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす」
「うぉっ、やはり若い人たちの挨拶は、元気があっていいですねぇ」
僕を含め、主に新規採用の職員たちが、このラジオのゲストに招かれることとなった。
「初めに、皆さんの自己紹介をお願いします。では、手前の方からどうぞ」
パーソナリティに一番近い席に座っていた僕が、最初に発言するよう、指名された。
「あ、はい。観光課の夜野と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします。せっかくなので、もう少し夜野さんのこと、教えてもらえますか?」
所属と名前しか言わなかった僕は、慌ててマイクをもう一度手に取った。
「えっと……、私は両親に影響を受けて、この市役所で働くことに決めました。二人とももうこの世にはいないのですが、父も母も、この街を人々の笑顔でいっぱいにすることを、常に考えてきた人でした。僕も聖川市を世界一の街にしたいと思って、この場所で日々奮闘しています。今日はぜひ、一人でも多くの方々にこのイベントを楽しんでいただければと思います」
「ありがとうございます。では次の方、どうぞ」
そうして、ラジオが進んでいくとともに、僕の緊張も少しずつほぐれていった。
「えー、ここでお便りが届いています。聖川市のラジオネーム・バサバサ翼さんからです。『来年、私は社会人になるのですが、皆さんが働き始めてから、一番大切だなと感じたことはありますか』ということですが、これも順番にお伺いしていきましょうかね。では、また夜野さんからどうぞ」
一番大切なこと、か……。
僕自身、特に学生の間、そして社会人になってからも、様々な問題や悩みに直面し、そうした状況の中で、本当に色々なことを考えてきた。でも、その中で一番大切だと感じたことは何だったのだろう。
「夜野さん、大丈夫ですか」
少し考え込んで、口を閉ざしてしまっていた僕は、声を掛けられて、ハッとした。
「あ、すみません、一番大切だと感じたことですよね。それはやっぱり……、決断する勇気、じゃないでしょうか」
「ほう、というと?」
「ある人が言ってたんです、人は重大な決断をする度に、過去に戻ってやり直したいと後悔する生き物なんだ、と。でも、願いや理想を叶えるためには、今を動かして、思い描く未来へと繋げるしかない。そうは言っても、未来を作るのは、過去に戻ること以上に大変なことなんだと、僕も最近ようやく気がついて……。それこそ、思い通りの結末に辿り着く可能性なんて、多分〇・〇一%ぐらいしかないんだと思います。
僕たちは、そのわずかな可能性に全力を賭けて、挑むんですよね。その過程の中で、時には重要な選択を迫られることもあって、ベストだと思うものを選ぶんですけど、結局後になってから、それは間違いだったと後悔することになってしまう。それが嫌で決断を避けるようになるかもしれないんですけど、それでも選ぶことから絶対に逃げちゃダメなんだって。きっと、仕事でもプライベートでも、決断する勇気を持った人だけが、自らの理想を叶えられるんだと思うようになりました」
ふと我に返り、周囲を見渡すと、僕以外の全員が、完全にフリーズしていた。
「あ、すみません。僕一人、長く喋りすぎちゃって……」
「いやいや、素敵なお話、ありがとうございました。では次の方、どうぞ」
でも、決断する勇気が一番ないのは、僕自身だ。社会人になってからの僕は、周りの様子を窺って、自分で何かを選択するということがなくなってしまった。美琴とのことも、結局色々と曖昧な状態にしてしまって、何も決断できずにいる。
ラジオ番組が終わり、イベントの運営に戻ってバタバタしていると、市役所の中にあるホールで、美琴とバッタリ遭遇した。
「鷲翔……。どうして、今朝のメッセージに返事してくれなかったの? なんか最近、ずっと変な感じだし、私のこと避けてるよね」
「そ、そんなことないよ……。最近ちょっと仕事が忙しくて、あんまり連絡できてないだけだから」
美琴には、彼女のお母さんとの出来事について、一切話していない。言えば、確実に二人の関係はより悪化してしまうし、美琴の性格上、それに反抗するように、僕に会おうとしてくるだろう。
「じゃあ、イベントが終わったら、駅前のレストランに集合すること。わかった?」
「うん……」
僕は仕方なく頷いた。
「約束だよ? 大事な話があるから、絶対来てね」
「大事な話?」
「うん、実はね……」
美琴がそう言いかけた途端、外で雪が降ってきたのが、窓越しに見えた。
「久しぶりの雪だね。確か、最初の七夕クリスマスの会で、誕生日ケーキを作ったとき以来じゃない?」
美琴の方を見ると、どこか懐かしそうな目をしていた。もう、七夕クリスマスの会も今日で早六年を迎える。
美琴もこちらを見てきた。
え? 見てきたというより、それは見つめてきた、という感じだった。
何だろう、これがスノーマジックというやつなのだろうか。僕は本当にバカ野郎だ。彼女への思いを絶とうとしているのに……。
お互いの顔が近づいていく。いけないことだとわかっているのに、自然と体が動いていた。
「天宮さーん、どこにいらっしゃいますか?」
もう少しでキスをしてしまいそうなところで、誰かが美琴を呼ぶ声が聞こえてきた。
僕たちは慌てて、お互いに距離をとった。
「ごめん、また後でね」
美琴がその場を後にした。
イベント終了後、美琴と約束したレストランにやって来た。
「で、美琴の話って?」
彼女は、深呼吸をした。
「実はさ、私が市のプロジェクトに関わるのは、これで最後なんだ」
「え?」
そもそも今回の聖川市と聖川ホテルの共同企画イベントは、僕が社会人になったときと同じタイミングで始まったため、まだ一年も経っていない。僕と同じように、美琴も立ち上げメンバーとして、これからも市の活性化のために、このプロジェクトを進めていくものだと思っていた。
「あとは、ウチのホテルの、他の人が引き継いで、私はホテルの運営に専念する、っていうことになってて」
「ことになってる?」
「本当は私も、このまま市の観光プロジェクトに関わっていたいよ。でも、ウチの両親がそう決めたことだから、ホテルという組織の中にいる以上、人事は絶対だから」
美琴はまだ大学生だが、卒業後には聖川ホテルで働くことを決めていたようだった。そのために、東京の大学で経営学の勉強をしていたのだろう。そして、学生の身でありながら、すでにホテルの一員として、このプロジェクトにもたくさん携わってきた。
「それでね、私も決めたんだ。このまま飛鳥との結婚を受け入れて、頑張っていくしかないって。東京で鷲翔が言っていた、私たちの『七夕クリスマスの会』という物語に終止符を打つタイミングは、今なんだと思う」
「そう、なんだ……」
美琴の急な発言に、僕は明らかに動揺していた。自分も同じことを考えていて、彼女にそう伝えようとしていたはずなのに、いざ美琴本人の口から先に直接言われると、思っていた以上の衝撃を感じた。
「あの事故をきっかけに、やっぱり私は、現状に抗えるほどの勇気と力を持っていないことに気づいちゃったんだよね。で、このまま鷲翔の連絡先を持ち続けていたら、多分また会いたいって思っちゃうから、今日ここで消そうと思って」
美琴は、スマホを取り出して、メッセージアプリを起動した。
これまでの彼女の姿とは打って変わって、まるで別人が憑依したかのような、突然すぎる行動の連続に、僕は驚きを隠せなかった。
「わかった。じゃあ、僕も美琴の連絡先を消すよ」
僕もスマホを出して、美琴の連絡先のページを開けた。
だが、明らかに、僕のスマホを持つ手が震えている。
「じゃあ、お互いのスマホを差し出し合って、私が鷲翔のスマホから、鷲翔が私のスマホから連絡先を消し合うっていうのはどう?」
「うん、じゃあそうしよう」
僕たちは自らのスマホの画面を見せ合った。
「じゃあいくよ、せーの!」
僕たちはお互いの連絡先を消去した。
これでよかったんだ。僕が彼女と関われば、周りの人たちに迷惑がかかってしまう。僕が彼女の世界から消えれば、みんなが幸せになれるんだ……。
僕はそう、自分に言い聞かせた。
帰り道、彼女はひどく酔っぱらっていた。
「美琴、大丈夫か?」
「らいじょーぶ、らって」
大丈夫とは言うものの、全く呂律が回っておらず、足元もおぼつかなかった。
それもそのはず、先ほどのレストランで、普段の美琴ではあり得ないほどの量のワインを注文し、僕の制止にも耳を貸さずに、全て飲み干したからだ。
「そうだ、鷲翔。一緒に写真撮ろうよ」
「写真?」
彼女はスマホを取り出し、自撮りを始めた。
「ほら、笑って~。はい、チーズ」
パシャ。
「アハハッ、何て顔してんのよ、鷲翔」
撮った写真を見ながら、美琴は爆笑した。
それにしても、どうしていきなり写真なんか撮ろうと言い出したのだろう。せっかくお互いの連絡先を消したのに、このままだと結局……。
半分呆れ顔で美琴を見ていると、彼女は、道の脇にあった石につまづき、よろけかけた。
「危ないっ!」
僕は、彼女の腕をつかんで、身体を支えた。
「大丈夫か?」
「う、うん……、ありがと」
僕たちは、いきなり顔が近くなって、突然ぎこちなくなった。
「ねぇ、もう少しだけ一緒に居たい……」
急に美琴がそう言い出した。
トロけた彼女の顔に、僕は我慢ができなかった。街の大通りであるにもかかわらず、僕たちは口づけを交わした。
その夜、僕たちは同じベッドに入った。
朝、目が覚めると、もう彼女の姿はなかった。
ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。ったく、僕は何をやってんだ……。
今になって、昨夜の出来事を後悔していた。ようやく彼女も心を決めたというのに、最後の最後であんなことをしてしまうなんて、やっぱり僕はダメな奴だな。
また美琴のいない日々が今日から始まる。
でもそれは、これまでみたいにまた一年経てば、会うことができる、というものではない。もう二度と、僕たちの人生が交差することはなくて、お互いのいない世界を歩んでいくことになる。
もっと強く、ならないとな。僕はもう一度顔を洗って、仕事へと向かった。
はぁーっ。職場の座席の上で、大きく背伸びをした。すでに時刻は、夜の八時を過ぎていた。
そろそろ帰るかな。そう思った矢先、机の上に置いていた、星空の写真がふと目に留まる。降七山に登ったときの写真だ。そういえば、これを撮ったの、美琴だったっけ。
彼女は今、元気にしているだろうか。この同じ空の下にいて、一緒にいる誰かと笑い合っていてくれれば、それでいい。それで、いいんだ……。
「あれ、まだ帰っていなかったのか」
後ろから声を掛けられて振り返ると、そこには課長がいた。
「あ、ちょうど帰ろうとしていたところでして。課長こそ帰宅されたのかと思っていましたが、どうかされたんですか?」
「忘れ物をしてしまってね。あ、やっぱりここにあったか」
それは、いつも課長が持参しているお弁当箱だった。
「これは私にとって、とても大切なものでね。今となっては、自作の総菜を入れるしかなくなってしまったが、昔は毎朝、妻がお弁当を作ってくれていたんだ。でも、その妻は十六年前の事故で帰らぬ人となってしまった」
「十六年前の事故って、まさか……」
「そう、ホテル白瀬のタワー事故だ。建設五周年記念パーティーの際、鉄筋が落ちてきて、真下にいた少女を助けようとして、私の妻と地元の小料理屋の亭主が亡くなってしまった」
そうか、あのとき、父とともに美琴を助けた人は、この人の妻だったのか。
「人は誰しも、いくつかの思い出とともに、これまで関わってきた人たちのことを記憶している。そして、思い出が積み重なっていくほど、その人にまつわる記憶や感情は、より強い形で脳裏に刻まれる。だからこそ、その人と永遠に別れるときがやってきても、いつまでも過去にとらわれてしまって、どうしてあのとき、もっと素直に自らの気持ちを伝えなかったのかって後悔することになるんだ。私も、その苦しみからなかなか抜け出せずにいる人間でね……」
あの事故の日、おそらく僕は病院で、課長が泣き崩れている姿を見たんだ。ハッキリと顔を見ることはなかったけれど、人は、大切な誰かを失うと、こんなにも絶望の淵に立たされ、溢れ出てくる涙を止めることができなくなってしまうのかと、衝撃を受けた記憶がある。きっと母も、泣きたい気持ちを無理やり抑えて、僕に寄り添ってくれたのだと思う。
当時の僕はまだ幼くて、身近な人の死を初めて経験して、悲しいという感情はありつつも、それ以上に現実から目を背けることに必死で、とにかくつらい事実を認めたくなかった。それからだろうか、何事に対しても真正面から向き合おうとしなくなってしまったのは。
美琴への気持ちにも、もっと正直になれれば良かったのに、結局はあんな終わり方になってしまった。
「でも、君にとって大切な人は、今もこの地球上のどこかで生きているんだろう? だったらまだ、君の気持ちを伝えるチャンスがあるじゃないか」
課長のその言葉に、僕はハッとした。
そうだ、僕にはまだ、この想いを伝えられる可能性が残っているじゃないか。たとえ彼女に会えなくても、僕の素直な言葉を届けられる方法が全くなくなったわけじゃない。
「ありがとうございます、失礼します」
駆け足で帰る僕の後ろ姿を、課長は笑顔で見つめていた。
「時が経つのも、早いものだな。お前の息子は、もうこんなにも立派になっているぞ」
課長は、自らの席の上に置いてあった写真を手に取った。そこには、自分と妻と、鷲翔の父が写っており、『同期会』の文字が書かれていた。
自宅に帰るなり、僕は机の蛍光灯の明かりを点け、便箋を取り出し、自らの想いを書き始めた。
美琴へ
昨日は、ごめんなさい。
ちゃんとお別れの挨拶もできなかったし、本当に色々と申し訳なかったと思っています。なので、昨日伝えられなかったことを、最後にこの手紙に書き残します。
美琴と過ごした六年間のクリスマスイブは、これまでの僕の人生の中で、一番眩しく輝いていて、かけがえのないひとときでした。
十二月二十四日。一年にたった一日だけ、美琴に会うために、一年間頑張ろうって思えたのは、本当に奇跡でしかなかったと思っています。
そんな、宝物のように大切な時間を手放すという決断をしたことは、きっと自分を後悔させるんだとわかっています。
でも、大人になっていく中で、僕はこの決断を受け入れなければならない。そう思って、「七夕クリスマスの会」を終わらせることに決めました。
振り返れば、七夕クリスマスの会は、美琴の何気ない一言から始まりました。でも、僕にとって、その最初の一ページは非常に大きな転換点で、まだ何色にも染まっていなかった僕の世界に、色をつけてくれた美琴との壮大なストーリーの始まりでした。
美琴が始めてくれた物語に、僕が終止符を打とうとしていいのか、正直自分の中で物凄く葛藤しました。まだ美琴との時間を続けていたい、という気持ちが僕の心の中から消えることはなくて、むしろ一年に一度だけじゃなくて、毎日の何気ない瞬間をも美琴と共有したいと、今でも強く思っています。
でももう、昔みたいに何もかもが自分の思いどおりになる、ということが、次第になくなっていって、僕たちがわがままを続けることにも限界が来ていると思い、そして昨日の、あの瞬間を迎えることになりました。
自分の本当の気持ちに蓋をすることは、他のどんな苦行よりも耐え難いことだとわかっていますが、人生は何か一つでも願い事が叶えば勝ち、というくらい難しいもので、僕たちがこれからも同じ時間を過ごしていくことは、神様に認められなかったのだと、自らに言い聞かせて前に進むしかないと思っています。
これから先は、お互い別々の道を歩んでいくことになりますが、きっとそれぞれに、明るい未来が待っているはずです。
僕は、また新たなスタートを切って、人生の答えを探す旅を始めようと思っているので、天宮さんも自分にしか描けない、色とりどりのストーリーを紡いでいってください。
お互いのこれからに、幸があることを祈っています。
夜野鷲翔
美琴に伝えきれていなかった言葉を、手紙に書き連ねた。
本当は美琴に会いたい。会って直接、僕の気持ちを伝えたい。でも、もう僕たちは会わないと決めたし、その決断を簡単に覆すことはできない。それに、彼女には飛鳥がいて、いよいよ来年に迫った結婚式に向けて着々と準備が進んでいることだろう。
だから、これでいいんだ。これでもう、何も思い残すことはない……。
僕はそう、自らに言い聞かせながら、美琴への手紙が入った封筒を、ポストの中に入れた。
