「つーか、どうして今日、そんな格好してんだよ。まさか俺らの式に参加するのをサボるつもりじゃなかっただろうな?」
ラーメン屋を出てすぐに、飛鳥が僕に聞いてきた。
「わりぃ、仕事が忙しくて、疲れて寝てしまってたから……」
口ではそう言ったものの、本当は初めから飛鳥たちの結婚式に出るつもりなど、全くなかった。一体、僕がどんな顔をして、二人の晴れ舞台を見に行けばいいと言うのか。そう考えると、行く気力など湧いてくるはずもなかった。
それに、半年前のクリスマスイブの日、彼女と約束したんだ。美琴とはもう会わない、って。だから、いくら誘われていたとしても行けるはずなんてなかった。
でも、そんなことを飛鳥に言えるはずもなく、ひとまず返事を誤魔化した。
「とりあえず、俺についてこい」
僕は仕方なく、彼に言われるがまま、後をついて行った。
「ハァ、ハァ……。何でラーメン食べてすぐに、卓球なんだよ」
飛鳥が僕を連れてきたのは、デパートの最上階にある、卓球場だった。
「たまには付き合えよ、こちとら無性に苛立ってんだよ」
「はぁ? 何で怒りの感情なんだよ。悲しい気持ちになってんならわかるけどさ……」
今日結婚をするはずだった相手が、自分の目の前からいなくなってしまい、心が乱れているのは理解できたが、なぜ彼がイラついているのかはわからなかった。
「俺の気持ちが、お前にわかるかよッ!」
一際大きな声とともに、飛鳥の華麗なスマッシュが決まった。
「よっしゃー、一ゲーム先取ぅ」
「タイム、もうギブ……」
さすがに食べてすぐに体を動かしすぎたせいか、かなり胃が持たれていた。僕はその場に突っ伏し、動けなくなってしまった。
「もうギブかよ、張り合いがねぇな」
飛鳥も椅子に座って、スポーツドリンクを手にとった。
「俺、最初からこうなるんじゃないかってずっと不安だったんだよ」
飛鳥の声が、やけに暗いトーンに切り替わった。
「俺は美琴のことを心の底から愛しているし、これから絶対、大切にするんだってずっと思ってた。でも、彼女はというと、どこか俺の方だけを真っすぐに見てくれているっていう感じがしなくて……。いつかそのうち、彼女が俺の前からいなくなってしまうんじゃないかって、そんな気がしてた。そしたら今日、やっぱりその不安が的中しちまった」
こんな飛鳥の姿、初めて見たかもしれない。いつもみんなの前で元気いっぱいの笑顔を見せていた彼は、不安とか悲しいとか、そんな言葉とは全く縁のない明るい青年のイメージだった。
「そうか、でも肝心のお前が暗いテンションのままでいたら、ダメじゃねーかよ。持ち前の明るさだけが、お前の取り柄なんだから、そんな暗い感じだと美琴だって余計に戻って来にくくなっちまうだろうが」
「バーロ、俺にはもっと他にも、たくさん良い所あるっつーの」
「フッ、その意気だ。それと……、悪かったな。今日の朝、結婚式が開かれていたとしても、行けそうになかったこと」
「そう思ってんなら、次はアレに付き合え」
飛鳥は、隣にあるフットサルのコートを指差していた。
「大丈夫? 凄いニュースになってるけど」
僕は美琴に、メッセージを送った。
「うん、大丈夫だよ」
天宮ホテルに、爆破予告をほのめかす、差出人不明の脅迫状が届いたらしい。
滅多に何も起こらない平和な街で起きた脅迫事件ということもあり、テレビや新聞でも大々的に取り上げられた。すでに警察も動いているようで、天宮ホテルの周りには厳重な警備体制が敷かれていた。
「ウチのお父さん、市の警察署長だったから、すぐに私にも警護の人つけられちゃった」
「流石に今年のクリスマスは……」
「大丈夫、何とか抜け出すつもりだから」
その後も、脅迫事件の犯人はなかなか見つからず、しばらくの間、街中に不安が広がることとなった。
天宮ホテルは、数ヶ月の営業停止と例年の七夕パーティーの開催中止に追い込まれた。事件発生から数ヶ月後に、なんとか営業を再開したものの、客足が遠のいた状態が続き、ホテル周辺には、暗い雰囲気が漂っていた。
そんな中、迎えたクリスマスイブの日。
「皆さん、ようこそ聖川市へ。我々、聖川大学登山サークルとともに、楽しい思い出を作りましょう。本日は、どうぞよろしくお願いします」
それは、飛鳥の意気揚々とした挨拶から始まった。
僕と飛鳥が在籍している聖川大学と、美琴が通っている大学の登山サークルが、交流会を開催することになったのだ。
そして、何よりも今回の場を設定したのは飛鳥だった。きっと、色々とあった美琴に対する彼なりの気遣い、ということなのだろう。
「えー、今日はみんなで聖山に登るということで、安全第一で楽しんでいきましょう!」
登山後は、飛鳥のホテルで交流会が行われた。
「では皆さん、グラスを掲げて~。カンパイッ!」
「飛鳥の奴、スゲー元気だな」
標高がそこまで高くない山とは言え、登山をしてきたみんなの顔に若干の疲れも見える中、飛鳥は一人、ハイテンションでお酒の入ったグラスを手に持ち、全員と乾杯をしていた。
「聖川大学の皆さん、SNSのフォロー、よろしくお願いします」
ディナー会場に、いつの間にか設置されていたホワイトボードに、そう書かれていたのが、ふと目に留まった。
ポケットからスマホを出し、美琴の登山サークルのSNSを開くと、たくさんの写真が投稿されていた。そこには、僕の知らない美琴が数多く写っていた。
心の奥がチクリとした。彼女が東京に行った、あの日から、少しずつ距離が遠くなっているのを感じていた。
もうこのまま、美琴との距離は、どんどん離れていってしまうのだろうか。どうにかして、それを止めたいけれど、今の僕にできることは何もない……。
飛鳥と楽しそうに話す美琴の姿を遠目に見つめながら、自らの無力さを嘆くことしかできなかった。
ピロリン。
夕食が終わって、ホテルの部屋に入り、そろそろ寝ようかというときに、携帯が鳴った。誰からだろうと思い、画面を開く。
「今から、一緒に抜け出さない?」
美琴からのメッセージだった。
「何言ってんだよ。みんなで同じホテルに泊まっているのに、そんなこと、できるわけないじゃん」
今回の親睦会は、聖川市に住んでいる者も含め、全員がこの、ホテル白瀬に宿泊することになっている。
「大丈夫だよ。それに、これは七夕クリスマスの会。毎年の恒例行事を、今年だけ欠かすのはマナー違反じゃない?」
マナー違反、って……。僕は心の中で苦笑いしながら、返信を打った。
「了解」
こうなった以上は、仕方ない。美琴の性格上、一度決めたら、その決断は変えないことぐらい、僕もわかっている。
美琴が、グーサインのスタンプを送ってきた。
集合場所には、彼女の方が先に来ていた。何やら、かなり大きめのゴルフバックのような荷物を抱えている。
「何、そのおっきな荷物。てか、本当に抜け出しちゃって大丈夫なのかな」
「うん、だって七夕クリスマスの会を逃すわけにはいかないじゃん。それに今日はどうしても鷲翔とやりたいことがあったから」
「そういえば、どうしてバス乗り場に?」
昨年の七夕クリスマスの会に引き続き、今年も聖川駅に集合することになった。
「それはもちろん、またバスに乗って目的地に向かうからだよ。あ、ちょうどバスが来たよ」
「え、やっぱりバスに乗るの? そんな遠いところまで抜け出して、ホントに大丈夫なのかな……」
「ほら、ごちゃごちゃ言ってないで行くよ!」
彼女は僕の手を取り、バスに乗った。
「なぁ、そろそろ教えてくれてもいいだろ。そんな重そうなものまで背負って、一体どこに行くんだよ」
「それは、着いてからのお楽しみだよ~」
彼女は、ずっと行き先をはぐらかしていたが、その直後、バスの案内が流れる。
「次は、ロープウェイ前、ロープウェイ前でございます」
ピンポーン。アナウンスと同時に、美琴が降車ボタンを押した。
「まさか、こんな遅い時間から降七山に登るつもり?」
「そうだよ~」
ハァ……。無邪気な笑顔で頷く彼女の横で、僕はため息をつきながら、バスを降りた。
「あ、鷲翔、そっちじゃないよ。私たちはこっち」
ロープウェイの乗り場に向かおうとしていた僕を、美琴が引き留めた。彼女が指を差していた方は、歩行者用の山道だった。
「え、まさか、歩いて登るつもり?」
「人生、楽をしようとしてはいけません。さっき登った聖山は、子どもだって簡単に登れる山だよ? こっちの山を登り切ってこそ、登山サークルの一員ってもんでしょ。ほら、覚悟決めて行くよ」
「マジか……」
僕は、絶望を感じながら、登山用ルートを歩き始めた。
「ヒィヒィ、ハァ」
「ほら、あと一歩」
美琴の声に反応して、顔を上げると、彼女が僕に向かって手を伸ばしていた。
僕は彼女の手を握り、最後の一段を登り切った。
「もうダメだ……、やっぱり一日に山二つは厳しいって」
もう体力は限界だった。僕は這いつくばって、山頂のベンチに辿り着き、寝転がった。
「情けない、君はそれでも、本当に日本男児か?」
「あ、この時代に、その発言はセクハラだぞ」
「フフッ、冗談だって。ねぇ、それよりも、空が凄く綺麗だよ。こっち来て一緒に見ようよ」
重たい身体を起こし、美琴のところまで歩いていく。
「確かに、凄い星空だな」
「こんなに綺麗な景色、初めて見たかも」
彼女の言う通り、普段はなかなか見られないような、夜の景色が広がっていた。
「さすが、七つ星が降ってくる山、降七山って言われるだけあるね」
「ここから見える星のうち、今も存在しているのはいくつあるんだろうね」
ふと呟いた僕の言葉に、美琴は不思議そうな顔をした。
「星を見ると、いつも思い出すんだ。小学生のとき、理科の先生が言っていたことを。美琴は覚えてるかどうかわからないけど、『地球から見える星の多くは、とても遠いところにあるから、その光が地球に届くまでに、もの凄く時間がかかる。だから、今見えている星がすべて、今も存在しているとは限らない』って」
僕は手すりに持たれかかりながら、話を続けた。
「それって、なんだか今の、この時代に通じる教えのようだな、って感じるんだよね。目に見えているものとか、世間に出回っている情報だけがすべてじゃない。今、君が見ている景色は、イコール真実じゃないんだよ、って」
ふと美琴の方を振り返ると、不思議そうな顔をしながら、こちらを見ていた。
「ごめん、せっかく星を見に来ているのに、どうでもいい話しちゃったね」
「ホント、わざわざここまで来て、普通に話してるだけじゃ勿体ないよ。だから、ほら準備するの手伝って」
「準備?」
彼女は、大きなカバンの中身を取り出した。
「それって、もしかして望遠鏡?」
「そう、これで星を見たいって、ずっと思ってたんだよね」
僕と美琴は望遠鏡をセットし、先に美琴が中を覗き込んだ。
「凄い、ちゃんと一つ一つの星がくっきりと見える。鷲翔も見てみなよ」
美琴に促され、僕も望遠鏡のレンズを覗いてみた。
「ホントだ。シリウス、プロキオン、ベテルギウス。冬の大三角がこんなにも、はっきりと見えるなんてな」
「ここまで来た甲斐があったでしょ? けど、いつか夏の大三角も見てみたいな」
「どうして?」
ふと美琴が呟いたことに、僕は疑問を感じた。
確かに冬の大三角を見ることができた今、じゃあ夏も、となるのは自然なことかもしれないが、そもそも美琴がそこまで星好きであるという感じではなかったはずだ。
星や宇宙が大好きな僕が、そういった話をする度に、美琴はほとんど興味なさそうに聞いていた記憶があり、今回もなぜ星を見るために、望遠鏡を持参してまで、この山に登ったのか不思議で仕方がなかった。
「だって、私の名前には『琴』、鷲翔の名前には『鷲』が入ってるんだよ。生きているうちに、こと座のベガと、わし座のアルタイルは、ちゃんと見ておかないと」
「けど、そのときは、ここまで遠出してくるのは難しいかもよ」
「そっか、じゃあ、次はもっと近いところ、街の中から見られる場所はないのかな?」
僕は、ベンチの横に設置されていた双眼鏡を使いながら、街を見渡した。
「そんな場所があるとしたら……、あの時計台の屋上ぐらいかな」
「なぁんだ、いつも待ち合わせしているところじゃん。でも、時計台の中って立入禁止だよね?」
「そうなると、結局ここに来て、見るしかないってことになるね」
僕がそう言うと、美琴はカバンの中から、カメラを取り出して、望遠鏡に取り付けた。
「もう二度と見られなくなってしまうかもしれないから、この星空を写真に収めておこうと思って」
冬の大三角をはじめとする満天の星空が、彼女のカメラに写真として、綺麗に収まった。
「私、思うんだけど、写真って凄いよね。ちゃんとその瞬間の景色を、そのまま切り取ってくれるんだもの」
彼女がふと、そう呟いた。
「人間だれしも、全てのことを間違いなく記憶してるのって、まずあり得ないじゃん? 人の記憶は、そのときの感情とともに脳内に刻み込まれるから、多少なりとも、その人の主観が入って、事実とは少し違う形で保存される。覚えていないってことも頻繁にあるよね。
でも、写真はそうじゃない。ちゃんと見える景色を、ありのままの姿で写してくれて、データそのものをなくしたり、消したりしてしまわない限り、永久的に残る。当たり前のことだけど、実はちょっと凄いことなんじゃないかなって思ってるんだ」
そうか、美琴は昔から写真を撮るのが好きだった。だから、彼女にとって、星は被写体であり、今日はクリスマスイブの星空の写真を撮りたくて、ここまで来たのだろう。
「ごめんね、なんか私もつまんない話、しちゃった。でも、これでおあいこだね」
「実は僕も写真撮るの、結構好きでさ。最近はサークルの活動で、夜に山登りしたとき、いかに星空を綺麗に撮るかってことを研究してるんだ」
「それ、登山サークルじゃなくて、もはや天文か写真のサークルだね」
「ハハッ、そうかもしれない。じゃあ、最後に二人で写真撮って帰るか」
周りから見たら、くだらないと思われるであろう話で、僕たちは盛り上がった。
美琴と過ごせる時間が限られている中で、僕はこうしたひとときを大切にしたい。そんなことを思いながら、彼女とのかけがえのない時間を過ごした。
帰りは、さすがに美琴も僕も疲れていたので、ロープウェイで下ることにした。
「聖川の夜景が見えるね」
「うん、そうだね」
美琴の言う通り、僕たちの乗っているロープウェイからは、聖川の夜の街並みが一望できた。
「夜景も、星空のように綺麗に見えるけど、とても美しいとは思えないんだよね」
「どうして?」
美琴がまた、奇妙なことを言い始めた。
「だって……」
彼女は前に身を乗り出し、指を差しながら答え始めた。
「あそこの住宅街とかの光は、美しいと思うよ。家族みんなで楽しく晩御飯を食べているのかもしれないし、一人でオンラインゲームをして離れた場所の人と時間を共有して過ごしているのかもしれない。そういう場所の明かりはとても微笑ましいよね」
話を進めながら、美琴の指先が別の方向に変わった。
「けど、あそこら辺のオフィス街の光がまだついているのは望ましいことではないよね。クリスマスイブのこんな時間まで誰かが働いているってことだもん。だから、夜景は確かに綺麗かもしれないけど、玉石混交の言葉のように、美しい光と望ましくない明かりが混ざっているなぁ、って見る度に思うんだよね」
「んー、でも僕たちが生活できているのは、土日や深夜、年末年始とか、みんなが休んでいるときに、働いている人たちがいてくれているおかげなんだと思うよ。今、就職活動をしている中で、どこの企業や自治体を見ても、表面上は、こんなに大きなプロジェクトをやっていますとか、物凄くいいことばかりをアピールしているけど、実際に中で働いている人たちは、とてつもないプレッシャーや膨大な量の仕事に追われているんだろうなって感じるんだ」
いつか美琴が言っていた、「この世界はウソで溢れかえっている」という言葉は、残念ではあるけれど、本当にその通りだなと感じることが増えている。
ある意味で、これが大人の階段を上るということなのかと思うと、なんだか残念で仕方ないが、そうして社会の現実を知っていく中で、僕もこれからどう生きていくべきか、その道筋がハッキリとしたものになりつつある。
「結局、人の幸せって誰かの犠牲の上で成り立っているものであって、僕たちは目には見えないところで、お互いの楽しい時間と忙しい時間をズラして、支え合っているんだと思うよ。だから、今の働き方改革の時代の中でも、残業とか夜勤をしなければならない状況にいて、頑張っている人たちの明かりは、確かに一言で美しいとは言えないかもしれないけど、僕は拍手を送りたい。それに、今日はクリスマスだから、美琴のご両親だって、今も働いているんでしょ?」
「うん、だからこそ、私はあの光が嫌いなのかも」
ストレートに言い放った美琴の言葉に、僕は不意を突かれたように驚いた。
「そっか……。でも僕は、美琴の両親は、二人とも仕事熱心で凄いなって思ってるよ」
「鷲翔も、これから働き始めて、仕事熱心になるのはいいけど、目の前の大切なものを見過ごさないでね」
美琴のその言葉が、これから先の僕にとって最も大切な教訓となることを、このときの僕はまだ想像もしていなかった。
聖川駅行きの最終バスに乗り込むと、美琴はすぐに眠りについた。
どうせ終点まで乗ることになるし、僕も少し寝ようかとも思ったが、なぜか眠る気にはなれなかった。イヤホンを耳に装着して、ラジオを聴き始める。
「ねぇ、それって金沢令央のラジオ?」
音漏れしていたのが聞こえたのだろうか、美琴が目を覚まして、僕に聞いてきた。
「そうだよ。あ、ごめん、起こしちゃったよね……」
「ううん。ねぇ、私も聴いていい?」
イヤホンの片方を取り、美琴に渡した。
「今日はクリスマスイブなので、本来であれば楽しいクリスマスラジオをお届けするはずでしたが、ここで皆さんにちょっぴり寂しいお知らせがございます。私、金沢令央は、来年の春を持ってこの番組を終えようと思っています」
「終わっちゃうんだね……。浪人生のとき、ずっと聞いてたのにな」
美琴が悲しそうな声で呟いた。
「人には誰しも、決断を迫られる時がやってきます。よく、後悔のない選択を、だなんて言われますが、そんなの絶対に無理です。人生うまくいかないことばかりで、過去に戻ってやり直したいって何度も思ってしまいます。
でも、もし本当に戻れたとしても、今と状況が変わっている保証は全くありません。それどころか、千回戻ったところで、自分の思い通りの今に変わることはおそらく一回あるかどうか、ではないでしょうか。けど、人はその、〇・一%の確率に賭けて、過去に戻ってやり直したいと願うんです。そのときは最善の決断をしたはずなのに、後になって必ずと言っていいほどその選択を悔やむ。でも、それでいいと思うんです。そう考えられるほど、必死に走ってきた結果なんだろうなって。
きっと、今回の僕の決断も、これまでしてきた選択も、そしてこれから進んでいく道も、何かを選んで、何かを捨てる度に、また終わってから、もう少し違う道を歩んでいたら、って思うんだろうなぁ」
番組が終わることを話したからだろうか、いつも冷静なイメージのある、金沢令央にしては珍しく、とても熱い、語り口調だった。
彼の言う通り、人はどこかのタイミングで選択を迫られる瞬間があって、その分かれ道でどのルートを選んだとしても、この世界は無情にも止まることなく進んでいく。どんなに悲しい結果になっても、ちょっと待った、とすることはできない。
いつかきっと、この七夕クリスマスの会にも、決断を下さなければならないときがやってくることだろう。
「鷲翔はさ、過去と未来、どっちに行きたい?」
ふと美琴が僕に聞いてきた。
「どうしたの? 急にそんなこと聞いて」
「いや、令央くんの話を聞いて、ちょっと知りたくなったから」
「うーん……、過去、かな」
少し考えて、僕はタイムマシンがあれば、過去に戻りたいと思った。
「それはやっぱり、変えたい過去があるから、とか?」
「まあ、そうだね。未来はこれから訪れてくるものであって、何の未練もないけど、過去にはたくさんやり直したいことがあって、もっと違う選択をして別の道を歩んでみたかったなって思うから」
「でも、過去に戻れたとしても、今とは違う結果になっているとは限らないよ?」
「それはそう、かもね……」
美琴の言う通り、運命はそう簡単に変えられるものではない。
人は自らの道を、自らで決めて生きていくが、そのすべての選択と結果は、ある程度運命的に決まっていたものなのかもしれない、そんな気がしている。
「けど、変えられるものなら変えたい、かな……」
僕はその言葉を、美琴に向けて呟いたつもりだったが、音楽が流れ始めたこともあってか、彼女はまたウトウトし始めていた。
「眠い?」
「うん、駅に着いたら起こしてくれる?」
「わかった」
彼女の寝顔を見ながら、僕は思った。やっぱり幸せだな、と。
でも、この幸せな時間も、そう長くは続かない。
これは、神様から与えられた束の間の休息であって、きっと僕たちはこうした時間を、いつまでも過ごせるわけではない、ということは何となく察している。
とは言っても、その未来はどこかボンヤリしていて、もし本当に終わりが来るのだとしても、そうなってからでしか、慌て始めることはないだろうし、何かを変えようという強い意志は、今のところ存在していない。でも、そうやって悠長にしていると、結局また過去に戻ってやり直したいという思いが、芽生えることになってしまうのだろう。
人は思っている以上に、前を向くことができない生き物で、後ろばかり振り返ってしまう。未来が大きく変わってしまうであろう岐路に、何度も立たされ、次に進んでいく方向を選ばなければならない。
今、この瞬間も、きっとどこかで誰かが、後悔したくない、選びたくないという気持ちと、前に進まなければならない、というプレッシャーとの狭間で悩み、葛藤していることだろう。
この先、僕にもまたその分かれ道がやってきたとき、果たしてどんな決断をすることになるだろうか。期待と不安が入り混じっている、と言いたいところだが、ほとんど不安しかない行く末を、窓の外に広がる夜の街並みをボンヤリと眺めながら、僕は憂うのであった。
「次は終点、聖川駅前、聖川駅前です」
「美琴、もうすぐ着くよ」
バスのアナウンスが流れてきたところで、僕は美琴を起こした。
「うん、ありがと」
彼女は眠たい目を擦りながら、大きなあくびをした。
「やっぱり夜遊びはほどほどにしとかないといけない、ってことだね」
眠そうな美琴に、僕は意地悪な感じで注意した。
「でも、こんな経験、今しかできないじゃない。それに鷲翔も、最初は嫌がってたけど、最後は割と楽しんでそうだったし」
「んー、そうだったか。それより、ほら早く、降りた、降りた」
ちょっとした仕返しを食らった形となった僕は、バツが悪そうに、バスが到着したのと同じタイミングで、美琴を急かすようにして席を立った。
駅に着いてバスを降りると、どこかで見たことのある人が僕たちを待ち構えていた。
「パパに命じられたの?」
「えぇ、美琴さんを警護しておくように仰せつかっておりますので。でもご安心ください、お父様にはお伝えしていないので」
そうか、この人、美琴の身辺警護にあたっている警察官だ。名前は知らないけれど、前に美琴を警護している姿を見たことがある。
「美琴さんがどこへ逃げようとも、追いかける所存です」
彼女は、明らかに浮かない顔をしていた。
「それと……、夜野くん、だったかしら?」
「は、はい!」
刑事さんの鋭い視線と声に、思わず声が裏返ってしまう。
「君に一つ、忠告しておくわ。今、彼女と会っていると、あなたが脅迫状を送った犯人だと疑われかねないわよ。それに、彼女は婚約者がいる身よ。少なくとも、この街で彼女と二人きりで会うのはよしなさい」
その人は、物凄い剣幕で僕に言い放った。
確かに元々、美琴の提案で始まったことではあるが、ちゃんと断り切れなかった僕にも、非常に大きな責任があるし、誰かに怒られても仕方がないというのは、ずっと前からわかっていた。
「鷲翔は何にも悪くないわ。ホテルを抜け出して、一緒に山に登るよう頼んだのは、私の方だから」
「しかし、美琴さんの頼みを断ることもできたはずよ。けど、この男はそうしなかった」
「それでも、鷲翔の優しさにつけ込んだのは私だから」
美琴は怒りの声を放ち、その場を去っていってしまった。
「とにかく、今後は十分気を付けることね」
刑事さんも、僕に釘を刺してから、彼女の後を追っていった。
いつか美琴と待ち合わせをすることも、本当にできなくなってしまうのだろうか。彼女は、婚約発表は世間へのパフォーマンスと言っていたが、その世間の人たちは、美琴には飛鳥という婚約者がいる、との認識を持っており、今の僕を見れば完全に悪者扱いするだろう。
今のところ、あの婚約発表以降、美琴と僕が二人きりで会っているところを見られたのは、テーマパークでの、あの親子だけのはずだが、もし今後、より多くの人に見られてしまえば、あっという間に彼女も僕も、批判の的になるのは間違いない。
やはり、本当にそろそろ幕引きを考えるときが来てしまったのかもしれない。こうなったら、もう僕にできる決断は一つしかない。大人にならなきゃ、いけないんだ。
「美琴、どこで何をやってたんだ?」
美琴がホテルに帰ると、入り口で飛鳥が待っていた。
「飛鳥には関係ないわ。それよりも、私の部屋はどこ。早く案内して」
「どうした、やけに怒ってないか」
「仕方ないじゃない。理由なら、あの刑事に聞いてよね」
不機嫌なまま、美琴は自分の部屋へと向かっていった。
「刑事さん、アンタ、何をやってたんだ。ちゃんと美琴を見張っててくれないと、俺も困るんだがな」
美琴をしっかりと見張ってくれていなかった刑事に、飛鳥も怒りが収まらなかった。
「すみませんねぇ。あのお嬢様を見張っておくのは、そう簡単ではなくてね」
「アンタ以外にも、刑事はいくらでもいるんだ。その気になれば、美琴の警備につく奴だって、いつでも変えられるんだぞ」
「ご心配いただき、どうも。でも、今の聖川署、いや、日本全国の警察を見渡しても、私以上に美琴さんのことを守れる人はいないと思いますけどね。では、失礼」
そう言い残すと、霜山刑事も飛鳥の横を通り過ぎ、美琴の後を追っていった。
「クソッ!」
飛鳥の苛立ちに満ちた声が、ホテルのロビーに響き渡った。
ラーメン屋を出てすぐに、飛鳥が僕に聞いてきた。
「わりぃ、仕事が忙しくて、疲れて寝てしまってたから……」
口ではそう言ったものの、本当は初めから飛鳥たちの結婚式に出るつもりなど、全くなかった。一体、僕がどんな顔をして、二人の晴れ舞台を見に行けばいいと言うのか。そう考えると、行く気力など湧いてくるはずもなかった。
それに、半年前のクリスマスイブの日、彼女と約束したんだ。美琴とはもう会わない、って。だから、いくら誘われていたとしても行けるはずなんてなかった。
でも、そんなことを飛鳥に言えるはずもなく、ひとまず返事を誤魔化した。
「とりあえず、俺についてこい」
僕は仕方なく、彼に言われるがまま、後をついて行った。
「ハァ、ハァ……。何でラーメン食べてすぐに、卓球なんだよ」
飛鳥が僕を連れてきたのは、デパートの最上階にある、卓球場だった。
「たまには付き合えよ、こちとら無性に苛立ってんだよ」
「はぁ? 何で怒りの感情なんだよ。悲しい気持ちになってんならわかるけどさ……」
今日結婚をするはずだった相手が、自分の目の前からいなくなってしまい、心が乱れているのは理解できたが、なぜ彼がイラついているのかはわからなかった。
「俺の気持ちが、お前にわかるかよッ!」
一際大きな声とともに、飛鳥の華麗なスマッシュが決まった。
「よっしゃー、一ゲーム先取ぅ」
「タイム、もうギブ……」
さすがに食べてすぐに体を動かしすぎたせいか、かなり胃が持たれていた。僕はその場に突っ伏し、動けなくなってしまった。
「もうギブかよ、張り合いがねぇな」
飛鳥も椅子に座って、スポーツドリンクを手にとった。
「俺、最初からこうなるんじゃないかってずっと不安だったんだよ」
飛鳥の声が、やけに暗いトーンに切り替わった。
「俺は美琴のことを心の底から愛しているし、これから絶対、大切にするんだってずっと思ってた。でも、彼女はというと、どこか俺の方だけを真っすぐに見てくれているっていう感じがしなくて……。いつかそのうち、彼女が俺の前からいなくなってしまうんじゃないかって、そんな気がしてた。そしたら今日、やっぱりその不安が的中しちまった」
こんな飛鳥の姿、初めて見たかもしれない。いつもみんなの前で元気いっぱいの笑顔を見せていた彼は、不安とか悲しいとか、そんな言葉とは全く縁のない明るい青年のイメージだった。
「そうか、でも肝心のお前が暗いテンションのままでいたら、ダメじゃねーかよ。持ち前の明るさだけが、お前の取り柄なんだから、そんな暗い感じだと美琴だって余計に戻って来にくくなっちまうだろうが」
「バーロ、俺にはもっと他にも、たくさん良い所あるっつーの」
「フッ、その意気だ。それと……、悪かったな。今日の朝、結婚式が開かれていたとしても、行けそうになかったこと」
「そう思ってんなら、次はアレに付き合え」
飛鳥は、隣にあるフットサルのコートを指差していた。
「大丈夫? 凄いニュースになってるけど」
僕は美琴に、メッセージを送った。
「うん、大丈夫だよ」
天宮ホテルに、爆破予告をほのめかす、差出人不明の脅迫状が届いたらしい。
滅多に何も起こらない平和な街で起きた脅迫事件ということもあり、テレビや新聞でも大々的に取り上げられた。すでに警察も動いているようで、天宮ホテルの周りには厳重な警備体制が敷かれていた。
「ウチのお父さん、市の警察署長だったから、すぐに私にも警護の人つけられちゃった」
「流石に今年のクリスマスは……」
「大丈夫、何とか抜け出すつもりだから」
その後も、脅迫事件の犯人はなかなか見つからず、しばらくの間、街中に不安が広がることとなった。
天宮ホテルは、数ヶ月の営業停止と例年の七夕パーティーの開催中止に追い込まれた。事件発生から数ヶ月後に、なんとか営業を再開したものの、客足が遠のいた状態が続き、ホテル周辺には、暗い雰囲気が漂っていた。
そんな中、迎えたクリスマスイブの日。
「皆さん、ようこそ聖川市へ。我々、聖川大学登山サークルとともに、楽しい思い出を作りましょう。本日は、どうぞよろしくお願いします」
それは、飛鳥の意気揚々とした挨拶から始まった。
僕と飛鳥が在籍している聖川大学と、美琴が通っている大学の登山サークルが、交流会を開催することになったのだ。
そして、何よりも今回の場を設定したのは飛鳥だった。きっと、色々とあった美琴に対する彼なりの気遣い、ということなのだろう。
「えー、今日はみんなで聖山に登るということで、安全第一で楽しんでいきましょう!」
登山後は、飛鳥のホテルで交流会が行われた。
「では皆さん、グラスを掲げて~。カンパイッ!」
「飛鳥の奴、スゲー元気だな」
標高がそこまで高くない山とは言え、登山をしてきたみんなの顔に若干の疲れも見える中、飛鳥は一人、ハイテンションでお酒の入ったグラスを手に持ち、全員と乾杯をしていた。
「聖川大学の皆さん、SNSのフォロー、よろしくお願いします」
ディナー会場に、いつの間にか設置されていたホワイトボードに、そう書かれていたのが、ふと目に留まった。
ポケットからスマホを出し、美琴の登山サークルのSNSを開くと、たくさんの写真が投稿されていた。そこには、僕の知らない美琴が数多く写っていた。
心の奥がチクリとした。彼女が東京に行った、あの日から、少しずつ距離が遠くなっているのを感じていた。
もうこのまま、美琴との距離は、どんどん離れていってしまうのだろうか。どうにかして、それを止めたいけれど、今の僕にできることは何もない……。
飛鳥と楽しそうに話す美琴の姿を遠目に見つめながら、自らの無力さを嘆くことしかできなかった。
ピロリン。
夕食が終わって、ホテルの部屋に入り、そろそろ寝ようかというときに、携帯が鳴った。誰からだろうと思い、画面を開く。
「今から、一緒に抜け出さない?」
美琴からのメッセージだった。
「何言ってんだよ。みんなで同じホテルに泊まっているのに、そんなこと、できるわけないじゃん」
今回の親睦会は、聖川市に住んでいる者も含め、全員がこの、ホテル白瀬に宿泊することになっている。
「大丈夫だよ。それに、これは七夕クリスマスの会。毎年の恒例行事を、今年だけ欠かすのはマナー違反じゃない?」
マナー違反、って……。僕は心の中で苦笑いしながら、返信を打った。
「了解」
こうなった以上は、仕方ない。美琴の性格上、一度決めたら、その決断は変えないことぐらい、僕もわかっている。
美琴が、グーサインのスタンプを送ってきた。
集合場所には、彼女の方が先に来ていた。何やら、かなり大きめのゴルフバックのような荷物を抱えている。
「何、そのおっきな荷物。てか、本当に抜け出しちゃって大丈夫なのかな」
「うん、だって七夕クリスマスの会を逃すわけにはいかないじゃん。それに今日はどうしても鷲翔とやりたいことがあったから」
「そういえば、どうしてバス乗り場に?」
昨年の七夕クリスマスの会に引き続き、今年も聖川駅に集合することになった。
「それはもちろん、またバスに乗って目的地に向かうからだよ。あ、ちょうどバスが来たよ」
「え、やっぱりバスに乗るの? そんな遠いところまで抜け出して、ホントに大丈夫なのかな……」
「ほら、ごちゃごちゃ言ってないで行くよ!」
彼女は僕の手を取り、バスに乗った。
「なぁ、そろそろ教えてくれてもいいだろ。そんな重そうなものまで背負って、一体どこに行くんだよ」
「それは、着いてからのお楽しみだよ~」
彼女は、ずっと行き先をはぐらかしていたが、その直後、バスの案内が流れる。
「次は、ロープウェイ前、ロープウェイ前でございます」
ピンポーン。アナウンスと同時に、美琴が降車ボタンを押した。
「まさか、こんな遅い時間から降七山に登るつもり?」
「そうだよ~」
ハァ……。無邪気な笑顔で頷く彼女の横で、僕はため息をつきながら、バスを降りた。
「あ、鷲翔、そっちじゃないよ。私たちはこっち」
ロープウェイの乗り場に向かおうとしていた僕を、美琴が引き留めた。彼女が指を差していた方は、歩行者用の山道だった。
「え、まさか、歩いて登るつもり?」
「人生、楽をしようとしてはいけません。さっき登った聖山は、子どもだって簡単に登れる山だよ? こっちの山を登り切ってこそ、登山サークルの一員ってもんでしょ。ほら、覚悟決めて行くよ」
「マジか……」
僕は、絶望を感じながら、登山用ルートを歩き始めた。
「ヒィヒィ、ハァ」
「ほら、あと一歩」
美琴の声に反応して、顔を上げると、彼女が僕に向かって手を伸ばしていた。
僕は彼女の手を握り、最後の一段を登り切った。
「もうダメだ……、やっぱり一日に山二つは厳しいって」
もう体力は限界だった。僕は這いつくばって、山頂のベンチに辿り着き、寝転がった。
「情けない、君はそれでも、本当に日本男児か?」
「あ、この時代に、その発言はセクハラだぞ」
「フフッ、冗談だって。ねぇ、それよりも、空が凄く綺麗だよ。こっち来て一緒に見ようよ」
重たい身体を起こし、美琴のところまで歩いていく。
「確かに、凄い星空だな」
「こんなに綺麗な景色、初めて見たかも」
彼女の言う通り、普段はなかなか見られないような、夜の景色が広がっていた。
「さすが、七つ星が降ってくる山、降七山って言われるだけあるね」
「ここから見える星のうち、今も存在しているのはいくつあるんだろうね」
ふと呟いた僕の言葉に、美琴は不思議そうな顔をした。
「星を見ると、いつも思い出すんだ。小学生のとき、理科の先生が言っていたことを。美琴は覚えてるかどうかわからないけど、『地球から見える星の多くは、とても遠いところにあるから、その光が地球に届くまでに、もの凄く時間がかかる。だから、今見えている星がすべて、今も存在しているとは限らない』って」
僕は手すりに持たれかかりながら、話を続けた。
「それって、なんだか今の、この時代に通じる教えのようだな、って感じるんだよね。目に見えているものとか、世間に出回っている情報だけがすべてじゃない。今、君が見ている景色は、イコール真実じゃないんだよ、って」
ふと美琴の方を振り返ると、不思議そうな顔をしながら、こちらを見ていた。
「ごめん、せっかく星を見に来ているのに、どうでもいい話しちゃったね」
「ホント、わざわざここまで来て、普通に話してるだけじゃ勿体ないよ。だから、ほら準備するの手伝って」
「準備?」
彼女は、大きなカバンの中身を取り出した。
「それって、もしかして望遠鏡?」
「そう、これで星を見たいって、ずっと思ってたんだよね」
僕と美琴は望遠鏡をセットし、先に美琴が中を覗き込んだ。
「凄い、ちゃんと一つ一つの星がくっきりと見える。鷲翔も見てみなよ」
美琴に促され、僕も望遠鏡のレンズを覗いてみた。
「ホントだ。シリウス、プロキオン、ベテルギウス。冬の大三角がこんなにも、はっきりと見えるなんてな」
「ここまで来た甲斐があったでしょ? けど、いつか夏の大三角も見てみたいな」
「どうして?」
ふと美琴が呟いたことに、僕は疑問を感じた。
確かに冬の大三角を見ることができた今、じゃあ夏も、となるのは自然なことかもしれないが、そもそも美琴がそこまで星好きであるという感じではなかったはずだ。
星や宇宙が大好きな僕が、そういった話をする度に、美琴はほとんど興味なさそうに聞いていた記憶があり、今回もなぜ星を見るために、望遠鏡を持参してまで、この山に登ったのか不思議で仕方がなかった。
「だって、私の名前には『琴』、鷲翔の名前には『鷲』が入ってるんだよ。生きているうちに、こと座のベガと、わし座のアルタイルは、ちゃんと見ておかないと」
「けど、そのときは、ここまで遠出してくるのは難しいかもよ」
「そっか、じゃあ、次はもっと近いところ、街の中から見られる場所はないのかな?」
僕は、ベンチの横に設置されていた双眼鏡を使いながら、街を見渡した。
「そんな場所があるとしたら……、あの時計台の屋上ぐらいかな」
「なぁんだ、いつも待ち合わせしているところじゃん。でも、時計台の中って立入禁止だよね?」
「そうなると、結局ここに来て、見るしかないってことになるね」
僕がそう言うと、美琴はカバンの中から、カメラを取り出して、望遠鏡に取り付けた。
「もう二度と見られなくなってしまうかもしれないから、この星空を写真に収めておこうと思って」
冬の大三角をはじめとする満天の星空が、彼女のカメラに写真として、綺麗に収まった。
「私、思うんだけど、写真って凄いよね。ちゃんとその瞬間の景色を、そのまま切り取ってくれるんだもの」
彼女がふと、そう呟いた。
「人間だれしも、全てのことを間違いなく記憶してるのって、まずあり得ないじゃん? 人の記憶は、そのときの感情とともに脳内に刻み込まれるから、多少なりとも、その人の主観が入って、事実とは少し違う形で保存される。覚えていないってことも頻繁にあるよね。
でも、写真はそうじゃない。ちゃんと見える景色を、ありのままの姿で写してくれて、データそのものをなくしたり、消したりしてしまわない限り、永久的に残る。当たり前のことだけど、実はちょっと凄いことなんじゃないかなって思ってるんだ」
そうか、美琴は昔から写真を撮るのが好きだった。だから、彼女にとって、星は被写体であり、今日はクリスマスイブの星空の写真を撮りたくて、ここまで来たのだろう。
「ごめんね、なんか私もつまんない話、しちゃった。でも、これでおあいこだね」
「実は僕も写真撮るの、結構好きでさ。最近はサークルの活動で、夜に山登りしたとき、いかに星空を綺麗に撮るかってことを研究してるんだ」
「それ、登山サークルじゃなくて、もはや天文か写真のサークルだね」
「ハハッ、そうかもしれない。じゃあ、最後に二人で写真撮って帰るか」
周りから見たら、くだらないと思われるであろう話で、僕たちは盛り上がった。
美琴と過ごせる時間が限られている中で、僕はこうしたひとときを大切にしたい。そんなことを思いながら、彼女とのかけがえのない時間を過ごした。
帰りは、さすがに美琴も僕も疲れていたので、ロープウェイで下ることにした。
「聖川の夜景が見えるね」
「うん、そうだね」
美琴の言う通り、僕たちの乗っているロープウェイからは、聖川の夜の街並みが一望できた。
「夜景も、星空のように綺麗に見えるけど、とても美しいとは思えないんだよね」
「どうして?」
美琴がまた、奇妙なことを言い始めた。
「だって……」
彼女は前に身を乗り出し、指を差しながら答え始めた。
「あそこの住宅街とかの光は、美しいと思うよ。家族みんなで楽しく晩御飯を食べているのかもしれないし、一人でオンラインゲームをして離れた場所の人と時間を共有して過ごしているのかもしれない。そういう場所の明かりはとても微笑ましいよね」
話を進めながら、美琴の指先が別の方向に変わった。
「けど、あそこら辺のオフィス街の光がまだついているのは望ましいことではないよね。クリスマスイブのこんな時間まで誰かが働いているってことだもん。だから、夜景は確かに綺麗かもしれないけど、玉石混交の言葉のように、美しい光と望ましくない明かりが混ざっているなぁ、って見る度に思うんだよね」
「んー、でも僕たちが生活できているのは、土日や深夜、年末年始とか、みんなが休んでいるときに、働いている人たちがいてくれているおかげなんだと思うよ。今、就職活動をしている中で、どこの企業や自治体を見ても、表面上は、こんなに大きなプロジェクトをやっていますとか、物凄くいいことばかりをアピールしているけど、実際に中で働いている人たちは、とてつもないプレッシャーや膨大な量の仕事に追われているんだろうなって感じるんだ」
いつか美琴が言っていた、「この世界はウソで溢れかえっている」という言葉は、残念ではあるけれど、本当にその通りだなと感じることが増えている。
ある意味で、これが大人の階段を上るということなのかと思うと、なんだか残念で仕方ないが、そうして社会の現実を知っていく中で、僕もこれからどう生きていくべきか、その道筋がハッキリとしたものになりつつある。
「結局、人の幸せって誰かの犠牲の上で成り立っているものであって、僕たちは目には見えないところで、お互いの楽しい時間と忙しい時間をズラして、支え合っているんだと思うよ。だから、今の働き方改革の時代の中でも、残業とか夜勤をしなければならない状況にいて、頑張っている人たちの明かりは、確かに一言で美しいとは言えないかもしれないけど、僕は拍手を送りたい。それに、今日はクリスマスだから、美琴のご両親だって、今も働いているんでしょ?」
「うん、だからこそ、私はあの光が嫌いなのかも」
ストレートに言い放った美琴の言葉に、僕は不意を突かれたように驚いた。
「そっか……。でも僕は、美琴の両親は、二人とも仕事熱心で凄いなって思ってるよ」
「鷲翔も、これから働き始めて、仕事熱心になるのはいいけど、目の前の大切なものを見過ごさないでね」
美琴のその言葉が、これから先の僕にとって最も大切な教訓となることを、このときの僕はまだ想像もしていなかった。
聖川駅行きの最終バスに乗り込むと、美琴はすぐに眠りについた。
どうせ終点まで乗ることになるし、僕も少し寝ようかとも思ったが、なぜか眠る気にはなれなかった。イヤホンを耳に装着して、ラジオを聴き始める。
「ねぇ、それって金沢令央のラジオ?」
音漏れしていたのが聞こえたのだろうか、美琴が目を覚まして、僕に聞いてきた。
「そうだよ。あ、ごめん、起こしちゃったよね……」
「ううん。ねぇ、私も聴いていい?」
イヤホンの片方を取り、美琴に渡した。
「今日はクリスマスイブなので、本来であれば楽しいクリスマスラジオをお届けするはずでしたが、ここで皆さんにちょっぴり寂しいお知らせがございます。私、金沢令央は、来年の春を持ってこの番組を終えようと思っています」
「終わっちゃうんだね……。浪人生のとき、ずっと聞いてたのにな」
美琴が悲しそうな声で呟いた。
「人には誰しも、決断を迫られる時がやってきます。よく、後悔のない選択を、だなんて言われますが、そんなの絶対に無理です。人生うまくいかないことばかりで、過去に戻ってやり直したいって何度も思ってしまいます。
でも、もし本当に戻れたとしても、今と状況が変わっている保証は全くありません。それどころか、千回戻ったところで、自分の思い通りの今に変わることはおそらく一回あるかどうか、ではないでしょうか。けど、人はその、〇・一%の確率に賭けて、過去に戻ってやり直したいと願うんです。そのときは最善の決断をしたはずなのに、後になって必ずと言っていいほどその選択を悔やむ。でも、それでいいと思うんです。そう考えられるほど、必死に走ってきた結果なんだろうなって。
きっと、今回の僕の決断も、これまでしてきた選択も、そしてこれから進んでいく道も、何かを選んで、何かを捨てる度に、また終わってから、もう少し違う道を歩んでいたら、って思うんだろうなぁ」
番組が終わることを話したからだろうか、いつも冷静なイメージのある、金沢令央にしては珍しく、とても熱い、語り口調だった。
彼の言う通り、人はどこかのタイミングで選択を迫られる瞬間があって、その分かれ道でどのルートを選んだとしても、この世界は無情にも止まることなく進んでいく。どんなに悲しい結果になっても、ちょっと待った、とすることはできない。
いつかきっと、この七夕クリスマスの会にも、決断を下さなければならないときがやってくることだろう。
「鷲翔はさ、過去と未来、どっちに行きたい?」
ふと美琴が僕に聞いてきた。
「どうしたの? 急にそんなこと聞いて」
「いや、令央くんの話を聞いて、ちょっと知りたくなったから」
「うーん……、過去、かな」
少し考えて、僕はタイムマシンがあれば、過去に戻りたいと思った。
「それはやっぱり、変えたい過去があるから、とか?」
「まあ、そうだね。未来はこれから訪れてくるものであって、何の未練もないけど、過去にはたくさんやり直したいことがあって、もっと違う選択をして別の道を歩んでみたかったなって思うから」
「でも、過去に戻れたとしても、今とは違う結果になっているとは限らないよ?」
「それはそう、かもね……」
美琴の言う通り、運命はそう簡単に変えられるものではない。
人は自らの道を、自らで決めて生きていくが、そのすべての選択と結果は、ある程度運命的に決まっていたものなのかもしれない、そんな気がしている。
「けど、変えられるものなら変えたい、かな……」
僕はその言葉を、美琴に向けて呟いたつもりだったが、音楽が流れ始めたこともあってか、彼女はまたウトウトし始めていた。
「眠い?」
「うん、駅に着いたら起こしてくれる?」
「わかった」
彼女の寝顔を見ながら、僕は思った。やっぱり幸せだな、と。
でも、この幸せな時間も、そう長くは続かない。
これは、神様から与えられた束の間の休息であって、きっと僕たちはこうした時間を、いつまでも過ごせるわけではない、ということは何となく察している。
とは言っても、その未来はどこかボンヤリしていて、もし本当に終わりが来るのだとしても、そうなってからでしか、慌て始めることはないだろうし、何かを変えようという強い意志は、今のところ存在していない。でも、そうやって悠長にしていると、結局また過去に戻ってやり直したいという思いが、芽生えることになってしまうのだろう。
人は思っている以上に、前を向くことができない生き物で、後ろばかり振り返ってしまう。未来が大きく変わってしまうであろう岐路に、何度も立たされ、次に進んでいく方向を選ばなければならない。
今、この瞬間も、きっとどこかで誰かが、後悔したくない、選びたくないという気持ちと、前に進まなければならない、というプレッシャーとの狭間で悩み、葛藤していることだろう。
この先、僕にもまたその分かれ道がやってきたとき、果たしてどんな決断をすることになるだろうか。期待と不安が入り混じっている、と言いたいところだが、ほとんど不安しかない行く末を、窓の外に広がる夜の街並みをボンヤリと眺めながら、僕は憂うのであった。
「次は終点、聖川駅前、聖川駅前です」
「美琴、もうすぐ着くよ」
バスのアナウンスが流れてきたところで、僕は美琴を起こした。
「うん、ありがと」
彼女は眠たい目を擦りながら、大きなあくびをした。
「やっぱり夜遊びはほどほどにしとかないといけない、ってことだね」
眠そうな美琴に、僕は意地悪な感じで注意した。
「でも、こんな経験、今しかできないじゃない。それに鷲翔も、最初は嫌がってたけど、最後は割と楽しんでそうだったし」
「んー、そうだったか。それより、ほら早く、降りた、降りた」
ちょっとした仕返しを食らった形となった僕は、バツが悪そうに、バスが到着したのと同じタイミングで、美琴を急かすようにして席を立った。
駅に着いてバスを降りると、どこかで見たことのある人が僕たちを待ち構えていた。
「パパに命じられたの?」
「えぇ、美琴さんを警護しておくように仰せつかっておりますので。でもご安心ください、お父様にはお伝えしていないので」
そうか、この人、美琴の身辺警護にあたっている警察官だ。名前は知らないけれど、前に美琴を警護している姿を見たことがある。
「美琴さんがどこへ逃げようとも、追いかける所存です」
彼女は、明らかに浮かない顔をしていた。
「それと……、夜野くん、だったかしら?」
「は、はい!」
刑事さんの鋭い視線と声に、思わず声が裏返ってしまう。
「君に一つ、忠告しておくわ。今、彼女と会っていると、あなたが脅迫状を送った犯人だと疑われかねないわよ。それに、彼女は婚約者がいる身よ。少なくとも、この街で彼女と二人きりで会うのはよしなさい」
その人は、物凄い剣幕で僕に言い放った。
確かに元々、美琴の提案で始まったことではあるが、ちゃんと断り切れなかった僕にも、非常に大きな責任があるし、誰かに怒られても仕方がないというのは、ずっと前からわかっていた。
「鷲翔は何にも悪くないわ。ホテルを抜け出して、一緒に山に登るよう頼んだのは、私の方だから」
「しかし、美琴さんの頼みを断ることもできたはずよ。けど、この男はそうしなかった」
「それでも、鷲翔の優しさにつけ込んだのは私だから」
美琴は怒りの声を放ち、その場を去っていってしまった。
「とにかく、今後は十分気を付けることね」
刑事さんも、僕に釘を刺してから、彼女の後を追っていった。
いつか美琴と待ち合わせをすることも、本当にできなくなってしまうのだろうか。彼女は、婚約発表は世間へのパフォーマンスと言っていたが、その世間の人たちは、美琴には飛鳥という婚約者がいる、との認識を持っており、今の僕を見れば完全に悪者扱いするだろう。
今のところ、あの婚約発表以降、美琴と僕が二人きりで会っているところを見られたのは、テーマパークでの、あの親子だけのはずだが、もし今後、より多くの人に見られてしまえば、あっという間に彼女も僕も、批判の的になるのは間違いない。
やはり、本当にそろそろ幕引きを考えるときが来てしまったのかもしれない。こうなったら、もう僕にできる決断は一つしかない。大人にならなきゃ、いけないんだ。
「美琴、どこで何をやってたんだ?」
美琴がホテルに帰ると、入り口で飛鳥が待っていた。
「飛鳥には関係ないわ。それよりも、私の部屋はどこ。早く案内して」
「どうした、やけに怒ってないか」
「仕方ないじゃない。理由なら、あの刑事に聞いてよね」
不機嫌なまま、美琴は自分の部屋へと向かっていった。
「刑事さん、アンタ、何をやってたんだ。ちゃんと美琴を見張っててくれないと、俺も困るんだがな」
美琴をしっかりと見張ってくれていなかった刑事に、飛鳥も怒りが収まらなかった。
「すみませんねぇ。あのお嬢様を見張っておくのは、そう簡単ではなくてね」
「アンタ以外にも、刑事はいくらでもいるんだ。その気になれば、美琴の警備につく奴だって、いつでも変えられるんだぞ」
「ご心配いただき、どうも。でも、今の聖川署、いや、日本全国の警察を見渡しても、私以上に美琴さんのことを守れる人はいないと思いますけどね。では、失礼」
そう言い残すと、霜山刑事も飛鳥の横を通り過ぎ、美琴の後を追っていった。
「クソッ!」
飛鳥の苛立ちに満ちた声が、ホテルのロビーに響き渡った。
