時計を見ながら急ぎ足で駅に向かう。
思いのほか書類作成が難航して、会社を出たのが二十三時半過ぎ。
そもそも、私がこんな時間まで残業することになったのは上司のせいだ。
定時間際に『来週月曜の早朝会議に必要な書類がまだ出来ていないので作っておいて』と仕事を押し付け、自分は接待があると言ってさっさと定時で帰ってしまった。
そんな無責任なことがある?
愕然としながらも、やらないという選択肢はなかった。
仕事を終わらせて会社を出たのは終電に間に合うかどうかの微妙な時間だった。
七月初旬の金曜の夜、一週間の仕事の疲れがピークに達していた。
足取りは重いし、息切れしてくる。
駅手前の信号が赤に変わり、横断歩道で立ち止まった。
深夜の生ぬるい風が汗ばむ肌に絡みついて不快な気持ちになる。
今年の梅雨はあってないようなものだった。
その梅雨が明け、毎日暑い日が続いている。
ハンドタオルで額の汗を拭きながら時計を確認すると、最終電車が出発する時間を指し示していた。
「あ、無理だ」と諦めの言葉が出てどっと力が抜ける。
視線の先で私が乗るはずだった電車が動き出し、駅から遠ざかっていくのが見える。
ため息をつき、疲れたので休憩しようと思い、駅前の噴水のある広場に向かった。
歩きながら改めて職場環境の悪さに苛立ちが募る。
とにかく私の上司が最悪だった。
『田中さん、ちょっと太ったんじゃない?』とか平気でセクハラまがいなことを言ってくる上司の山田太一。
その山田課長にやたら雑用を押し付けられて残業ばかり。
当然、上司に頼まれると断れないので引き受けざるを得ない。
以前、私を指導してくれた先輩に相談したけど『うちの会社は社長に何を言ってももみ消されるのがオチだよ。家族経営の小さな会社だから社長の身内が多くて、イエスマンしか周りに置いてないからね。私は今のところ何も害はないし待遇も悪くないからいいけど、合わないなら辞めるしかないよ』と言われ、何も解決には至らなかった。
課長は社長の息子だから、一社員が何を言っても無駄ということを教えられただけ。
私自身、この会社に合わないんだと思ったけど、辞める勇気はなかった。
だから、うち会社ではこれが当たり前なんだと無理やり納得して我慢していたけど、思った以上に疲弊している私がいた。
目的地の広場のベンチに座り、ポツリ呟く。
「あと一ヶ月の辛抱だ……」
私は来月でこの会社を辞める決断をした。
それは三ヶ月前の出来事がきっかけだった。
***
久しぶりに友人の古賀涼香とカフェで待ち合わせをしていた。
涼香が私を見た瞬間、驚きの声を上げる。
『綾美、どうしたの?しばらく見ない間に老けてるんだけど。目の下の隈も酷いし。何かあった?』
心配してくれる涼香に私は職場でのストレスや一年前に彼氏と別れたことを話すと、彼女は怒り出した。
『バカ!どうして綾美が我慢しないといけないの?職場の人以外にも相談する相手はたくさんいたでしょ』
『えっ』
『えっ、じゃない!もっと早く親でも彼氏でも私でも相談できたでしょ』
『だって、先輩が相談しても無駄って言うから』
『先輩に言われて無意識のうちにそう思い込むようになってたのか……。あのね、社外の人に相談するのは全然無駄じゃないからね。むしろするべきだったの。てか、そんな会社は即刻辞めるべき。綾美には合ってないよ、その会社。まだ若いんだし、やり直せるよ』
涼香の言葉に涙が溢れる。
ハッキリと他人から合ってないと言われて、胸のつかえがとれた気がした。
『簡単に資格とか取れるし、今の会社を踏み台にしてステップアップしよう!』
『そうだね』
私は誰かに背中を押してもらえるのを待っていたのかもしれない。
ようやく踏ん切りがつき、涼香のお陰で会社を辞める勇気が持てた。
あと、涼香は私が彼氏と別れたことにも驚いていた。
それもそうだろう、長年付き合っていた恋人に私が別れを切り出したんだから……。
***
「あれ?綾美じゃん。久しぶり。こんなところで何してるんだ?」
不意に声をかけてきたのは五歳年下の私の弟、龍之介の友人の蓮見順平。
順平は龍之介と同じ大学に通っている目鼻立ちの整ったイケメンだ。
髪の毛はシルバーアッシュに染めて緩くパーマをかけている。
順平は幼い頃からよくうちに遊びに来ていて、昔から私のことを呼び捨てにする生意気な男だ。
「終電に乗り遅れたからここで休憩してた」
「夜中に一人でこんな場所にいるなんて危ないだろ。仕事だったのか?」
「そう」
「社会人も大変だな」
順平は私の隣に座ってくる。
ふわりとアルコールの香りがし、飲み会だったのかと推測できる。
「そういう順平は?」
「俺?さっきまでゼミの飲み会。で、二次会でカラオケしてたら終電逃したって訳」
「若いわね」
「だろ。ピチピチの二十歳だぜ」
そう言って笑い、ピースサインをする順平につられて私もフッと笑いが漏れる。
「順平はいつ会っても楽しそうだね」
「まあ、それなりにね。綾美は元気にしてた?」
「元気といえば元気……なのかな。でも、上司に理不尽に怒られて残業三昧だからちょっと疲れてるかも」
「そっか……」
順平はそう呟き、何か思案するように口を閉ざす。
そして数秒後、「そうだ!」と言って立ち上がった。
「綾美、ボウリングしようぜ」
「は?」
「は、じゃねぇよ。行くぞ」
そう言って私の手を掴んで立ち上がらせる。
全く意味が分からない。
「嫌だよ、疲れてるって言ったでしょ」
なんで終電逃してボウリングしなきゃいけないんだろう。
「いいだろ。昔、"俺ら"でよく行ってたじゃん。負けず嫌いの綾美がもう一回!とか言って何ゲームもしたことがあっただろ」
「いつの話をしてるのよ。今はそんな元気ないって」
「ごちゃごちゃ言わなくていいから、ボウリングでストレス発散しようぜ!」
強引に押し切られ、私は駅から徒歩圏内のボウリングが出来る屋内型複合施設へ行くことになった。
***
「ねぇ、ボウリングじゃなくてカラオケでもよかったんじゃない?」
「えー、嫌だよ。俺、さっきまでカラオケして喉が痛いもん」
「なによそれ。自分勝手ね」
「今に始まったことじゃないだろ」
「確かにね」
「おい、そこは同意するなよ」
順平と小競り合いしながら受付を済ませる。
それが終わるとシューズを借り、ボールを選ぶ。
ボウリングなんていつぶりだろう。
ボールの穴に指を差し込んで持ち上げ、重さを確かめる。
「綾美、ボール決まった?」
「あ、うん」
「じゃあ、さっそく投げようぜ」
そう言うと、レーンに立った順平は最初の一投目からストライクを出していた。
「いぇーい!」
テンション高めにハイタッチを求めてくる。
それにつられて私も手を上げると「パンッ」と渇いた音が鳴った。
「綾美も昔みたいにストライク出してよ。まあ、無理だろうけど」
「失礼ね。見てなさいよ」
疲れていると言ったけど、実際にレーンの前に立つと内心楽しんでいる私がいた。
振りかぶってボールを投げ、その行方を目で追っていると、どんどん横にずれていきコンと音が鳴って左端のピンが一本だけ倒れた。
「ナイス一本!」
「最悪なんだけど」
ケラケラ笑う順平を睨みながら元の場所に戻る。
流石に数年ぶりのボウリングは下手くそ過ぎた。
元々、そんなに上手な方ではなかったけど。
「なんかさ、前より下手くそになってない?」
「そりゃあそうでしょ。ここ何年もボウリングなんてやってないし」
言い訳しながらボールが戻ってくるのを待っていたら、順平はポケットからスマホを出して弄り出した。
ふと頭上にあるモニターを見ると、私の欄に数字の"1"が情けなく表示されている。
「もしもし、起きてたんだ。よかった。寝てたらどうしようかと思ってた。あのさ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
電話がかかってきたのか、順平はスマホを耳に当てて話し出した。
彼女かなと思って見ていると、順平は意味深な笑みを浮かべる。
「悪い、ちょっと席を外す」
「分かった」
順平は私に断りを入れた後、立ち上がって離れた場所に行く。
遠くで何か真剣な表情で話している順平を横目にボールを投げると、中途半端にピンが二本残って大きなため息が出た。
順平の番になったけど、まだ電話中で戻ってこない。
椅子に座って場内をなんとなく見回すと、カップルや学生たちのグループが数組いてワイワイと盛り上がっていた。
そういえば、学生時代に順平たちとこんな風に楽しく騒いでいた記憶がある。
今では仕事に追われ、家に帰ると屍のように眠っている。
そんな私が終電後にボウリングをするとは思わなかった。
「ごめんごめん。次は俺だよな」
「電話はもういいの?」
「うん。さて、次もストライク出そうかな」
戻ってきた順平は当然のようにストライクを出していた。
「やば、俺ってすごいな。プロボーラーになれるかも」
「二回ストライク出しただけじゃなれないでしょ」
「ストライクもスペアも出せない綾美に言われたくありませーん」
ベーと舌を出す順平の腕を軽く叩く。
本当に生意気なんだから。
でも、こうして久しぶりに会った私を茶化しながらも順平なりに元気づけようとしてくれているのが分かる。
彼の不器用な優しさが疲れている心に沁みた。
「次は絶対にストライク出すから」
「へいへい。お手並み拝見っと」
意気込んでボールを投げたけど、結果はスプリット。
ニヤニヤしている順平を無視してスペアを狙うけど、ボールはピンとピンの間をすり抜けていった。
「綾美にストライクもスペアも無理ってことだな」
「ムカつく!」
こんな些細なやり取りが嫌なことを忘れさせてくれて、いい気分転換になっている。
声を出して笑ったのも久しぶりな感じがして、心の中で順平に感謝した。
一ゲームが終わり、アイスティーを飲みながら少し休憩していたら順平が突然話を切り出した。
「綾美さ、今って彼氏いる?」
どうしてそんなことを聞いてくるのか不思議に思ったけど、私は「いないよ」と答えた。
「一年前からずっとフリーだよ。忙しくて彼氏なんて作る暇もなかったし、それに……」
言葉に詰まる。
自業自得とはいえ、あの時の別れをどれだけ後悔したか分からない。
元カレとは嫌いになって別れた訳じゃないけど、一度口に出してしまった言葉は取り消せない。
ふと、一年前のことを思い出していた。
***
私には高校からの付き合いで、将来結婚しようかなんて話も出ていた彼氏がいた。
同い年の幼なじみで誰よりも私のことをよく分かってくれていて優しい人。
だけど、社会人になってから平日にデートの約束をしていても急な残業が入ってドタキャンすることが増えていた。
『本当にごめんね』
『気にしなくていいよ。仕事だから仕方ないって。デートならいつでも出来るし。それより、体調とか崩してない?』
『うん、大丈夫。ありがとう』
彼は怒ることなく、いつも私のことを気遣ってくれていたけど、それが本当に申し訳なくて罪悪感ばかり募っていた。
その後も忙しい日々が続き、仕事でのストレスで心身ともに疲弊していた私は別れた方がお互いに楽になるんじゃないかと勝手に思うようになる。
そして、私から『別れて』と告げると、彼は『分かった』と一言だけ。
多分、優しい彼は私の気持ちを汲み取って別れを受け入れてくれたんだろうけど、八年付き合った彼との幕切れはあっけないものだった。
別れてから状況が好転したのかといえば、全くそんなことはない。
寧ろ、別れた寂しさで私の精神状態は悪化していた。
別れた意味もなく、一人でから回っていたことに気づいた時にはすべて手遅れだった。
この"別れ"は彼の気持ちを無視した独りよがりの誤った決断だったというのが今なら分かる。
別れて一年が経ち、優しい彼にはきっと新しい彼女が出来ているだろう。
本当に素敵な人だったから彼が幸せになってくれていたらいいなと思う反面、彼女がいなかったらいいのにという複雑な気持ちが入り混じる。
こんなことを考えるのは、私が彼にまだ未練が残っている証拠だ。
全部、自分の不甲斐なさが招いた種。
いい加減、断ち切らないといけないのは分かっているんだけど……。
***
「あのさ」という順平の声に現実に引き戻される。
彼は真剣な目で私を見つめて口を開いた。
「俺の知り合いが、一年前に彼女と別れてずっと後悔しているんだって」
「えっ」
「もっと俺がアヤの職場での状況に気づいてあげれてたらよかったのにって言ってた」
一年前というキーワード。
順平と共通の知り合いで、私のことを"アヤ"と呼ぶのはあの人しかいない。
バクバクと心臓が音を立てる。
「そいつがさ、アヤは急な残業で何度もデートをドタキャンすることになって俺に対して罪悪感を覚えていたんじゃないかって。会うたびに疲れた顔をしていたから、これ以上俺と会うことが義務みたいになって無理をさせたくなかった。だから、別れてと言われた時にアヤがそれで納得するならと思って受け入れてしまった」
順平は何を言っているの?
淡々と語る彼から目が離せない。
「でも、それは間違いだった。そうじゃなくて、もっと話を聞いてあげればよかった。自分がいくらでもフォローできたはずなのに、分かったの一言でアヤと別れたことをいまだに後悔してるって」
順平の言葉に涙が零れそうになるのを唇を噛んでどうにか堪える。
違う、あの人のせいじゃない。
弱い私がいけなかったんだ。
彼と別れることで楽になれると勝手に勘違いし、間違った判断で優しいあの人を傷つけてしまって私はずっと後悔していた。
「だから、残業で疲れている綾美にいいものをあげる。離れ離れになってしまった二人にプレゼント」
順平は私の背後に視線を向ける。
それにつられるように私も振り向くと、順平によく似た懐かしい顔がそこにあった。
「き、恭平……」
「アヤ、久しぶり」
そう言って柔らかく微笑む恭平は、私が一年前に別れを告げた元カレで順平の兄だ。
「俺が呼んだんだ。終電ないし、兄貴に送迎してもらったらいいかなと思って。な、兄貴」
「順平、ありがとう。連絡してくれて」
「どういたしまして。俺と龍之介もこの一年ずっとヤキモキしていたからな。こんな偶然二度とないよ。いい機会だし、しっかり話せよ」
順平は親指を立ててグッドサインを作る。
そして、悪戯っ子のような顔をして私に笑いかけた。
「綾美も素直になってよ。さっきみたいな顔するぐらいならね」
「……」
私は小さく頷いた。
「順平、先に送ろうか?」
「いや、俺は友達の家に泊まる。さっき今から行ってもいいかって連絡したらいいよって言ってくれたから」
「そうか」
「明日ってか今日は土曜で二人とも休みだろ。お互いに納得するまで話をしたらいいよ。じゃあ、兄貴ボウリングの支払いよろしく」
順平は手をヒラヒラ振りながら背を向けた。
***
深夜一時を回り、私は恭平のマンションに来ていた。
もちろん話をするためだ。
リビングのテーブルの上には、お茶の入っているピンクとブルーの色違いのグラスが置かれている。
これは付き合っている時に使っていものだ。
てっきり捨てられていると思っていたのに、まだ残っていたことに胸が熱くなる。
「なんか改まって話をするのは緊張するな」
「そうだね」
約一年前、この部屋で私が恭平に『別れて』と言った以来なので緊張するのも無理はない。
でも、部屋の雰囲気とか一切変わっていないことに少しホッとしている私がいた。
隣り合ってソファに座るのも、付き合っている時と同じように恭平が右、私が左側だ。
クーラーの効いた部屋で恭平がゆっくりと口を開いた。
「相変わらず仕事は忙しいのか?」
「うん。今日も残業で終電に乗り遅れて……それで順平に会ったの」
「そうだったのか」
目の前に恭平がいるなんて信じられない。
今はラフなTシャツに短パン姿。
サラリとした黒髪、順平とよく似た整った容姿。
二人とも切れ長だけど、恭平は少し垂れていて優しい雰囲気の目元。
そもそも、蓮見家とは家が隣だったことや親同士が年齢が近かったこともあり家族ぐるみの付き合いがあった。
お互いの子供(私と恭平、龍之介と順平)が同じ年だったのでよく二家族で出かけたり、夏になれば庭でバーベキューしたりと仲良くしていた。
私は紅一点だったけど、男勝りなところもあったので特に違和感なく蓮見兄弟と一緒に遊んでいた。
幼稚園、小学校、中学校、高校まで恭平と同じで、私の隣には当たり前のように彼がいた。
自然とお互いに気になる存在になり、高校の時に付き合い始めた。
私の初めてはすべて恭平だった。
キスも身体を重ねることもぜんぶ……。
私にとって恭平はかけがえのない存在になっていたのに、私の身勝手な発言で別れることになり一年。
まさかこんな風に向き合って話が出来るとは思わなくて緊張具合が半端ない。
「いきなり順平が終電逃した綾美を保護してるから迎えに来てってメッセージを送ってきたけど、意味が分からなくて折り返し電話したんだ」
あの時の順平の電話の相手は恭平だったんだ。
こんな夜中にわざわざ迎えに来てもらって申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、こうして再び話をする機会を設けてくれたのはありがたい。
「突然のことに驚いたけど、アヤと話せるチャンスを逃したくなくて速攻で家を出たよ」
「そうだったんだ」
迎えに来た時もラフなTシャツに短パンという部屋着だったのは、そういう訳だったのね。
それより、いったい何から話せばいいんだろう。
あれこれ考えた末、口を開く。
「恭平はこの一年、何してたの?」
「特に変わり映えはないよ。家と会社の往復」
恭平は淡々と語る。
新しく彼女は出来たの?と聞きたいけど言葉に詰まった。
「本当につまらない日々だったよ。アヤと別れてから心にぽっかりと穴が開いたようで何もする気にならなかった」
「えっ」
「アヤ、あの時はごめん」
突然頭を下げて謝る恭平に戸惑った。
あの時というのは、私が別れを切り出した日のことだろう。
「どうして恭平が謝るの?全部私が悪いんだよ。私の我がままで別れてって言ったんだから」
「でも、俺は簡単にそれを受け入れてしまった。すぐにその選択は間違っていたんだと後悔したよ。それにリュウからアヤが実家に帰ってきた時もずっと暗い顔をしてため息ばかりついていたと聞かされた」
リュウというのは私の弟の龍之介のことだ。
確かに恭平と別れてから実家に帰ったことがあるけど、その時のことを聞いたんだろう。
じゃあ、もしかしてあの話も聞いてたりして……。
「泥酔して泣いたらしいな。恭平と別れたくなかったのにって」
「それは……」
龍之介ったらそんな余計なことまで話をしないで欲しかった。
「俺だってアヤと別れたくなかったよ。でも、あの時は目先のことしか考えてなかった。ちゃんとアヤの話を聞いてから判断すべきだった。アヤが楽になれるならと思って簡単に別れを選んだら駄目だったんだ。お互いに納得するまで話し合えばよかったとずっと後悔していた。だから、俺はアヤともう一度やり直すチャンスを伺っていたんだ」
恭平の気持ちを知り、目頭が熱くなる。
「私だってずっと後悔してた。なんで別れてって言ったんだろうって。あの時は本当に疲れていて、別れた方が楽になれるんじゃないかと思っていた。でも、恭平と別れても全然楽になんてなれなかった。寧ろ、毎日苦しかった。本当に自分勝手でごめんね」
気持ちを吐露し、自然と涙が零れ落ちた。
それを恭平が優しく拭ってくれる。
「謝るなって。あの時のことはお互い様だと思ってる。何も言わなくても相手の気持ちが分かるなんて絶対にない。俺たちには会話が足りなかったんだ。そうだろ?」
恭平に問われ、私は何度も頷く。
本当にその通りだ。
ちゃんと自分の気持ちを聞いてもらって話し合えばよかった。
「アヤ、俺らもう一度やり直さないか?」
優しい声色で問いかけられた。
もちろん、答えは決まっている。
「やり直したい~」
そう言って涙腺崩壊した私を恭平は抱きしめてくれた。
Tシャツ下の程よく鍛えられた身体に耳をあてると、ドクドクと心臓の音が聞こえる。
一年ぶりに感じる恭平のぬくもりに安心感を覚え、二度と離したくなくて抱きしめ返す。
「もう二度と離さないから」
私の心の中を見透かしたような言葉を口にする恭平に胸がキュンとなる。
私たちは幼い頃から常に一緒にいたからなのか、以心伝心で通じ合っていると感じることが多々あった。
でも、今回の件で大切なことは口に出さないといけないということを改めて痛感した。
「今日、このまま泊ってもいい?」
「もちろんいいよ」
「あ、でも着替えとか……」
「俺はいずれやり直すつもりだったから、アヤの荷物はそのまま部屋に置いてあるよ」
当たり前のように言う恭平。
ピンクのグラスが残っていた理由も分かり、嬉しくて胸がいっぱいになる。
別れてからもずっと私のことを想ってくれていた恭平のことが愛おしくてたまらない。
来月仕事を辞めることとか話したいことはたくさんある。
だけど、今は心の底からわき上がる気持ちを素直に口に出して伝えよう。
「大好き、恭平」
私は一年ぶりに彼の唇へキスをした。
七月七日の午前二時。
二人が再び巡り会えたのは、七夕の日に導かれた奇跡だったのかもしれない。
過去の後悔を乗り越えた私たちは微笑み合い、未来を共に歩もうと誓った。
End.
思いのほか書類作成が難航して、会社を出たのが二十三時半過ぎ。
そもそも、私がこんな時間まで残業することになったのは上司のせいだ。
定時間際に『来週月曜の早朝会議に必要な書類がまだ出来ていないので作っておいて』と仕事を押し付け、自分は接待があると言ってさっさと定時で帰ってしまった。
そんな無責任なことがある?
愕然としながらも、やらないという選択肢はなかった。
仕事を終わらせて会社を出たのは終電に間に合うかどうかの微妙な時間だった。
七月初旬の金曜の夜、一週間の仕事の疲れがピークに達していた。
足取りは重いし、息切れしてくる。
駅手前の信号が赤に変わり、横断歩道で立ち止まった。
深夜の生ぬるい風が汗ばむ肌に絡みついて不快な気持ちになる。
今年の梅雨はあってないようなものだった。
その梅雨が明け、毎日暑い日が続いている。
ハンドタオルで額の汗を拭きながら時計を確認すると、最終電車が出発する時間を指し示していた。
「あ、無理だ」と諦めの言葉が出てどっと力が抜ける。
視線の先で私が乗るはずだった電車が動き出し、駅から遠ざかっていくのが見える。
ため息をつき、疲れたので休憩しようと思い、駅前の噴水のある広場に向かった。
歩きながら改めて職場環境の悪さに苛立ちが募る。
とにかく私の上司が最悪だった。
『田中さん、ちょっと太ったんじゃない?』とか平気でセクハラまがいなことを言ってくる上司の山田太一。
その山田課長にやたら雑用を押し付けられて残業ばかり。
当然、上司に頼まれると断れないので引き受けざるを得ない。
以前、私を指導してくれた先輩に相談したけど『うちの会社は社長に何を言ってももみ消されるのがオチだよ。家族経営の小さな会社だから社長の身内が多くて、イエスマンしか周りに置いてないからね。私は今のところ何も害はないし待遇も悪くないからいいけど、合わないなら辞めるしかないよ』と言われ、何も解決には至らなかった。
課長は社長の息子だから、一社員が何を言っても無駄ということを教えられただけ。
私自身、この会社に合わないんだと思ったけど、辞める勇気はなかった。
だから、うち会社ではこれが当たり前なんだと無理やり納得して我慢していたけど、思った以上に疲弊している私がいた。
目的地の広場のベンチに座り、ポツリ呟く。
「あと一ヶ月の辛抱だ……」
私は来月でこの会社を辞める決断をした。
それは三ヶ月前の出来事がきっかけだった。
***
久しぶりに友人の古賀涼香とカフェで待ち合わせをしていた。
涼香が私を見た瞬間、驚きの声を上げる。
『綾美、どうしたの?しばらく見ない間に老けてるんだけど。目の下の隈も酷いし。何かあった?』
心配してくれる涼香に私は職場でのストレスや一年前に彼氏と別れたことを話すと、彼女は怒り出した。
『バカ!どうして綾美が我慢しないといけないの?職場の人以外にも相談する相手はたくさんいたでしょ』
『えっ』
『えっ、じゃない!もっと早く親でも彼氏でも私でも相談できたでしょ』
『だって、先輩が相談しても無駄って言うから』
『先輩に言われて無意識のうちにそう思い込むようになってたのか……。あのね、社外の人に相談するのは全然無駄じゃないからね。むしろするべきだったの。てか、そんな会社は即刻辞めるべき。綾美には合ってないよ、その会社。まだ若いんだし、やり直せるよ』
涼香の言葉に涙が溢れる。
ハッキリと他人から合ってないと言われて、胸のつかえがとれた気がした。
『簡単に資格とか取れるし、今の会社を踏み台にしてステップアップしよう!』
『そうだね』
私は誰かに背中を押してもらえるのを待っていたのかもしれない。
ようやく踏ん切りがつき、涼香のお陰で会社を辞める勇気が持てた。
あと、涼香は私が彼氏と別れたことにも驚いていた。
それもそうだろう、長年付き合っていた恋人に私が別れを切り出したんだから……。
***
「あれ?綾美じゃん。久しぶり。こんなところで何してるんだ?」
不意に声をかけてきたのは五歳年下の私の弟、龍之介の友人の蓮見順平。
順平は龍之介と同じ大学に通っている目鼻立ちの整ったイケメンだ。
髪の毛はシルバーアッシュに染めて緩くパーマをかけている。
順平は幼い頃からよくうちに遊びに来ていて、昔から私のことを呼び捨てにする生意気な男だ。
「終電に乗り遅れたからここで休憩してた」
「夜中に一人でこんな場所にいるなんて危ないだろ。仕事だったのか?」
「そう」
「社会人も大変だな」
順平は私の隣に座ってくる。
ふわりとアルコールの香りがし、飲み会だったのかと推測できる。
「そういう順平は?」
「俺?さっきまでゼミの飲み会。で、二次会でカラオケしてたら終電逃したって訳」
「若いわね」
「だろ。ピチピチの二十歳だぜ」
そう言って笑い、ピースサインをする順平につられて私もフッと笑いが漏れる。
「順平はいつ会っても楽しそうだね」
「まあ、それなりにね。綾美は元気にしてた?」
「元気といえば元気……なのかな。でも、上司に理不尽に怒られて残業三昧だからちょっと疲れてるかも」
「そっか……」
順平はそう呟き、何か思案するように口を閉ざす。
そして数秒後、「そうだ!」と言って立ち上がった。
「綾美、ボウリングしようぜ」
「は?」
「は、じゃねぇよ。行くぞ」
そう言って私の手を掴んで立ち上がらせる。
全く意味が分からない。
「嫌だよ、疲れてるって言ったでしょ」
なんで終電逃してボウリングしなきゃいけないんだろう。
「いいだろ。昔、"俺ら"でよく行ってたじゃん。負けず嫌いの綾美がもう一回!とか言って何ゲームもしたことがあっただろ」
「いつの話をしてるのよ。今はそんな元気ないって」
「ごちゃごちゃ言わなくていいから、ボウリングでストレス発散しようぜ!」
強引に押し切られ、私は駅から徒歩圏内のボウリングが出来る屋内型複合施設へ行くことになった。
***
「ねぇ、ボウリングじゃなくてカラオケでもよかったんじゃない?」
「えー、嫌だよ。俺、さっきまでカラオケして喉が痛いもん」
「なによそれ。自分勝手ね」
「今に始まったことじゃないだろ」
「確かにね」
「おい、そこは同意するなよ」
順平と小競り合いしながら受付を済ませる。
それが終わるとシューズを借り、ボールを選ぶ。
ボウリングなんていつぶりだろう。
ボールの穴に指を差し込んで持ち上げ、重さを確かめる。
「綾美、ボール決まった?」
「あ、うん」
「じゃあ、さっそく投げようぜ」
そう言うと、レーンに立った順平は最初の一投目からストライクを出していた。
「いぇーい!」
テンション高めにハイタッチを求めてくる。
それにつられて私も手を上げると「パンッ」と渇いた音が鳴った。
「綾美も昔みたいにストライク出してよ。まあ、無理だろうけど」
「失礼ね。見てなさいよ」
疲れていると言ったけど、実際にレーンの前に立つと内心楽しんでいる私がいた。
振りかぶってボールを投げ、その行方を目で追っていると、どんどん横にずれていきコンと音が鳴って左端のピンが一本だけ倒れた。
「ナイス一本!」
「最悪なんだけど」
ケラケラ笑う順平を睨みながら元の場所に戻る。
流石に数年ぶりのボウリングは下手くそ過ぎた。
元々、そんなに上手な方ではなかったけど。
「なんかさ、前より下手くそになってない?」
「そりゃあそうでしょ。ここ何年もボウリングなんてやってないし」
言い訳しながらボールが戻ってくるのを待っていたら、順平はポケットからスマホを出して弄り出した。
ふと頭上にあるモニターを見ると、私の欄に数字の"1"が情けなく表示されている。
「もしもし、起きてたんだ。よかった。寝てたらどうしようかと思ってた。あのさ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
電話がかかってきたのか、順平はスマホを耳に当てて話し出した。
彼女かなと思って見ていると、順平は意味深な笑みを浮かべる。
「悪い、ちょっと席を外す」
「分かった」
順平は私に断りを入れた後、立ち上がって離れた場所に行く。
遠くで何か真剣な表情で話している順平を横目にボールを投げると、中途半端にピンが二本残って大きなため息が出た。
順平の番になったけど、まだ電話中で戻ってこない。
椅子に座って場内をなんとなく見回すと、カップルや学生たちのグループが数組いてワイワイと盛り上がっていた。
そういえば、学生時代に順平たちとこんな風に楽しく騒いでいた記憶がある。
今では仕事に追われ、家に帰ると屍のように眠っている。
そんな私が終電後にボウリングをするとは思わなかった。
「ごめんごめん。次は俺だよな」
「電話はもういいの?」
「うん。さて、次もストライク出そうかな」
戻ってきた順平は当然のようにストライクを出していた。
「やば、俺ってすごいな。プロボーラーになれるかも」
「二回ストライク出しただけじゃなれないでしょ」
「ストライクもスペアも出せない綾美に言われたくありませーん」
ベーと舌を出す順平の腕を軽く叩く。
本当に生意気なんだから。
でも、こうして久しぶりに会った私を茶化しながらも順平なりに元気づけようとしてくれているのが分かる。
彼の不器用な優しさが疲れている心に沁みた。
「次は絶対にストライク出すから」
「へいへい。お手並み拝見っと」
意気込んでボールを投げたけど、結果はスプリット。
ニヤニヤしている順平を無視してスペアを狙うけど、ボールはピンとピンの間をすり抜けていった。
「綾美にストライクもスペアも無理ってことだな」
「ムカつく!」
こんな些細なやり取りが嫌なことを忘れさせてくれて、いい気分転換になっている。
声を出して笑ったのも久しぶりな感じがして、心の中で順平に感謝した。
一ゲームが終わり、アイスティーを飲みながら少し休憩していたら順平が突然話を切り出した。
「綾美さ、今って彼氏いる?」
どうしてそんなことを聞いてくるのか不思議に思ったけど、私は「いないよ」と答えた。
「一年前からずっとフリーだよ。忙しくて彼氏なんて作る暇もなかったし、それに……」
言葉に詰まる。
自業自得とはいえ、あの時の別れをどれだけ後悔したか分からない。
元カレとは嫌いになって別れた訳じゃないけど、一度口に出してしまった言葉は取り消せない。
ふと、一年前のことを思い出していた。
***
私には高校からの付き合いで、将来結婚しようかなんて話も出ていた彼氏がいた。
同い年の幼なじみで誰よりも私のことをよく分かってくれていて優しい人。
だけど、社会人になってから平日にデートの約束をしていても急な残業が入ってドタキャンすることが増えていた。
『本当にごめんね』
『気にしなくていいよ。仕事だから仕方ないって。デートならいつでも出来るし。それより、体調とか崩してない?』
『うん、大丈夫。ありがとう』
彼は怒ることなく、いつも私のことを気遣ってくれていたけど、それが本当に申し訳なくて罪悪感ばかり募っていた。
その後も忙しい日々が続き、仕事でのストレスで心身ともに疲弊していた私は別れた方がお互いに楽になるんじゃないかと勝手に思うようになる。
そして、私から『別れて』と告げると、彼は『分かった』と一言だけ。
多分、優しい彼は私の気持ちを汲み取って別れを受け入れてくれたんだろうけど、八年付き合った彼との幕切れはあっけないものだった。
別れてから状況が好転したのかといえば、全くそんなことはない。
寧ろ、別れた寂しさで私の精神状態は悪化していた。
別れた意味もなく、一人でから回っていたことに気づいた時にはすべて手遅れだった。
この"別れ"は彼の気持ちを無視した独りよがりの誤った決断だったというのが今なら分かる。
別れて一年が経ち、優しい彼にはきっと新しい彼女が出来ているだろう。
本当に素敵な人だったから彼が幸せになってくれていたらいいなと思う反面、彼女がいなかったらいいのにという複雑な気持ちが入り混じる。
こんなことを考えるのは、私が彼にまだ未練が残っている証拠だ。
全部、自分の不甲斐なさが招いた種。
いい加減、断ち切らないといけないのは分かっているんだけど……。
***
「あのさ」という順平の声に現実に引き戻される。
彼は真剣な目で私を見つめて口を開いた。
「俺の知り合いが、一年前に彼女と別れてずっと後悔しているんだって」
「えっ」
「もっと俺がアヤの職場での状況に気づいてあげれてたらよかったのにって言ってた」
一年前というキーワード。
順平と共通の知り合いで、私のことを"アヤ"と呼ぶのはあの人しかいない。
バクバクと心臓が音を立てる。
「そいつがさ、アヤは急な残業で何度もデートをドタキャンすることになって俺に対して罪悪感を覚えていたんじゃないかって。会うたびに疲れた顔をしていたから、これ以上俺と会うことが義務みたいになって無理をさせたくなかった。だから、別れてと言われた時にアヤがそれで納得するならと思って受け入れてしまった」
順平は何を言っているの?
淡々と語る彼から目が離せない。
「でも、それは間違いだった。そうじゃなくて、もっと話を聞いてあげればよかった。自分がいくらでもフォローできたはずなのに、分かったの一言でアヤと別れたことをいまだに後悔してるって」
順平の言葉に涙が零れそうになるのを唇を噛んでどうにか堪える。
違う、あの人のせいじゃない。
弱い私がいけなかったんだ。
彼と別れることで楽になれると勝手に勘違いし、間違った判断で優しいあの人を傷つけてしまって私はずっと後悔していた。
「だから、残業で疲れている綾美にいいものをあげる。離れ離れになってしまった二人にプレゼント」
順平は私の背後に視線を向ける。
それにつられるように私も振り向くと、順平によく似た懐かしい顔がそこにあった。
「き、恭平……」
「アヤ、久しぶり」
そう言って柔らかく微笑む恭平は、私が一年前に別れを告げた元カレで順平の兄だ。
「俺が呼んだんだ。終電ないし、兄貴に送迎してもらったらいいかなと思って。な、兄貴」
「順平、ありがとう。連絡してくれて」
「どういたしまして。俺と龍之介もこの一年ずっとヤキモキしていたからな。こんな偶然二度とないよ。いい機会だし、しっかり話せよ」
順平は親指を立ててグッドサインを作る。
そして、悪戯っ子のような顔をして私に笑いかけた。
「綾美も素直になってよ。さっきみたいな顔するぐらいならね」
「……」
私は小さく頷いた。
「順平、先に送ろうか?」
「いや、俺は友達の家に泊まる。さっき今から行ってもいいかって連絡したらいいよって言ってくれたから」
「そうか」
「明日ってか今日は土曜で二人とも休みだろ。お互いに納得するまで話をしたらいいよ。じゃあ、兄貴ボウリングの支払いよろしく」
順平は手をヒラヒラ振りながら背を向けた。
***
深夜一時を回り、私は恭平のマンションに来ていた。
もちろん話をするためだ。
リビングのテーブルの上には、お茶の入っているピンクとブルーの色違いのグラスが置かれている。
これは付き合っている時に使っていものだ。
てっきり捨てられていると思っていたのに、まだ残っていたことに胸が熱くなる。
「なんか改まって話をするのは緊張するな」
「そうだね」
約一年前、この部屋で私が恭平に『別れて』と言った以来なので緊張するのも無理はない。
でも、部屋の雰囲気とか一切変わっていないことに少しホッとしている私がいた。
隣り合ってソファに座るのも、付き合っている時と同じように恭平が右、私が左側だ。
クーラーの効いた部屋で恭平がゆっくりと口を開いた。
「相変わらず仕事は忙しいのか?」
「うん。今日も残業で終電に乗り遅れて……それで順平に会ったの」
「そうだったのか」
目の前に恭平がいるなんて信じられない。
今はラフなTシャツに短パン姿。
サラリとした黒髪、順平とよく似た整った容姿。
二人とも切れ長だけど、恭平は少し垂れていて優しい雰囲気の目元。
そもそも、蓮見家とは家が隣だったことや親同士が年齢が近かったこともあり家族ぐるみの付き合いがあった。
お互いの子供(私と恭平、龍之介と順平)が同じ年だったのでよく二家族で出かけたり、夏になれば庭でバーベキューしたりと仲良くしていた。
私は紅一点だったけど、男勝りなところもあったので特に違和感なく蓮見兄弟と一緒に遊んでいた。
幼稚園、小学校、中学校、高校まで恭平と同じで、私の隣には当たり前のように彼がいた。
自然とお互いに気になる存在になり、高校の時に付き合い始めた。
私の初めてはすべて恭平だった。
キスも身体を重ねることもぜんぶ……。
私にとって恭平はかけがえのない存在になっていたのに、私の身勝手な発言で別れることになり一年。
まさかこんな風に向き合って話が出来るとは思わなくて緊張具合が半端ない。
「いきなり順平が終電逃した綾美を保護してるから迎えに来てってメッセージを送ってきたけど、意味が分からなくて折り返し電話したんだ」
あの時の順平の電話の相手は恭平だったんだ。
こんな夜中にわざわざ迎えに来てもらって申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、こうして再び話をする機会を設けてくれたのはありがたい。
「突然のことに驚いたけど、アヤと話せるチャンスを逃したくなくて速攻で家を出たよ」
「そうだったんだ」
迎えに来た時もラフなTシャツに短パンという部屋着だったのは、そういう訳だったのね。
それより、いったい何から話せばいいんだろう。
あれこれ考えた末、口を開く。
「恭平はこの一年、何してたの?」
「特に変わり映えはないよ。家と会社の往復」
恭平は淡々と語る。
新しく彼女は出来たの?と聞きたいけど言葉に詰まった。
「本当につまらない日々だったよ。アヤと別れてから心にぽっかりと穴が開いたようで何もする気にならなかった」
「えっ」
「アヤ、あの時はごめん」
突然頭を下げて謝る恭平に戸惑った。
あの時というのは、私が別れを切り出した日のことだろう。
「どうして恭平が謝るの?全部私が悪いんだよ。私の我がままで別れてって言ったんだから」
「でも、俺は簡単にそれを受け入れてしまった。すぐにその選択は間違っていたんだと後悔したよ。それにリュウからアヤが実家に帰ってきた時もずっと暗い顔をしてため息ばかりついていたと聞かされた」
リュウというのは私の弟の龍之介のことだ。
確かに恭平と別れてから実家に帰ったことがあるけど、その時のことを聞いたんだろう。
じゃあ、もしかしてあの話も聞いてたりして……。
「泥酔して泣いたらしいな。恭平と別れたくなかったのにって」
「それは……」
龍之介ったらそんな余計なことまで話をしないで欲しかった。
「俺だってアヤと別れたくなかったよ。でも、あの時は目先のことしか考えてなかった。ちゃんとアヤの話を聞いてから判断すべきだった。アヤが楽になれるならと思って簡単に別れを選んだら駄目だったんだ。お互いに納得するまで話し合えばよかったとずっと後悔していた。だから、俺はアヤともう一度やり直すチャンスを伺っていたんだ」
恭平の気持ちを知り、目頭が熱くなる。
「私だってずっと後悔してた。なんで別れてって言ったんだろうって。あの時は本当に疲れていて、別れた方が楽になれるんじゃないかと思っていた。でも、恭平と別れても全然楽になんてなれなかった。寧ろ、毎日苦しかった。本当に自分勝手でごめんね」
気持ちを吐露し、自然と涙が零れ落ちた。
それを恭平が優しく拭ってくれる。
「謝るなって。あの時のことはお互い様だと思ってる。何も言わなくても相手の気持ちが分かるなんて絶対にない。俺たちには会話が足りなかったんだ。そうだろ?」
恭平に問われ、私は何度も頷く。
本当にその通りだ。
ちゃんと自分の気持ちを聞いてもらって話し合えばよかった。
「アヤ、俺らもう一度やり直さないか?」
優しい声色で問いかけられた。
もちろん、答えは決まっている。
「やり直したい~」
そう言って涙腺崩壊した私を恭平は抱きしめてくれた。
Tシャツ下の程よく鍛えられた身体に耳をあてると、ドクドクと心臓の音が聞こえる。
一年ぶりに感じる恭平のぬくもりに安心感を覚え、二度と離したくなくて抱きしめ返す。
「もう二度と離さないから」
私の心の中を見透かしたような言葉を口にする恭平に胸がキュンとなる。
私たちは幼い頃から常に一緒にいたからなのか、以心伝心で通じ合っていると感じることが多々あった。
でも、今回の件で大切なことは口に出さないといけないということを改めて痛感した。
「今日、このまま泊ってもいい?」
「もちろんいいよ」
「あ、でも着替えとか……」
「俺はいずれやり直すつもりだったから、アヤの荷物はそのまま部屋に置いてあるよ」
当たり前のように言う恭平。
ピンクのグラスが残っていた理由も分かり、嬉しくて胸がいっぱいになる。
別れてからもずっと私のことを想ってくれていた恭平のことが愛おしくてたまらない。
来月仕事を辞めることとか話したいことはたくさんある。
だけど、今は心の底からわき上がる気持ちを素直に口に出して伝えよう。
「大好き、恭平」
私は一年ぶりに彼の唇へキスをした。
七月七日の午前二時。
二人が再び巡り会えたのは、七夕の日に導かれた奇跡だったのかもしれない。
過去の後悔を乗り越えた私たちは微笑み合い、未来を共に歩もうと誓った。
End.

