「あっつぅ……。なぁ、やっぱ外めちゃめちゃ暑いし、運動したいなら、中で卓球続けるってことでいいんじゃねぇの?」
七夕の昼ということもあり、夏真っ盛りと言うには僅かに早い時期ではあったが、近年の異常気象、のそれドンピシャの暑さだった。おそらく三十度は軽く超えているであろう熱気に加え、湿度も高く、外で動き回るには不向きな、そんな蒸し暑い天気だった。
「バァロ、卓球のヘタなお前に、卓球で勝っても仕方ねぇんだよ。元サッカー部のお前を、フットサルで倒さねぇとな」
こいつ、俺がサッカー部をすぐに辞めたことを知っていて、わざとけしかけてきているのか?
「俺はもう、サッカーもフットサルもしないって決めたんだよ」
「つべこべ言ってないで、早く中に入って来い」
「ったく……」
何年ぶりだろうか。コートに入るのも、ボールを触るのも。
もう二度と戻ってこないと決めたはずなのに、飛鳥のせいで、またこの場所に立つことになった。中学生のとき、帰りに何度もこの場所に立ち寄り、必死にボールを蹴って、汗を流していた記憶が脳裏に蘇ってきた。
「ルールは簡単だ。お互いに攻撃と守りを繰り返して、奪ったゴール数の多い方が勝ち、な。じゃあ、俺が先にシュートを狙いに行くってことで」
飛鳥がコートの中央に立ち、僕はゴールの前で待機した。
「じゃあ、始め!」
飛鳥は自らの掛け声とともに、ボールを蹴り始めた。
物凄い勢いで、僕のいるゴールのところまで迫ってくる。
「行くぜ、弾丸シュート!」
来る! そう思った瞬間、僕は怖くなって目を閉じてしまった。
飛鳥が勢いよく蹴ったボールが、僕の真横をすり抜け、ゴールネットを揺らした。
「おい、大丈夫か。目を瞑ってちゃ、シュートは防げないぜ?」
「仕方ないだろ。僕は人に迫って来られるのが嫌いで、これまで一度もキーパーをやったことがないんだから」
「ったく。ほら、次お前攻撃だから、ちゃんとシュート決めにかかって来いよ」
守ることが苦手な分、攻撃のターンでは、何としても決めなければならない。
よし……。大きく深呼吸して、ボールを動かし始めた。
ゆっくりと慎重に、ゴールへ近づいていき、狙いを定める。
飛鳥は若干右に寄っている。となると、狙うべきは左上だ。
僕は左上ギリギリに入るように、ボールを蹴った。だが、飛鳥が右手でパンチングし、ボールの軌道が逸れ、クロスバーに当たって枠外に転がった。
「ナ、ナイスブロッキング……」
「おいおい、このままじゃ、また俺が圧勝しちまうぜ?」
その後も、飛鳥だけが得点を重ねていき、卓球に続いて、サッカーでもボロ負けしてしまう未来が見え始めていた。
「よぉし、じゃあ、次が最後だ。これまでの結果は全部なしにしてやるから、今度、勝った方が、このゲームの勝者ってことで」
ゲームが始まって二十分くらい経ってから、飛鳥がそう言った。
「得点の多い方が勝ち、だったんじゃないのか?」
「クイズ番組とかでよくあるだろ。大差がついたときは、最終問題で百万点ってやつ」
僕はボールを手に取り、コートの中央に立った。
ふと空を見上げると、雲一つない快晴だった。
美琴がいなくなったっていうのに、空はそんなことを気にも留めずに、最高の表情を見せている。
まぁ、そんな日に僕らも何してんだって話だけれど、僕も飛鳥も彼女がなぜ姿を消したのか、何となくわかっているから、逆にこんなことをしているのだろう。
美琴はいつもそうだった。
彼女のやり方は、大人っぽいときもあれば、幼稚だと言われてしまうような場合もあったけれど、今の自分にできる精一杯の方法で、現状に抗い、自分なりの答えを見つけていた。
今日こうして、僕にボールを蹴るタイミングが回ってきたのは、きっと偶然ではなく、飛鳥が言い出したから、というわけでもなく、神様がチャンスを与えてくれたんだと思う。
僕だって、サッカーというものから逃げたくて、逃げたわけじゃない。
これは神様から、お前はサッカーをやるな、向いていないと言われているんだと、そう思い込んで、僕は潔く身を引いたつもりだった。
でも、本当は、あのとき逃げ出した自分が心の底から嫌いだった。
ここで負けたら、何にも変わらないじゃないか。あのときと同じ運命を辿るつもりはない。
絶対に、決める。
そう決心して、僕はゴールへと走り出した。
「スキありっ!」
キーパーをしていた飛鳥が、直接ボールを奪おうと飛び出してきた。
取られてたまるか!
僕は飛鳥の守備を交わし、ガラ空きのゴールにシュートを決めた。
「や、やった……、やった!」
たった一つ、ゴールが決まった。それだけのことなのに、僕は大はしゃぎしていた。
「フッ、やっぱり最後に全部持っていくのは、お前なんだな」
飛鳥が呟いた。
「え?」
「いや、何でもねぇよ。とにかく、このゲームの勝者はお前だ、おめでとう」
「お、おう。ありがとな」
やっぱり、今日の飛鳥は何か変だ。さっきの落ち込んでいる姿といい、終始彼らしくない感じに思えた。けどまあ、結婚する相手が式当日に突然消えたんだもんな、そりゃ当然か。
ふと、彼の顔を見ると、目から涙らしきものが流れていた。いや、気のせいだろう、きっと汗と見間違えたんだ。
ダメだな、暑さのせいで、僕も何だかおかしくなってきている気がする。
水とタオルを手にとり、室内に入った。
「ってか、ここにあったスケート場、もうなくなってたのか」
僕たちは、先ほどの卓球場で、着替えを始めていた。その最中、ふいに外を見ると、いつの日だったか、美琴とスケートをした場所がここだったことを思いだしたが、今はもうその場所がなくなっていることに気がついた。
「いつの話してんだよ。あのスケート場は、もともと四年ぐらい前の冬だけ特別に設置されることになって、結局、人の集まりも悪かったし、すぐに撤去されたじゃねぇかよ」
そう、だったのか……。
今考えてみると、このデパートも降七山も、テーマパークも、すべて美琴がいたから、来ることになったんだな。本当に、彼女のお陰で、色んな経験をすることができた。
でも、もう僕たちは会わないって決めたんだ。
すべては、あの事件がきっかけだった。あの日を境に、彼女の気持ちも、少しずつ変わり始めたような気がする。これまで目を背け続けてきた現実に、向き合わなければならないときが来てしまったんだ、と。
僕はまた、何でこんなところまで来てしまったのだろうか。
「お待たせー。わざわざ来てくれてありがとね」
そう、ここは東京駅の真ん前である。しかも、時刻はまだ、朝の六時を過ぎたばかりだ。
聖川から夜行バスで来たため、まだ朝が早く、辺りも薄暗かった。そんな時間に美琴が駅まで迎えに来てくれたのは、本当にありがたい限りだった。
今日、僕がわざわざ、こんな所まで来たのには理由がある。
「ていうかどうしたの、そんなに真剣な顔しちゃって」
神妙な面持ちで突っ立っていた僕を、彼女が不思議そうに見つめてきた。
「今日で会うのは、最後にしよう」
美琴に会うなり、僕はそう言った。ホントはずっと彼女と話さなければならなかった、僕たちが向き合うべき現実について。
「僕も来年から社会人だし、多くの人から大人として認識される。いつまでも学生気分で美琴と会っているわけにはいかないよ」
自分でも冷たい言い方をしているのはわかっていた。けど、これぐらい強く言わないと、彼女はまた僕に会いたいと言ってくる。それに、そういうスタンスをとらないと、つらい気持ちに押しつぶされて、僕が僕じゃなくなるみたいだったから。
「ヤダ!」
想定していた返事だったが、思っていたよりも強めの口調だった。
「そんな話をするために、今日ここに来たわけじゃないから。ほら、早く行こ」
「待ってよ、美琴!」
完全に怒って、僕の元から離れていってしまった彼女の後を追いかけた。
「ご注文は何にいたしましょうか」
僕たちはひとまず喫茶店に入った。こんなに朝早くから営業している喫茶店がすぐに見つかったのは意外だった。
「あ、じゃあ、コーヒーを二つ」
「私、コーヒー飲めない。一つはクリームソーダ、それとパンケーキもちょうだい」
「かしこまりました……」
明らかに不機嫌な美琴の声に、店員さんも若干おののきながら、注文を受け取った。
「やっぱり良くないと思うんだ。美琴は婚約をしている身だし、僕とこうして会っている姿を誰かに見られでもしたら、僕も美琴も相当なバッシングを浴びることになるのは間違いないんだから」
「鷲翔はさ、こうやって毎年、私に会いたくなかったわけ?」
届いたパンケーキを口にほおばりながら、美琴が僕に言った。
「いや、そういうわけじゃないよ……。でも、今僕たちがしていることは明らかに許されることじゃない気がするっていうか……」
「飛鳥との件なら、ちゃんと私の方でケジメをつける。だから、これからも私と会ってよ」
ケジメをつける、とは言っても、飛鳥との婚約発表は、もう世間に知れ渡っているし、今からそれを覆すことは、そう簡単にはいかないだろう。
「とにかく、あんまり時間もないし、早く最初の場所に行くよ」
支払いを終わらせ、怒って早歩きで店を出ていった美琴を、僕は慌てて追いかけた。
次に、彼女とやって来たのは東京タワーだった。
今日は、どういったルートを回るのか、そもそも行き先が決まっているのかどうかすら、彼女から聞かされていない。だが、美琴は毎回、この七夕クリスマスの会で何をするのか、予め決めていたし、今回も何の迷いもなく足を前に進めている。
東京タワーのチケットも事前に購入していたところを見る限り、おそらく一日のスケジュールをすべて決めているであろう彼女に、僕はとにかくついていくしかなかった。
「うぉー、スゲェな」
メインデッキに到着すると、圧巻の景色が目に飛び込んできた。聖川でも、去年登った降七山から街を見渡すことができたが、ここから見える大都会の高層ビル群には、また違った趣があった。
絶景に驚いている僕の横で、美琴はずっと黙ったままだった。先ほどの喫茶店を出てから、彼女は何も言葉を発しておらず、こうやって二人で会うのは最後にしようという僕の話に、まだ怒ったままである様子が見てとれた。
「あれ、美琴?」
突然、一人の女性が、美琴に声を掛けてきた。
「え、何でここに……?」
「やっぱり美琴じゃーん。そっか、今日は彼氏くんとデートの日だったか」
美琴の知り合い、だろうか? かなりフランクに彼女と話をしている。だが、どうやら僕のことを、美琴の彼氏だと勘違いしているらしい。
「だから、彼氏じゃないって言ってるじゃん。ってか、そっちこそ、まさか一人で来たってわけじゃないでしょ?」
「私は、彼氏とデートだよ?」
少し離れた場所で立っていた男性が、こちらに向かって会釈をしてきた。
「あのー、どちら様ですか?」
僕だけが蚊帳の外状態だったので、会話に入っていいものなのか、ずっと迷っていたが、我慢できずに思い切って話しかけてみた。
「あ、いきなりお邪魔してしまって、すみません。私、美琴と同じ大学に通ってて、経営学のゼミで一緒なんですよ」
「そう、だったんですね。いつも美琴がお世話になっています。僕は……」
「夜野鷲翔さん、ですよね?」
「え?」
その人は、なぜか僕の名前を知っていた。
「美琴ったら、いつもあなたとの写真を見ていて。気になったので、この前、問い詰めたんですよ。そしたら、あなたのこと教えてくれて」
美琴が、僕との写真を? 彼女の方を見たが、相変わらず目を合わせてくれなかった。
「それよりも、いいの? あなたの方こそ、彼氏くん待たせてるんじゃなくて?」
「ヤバッ、忘れてた……。じゃあ、失礼しました。東京観光、楽しんでくださいね!」
彼氏の元に戻りかけていた、その人が、急に踵を返して僕の元に来た。
「美琴のこと、大切にしてあげてください」
僕の耳元で、そう呟いた。
「もう、何話してんの!」
「何でもないよ〜。じゃあ、また大学で」
美琴のクラスメイトさん、ありがとう。でもね、美琴のことを大切にしてあげられるのは、僕じゃないんだ。彼女にはもういるから……、僕とのような一時的な関係ではなくて、これからともに支え合って生きていく、そういう人が。
その人の去りゆく背中を見つめながら、僕は心の中で、そんなことを思った。
「やっぱり、海の動物ってなんかいいよね、自由で」
水族館に着くなり、美琴が呟いた。
「私、動物が檻に囲われているのを見るの、嫌いなんだ。何かしがらみの中で生きているみたいで……。もちろん水族館の動物も水槽の中にいるという意味では同じだし、動物園の生き物たちだって、悠々自適に暮らせてるとは思うんだけどさ」
美琴が言っていることは、僕にも理解できる部分があった。
人はどうしても、社会の様々な制約に縛られながら生きていかなければならなくて、でもそうした現実から必死に目を背けようとしてしまう。動物園の檻が、そうした社会のしがらみと重なって見えてしまうことは、僕にもあるから。
「本当はさ、私もわかってるんだ、許されないことをしているっていうのは。けど、頭ではわかっていても、私の心がその現実を受け入れてくれないんだよね」
やっぱり美琴も、感じていたんだ、こうやって僕たちが二人だけで会うのは、ダメなんだということを。
僕も、彼女と同じように、ずっと自分の正直な気持ちとしては、これからも七夕クリスマスの会をやりたいと思っている。でも、傍から見れば、僕たちのやっていることは、許されることではない。
「何かみんな、あまりにも生き急いでいるよね」
「え?」
僕は突然、そう呟いた。
「東京とか来ると毎回感じることなんだけど、今の時代ってホント息苦しいよね。街中ではほとんどの人が足早に移動していて、電車の中では常にスマホをイジっていて、一秒でも無駄に過ごしたくないっていう、みんなの思いがめっちゃ伝わってきてさ」
いきなりコイツは何を話し始めたのだろうと、不思議そうな顔をしている彼女を横目に、僕は話を続ける。
「ネット社会になったことで、昔よりも一秒の価値がどんどん高くなっていってさ。秒単位で更新されていく情報の波に、少しでも乗り遅れたら負け、みたいな雰囲気になっていることに、凄く疑問を感じるんだよね。まるで前時代的な生き方は許さない、って突きつけられている気がしてさ」
「それ、すっごいわかる!」
ずっと僕が一方的に話していたが、美琴も感じていたところがあったのか、話に入ってきた。
「大学で過ごしてても、みんなSNSばっかり開いて、真新しい話題について必死に語り合って。もちろん、それも凄く大事な時間だとは思うけど、それ以上に大事にすべきことってあると思うんだよね。でも、受験とか就活とかスポーツなんかも、全て情報戦が主体になってきているのを見ると、そうした社会を受け入れなければならないのかなって」
「うん。それに今のSNSは、どうしてもフォロワー数とかコメント、いいねの数ばかりが注目されがちで、多ければ多いほどいいんだ、みたいな風潮って、ホント嫌気が差してくるよね」
テレビを見ていても、フォロワー数何万人以上のインフルエンサーが集結とか、いいねをたくさんください、万バズ感謝っていう投稿とかが溢れかえっている世界は、僕的にはかなり生きづらさを感じてしまう。
社会がより混沌を極めていく中で、誰かからの共感やリアクションが欲しいというのはわかるけれど、今はそれがあまりにも過剰になりすぎてしまっているように感じる。
「それが嫌で、鷲翔はSNSを辞めたってこと?」
「そうだね、少なくとも、昨今の情報社会の形やそれに対する考え方が変わらない限り、僕がSNSを再び始めることはないかな。まあ、流石にメッセージアプリは入れてるけどね」
中学や高校のときは、SNSをやっておかないとハブられるみたいな、良くないノリがあって、僕もアプリを入れていたが、同級生のみんなも別々の道を歩み始めていき、次第にSNSから離れていった。そして数年前に、僕は連絡手段以外のSNSをキッパリと辞めたのだ。
「話が大きく逸れちゃったけど、結局さ、目まぐるしく回るこの世の中の流れに、無理して合わせる必要なんかなくて、もう少し檻から出たままでもいいんじゃないかなって。だから、僕も今朝は、美琴の気持ちを考えずに、いきなりあんなこと言っちゃって本当にごめん。僕は美琴の気持ちの整理がつくまで、とことん付き合うつもりでいるから」
「ありがと……」
やけにか細い美琴の声に、僕は思わず彼女の方を見ると、目が潤んでいた。
「あれ、もしかして泣いてる?」
「な、泣いてないし!」
美琴は慌てて涙の跡を拭いた。
「私もちゃんと全部片づけて、気持ちの整理もするから、それまでは私のワガママに付き合ってくれる?」
「うん、わかった」
「ありがとね」
本当は、もっと早く片をつけなければいけない状況ではあるが、一年に一度、この瞬間だけは許してほしいという思いが、僕の理性に待ったをかけている。
飛鳥に対して、申し訳なく思いながらも、どうしても正直な気持ちを止められない自分が、そこにいた。
「最後にさ、あの観覧車に乗ってから、帰ろうよ」
日も暮れかかった頃、美琴が指を差したのは、イルミネーションで彩られた街中で、一際輝いていた観覧車だった。
「個室で二人きりなんて、ドキドキしちゃうかも」
「そう、だね……」
狭い観覧車の中では、お互いの吐息が触れ合うほど、美琴との距離が近くなり、僕の心臓の鼓動は、身体中に響き渡るほど早くなっていた。
「ヤダ、もう。冗談で言ったのに、そんなにマジな顔されちゃうと、こっちが困っちゃうじゃん」
「ご、ごめん」
「あ、花火。こんな時期にも見られるんだね」
窓の外を見ると、真っ暗な冬の夜空に、花火が鮮やかな色をつけていた。
この時期に花火を打ち上げている場所は全国でいくつかあるが、それがちょうどクリスマスイブの日というのは、かなり珍しいはずだ。
「ホント久しぶりに見たかも。花火を見るのはあのとき以来、なのかな」
美琴は思い出していた、あの夏祭りの日のことを。
「告れ、告れ!」
五年前、私は鷲翔らとともに、聖川駅前で開かれた夏祭りに来ていた。いや、今回の場合、彼は無理やり連れてこられた、という表現の方が正しいかもしれない。
鷲翔は、当時想いを寄せていた相手に自らの気持ちを伝えるよう、クラスメイトに茶化されながら、その場をセッティングされていたのだ。
「ぼ、僕は、あなたのことが……」
「いけっ!」
私や飛鳥も、鷲翔の様子を見守る友人グループの中に混ざり、その様子を見ていた。
でも、なぜだろう……。鷲翔の様子を見ていると、どこか胸に痛みがあるように感じている自分がいた。
バサッ!
突然、私の真横で大きな物音が聞こえてきた。
「あ、私のカバンが!」
それは、私の荷物がひったくられた音だった。
「おい、待てー!」
告白のことなど忘れたかのように、一目散に駆け出したのは、鷲翔だった。
「鷲翔……。待って、私も行くから」
「美琴、追いかけるのは、さすがに危ないって」
飛鳥の制止も聞かず、私は鷲翔の後を追いかけて走り出した。
それから何分走り続けただろうか。
「だから、待てって言ってるだろうがよ!」
鷲翔は最後の力を振り絞り、ひったくり犯の腕をつかまえた。
「はぁー、キツイ。もうだいぶ駅から離れちまったじゃねぇかよ、ったく」
鷲翔が、犯人を捕まえてすぐに、私も追いついた。
「ごめん、私のせいで、大事な瞬間に水差しちゃったよね」
「近くで誰かが困ってるときに、自分の都合を優先するようなヤツではいたくなかったからな。まあ、美琴のカバンも取り戻せたし、これでよかったよ」
彼は笑顔で、私にそう言った。その瞬間、私は胸でつかえていた痛みの正体に気がついた。私は、彼のことを……。
「けど、伝えそびれちゃったなぁ、自分の気持ち」
河川敷の草むらの上に寝転び、夜空を彩る花火を見上げながら、鷲翔が言った。
ウー、ウー。パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「ヤベッ、警察が来るぞ」
「え? それでいいじゃん、このまま警察を待ってたら」
「バーロ、このまま大人しく警察の到着を待っていたら、事情聴取に連れていかれちまうじゃねぇかよ。それだと、最後まで花火見れねぇじゃん……。よし、走るぞ」
そう言うと、彼は自分が学生証を落としたことにも気づかず、私の手をとってその場から走り出した。
「ポケットから学生証落ちたけど大丈夫なの?」
「構うな、後で拾いに来るから。とにかく行くぞ」
そんな二人の姿を、遅れて到着した飛鳥が気に食わぬ顔で見ていた。
「通報したのは?」
「あ、私です。白瀬飛鳥と申します」
現場に到着した警察の対応には、通報をした飛鳥があたった。
「ん、学生証? 名前は夜野鷲翔、か……」
警察官の一人が、道端に落ちていた鷲翔の学生証を見つけた。
「霜山―。どうした、何か見つかったのか?」
その警察官は、まだ新米刑事の霧山朱鷺羽だった。
「警部! 草むらから、こんなものが」
思えば、あのときから、だったのかもしれない。鷲翔に対する、自分の気持ちに初めて気がついたのは、あの夏の日だった。
「鷲翔、あのときはごめんね」
「あのときって?」
「高校生だったときに、鷲翔が夏祭りで告白しようとしてて、それを私たちが陰でこっそり見ちゃってたこと」
ずっと思っていた。あのときのこと、ちゃんと謝らなきゃ、って。
「あー、そんなこともあったね。全然こっそりじゃなかったけど、同じクラスの何人かに見られちゃってたやつね」
「あの後、鷲翔めっちゃ怒ってたよね。集まろうって呼びかけたの誰だーって、あのメンバー集めた人に殴りかかってなかった?」
「そう、だったっけ? もう覚えてないや」
ウソだ。あのときのことを、鷲翔が忘れているはずがない。
今ならわかる。鷲翔にとって、自分の恋愛を冷やかされることは、最も嫌いなことであり、友人であれば、見えないところで応援していてほしいんだ、ということを。
そして、それは今の私も同じ気持ちだから。
「あのとき、私もいたのに、ちゃんと謝罪できていなかったなって、今更ながらに思い出しちゃって」
「いいよ、もう。本人が忘れてんだから、時効だよ」
「よくないよ。少なくとも、今の私は、あのときの自分を許してないから」
人はどうしても、誰かの恋愛に対して、勝手に盛り上がったり、茶化したりしがちだけれど、人が人を想う気持ちは他のどんなことよりも尊いものであって、そんなに簡単に扱っていいものではない。
偶然、同じ時代に生まれた人の中に、愛する人ができたということは、本当に奇跡でしかなくて、でもほとんどの人がその奇跡を、当たり前のことのようにしか思っていない。
高校生のときの私も、いつかは自分にも恋人ができて、結婚して、子どもが生まれて……、みたいにぼんやりと思っていたけれど、最近になってようやく、恋の物語を紡いでいくことがいかに難しいかということを実感するようになった。
それは、自分自身が本気の恋を知ってしまったから。
私は知らず知らずのうちに、誰かを傷つけてしまっていたかもしれない。本気で恋をしている人の気持ちを、心のどこかであざ笑ってしまっていたのかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられる気がして仕方がない。
だから私は、もし誰かが恋愛で悩んでいたら、本気でその想いを受け止めて、傍で寄り添って応援するし、もし自分が誰かに恋をしているのなら、その気持ちと真剣に向き合おうと決めたんだ。
「でも、ありがとね、そんな風に言ってくれて」
今日みたいに、私はいつだって、鷲翔の優しさに助けてもらってばかりだった。
そんな彼の優しさに、心を惹かれたのだろう。私は、この気持ちと、ちゃんと向き合わなければならない。
残念ながら、彼が今、私のことをどう思っているのかはわからない。けど、せめて「同じ時間をともに過ごしてくれて、本当にありがとう」って伝えたい。そして、いつかきっと彼に恩返しをするんだ。そういう思いもあって、この七夕クリスマスの会を立ち上げた。
でも、その瞬間は、私の願っていたものとは、全く異なる形で訪れることとなった。
「そろそろ帰ろっか」
僕は美琴に向かって、そう呟いた。
「そうだね……」
今年ももう、終わってしまう。毎年、彼女との楽しい時間は一瞬で過ぎていってしまい、また来年があるから大丈夫、と自らに言い聞かせて、年に一度だけの特別な一日を締めくくっている。
僕たちは、東京駅に戻って、新幹線に乗り込んだ。
「はぁー、流石に疲れたな」
席に座って背伸びをした。明らかに普段よりも体が重くなっているのを感じ、自然と大きなあくびも出ていた。
「そりゃそうだよね。東京に来て、たった一日で聖川に戻っちゃうんだもん」
「ホント、今日のスケジュールは、流石にハードすぎたなぁ。聖川に着くまで、まだ時間かかるし、ちょっとだけ一眠りするかな」
そう言ってから、僕はものの数分で、眠りについた。
「ふぁーあ」
どれくらいの時間が経っただろうか。目を覚まし、時計を見ると、新幹線に乗ってからおよそ一時間が経過していた。
隣の席に目を向けると、美琴もぐっすりと寝ているようだった。
ん? 美琴の目元が濡れている気がするが、これはもしかして涙……?
「し、鷲翔……」
もう少し近づいて確認しようとすると、突然、彼女の口から、僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「私は鷲翔のことが……」
え? 起きて普通に話しているかのようだが、それは間違いなく寝言だった。しかし、美琴は一体どんな夢を見て、僕に何を言おうとしているのか……。気になってしまった僕は、さらに身体が前のめりになる。
ガッシャーン!
「ウワッ!」
突然大きな音がして、思わず大声を出して驚いてしまった。音が聞こえてきた方を見ると、テーブルに置いていたはずの僕のカメラが、床に落ちてレンズが割れてしまっていた。
「んんっ……、何の音?」
ぐっすり寝ていたはずの美琴も、目を覚ましてしまった。
「うわっ、ビックリしたー。ねぇ鷲翔、なんか顔近くない?」
「あっ、ごめん」
ヤバイ、最悪のタイミングで美琴に気づかれてしまった。僕は慌てて、彼女との距離をとる。
「もしかして、私のこと襲おうとしてた? サイテー」
「そ、そんなわけないだろ……。目元にゴミが付いていたから取り払ってあげようとしただけだよ」
「ウソだね、そんな犯人がよく使うような常套句には騙されないよ」
美琴に詰め寄られていると、車内でアナウンスがかかった。どうやら間もなく僕たちの降りる駅に到着するようだった。
「やばい、もうすぐ着くって。早く降りる準備しないと」
それから、僕たちは在来線を乗り継ぎ、聖川駅に着いた。
ホームに降り立って、駅舎を出ると、わずかな明かりだけが街中を照らしていた。
「すっかり暗くなっちゃったね。それにめっちゃ寒い……」
「もうこんな時間だもんね」
それもそのはずで、僕たちは東京駅からすべて終電で帰ってきたため、いつの間にか日付も変わっていた。
「今日は、無理なお願いを聞いてくれて、本当にありがとう」
美琴が、東京まで出向いた僕に、お礼を言ってきた。
「ううん、僕が行きたくて行っただけだから」
「ありがと。じゃあ、またね」
彼女に別れを告げて、信号機のない横断歩道を渡ろうとした、そのときだった。
東京への弾丸旅行から戻ってきて疲れてしまっていたのだろう。それはすべて、僕の不注意が生んだ出来事だった。
「危ない!」
視界の右側から車のヘッドライトが見えたと思ったら、さっき別れたばかりの美琴が、僕を庇うようにして倒れ込んできた。
あまりにも一瞬すぎた出来事に、僕は全く思考が追い付いていなかった。気づけば天を向いていた自らの体を起こした。
「美琴……?」
僕の両手には、赤い血が大量についていた。でも、それは僕の血ではなかった。
「美琴……、美琴! 大丈夫か、返事してくれよ、美琴!」
彼女の顔や体には、いくつもの傷ができており、大量の血が流れ、真っ赤になっていた。
慌ててスマホを取り出し、救急車を呼んだ。
ぶつかってきた車は、しばらく停まっていたが、僕が視線をやると同時に、その場を立ち去っていった。暗くてナンバーはよく見えなかったが、とても高級そうな白いスポーツカーで、開いていた窓が閉まったのが確認できた。
「今日は、私が東京から帰ってきて、鷲翔は駅まで迎えに来ただけ……。誰に何を聞かれても、そう伝えて」
「え?」
美琴がそう呟いた。
「お願い、このことは私たちだけの秘密にして」
「う、うん。わかった……」
ピーポーピーポー。救急車の音が聞こえてきた。
「でも、よかった。今度は私が鷲翔のこと、助けてあげられたから」
そう言い残してすぐに、彼女の意識がなくなった。
ほどなくして、彼女は病院へと運ばれていった。
集中治療室の前で、僕は祈るようにしながら座っていた。
「美琴!」
飛鳥が病院に駆け込んできた。彼と美琴の両親も一緒に到着した。
「おい、どうしてお前と彼女が一緒にいた?」
僕の胸ぐらをつかみながら、飛鳥が言った。
「東京から帰ってくるから、駅まで迎えに来てくれって、美琴に頼まれたんだ」
美琴が望んでいた通り、僕はウソをついた。
「まさか、こんなことになるなんて……。隣にお前がいたのに、どうしてこうなった!」
「本当に申し訳ない……」
「クソッ、お前!」
「やめなさい、飛鳥」
僕を殴ろうとした飛鳥を、彼の両親が必死になって止めようとする。
彼は二人の制止を振り払い、強く握った拳を壁にぶつけた。
「もう飛鳥ったら、何やってんの。擦り傷ができちゃってるじゃない」
飛鳥の母親がポケットから絆創膏を取り出し、彼の手に貼り始めた。
「こんな傷、どうってことねぇよ。美琴の痛みに比べたら、な」
壁に怒りをぶつけても、飛鳥の苛立ちは、なかなか収まらなかった。
それから、待つこと約一時間。手術中のランプが消え、美琴が出てきた。
「美琴、大丈夫か?」
飛鳥がすぐに彼女の元に駆け寄った。
「えぇ、大したことないわ」
そうは言うものの、美琴の身体には、かなりの数の包帯が巻かれており、酸素マスクもつけられていた。非常に大掛かりな治療になってしまったことは間違いない。
「そうか、よかった……。先生、美琴を救ってくださって、ありがとうございます」
美琴と飛鳥はそのまま、看護師の方に連れられ、病室へと向かった。僕の横を通り過ぎるときに一瞬だけ、美琴の視線がこちらに向き、彼女の口角が上がったような気がした。
「夜野鷲翔くん?」
誰かが自分を呼ぶ声がした。振り向くと、そこには見覚えのある人が立っていた。
「警察よ、ちょっと署まで来てもらえるかしら」
昨年の爆破予告の事件以降、美琴の警護につき始めた警察官で、天体観測をした日、僕に忠告をしてきた人だ。
「はい……」
僕は警察署で取り調べを受けることになった。
「去年のクリスマスイブの日以来ね。けど、こうして君とちゃんと話をするのも初めてかしら。いつも天宮のお嬢様と親しげにされていたけど、お互い面識もほとんどなければ、名前も知らなかったものね。ひとまず、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします。えっと、霜山……」
胸ポケットについている名札を見たが、漢字が読めない。
「ときは、よ」
「その……、霜山刑事は、僕を疑っているんですか?」
「えぇ、そうよ」
何のためらいもなく、その刑事はすぐに僕のことを疑っていると認めた。
「どうしてですか? あのとき、僕が轢かれそうになっていたところを、彼女が助けてくれたんですよ? 僕が犯人なわけ、ないじゃないですか」
「誰かにそうするように命じていたなら可能となるわ。現場周辺は防犯カメラもほとんどないし、目撃者も君しかいない。それに彼女があの時間に聖川に帰ってくることを事前に知っていれば、彼女をあの時間、あの場所に誘導することができたはずでは?」
僕が実行犯というわけではなく、共犯者を使ったという風に考えているのか……。
まあ、この刑事さんがそう考えるのも、ある意味当然のことだろう。他に婚約者がいる女性と二人きりで天体観測をしたり、駅まで迎えに行ったりしている男が、叶わない恋という現実に直面して、自暴自棄になって彼女を傷つけようとした……。
そう考えれば、僕が犯人だという結論にどうしても行き着いてしまうし、刑事さんの忠告を無視した人間が潔白であると考える方が何百倍も難しいことに間違いはない。
「何か、僕がやったっていう証拠はあるんですか?」
「いいえ、残念ながら私の憶測に過ぎないわ。まあ、でも事故を起こした車を警察が見つけられれば、近くのガードレールについていた傷と一致するはずだから、そのときは観念なさい」
でも、それは霜山刑事だけの憶測には留まらなかった。
翌日以降、その事故は世間の注目を大きく集めることとなり、脅迫事件のことも掘り返され、ネット上では犯人探しが熱を帯びていった。
様々な意見が上がる中で、犯人は夜野鷲翔、という考察が最も多く支持され、僕の立場は明らかに悪くなっていった。
そして、数週間後。年が明けて、僕は美琴の病院に呼び出された。
「失礼します」
「ちょっと待った」
美琴の病室に入ろうとすると、僕の行く手を阻む手が突然視界に現れた。
「久しぶりね、夜野鷲翔くん」
それは、霜山刑事だった。
「今日、君にここまで来るように伝えておくよう、病院の方にお願いしたのは、私なの」
僕は電話で看護師さんに呼ばれてここまで来たが、まさか美琴の両親のお願いなどではなく、この人の仕業だったとは……。
「それで、こんなところまで呼び出しておいて、僕に何の用なんですか?」
「君にもう一度確認しておこうと思って。本当にあの日、君は天宮のお嬢さんを駅まで迎えに行っただけなのかなって」
おそらくこの刑事さんなら、もうとっくに防犯カメラを調べて、僕が東京まで行っていたことぐらい、わかっているだろう。なのになぜ、あえて僕に直接聞いてくるのだろうか。
「ええ、ウソなんかついてませんよ。この前、警察署でも言いましたけど、彼女の迎えに行っただけです」
飛鳥ならまだしも、警察にウソを言ってもすぐにバレてしまうということは十分理解していた。だが、美琴との約束を守るため、僕が自らの発言を変えることはなかった。
「でも、不思議なんだよね~。あの事故が起きた道路は、君の家への帰り道で、彼女の実家がある方向とは真逆にある。君が駅まで迎えに行っただけなのなら、普通は彼女を家まで送り届けるはず。でも、実際には、君は自分の家に帰ろうとしていた」
「コ、コンビニに寄ろうと思って、あの横断歩道を渡ろうとしただけのことですよ」
刑事さんの鋭い指摘に、僕はタジタジしながらも、咄嗟にウソを重ねた。
「ふーん、じゃあ、彼女本人に確かめちゃおっか。失礼しまーす」
そう言うと、刑事さんは病室のドアを開け、中に入っていった。
「ちょ、ちょっと……」
病室に入ると、飛鳥や美琴の両親たちが、彼女のベッドを囲うようにして、見舞いに来ていた。
「美琴さんにお聞きしたいことがあるのですが、少しお時間よろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
刑事さんは、美琴に話しているのに、なぜか飛鳥が返事をした。
「あの事故が起きた日、どうしてあなたは、あんな時間に、聖川駅前で夜野くんと会っていたのですか?」
「それは、前にも刑事さんに話したと思いますけど、あの日はとても忙しかったけど、どうしても実家に帰らなければいけなくなって、仕方なく終電で帰省してきたのよ。それで彼だけが駅まで迎えに来てくれた……。それだけのことよ」
「どうして、あの横断歩道を渡ろうと? 確か、美琴さんの実家とは真逆の方向だったはずですが」
「まだコンビニが営業中だったから、私が飲み物だけ買って帰りたいって彼にお願いしてついてきてもらったのよ。そしたら、急に車が飛び出してきたってこと。これで満足?」
「さすが、息ぴったりの回答だ」
僕の驚きを見透かしたかのように、刑事さんが言った。僕も彼女もウソをついているが、何の示し合わせもしていないのに、奇跡的に言っていることが一致している。
「それが事実だからよ。わかったら、さっさと出て行ってくれる?」
刑事さんに向かって、明らかに怒っている口調で、美琴が言った。
「承知しました。まだ体調が万全でないところ、変なことを聞いてしまって申し訳ございませんでした。あとはどうぞ、親しい方たちでごゆっくり」
刑事さんは、そう言い残すと、病室を出ていった。
「ちょっと待って。夜野くん、だったかしら?」
病室を出て帰ろうとした矢先、美琴のお母さんに声をかけられた。
「この後、ウチのホテルまで来てくれる?」
「は、はい……」
何があっても来いと言わんばかりの圧を感じ、僕は怖気づきながら返事をした。もともと今日は、美琴とゆっくり話がしたいと思い、時間を空けていたが、まさか彼女本人ではなく、お母さんと話をすることになるとは、全く想像もしていなかった。
「ごめんなさいね、突然お呼び立てしちゃって」
「あ、いえ……」
何人かの執事さんらしき人たちにも囲まれ、多少の圧を感じながら、僕は客間のソファに座った。
「あなたも知っていると思うけど、今この街に変な噂が流れているのよね。あの事件、本当はあなたがやったんじゃないかって」
「いえ、僕はやってません!」
思わず声を荒げながら、ティーカップを強く、机の上に叩きつけるように置いてしまった。執事の方がすぐに僕の元へ駆け寄り、紅茶がこぼれた床を拭いて下さった。
「ええ。もちろん、私としても、そんな噂なんか信じていないし、あなたがやったとも思っていないわ。でも、世間でここまで騒がれてしまっている以上、私としても何もせずに放っておくわけにはいかないの」
そして、美琴のお母さんは、執事さんからタブレットを受け取り、その画面を僕に見せてきた。
「それでね、あの爆破予告の事件以降、先ほどの霜山という刑事さんが、美琴のボディーガードを務めてくださっているのだけれど、今後はより一層、娘の警備をしっかりするようにお願いしておいたの。彼女の胸ポケットにつけた監視カメラの映像を、こうやっていつでも私が見られるようにして、もし美琴に怪しい者が近づけば、即刻その者たちを排除するよう、私から指示が出せるってわけ」
タブレットには、病室で飛鳥と話している美琴の姿が映っていた。今後は、あの刑事がずっと彼女の傍について、この母親が、ともに行動を監視するということか……。
「そして、それはもちろん、あなたも例外ではないわ。だから、十分気をつけることね」
「は、はい……」
それは、明らかに僕に対するけん制だった。何が何でも、美琴を飛鳥と一緒にさせて、部外者であるお前は排除するぞ、ということなのだろう。
二人が婚約者どうしであるという事実は間違いないし、僕も彼女に会うのはダメなことだとわかっている。だから、美琴のお母さんに釘を刺されて、それに黙って従いたくはなかったけれど、僕は何も言い返せずに、湧き出てくる感情を必死に抑えながら、拳を強く握りしめることしかできなかった。
七夕の昼ということもあり、夏真っ盛りと言うには僅かに早い時期ではあったが、近年の異常気象、のそれドンピシャの暑さだった。おそらく三十度は軽く超えているであろう熱気に加え、湿度も高く、外で動き回るには不向きな、そんな蒸し暑い天気だった。
「バァロ、卓球のヘタなお前に、卓球で勝っても仕方ねぇんだよ。元サッカー部のお前を、フットサルで倒さねぇとな」
こいつ、俺がサッカー部をすぐに辞めたことを知っていて、わざとけしかけてきているのか?
「俺はもう、サッカーもフットサルもしないって決めたんだよ」
「つべこべ言ってないで、早く中に入って来い」
「ったく……」
何年ぶりだろうか。コートに入るのも、ボールを触るのも。
もう二度と戻ってこないと決めたはずなのに、飛鳥のせいで、またこの場所に立つことになった。中学生のとき、帰りに何度もこの場所に立ち寄り、必死にボールを蹴って、汗を流していた記憶が脳裏に蘇ってきた。
「ルールは簡単だ。お互いに攻撃と守りを繰り返して、奪ったゴール数の多い方が勝ち、な。じゃあ、俺が先にシュートを狙いに行くってことで」
飛鳥がコートの中央に立ち、僕はゴールの前で待機した。
「じゃあ、始め!」
飛鳥は自らの掛け声とともに、ボールを蹴り始めた。
物凄い勢いで、僕のいるゴールのところまで迫ってくる。
「行くぜ、弾丸シュート!」
来る! そう思った瞬間、僕は怖くなって目を閉じてしまった。
飛鳥が勢いよく蹴ったボールが、僕の真横をすり抜け、ゴールネットを揺らした。
「おい、大丈夫か。目を瞑ってちゃ、シュートは防げないぜ?」
「仕方ないだろ。僕は人に迫って来られるのが嫌いで、これまで一度もキーパーをやったことがないんだから」
「ったく。ほら、次お前攻撃だから、ちゃんとシュート決めにかかって来いよ」
守ることが苦手な分、攻撃のターンでは、何としても決めなければならない。
よし……。大きく深呼吸して、ボールを動かし始めた。
ゆっくりと慎重に、ゴールへ近づいていき、狙いを定める。
飛鳥は若干右に寄っている。となると、狙うべきは左上だ。
僕は左上ギリギリに入るように、ボールを蹴った。だが、飛鳥が右手でパンチングし、ボールの軌道が逸れ、クロスバーに当たって枠外に転がった。
「ナ、ナイスブロッキング……」
「おいおい、このままじゃ、また俺が圧勝しちまうぜ?」
その後も、飛鳥だけが得点を重ねていき、卓球に続いて、サッカーでもボロ負けしてしまう未来が見え始めていた。
「よぉし、じゃあ、次が最後だ。これまでの結果は全部なしにしてやるから、今度、勝った方が、このゲームの勝者ってことで」
ゲームが始まって二十分くらい経ってから、飛鳥がそう言った。
「得点の多い方が勝ち、だったんじゃないのか?」
「クイズ番組とかでよくあるだろ。大差がついたときは、最終問題で百万点ってやつ」
僕はボールを手に取り、コートの中央に立った。
ふと空を見上げると、雲一つない快晴だった。
美琴がいなくなったっていうのに、空はそんなことを気にも留めずに、最高の表情を見せている。
まぁ、そんな日に僕らも何してんだって話だけれど、僕も飛鳥も彼女がなぜ姿を消したのか、何となくわかっているから、逆にこんなことをしているのだろう。
美琴はいつもそうだった。
彼女のやり方は、大人っぽいときもあれば、幼稚だと言われてしまうような場合もあったけれど、今の自分にできる精一杯の方法で、現状に抗い、自分なりの答えを見つけていた。
今日こうして、僕にボールを蹴るタイミングが回ってきたのは、きっと偶然ではなく、飛鳥が言い出したから、というわけでもなく、神様がチャンスを与えてくれたんだと思う。
僕だって、サッカーというものから逃げたくて、逃げたわけじゃない。
これは神様から、お前はサッカーをやるな、向いていないと言われているんだと、そう思い込んで、僕は潔く身を引いたつもりだった。
でも、本当は、あのとき逃げ出した自分が心の底から嫌いだった。
ここで負けたら、何にも変わらないじゃないか。あのときと同じ運命を辿るつもりはない。
絶対に、決める。
そう決心して、僕はゴールへと走り出した。
「スキありっ!」
キーパーをしていた飛鳥が、直接ボールを奪おうと飛び出してきた。
取られてたまるか!
僕は飛鳥の守備を交わし、ガラ空きのゴールにシュートを決めた。
「や、やった……、やった!」
たった一つ、ゴールが決まった。それだけのことなのに、僕は大はしゃぎしていた。
「フッ、やっぱり最後に全部持っていくのは、お前なんだな」
飛鳥が呟いた。
「え?」
「いや、何でもねぇよ。とにかく、このゲームの勝者はお前だ、おめでとう」
「お、おう。ありがとな」
やっぱり、今日の飛鳥は何か変だ。さっきの落ち込んでいる姿といい、終始彼らしくない感じに思えた。けどまあ、結婚する相手が式当日に突然消えたんだもんな、そりゃ当然か。
ふと、彼の顔を見ると、目から涙らしきものが流れていた。いや、気のせいだろう、きっと汗と見間違えたんだ。
ダメだな、暑さのせいで、僕も何だかおかしくなってきている気がする。
水とタオルを手にとり、室内に入った。
「ってか、ここにあったスケート場、もうなくなってたのか」
僕たちは、先ほどの卓球場で、着替えを始めていた。その最中、ふいに外を見ると、いつの日だったか、美琴とスケートをした場所がここだったことを思いだしたが、今はもうその場所がなくなっていることに気がついた。
「いつの話してんだよ。あのスケート場は、もともと四年ぐらい前の冬だけ特別に設置されることになって、結局、人の集まりも悪かったし、すぐに撤去されたじゃねぇかよ」
そう、だったのか……。
今考えてみると、このデパートも降七山も、テーマパークも、すべて美琴がいたから、来ることになったんだな。本当に、彼女のお陰で、色んな経験をすることができた。
でも、もう僕たちは会わないって決めたんだ。
すべては、あの事件がきっかけだった。あの日を境に、彼女の気持ちも、少しずつ変わり始めたような気がする。これまで目を背け続けてきた現実に、向き合わなければならないときが来てしまったんだ、と。
僕はまた、何でこんなところまで来てしまったのだろうか。
「お待たせー。わざわざ来てくれてありがとね」
そう、ここは東京駅の真ん前である。しかも、時刻はまだ、朝の六時を過ぎたばかりだ。
聖川から夜行バスで来たため、まだ朝が早く、辺りも薄暗かった。そんな時間に美琴が駅まで迎えに来てくれたのは、本当にありがたい限りだった。
今日、僕がわざわざ、こんな所まで来たのには理由がある。
「ていうかどうしたの、そんなに真剣な顔しちゃって」
神妙な面持ちで突っ立っていた僕を、彼女が不思議そうに見つめてきた。
「今日で会うのは、最後にしよう」
美琴に会うなり、僕はそう言った。ホントはずっと彼女と話さなければならなかった、僕たちが向き合うべき現実について。
「僕も来年から社会人だし、多くの人から大人として認識される。いつまでも学生気分で美琴と会っているわけにはいかないよ」
自分でも冷たい言い方をしているのはわかっていた。けど、これぐらい強く言わないと、彼女はまた僕に会いたいと言ってくる。それに、そういうスタンスをとらないと、つらい気持ちに押しつぶされて、僕が僕じゃなくなるみたいだったから。
「ヤダ!」
想定していた返事だったが、思っていたよりも強めの口調だった。
「そんな話をするために、今日ここに来たわけじゃないから。ほら、早く行こ」
「待ってよ、美琴!」
完全に怒って、僕の元から離れていってしまった彼女の後を追いかけた。
「ご注文は何にいたしましょうか」
僕たちはひとまず喫茶店に入った。こんなに朝早くから営業している喫茶店がすぐに見つかったのは意外だった。
「あ、じゃあ、コーヒーを二つ」
「私、コーヒー飲めない。一つはクリームソーダ、それとパンケーキもちょうだい」
「かしこまりました……」
明らかに不機嫌な美琴の声に、店員さんも若干おののきながら、注文を受け取った。
「やっぱり良くないと思うんだ。美琴は婚約をしている身だし、僕とこうして会っている姿を誰かに見られでもしたら、僕も美琴も相当なバッシングを浴びることになるのは間違いないんだから」
「鷲翔はさ、こうやって毎年、私に会いたくなかったわけ?」
届いたパンケーキを口にほおばりながら、美琴が僕に言った。
「いや、そういうわけじゃないよ……。でも、今僕たちがしていることは明らかに許されることじゃない気がするっていうか……」
「飛鳥との件なら、ちゃんと私の方でケジメをつける。だから、これからも私と会ってよ」
ケジメをつける、とは言っても、飛鳥との婚約発表は、もう世間に知れ渡っているし、今からそれを覆すことは、そう簡単にはいかないだろう。
「とにかく、あんまり時間もないし、早く最初の場所に行くよ」
支払いを終わらせ、怒って早歩きで店を出ていった美琴を、僕は慌てて追いかけた。
次に、彼女とやって来たのは東京タワーだった。
今日は、どういったルートを回るのか、そもそも行き先が決まっているのかどうかすら、彼女から聞かされていない。だが、美琴は毎回、この七夕クリスマスの会で何をするのか、予め決めていたし、今回も何の迷いもなく足を前に進めている。
東京タワーのチケットも事前に購入していたところを見る限り、おそらく一日のスケジュールをすべて決めているであろう彼女に、僕はとにかくついていくしかなかった。
「うぉー、スゲェな」
メインデッキに到着すると、圧巻の景色が目に飛び込んできた。聖川でも、去年登った降七山から街を見渡すことができたが、ここから見える大都会の高層ビル群には、また違った趣があった。
絶景に驚いている僕の横で、美琴はずっと黙ったままだった。先ほどの喫茶店を出てから、彼女は何も言葉を発しておらず、こうやって二人で会うのは最後にしようという僕の話に、まだ怒ったままである様子が見てとれた。
「あれ、美琴?」
突然、一人の女性が、美琴に声を掛けてきた。
「え、何でここに……?」
「やっぱり美琴じゃーん。そっか、今日は彼氏くんとデートの日だったか」
美琴の知り合い、だろうか? かなりフランクに彼女と話をしている。だが、どうやら僕のことを、美琴の彼氏だと勘違いしているらしい。
「だから、彼氏じゃないって言ってるじゃん。ってか、そっちこそ、まさか一人で来たってわけじゃないでしょ?」
「私は、彼氏とデートだよ?」
少し離れた場所で立っていた男性が、こちらに向かって会釈をしてきた。
「あのー、どちら様ですか?」
僕だけが蚊帳の外状態だったので、会話に入っていいものなのか、ずっと迷っていたが、我慢できずに思い切って話しかけてみた。
「あ、いきなりお邪魔してしまって、すみません。私、美琴と同じ大学に通ってて、経営学のゼミで一緒なんですよ」
「そう、だったんですね。いつも美琴がお世話になっています。僕は……」
「夜野鷲翔さん、ですよね?」
「え?」
その人は、なぜか僕の名前を知っていた。
「美琴ったら、いつもあなたとの写真を見ていて。気になったので、この前、問い詰めたんですよ。そしたら、あなたのこと教えてくれて」
美琴が、僕との写真を? 彼女の方を見たが、相変わらず目を合わせてくれなかった。
「それよりも、いいの? あなたの方こそ、彼氏くん待たせてるんじゃなくて?」
「ヤバッ、忘れてた……。じゃあ、失礼しました。東京観光、楽しんでくださいね!」
彼氏の元に戻りかけていた、その人が、急に踵を返して僕の元に来た。
「美琴のこと、大切にしてあげてください」
僕の耳元で、そう呟いた。
「もう、何話してんの!」
「何でもないよ〜。じゃあ、また大学で」
美琴のクラスメイトさん、ありがとう。でもね、美琴のことを大切にしてあげられるのは、僕じゃないんだ。彼女にはもういるから……、僕とのような一時的な関係ではなくて、これからともに支え合って生きていく、そういう人が。
その人の去りゆく背中を見つめながら、僕は心の中で、そんなことを思った。
「やっぱり、海の動物ってなんかいいよね、自由で」
水族館に着くなり、美琴が呟いた。
「私、動物が檻に囲われているのを見るの、嫌いなんだ。何かしがらみの中で生きているみたいで……。もちろん水族館の動物も水槽の中にいるという意味では同じだし、動物園の生き物たちだって、悠々自適に暮らせてるとは思うんだけどさ」
美琴が言っていることは、僕にも理解できる部分があった。
人はどうしても、社会の様々な制約に縛られながら生きていかなければならなくて、でもそうした現実から必死に目を背けようとしてしまう。動物園の檻が、そうした社会のしがらみと重なって見えてしまうことは、僕にもあるから。
「本当はさ、私もわかってるんだ、許されないことをしているっていうのは。けど、頭ではわかっていても、私の心がその現実を受け入れてくれないんだよね」
やっぱり美琴も、感じていたんだ、こうやって僕たちが二人だけで会うのは、ダメなんだということを。
僕も、彼女と同じように、ずっと自分の正直な気持ちとしては、これからも七夕クリスマスの会をやりたいと思っている。でも、傍から見れば、僕たちのやっていることは、許されることではない。
「何かみんな、あまりにも生き急いでいるよね」
「え?」
僕は突然、そう呟いた。
「東京とか来ると毎回感じることなんだけど、今の時代ってホント息苦しいよね。街中ではほとんどの人が足早に移動していて、電車の中では常にスマホをイジっていて、一秒でも無駄に過ごしたくないっていう、みんなの思いがめっちゃ伝わってきてさ」
いきなりコイツは何を話し始めたのだろうと、不思議そうな顔をしている彼女を横目に、僕は話を続ける。
「ネット社会になったことで、昔よりも一秒の価値がどんどん高くなっていってさ。秒単位で更新されていく情報の波に、少しでも乗り遅れたら負け、みたいな雰囲気になっていることに、凄く疑問を感じるんだよね。まるで前時代的な生き方は許さない、って突きつけられている気がしてさ」
「それ、すっごいわかる!」
ずっと僕が一方的に話していたが、美琴も感じていたところがあったのか、話に入ってきた。
「大学で過ごしてても、みんなSNSばっかり開いて、真新しい話題について必死に語り合って。もちろん、それも凄く大事な時間だとは思うけど、それ以上に大事にすべきことってあると思うんだよね。でも、受験とか就活とかスポーツなんかも、全て情報戦が主体になってきているのを見ると、そうした社会を受け入れなければならないのかなって」
「うん。それに今のSNSは、どうしてもフォロワー数とかコメント、いいねの数ばかりが注目されがちで、多ければ多いほどいいんだ、みたいな風潮って、ホント嫌気が差してくるよね」
テレビを見ていても、フォロワー数何万人以上のインフルエンサーが集結とか、いいねをたくさんください、万バズ感謝っていう投稿とかが溢れかえっている世界は、僕的にはかなり生きづらさを感じてしまう。
社会がより混沌を極めていく中で、誰かからの共感やリアクションが欲しいというのはわかるけれど、今はそれがあまりにも過剰になりすぎてしまっているように感じる。
「それが嫌で、鷲翔はSNSを辞めたってこと?」
「そうだね、少なくとも、昨今の情報社会の形やそれに対する考え方が変わらない限り、僕がSNSを再び始めることはないかな。まあ、流石にメッセージアプリは入れてるけどね」
中学や高校のときは、SNSをやっておかないとハブられるみたいな、良くないノリがあって、僕もアプリを入れていたが、同級生のみんなも別々の道を歩み始めていき、次第にSNSから離れていった。そして数年前に、僕は連絡手段以外のSNSをキッパリと辞めたのだ。
「話が大きく逸れちゃったけど、結局さ、目まぐるしく回るこの世の中の流れに、無理して合わせる必要なんかなくて、もう少し檻から出たままでもいいんじゃないかなって。だから、僕も今朝は、美琴の気持ちを考えずに、いきなりあんなこと言っちゃって本当にごめん。僕は美琴の気持ちの整理がつくまで、とことん付き合うつもりでいるから」
「ありがと……」
やけにか細い美琴の声に、僕は思わず彼女の方を見ると、目が潤んでいた。
「あれ、もしかして泣いてる?」
「な、泣いてないし!」
美琴は慌てて涙の跡を拭いた。
「私もちゃんと全部片づけて、気持ちの整理もするから、それまでは私のワガママに付き合ってくれる?」
「うん、わかった」
「ありがとね」
本当は、もっと早く片をつけなければいけない状況ではあるが、一年に一度、この瞬間だけは許してほしいという思いが、僕の理性に待ったをかけている。
飛鳥に対して、申し訳なく思いながらも、どうしても正直な気持ちを止められない自分が、そこにいた。
「最後にさ、あの観覧車に乗ってから、帰ろうよ」
日も暮れかかった頃、美琴が指を差したのは、イルミネーションで彩られた街中で、一際輝いていた観覧車だった。
「個室で二人きりなんて、ドキドキしちゃうかも」
「そう、だね……」
狭い観覧車の中では、お互いの吐息が触れ合うほど、美琴との距離が近くなり、僕の心臓の鼓動は、身体中に響き渡るほど早くなっていた。
「ヤダ、もう。冗談で言ったのに、そんなにマジな顔されちゃうと、こっちが困っちゃうじゃん」
「ご、ごめん」
「あ、花火。こんな時期にも見られるんだね」
窓の外を見ると、真っ暗な冬の夜空に、花火が鮮やかな色をつけていた。
この時期に花火を打ち上げている場所は全国でいくつかあるが、それがちょうどクリスマスイブの日というのは、かなり珍しいはずだ。
「ホント久しぶりに見たかも。花火を見るのはあのとき以来、なのかな」
美琴は思い出していた、あの夏祭りの日のことを。
「告れ、告れ!」
五年前、私は鷲翔らとともに、聖川駅前で開かれた夏祭りに来ていた。いや、今回の場合、彼は無理やり連れてこられた、という表現の方が正しいかもしれない。
鷲翔は、当時想いを寄せていた相手に自らの気持ちを伝えるよう、クラスメイトに茶化されながら、その場をセッティングされていたのだ。
「ぼ、僕は、あなたのことが……」
「いけっ!」
私や飛鳥も、鷲翔の様子を見守る友人グループの中に混ざり、その様子を見ていた。
でも、なぜだろう……。鷲翔の様子を見ていると、どこか胸に痛みがあるように感じている自分がいた。
バサッ!
突然、私の真横で大きな物音が聞こえてきた。
「あ、私のカバンが!」
それは、私の荷物がひったくられた音だった。
「おい、待てー!」
告白のことなど忘れたかのように、一目散に駆け出したのは、鷲翔だった。
「鷲翔……。待って、私も行くから」
「美琴、追いかけるのは、さすがに危ないって」
飛鳥の制止も聞かず、私は鷲翔の後を追いかけて走り出した。
それから何分走り続けただろうか。
「だから、待てって言ってるだろうがよ!」
鷲翔は最後の力を振り絞り、ひったくり犯の腕をつかまえた。
「はぁー、キツイ。もうだいぶ駅から離れちまったじゃねぇかよ、ったく」
鷲翔が、犯人を捕まえてすぐに、私も追いついた。
「ごめん、私のせいで、大事な瞬間に水差しちゃったよね」
「近くで誰かが困ってるときに、自分の都合を優先するようなヤツではいたくなかったからな。まあ、美琴のカバンも取り戻せたし、これでよかったよ」
彼は笑顔で、私にそう言った。その瞬間、私は胸でつかえていた痛みの正体に気がついた。私は、彼のことを……。
「けど、伝えそびれちゃったなぁ、自分の気持ち」
河川敷の草むらの上に寝転び、夜空を彩る花火を見上げながら、鷲翔が言った。
ウー、ウー。パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「ヤベッ、警察が来るぞ」
「え? それでいいじゃん、このまま警察を待ってたら」
「バーロ、このまま大人しく警察の到着を待っていたら、事情聴取に連れていかれちまうじゃねぇかよ。それだと、最後まで花火見れねぇじゃん……。よし、走るぞ」
そう言うと、彼は自分が学生証を落としたことにも気づかず、私の手をとってその場から走り出した。
「ポケットから学生証落ちたけど大丈夫なの?」
「構うな、後で拾いに来るから。とにかく行くぞ」
そんな二人の姿を、遅れて到着した飛鳥が気に食わぬ顔で見ていた。
「通報したのは?」
「あ、私です。白瀬飛鳥と申します」
現場に到着した警察の対応には、通報をした飛鳥があたった。
「ん、学生証? 名前は夜野鷲翔、か……」
警察官の一人が、道端に落ちていた鷲翔の学生証を見つけた。
「霜山―。どうした、何か見つかったのか?」
その警察官は、まだ新米刑事の霧山朱鷺羽だった。
「警部! 草むらから、こんなものが」
思えば、あのときから、だったのかもしれない。鷲翔に対する、自分の気持ちに初めて気がついたのは、あの夏の日だった。
「鷲翔、あのときはごめんね」
「あのときって?」
「高校生だったときに、鷲翔が夏祭りで告白しようとしてて、それを私たちが陰でこっそり見ちゃってたこと」
ずっと思っていた。あのときのこと、ちゃんと謝らなきゃ、って。
「あー、そんなこともあったね。全然こっそりじゃなかったけど、同じクラスの何人かに見られちゃってたやつね」
「あの後、鷲翔めっちゃ怒ってたよね。集まろうって呼びかけたの誰だーって、あのメンバー集めた人に殴りかかってなかった?」
「そう、だったっけ? もう覚えてないや」
ウソだ。あのときのことを、鷲翔が忘れているはずがない。
今ならわかる。鷲翔にとって、自分の恋愛を冷やかされることは、最も嫌いなことであり、友人であれば、見えないところで応援していてほしいんだ、ということを。
そして、それは今の私も同じ気持ちだから。
「あのとき、私もいたのに、ちゃんと謝罪できていなかったなって、今更ながらに思い出しちゃって」
「いいよ、もう。本人が忘れてんだから、時効だよ」
「よくないよ。少なくとも、今の私は、あのときの自分を許してないから」
人はどうしても、誰かの恋愛に対して、勝手に盛り上がったり、茶化したりしがちだけれど、人が人を想う気持ちは他のどんなことよりも尊いものであって、そんなに簡単に扱っていいものではない。
偶然、同じ時代に生まれた人の中に、愛する人ができたということは、本当に奇跡でしかなくて、でもほとんどの人がその奇跡を、当たり前のことのようにしか思っていない。
高校生のときの私も、いつかは自分にも恋人ができて、結婚して、子どもが生まれて……、みたいにぼんやりと思っていたけれど、最近になってようやく、恋の物語を紡いでいくことがいかに難しいかということを実感するようになった。
それは、自分自身が本気の恋を知ってしまったから。
私は知らず知らずのうちに、誰かを傷つけてしまっていたかもしれない。本気で恋をしている人の気持ちを、心のどこかであざ笑ってしまっていたのかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられる気がして仕方がない。
だから私は、もし誰かが恋愛で悩んでいたら、本気でその想いを受け止めて、傍で寄り添って応援するし、もし自分が誰かに恋をしているのなら、その気持ちと真剣に向き合おうと決めたんだ。
「でも、ありがとね、そんな風に言ってくれて」
今日みたいに、私はいつだって、鷲翔の優しさに助けてもらってばかりだった。
そんな彼の優しさに、心を惹かれたのだろう。私は、この気持ちと、ちゃんと向き合わなければならない。
残念ながら、彼が今、私のことをどう思っているのかはわからない。けど、せめて「同じ時間をともに過ごしてくれて、本当にありがとう」って伝えたい。そして、いつかきっと彼に恩返しをするんだ。そういう思いもあって、この七夕クリスマスの会を立ち上げた。
でも、その瞬間は、私の願っていたものとは、全く異なる形で訪れることとなった。
「そろそろ帰ろっか」
僕は美琴に向かって、そう呟いた。
「そうだね……」
今年ももう、終わってしまう。毎年、彼女との楽しい時間は一瞬で過ぎていってしまい、また来年があるから大丈夫、と自らに言い聞かせて、年に一度だけの特別な一日を締めくくっている。
僕たちは、東京駅に戻って、新幹線に乗り込んだ。
「はぁー、流石に疲れたな」
席に座って背伸びをした。明らかに普段よりも体が重くなっているのを感じ、自然と大きなあくびも出ていた。
「そりゃそうだよね。東京に来て、たった一日で聖川に戻っちゃうんだもん」
「ホント、今日のスケジュールは、流石にハードすぎたなぁ。聖川に着くまで、まだ時間かかるし、ちょっとだけ一眠りするかな」
そう言ってから、僕はものの数分で、眠りについた。
「ふぁーあ」
どれくらいの時間が経っただろうか。目を覚まし、時計を見ると、新幹線に乗ってからおよそ一時間が経過していた。
隣の席に目を向けると、美琴もぐっすりと寝ているようだった。
ん? 美琴の目元が濡れている気がするが、これはもしかして涙……?
「し、鷲翔……」
もう少し近づいて確認しようとすると、突然、彼女の口から、僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「私は鷲翔のことが……」
え? 起きて普通に話しているかのようだが、それは間違いなく寝言だった。しかし、美琴は一体どんな夢を見て、僕に何を言おうとしているのか……。気になってしまった僕は、さらに身体が前のめりになる。
ガッシャーン!
「ウワッ!」
突然大きな音がして、思わず大声を出して驚いてしまった。音が聞こえてきた方を見ると、テーブルに置いていたはずの僕のカメラが、床に落ちてレンズが割れてしまっていた。
「んんっ……、何の音?」
ぐっすり寝ていたはずの美琴も、目を覚ましてしまった。
「うわっ、ビックリしたー。ねぇ鷲翔、なんか顔近くない?」
「あっ、ごめん」
ヤバイ、最悪のタイミングで美琴に気づかれてしまった。僕は慌てて、彼女との距離をとる。
「もしかして、私のこと襲おうとしてた? サイテー」
「そ、そんなわけないだろ……。目元にゴミが付いていたから取り払ってあげようとしただけだよ」
「ウソだね、そんな犯人がよく使うような常套句には騙されないよ」
美琴に詰め寄られていると、車内でアナウンスがかかった。どうやら間もなく僕たちの降りる駅に到着するようだった。
「やばい、もうすぐ着くって。早く降りる準備しないと」
それから、僕たちは在来線を乗り継ぎ、聖川駅に着いた。
ホームに降り立って、駅舎を出ると、わずかな明かりだけが街中を照らしていた。
「すっかり暗くなっちゃったね。それにめっちゃ寒い……」
「もうこんな時間だもんね」
それもそのはずで、僕たちは東京駅からすべて終電で帰ってきたため、いつの間にか日付も変わっていた。
「今日は、無理なお願いを聞いてくれて、本当にありがとう」
美琴が、東京まで出向いた僕に、お礼を言ってきた。
「ううん、僕が行きたくて行っただけだから」
「ありがと。じゃあ、またね」
彼女に別れを告げて、信号機のない横断歩道を渡ろうとした、そのときだった。
東京への弾丸旅行から戻ってきて疲れてしまっていたのだろう。それはすべて、僕の不注意が生んだ出来事だった。
「危ない!」
視界の右側から車のヘッドライトが見えたと思ったら、さっき別れたばかりの美琴が、僕を庇うようにして倒れ込んできた。
あまりにも一瞬すぎた出来事に、僕は全く思考が追い付いていなかった。気づけば天を向いていた自らの体を起こした。
「美琴……?」
僕の両手には、赤い血が大量についていた。でも、それは僕の血ではなかった。
「美琴……、美琴! 大丈夫か、返事してくれよ、美琴!」
彼女の顔や体には、いくつもの傷ができており、大量の血が流れ、真っ赤になっていた。
慌ててスマホを取り出し、救急車を呼んだ。
ぶつかってきた車は、しばらく停まっていたが、僕が視線をやると同時に、その場を立ち去っていった。暗くてナンバーはよく見えなかったが、とても高級そうな白いスポーツカーで、開いていた窓が閉まったのが確認できた。
「今日は、私が東京から帰ってきて、鷲翔は駅まで迎えに来ただけ……。誰に何を聞かれても、そう伝えて」
「え?」
美琴がそう呟いた。
「お願い、このことは私たちだけの秘密にして」
「う、うん。わかった……」
ピーポーピーポー。救急車の音が聞こえてきた。
「でも、よかった。今度は私が鷲翔のこと、助けてあげられたから」
そう言い残してすぐに、彼女の意識がなくなった。
ほどなくして、彼女は病院へと運ばれていった。
集中治療室の前で、僕は祈るようにしながら座っていた。
「美琴!」
飛鳥が病院に駆け込んできた。彼と美琴の両親も一緒に到着した。
「おい、どうしてお前と彼女が一緒にいた?」
僕の胸ぐらをつかみながら、飛鳥が言った。
「東京から帰ってくるから、駅まで迎えに来てくれって、美琴に頼まれたんだ」
美琴が望んでいた通り、僕はウソをついた。
「まさか、こんなことになるなんて……。隣にお前がいたのに、どうしてこうなった!」
「本当に申し訳ない……」
「クソッ、お前!」
「やめなさい、飛鳥」
僕を殴ろうとした飛鳥を、彼の両親が必死になって止めようとする。
彼は二人の制止を振り払い、強く握った拳を壁にぶつけた。
「もう飛鳥ったら、何やってんの。擦り傷ができちゃってるじゃない」
飛鳥の母親がポケットから絆創膏を取り出し、彼の手に貼り始めた。
「こんな傷、どうってことねぇよ。美琴の痛みに比べたら、な」
壁に怒りをぶつけても、飛鳥の苛立ちは、なかなか収まらなかった。
それから、待つこと約一時間。手術中のランプが消え、美琴が出てきた。
「美琴、大丈夫か?」
飛鳥がすぐに彼女の元に駆け寄った。
「えぇ、大したことないわ」
そうは言うものの、美琴の身体には、かなりの数の包帯が巻かれており、酸素マスクもつけられていた。非常に大掛かりな治療になってしまったことは間違いない。
「そうか、よかった……。先生、美琴を救ってくださって、ありがとうございます」
美琴と飛鳥はそのまま、看護師の方に連れられ、病室へと向かった。僕の横を通り過ぎるときに一瞬だけ、美琴の視線がこちらに向き、彼女の口角が上がったような気がした。
「夜野鷲翔くん?」
誰かが自分を呼ぶ声がした。振り向くと、そこには見覚えのある人が立っていた。
「警察よ、ちょっと署まで来てもらえるかしら」
昨年の爆破予告の事件以降、美琴の警護につき始めた警察官で、天体観測をした日、僕に忠告をしてきた人だ。
「はい……」
僕は警察署で取り調べを受けることになった。
「去年のクリスマスイブの日以来ね。けど、こうして君とちゃんと話をするのも初めてかしら。いつも天宮のお嬢様と親しげにされていたけど、お互い面識もほとんどなければ、名前も知らなかったものね。ひとまず、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします。えっと、霜山……」
胸ポケットについている名札を見たが、漢字が読めない。
「ときは、よ」
「その……、霜山刑事は、僕を疑っているんですか?」
「えぇ、そうよ」
何のためらいもなく、その刑事はすぐに僕のことを疑っていると認めた。
「どうしてですか? あのとき、僕が轢かれそうになっていたところを、彼女が助けてくれたんですよ? 僕が犯人なわけ、ないじゃないですか」
「誰かにそうするように命じていたなら可能となるわ。現場周辺は防犯カメラもほとんどないし、目撃者も君しかいない。それに彼女があの時間に聖川に帰ってくることを事前に知っていれば、彼女をあの時間、あの場所に誘導することができたはずでは?」
僕が実行犯というわけではなく、共犯者を使ったという風に考えているのか……。
まあ、この刑事さんがそう考えるのも、ある意味当然のことだろう。他に婚約者がいる女性と二人きりで天体観測をしたり、駅まで迎えに行ったりしている男が、叶わない恋という現実に直面して、自暴自棄になって彼女を傷つけようとした……。
そう考えれば、僕が犯人だという結論にどうしても行き着いてしまうし、刑事さんの忠告を無視した人間が潔白であると考える方が何百倍も難しいことに間違いはない。
「何か、僕がやったっていう証拠はあるんですか?」
「いいえ、残念ながら私の憶測に過ぎないわ。まあ、でも事故を起こした車を警察が見つけられれば、近くのガードレールについていた傷と一致するはずだから、そのときは観念なさい」
でも、それは霜山刑事だけの憶測には留まらなかった。
翌日以降、その事故は世間の注目を大きく集めることとなり、脅迫事件のことも掘り返され、ネット上では犯人探しが熱を帯びていった。
様々な意見が上がる中で、犯人は夜野鷲翔、という考察が最も多く支持され、僕の立場は明らかに悪くなっていった。
そして、数週間後。年が明けて、僕は美琴の病院に呼び出された。
「失礼します」
「ちょっと待った」
美琴の病室に入ろうとすると、僕の行く手を阻む手が突然視界に現れた。
「久しぶりね、夜野鷲翔くん」
それは、霜山刑事だった。
「今日、君にここまで来るように伝えておくよう、病院の方にお願いしたのは、私なの」
僕は電話で看護師さんに呼ばれてここまで来たが、まさか美琴の両親のお願いなどではなく、この人の仕業だったとは……。
「それで、こんなところまで呼び出しておいて、僕に何の用なんですか?」
「君にもう一度確認しておこうと思って。本当にあの日、君は天宮のお嬢さんを駅まで迎えに行っただけなのかなって」
おそらくこの刑事さんなら、もうとっくに防犯カメラを調べて、僕が東京まで行っていたことぐらい、わかっているだろう。なのになぜ、あえて僕に直接聞いてくるのだろうか。
「ええ、ウソなんかついてませんよ。この前、警察署でも言いましたけど、彼女の迎えに行っただけです」
飛鳥ならまだしも、警察にウソを言ってもすぐにバレてしまうということは十分理解していた。だが、美琴との約束を守るため、僕が自らの発言を変えることはなかった。
「でも、不思議なんだよね~。あの事故が起きた道路は、君の家への帰り道で、彼女の実家がある方向とは真逆にある。君が駅まで迎えに行っただけなのなら、普通は彼女を家まで送り届けるはず。でも、実際には、君は自分の家に帰ろうとしていた」
「コ、コンビニに寄ろうと思って、あの横断歩道を渡ろうとしただけのことですよ」
刑事さんの鋭い指摘に、僕はタジタジしながらも、咄嗟にウソを重ねた。
「ふーん、じゃあ、彼女本人に確かめちゃおっか。失礼しまーす」
そう言うと、刑事さんは病室のドアを開け、中に入っていった。
「ちょ、ちょっと……」
病室に入ると、飛鳥や美琴の両親たちが、彼女のベッドを囲うようにして、見舞いに来ていた。
「美琴さんにお聞きしたいことがあるのですが、少しお時間よろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
刑事さんは、美琴に話しているのに、なぜか飛鳥が返事をした。
「あの事故が起きた日、どうしてあなたは、あんな時間に、聖川駅前で夜野くんと会っていたのですか?」
「それは、前にも刑事さんに話したと思いますけど、あの日はとても忙しかったけど、どうしても実家に帰らなければいけなくなって、仕方なく終電で帰省してきたのよ。それで彼だけが駅まで迎えに来てくれた……。それだけのことよ」
「どうして、あの横断歩道を渡ろうと? 確か、美琴さんの実家とは真逆の方向だったはずですが」
「まだコンビニが営業中だったから、私が飲み物だけ買って帰りたいって彼にお願いしてついてきてもらったのよ。そしたら、急に車が飛び出してきたってこと。これで満足?」
「さすが、息ぴったりの回答だ」
僕の驚きを見透かしたかのように、刑事さんが言った。僕も彼女もウソをついているが、何の示し合わせもしていないのに、奇跡的に言っていることが一致している。
「それが事実だからよ。わかったら、さっさと出て行ってくれる?」
刑事さんに向かって、明らかに怒っている口調で、美琴が言った。
「承知しました。まだ体調が万全でないところ、変なことを聞いてしまって申し訳ございませんでした。あとはどうぞ、親しい方たちでごゆっくり」
刑事さんは、そう言い残すと、病室を出ていった。
「ちょっと待って。夜野くん、だったかしら?」
病室を出て帰ろうとした矢先、美琴のお母さんに声をかけられた。
「この後、ウチのホテルまで来てくれる?」
「は、はい……」
何があっても来いと言わんばかりの圧を感じ、僕は怖気づきながら返事をした。もともと今日は、美琴とゆっくり話がしたいと思い、時間を空けていたが、まさか彼女本人ではなく、お母さんと話をすることになるとは、全く想像もしていなかった。
「ごめんなさいね、突然お呼び立てしちゃって」
「あ、いえ……」
何人かの執事さんらしき人たちにも囲まれ、多少の圧を感じながら、僕は客間のソファに座った。
「あなたも知っていると思うけど、今この街に変な噂が流れているのよね。あの事件、本当はあなたがやったんじゃないかって」
「いえ、僕はやってません!」
思わず声を荒げながら、ティーカップを強く、机の上に叩きつけるように置いてしまった。執事の方がすぐに僕の元へ駆け寄り、紅茶がこぼれた床を拭いて下さった。
「ええ。もちろん、私としても、そんな噂なんか信じていないし、あなたがやったとも思っていないわ。でも、世間でここまで騒がれてしまっている以上、私としても何もせずに放っておくわけにはいかないの」
そして、美琴のお母さんは、執事さんからタブレットを受け取り、その画面を僕に見せてきた。
「それでね、あの爆破予告の事件以降、先ほどの霜山という刑事さんが、美琴のボディーガードを務めてくださっているのだけれど、今後はより一層、娘の警備をしっかりするようにお願いしておいたの。彼女の胸ポケットにつけた監視カメラの映像を、こうやっていつでも私が見られるようにして、もし美琴に怪しい者が近づけば、即刻その者たちを排除するよう、私から指示が出せるってわけ」
タブレットには、病室で飛鳥と話している美琴の姿が映っていた。今後は、あの刑事がずっと彼女の傍について、この母親が、ともに行動を監視するということか……。
「そして、それはもちろん、あなたも例外ではないわ。だから、十分気をつけることね」
「は、はい……」
それは、明らかに僕に対するけん制だった。何が何でも、美琴を飛鳥と一緒にさせて、部外者であるお前は排除するぞ、ということなのだろう。
二人が婚約者どうしであるという事実は間違いないし、僕も彼女に会うのはダメなことだとわかっている。だから、美琴のお母さんに釘を刺されて、それに黙って従いたくはなかったけれど、僕は何も言い返せずに、湧き出てくる感情を必死に抑えながら、拳を強く握りしめることしかできなかった。
