迎えた、二年目のクリスマスイブ。
僕は、この四月に晴れて大学生となった。とは言っても、特に行きたい大学もなかったし、学びたいこともなかった僕は、受験戦争に耐えかねたこともあって、地元の大学に進学した。
三月に高校を卒業して以来、美琴とは会っていない。僕たちは小学生のときからずっと同じ学校だったため、こんなに長期間にわたって会っていないというのは、かなり不思議な感じがする。
でも、人は出会いと別れを繰り返す生き物で、むしろ僕と美琴のように、これだけ長く同じ時間を共有してきた人がいる、というのは珍しいのかもしれない。たとえ別々の道を歩むことになったとしても、また会えるときがやって来るのは本当に恵まれている、としか言えないのではないだろうか。
この世界には、もう二度と再会できない人もいる中で、僕たちはこれからもまた、会うことのできる関係にあるのだから、僕は再会の時間を大切にしたいと思っている。そういう考えもあって、去年の美琴の「毎年会おう」という話を断ることができなかった。何かしら外に出るきっかけが欲しかった、という事情もあったのだが、それでも僕が彼女に会う理由は、きっとそんな単純なことなんだと思う、多分。
待ち合わせ場所である時計台の前に着くと、そこにはすでに、美琴の姿があった。
「ごめん、待たせちゃって」
「今年は私の方が早かったね。けど、ホントに来るなんてビックリしちゃった。バイトとかサークルで毎日忙しくて難しいのかなって思ってたから」
ギクッ。残念ながら、美琴が今、想像しているであろう華のキャンパスライフとは、真逆の生活を送っている。
大学生になって、今までやったことのないバドミントンサークルに入り、映画館でバイトも始めたが、そこまで忙しいという訳ではない。むしろ、授業以外何も予定がない日がほとんどで、大学の課題が終わったら、ずっとネットサーフィンをしている、そんな平凡な毎日だ。
「それはこっちのセリフだっつーの。ったく、浪人生なのに、勉強しなくてホントに大丈夫なの?」
僕はてっきり、美琴も地元の大学に進学して、卒業後は実家のホテル稼業を継ぐものだと思っていたが、どうやら彼女には、彼女なりの考えがあるらしい。その件をめぐって、美琴はご両親とも揉めたらしく、地元の予備校に通っているにもかかわらず、実家を出て、主に県外からの学生向けの寮に入っているらしい。
「去年約束したじゃん、絶対に今年のクリスマスイブも二人で会うって」
「まあ、それはそうだけど……、本当は寮の規則を破って抜け出してきたんじゃないの?」
予備校の寮に入っているのだから、きっと門限もあっただろうに、無理してここへ来たのではないか、僕はそう思った。
「七夕クリスマス」
突然、彼女がそう呟いた。
「え?」
「一年に一回だけ会うって、まるで織姫と彦星の関係みたいじゃない? あの二人は七夕の日に会うけど、私たちはクリスマス。だから、七夕クリスマスの会と命名します!」
「はあ?」
いきなり何の話をし出したのかと思えば、僕たちのこの集まりに、わざわざ名前をつける必要なんてあるのか……。確かに僕たちの関係は、他の人からしてみれば、七夕伝説をオマージュしたのかと思われるかもしれないが。
「それにさ、私は七夕が誕生日、鷲翔はクリスマスイブ。お互いの誕生日を会の名前につけるなんて素敵じゃない?」
「んー、まあ、そうかもね?」
「あー、今絶対ダサいって思ったでしょ~」
「いや、思ってないって」
むしろちょっと、名前をつけるというのもアリなのかもしれない、って思えてきているし……。
「正確に表すなら、『七夕的なクリスマス』だけど、それだと語呂が悪いし、『七夕クリスマス』の方がなんか可愛いかな、って思って」
「いいんじゃない、七夕クリスマス。僕は素敵だと思うよ」
僕の言葉に、美琴は驚いたような顔をしていた。
「鷲翔がそんな風に言うのって、なんか意外なんだけど」
「そ、そうか……? それよりも、今日は何をするか、もう決めてるの?」
「今年もまた、デパートに行きます。レッツゴー」
昨年と同様、僕は美琴に引っ張られ、『七夕クリスマスの会』がスタートした。てか、また買い物するのかよ!
「で、どうしてまた、今年もここなの?」
僕たちは、去年と同じデパートに来ていた。今年は一体何を買うのだろうか、またケーキを作る、ということはないと思っているが、今回も美琴の真意がまだ読めていない。
「あとで買い物もするけど、まずはアレ!」
彼女が指を差した方向を見ると、『屋上スケートリンクがオープン!』のポスターが貼られていた。
え、アイススケートォォォ?
「うぉっ、とっと」
「鷲翔、ヘタすぎ」
スケートに慣れていない僕は、ほとんどまともに立っていることすらできず、美琴に笑われてしまっている。
「ホント、鷲翔って運動音痴だよね」
「仕方ないだろ、人にも向き不向きがあるんだから。特にスケートなんて、美琴と違ってやったこと、ほとんどないし」
幼い頃、美琴はフィギュアスケートの選手だった。初めて出場したジュニアの全国大会でいきなり優勝して、将来の日本のフィギュアスケート界を担う逸材とまで言われていたほど、天性の才能を持っていた。
「何か一つでも、スポーツができないと女の子にモテないよ?」
美琴が冗談っぽく、僕のことをからかってきた。
「なんだと?」
大人気もなく、僕は彼女の言葉にカチンと来てしまい、逃げる美琴を追いかけた。
フッと湧いてきた感情に身を委ねてしまったがために、まともに滑れないにもかかわらず、寄りかかっていた手すりから離れてしまった。
「うぉっ、と」
すぐに足元がフラつき、身体が前に傾いた。
「キャッ」
美琴を押し倒すようにして、僕は倒れてしまった。目を開けると、物凄く近い距離で彼女と目が合った。
「ごめん……」
僕たちはすぐに目を逸らして、身体を起こした。
「ううん、こっちこそごめん。さすがに言い過ぎだったよね。代わりに、私が教えてあげるよ」
僕たちは小一時間ほどスケートをした後、靴を履き替え、ベンチで休憩をした。
「さっきは鷲翔にあんなこと言っちゃったけど、私も、自分にフィギュアの才能がないことに気づいちゃって、辞めたんだよね」
自販機で買ったココアを飲みながら、美琴がふと呟いた。
「ケガで辞めたってことになってるけど、ホントはそんなに大したケガじゃなかったんだ。ただ、周りからのプレッシャーに耐えられなくなっちゃって」
本当は僕も、そのことに気づいていた。
当時、美琴の家には連日、マスコミの取材が押し寄せていて、次第に彼女の心が疲弊していき、フィギュアの演技にも影響が出ていることは、誰の目にも明らかだった。
美琴のスケート人生は、周囲からのプレッシャーによって、押しつぶされた。
「プロのスポーツ選手は、精神的にも一流でなくてはならない」とよく言われるが、周りからの声に敏感にならない人なんて、この世にいるのだろうか。ましてや、十三、四歳の少女に、それまでの人生が一変するほどの出来事が起きて、冷静さは保ったままでいろ、などと言うのは、あまりにも酷ではないだろうか。
「でも、美琴は凄いよ。僕は逃げ出しちゃったからさ」
僕は中学生になってすぐ、サッカー部に入った。だが、長続きせず、すぐに辞めることになり、それ以来、ボールにも触っていない。大学でバドミントンを選択したのも、サッカーとは関わりたくなかったから、という理由があった。
「サッカーだけじゃない、僕は何もかも中途半端なところで終わっちゃってて……。それに比べて、美琴はまたスケートに向き合い始めてるじゃん?」
彼女は、最近になって、再びアイススケートを始め、実家のホテルでショーを開くようにもなった。一度は嫌いになったものに、また向き合おうとしている姿は、とても尊くて、僕には決して真似できないことであった。
「そんなことないよ。私が立ち直れたのは、あのとき、鷲翔が支えてくれたから」
「え?」
「練習でも上手くいかなくなって、リンクの上で泣いていた私の元に、わざわざスケート靴を履いて、近くまで来てくれた鷲翔が言ってくれたじゃん、『つらくなったら逃げ出してもいい、僕が周りの声から守ってやるから』って」
そうだった、身も心もボロボロになっていた美琴を見ていて、僕も本当につらかったから、そういう行動をとったのだと思う。
でも、あんな状態から立ち上がれたのも、またスケートを再開できたのも、全部美琴の強い意志があったからであって、逆に今は僕の方が、彼女に大きく勇気づけられている。
「今日、鷲翔とスケートが出来て、本当に良かった」
「僕も、美琴にこうやってまた会えてよかったと思ってるよ。最近は、本当に酷い生活を送ってしまってたからさ」
「大学生なんて、意外とそんなもんでしょ」
美琴が屈託のない笑顔を見せながら、僕に言った。
「なんかでも、凄い不思議な感じだね。今年の春までは毎日のように顔を合わせて、くだらない話ばっかりしてたのに。今はもう、こうしてたまに会うときぐらいしか話せなくなってしまって」
「うん、そうだね……」
僕も美琴も、まだ高校生のときの気分から抜け出せないでいるのだろう。くだらないと思っていた毎日が、実はかけがえのないもので、終わってみてから、そのことに気づく。
戻りたくても、戻れない、あの楽しかった日々。ふと思い出してしまい、寂しい気持ちになるが、それでも僕たちは前を向いて、次へと進んでいかなければならない。
「いつまでも、しんみりしちゃってても、仕方ないよね。よし、じゃあ買い物に寄ってから帰ろっか?」
「うん、また暗くなる前に、早く行こっ」
僕たちはベンチから立ち上がり、空になった缶を捨てて、買い物に向かった。
「えっ、美琴の家に?」
買い物中に、僕は思わず大きな声を上げてしまった。
「これ終わったら、それぞれの家に、もう帰るんじゃないの?」
周りの買い物客が、僕の声にビックリしていたことに気づき、小声で美琴に聞いた。
「そんなわけないじゃん。まさか、スケートだけで終わりだと思ってたの?」
かごに色々なものを入れながら、美琴が答えた。
「っていうか、なんか変なものばっかり入れてない? こんなオーナメントとか買って、何するつもりなの?」
「んー、それはね、私の部屋に来ればわかるよ」
「美琴の部屋⁈」
全く想定していなかったことばかりが、彼女の口から溢れてくる。しかしこれは、大変なことになりそうだ……。
「ふぅ、やっと着いたね。あそこのデパート、やっぱ遠いよね」
結局、また美琴に連れられるがまま、彼女の家にやってきた。
美琴は、天宮ホテルを経営している天宮家の一人娘である。天宮ホテルというのは、この聖川市で二番目に大きいホテルであり、全国規模で見ても、指折りの高級ホテルである。
ホテルの部屋すべてから、オーシャンビューが見渡せるようになっており、ジムや屋内プール、そして屋上菜園も備わっている。去年、ケーキ作りに使ったイチゴは、その菜園から美琴が黙って採ってきたものだ。
そんな彼女の家は、ホテルに併設されており、こちらもまた豪華な一軒家となっている。
「ほら、入って」
彼女の部屋の前までやって来て、今更ではあるが、本当に僕なんかが入って良いのだろうかと思い始めた。
「荷物重いんだから、早く入って」
「し、失礼します……」
美琴に急かされるがまま、僕は彼女の部屋に入った。
「黙ってないで、なんか言ってよ」
部屋に入って、僕はしばらくボーッと突っ立ってしまっていた。何せ、女性の部屋に入るということ自体が初めてで、想像してた感じと違っていたために、少し戸惑ってしまったのだ。
「凄い、整理整頓されてるね……」
「初めて女子の部屋に入った感想が、それ?」
「いやー、なんていうかこう、もっと色んなピンク系のものが置いてあるのかなーって思ってたから……。って、なんで僕が女性の部屋に入るの、初めてだって知ってるの⁈」
「あのねぇ、私ももうすぐ二十歳だよ? ピンク色で染まってる部屋って、イメージしてたの小学生の部屋か、ってーの。それに、鷲翔が女性の部屋初めてなのは、何となく雰囲気でわかる」
「そ、そっか……」
もうすぐ二十歳になる女性が、自分の部屋にクリスマスの飾りつけをしようとしているのはどうなんだと思ったが、そんなことを言ってしまえば、美琴の逆鱗に触れそうな気がしたので、心の中に留めておくことにした。
「てか、本当に入ってよかったの?」
「うん、今日はお父さんもお母さんも、忙しいし」
毎年、天宮ホテルで行われる、クリスマスパーティーのため、隣のホテルでは、スタッフの人たちが数週間前から、連日連夜泊まり込んで準備に追われていることだろう。美琴のご両親も、おそらく日付が変わる時間まで、こちらには帰ってこられないはずだ。
「いや、それもそうなんだけど、そもそも僕が美琴の部屋に入って良かったのかな、って」
「別に、私は何も抵抗ないし、それに今から飾りつけを手伝ってもらわなきゃだから」
あぁ、やっぱりそうなのか……。買い物かごにオーナメント類の装飾品ばかりが入っていたから、きっとどこかで飾り付けをするのだろうとは思っていたが、まさかそれが美琴の部屋だとは思っていなかった。
「ヨシッ。じゃあ、この部屋デコるの、始めよっか」
美琴が勢いよくスタートしてから、三十分後。
「なんでやねん!」
彼女は机に突っ伏し、テレビでお笑い番組を見ていた。
「ダウンするの、早くない?」
「だって、思ってたよりも大変なんだもん。あとは、鷲翔がやって?」
上目遣いで僕にお願いをしてくる。カ、カワイイ……って言ってる場合か。
「あ、今、可愛いって思ったでしょ」
僕としたことが、不覚にも、美琴に気をとられてしまっていた。そんな僕の心を察したかのように、彼女から鋭い言葉が飛んできた。
「は? そ、そんなことないよ……」
美琴に悟られないよう、僕はどうにか誤魔化そうとした。
「あ、絶対思ったよね。凄いキョドってるもん」
「イテッ、枕を投げてくるなよ、せっかくの飾り付けが壊れちゃうじゃん」
突然、枕投げが始まった。オーナメントが取れてしまわないよう、僕は飛んでくる枕を止めるのに必死になった。
「俳優の金沢令央さんが、国宝級イケメンランキング入りを辞退しました」
点けっぱなしだったテレビから、芸能ニュースが流れてくる。
「あ、金沢令央じゃん」
ニュースが始まるなり、美琴は枕を投げるのをやめ、テレビに視線を投げた。
「なお、金沢さんは自身のSNSで『選んでいただいた皆様には大変申し訳ございませんが、本ランキングの趣旨に賛同できないため、辞退させていただきます』とのコメントを発表しています」
「ホントだ。僕、この人のラジオ聴いてるんだよね」
「え、ホントに? 私も聴いてるよ」
意外な共通点だった。十年以上も一緒にいて、まだお互いの知らない部分があったのは、驚きだった。
「マジ? 先週の放送、神回だったよね?」
「うん、わかる~。でも、何で辞退しちゃったんだろうね。趣旨に賛同できない、ってことらしいけど」
確かに、金沢令央と言えば、次から次へとヒット作に出演している、最注目の若手俳優と言われており、こうした賞に選ばれるのはごく自然なことだろう。けど、そんな彼がこの賞を断った理由は、僕にも何となく分かる気がする。
「んー、僕もこのランキングは、ずっと好きじゃなかったな」
「どうして?」
「だって、イケメンを順位付けするのって、なんか今の時代に合ってないじゃん。多分、雑誌もなかなか売れない中で、何とか面白いコンテンツを世の中に発信していこうと試みた結果として、このランキングができたんだと思うけど、カッコいいとか、可愛いとかが正義みたいな風潮を後押ししている気がしてさ」
金沢さんがどのように考えて、この決断を下したかはわからない。けれど、彼のラジオを聴く度に、きっとこの人と僕は、どこか似たような考え方を持っているのではないか、と勝手ながらに思っている。
「最近、そういう類の言葉がやたらと多用されているけど、本当は誰しも、自分が使う言葉には、きちんと線引きしないといけないって思うんだよね。この言葉は、ここまでの表現としては用いるけど、これ以上の意味では使わない、っていう風に。それに、金沢さんは俳優なんだから、演技でこそ、評価されたいんじゃないかな」
「じゃあ、鷲翔はさ、可愛いって言葉は、一生使わないつもりなの?」
「そんなことはないよ。本当にそう思ったときぐらいは、使ってもいいんじゃないのかな」
どんな言葉であっても、この世に存在している以上、誰も使わない、ということはあり得ない。ただ、その言葉を使う者には、予め使用範囲を決めておくことが、求められているのではないかと思っているのだ。
可愛い、という言葉などは、今の世の中を見ていて、あまりにも多くの場面で使われすぎてしまっているように感じる。この世界のどこかに、その言葉で苦しんでいる人がいるかもしれない、ということを考えると、むやみやたらに使うべきではないのではないか、そんな気がしている。
「鷲翔は、私のこと、可愛いって思ってる?」
「え?」
美琴が真剣な眼差しで、こちらを見つめてくる。僕の心臓が、激しく鼓動を打っているのを感じた。
「ふふっ、何マジな顔してんの、冗談に決まってんじゃん。さてと、残りの飾り付け、終わらせちゃおっか」
「そ、そうだね……」
そのときはまだ、わかっていなかった。いや、気づこうとしていなかっただけのかもしれない。なぜ、自分がこんなにも美琴にドキドキしていたのか、この感情の正体が一体何なのか、ということを。
一時間後、美琴の部屋の飾り付けが完成した。
「ふぅ、やっと終わったね。あ、写真撮っておかないと」
美琴はスマホを取り出し、部屋の写真を撮り始めた。
「じゃあ、カウント5秒で行くよ~。はい、チーズ」
カメラを設定した美琴が、急いで画面の中に収まろうとする。
パシャ。
「ねぇ、来年もまた会ってくれるよね?」
撮った写真を確認しながら、彼女が言った。
「うん、もちろん」
「来年のクリスマスまでに何が起きたとしても、だよ?」
美琴は意味深なことを呟きながら、僕に再度確認してきた。
「わかってるって」
「約束ね」
僕たちはまた、去年と同じように指切りをした。
美琴の部屋の飾り付けが終わって、帰ろうとしたとき、玄関ホールで彼女の母親、そして僕たちと同い年ぐらいの若い男性の二人と遭遇した。
「お母さん、今日は忙しいから、ホテルに泊まり込むんじゃなかったの?」
母親の顔を見て、美琴は、明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
「今、ホテルの方は、お父さんが回しているから大丈夫よ。それより、そちらの男性はどなた?」
「鷲翔よ。ほら、幼い頃、よく一緒にいたでしょ」
「お久しぶりです……」
やたらと小さな声で挨拶をしてしまった。
実を言うと、僕も美琴のお母さんには、昔から抵抗感があった。いつも明るい美琴とは違って、彼女の母親はどこか不気味で、暗いオーラを発しており、僕に対して常に冷たい視線を送ってきている印象があった。
それに、この人の姿を見ると、いつも脳裏に浮かんでくる。なぜかはわからないけれど、僕の母が美琴の両親に頭を下げている、いつの日だったか目にしたのかもしれない光景が。
「あぁ、あの今は亡き、料亭の息子くんね。勉強で忙しいはずの美琴と、二人で何をしていたのかしら」
「えっと、それは……」
「鷲翔には、私の部屋の飾り付けを手伝ってもらっていたのよ。悪い?」
僕は何とか誤魔化そうとしたが、美琴がハッキリと言った。ここで正直に話してしまうのは、明らかに逆効果でしかないような……。そう思った僕は、彼女の言葉に焦ってしまった。
「あら、そう。勝手に浪人するって家を出ていったあなたに、勉強だけしていなさいとは、あえて言わないわ。でも、あまり簡単に殿方を自分の部屋に入れないことね。もうあなたも大人になったんだから、誰かに誤解されるような行動はとらないこと、わかった?」
「誤解じゃない、って言ったら?」
え? 突然、変なことを言い出した美琴の方を、僕は思わず振り返ってしまった。
「アハハ、あなたもそんな冗談を言えるようになったのね」
美琴の「冗談」に、彼女のお母さんは高笑いした。
「それよりも美琴、ちょうどあなたに大事な話があるの。こちらにいる飛鳥くんとね」
そうか、彼女のお母さんの隣にいる男性は、どこかで見たことがあると思っていたが、飛鳥だったのか。
彼は、この街で一番大きなホテルを経営する、白瀬グループの一人息子で、僕や美琴とは幼なじみの関係にあり、よく三人で遊んでいた仲だった。
だが彼とは、少しずつ疎遠になっていき、同じ高校まで進学したものの、クラスが同じになることはなく、しばらく顔を合わせていなかった。
「久しぶり、美琴。それと鷲翔も」
飛鳥が、美琴と僕に握手を求めてきた。
「お、おう」
幼なじみの突然の登場に戸惑いながらも、差し出された手を握り返した。
何年ぶりだろうか、久しぶりにその姿を見た飛鳥は、幼い頃の面影を残しつつも、立派な青年に成長していた。彼の代わり様に、僕は驚きを隠せずにいた。
美琴の方を見ると、表情が若干暗くなっていたが、そこまで驚いているような様子もなかった。僕がしばらく飛鳥の顔を見ていない間も、美琴は彼と会っていたのだろうか。
「美琴、この後、リビングに来なさい。三人でゆっくり話をしましょう」
「わかったわ。行こう、鷲翔」
美琴は不機嫌なまま、その場を早足で立ち去っていった。僕は、彼女のお母さんと飛鳥に挨拶をしてから、彼女の後を追いかけた。
その夜、金沢令央の姿は、とあるラジオブースの一角にあった。
「皆さん、こんばんは。『金沢令央のレディオ・ナイト』へようこそ。今夜はまず、各メディアで報道のあった件についてお話させてください。
今回、私があのような決断をした理由は、いくつかありますが、そのうちの一つとして、私自身がずっと賞レースという制度に懐疑的であった、ということが挙げられます。この世に生きるすべての人々、そしてドラマや映画、小説といった作品のすべてに、唯一無二の価値があって、それらを順位付けすることに、ずっと疑問を感じてきました。
確かに、競争を促したり、人々を楽しませたりするという目的の下では、そういった制度も必要なのかもしれません。でも、ありとあらゆるものがそうした流れの渦に巻き込まれるのはどこか違う気がしていて、誰かが歯止めをかけなければならないと思いました。
今回の私の行動をきっかけとして、これまで当たり前に受け入れられてきた伝統や文化に一石が投じられ、皆さんの間で議論がなされることを願っています」
「とりあえず今日のところは帰っていいわ。でも、しばらくの間、君は警察の監視対象になるから、怪しまれるような行動はとらないことね」
「は、はい……」
ったく、なんでまた僕がこんな目に遭わなければいけないんだ。これじゃ、あのときと全く同じじゃないか。
頭を抱えながら警察署を出ると、そこにはタキシード姿の飛鳥が立っていた。今朝の格好のまま、取り調べを受けたのだろう。
「フッ、まさかお前とこんなところで再会することになるとはな。ちょうどいい、ちょっと俺に付き合えよ」
僕たちは近くのラーメン屋に入った。周囲のお客さんは飛鳥の姿を見て驚いていたが、当の本人はそんなことを全く気にも留めず、カウンター席に座った。
「ラーメン二つ、それと餃子一人前」
飛鳥は、僕の希望も聞かずに、注文をした。僕たちは幼い頃、よくラーメン屋に通って、いつもこのメニューを注文していたから、思わずそのときのクセが出たのだろう。
「何だ、お前。取り調べが終わった後も、警察につけられてるのか?」
店の外に見える怪しげなスーツ姿の二人組に気づき、飛鳥が言った。
「あぁ、飛鳥にはアイツらの尾行はないのかよ」
「んなもん、あるわけねぇだろ。あの事件のときも今回も、俺の取り調べは簡単なものだったし。どうやら警察は、お前が美琴の命を狙っているという風説を信じ切っているらしいな」
注文後すぐに、店員さんが持ってきてくれたラーメンを目の前にして、飛鳥が割り箸を口で割った。
「ホントいい迷惑だよ。どいつもこいつも風の噂とやらに惑わされやがって。父さんが作ろうとしていたのは、そんな聖川の街じゃねぇってのに……」
怒りのあまり、僕は両手の拳を強く握り締め、テーブルを叩いた。
「まぁ、そんな熱くなんなよ。ほら、早く食べないと冷めちまうぞ」
飛鳥に諭されながら、僕は熱々のラーメンを口に掻き込んだ。
僕は、この四月に晴れて大学生となった。とは言っても、特に行きたい大学もなかったし、学びたいこともなかった僕は、受験戦争に耐えかねたこともあって、地元の大学に進学した。
三月に高校を卒業して以来、美琴とは会っていない。僕たちは小学生のときからずっと同じ学校だったため、こんなに長期間にわたって会っていないというのは、かなり不思議な感じがする。
でも、人は出会いと別れを繰り返す生き物で、むしろ僕と美琴のように、これだけ長く同じ時間を共有してきた人がいる、というのは珍しいのかもしれない。たとえ別々の道を歩むことになったとしても、また会えるときがやって来るのは本当に恵まれている、としか言えないのではないだろうか。
この世界には、もう二度と再会できない人もいる中で、僕たちはこれからもまた、会うことのできる関係にあるのだから、僕は再会の時間を大切にしたいと思っている。そういう考えもあって、去年の美琴の「毎年会おう」という話を断ることができなかった。何かしら外に出るきっかけが欲しかった、という事情もあったのだが、それでも僕が彼女に会う理由は、きっとそんな単純なことなんだと思う、多分。
待ち合わせ場所である時計台の前に着くと、そこにはすでに、美琴の姿があった。
「ごめん、待たせちゃって」
「今年は私の方が早かったね。けど、ホントに来るなんてビックリしちゃった。バイトとかサークルで毎日忙しくて難しいのかなって思ってたから」
ギクッ。残念ながら、美琴が今、想像しているであろう華のキャンパスライフとは、真逆の生活を送っている。
大学生になって、今までやったことのないバドミントンサークルに入り、映画館でバイトも始めたが、そこまで忙しいという訳ではない。むしろ、授業以外何も予定がない日がほとんどで、大学の課題が終わったら、ずっとネットサーフィンをしている、そんな平凡な毎日だ。
「それはこっちのセリフだっつーの。ったく、浪人生なのに、勉強しなくてホントに大丈夫なの?」
僕はてっきり、美琴も地元の大学に進学して、卒業後は実家のホテル稼業を継ぐものだと思っていたが、どうやら彼女には、彼女なりの考えがあるらしい。その件をめぐって、美琴はご両親とも揉めたらしく、地元の予備校に通っているにもかかわらず、実家を出て、主に県外からの学生向けの寮に入っているらしい。
「去年約束したじゃん、絶対に今年のクリスマスイブも二人で会うって」
「まあ、それはそうだけど……、本当は寮の規則を破って抜け出してきたんじゃないの?」
予備校の寮に入っているのだから、きっと門限もあっただろうに、無理してここへ来たのではないか、僕はそう思った。
「七夕クリスマス」
突然、彼女がそう呟いた。
「え?」
「一年に一回だけ会うって、まるで織姫と彦星の関係みたいじゃない? あの二人は七夕の日に会うけど、私たちはクリスマス。だから、七夕クリスマスの会と命名します!」
「はあ?」
いきなり何の話をし出したのかと思えば、僕たちのこの集まりに、わざわざ名前をつける必要なんてあるのか……。確かに僕たちの関係は、他の人からしてみれば、七夕伝説をオマージュしたのかと思われるかもしれないが。
「それにさ、私は七夕が誕生日、鷲翔はクリスマスイブ。お互いの誕生日を会の名前につけるなんて素敵じゃない?」
「んー、まあ、そうかもね?」
「あー、今絶対ダサいって思ったでしょ~」
「いや、思ってないって」
むしろちょっと、名前をつけるというのもアリなのかもしれない、って思えてきているし……。
「正確に表すなら、『七夕的なクリスマス』だけど、それだと語呂が悪いし、『七夕クリスマス』の方がなんか可愛いかな、って思って」
「いいんじゃない、七夕クリスマス。僕は素敵だと思うよ」
僕の言葉に、美琴は驚いたような顔をしていた。
「鷲翔がそんな風に言うのって、なんか意外なんだけど」
「そ、そうか……? それよりも、今日は何をするか、もう決めてるの?」
「今年もまた、デパートに行きます。レッツゴー」
昨年と同様、僕は美琴に引っ張られ、『七夕クリスマスの会』がスタートした。てか、また買い物するのかよ!
「で、どうしてまた、今年もここなの?」
僕たちは、去年と同じデパートに来ていた。今年は一体何を買うのだろうか、またケーキを作る、ということはないと思っているが、今回も美琴の真意がまだ読めていない。
「あとで買い物もするけど、まずはアレ!」
彼女が指を差した方向を見ると、『屋上スケートリンクがオープン!』のポスターが貼られていた。
え、アイススケートォォォ?
「うぉっ、とっと」
「鷲翔、ヘタすぎ」
スケートに慣れていない僕は、ほとんどまともに立っていることすらできず、美琴に笑われてしまっている。
「ホント、鷲翔って運動音痴だよね」
「仕方ないだろ、人にも向き不向きがあるんだから。特にスケートなんて、美琴と違ってやったこと、ほとんどないし」
幼い頃、美琴はフィギュアスケートの選手だった。初めて出場したジュニアの全国大会でいきなり優勝して、将来の日本のフィギュアスケート界を担う逸材とまで言われていたほど、天性の才能を持っていた。
「何か一つでも、スポーツができないと女の子にモテないよ?」
美琴が冗談っぽく、僕のことをからかってきた。
「なんだと?」
大人気もなく、僕は彼女の言葉にカチンと来てしまい、逃げる美琴を追いかけた。
フッと湧いてきた感情に身を委ねてしまったがために、まともに滑れないにもかかわらず、寄りかかっていた手すりから離れてしまった。
「うぉっ、と」
すぐに足元がフラつき、身体が前に傾いた。
「キャッ」
美琴を押し倒すようにして、僕は倒れてしまった。目を開けると、物凄く近い距離で彼女と目が合った。
「ごめん……」
僕たちはすぐに目を逸らして、身体を起こした。
「ううん、こっちこそごめん。さすがに言い過ぎだったよね。代わりに、私が教えてあげるよ」
僕たちは小一時間ほどスケートをした後、靴を履き替え、ベンチで休憩をした。
「さっきは鷲翔にあんなこと言っちゃったけど、私も、自分にフィギュアの才能がないことに気づいちゃって、辞めたんだよね」
自販機で買ったココアを飲みながら、美琴がふと呟いた。
「ケガで辞めたってことになってるけど、ホントはそんなに大したケガじゃなかったんだ。ただ、周りからのプレッシャーに耐えられなくなっちゃって」
本当は僕も、そのことに気づいていた。
当時、美琴の家には連日、マスコミの取材が押し寄せていて、次第に彼女の心が疲弊していき、フィギュアの演技にも影響が出ていることは、誰の目にも明らかだった。
美琴のスケート人生は、周囲からのプレッシャーによって、押しつぶされた。
「プロのスポーツ選手は、精神的にも一流でなくてはならない」とよく言われるが、周りからの声に敏感にならない人なんて、この世にいるのだろうか。ましてや、十三、四歳の少女に、それまでの人生が一変するほどの出来事が起きて、冷静さは保ったままでいろ、などと言うのは、あまりにも酷ではないだろうか。
「でも、美琴は凄いよ。僕は逃げ出しちゃったからさ」
僕は中学生になってすぐ、サッカー部に入った。だが、長続きせず、すぐに辞めることになり、それ以来、ボールにも触っていない。大学でバドミントンを選択したのも、サッカーとは関わりたくなかったから、という理由があった。
「サッカーだけじゃない、僕は何もかも中途半端なところで終わっちゃってて……。それに比べて、美琴はまたスケートに向き合い始めてるじゃん?」
彼女は、最近になって、再びアイススケートを始め、実家のホテルでショーを開くようにもなった。一度は嫌いになったものに、また向き合おうとしている姿は、とても尊くて、僕には決して真似できないことであった。
「そんなことないよ。私が立ち直れたのは、あのとき、鷲翔が支えてくれたから」
「え?」
「練習でも上手くいかなくなって、リンクの上で泣いていた私の元に、わざわざスケート靴を履いて、近くまで来てくれた鷲翔が言ってくれたじゃん、『つらくなったら逃げ出してもいい、僕が周りの声から守ってやるから』って」
そうだった、身も心もボロボロになっていた美琴を見ていて、僕も本当につらかったから、そういう行動をとったのだと思う。
でも、あんな状態から立ち上がれたのも、またスケートを再開できたのも、全部美琴の強い意志があったからであって、逆に今は僕の方が、彼女に大きく勇気づけられている。
「今日、鷲翔とスケートが出来て、本当に良かった」
「僕も、美琴にこうやってまた会えてよかったと思ってるよ。最近は、本当に酷い生活を送ってしまってたからさ」
「大学生なんて、意外とそんなもんでしょ」
美琴が屈託のない笑顔を見せながら、僕に言った。
「なんかでも、凄い不思議な感じだね。今年の春までは毎日のように顔を合わせて、くだらない話ばっかりしてたのに。今はもう、こうしてたまに会うときぐらいしか話せなくなってしまって」
「うん、そうだね……」
僕も美琴も、まだ高校生のときの気分から抜け出せないでいるのだろう。くだらないと思っていた毎日が、実はかけがえのないもので、終わってみてから、そのことに気づく。
戻りたくても、戻れない、あの楽しかった日々。ふと思い出してしまい、寂しい気持ちになるが、それでも僕たちは前を向いて、次へと進んでいかなければならない。
「いつまでも、しんみりしちゃってても、仕方ないよね。よし、じゃあ買い物に寄ってから帰ろっか?」
「うん、また暗くなる前に、早く行こっ」
僕たちはベンチから立ち上がり、空になった缶を捨てて、買い物に向かった。
「えっ、美琴の家に?」
買い物中に、僕は思わず大きな声を上げてしまった。
「これ終わったら、それぞれの家に、もう帰るんじゃないの?」
周りの買い物客が、僕の声にビックリしていたことに気づき、小声で美琴に聞いた。
「そんなわけないじゃん。まさか、スケートだけで終わりだと思ってたの?」
かごに色々なものを入れながら、美琴が答えた。
「っていうか、なんか変なものばっかり入れてない? こんなオーナメントとか買って、何するつもりなの?」
「んー、それはね、私の部屋に来ればわかるよ」
「美琴の部屋⁈」
全く想定していなかったことばかりが、彼女の口から溢れてくる。しかしこれは、大変なことになりそうだ……。
「ふぅ、やっと着いたね。あそこのデパート、やっぱ遠いよね」
結局、また美琴に連れられるがまま、彼女の家にやってきた。
美琴は、天宮ホテルを経営している天宮家の一人娘である。天宮ホテルというのは、この聖川市で二番目に大きいホテルであり、全国規模で見ても、指折りの高級ホテルである。
ホテルの部屋すべてから、オーシャンビューが見渡せるようになっており、ジムや屋内プール、そして屋上菜園も備わっている。去年、ケーキ作りに使ったイチゴは、その菜園から美琴が黙って採ってきたものだ。
そんな彼女の家は、ホテルに併設されており、こちらもまた豪華な一軒家となっている。
「ほら、入って」
彼女の部屋の前までやって来て、今更ではあるが、本当に僕なんかが入って良いのだろうかと思い始めた。
「荷物重いんだから、早く入って」
「し、失礼します……」
美琴に急かされるがまま、僕は彼女の部屋に入った。
「黙ってないで、なんか言ってよ」
部屋に入って、僕はしばらくボーッと突っ立ってしまっていた。何せ、女性の部屋に入るということ自体が初めてで、想像してた感じと違っていたために、少し戸惑ってしまったのだ。
「凄い、整理整頓されてるね……」
「初めて女子の部屋に入った感想が、それ?」
「いやー、なんていうかこう、もっと色んなピンク系のものが置いてあるのかなーって思ってたから……。って、なんで僕が女性の部屋に入るの、初めてだって知ってるの⁈」
「あのねぇ、私ももうすぐ二十歳だよ? ピンク色で染まってる部屋って、イメージしてたの小学生の部屋か、ってーの。それに、鷲翔が女性の部屋初めてなのは、何となく雰囲気でわかる」
「そ、そっか……」
もうすぐ二十歳になる女性が、自分の部屋にクリスマスの飾りつけをしようとしているのはどうなんだと思ったが、そんなことを言ってしまえば、美琴の逆鱗に触れそうな気がしたので、心の中に留めておくことにした。
「てか、本当に入ってよかったの?」
「うん、今日はお父さんもお母さんも、忙しいし」
毎年、天宮ホテルで行われる、クリスマスパーティーのため、隣のホテルでは、スタッフの人たちが数週間前から、連日連夜泊まり込んで準備に追われていることだろう。美琴のご両親も、おそらく日付が変わる時間まで、こちらには帰ってこられないはずだ。
「いや、それもそうなんだけど、そもそも僕が美琴の部屋に入って良かったのかな、って」
「別に、私は何も抵抗ないし、それに今から飾りつけを手伝ってもらわなきゃだから」
あぁ、やっぱりそうなのか……。買い物かごにオーナメント類の装飾品ばかりが入っていたから、きっとどこかで飾り付けをするのだろうとは思っていたが、まさかそれが美琴の部屋だとは思っていなかった。
「ヨシッ。じゃあ、この部屋デコるの、始めよっか」
美琴が勢いよくスタートしてから、三十分後。
「なんでやねん!」
彼女は机に突っ伏し、テレビでお笑い番組を見ていた。
「ダウンするの、早くない?」
「だって、思ってたよりも大変なんだもん。あとは、鷲翔がやって?」
上目遣いで僕にお願いをしてくる。カ、カワイイ……って言ってる場合か。
「あ、今、可愛いって思ったでしょ」
僕としたことが、不覚にも、美琴に気をとられてしまっていた。そんな僕の心を察したかのように、彼女から鋭い言葉が飛んできた。
「は? そ、そんなことないよ……」
美琴に悟られないよう、僕はどうにか誤魔化そうとした。
「あ、絶対思ったよね。凄いキョドってるもん」
「イテッ、枕を投げてくるなよ、せっかくの飾り付けが壊れちゃうじゃん」
突然、枕投げが始まった。オーナメントが取れてしまわないよう、僕は飛んでくる枕を止めるのに必死になった。
「俳優の金沢令央さんが、国宝級イケメンランキング入りを辞退しました」
点けっぱなしだったテレビから、芸能ニュースが流れてくる。
「あ、金沢令央じゃん」
ニュースが始まるなり、美琴は枕を投げるのをやめ、テレビに視線を投げた。
「なお、金沢さんは自身のSNSで『選んでいただいた皆様には大変申し訳ございませんが、本ランキングの趣旨に賛同できないため、辞退させていただきます』とのコメントを発表しています」
「ホントだ。僕、この人のラジオ聴いてるんだよね」
「え、ホントに? 私も聴いてるよ」
意外な共通点だった。十年以上も一緒にいて、まだお互いの知らない部分があったのは、驚きだった。
「マジ? 先週の放送、神回だったよね?」
「うん、わかる~。でも、何で辞退しちゃったんだろうね。趣旨に賛同できない、ってことらしいけど」
確かに、金沢令央と言えば、次から次へとヒット作に出演している、最注目の若手俳優と言われており、こうした賞に選ばれるのはごく自然なことだろう。けど、そんな彼がこの賞を断った理由は、僕にも何となく分かる気がする。
「んー、僕もこのランキングは、ずっと好きじゃなかったな」
「どうして?」
「だって、イケメンを順位付けするのって、なんか今の時代に合ってないじゃん。多分、雑誌もなかなか売れない中で、何とか面白いコンテンツを世の中に発信していこうと試みた結果として、このランキングができたんだと思うけど、カッコいいとか、可愛いとかが正義みたいな風潮を後押ししている気がしてさ」
金沢さんがどのように考えて、この決断を下したかはわからない。けれど、彼のラジオを聴く度に、きっとこの人と僕は、どこか似たような考え方を持っているのではないか、と勝手ながらに思っている。
「最近、そういう類の言葉がやたらと多用されているけど、本当は誰しも、自分が使う言葉には、きちんと線引きしないといけないって思うんだよね。この言葉は、ここまでの表現としては用いるけど、これ以上の意味では使わない、っていう風に。それに、金沢さんは俳優なんだから、演技でこそ、評価されたいんじゃないかな」
「じゃあ、鷲翔はさ、可愛いって言葉は、一生使わないつもりなの?」
「そんなことはないよ。本当にそう思ったときぐらいは、使ってもいいんじゃないのかな」
どんな言葉であっても、この世に存在している以上、誰も使わない、ということはあり得ない。ただ、その言葉を使う者には、予め使用範囲を決めておくことが、求められているのではないかと思っているのだ。
可愛い、という言葉などは、今の世の中を見ていて、あまりにも多くの場面で使われすぎてしまっているように感じる。この世界のどこかに、その言葉で苦しんでいる人がいるかもしれない、ということを考えると、むやみやたらに使うべきではないのではないか、そんな気がしている。
「鷲翔は、私のこと、可愛いって思ってる?」
「え?」
美琴が真剣な眼差しで、こちらを見つめてくる。僕の心臓が、激しく鼓動を打っているのを感じた。
「ふふっ、何マジな顔してんの、冗談に決まってんじゃん。さてと、残りの飾り付け、終わらせちゃおっか」
「そ、そうだね……」
そのときはまだ、わかっていなかった。いや、気づこうとしていなかっただけのかもしれない。なぜ、自分がこんなにも美琴にドキドキしていたのか、この感情の正体が一体何なのか、ということを。
一時間後、美琴の部屋の飾り付けが完成した。
「ふぅ、やっと終わったね。あ、写真撮っておかないと」
美琴はスマホを取り出し、部屋の写真を撮り始めた。
「じゃあ、カウント5秒で行くよ~。はい、チーズ」
カメラを設定した美琴が、急いで画面の中に収まろうとする。
パシャ。
「ねぇ、来年もまた会ってくれるよね?」
撮った写真を確認しながら、彼女が言った。
「うん、もちろん」
「来年のクリスマスまでに何が起きたとしても、だよ?」
美琴は意味深なことを呟きながら、僕に再度確認してきた。
「わかってるって」
「約束ね」
僕たちはまた、去年と同じように指切りをした。
美琴の部屋の飾り付けが終わって、帰ろうとしたとき、玄関ホールで彼女の母親、そして僕たちと同い年ぐらいの若い男性の二人と遭遇した。
「お母さん、今日は忙しいから、ホテルに泊まり込むんじゃなかったの?」
母親の顔を見て、美琴は、明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
「今、ホテルの方は、お父さんが回しているから大丈夫よ。それより、そちらの男性はどなた?」
「鷲翔よ。ほら、幼い頃、よく一緒にいたでしょ」
「お久しぶりです……」
やたらと小さな声で挨拶をしてしまった。
実を言うと、僕も美琴のお母さんには、昔から抵抗感があった。いつも明るい美琴とは違って、彼女の母親はどこか不気味で、暗いオーラを発しており、僕に対して常に冷たい視線を送ってきている印象があった。
それに、この人の姿を見ると、いつも脳裏に浮かんでくる。なぜかはわからないけれど、僕の母が美琴の両親に頭を下げている、いつの日だったか目にしたのかもしれない光景が。
「あぁ、あの今は亡き、料亭の息子くんね。勉強で忙しいはずの美琴と、二人で何をしていたのかしら」
「えっと、それは……」
「鷲翔には、私の部屋の飾り付けを手伝ってもらっていたのよ。悪い?」
僕は何とか誤魔化そうとしたが、美琴がハッキリと言った。ここで正直に話してしまうのは、明らかに逆効果でしかないような……。そう思った僕は、彼女の言葉に焦ってしまった。
「あら、そう。勝手に浪人するって家を出ていったあなたに、勉強だけしていなさいとは、あえて言わないわ。でも、あまり簡単に殿方を自分の部屋に入れないことね。もうあなたも大人になったんだから、誰かに誤解されるような行動はとらないこと、わかった?」
「誤解じゃない、って言ったら?」
え? 突然、変なことを言い出した美琴の方を、僕は思わず振り返ってしまった。
「アハハ、あなたもそんな冗談を言えるようになったのね」
美琴の「冗談」に、彼女のお母さんは高笑いした。
「それよりも美琴、ちょうどあなたに大事な話があるの。こちらにいる飛鳥くんとね」
そうか、彼女のお母さんの隣にいる男性は、どこかで見たことがあると思っていたが、飛鳥だったのか。
彼は、この街で一番大きなホテルを経営する、白瀬グループの一人息子で、僕や美琴とは幼なじみの関係にあり、よく三人で遊んでいた仲だった。
だが彼とは、少しずつ疎遠になっていき、同じ高校まで進学したものの、クラスが同じになることはなく、しばらく顔を合わせていなかった。
「久しぶり、美琴。それと鷲翔も」
飛鳥が、美琴と僕に握手を求めてきた。
「お、おう」
幼なじみの突然の登場に戸惑いながらも、差し出された手を握り返した。
何年ぶりだろうか、久しぶりにその姿を見た飛鳥は、幼い頃の面影を残しつつも、立派な青年に成長していた。彼の代わり様に、僕は驚きを隠せずにいた。
美琴の方を見ると、表情が若干暗くなっていたが、そこまで驚いているような様子もなかった。僕がしばらく飛鳥の顔を見ていない間も、美琴は彼と会っていたのだろうか。
「美琴、この後、リビングに来なさい。三人でゆっくり話をしましょう」
「わかったわ。行こう、鷲翔」
美琴は不機嫌なまま、その場を早足で立ち去っていった。僕は、彼女のお母さんと飛鳥に挨拶をしてから、彼女の後を追いかけた。
その夜、金沢令央の姿は、とあるラジオブースの一角にあった。
「皆さん、こんばんは。『金沢令央のレディオ・ナイト』へようこそ。今夜はまず、各メディアで報道のあった件についてお話させてください。
今回、私があのような決断をした理由は、いくつかありますが、そのうちの一つとして、私自身がずっと賞レースという制度に懐疑的であった、ということが挙げられます。この世に生きるすべての人々、そしてドラマや映画、小説といった作品のすべてに、唯一無二の価値があって、それらを順位付けすることに、ずっと疑問を感じてきました。
確かに、競争を促したり、人々を楽しませたりするという目的の下では、そういった制度も必要なのかもしれません。でも、ありとあらゆるものがそうした流れの渦に巻き込まれるのはどこか違う気がしていて、誰かが歯止めをかけなければならないと思いました。
今回の私の行動をきっかけとして、これまで当たり前に受け入れられてきた伝統や文化に一石が投じられ、皆さんの間で議論がなされることを願っています」
「とりあえず今日のところは帰っていいわ。でも、しばらくの間、君は警察の監視対象になるから、怪しまれるような行動はとらないことね」
「は、はい……」
ったく、なんでまた僕がこんな目に遭わなければいけないんだ。これじゃ、あのときと全く同じじゃないか。
頭を抱えながら警察署を出ると、そこにはタキシード姿の飛鳥が立っていた。今朝の格好のまま、取り調べを受けたのだろう。
「フッ、まさかお前とこんなところで再会することになるとはな。ちょうどいい、ちょっと俺に付き合えよ」
僕たちは近くのラーメン屋に入った。周囲のお客さんは飛鳥の姿を見て驚いていたが、当の本人はそんなことを全く気にも留めず、カウンター席に座った。
「ラーメン二つ、それと餃子一人前」
飛鳥は、僕の希望も聞かずに、注文をした。僕たちは幼い頃、よくラーメン屋に通って、いつもこのメニューを注文していたから、思わずそのときのクセが出たのだろう。
「何だ、お前。取り調べが終わった後も、警察につけられてるのか?」
店の外に見える怪しげなスーツ姿の二人組に気づき、飛鳥が言った。
「あぁ、飛鳥にはアイツらの尾行はないのかよ」
「んなもん、あるわけねぇだろ。あの事件のときも今回も、俺の取り調べは簡単なものだったし。どうやら警察は、お前が美琴の命を狙っているという風説を信じ切っているらしいな」
注文後すぐに、店員さんが持ってきてくれたラーメンを目の前にして、飛鳥が割り箸を口で割った。
「ホントいい迷惑だよ。どいつもこいつも風の噂とやらに惑わされやがって。父さんが作ろうとしていたのは、そんな聖川の街じゃねぇってのに……」
怒りのあまり、僕は両手の拳を強く握り締め、テーブルを叩いた。
「まぁ、そんな熱くなんなよ。ほら、早く食べないと冷めちまうぞ」
飛鳥に諭されながら、僕は熱々のラーメンを口に掻き込んだ。
